そして閉幕の鐘がなる。
その目覚めは、誰のものか。
「静か……だな」
戦いに勝利し、仮初である自らの故郷へと戻る。
翔は、ゆっくりと校舎内を歩いていた。
彼が見渡す限り、生命の気配をまるで感じられない。
人の姿は、そのほとんどが途絶えていた。
───もう自分以外のマスターはいないのだ。
この戦いはトーナメント形式。
128人のマスター、128人のサーヴァントによる本当の意味での生死をかけた戦い。
最終的に残る一人の"人間"が一人になるのは当然だ。
しかし、その一人は正確には人間ではないのだが……
「しかし、聖杯への道ってどこにあるんだ……?」
勝者は聖杯への道が開かれる。
しかし、それはどこにあるのだろうか。
最後のアリーナから探せなどというものでも、問題なく引き受けるが……
そのようなことを考えていると、スピーカーから声が流れてくる。
『おめでとう。全ての願いを踏破、あるいは統合し勝ち残った、ただ一人の魔術師よ。聖杯戦争は今ここに集結した』
この声は、聞き覚えがある。
予選の一番最後に、リップと出会った広場で聞いた声だ。
これもまた聖杯戦争のシステムが生み出した、ガイド用の音声だろう。
その声を聞いて、ふと翔は思う。
この人物もまた、他の人たちと同じように。かつて、あの地球にいた人の一人なのだろうかと……
『勝者に今、聖杯への道を開こう。さあ、改めて決戦場の扉を開けたまえ』
そこでスピーカーから聞こえていた音声は途絶えた。
どうやら翔の、最後の行き先は決まったようだ。
「決戦場か。わかりやすいな」
それだけ呟けば、翔はサーヴァントが待つ自身のマイルームへと向かうことにした。
マイルームの扉は、抵抗なく開いた。
いつもと変わらないはずの室内は、しかし、どこか広く感じられた。
戦いのために整えられた空間。
仮初の生活を送るためだけに用意された部屋。
その中央を、パッションリップがゆっくりと歩いている。
いつものような軽やかさはない。
一歩一歩、確かめるように。
まるで床の感触を、壁の距離を、視界に入る全てを、記憶に刻みつけるかのようにであった。
彼女は棚の前で足を止め、しばらくそれを見つめる。
置かれているのは、意味を持たないデータの塊。
本来なら、見る価値も、触れる価値もないものだ。
それでも、リップはしばらくそこに立ち尽くし、やがて、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……不思議ですね」
独り言のような声だった。
「ここに戻ることは、もうないはずなのに。なのに、ちゃんと見ておきたくなるなんて」
振り返らずに、そう言う。
翔は、少し遅れて部屋の中へ入った。
彼女の背中を見て、何も言えずに立ち止まる。
このマイルームは、休息の場所であり、準備の場所であり、そして何より、二人が「共に在った」唯一の場所だった。
リップは再びゆっくりと歩き始め、壁、机、ベッドへと視線を巡らせる。
「戦うために生まれた私が、戦わない時間を過ごした場所……」
そこで、ようやく翔の方を見た。
その表情は、穏やかで。
けれど、どこか覚悟を含んでいる。
「翔さん。ここに戻ってきたってことは、次は……」
問いかけではなかった。
確認でもない。
ただ、二人の間の静かな共有だった。
翔は小さく息を吐き、彼女の言葉に頷く。
「ああ。多分、そうなるだろうな」
それ以上の言葉はなかった。
必要な言葉も、もう残っていない。
それでも、二人はしばらく、その部屋に留まっていた。
時計の音も、外界の気配もない、完全な静寂の中で。
終わりへ向かう前の、最後の"日常"を、噛みしめるように。
マイルームを出た廊下で、翔は校舎を巡回する一人の男と鉢合わせた。
この聖杯戦争に、最初から最後まで関わり続けた男、言峰神父。
翔が足を止めると、言峰は口の端を歪めてみせた。
「物好きだな。もう私に用はないだろうに。君としても、私は遠慮したい相手のはずだ」
「はは……まあな。麻婆豆腐の話題以外だと、たぶん一生分かり合えねぇ気はする」
言峰は肩をすくめた。
確かに、この神父とは、深く語り合う未来など想像もつかない。
だが、この戦争を最後まで見届けた人間として、別れ際に、ひとつくらい言葉を交わしてもいいと思った。
「全く、奇特なマスターだ。ならば私から、最後の餞を贈ろう」
「はなむけ?」
「助言だ。もっとも、戦いに関する話ではない」
言峰は翔を一瞥し、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「君がこれから“手に入れるもの”についての話だ」
手に入れるもの。
その言葉を聞いた時……翔は、小さく息を吸った。
「……聖杯、か?」
「そうだ。では今更だが聞こう。君は“聖杯”について、どこまで知っている?」
言峰に問われ、翔は一瞬だけ視線を落とす。
ムーンセルオートマトン。
月で発見された最古の遺物。
人の願いを叶える力を持つ万能の願望機。
聖杯戦争とは、その所有権を巡る戦い。
最後に残った一人が、願いを叶える。
──知っているのは、そこまでだ。
「正直、ほとんど何も。万能の願望機、それくらいだな」
「なるほど。では、基礎から説明しよう」
言峰は一拍置き、淡々と語り始めた。
「話は前世紀。決して公にされることのない、月での発見にまで遡る」
月……地球から三十八万キロ離れた、孤独な岩塊。
「その地下に発見されたのは、巨大な構造物だ。全長三千キロにも及ぶ、フォトニック結晶の集合体」
「……三千キロ?」
思わず、翔は声を漏らす。
