「それでは、次は僕が消える番でしょうか」
次に消えるのは自分と、さも当然のようにレオは言う。
本来であればそれは正しい。
この世界から帰還するには生き残った、ただ一人のマスターでなければならない。
トワイスが去った今、残るマスターは二名。
───まだ一人余計なのだ。
そして選択権は聖杯戦争の勝者の物ものだ。
なにしろ、勝者はまだサーヴァントという強大な武力を残している。
「残念ではありますが、聖杯が何であるかを知れただけでも良しとすべきでしょう。あなたさえよろしければ、この事をハーウェイの者に伝えて欲しいところですが……」
そこまでレオが言った所で、翔は首を横へ振る。
残った一人が現実の世界へ帰還するのなら、それはレオしかありえないのだから。
「レオ、そう言ってくれる気持ちはありがてえけどよ……俺はデータだからな。帰る場所なんて、どこにもないのさ」
ムーンセルから作り出した
レオと翔、どちらかが消えなければいけないのなら、そこに選択の余地は無い。
───レオに消えて欲しくない。
その想いがあったからこそ、彼を助けたのだから。
それに、聖杯戦争の勝者として、自分には聖杯に託す願いがある。
たとえ不正なデータとして、分解されるとしても、わずかな時間ぐらいはあるだろう。
1行のコード、1つのコマンド……ささやかな願いを割り込ませる時間ぐらいはあるはずだ。
「俺は、トワイスが作った戦争の火種を消し去る」
殺し、殺され、多くの命が消えていく聖杯戦争を終わらせる。
ムーンセル・オートマトン、神の頭脳。
この危険すぎるアーティファクトを、
そして、ただ一人の生き残りとなるレオの確実な生還を。
願いはいくつも浮かぶ。
どれも捨て難いが、全部を叶えられるほど都合の良い時間は与えられない。
しかし、どのようなものであろうともそれはこの聖杯戦争を勝ち抜く中で生まれた願いだ。
自分は聖杯へ赴く、それが勝者だけに許された権利。
そして、多くを奪い、多くを託されてきた者が最後に果たすべき義務。
「……そうですね。それはこの聖杯戦争を勝ち抜いたあなたの権利です。僕が口を出せる事ではない。あなたがそう決心したのなら、僕は見守るだけです」
もっと他に、何か言いたい事があったのかもしれない。
翔には、彼の口ぶりからしてそんな気がしたのだ。
けれども、彼は王として正しい態度を貫いた。
口を閉ざして、勝者が聖杯戦争を終わらせる。
「行こう、リップ」
「はい、翔さん」
翔とリップは、レオに背を向け歩き出す。
彼は何も言わず、その背中を見守っていた。
光によって作られた階段を上り、そして聖杯の前。
翔の僅かな躊躇いが足を止めた。
もう後悔はない、願いも決めた。
それでも、胸の奥で小さな声がした。
───俺がいたことは、誰も知らなくなるんだな。
その思いだけが、足を止めた。
すると、レオの声が聞こえてきた。
「……この世界へ来たウィザードは、みな消えました。あなたの事を知る者は、もう誰もいないのですね」
けれど、とレオは言葉を続ける
「僕は覚えています。あなたがいたことを」
彼の言葉に、翔は思わず振り返り、そして苦笑した。
まるで、自分の心の中が見えているかのように言葉を紡いだ彼に、翔は笑みを浮かべる。
「ははっ……」
肩の力が抜ける。
───そうか。
誰も知らなくなるわけじゃない。
たった一人でも、覚えていてくれる人がいる。
翔にとっては、それだけで十分だった。
「……ありがとな、レオ」
そして、短い一言。
けれどその笑顔は、この聖杯戦争で初めて見せるような、肩の力が抜けた、本来の翔の笑顔だった。
レオもまた、小さく笑みを返す。
「どういたしまして」
翔は聖杯へと向き直り、ムーンセルの中枢へと手を伸ばす。
触れた瞬間……
