左利きのキャッチャー   作:MAKOTO@

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1話及び2話を修正致しました。今後も予告なく編集が入る場合がございます。予めご了承をお願い申し上げます。


暇つぶしにどうぞ


3話_林間学校

「だあぁぁ〜!思ってたのと違ぁぁぁぁう!!!」

 

 僕は今、約束通りに栄純とキャッチボールしている。

 正確にはまだ準備運動の途中である。キャッチボールへの道のりはまだまだだぞ、栄純。

 このあとストレッチもやると言ったら、もっと面白いだろう。僕達は体力づくりにまずランニングから始めていた。

 

 大人しくしないとキャッチボールは無しという、言葉の威力は凄まじかった。

 小学生であるからには当然に夏休みの宿題が存在する。

 初日から進めて約1週間でほとんど終わらせたのは歩純である。長年の経験からして最後まで宿題を残しておいて良いことは1つもないと身に染みている。

 対して、栄純は予想通り手付かずのままだ。だから、夏休みの午前中は勉強の時間に当たるつもりである。

 朝からキャッチボールが出来ると思っていた栄純は思わず面食らった。後からでも出来ると言い張り、アタフタと慌てる栄純を疑い深い目で歩純は見つめる。じゃあキャッチボールはなしだなと言えば、しばらくの葛藤後、栄純は大人しくペンを持つことにした。

 課題が進まない栄純を手伝いつつ、お昼までの時間を潰した。数ページがお昼までかかったのは、まじめに取り組まない栄純のせいである。この男、やはり体を動かすこと以外で集中出来ないらしい。

 それでも放っておくと最終日まで溜め込むことは分かりきった事であるため、なるべく早く処理させたい。

 

 いつも通り昼食を済ませ、僕たちは外に出た。食後いきなり走ると消化に良くない。本来は二時間ほどのインターバルが好ましいが、午前中から我慢している状況を鑑みれば、さらにそこまで耐えろといのは酷である。

 30分ほど休息と準備体操につぎ込んで、ランニングに出かける。

 栄純にランニングの大切さを説明したがやはり理解してもらえなさそうだ。なぜはやくキャッチボールしないのかという不満の方が大きいらしい。

 そして、冒頭のセリフに戻る。

 

 緩やかな勾配の山道をゆっくりと走る。夏の日差しが緑の葉の隙間からキラキラと溢れて見る人が見ればとても感動的な光景に映るはずだ。ただ今は周りに人がいないので、どんなに大声で叫んでも大した迷惑はかからない。真横で一緒に走っている歩純以外は。

 

「うるさいなぁ、栄純」

「うおおおお、歩純!なんでこんなに走らなきゃいけないんだよ!」

 

 それでも走るスピードを緩めないところは凄い。余裕そうな歩純にチラリと視線を受けた後、対抗心をいただいて、スピードを速めた栄純が先行して走る。

 目指すのは山の麓にある公園であり、僕達の遊び場だ。最近は子供の遊び場としての公園が少なくなっているらしいが、ここの公園でのキャッチボール等は特に禁止されていない。

 家から走るとちょうど良い運動ができるためこれからはここでキャッチボールするつもりだ。ほどよく走ったので水分補給は欠かさない。持って来ていたスポーツ飲料を2人で分け合った。

 つぎはストレッチだ。

 

 栄純の柔らかい体をより伸ばすために柔軟運動は必須である。また怪我の防止にも注意しなければいけないため、ストレッチの重要性は高い。

 小学生の栄純にとって単調でつまらないことの繰り返しであるため、ないがしろにしやすいだろう。ランニングとストレッチの小さな繰り返しがいずれ必ず役にたつはずだ。その時に重要性を感じてもらえれば良い。それまで歩純が上手く誘導するだけだ。

 

 ストレッチを済ませて、ようやくボールに触れる。

 ただ全力の投球はあまりさせることはできないので、どうやっていい聞かせようか悩ましい。

 実は、栄純は野球のルールをよく分かっていない。かろうじて、投げる、打つの場面をテレビで見ていて、なんとなく分かるくらいだ。その中でも投手というポジションに憧れを持ったのは、やはり僕のあの一投のせいらしい。

 おおきく振りかぶって投げる様をカッコいいと捉えてくれたようだ。

 他のポジションをやりたいと言わなくて良かった。結果として、あの一投は間違っていなかったらしい。

 困ったことに、そのせいかただのキャッチボールでも振りかぶって投げたがる。片足で立つにはまだ体は幼く体重を支えるには至らない。転倒の危険が高いのでやめてほしい。

 いずれできるようになる、と慰めれば、渋々振りかぶることは諦めてくれたようだ。

 

