バカと天使とドロップアウト   作:フルゥチヱ

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バカテスト
問 次の単語を和訳しなさい
『 destiny 』

天真=ガヴリール=ホワイトの答え
『運命・神意』
教師のコメント
 正解です。

吉井明久の答え
『ZGMF-X42S』
教師のコメント
 先生もガンダムは好きです……。


第十三話 Gabriel DropOut

 もう一年近く前のことで、あまり正確には思い出せないけれど、それは確か放課後のことだったと思う。

 私は学校から帰宅して、そのまま隣人の家に遊びに行った。

 そして、そいつの家で持ち寄ったお菓子なんかを食べながら、他愛もない話を織り交ぜつつ、ゲームで対戦していた。

 そんな時、ふと、私は言ったんだ。

 

 ──なあ、明久。

 

 自分でも、ちょっと驚くくらい自然に出た言葉。

 

 ──私が天使だって言ったら、信じるか?

 

 言ってしまった、という気持ちがないわけじゃなかった。

 その当時、既に私は堕天していた訳だけども、それでも『天使であること』というのは私の数少ないアイデンティティであり、正直言うとずっと秘密にしておこうとさえ思っていたはずだった。

 

 だけど。

 こいつに対して隠し事をしたくないという気持ちも、どこかにあったんだと思う。

 底抜けに優しくて、バカみたいに素直な彼には、私もありのままの自分で接したかったのかもしれない。

 それに、ラフィじゃないけど、どんな面白いリアクションをしてくれるだろうかという興味もあって。

 悪戯心半分、緊張半分といった感じで言ってやったのだ。

 

 だから、あんな反応が返ってくるのは、予想外だった。

 はっきり言ってしまうと、これは私にとっては黒歴史のようなもので、思い出すだけで恥ずかしくなってしまう忘れたい過去なんだけれど、それでも。

 アイツがなんて答えたかだけは、ずっと忘れられず、鮮明に覚えている。

 それはあまりにも月並みな一言で──でもきっと、私が何よりも望んでいた言葉だった。

 

   ○

 

 天使学校を卒業した天使は、人間の文化や生活を学ぶための研修期間として、下界で修業を行う。そして人を正しい道へと導き、初めて一人前の天使となる。

 私もそう決意して下界に降り立った天使の一人だった。全ての人々を幸せにできるような立派な天使に、絶対になってみせると。それが私に与えられた使命なのだから。

 

 しかし、そう決意していた私でしたが、現在下界にて危機的状況に瀕していました。

 それは──

 

「わぁぁー!? どどど、どうしましょう!? 壊れてしまったのでしょうか!?」

 

 ごうんごうんという音を立てる洗濯機から、大量の泡が溢れて止まらないという状況でした。

 遡ること数分前、私はお洗濯をしようと思ったのです。

 私の故郷である天界では、洗濯と言うと、洗濯板と桶で行う大変な作業なのですが、下界では洗濯機というとても便利な機械が普及しているため、ボタン一つで出来てしまいます。なんてハイテクなんでしょうと私は感動すら覚えました。

 

「えっと、回す前にこの洗剤を入れるんでしたよね……」

 

 洗濯機の使い方を思い出しながら、粉の入った箱を棚から取り出します。さて、これを入れるというのは知っているのですが、どれくらい入れればいいのでしょうか?

 

「こんなに大きい機械なのですから、スプーン一杯じゃ足りませんよね」

 

 えいっ、と箱をひっくり返して粉を投入。そして蓋を閉めて、ボタンを押せばお洗濯は完了──のはずだったんですが。

 

「と、とりあえず止めないと! で、でも途中で止めていいものなのでしょうか!?」

 

 大量の泡は、未だとめどなく洗濯機から溢れていました。

 機械というものはやっぱり難しいです! なにが駄目だったのでしょう!?

 洗濯機が泡を吐き出す魔物かなにかに思えてきた私は部屋を飛び出し、隣人宅のインターホンを鳴らして、救援を要請することにしました。

 

「あ、明久さん! 私です、ガヴリールです! どうかお助けを!」

 

 しばらくすると、ガチャリとドアが開き、彼は寝ぼけ眼を擦りながら出てきました。

 

「どうしたの? 慌ててるみたいだけど」

 

 頭に寝癖を付けた童顔の彼は吉井明久さんといって、私の隣人であり、下界で初めて出会った人間の方でした。

 どうやら眠っているところを起こしてしまったみたいで申し訳なさを感じながら、私は事情を説明します。

 