───翔は、聖杯の中にいた。
聖杯に収納されたというより、溶け込んだ……に、近いだろうか。
海の中にいるような感覚で、全てが一つになって溶けていく感覚だ。
思っていたより、あまり怖くなかった。
「そっか……俺ってここで生み出されたんだよな。そうなら怖くないのも当然か」
そう感じた所で、一人納得する。
しかし、翔にはただ一つの誤算があった。
───願いを入力する時間がなさすぎる。
思っていたよりも、分解の速度が速い。
これでは一つ入力できるかどうか……
いや、入力途中で完全に分解される可能性も高い。
ここまで来てこうなるとは……翔は歯を食いしばる。
そんな彼の目の前に、光る何かが現れる。
「これは……?」
それは、白と黒が交わるような色合いをした不思議な紙、どうやら栞の様だった。
その色合いは、翔が戦った二人の少女を連想させる。
翔には、その栞から何か語り掛けているように感じられた。
「あの時の……すまねえ。力を貸してくれ!」
その言葉に応えるように、栞は静かに翔の前へと舞い上がった。
白と黒の紙片が淡く輝き、その光が翔の身体を包み込む。
次の瞬間、侵食するように迫っていた分解の光が、ぴたりと止まった。
「……っ!」
完全に止まったわけではない。
栞そのものが、翔の代わりに削られている。
紙の縁から少しずつ光となってほどけ、翔の代わりに、この世界へ還っていく。
───まるで「まだ大丈夫」とでも言うように。
翔は息を呑んだ。
この栞は、ありすとの戦いが終わった際に、彼の目の前に舞い降りてきたもの。
幼い少女が、自分へ託してくれた小さな証。
その願いが今もなお、自分を守っている。
「……ありす」
思わず、その名が零れた。
翔は唇を結び、聖杯へ視線を向ける。
「無駄にはしねえ」
入力を開始する。
───入力完了。
一文字も歪むことなく伝わったはず。
その瞬間、翔を包んでいた光が、小さく揺れる。
栞が、ゆっくりと舞い上がった。
もう、その輝きはほとんど残っていない。
白も黒も、境界は失われ、一枚の紙は、春の花びらのように静かにほどけていく。
その欠片は、光となってムーンセルへ溶けていった。
───役目を終えたのだ。
最後まで、翔を守り抜いて。
彼は、その光を見送る。
寂しさはあった。
けれど、不思議と涙は出なかった。
彼女は、最後まで笑っているような気がしたから。
翔は優しく微笑む。
「……ありがとう、ありす」
その言葉を最後に、栞は完全に、この世界から消えた。
これで本当に、後は分解の時を迎えるだけ。
なのだが、その時が不思議となかなか来ない。
ムーンセルと一体になったことで、時間感覚はそちらに同調している。
1秒で膨大な計算を処理する演算器なので、刹那の時間でも体感では多少長くなっている。
ならば……少しぐらい我儘な願いを言ってもいいだろう。
翔は、パッションリップが自分が消えても幸せなのかという小さな願いを聞く。
「あぁ、よかった」
ムーンセルは数多の世界を翔へ見せた。
そこにはパッションリップがいた。
誰かと笑い、誰かと言葉を交わし、誰かの隣で穏やかに過ごしている。
その隣にいるのは、自分ではない。
けれど、その笑顔は本物だった。
「……そっか」
自然と笑みがこぼれる。
「なら、それでいい」
そう言えた。
言えた、はずだった。
胸の奥が、痛む。
大丈夫だ、最初から分かっていた。
自分は消える、だから想いも伝えなかった。
それでいいと、何度も自分に言い聞かせてきた。
───なのに。
視界が滲む。
ぽたり、と雫が落ちた。
「……なんで」
喉が震える。
次の瞬間、拳が勢いよく光の床を叩きつけた。
「こんなの……! 俺も嫌に決まってんだろ!」
声が割れる。
もう、止まらなかった。
「なんでリップを置いていかなきゃいけねぇんだよ!」
