午前になるまで眠っていた川崎を起こし、家まで送ってきた。
川崎が一人暮らしをするアパートは確かに近かった。徒歩で10分もしない距離だ。川崎は家に入る寸前、「良かったら今度は・・」と言いかけて、次に「お、おやすみ!」と半ば叫び家の中へと消えていった。俺はもうなんか色々と限界だった。限界突破のしるしとして、帰り道、ぽつぽつと歩きながら、頭の中では意味もなくプラチナがずっと流れていた。意味もなく口ずさみもした。末期だ。
家に着くと、先ほどまで川崎が居たせいか、部屋の中は何もかもが'異なっている'ように思えた。少し広く思えたし、必要な音まで削られてしまったかのような静けさがあり、なんかこう表現してしまうと完全なる変態なのだが、川崎の匂いが薄くなっているのがはっきりと分かってしまった。
何よりまずいのは、それらを寂しいとか、侘しいとか、そんな風に捉えてしまっている俺だろう。
おいおい、一晩、と表すには少し短いが、半日で俺はここまでやられてしまったのか。我が魂の脆さにうなだれてしまうが、それでも確かに残っている暖かいこの気持ちは、紛れもなく川崎がくれたものなんだろう。
何にせよ、たった今はこの川崎ロスに対する自分の心の動きをしっかり覚えておこう、そう思える感情だった。すごい、八幡ったら前向き!そんな自分を自分で嘲笑しつつ、寝る準備をし、ベッドに潜り込む。
・・・川崎が寝た後の布団は、めっちゃいい匂いがした。ありがとうございました。
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翌日、起きるか起きないかの境目にベッドで寝返りを打っていると、川崎が作ってくれたビーフシチューがあることを思い出した。急にお腹が空いている気がして、目を覚ましてしまう。時計を見るとまだ8時だった。
「講義もねぇのに早起きかよ。」
何も考えず眠気眼で独り言を言ってみた。もちろん返事はない。寂しい人間だ。
そのままキッチンへ向かってビーフシチューを見ようとした。すると、鍋の蓋の上にメモが置いてあった。そのメモが川崎によって残されたものだと即座に判断できると、眠気が一気に去った。
【温めてから食べること。あと、できれば今日中に食べちゃったほうがいいかな。バゲットはいくつか冷蔵庫に余ってるからね。召し上がれ。】
何度か読んで、自分がニヤついていることに気付く。気持ち悪すぎて勝手に赤面してしまう。朝から何やってんの俺。少女漫画のコマよろしくのそれじゃねえか。
「・・いただきますか。」
しっかりと温めてから食べたビーフシチューは、昨夜と変わらずマジでうまかった。
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夕方から家庭教師のバイトをこなす。今回は、平日に先方の都合で行えなかった分の代替日だった。教えることもストレスなくできる良い子だし、相手家族も良い人ばかりだし、正直余裕だ。だからって準備や確認を怠らない。やってみると責任重大な仕事であることが如実に感じられるからだ。
良かったら夕飯はどうかと若々しい奥様から誘ってもらった。
いつもなら常識の範囲内でごちそうになるのだが、急ぎの用事があると言って、遠慮させてもらった。
それに俺は、かなり焦っていた。
理由は、教えている最中に川崎から連絡が来たからだ。
内容は至ってシンプルに、「電話できる?」という一文だけだった。
この一文が、俺をこれでもかというほど、かき乱した。
頭を、ガツンと叩かれて、現実に戻されたような気分になった。
何かあったのか、急ぎなのか、など判断つかないことが多かったが、教え子宅を出るとすぐに電話をかけた。何度かの着信音の後、川崎が電話に出た。
「も、もしもし。」
「川崎、どうした、何かあったのか?気にせず言ってくれ。」
「え?いやちょっと話したいと思ったんだけど。。むしろどうしたの?」
「そ、そうか。って、何がだ?」
「何か焦ってない?」
「・・・」
そこまで言われて焦っていた自分に気付く。