「わ、私が上手にできなかったせいで泡があわわわわなんです!」

 

「うん、とりあえず落ち着こう」

 

 そんな冷静な助言を受けて、私は一つ深呼吸をしてから、脱衣所に彼を案内しました。

 

「これまた凄い状況だね」

 

「どうすればよいのでしょうか……」

 

「そうだね、まずは洗濯機を止めてから、桶で泡を──」

 

 そうして彼はテキパキとこの事態に対処していきます。驚くほどの手際の良さに、私は羨望の視線を向けるしかありません。

 ちなみに明久さん曰く、洗濯に使う洗剤はほんの少量でいいんだとか。

 

   ○

 

 とまあ、下界に来たばかりの頃は何度も無知を晒してしまっていた私ですが、時が経ち少しずつ人間の暮らしに慣れることができました。きっと、それは何度も助力してくださった明久さんのおかげで、だから私は少しでも恩を返そうと、料理を振る舞ったりしました。すると彼は飛び跳ねるように喜んでくれるので、私ももっと彼の為に何かしたいなぁと感じてしまう。

 しかしそれはいけないこと。天使は全ての人を導く存在であり、決して一人にばかり肩入れしてはいけないのだから。でも……、

 

「ありがとうガヴリール!」

 

 屈託のない笑顔でそう言ってくれる彼を見るたび、心の奥底がドクンとなってしまいます。それは今まで感じたことのない未知の感覚で──その度に、この人のそばにいたいと思ってしまっていた。

 そういう悶々としたやり場のない気持ちを抱えているうちに、あっという間に春休みが終わり、入学式の日が訪れました。

 私が下界で通うことになったのは、文月学園という進学校。

 通学路である長い長い坂を息を切らしながら登り、校門へと向かう。するとそこには、既にクラス分けの発表が張り出されていました。

 この文月学園では二年生以降は成績順でクラスが振り分けられるとのことですが、一年生はその限りではない。つまり完全にランダム。私はちょっとだけその場で逡巡してから、意を決して掲示を見上げて名前を探します。

 しばらくして、自分の名前と彼の名前を見つけることが出来ました。ど、どうか同じクラスに……!

 

『天真=ガヴリール=ホワイト……一年Cクラス』

 

『吉井明久……一年Dクラス』

 

 ガーンと、私の耳元で鈍い鐘の音が鳴り響いた気がしました。

 

   ○

 

 入学式からしばらくが経って、本格的に授業が始まった頃。

 私は違うクラスになってしまった明久さんに、話しかけることが出来ずにいました。

 というのも、彼の姿を見かけるたび、何故だか緊張してしまうからです。うぅ、本当になんなのでしょうこの感じは。いつもの私なら、知らない人にだって気兼ねなく声を掛けることができるというのに。

 家で遊んでいる時は普通に話せるのですが……周りに人がいるからでしょうか……?

 今はお昼休みなので、廊下には人が多い。私は消火栓の陰に身を潜めながら、彼に話しかけに行くタイミングを窺っていました。

 

「ちゅう──どれ──ぶにいる──もなみ?」

 

 すると彼は、ポニーテールが特徴的な、勝気そうな女の子と話をしているようでした。少し距離があったので内容までは聞き取れませんでしたが、雰囲気はあまり良くないです。明久さんが一方的に話しかけているのを、女の子の方は完全に無視しています。

 

「むむむ……」

 

 私としては、明久さんとすごくお喋りをしたいので羨ましい限りなのですが。

 

「あれ、ガヴ? なにしてるのよそんな所で」

 

「ひゃ!?」

 

 突然呼ばれて、驚いて振り返る私。

 

「あ、ああ、ヴィーネさんでしたか……」

 

 そこにいたのは、春休みに仲良くなった悪魔の女の子で、今はクラスメイトでもある月乃瀬=ヴィネット=エイプリルさんでした。

 

「もしかして、彼に話しかけようとしてたの? あれ? でもあの人って、確か入学式にセーラー服を着てきた……」

 

「あ、あれにはきっと何か事情があるんだと思いますっ! 普段はとっても優しい人なんですよ?」

 

 ヴィーネさんの言う通り、明久さんは入学式に上だけセーラー服を着て登校してきました。しかも入学式の会場であった体育館に、その服装で大声を上げて飛び込んできたのだから、彼は悪い意味で注目の的となってしまっているのです。

 

「で、話に行かないの?」

 

「え、えっと、そうですね……そうしたいのは山々なんですが、ちょっと恥ずかしくって」

 

「そうなの? なんだったら私が付いて行ってあげようか?」

 

 優しっ。

 この方は本当に悪魔なのでしょうか?