 こんな風に夏休みの間中、2人でキャッチボールをしていればそれなりに上達した。ボールの届くギリギリの距離を測り方。柔軟運動も慣れたものだ。なりより栄純の投げる球に癖球の兆しが見えることがなにより歩純の心を楽にさせた。

 投げられる球は取りにくいがその取りにくさが嬉しい歩純だった。

 

 歩純が使っているグローブは左利き用ではなく、右利き用だ。歩純は両方のグローブを持っていたが、今はあえて右利き用を選んだ。

 日によって左右2つのグローブを使い分けていた。せっかく2つあるので使わないのはもったいないということである。

 生まれ変わってからは右手ばかりを使ってきたおかげで、今やどちらも同じくらいの精度で両手を使いこなせる。ただ完璧に同じではないところが難点だ。

 歩純の場合、器用さは右手の方が優っているが、握力や筋力では左手の方が優っている。両利きと言うよりもクロスドミナンス、日本語で交差利きや分け利きといったほうがより正確だ。

 もっとも他者から見れば両利きと見間違うほどの微細な差異しか存在しない。だが、本人からすれば大きな違いがあることは間違いない。

 

 生まれ変わる前は左利き、生まれ変わってからは右利きという実に可笑しな現象が起こっていた。

 こと野球にも歩純の特殊な利き手は作用し、キャッチングの正確さは右手が勝り、返球、送球のスピードは左手に軍配があがる。付け加えるならば、のちに天賦の才とまで謳われるほどに歩純の左右の使い分けは巧かった。

 にも関わらず、右手で投げることに拘ったのは意味がある。

 初めて野球についての専門書を読み込み、歩純は左利きである意味を知った。野球素人の歩純は野球のポジションに利き手が関係していることすら知らなかった。

 なんでも、左利きのキャッチャーはどちらかといえば推奨されるべきものではないらしい。この定説は歩純にとってある種の絶望的な宣告だった。

 

 日に日に、栄純の球を受けるたびに彼の底知れぬ才能に震えた。まだ小学生にも関わらず、成長の予兆が見られる癖球は彼の投手としての可能性の裏付けだ。たかだか夏休みの期間にほんのすこし時間、キャッチボールに付き合っただけで、歩純は再度確信した。

 たとえ、自分という異物が混ざろうと沢村栄純にエースの器が存在することは変わらないのだろうと。

 ゆえに幼馴染という居場所に甘んじている歩純に人間として本能的な欲が沸き起こってしまった。

 もし、栄純に高校時代からではなく、今すぐにでもトレーニングを積ませたら、一体どこまでの投手に成長するのだろうか。

 もし、栄純の成長をもっと近くてより長く見ていられたなら。

 もし、自分が捕手になったら、栄純は喜ぶだろうか。

 そして、一度感じてしまった欲求を忘れてしまうことは歩純にとっても困難だった。

 歩純は上達する栄純を見て、積もり積もる欲求に挟まれる。いずれ日本中を沸かす投手になる栄純に、左利きの捕手では釣り合わうことは叶わないだろうと考える歩純。

 苦肉の策として、右手でなげる練習をしていた。だが、左右の手に与えられた才は悲しくも歩純の望みとは逆手であり、そのことにいち早く気付いた歩純の精神を削っていった。

 その日から、歩純の睡眠が浅く、浅くなり始めたのだ。

 

 

 

 あれから、時は過ぎて、春が来た。

 歩純達が初めて喧嘩した夏から、季節は一周し、さらに新しい春を迎えた。

 2人は無事三年生へと進級するのだった。

 

 その年の春は天気に見舞われず、梅や桜が散り散りに咲いたのだった。

 物寂しい春の景色だ。栄徳さんが花見が出来なくて残念がっていたが、例年と違う春の訪れに歩純は不吉な予感がしていた。

 悪い予感というのは当たるようで、四月に入ってすぐに歩純の祖母の容体が悪化した。三月まではリハビリも順調で、退院も間近だと思われていた。実際、主治医から外泊の許可を貰ったりと、誰もが喜んでいた。

 その後、もしかすれば悪天候が影響したのか、もしくは寿命なのか原因は不明確らしい。そして、4月の中旬に祖母は急死した。容体が急変してから3日目の夜のことだった。

 みんな泣いていた。お父さんもお母さんも。栄純や栄純の両親、栄徳さんも泣いていた。

 お母さんは涙が止まらないらしく、よくお父さんが付き添っていた。お父さんは1人でこっそり泣いているところを見てしまった。それなのに、歩純は悲しむことは出来ても、泣くことができなかった。心が擦り切れ始めた歩純にとって非日常的な風景はまるで他人事のように感じられた。

 

