白い光だった。
ゆっくりと、意識が覚醒していく。
どこか遠くで電子音が鳴っており、一定の間隔で響くその音は、不思議と耳に心地よさを残した。
彼は、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
写るのは白い天井、見慣れない照明。
そして、自分の身体へと繋がる幾本もの管。
見覚えのない医療機器に病室。
「…………」
言葉が出ない。
身体が鉛のように重かった。
指先を動かそうとすると、ようやく少しだけ反応する。
その僅かな動きを確認するように、周囲の機械が小さく音を鳴らした。
そして自分は、長い眠りから覚めたことだけは理解できた。
「意識を確認!」
「患者、覚醒しました!」
慌ただしく部屋の扉が開く。
白衣を着た医師たちが次々と駆け込んでくる。
何人もの人間が自分を囲み、次々と質問を投げかける。
「名前は分かりますか?」
「こちらの声は聞こえますか?」
「指は動きますか?」
彼は、ぼんやりと辺りを見回した。
何が起きているのか分からない。
けれど……
「……なんか、すげぇ人数だな」
掠れた声でそう呟くと、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
医師たちは笑い合いながらも、涙ぐんでいた。
それだけ長い時間、この瞬間を待っていたのだ。
彼が目覚めてから、検査は数日に及んだ。
身体機能や脳機能、そして記憶。
どれも慎重に確認された。
───そして、彼は知る。
自分が長い眠りについていたこと。
治療法の存在しない病に侵されていたこと。
未来の医療技術を待つため、冷凍催眠措置が取られていたこと。
記憶障害で、過去の事は何も覚えていない事。
家族も友人も、もういないこと。
そして……眠っている間に、世界は大きく変わってしまったことを。
「……」
検査が終わり、病室に戻った彼は静かに窓の外を見る。
空中へ映し出される立体映像、見上げるほど高い建築物。
どれも知らない世界、知らない時代、知らない人々であった。
自分を知る者は、もう誰一人としていない。
それでも、不思議と彼に恐怖はなかった。
「……そっか」
思いに馳せた後、彼は小さく笑う。
「なんにも覚えてねえけど……きっと全部、変わっちまったんだな」
ふとそのような一言が漏れる。
だがその言葉には、諦めも絶望もなかった。
ただ事実を、真正面から受け止める静かな響きだけがあった。
その時、病室の扉がノックされる。
「お客さんか? どうぞ」
そして扉が開き、一人の青年が訪ねてきた。
金色の髪に、整った身なり。
その立ち姿には、生まれながらの気品が宿っているのが彼には感じて取れた。
「失礼します」
静かな声。
少年は顔を上げる。
「えっと……どちら様ですか?」
彼の言葉に、青年は柔らかく微笑んだ。
「初めまして。レオナルド・ビスタリオ・ハーウェイです」
レオと名乗った青年は一歩近づき、穏やかに続ける。
聞きなれない名前に、彼は首を傾げた。
「ハーウェイ……?」
「ええ」
レオは静かに頷いた。
「少しだけ、あなたと縁がありまして」
「縁? 俺とお前が……?」
そんなもんあったけなあと、彼は首を傾げる。
もちろん、彼に覚えはない。
レオも、それ以上は語らなかった。
もう一人の翔との約束は、レオだけのものだからだ。
「失礼ながら、これから先のことですが」
レオは椅子へ腰掛ける。
「治療も、その後の生活も、すべて僕たちが支援します」
レオの言葉に、彼は驚いた。
「え?」
「記憶が戻らなくても大丈夫です。失った時間を取り戻すことはできません」
レオは言葉を続ける。
「ですが……この先にある時間は、あなた自身のものです。だから、これから歩いていけばいい」
少しだけ、レオは笑う。
「僕も、その手伝いをしたいと思っています」
「どうして……そこまで?」
レオは窓の外を見る。
その視線の先には、青空が広がっている。