 

「……ではヴィーネさん、相談に乗ってもらってもいいでしょうか?」

 

「相談? いいわよ」

 

「私、最近なんか変なんです。彼のことを見るたび緊張してしまって……」

 

「えっ。ガヴ、それってもしかして……」

 

「──彼が他の女の子と話しているのを見ると、つい世界を滅ぼしたくなってしまうんです」

 

「とりあえず、アンタがそのラッパを吹くつもりなら私は武力行使も辞さないわ」

 

 言われて、私は手に世界の終わりを告げるラッパを持っていたことに気づく。む、無意識のうちに……!

 ああ、本当に私はどうしてしまったのだろう。

 こんなんじゃいけませんよね。もっと天使らしく或らないと……。私は立派な天使にならなくちゃいけないのですから。

 

   ○

 

 結局、中々話すことができないまま、さらに数日が過ぎてしまいました……!

 要らぬ緊張をしてしまう私も私ですが、明久さん落ち着きなさすぎじゃないですか!? 授業時間外は常に学園中を走り回る自由奔放な彼の姿は、問題児以外の何者でもありません。事実、彼の名前は先生たちの中でも、坂本という男子生徒と並んで、とりわけ危険な生徒として認識されているようですし。

 その話を聞いたのは、先ほど重そうな荷物を運んでいた先生のお手伝いをしている時でした。明久さんは本当は良い人なんですと説明すると、逆に心配されてしまいました。

 どうにも明久さんは、誤解されやすいというか、運が良くない方というか……。彼本人にとって、周りの評価など何処吹く風なのかもしれませんが、私としては、優しい人はそれ相応の評価を受けてほしいと思ってしまいます。

 まあ、ヴィーネさんのように評価されたらされたで内心傷付いてしまう人(悪魔)もいるのですが。ままならないものです。

 

 そんなことを考えながら、私は廊下を歩いて教室へと鞄を取りに向かいます。

 放課後の校舎に残っているのは立ち話をしている数人の生徒くらいで、教室の方には人の気配は殆どありません。

 教室の扉を開くと、やはりそこには誰もいませんでした。窓から差し込む夕日に目を細めながら、自分の机に近づいて鞄を手に取る──その時だった。

 

 ガシャアアアン! と。

 机や椅子がまとめて倒れたかのようなけたたましい音が、近くの教室から響いてきました。

 

「えっ……!?」

 

 静寂に包まれていた放課後の校舎には、まるで似つかわしくない音でした。

 私は何故だか胸騒ぎがして教室を飛び出し、廊下を走ります。

 そして、隣の教室の前で立ち止まる。そこに、彼がいたからだ。

 そこでは明久さんと、獅子の鬣を連想させるような髪が特徴の長身の男子生徒が、殴り合いの喧嘩をしていました。

 

「──吉井! そんなに俺が気に入らねぇならかかってきやがれ!」

 

「言われるまでもない! お前をぶっ飛ばして後悔させてやる!」

 

「ごちゃごちゃうるせぇんだよ! この雑魚が!」

 

 睨み合って拳を振るう二人。

 しかし、長身の男子生徒の方は殆ど無傷で、怪我を負っているのは明久さんだけでした。それも当然でしょう。だって、体格が違い過ぎるのだから。明久さんの身長は百七十もない程度、対する相手は百八十を優に超える長身なのだから。どっちが優勢かだなんて一目瞭然。

 

「あ……!」

 

 またも凄まじい音が響き渡る。明久さんがふっ飛ばされ、机や椅子を巻き込みながら倒れたのです。その衝撃で口内を切ったのか、口元に血を滲ませてさえいます。それはもはや、見ている私までも痛いほどの光景でした。でも、明久さんは周りの物を払いながら、再び起き上がる。

 私はもう見ていられず、止めに入ろうと扉に手を掛けた。

 手を掛けて──手を掛けたまま、その場に立ちすくんでしまいました。

 私の頭の中に、一つの思考が浮かんでしまったからです。

 

 ──人間同士の諍いに、天使が介入するのは御法度だろう。

 

「いや、ですが……」

 

 二人は完全に頭に血が上っていて、早く止めないと取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。ここで私が取るべき正しい行動は、先生を呼んで、二人を止めてもらうこと。