 歩純と栄純の9回目の誕生日は慎ましくも、沢村家のおかげかそれなりに賑やかに行われた。栄純の明るさに何度助けられたか分からない。

 次第に歩純の両親も気持ちが上向きになり始めた。ひとえに、沢村家との繋がりのおかげだろう。沢村家独特の雰囲気は陰鬱な空気を払拭する力がある。

 両親の目の隈も取れ始めたが、息子の隈が取れていないことには気づかなかった。歩純自身が隠すことに長けていることに加え、祖母の死が歩純から注意を逸らさせた。

 

 あれからも、飽きることなく2人のキャッチボールは続き、基礎体力はおろか体の柔軟性は同世代よりも遥かに高くなっている。

 運動することで睡眠を求める身体と、段々と浅くなる睡眠が並以上の精神力を持つ歩純に限界を感じさせていた。その証拠に1年生の頃から十分な運動と睡眠をとった栄純の体はみるみる大きくなったが、睡眠の足りていない歩純の身体は栄純よりも一回り小さい。

 成長速度には個人差があることを加味しても、睡眠不足が歩純に悪影響を及ぼしていることは否定できない。

 

 歩純の異変に気がついていたのは、ただ1人、栄純だけだった。

 度々泊まりに来て、歩純と一緒に寝ていた栄純は彼の寝付きの悪さに唯一気がつけた人物だ。だが、起きているときはいつもと変わらぬ雰囲気の歩純に疑問は抱くものの、心境までを察するのは無理な話だった。

 歩純の心の中で渦巻く悩みは深く、生まれた時から根付いていたものである。歩純にはただひたすらに周りにいつも嘘をついているような罪悪感だけ延々と渦巻いた。

 

 歩純が生まれ変わってから抱いている罪悪感は周りに嘘をついてしまっていることである。自分が普通の子供と比べては非常に奇妙な子であることは間違いなく、そのことを歩純も自覚していた。

 わがままも言わず、聞き分けも良く、教えられることもなくマナーや作法を自然と身につけている。良いことづくしのようだが、たとめどんなに優秀な子供でも知らないことを知っている子供は存在しない。

 もし、歩純の両親が矮小な人物だったなら、我が子を不審がっていたに違いない。

 そうならずにすんだのは、いい両親に巡り会えたからだ。それでも元来義理深い性格の歩純には前世のことを隠しておくことが耐え難い、不誠実なことだと考えてしまった。

 自分のことを打ち明けたいと思う一方で、拒絶されたことを考えれば立ち直れない。その葛藤は知らず知らずに、まるで木綿が首を絞めるようにジワジワと心を蝕んでいく。

 ありたいていなライトノベルなら神様などにでも出会って、使命でも与えられるのがテンプレだ。歩純の記憶の中では誰かに出会った覚えはない。出会ったといえば、それから3年たち、テレビから衝撃を受けて、ありえないほどの奇縁から栄純と出会った。

 神様というのはどうやら、自分達を関わらせたいらしい。そう思ったから極力関わらない方向性を取ってみた。もちろん原作を崩したくない想いもあったが。

 そうしたら、その日のうちに栄純が我が家へ突撃し、そのまま神様の思惑どおりの展開になったのだろう。都合良くボールとグローブが用意され、栄純が投手に憧れを持つように都合よく話が進む。そして、結局のところ栄純と野球を関わらせてしまっている。

 意図して避けていたはずなのに、常識で考えれば有り得ないだろう。同じく、7歳の誕生日に貰った例の本について調べた時に発見したことも、まさに神の力といいたくなるほどのなにか無くしてありえないほどの偶然がある。

 ここまでくれば、誰でも分かるだろう。原作の知識を持つ者が、主人公の幼馴染になり、野球をする環境、知識を得る環境を整えられる意味を。

 おそらく、神様は歩純が生まれ変わった理由に栄純をエースに育て上げることを目的とさせているのだろう。勝手な話だと思ったが、実際に気持ちはその話の方向に流れてしまっている。まるで栄純の球を取りたいという自分の気持ちすら神の仕業かと疑ってしまうことに腹が立つ。

 

 もし神が歩純に対して、精神的な準備期間を設けていたとすれば、おそらくそろそろその期間は終了すると思われる。なぜなら今の歩純達の9歳という年齢はアスリートの運命を決める時期とも言われているからだ。

 プロアスリートを育てるためにはゴールデンエイジ理論が非常に重要視されている。ゴールデンエイジに相当する9〜11歳の子供というのは成長の著しい期間である。

 子供の体だと大人よりも成長が早いという話は誰でも耳にしたことがあるだろう。昨日出来なかったことが、今日は出来たり、教えたことをすぐに吸収できたり、人間の一生の中で最も成長速度の速い時期ともいえる。

 さらに、運動神経や視神経など多くの神経回路がほぼ完成に近づく期間でもある。これらの神経は大人になってしまってはなかなか訓練しても成果が出にくい。発達させるには成長途中の期間内にトレーニングを行うことが良いとされる。

