エレベーターの移動は、これまでよりも明らかに長かった。
時間の感覚が曖昧になるほど、沈んでいるのか、あるいは浮かび上がっているのかすら分からない。
やがて、低い音とともに停止する。
扉が開いた瞬間、直方体の箱は役目を終えたと言わんばかりに、白いノイズとなって霧散した。
そこに広がっていたのは、アリーナとも回廊ともつかない空間だった。
ただひたすらに、真っ直ぐ続く一本道。
曲がり角も、分岐もない。
───この先に、聖杯がある。
言葉にせずとも、三人は理解していた。
一歩、踏み出す。
それを合図にするように、周囲の空間が揺らぎ、映像が流れ始めた。
それは、見覚えのある光景だった。
同時に、見覚えのない光景でもある。
志波白亜が、知らないマスターと戦う場面。
レオのサーヴァントであるガウェインが、知らないサーヴァントと剣を交錯させる場面。
翔とリップが、知っている相手と戦った記録。
そして、誰の記憶にも残らなかったであろう、知らない者同士の戦い。
───勝者も、敗者も。
───願いも、絶望も。
それら全てが、無言の映像として流れては消えていく。
まるで、この一本道の先へと吸い寄せられるように。
翔は、足を止めなかった。
リップも、レオも、何も言わずに並んで歩く。
ここは、裁きの場ではない、慰めの場所でもない。
───ただ、戦いという現象が、終着点へと収束していく場所。
聖杯へと至る道。
それは、今までの全てを、等しく“記録”した上で続いている。
戦いが集結する場所。
三人は、そこへ向かって歩き続けていた。
無限とも思える、ひたすらに長い道。
三人は、ついにその果てへと辿り着いた。
広場の中心へと足を踏み出した、その瞬間。
視界が、唐突に切り替わる。
───転移。
気づけば三人は、広大な空間に立っていた。
「ここ……部屋、だよな?」
翔が、思わず声を零す。
だがこの規模を、部屋と呼ぶことには、どうしても抵抗があった。
天井は遥か高く、壁も奥行きの感覚を失わせるほど遠い。
それでいて、そこに置かれている物は、驚くほど少なかった。
だからこそ、否応なく視線は中央へと引き寄せられる。
───そこに在ったのは、単眼のオブジェだった。
ささやかに浮かび、静止している。
形状そのものは、極端に奇抜というわけではない。
だが、見ているだけで胸の奥がざらつくような、不快な違和感があった。
それは造形の問題ではない。
概念の違いがもたらす、生理的な拒絶。
未知の文明が遺したアーティファクト。
ムーンセルの中枢。
この
───七つの海を描き出した、
その聖杯を安置する、巨大な空間に、調和を乱すものが、存在していた。
聖杯を取り囲むように、乱立する無数の石柱。
どれ一つとして、真っ直ぐに立つものはない。
傾き、捻じれ、崩れかけたまま、無秩序に積み重なっている。
その光景は、なぜか寒々しかった。
美しさではなく、理由の分からない終末を感じさせる。
そして……
───その石柱の山の、最も高い場所に、一人の男が、腰掛けていた。
年は恐らく二十代後半。
まだ青年と呼んで差し支えない若さ。
服装は簡素で、顔立ちは驚くほど印象に乏しい。
「あいつは……」
───だが、翔はその人物が誰であるかを、即座に理解していた。
聖杯の前に、玉座もなく、敬意もなく。
それでも、誰よりも自然にそこにいる存在。
翔は、無意識のうちに息を整えた。
戦いの果て、観測の終点。
そして、願いの入口。
この男こそが、聖杯の前に立ち続けてきた“最後の敵”なのだと。
「やあ。待っていたよ、
その低い声は、校舎で聞いた男の声そのものだった。
聖杯戦争の開始、終了の宣言を行った存在。
そして、志波白亜を一度倒した人物。
「祝祭の一つでもあげたかったが、あいにくここにはそんな機能は無くてね。勝ち抜いた甲斐はないだろうが、ここは私からの拍手だけで勘弁してくれ」
男の言葉を聞きながら拳を握り締め、ゆっくりと一歩前へ出る翔。
そんな彼を見ながら、男は言葉を続ける。
「でも、これだけは言える。私は誰よりも君を認め、君を讃え、君を誇りに思っている。君こそが行くたびも繰り返された聖杯戦争の中で、最も素晴らしいマスターなのだと」
男の言葉を静かに聞いた後、翔は静かに言葉を放つ。
「おい、さっきからしらばっくれるんじゃねえ。てめぇ、マスターだろ」
翔の言葉と同時にレオもリップも身構える。
「ええ、彼はNPCではない。マスターです。しかし、おかしいですね。聖杯の前に勝者ではないマスターがいるなど……理屈に合いません」
翔とレオの言葉を受けても、男は驚いた様子を見せなかった。
むしろ、興味深い玩具を見つけたかのように、わずかに目を細める。
「さて。この場所にそぐわないマスター、というのは……君にこそ相応しいと思うがね」
彼の視線は、翔からレオへと写る。
その言い草に、翔は舌打ちをする。