 頭では分かっている。分かっているはずなのに──明久さんの怒りに染まった顔を見ていると、何故だか思考がぐちゃぐちゃになって、動けなくなってしまっていた。

 それは、前に感じたあの気持ちと似ているようでいて、全く違うもの。

 呼吸さえまともにできないほど混乱していた、その時でした。

 

「うむ? お主、こんなところでなにしてるのじゃ?」

 

「…………ウチのクラスに、何か用?」

 

 突然、近くにいた二人に話しかけられた。

 

「わひゃ!?」

 

「驚かせてしまったのならすまぬ、こっちの方から凄い音がしたのでな。何かあったのかの?」

 

「…………! いけないッ!」

 

「むっ、どうしたのじゃ土屋!?」

 

 教室の惨状に気づいたのか、すぐさま扉を開き教室に突入する二人。彼らは、私にできなかったことをいとも容易く成し遂げてしまいました。

 そんな二人を尻目に、バクバクと跳ねる心臓を抑えながら、私は鞄を抱えてその場から全力で立ち去る。その姿はちっとも天使なんかじゃなく、無力で無様な女子でしかなかったと思います。

 

   ○

 

 逃げた。

 逃げてしまった。

 まるで見えないナイフでも突き立てられたかのように、ジクジクと胸が痛む。色んなものでぐちゃぐちゃになってしまった心が、悲鳴を上げているのが分かった。

 

 ──怪我をしている友達を見捨てて逃げるような奴が、全ての人を幸せに導く天使なんかになれるのだろうか。

 どこか冷静な自分が、私を責め立ててくる。

 そして、なんとかできただろうという後悔も押し寄せてくる。それこそ先生を呼びに行ったり、他の人を探しに行ったりだ。だけど、私はあの場で立ち尽くしてしまっていた。天使としての制約に雁字搦めにされていた、というのもありますが、何より怒りに染まる彼を見た時、そして傷付いていく彼を見た時、頭が真っ白になってしまったのです。

 

「……いや、こんなの全部言い訳ですよね」

 

 そうだ。

 そんなことは重要じゃないのだ。

 最後に残るのは、私が友達を──明久さんを見捨てたという結果だけなのだから。

 

「何をやっているんでしょう、私は……」

 

 本当に、心の底からそう思う。

 こんなの天使でもなんでもない、愚者とでも言うべき存在だ。

 何かを考えようとするたび、得られた結論は結局それです。

 私はただ、怖かったのだ。

 本気の喧嘩というものの剣幕が。あんなに優しい彼が、怒りを剥き出しにしているのが。

 

 そんな負の思考に陥っていると、気が付けば窓の外は真っ暗になっていた。それでもなお、街は人工の明かりで煌いている。その中では、今も人の営みというものがあるのでしょう。

 そんな光を見た時。私は、このままじゃダメだ、という気がしました。

 天使の誓約だとか、天界の神様たちのことだとかは、すっぽりと頭から抜け落ちていた。

 ただ、彼に会いたい。

 彼の怪我の状態を確かめて、そして今日のことを謝りたいと、そう強く思った。

 深夜だから明久さんも寝ているだろうと、そんな我が儘な考えを抱きながら、私は天使の力を──神足通を行使して、彼の部屋へと移動する。

 普段の私だったら、ありえないような行動。多分この時は、しばらく会えていなかったのもあって、ちょっとおかしくなっていたんだと思います。

 

「……」

 

 明久さんは、ベッドで静かに寝息を立てていました。

 顔中に刻まれた擦り傷や腫れのせいで、寝苦しそうにしながら。

 そんな姿を見た時、私の中の何かを縛っていた鎖のような物が、弾け飛んだ気がした。

 

「痛かったですよね……」

 

 私はベッドの近くに歩み寄って、そっと彼の額に手を翳す。

 すると、蛍のような光が幾つも溢れ、彼の生々しい傷を少しずつ癒してゆく。

 天使が持つ癒しの力です。勿論、研修中の身である私が自分勝手に行使することは禁止されていますが──そんなことは、もはや頭の片隅にさえありません。

 無我夢中でした。一心不乱、と言ってもいいかもしれません。

 

 その時、ふと、明久さんもこんな気持ちだったんじゃないかと思った。

 きっと、彼は何か許せないことがあって、あの長身の男子生徒に殴りかかっていたんじゃないかと。でもそれは、長身のあの人も同じことで、お互いに譲れないものがあったからこそ、あそこまで熾烈な喧嘩にまで発展してしまったのではないかと。