 故に、この期間を逃せば、選手人生が決まると考えるトレーナーやコーチは多い。つまり、プロアスリートの多くはこの時期から十分なトレーニングを始めているのである。

 歩純もゴールデンエイジ理論への理解は深めていた。プレゴールデンエイジと呼ばれる3〜8歳の間は上手く体を動かせない子供が多い。栄純が振りかぶって投げようとして、支えきれなかったように。

 そのためプレゴールデンエイジでは様々な運動を経験させ、自分の体を満足に操作できるための準備期間として置かれることが多い。

 歩純も栄純には色々な遊びの中で様々な運動を経験させていた。プレゴールデンエイジの活動内容としては充分だった。

 

 そして、その黄金期間の始まりはもうすぐそこである。確実にエースへと栄純を育て上げるならこの期間を無駄にすることはまずあり得ない。

 ここまで長く話したが、短く纏めればつまり、原作を壊す覚悟をつける時間はもうすぐ終わりだということである。

 

 

 

 3年生の夏休み前には他の学年と異なり特別なイベントがある。7月の中旬に林間学校が予定されているからである。2人の通う赤城小だけでなく他校生との合同で行う大規模な林間学校だ。

 そのため、この一大イベントを楽しみにしている生徒は多く、もちろん栄純もその1人だった。

 ただ栄純には1つだけ心配ごとがあった。栄純にとってなんでもできる自慢の幼馴染がここ最近、顔色が悪いことである。歩純が悩んでいるのならば力になってあげたがったが、歩純に解決できない問題に自分が役に立てるのか分からなかった。

 直接聞いてみても悩んだ様子すら見せないことに頭を抱えた。どうしてそのまで1人で悩むのだろうか、自分はそんなにも頼りないのだろうかと腹を立てたこともあった。

 二泊三日の野外宿泊は生徒達を大いに盛り上がらせた。スケジュールが近づくにつれ、男子は何をして遊ぶかの話で盛り上がる。女子はどんなパジャマを着るのか、お菓子は何を持っていくのかで盛り上がっていた。娯楽の少ない中の特別な行事は生徒の心を弾ませた。

 そんな三年生たち待望の林間学校の日がやってきた。

 

 林間学校当日、歩純の体調はすこぶる悪かった。

 夜は眠れず、起きていれば嫌なことばかり考えてしまう。普通の小学生とは根本的に違うことを自覚しているせいで、どうやっても周りの目というものが気になってしまう。

 自分に前世の記憶があると知れ渡れば、頭のおかしな人物だと言われてしまうはずだ。だから、子供が多く集まるところでは自分が浮いてしまわないかに、より気を張る必要があった。

 そんな歩純ではあったがついて早々にトラブルが勃発する。まるっきり自分の容姿に無頓着なことが今回の騒動の原因となっていた。歩純は年々成長するごとに男ではあるが女のように育ち、前世の容姿に近づいているのではと思うほどだ。中性的な美少年もしくは美少女といったところだ。

 小学3年生ともなれば、異性に興味を持ち始める時期である。赤城小の同級生達は入学前から歩純のことを知っているが、林間学校で会う他校の男子生徒にとって歩純は興味の的となる。

 歩純を女の子と勘違いした他校の男子生徒が照れ隠しに揶揄い始めたことが発端である。ありがちな、なんでもない悪ふざけの一種であったため歩純は気にしていなかったが、栄純が混じって来たことで話が大きくなった。

 謝罪を求める栄純と意固地になる男子生徒で取っ組み合いの喧嘩に発展するところだった。

 

「おい、お前!歩純に謝れよ!」

「はっ!誰がそんな男女に謝るかよ!」

 

 怒りくるう栄純とそれを鼻で笑う他校生。平行線となる2人を止めるために先生が呼ばれて、事情聴取されることとなった。

 一旦はその場は落ち着いたものの、明らかに両者の腹の虫は収まっていないいない様子だ。

 林間学校は始まったばかりであと2日もあるのに、まだまだ揉めそうだなと思わせる幕引きだった。

 疲れた、ただそう思わせる出来事だ。2人を諌めるために歩純も体を張ることになった。興奮していていつもより力の強い栄純を押さえることに、いまにも殴りかかろうとする相手の対処も必要だ。

 想像以上の重労働に歩純ほとほと草臥れていた。

 お説教から関係者が解放されたあと、歩純は静かな場所を求めて1人で歩いていた。あまり遠くに行ってはまた先生に叱られてしまうがバレなければ問題はない。

 あいにく夕食までの自由時間にはまだ余裕がある。あてもなくプラプラと彷徨っていた。

 すると、たどり着いたのは小さな音楽室のような一室でオルガルの1つしか置いていないこじんまりとしたものだった。小さな部屋に小さなオンガンの置いてある空間は侘び寂びを感じさせる雰囲気がある。