「なぜ敗北した者が生きてこの場にいるのか。その揺らぎは糾さなければならないが……」
そこまで言葉を継ぎ、男は軽く笑う。
「……まあ、放置してもいい問題かな」
その瞬間、レオの眉が僅かに動いた。
「放置、ですか」
感情を抑えた声。
だが、その奥には、明確な反発があった。
男は、レオの言葉を否定しない。
ただ、淡々と答えを返す。
「だが、ここから出られるマスターはただ一人だ。そのルールだけは、今も変わらない。どうあれ、君は消え去る定めだ。消滅の瞬間まで、好きにするといい」
まるで、結果の確定した実験を語るような口調だった。
翔の拳が、ぎり、と音を立てる。
「……随分と、上から目線だな」
吐き捨てるように言いながらも、翔は目を逸らさない。
「だったら聞かせろ。ここまで仕切ってるてめぇは、一体何者だ」
男は、その問いを待っていたかのように、ゆっくりと頷いた。
「いい質問だ」
一瞬、間を置いてから、答える。
「確かに私はNPCだ。だが同時に、マスターでもある」
その言葉に、空気がわずかに軋んだ。
レオが、即座に反応する。
「……ですが、あなたは今はマスターではない」
レオの言葉に、男は頷いた。
「よく分かる。そう……“あった”と表現する方が、より正確だろう」
「NPCでもあり、マスターでもあった。それは、つまり……」
男の言葉に、リップがの視線が移る。
その先は、翔へと向けられていた。
「……ああ。正しい理解を得るためには、説明が必要なようだね」
男は、肩をすくめるでもなく、淡々と頷いた。
「悪いが少々付き合ってもらうよ。自己紹介が遅れてしまったが……私の名は『トワイス・H・ピースマン』。トワイスで結構だ」
名が告げられた瞬間、レオの表情が、ほんの僅かに変わった。
確信に近いものを掴んだ、そんな目だった。
「……なるほど」
小さく息を吐き、レオは視線を上げる。
「今ので、ようやく分かりました。その『H』に入る言葉は……」
一泊。
言葉を選んでいるというより、確かめている沈黙。
「
「なっ!?」
思わず、翔が声を上げた。
「『トワイス・ハーウェイ・ピースマン』」
レオは、淡々と続ける。
だが、その声音には、確かな重みがあった。
「ウィザードとしての才能を見込まれ、養子となり、ハーウェイの『H』と、ピースマンの名を与えられた人物」
レオの視線が、男を射抜く。
「一族きっての鬼才として、記録に残っています。ハーウェイが所有する聖杯関連資料に、あなたの署名がありました」
トワイスは、否定しない。
肯定もしない。
ただ、静かに聞いている。
「一般にムーンセル……聖杯の噂が流布した際にも、あなたの名が挙がっていたと記憶しています」
そこで、レオは一瞬だけ言葉を切った。
「電子上での名を騙ることは容易です。ですから、当時は愉快犯の仕業だと判断していましたが……」
レオは、ゆっくりと首を振る。
声が、僅かに低くなる。
「それでも、理にそぐわない。戦争を憎み、科学者でありながら、あえて戦地での救命活動に尽力したあなたが……」
「私はそういう風に記録されているのか。戦争を憎む……ああ、確かにそれは事実だね」
トワイスは小さく息を吐く。
笑っているのか、呆れているのか判別のつかない、曖昧な声音だった。
「私は戦争を憎んでいるし、決して許しはしない。それはハーウェイであろうと例外はない」
その言葉に虚勢はない。
淡々としているが、否定の余地もない確固たる断定だった。
「しかし、それはあくまで表層の事実でね。このムーンセルと同じように、機能の一端が知れ渡り、それが本質と認識されたようなものだ」
翔は眉をひそめる。
レオは何も言わない。ただ視線を外さない。
「そして、正確に言うと私は『トワイス・H・ピースマン』の記憶から生まれたAIだ。生前の彼の本質を語らせてもらうとしよう」
一瞬、場の空気が沈む。
トワイスの語り口は穏やかだ。
だが、それは懺悔でも告白でもない。
ただ、事実を整理する研究者の声音だった。
「彼は、病的なまでに戦争を嫌悪した。いや、言い直そう」
───トワイス・H・ピースマンは、実際に病気だった。
動悸、と言ってもいい。
戦争の映像を目にするたび、心臓が締め付けられるように痛み、
血液が過剰に巡り、呼吸が浅くなる。
それは怒りではない。
正義感でもない。
もっと原始的で、もっと説明のつかない衝動だった。
以降、
持て余すほどの痛みとなった。
科学者となってからも、
「それだけなんだ。生前の
トワイスの声は変わらない。
感情の波はない。
だが、その無機質さが逆に異様だった。
ただ、疑問だけがあった。
───なぜ、自分だけがこんなにも戦争を憎むのか。
何度も自問した。
答えが出るまで考え続けた。
───けれど、その答えが出てくることはなかった。
そもそも、
後方でできる救助など、いくらでもある。
なのに、なぜ戦争を体験しようとするのか。