 しかもそれは自分の為じゃなくて、きっと他の誰かの為なのだ。短い付き合いですけど、明久さんが自分勝手に暴力を働くような人ではないということくらいは、私にも分かります。

 そうだ。彼はとても優しくて、真っ直ぐで──誰かの為に一生懸命になれる人なんだから。

 

「……でも、そんな生き方は」

 

 ぽつり、と。

 

「そんな生き方は、辛いだけじゃないですかぁ……」

 

 あまりにも弱弱しい言葉が、私の口から零れ落ちていた。

 だって、そうでしょう。

 自己犠牲はとても尊いものかもしれないが、きっと誰も褒めてはくれない。誰かの為になら自分は傷付いてもいいだなんて、そんなの自分は苦しいばかりじゃないですか。しかもなにより、彼にはきっとその自覚がないのだ。

 

「もっと自分を、大事にしてあげてください……」

 

 気づけば、私の頬に何かが伝うような感触があった。

 ただでさえぐちゃぐちゃになっていた心が、奥底まで撹拌されたかのようでした。彼のことを考えるといつもこうだ。私が私でなくなってしまう。というよりむしろ、自分の中の深くに隠していた何かを暴かれてしまうかのような。

 ベッドに縋りつくようにしながら涙を堪えていると、不意に、私の瞼に溜まった涙を、温かい指が優しく掬い取ってくれた。

 

「……ガヴ、リール……?」

 

 見れば。

 彼は薄く目を開いて、眠気を湛えた瞳でこちらを見ていた。

 

「あっ、明久さんっ!? あ、その、これは違くてですね……!」

 

 まさか起きてしまうなんて考えてもいなかったので、私は両手をわちゃわちゃさせながら必死に言い訳を探します。

 とはいえこれは──言い逃れ不可能なほどに、完璧な不法侵入でした。

 

「……あ、そっか」

 

 すると、明久さんは掠れた声で言いました。

 

「君は死んだ僕を迎えに来てくれた天使様なんだね……まさか高校生で死ぬとは思ってなかったけど」

 

「凄い発想力ですね……」

 

 しかも一部分は間違っていない。たまに彼が見せるこの独特な思考回路には、未だについていけません。

 

「えっとですね……そ、そう! これは貴方が見てる夢なんです!」

 

「夢……?」

 

「夢です!」

 

 私は咄嗟に思いついたそんな言い訳をしますが、これは大分厳しいでしょう。無理があるとか、それ以前の問題です。

 しかし明久さんは、

 

「そっか、夢か。なら納得だね」

 

(納得してくれた!?)

 

 こちらとしてはありがたいことですが、彼の今後が若干心配になった。詐欺なんかに騙されたりしませんよねこの人……。

 

「あ、あの、怪我は大丈夫なんですか……?」

 

 本来なら彼の意識(というより思考?)が朦朧としている今のうちに再び神足通を使って立ち去るべきなのでしょうが、私はそう尋ねずにはいられなかった。ここまで来たらもう自棄だ、という気持ちもどこかにあったんだと思います。

 明久さんは両手を使って上体を起こす。そして、相手を安心させてくれるような、そんな彼らしい屈託のない笑顔を浮かべました。

 

「大丈夫だよ。もう痛みも引いてきたし」

 

 良かった。心からそう思う。

 安心したからか、少しだけ冷静になってきました。下界で天使の力を無断で行使し、さらには不法侵入なんかもやらかしている。どう考えても反省文程度では済みませんね……。

 私がそんなことを考えていると、彼は続けてこう言った。

 

「階段で転んじゃってさ。あはは、僕もドジだなあ」

 

「えっ……?」

 

 彼の言った言葉は、私の見た光景とはまるで別のものでした。

 つまり、これは彼のついた嘘。

 頭では理解していた──私を心配させまいという優しい嘘なのだと。

 でも私はあの場面を見てしまってた。知ってしまってた。

 だから。

 

 きっとその言葉はどんな罵詈雑言よりも強く──私の心を揺さぶった。

 

「っ……えぐっ……」

 

 もう駄目だった。

 さっきまで堪えていた涙が、一気に溢れ出していた。

 明久さんの目の前で、情けないほど無様に。

 

「えっ、あっ、ご、ごめん! ぼ、僕、なにか酷いこと言っちゃったかな!?」

 