彼の頭の中に思い浮かぶのは、一人の少年。
最後まで笑っていた彼であり、最後まで誰かのために戦った彼。
「あなたという存在が、この方から始まったのなら……」
一度だけ目を閉じる。
「僕にとって、この方を見捨てる理由にはなりません」
彼は意味が分からないまま、それでもその言葉の温かさだけは理解できた。
「えっと……ありがとう……ございます」
彼は、レオに自然と頭を下げていた。
そして時が経ち数か月後……彼の退院の日。
病院の自動扉が静かに開き、彼を迎えたのは頬を撫でた柔らかな風だった。
目の前には、彼の知らない街並みが広がっており、そこを人々が笑いながら行き交う。
子供たちが駆け回り、その上には青空が広がる。
「未来って……すげぇな」
思わず彼の顔に、笑みが零れる。
知らない世界に、知らない時代。
それでも彼は、歩いてみたいと思えた。
「これから、どうしますか?」
レオが隣で尋ねる。
彼は少しだけ考えた後に、笑う。
レオには、その顔が月で出会った彼の面影を感じた。
「さあな」
彼は空を見上げる。
太陽が照り付け、思わず顔を腕で覆う。
「でも、歩いてみるさ」
彼は、未来へ向かって一歩踏み出す。
その背中を、優しい風が押した。
そして、彼が空を見上げた、その頃……
電子の海を抱くムーンセルの中では、光の海が、静かに揺らいでいた。
分解は、確かに始まっている。
翔の身体は粒子となり、輪郭を失っていく。
「……?」
ふと、その崩壊が止まった。
止まったというよりも、何かに引っ掛かったようだった。
ムーンセル全域へ、無数の演算光が走る。
───照合、検索、認証。
翔の周囲を包む光が、何度も何度も彼を解析していく。
「……なんだ?」
翔が眉をひそめる。
その時、静かな電子音が、世界へ響く。
───個体情報、更新。
───聖杯権限によるデータ書き換えを確認。
───対象を違法データから除外。
「……え?」
翔が思わず声を漏らす。
リップも同じように目を見開いた。
次の瞬間、崩壊していた二人の身体が、ゆっくりと元へ戻り始めた。
ほどけた粒子が集まり、失われた輪郭が形を取り戻していく。
「な……」
翔は、自分の手を見る。
確かに自分は消えるはずだった。
だが消えておらず、存在が維持されている。
「どういうことだ……?」
答えは、考えるよりも早く流れ込んできた。
ムーンセルへ願いを書き込んだ瞬間、翔という存在は“違法データ”ではなく“聖杯が正式に処理したデータ”へと更新されたのだ。
───願いを実行するにはその存在が必要だった。
削除すれば、その人物の願いそのものまで消してしまう。
だからムーンセル自身が、違法データだった翔を正式な記録へ登録した。
その瞬間から、寿々科翔という人格は、削除対象ではなくなったのだ。
そしてリップは翔のサーヴァントだ。
翔へ紐付いている。
彼が削除されないなら、その契約情報も保持される。
「……そういうことか。」
翔は苦笑した。
「俺を消そうとしてた本人が……俺を登録しちまったんだな」
その答えに、翔は肩をすくめ、リップが、涙を浮かべる。
「翔さん……!」
「リップ。どうやら俺たち……もう少し、一緒にいられるみたいだ」
翔は笑った。
今までで一番、肩の力の抜けた笑顔だった。
リップがその言葉を聞いた瞬間、彼女は何も言わず、ただ翔へ飛びついた。
今度は離れないように。
今度こそ失わない様に。
その腕で、翔を強く抱きしめた。
リップは何度も頷きながら、翔を抱きしめる。
「翔さん……翔さん……!」
涙が止まらない。
嬉しくて、苦しくて、信じられなくて、ただ涙を流すリップ。
翔もそんな彼女の背中へ、ゆっくりと腕を回した。
そして、小さく笑う。
「……なあ、リップ」
「はい……?」
翔は少しだけ困ったように笑った。
「どうしていいかわからなかった。ずっと言えなかったんだ」
彼は、一度言葉を切る。
リップと翔の視線が合わさる。
「俺はこのまま、消えると思ってたから……でも今は、ちゃんと伝えたい」