いや、正直仕事中から、川崎からの電話が何の電話なのか気になって仕方がなかったのだ。考え出すと止まらなかった。悪い方に転べば、昨日までの一連のことを無しにしたいとか、勘違いはしないでねとか、そういう内容か、普通ならば、俺の家に忘れ物をして困っているとか、でもそれくらいの内容ならばLINEを送れば済む話だし、何かしら電話をする必要がある内容であるということは・・・といった思考を巡りに巡らせていたのだ。あれなんかぽわぽわとしたもの通り過ぎたけど、今はそれどころじゃない。
「すまん。その通りで、焦っていたかもしれん。連絡が入っていたことには気付いたんだが、バイト中でな。掛けれなかった、すまん。」
「いや、別に謝ること何もないでしょ。むしろ電話ありがとね。」
そこまで聞いても、まだどんな話の内容であるかを決定付ける言葉には至らない。
緊張が歩を速めていることに気付き、意識的にゆっくりと歩くようにする。
「おう、そうか。じゃぁ改めて、どうした?」
「どうした、って聞かれると、別に何かってわけじゃないんだけどさ。」
「お、おう。」
どうにも掴み所のない返事が返ってきてしまう。
電話じゃ言い辛いことなのか。
「川崎、お前さえ良ければ、少し外出れないか?」
「え?うん、ちょっと待ってくれれば出れるけど。」
「分かった。この前のジャズ喫茶分かるか?そこで待ってるから、来れれば来てくれ。
もし考え直してやっぱり電話が良かったら、電話くれればいいから。」
「・・ん?何それ。大丈夫だよ行くから。家出たら一応連絡入れる。」
「分かった。じゃぁ。」
「はーい。」
そう言って、電話を切る。
尚も思考は止まらない。もし、何か俺が間違えていれば、ちゃんと謝ろう。もし、川崎が昨日までのことを白紙も戻したいというなら・・・俺はどうするんだろうか。
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考えもまとまらないまま、ジャズ喫茶へ着いてしまう。川崎からはついさっき家を出たという内容の連絡が来たため、あと10分とかからずこの店へ来るだろう。
「いらっしゃいませ。」
店には疎らに客がいた。マスターと目が合うと、いつもと訪れる時間が違うせいか質問が飛んでくる。
「一人かな?」
「いや、すぐにもう一人来ます。」
「そっかそっか。じゃぁ、一昨日と同じテーブルどうぞ。」
「ありがとうございます。」
そうか、川崎から依頼と受けたのは、一昨日のことなのか、と実感する。
そうだ、思えばあまりに濃すぎる二日間のせいで、俺の感覚は麻痺していたようだ。これが何年も重ねたそれならば、無くなってしまった時に悲しむ資格もあろうが、一昨日から今日の今までの事でしかないのだ。もし無くなってしまうのであれば、それを受け入れるしかない。
「・・・はっ。」
仕方がない、そう考えたときに襲い掛かる自分自身の感情に、薄ら笑いを浮かべ短く息を吐いて対抗する。おいおい、弱すぎるだろ、比企谷八幡。
カランとドアについたベルが鳴る。控えめに顔を覗かせたのは、少し前まで一緒にいた川崎だった。目が合うと少しはにかんで、マスターのどうぞ、という手に導かれて、俺の前のテーブルに座った。
「夜はまた違った雰囲気でいいね。」
と、少し緊張した面持ちで川崎は言った。
まだ夜は少し冷えるせいか、白い麻のシャツの上に、薄いオレンジとベージュのバイカラーが綺麗なスプリングコートをさっと羽織った格好だった。この店の雰囲気に劣らない、女性らしい姿の川崎がそこに居た。
だが俺は、そんな風に目に映った川崎にも、何も考えられずに居た。
「まぁ、そうだな。」
「・・大丈夫?なんか辛そうだけど。」
心配そうな顔で見つめてくる川崎に、また心が痛くなる。
そんな心配させてる場合じゃないだろ俺。
「大丈夫だ。それで、その、聞かせてもらっていいか。」
「ん?うーんと、な、何を?」
川崎が何度か目を瞬いて、問うてくる。
「電話の内容だ。」
「ああ、そ、そういうこと。ん、なんか緊張してきたじゃん、何なの。」
「悪い。でも、聞くなら早いほうが良いと思ったんだ。」
「まぁ確かに早いほうが良いと思うけどさ。」
店に入ってからのやり取りだけでは、やはり内容まではわからない。
俺は、また一つ覚悟する。
「えっとね。」
川崎が言い淀む。
ああ、やはり、と自分の中で諦めが流れ始める。
「な、夏の予定を立てたいなー、なんて。」
ん?なんだって?