 そんな慌てた様子の明久さん。事実、彼から見れば、情緒不安定な女の子がいきなり泣き出したようにしか見えないだろう。それも間違ってはいませんけれど。

 ただ、彼は謝る必要なんて全くない。むしろ謝るべきは私の方なのだ。

 それなのに、私は言葉にならないような感情の炎に身を任せて、彼に縋りつくようにしながら泣いていました。

 ──ああ、何が天使だ。何が神の遣いだ。壮言にもほどがある。

 

「明久さんっ、貴方という人は本当に……!」

 

 きっと、彼は誰かの嬉しさを自分の喜びにできる人なんだ。そして、誰かの悲しさを自分の悲しみにもしてしまう人なんだ。

 例え自分が損をすることになっても、傷つくことになろうと──

 

 涙で火傷ができるんじゃないかってくらいに、目頭が熱くなっていました。

 彼と出会わなければ、こんな気持ちになることもなかったのだろうか。

 でも出会っちゃったんだから、もうどうしようもないんです。

 どうしようもなく膨れ上がっていくこの気持ちは──きっと特別で、大事なものなんだから。

 

「……う、うっ……わああああああああんっ!」

 

 そこには、自分の無力さに打ちのめされた愚かな私がいるだけだった。

 その時やっと分かった。私はただ、彼のそばにいたかっただけなのだと。クラスが離れて、関係が時間と共にバラバラになってしまうのが怖かっただけなのだと。

 だからこれは私の我が儘なのだ。

 そうやって泣きじゃくる私の頭を、明久さんは優しく撫でてくれた。困ったような笑みを浮かべながら慰めてくれた。本当に泣きたいのは彼の方のはずなのに。

 そんな彼の優しさがすっごく嬉しくて、でもちょっぴり切ない。

 下界で初めて出会った男の子は、私にとって頼りがいのあるお兄ちゃんのようでもあって、放っておけない弟のようでもあって──だから、そんな彼のことが、いつからか頭から離れなくなっていたんだ。

 

   ○

 

 翌日。

 あの後、明久さんが眠気でうつらうつらとしていた隙に、ふと我に返った私が神足通で逃走を図った──その翌日です。

 とりあえず学校へ来て、一応は授業を受けている最中なのですが、私は完全に上の空でした。

 

「よし、胡桃沢。この方程式を解いてみろ」

 

「フッ、そんなの簡単よ。ズバリ答えは──C6H6ね!」

 

「……それはベンゼンの化学式だ」

 

「あれ?」

 

 クラスメイトの珍回答に、教室が笑いに包まれますが、その喧騒は耳をすり抜けていってしまう。

 私は先生が板書をし出した隙に教科書を閉じて、机に突っ伏します。そして、頭を抱えた。

 

(ああああああ!! 私はなんてことをやってしまったのでしょうっ!?)

 

 昨日のことを思い出すたびにこれです。

 やってしまった、というのは不法侵入とか、力の無断行使のこともあります。

 勿論これらのことは天界に露見してしまい、私は罪に対する罰として、仕送り減と明久さんとの接触を一週間禁止されることとなりました。

 仕方ないことだと思います。むしろ、罰としては軽いくらいです。私は最悪強制送還まで覚悟していましたから。一週間会えないというのも、ここしばらくのことを考えれば、まあ我慢できないというほどでもないでしょう。

 なので、罰の方はさして問題じゃありません。

 

 本当の問題は──昨日のことを天界のお偉い様方、つまり神様たちに全て見られてしまったということです。

 

(うわあああああああああ!! 恥ずかし! 恥ずかしすぎますっ!)

 

 悶絶です。黒歴史確定です。布団にくるまってバタバタしたい気分です。

 神様たちを全員殺るしかないなんていう発想まで浮かんできてしまいます。

 

(も、もうこのことは深く考えないようにしましょう……身が持ちません!)

 

 隣の席に座るヴィーネさんが怪訝そうな顔で見てますが、今の私は多分耳まで真っ赤なので顔を上げることさえできない。

 こ、こうなったらもう自棄です。今日は家に帰ったら、彼が教えてくれたネトゲに思いっきり没頭しましょう! レベルも五十まで上げたかったところですし! 今まで規則正しい生活を送ってきているので、ちょっとくらいはいいですよね!

 それに──彼と再会した時に、驚かせてみたいという気持ちもありました。

 

(とりあえず、今は授業に集中です! 私ならできる私ならできる私ならできる……よし!)

 

 意を決して、数学の教科書と向き合う。

 無機質な数式の羅列が、この時だけは私の荒んだ心を癒してくれました。

 

 ──この数日後、私はどこに出しても恥ずかしいような駄目天使に堕天してしまうのですが、それはまた別のお話。

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