しかし、サーヴァントという「異物」が入り込んだことで、翔の分解が遅れていることは理解できる。
だが、それだけでは説明がつかない。
ここまで時間を稼げている理由が、まだある。
ムーンセルと繋がった意識は、自然とその答えへ辿り着いていた。
膨大な情報の海。
その中で、一つだけ見覚えのあるデータが浮かび上がる。
「……なんだこれ?」
そのデータに目を通したとき、翔は思わず目を見開いた。
その隣で、リップも画面を覗き込む。
「あ、これ……翔さんじゃないですか?」
そこに記されていたのは、一人の少年の医療記録だった。
病名、治療経過、現在の状態。
───冷凍催眠措置、継続中。
翔は数秒、その文字を見つめたまま動かなかった。
そこに映っていた顔は、自分ではない。
けれど、どこか懐かしくも感じる、不思議な感覚だった。
もし、自分という人格に始まりがあるのだとしたら、その始まりは、今も眠り続けていた。
「ふっははっ……そういうことかよ」
肩が震え、笑いが漏れた。
ようやく全部繋がった。
自分は完全な架空の存在ではない。
ムーンセルが再現した人格の元となる人間が……まだ、生きている。
だから照合が終わらなく自分という存在は、まだ分解されない。
「なるほどな……最後まで、俺らしいオチじゃねぇか。最後まで、誰かのために動くなんてな」
リップは不思議そうに首を傾げる。
その横で、翔は小さく笑う。
しかし、それが自分らしいのだろう……と彼は思った。
「レオにメールで送っといてやるか」
翔は笑って首を振る。
そして彼は端末を呼び出す。
「あとで腰抜かすぞ、あいつ」
そして、笑いながら指を動かす。
自分の元になった人間。
難病のため冷凍催眠措置が取られ、未来の医療を待ち続けている少年。
ムーンセルは、その個体情報を照合していた。
だから不正データと断定できず、この僅かな猶予が生まれた。
もちろん、それも長くは続かない。
照合が終われば、自分は分解される。
だが、それでも十分だった。
翔は最後のメールをレオへ送信する。
「もう、時間みたいだな」
「翔さん。その……」
メールを送った後、リップが翔に声をかける。
「うん?」
「最後まで……私を、抱きしめてください。こんなことができるなんて、奇跡のようなものでしょうから……」
「……あぁ、わかった」
翔は、そっと腕を回した。
リップもまた、彼を抱きしめ返す。
どちらが先でもない。
離れたくないという想いだけが、互いの身体を引き寄せていた。
その瞬間、光の海が、二人の輪郭を削り始める。
───光は優しかった。
消そうとしているはずなのに、不思議と痛みはない。
まるで長い旅路の終わりを、静かに迎え入れてくれるようだった。
指先が透け、肩が粒子へとほどけていく。
違法なデータとして、最小単位まで分解されていく感覚。
自我も、記憶も、存在そのものも、静かに解体されていく。
けれど、不思議なことに、リップを抱きしめている感触だけは、最後まで失われなかった。
───そして、翔はもう一人の自分を思った。
目覚めても、記憶障害でほとんど何も覚えていない。
家族も友人も、もういない。
見知らぬ
かつての日常も、築き上げた過去も無価値なものになっている。
───なんだ。
その程度なら何とでもなる。
失われたものへの追悼はあるけれど……なに、地球が無くなったわけでもない。
道があるのなら自分はきっと歩いて行ける。
願いに、目的に、貴賤はない。
小さくとも、一つだけであっても、叶えたい願いを持って歩き続ければ、最後に大きな花を咲かすだろう。
それが、ついには自分をここまで連れてきたように。
───心配は無い。
一緒に、同じ時を生きていくことができる。
一緒に、進んでいくことができる。
ああ、きっと大丈夫だ。
だって未来には、歩いていける理由が、ちゃんとあるんだから。
白い光が視界を満たす。
電子の海は閉じ、膨大な演算音は遠ざかっていく。
世界が静かに切り替わり……レオはゆっくりと目を開いた。
見慣れた天井、整然と並ぶ医療機器。
ムーンセルへ接続するためのカプセルから、ゆっくりと身を起こす。
「……帰ってきたのですね」
僅かに息を吐く。
トワイス・ピースマンとの戦い。
そして、寿々科翔という少年。
聖杯戦争、その全ては終わった。
もう彼を知る者は、自分しかいない。
そう思った、その時……端末から、小さな受信音が鳴る。
「……?」
レオは眉を寄せる。
差出人は不明。
だが、その送信時刻は、自分がムーンセルから帰還した瞬間と一致していた。
レオは静かに端末を開く。
そこには短い文章と、一つのデータが添付されていた。
彼はその内容へ目を通す。
「……これは」
目が僅かに見開かれる。
医療記録、患者情報。
そして現在の処置。
「冷凍催眠……」
画面を見つめたまま、小さく呟く。
記録を読み進めるごとに、一つの答えへ辿り着く。
「なるほど……」
レオは静かに息を吐いた。
「これは、あなたではない。正確には……あなたという人格の基となった人物、ということですね」
ほんのわずかに首を振る。
そこに記されていたのは、一人の少年。
難病に侵され、治療法が確立される未来を待ち続ける患者。
冷凍催眠装置の中で、長い眠りについている存在だった。
レオはしばらく黙って、その記録を見つめ続ける。
翔は、自分を救ってほしいとは一言も書かなかった。
送られてきたのは、ただこの記録だけ。
それだけで十分だった。
「あなたが、この答えを望んでいたのかは分かりません。ですが……」
誰へ向けるでもなく、静かに言葉を落とす。
そして端末を閉じることなく、彼は真っ直ぐ見据えた。
「この方のことは、僕が引き受けましょう。現在の技術であれば、治療可能なはずです」
その声は穏やかだった。
だが、そこに迷いはない。
一度、レオは静かに目を閉じる。
「仮に、まだ不可能だとしても……」
そして目を開く。
そこには、一人の王としての強い意志が宿っていた。
「ハーウェイの研究機関が、必ずそれを可能にしてみせます」
それは誇示ではない。
長い年月をかけても成し遂げるという、静かな決意だった。
そして、彼はふっと微笑む。
「僕を知るあなたではない。僕のことを覚えているあなたでもない」
そこで言葉を止め、レオは穏やかに頷いた。
「それでも、あなたという存在が、この方から始まったのなら……僕にとって、この方を見捨てる理由にはなりません」
それは今もなお眠っている、もう一人の少年へ向けた約束だった。
そして同時に、月で笑っていた一人の友への、最後の返事でもあった。
静かな部屋に、沈黙が満ちる。
もう、寿々科翔はいない。
けれど、彼が最後に残した想いは、確かにここへ届いた。
レオは端末を閉じ、静かに歩き出す。
救うべき命がある、それだけで十分だった。
一人の少年から託された未来を、今度は自分が繋いでいく番なのだから。