 前世では嫌々ピアノ教室に通っていた経歴があるが、あいにく生まれ変わってからはピアノに触れたことはない。

 最近の歩純は前世の感情に引きずられ過ぎていると自覚していた。精神的に弱った時に、縋ったのは今生に生きている人達ではなく前世の記憶だった。

 結局のところ、歩純はまだ夢でも見ているつもりなのだ。

 だから、祖母が亡くなったときもまるでスクリーンでもみているような気持ちで、涙は出なかった。

 歩純は本当の意味で自分が死んでしまったことを受け入れきれていなかった。

 久しぶりに触れたピアノに忘れ難い記憶が彼方から喚び起さられる。精神的に限界まで来ていたこともあり、しばらく呆然とピアノを撫でた後、はじめて自分の目から涙が一筋だけ溢れていることに気がついた。

 懐かしさのあまり涙が溢れたのだ。傷心の歩純は慌てて涙を掬ったあと、気分を変えるために一曲だけ引いてみることにした。ピアノのレパートリーこそ少ないものの筋が良いと褒められたこともある。

 1番得意だった曲はショパンのノクターンとも言われる名曲だ。

 前世の記憶というのは歩純にとって自我に等しい。前世からの性格を受け継いでいることは、もちろん歩純の行動の原理には前世の記憶が大きく影響している。

 だからこそ、譜面を忘れずに弾けていることは前世の記憶が薄れていない証拠になる。珍しくピアノを弾いている間ばかりは何も考えずただ演奏だけに没頭できた。

 

 終曲が近づき夢心地から現実へと引き戻される。最後の鍵盤から指を掬いなんとも言い難い余韻に溺れる。

 ついには曲を弾き終わった。

 すると突然音楽室の扉が開かれた。余韻に浸る暇もなく、驚く暇もなく歩純はゆったりと扉に目を向けた。

 

「ほ、本当に歩純なのか?一体いつの間にピアノなんて練習してたんだよ!?」

 

 そこにいたのは栄純だった。お説教のあと、フラフラと出歩く歩純をみて心配で後をつけて来ていたのだ。

 ここ最近元気のない幼馴染が彷徨うように歩く姿をみて心配で放っては置けなかった。

 歩純には何も栄純を責める気は無かったのだが、どうしても返答に困ってしまう。すると、栄純はこちらの返答も聞かずに駆け出して行ってしまった。

 栄純と歩純は四六時中一緒にいると言ってもいい。

 そのなかで一度もピアノを練習したことはない。だから栄純だけにはどんな誤魔しもできない。なぜピアノの演奏ができるのかと問われればもう手遅れである。

 さらに歩純は彼にはどんなことも誤魔化したくはない。そう初めて大喧嘩をしたあの日の夕焼けに誓ったのだ。気がつけば外の風景もあの日のような綺麗な夕焼けだ。

 歩純はこれからのことを考えて、どうしようかなと1人苦笑した。

 

 夕食の時間となり、いつも歩純のことを構い倒す栄純が静かである。妙によそよそしい所作に、一同はまた喧嘩でもしたのかと考えた。

 だだ栄純な何か考え込んでいる様子には不思議がった。若菜のみは喧嘩にしてはどこか雰囲気がいつもと違うことに気がついていた。

 だが、栄純の扱いは歩純に任せておけば何の問題もないと信頼していた。誰もが認めるお世話係だからこそなせる術である。

 

「またあのバカはなにしたの?」

 

 持参したお菓子を片手に夕食後、若菜がいきなり聞いてきた。「どーせまたなんか変なことでもしたんでしょ」と栄純をこき下ろす様に、栄純が迷惑かけてるだなあとしみじみしていたら、デコピンされてしまった。

 ありがたくお菓子を頂きながら、答えられる質問には返事をする。といってもあまり真面目には答えていない。いつも真面目に答えていないので、相手も怒っている様子は無い。

 ただ時間潰しに話相手が欲しかったのか、それとも想い人が落ち込んでいる様に居ても立っても居られないのか。あいかわらずの若菜の世話焼きぶりには感謝する。歩純はこの合宿で2人に進展があることを願うばかりだ。

 

 赤城小の男子で大部屋1つに人数分の布団を敷き、就寝の準備が始まる。各自、自分でシーツや毛布などを整える。

 やはり栄純と歩純は隣同士になる。みんな何故か栄純の寝相の悪さが簡単に想像できるらしい。そのことを指摘され、憤慨する栄純だったがおずおずと1番端のところに陣取った。

 最も入り口に近い位置だ。テキパキとベットメイキングを済ませた歩純はだれかを手伝うために周りを見回した。すると1人をのぞいて全員が栄純を手伝ってあげてという視線をくれた。あとの1人とは作業に集中して、気づいていない栄純だ。

