「爺さん」
その夜の雨は汚染され尽くし、日すら覗く事を拒む街の空にしてはシトシトと柔らかく、道辺の瓦礫やゴミクズの輪郭をぼんやりと白く浮かび上がらせていた。
「爺さん」
「死んだ」
隣の段ボールでできた家の中から一人の老人が顔を出して答えた。
「死んだ」
「何でだ」
「それは…そもそも、わしらはもう歳だもの」
「違いない」
「弔ってってくれねぇか」
「悪いが俺は神職じゃない、それにこういう時はな、行政を呼ぶんだ。腐っちまうぞ」
コートの人影は一息置いてから続ける
「そうなったら暮らしにくいだろ」
背後の道路を輸送車が走り抜け、バックライトが人影を照らした。ところどころが裂け朽ちたコート、帽子の鍔と藁のような髪の間から除く包帯だらけの顔と仄かに光る眼。
「あ…あ…」
老人はゴクリと息を呑み棲家へと後ずさった。男は再び身を屈め、死体が横たわる紙の家を探り始めた。
「何…何してんで…」
老人が震え声で問う。男は答えない。やがて男は雨の中へと戻っていく、手には小汚い封筒が掴まれている。
「死体には」
男はいった
「もういらないだろう」
「金か?畜生、ワ、ワシにも一割受け取る権利が有るぞ!法律だぞ、そういうのがある!」
老人が叫んだ。その眉間にピシャリと音を立ててコインが当たった。
「金じゃあない」
親指でコインを弾いたのだ。
「それをとっとけ」
老人は震えながらコインを握り締め棲家へと引っ込み、そのまま大人しくなった。
朽ち果てたコンクリート製の児童遊具がまばらに配置された公園の敷地を離れ、男はドブ川沿いの道を下ってゆく。染色体異常の魚が水面を跳ね、潜る。
道はやがてトンネルとなる、男は歩き、また歩き。やがて立ち止まる。前方には壁に寄りかかって座る浮浪者が見える
「爺さん」
応えは無い。
「爺さん」
ウシャンカを被り項垂れる男から、返事はない。
「またか、湿気てやがる」
男は毒づいた。突如ウシャンカの男が跳ね起き男を睨んだ。
「死んでない!」
未だ抜けないアルコールに震える手を探り、転がった杖を男につきつける。
「それにまだ爺さんと言われるような歳でもねぇぞ!」
「あー、元気そうでなにより。覚えてるか爺さん?俺はあんたの名前は忘れたが」
「近寄るんじゃぁない!」
男はコートの懐から汚れた封筒を取り出す。途端、ウシャンカの男の表情が変わる。
「おい、まさか」
男は無言で封筒を開く。色あせた写真の束が床に落ち、微かにトンネルに反響する。
「あーッ!それだ!」
ウシャンカの男は夢中でつかみとろうとする。男は手を高く掲げてそれを阻止し、顔面に無言で蹴りを入れる。
「アーッ!!」
「慈善事業じゃねぇんだよ…出せ」
「アッ!いじめるんじゃない!」
「めんどくさいことをさせんじゃねぇよ…」
「兎も角礼を言う!」
ウシャンカの男は体を曲げながら呻き、鼻血を拭った。
「それは俺の命なんだ」
「命を酒代と交換か?大層なもんだ」
男は写真を一枚一枚確かめる。いずれも扇情的な衣装を纏った女性の物だ。男は少しだけ疑問を顔に浮かべる、その中の誰もが現代では目にする事がなく、被写体はいずれも旧世代的だ。
「早くくれ」
「ダメだ。交換だろ」
「チッ、約束も忘れちまえばいいんだ」
ウシャンカの男は毒づき、背負ったリュックサックから木彫りの熊を取り出した。
「ほら!これだろ!」
薄い防護革手袋の手がヌゥっと伸び、それを奪い去った。
「ブロマイドよこせ!」
ウシャンカの男の顔面に写真束が叩きつけられる。
「ウワーッ!」
ばらけて散らばったブロマイドを拾い集めるウシャンカ男を尻目に、男は踵を返し、歩き出す。先ほどの鼻息は聞こえない。
「おお、おお!畜生!神よ!絶対手放すもんかよ!もう二度と!」
「そりゃよかったな」
男はトンネルを後にした。
およそ三十分後、男はガランと広い木製熊工場に居た。
「間違いないね」
作業着の中年女性は、木彫りの熊のそこに刻まれた焼印を虫眼鏡で確かめ、厳かに言った。
「間違いない、うちの基準熊だ」
木製熊の縮尺は法令により厳密に規格が定められている。基準熊がなければ、工場は稼働することができない。
「礼を言うよ」
「できればもので欲しいが」
「アンドウの野郎、コイツ持ってどこに逃げてやがったんだい?あのやろう…」
「さぁな」
男は帽子を直す。
「故買屋から故買屋に、最後は共和圏の浮浪者だ」
「そうだ!夜食を取ろうとしてたんだよ、アンタもいるかい?」
彼女は腰を叩きながら立ち上がった。
「しっかし、まさか本当に取り返してくれるとはね…」
「礼も飯もいらん、物だ」
中年女性は頷いた
「そうさね」
彼女は事務所の隅の金庫にかがみ込んだ。ダイヤルを左右に回すと、金属扉がカチリと開く。彼女はそこから手の平大の箱を取り出した。
「とっとと持ってっておくれよ。捨てるに捨てられなくってね。良かったよ」
「そんならとっとと渡せ、面倒を押し付けやがって」
「ウフフ、それがビジネスってやつさね…」
男は干からびた眼球を受け取り、店を出た。そして追っ手が居ないことを確認すると、人気のないトンネルの中、自らの右眼窩へはめ込んだ。