止めようと思っても、その涙が止まらない。
「俺だって……! 俺だって、リップと一緒にいたかった!」
震える声が、世界へ響く。
ずっと……本当はずっと。
「一緒に笑って、一緒に帰って……もっと一緒に生きたかったんだよ!」
願いじゃない。
聖杯に託す望みでもない。
世界を書き換える祈りでもない。
それはただ、一人の少年が最後に零した、本音だった。
「なんでこんな終わり方なんだよ……! こんなの……理不尽すぎるだろ……」
涙が落ち、肩を震わせる。
「くそっ……!」
何度拳を握っても、何度涙を拭っても、その涙は止まる事を知らない。
「……リップ」
彼女の名前を呼ぶことしか、もうできなかった。
翔の声は、電子の海へ溶けていく。
返事があるはずなどない。
そう思った、その時だった。
「私の名前を、呼びましたか?」
不意に声が聞こえた。
先ほどまで聞いた声、翔は上を見上げる。
そこには、両手を広げ、彼を抱きしめようとするパッションリップの姿があった。
「リップ?」
信じられない。
それでも、彼女は目の前にいた。
飛び込んでくる彼女を翔は抱き留め、その違和感に気付く。
「お前、その腕は……?」
本来の彼女の両腕は、触れるもの全てを傷つける、金色に輝く巨大な手のはず。
なぜかそれが、人間の両腕となっているのだ。
「えっと……どうやらムーンセルが、あれを武器と判断したみたいで……それで一時的に武装を解除されているんです」
こんな場所で、あの腕を振り回されたらムーンセルもたまったものではない。
武装解除という判断も納得できた。
つまりここから出れば彼女の両腕は、いつも通りに戻るのだろう。
翔は、人間の腕になった彼女を見つめる。
細く、柔らかな腕。
かつて彼女が、何よりも欲しがっていた姿。
思わず笑みが浮かぶ。
「……そうか」
翔は小さく頷いた。
彼の発言に、リップが首をかしげる。
「前に言ってただろ。人間に……普通の女の子になりたいって」
抱き合うのをやめ、翔は彼女の両腕へ視線を落とした。
この場所なら……聖杯なら、その願いを叶えることもできる。
「人間になれる。それがお前の願いなら、入力してもいいぜ」
翔は静かに笑う。
リップは、自分の両腕を見つめた。
指をゆっくり握り、そして開く。
温かい、軽い。
誰かを傷付けることのない手であり、ずっと夢見ていた姿。
そのはずだった。
───けれど。
リップは小さく笑って、首を横に振った。
「……いいえ」
そのまま一歩近づき、
翔を優しく抱きしめる。
「リップ?」
「翔さん。この姿は……確かに、私がずっと夢見ていた姿です」
腕に少し力を込める。
その声は、穏やかだった。
「でも私は、もう逃げたくありません」
翔を見上げる。
その瞳に迷いはない。
「私は、パッションリップです。あの大きな手も、不器用な私も、全部ひっくるめて私なんです」
少しだけ照れくさそうにリップは笑う。
彼女の言葉に、翔は何も言えなかった。
「昔の私は、自分が嫌いでした」
巨大な腕、壊してしまう身体。
こんな自分に、愛される資格なんてないと思っていた。
「だから人間になりたかった。でも今は違います」
抱きしめる腕に、少しだけ力が入る。
「私は、あの姿から目を逸らしたくありません。あの手だからこそ守れたものがあります」
リップは、翔を見つめる。
「だから……これからも私は、あの手であなたを守りたい」
少し笑って、泣きそうになりながら。
「それが、今の私の願いです」
「そうか」
彼女の言葉に、翔は目元をぬぐい、小さく笑った。
「お前も、変わったな」
「翔さんこそ」
リップも笑う。
泣いた跡が残る顔なのに、不思議とその笑顔は穏やかだった。
二人は言葉を交わさず、ただ見つめあう。
それだけで十分だった。