 実際、1番遅れておりシワだらけに敷かれたシーツが悲惨だ。若干の気まずさを感じながらも共同作業で栄純と取り掛かった。向こうから何か言いたげな空気を感じたが、人が多いためか言い出すことは無かった。

 その後、初めての場所ではしゃぎすぎたためか皆んなすぐに眠りに落ちた。枕投げ等はしないらしい。

 あいかわらず、歩純は眠れずにいた。

 

 その後、寝静まったあと見回りの男性教諭が点検に来た。その後、眠りにつかない歩純は頃合いを見計らって用を足しに部屋を抜け出した。

 誰も起こさないように気をつける。特に入り口に向かうまでに栄純の近くを通るので静かに歩かなければいけない。

 もしかすれば今日は一睡も出来ない可能性が歩純にはある。せめて体だけは休ませてなければならないが、尿意を感じトイレへと急いだ。

 用を済ませて、手洗い場に立てば鏡に映る自分の隈が目立つ。幸い、栄純以外にバレている様子がなく、彼も誰かに話す様子がないためおおごとになることはないだろう。

 その栄純はさいほどの一件のあと思いつめたような顔をしていたので心配だ。と栄純のことを考えていたら、鏡に栄純の姿が映っていたので本気で驚いた。

 俯いて、暗い顔をしているので、余計に不気味さが際立っているのである。

 

「ほ、歩純、おれ……。」

 

 栄純がなにかを言い出そうとしたところで、見回りの足音が聞こえたので慌てて栄純の口を手で塞いだ。

 顔が近づいたことで栄純と目が合ってしまった。

 そういえば久し振りにちゃんと目を見た気がする。前に見た時よりもすこし目つきが逞しくなっている。初めて会った時から大きくなったな、と感慨深く少し年寄り臭いことを歩純は思ってしまった。

 いい機会だ、栄純としっかり話をしよう、そう歩純は腹をくくる。

 足音が過ぎ去っあと、栄純の手を引いて部屋には戻らずにどこか2人で話のできる場所をこっそり探した。先生に見たがらないように身を潜めて暗い中を歩くだけで、こんな時ではあるがウキウキしてしまう。

 ようやく例の小さな音楽室までたどり着いた。ここなら話をしても声が漏れることはないだろう。

 なぜか先程から驚いた顔ばかりしている栄純の話を聞いてみようじゃないか。

 

「さて、なにから話をしようかな。とりあえず、何か聞きたいことはある?」

 

 歩純はもう隠すことを辞めた。栄純は何かを伝えたいらしいがうまく話が纏まらないのか、なかなか口を開けない。

 しびれを切らした歩純が栄純にいつものような口調で自分の話を聞かせた。遠回りをする話し方で本題には遠い話を淡々と話す歩純だったが、いざ前世の自分のことや未来のことについて話す時が来た時に、声の震えを止めることが出来なかった。

 もし栄純に嫌われれば終わりだ、もし言いふらされたら終わりだ。栄純を信用していないわけではもちろん無い。歩純にとってはただ声に出すだけでもひどく緊張した。

 聞き手は静かに話を聞いていた。栄純はやっと歩純が話してくれたことがなにより嬉しかった。

 自分に何も言ってくれないのは頼りにならないせいだ、と思うことがあった。だから、歩純が話してくれるのをずっと待ちつづけていた。

 ただこの時の栄純に歩純の話している内容は難しく掴みにくい内容だ。いつもなら歩純が栄純のために噛み砕いて説明することが多いが、この時ばかりはそこまでの余裕は持ち合わせていなかった。

 だが、とても大事な話をしていることは栄純にも感じ取れる。じっと歩純の話をひたすら聞いてあげていた。

 自分が実は前世の記憶があること、栄純のことを漫画の中で知っていること、はからずとも自分のせいで無理矢理に興味を持たされたこと、すべてを栄純に打ち明けた。

 どれも栄純には難しい話で、ついて行くだけで精一杯だったが彼にはひとつだけ確かなことが分かった。

 

「いままでずっと嘘ついてるようで嫌だった。本当に済まなかったと思っている。僕のこと軽蔑したか?嫌いになったか?」

「ない!それだけは絶対にない!!」

 

 栄純にとって大人びた幼馴染の歩純はいつも憧れだった。よく落ち着きのない子やしっかりしなさいと怒られる栄純にとって歩純はいいお手本だった。

 もし歩純がそのことを鼻にかけるような人物だったら憧れたりはしなかっただろう。

 自分の幼馴染はいつも自分にペースを合わせてくれたり、物覚えの良くない自分に文句も言わず勉強を教えてくれたりする。自分のことを大切にしてくれていると感じられるからこそ、いつも比較されていても歩純のことを嫌いだと思ったことは一度もなかった。

 