「地球上で唯一、光そのものを閉じ込められる鉱物だ。理解できるかね? 光を記録媒体にし、回路として扱えるという意味を」
言峰の言葉に、翔は言葉を失った。
「月の内部は、光だけで構成された巨大なコンピューターなのだよ」
それほどの異物が、人類史よりも遥か以前から、そこに存在していた。
言峰は、言葉を続ける。
「もちろん人類の産物ではない。未知の異文明の遺産だ。その解析は、あらゆる手段を用いて試みられた。そして……全て失敗した」
言峰は淡々と続ける。
「人類の技術体系、言語体系とは、完全に位相が異なる。理解も、推測も拒む存在だった」
「つまり……どんなことをしても全部駄目だったってことなのか?」
「そうだ。しかし、例外が一つだけあった」
言峰の視線が、鋭くなる。
「
翔は、唾を飲み込んだ。
その結果、判明した機能は……
「"観測"。ただそれだけだ。ムーンセルは、遥か過去から地球を観測し続けていた。歴史、思想、文化……そして魂までも。全てを、記録するためだけの装置」
言峰は、嘲るように微笑んだ。
「神が遺した
「……誰かが“願いを叶える力がある”って気づいた、ってことか?」
「そうだ」
翔の言葉に、言峰は肯定する。
「ムーンセルは観測機だ。それ以外の選択を、頑なに拒む。全能に至る力を持ちながら、自ら全能であることを否定している」
「だけど、観測機である以上、避けられない原理があると……?」
翔の言葉に言峰が頷く。
「そうだ。ハイゼンベルグの不確定性原理。観測されて初めて、事象は確定する」
翔は、眉をひそめた。
「……じゃあ、見えない可能性もあるってことか?」
「その通り。観測されないものは、確定しない」
言峰は、淡々と続ける。
「起こり得た“イフ”。選ばれなかった未来。ムーンセルは、完全な観測のために、それら全てを記録しなければならなかった。月に備えられた演算装置は、そのためのものだ」
「過去認識と未来予知……俺がこれから向かう先には、その全てが保管されていると?」
「その通り。人類が夢想してきた、ほぼ全ての願いが、そこにあるだろう。ラプラスの悪魔。全てを知り、未来を知る存在は、月にいたというわけだ」
言峰は、最後に釘を刺すように言った。
「繰り返すが、月に意志はない。観測者に知性があっては、結果を歪めてしまうからな。しかし、意志ある者が、ムーンセルを掌握したなら……それは無限の願望機。すなわち、聖杯として機能する」
翔は、静かに息を吐いた。
「……で、この戦争は?」
「所有権を定めるための試練だ」
言峰は即答する。
「願いの有無、価値など関係ない。ただ、その人間が“強くある”かどうか。それだけが、聖杯を手にする条件だった」
強くあること。
それがムーンセルの真意なのか。
あるいは、この神父の解釈なのか。
翔には、まだ判断がつかなかった。
「以上だ。参考にはなったかな?」
言峰は踵を返しながら、付け加える。
「君たちが追い続けていたのは、ムーンセルの表層にすぎない。では行くがいい、今回最強のマスターよ。月の中枢にいたる熾天の門が、君の答えを待っている」
聖杯戦争の管理人。
ムーンセルが用意した代行者。
言峰神父は、背を向けどこかへと消え去った。
そして言峰神父の言葉に促され、それに従うように翔とリップは、エレベーターへと向かっていった。
決戦場の扉は、やはり幾度と見た殺風景なエレベーターだった。
ただ表示板に示される階層は、今までよりもはるかに深いことが分かった。
そして……
「翔さん」
静かな声が、背後からかけられた。
振り返るまでもなかった。
そこに立っていたのは、翔と戦った王となる少年。
───レオ・B・ハーウェイ。
敗北したはずの王。
それでも翔が救い、消えることなく、この場所に立っている。
「待ってたのか?」
「はい」
翔の問いにレオは短く答え、エレベーターへと視線を向ける。
「ここから先は、勝者の特権。本来であれば、僕が立ち入る理由はありません。ですが、それでも……」
一泊置き、彼は言葉を続けた。
「ここまで来てしまった以上……最後まで、見届けさせてください」
その言葉は、命令でも、懇願でもなかった。
ただの、素直な意思表示だった。
「君が何を願い、何を選ぶのか。それを見ずに、この戦争を終わらせるわけにはいかない」
翔は、一瞬だけ言葉を探し……苦笑した。
「相変わらずだな、レオ」
「ええ。今の僕には、それくらいしか出来ませんから」
レオは、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……けれど、敗北を知った今だからこそ、見たいものがあるのも事実です」
顔を上げた彼の瞳は、もう翔が今まで見てきた、王のものではなく、確かな光を宿していた。
それを見た翔は、ふっと笑った。
「変わったな、レオ」
翔の言葉に、レオは一瞬だけ目を丸くする。
それから言葉を探し、静かに答えた。
「君がこの先で示す答え。それはきっと、僕が辿り着けなかった一つの可能性でもある」
エレベーターの扉が、静かに音を立てた。
招くように、無機質な光が内部を照らす。
翔は一度だけ、レオを見た。
「後悔しないか?」
「ええ。 もう“信じられない”とは思いません」
その言葉に、翔は小さく息を吐き、エレベーターへと足を踏み入れる。
レオもまた、何も言わず、その隣に立った。
そしてリップが実体化し、三人を乗せたエレベーターの扉がゆっくりと閉じられていく。
移動を告げる低い振動が、床から伝わってくる。
今回はリップ、そしてレオという心強い味方がいる。
ここから先は……この戦争の、本当の最後の戦いだ。