なぜ戦争を知ろうとするのか。
それは“戦争への憎しみ”だけでは説明できない。
生前の
「君たちに、そんな人間の末路を見せてやろう」
トワイスが指を軽く振る。
それだけで、空間が崩れた。
視界がノイズに侵食される。
床は粒子へと変え、空は歪みを帯びる。
───書き換え。
世界そのものが、構築される。
気づけば、そこは街だった。
高層ビル群、巨大な交差点、整然と並ぶ道路標識、遠くに伸びる鉄道。
そして、どこにでもある都心の景色。
風の流れまで自然なその再現度は、異様だった。
ビルのガラスに映る光の反射角まで、破綻がない。
完璧すぎる現実。
この光景には、その言葉こそ相応しい。
「都市データの再構築ですか」
レオが静かに呟く。
その視線は、街を分析している。
だが、次の瞬間。
翔の呼吸が、乱れた。
「……っ」
胸の奥が、締め付けられる。
知らないはずだ。
自分に記憶などない。
白亜は言った。
───記憶なんて初めから……なかった。
───肉体からのリンクが無い、ではない。肉体そのものが無いのだ。
───ここにいるNPC達はムーンセルが地上の人達を参考にして再現された所謂AI。あなたもそういう存在だった。
理解している。
納得もしている。
それでも……それでも、だ。
「……リップ」
声が震える。
視界の端に映るビル、横断歩道の白線の幅、歩道橋の錆びた手すり。
その光景一つ一つが、呼吸を浅くする。
理由もなく、鼓動が速まる。
「なんでだろうな、俺……この街の光景に、見覚えがある」
自分で言っておきながら、否定したくなる。
あるはずがない。
だって“元”が存在しないのだから。
そう定義されたはずだ。
そう、説明されたはずだ。
───なのに、胸の奥で、何かが確かに頷いている。
知っている、と。
「俺は、この街に生まれて……この街に、住んでいたんだ」
ぽたり、と涙が落ちる。
懐かしいわけじゃない。
思い出したわけでもない。
知らないはずのものが、当然のようにそこにある。
その矛盾が、痛みになる。
「翔さん……」
リップが戸惑いを隠せずに翔を見る。
一方で、レオは街を一瞥し、次に翔を見る。
分析の視線。
だが、そこに困惑はない。
ただ、思考している。
(この都市は、間違いなく1999年の極東の地方都市。いや、それよりも)
翔の反応。
偶発的とは思えない。
彼は本当に、この街を知っている可能性がある。
「……翔さん」
レオが静かに呼ぶ。
「あなたは、この街を“知っている”のですか?」
「……」
問いは穏やかだ。
だが、その目は鋭い。
翔は、答えられない。
知っている。
だが、知るはずがない。
その矛盾を、説明できない。
高層ビルの窓ガラスに映る自分の姿が、ひどく不安定に見えた。
───場面が、高速に流れる。
都心の風景は歪み、ガラス片のように砕け散った。
代わりに現れたのは、無機質な白、大きな総合病院の廊下だった。
蛍光灯の光、磨き上げられた床、消毒液の匂い。
その廊下を早足で歩く男がいる。
目の前で語っている男と、瓜二つの姿。
白衣を翻し、迷いなく進むその背中には、まだ疲労の影は浅い。
トワイスは医師として、この都市に招かれていた。
「トワイス先生。患者のカルテです」
看護師が差し出したファイルを、彼は受け取る。
手慣れた動作でページを捲る。
「……脳症の進行を止めるために冷凍催眠させているのか。冷凍催眠は不安定な技術と聞いていたが……よく政府の許可が下りたものだ」
眉がわずかに寄り、小さく息を吐く。
だがその目は諦めていない。
「必ず助けてやる」
それは誓いではなく、当然の前提だった。
カルテの最後のページへ視線を落とす。
「患者の名前は───」
その瞬間。
───世界が、白く染まった。
音が消える。
次いで、圧力。
窓ガラスが内側へ弾け飛び、衝撃波が廊下を貫く。
光、熱、轟音が響き、天井が崩れ落ち、書類が宙を舞い、白衣が炎に呑まれる。
名前は、最後まで読まれなかった。
───景色が巻き戻る。
瓦礫も炎も消え、再び単眼のオブジェの部屋へと戻った。
そして、石柱の上に座る男。
「1999年、極東の地方都市で、ある脳症が発生した。以前の症例から、原因は化学兵器と推察された。その都市では、幾度かテロが発生していたからね」
静かな声だった。
まるで講義のように彼は言葉を進めていく。
「
数字を言い終えた後、彼はわずかに肩をすくめる。
「正しくは、ムーンセルの記録で八千二百人。政府もおざなりだ……まったく、三千人はサバを読みすぎだよ」
その目元が、僅かに緩む。
笑っている。
犠牲者の数を、統計の誤差のように語る。
それが皮肉なのか、乾いた諦観なのか、判別はつかない。
「生前の
彼は静かに言った。
風が吹く。
だがそこには、もう病院の匂いも、炎の熱もない。
残っているのは、死を記録として扱う、AIの声だけだった。