「歩純は歩純だろ?何にも変わらないって。」

 

 実に単純なことだ。歩純に必要なことはただ素直に2度目の人生を受け入れることである。変わっていないと肯定してくれる相手、自分の特異さを受け入れてくれる相手を歩純は欲していた。

 そして、今度は栄純の話を歩純が聞く番だ。

 

「ちょっとは元気でたか?最近寝てなかっただろ?隈とかスゲーぞ。でも元気になってよかった。そんなんじゃ俺の幼馴染はスゲーんだぞって自慢できねーじゃん!そうだ!前に言ってた野球のコーシエン?ってとこ行けば、もっと歩純のこと自慢できるよな?俺と歩純となら絶対行けるって!」

 

 ああ、ああとしか嗚咽の混じった返事しか歩純には出来なかった。

 いつの日か、栄純の涙を掬ったこともあったが、すっかり立場が逆転してしまった。ただただ今は栄純の胸を借りて泣くことしかできない。

 目からは止めることをやめたように涙が零れだす。どういう訳か栄純の言葉は素直に心の中へ仕舞える。素直な性格が言葉にまで乗り移っているのかもしれない。1番そのことをよく知っている歩純だからこそ、1番彼の言葉が届くのかもしれない。

 惜しむべきはこんな時まで野球の話を持ち出す所であり、将来女の子を慰めるときにすこし心配である。

 

「ははっ、歩純の泣くとこなんて初めて見たぞ。あした雪でもふるんじゃね!?」

 

 実にくだらないことまで言う栄純に、素直な笑み零せるほどの活力を歩純は取り戻せたようだ。

 実は歩純が泣いたのは思い返しても赤ん坊以来である。あの春には出なかった涙が今は素直に溢れてくる。この日のことを歩純は一生忘れないだろう。

 後に振り返ってみれば、この時ようやく歩純が2度目の人生を歩み出したと言っても過言ではない。まるで産声のようにしばらくの間、歩純は流涕し続けた。

 

 その後、落ち着いた歩純達は寝床へと戻るためそれなりに苦労した。憑き物が晴れたようにすっきりした気分の歩純だが、肝心の相棒は非常に眠そうだ。

 普段の栄純の生活リズムならすでに寝ている時間である。瞼の重い栄純を連れて、見回りを避けるのは苦労した。主に栄純の動きがだんだと鈍っていくのを繋いだ手から感じたからだ。

 やっとの思いで部屋までたどり着くと、栄純が布団にそのまま倒れ込み、あっという間に寝付いた。世話の焼ける幼馴染に毛布をかけつつ、歩純も眠ることにした。

 窓からちらりも見えた月が綺麗だ。

 ひさしぶりにいい夢が見れそうだ。

 

 その日の夢ははいい夢なのか、ある意味いい夢ではあるが不思議な夢を見た。

 前世の自分と今の自分の2人がいて、まるで離れ離れでいた体と心が1つに混ざり合うような夢だ。人間のみせる夢など特に意味などないと言ってしまえばそれまでだが、眼を覚ますまでの間歩純は神秘的な余韻に浸った。

 デカルトの心身二元論にならえば、人間の心と身体とは別のものであると考えられている。「人間は心と体からなる」という表現や「精神はやれども肉体は弱し」のような体験は誰にでも憶えがある。

 心と身体の不和は歩純にとって深刻な問題であったが、2つが1つに生まれ変わった今はなんでも出来るような晴れやかな気分だ。

 

 

 朝、目が覚めた歩純は久し振りにモヤモヤの晴れた気分で起床した。なにかとても大事な夢を見ていた気がするが、よく覚えてはいない。

 昨晩はいろいろなことがあった。栄純に自分のことを打ち明け、あまつさえ号泣してしまったのだ。

 いまさらながに、恥ずかしさがこみ上げてきて、なぜか自分の手を握りながら眠っている幼馴染の頬を突いた。フニフニと指が埋まるたびに面白い反応が返ってきてついつい夢中でやりすぎた。しばらくして、寝ぼけながらも怒ってている栄純と布団を片付けて朝食のため部屋を後にした。

 

 今日の活動は午前中にまず自然についての講習を聞き、その後森の中でフィールドワークを行う。目を離すと森へと消えそうな栄純を止めることに苦労したのは言うまでも無い。

 昼食は野外炊飯だ。学校ごとに分かれ、そのなかで班ごとに食事を作る。メニューはカレーライスである。

 赤城小の場合、作れても2つの班の班であるため、先生の手が行き届きやすい。人数の多い学校の場合は完成までに非常に時間のかかった班も多かった。

 なお、2人の班は栄純の世話を同級生に託した歩純が手慣れた手つきでほとんどの工程を終わらせた。栄純以外の各自に役割を振り分け、効率よく作業を進めた。

 栄純には後で力仕事を手伝ってもらうことにしている。自重しない歩純は基本的になんでも出来る男だ。前世では料理といっても、手伝いレベルでしかなかったが、やる気を出した歩純は張り切った。自慢の幼馴染って言われてしまったからには張り切らないと男ではない。