リップの瞳が大きく揺れた。
翔は照れくさそうに頭を掻く。
彼は言葉を選びながらゆっくり話した。
そして、小さく息を吸い、真っ直ぐ彼女を見る。
リップは黙って、頷いた。
その眼差しは、優しく、まっすぐだった。
「俺は……」
翔は、深く息を吸い込む。
彼は、何度も死地を超えてきた。
なのに、この一言が一番緊張した。
それでも笑って彼は口を開く。
「俺は、リップが好きだ」
「翔さん……」
「お前の笑顔も、泣き顔も、怒った顔も……全部、全部好きだ! お前を、世界で一番幸せな女にしてやりたい! だから、俺と……これからも一緒に生きてくれ!」
その言葉に、リップの瞳が潤んだ。
小さく、息を呑み、そっと笑う。
「……その言葉を、ずっと待っていました。翔さん、私も同じ気持ちです。あなたの笑顔だけじゃない。あなたの強さも、不器用なところも、全部大好き。だから今度は、私があなたを世界で一番幸せな男にしてあげたい」
静寂の中で、二人の言葉が重なる。
互いに寄り添い、支え合い、これからを生きていくための誓い。
離れていた二つの影が、ゆっくりと重なり、一つになる。
電子の海は静かに輝いていた。
その光は、終わりを照らすものではない。
二人が、これから歩いていく未来を、静かに祝福しているようだった。
翔とリップは、しばらく何も言わず、そのまま寄り添っていた。
やがて、電子の海が静かに波打つ。
祝福するように周囲を満たしていた光が、ゆっくりと上昇し始める。
それは終わりではなく、送り出すための光だった。
「……帰ろうぜ、リップ」
光を見て、翔が穏やかに言う。
リップは少しだけ名残惜しそうに抱きしめる腕へ力を込め、それから笑顔で頷いた。
「はい」
繋いだ手は離さない。
光が二人を優しく包み込み、世界はゆっくりと白へ染まっていく。
そして、そこに広がっていたのは、見慣れた電子世界だった。
ムーンセルは何も語らない。
ただ静かに、二人の存在を受け入れるように、無数の演算光だけが流れ続けていた。
翔はリップを見る。
リップもまた、翔を見る。
二人は自然と笑い合った。
そこに言葉はいらなかった。
これからどこへ向かうのか、何をして生きていくのかは、まだ何も決まってはいない。
それでも一つだけ、確かなことがあった。
───もう、一人ではない。
二人は並んで歩き出す。
戦いの終わった先にある、新しい未来へ。
これが古い
翔が成しえた勝利に対する最大の報酬だ。
あまりの幸福に目蓋を閉じたが、今度こそ、失われるものは何もない。
月の物語は終わったが、翔とリップの物語は続いていく。
それを噛みしめて、彼はゆっくりと目蓋を開けた。
目を開くと、欲しかったものは未来に広がっている。
もう、この夢が欠けることはないだろう。
二人は、造られた命だった。
一人は、月で生まれた人格。
一人は、月で生まれた少女。
どちらも、本来なら“本物”ではなかった。
けれど、恋は教えられるものではなく、愛は与えられるものでもない。
誰かを想い、誰かに想われ……共に歩みたいと願ったその瞬間から、造られた心はもう誰も人形とは呼べなかった。
───人形が恋を知り、人形が愛を知った。
二人が出会い、笑い、涙を流し、傷付き、それでもお互いを選び続けた末に育まれた本物の想いだった。
その愛情は、造られたものではなく二人が自らの意志で掴み取ったものだから。
───それはきっと……世界で一番、人間らしい奇跡だった。
電子の海の彼方に、二人は歩いていく。
終わりではない……それは、新しい未来への第一歩。
月の物語は終わった。
それでも二人は、未来へ歩いていく。
Fate/Affection Doll、これにて完結となります……!
途中何度かエタりかけてしまい、気付けば8年近く経ってしまいました……
ともあれ、無事に終わることが出来ました。
長い間、この作品を追いかけてくださった読者の皆様、お付き合いいただき、本当にありがとうございました!