 おそらく、全ての班のなかで1番早くに完成した。赤城小のもう1つの班に歩純が手伝いとして入り、ようやく全員揃って食事についた。

 みんなで口を揃えて、美味しいとかすごいとか褒めてくれるので照れ臭い気持ちになってしまう。栄純が1番誇らしげなのはご愛嬌だ。

 歩純もみんなで作ったご飯があまりにも良い出来栄えだったのでおかわりが止まらなかった。大食らいの歩純に男子全員がおかわりを要求し、鍋の底が見えるまでたべきることになった。

 洗い物を済ませてもまだまだ元気な男子達がやることといえば、外で遊ぶことである。

 もちろん栄純と歩純も混ざっており、どこから調達して来たボールとグローブでここまできても野球することになった。

 

 赤城小の男子達が遊んでいるところに、件のトラブルを起こした他校生がいちゃもんをつけてきた。

 なんでも女みてーなやつがいるところが野球してんじゃねーよ、場所を譲れ、ということらしい。流石の赤城小の面々も黙ってはいられず、強い口調で言い返す。歩純もせっかくのいい気分が台無しになり、眉間にシワが寄った。

 また取っ組み合いの喧嘩に発展しそうなは雰囲気である。そこで、歩純が仲介に入り提案してみた。

 どっちがここを使うか野球勝負で決めてみようじゃないかと。

 勝負となった他校生と赤城小の対決を聞きつけた人は多い。

 意外と注目度が高くゾロゾロと観客が集まってきた。その時、多くの女子生徒から声援を受ける歩純を見て、さらに件の生徒は頭に血が上ったらしい。

 

 勝負は1イニングのみで多く得点を取った方の勝ちである。

 だが赤城小の男子生徒は6人のみである。外野を守れるほどの人数はいない。そのため向こうの攻撃のみ内野を抜ければツーベースのヒットになる特別ルールを設ける。

 相手はこちらが素人しかいないと踏んで勝負を受けている。初心者のピッチャーからヒットを打つなど簡単だと思っているのだろう。そこを逆手にとればこちらに必ず勝機があるはずだ。

 両チームで誰がどこを守るか、ポジションと打順を決めるための作戦会議の時間に入った。

 

「栄ちゃ〜ん、どうするんだよ〜。」

「わははは、まかせろ!んで、どうするだ歩純?」

「任せろといって丸投げするなよ。」

 

 頼りない声で栄純に聞いていたのは同級生のなかでも1番心配性の男だ。人数不利を理解して不安になるのであろう。

 もっともな意見だ。栄純と歩純以外は皆同じような顔つきである。

 こちらから勝負をふっかけた以上不利と分かっていても後に引けないのだろう。

 だが、歩純がわざわざ負ける勝負を仕掛けることはない。十分勝ち目があり、向こうからすればまったく想像できないだろう。

 こちらの勝機はひとつである。栄純の持ち味のナチュラルムービングで打ち取る以外の勝ち筋はない。

 うちのチームに野球のルールを知らない子もいる。もちろんグローブさえつけたことがない。

 ゆえに、どこに誰を置くかが非常に重要となってくる。

 先ほど登場した心配性の男は野球で遊んだことがあるらしいので守備の要として置いておく。

 打ち取ることを前提とする以上守備には負担がかかる。そのなかで中心となる責任重大な役目であるが、了承してもらえた。

 内野の人選をおえ、残るは2枠である。

 投手は栄純以外ありえない。そして、また栄純のナチュラルムービングを初見で捕らえられる同年代も少ないだろう。捕手は歩純がやるしかない。

 むしろ初めから決まり切った予定調和だ。そろそろ栄純との個人練習だけでは飽きていたところだ。

 実践に勝る練習はない。大いに相手方には踏み台になってもらうつもりだ。

 

 

 表は相手チームの攻撃だ。件の生徒、歩純をよく揶揄いに来る生徒だが、どうやらジュニアのクラブチームに入っているみたいだ。

 大声でこちらを見ながらそのことを自慢し、こちらを挑発している。

 彼にしてみれば負ける気がしないのだろう。相手チームはその彼を四番に置き、確実に点を取りに来る打順にするようだ。

 さらに向こうのチームにクラブチームメンバーが他にもいないは限らない。そして出してくるなら、おそらく彼より早い打順に置くはずだ。

 

 対戦相手のことを観察しつつ、歩純は()()にグローブをはめた。残念ながら左利き用のキャッチャーミットは用意されていないようだ。左手用のグローブを歩純は感触を確かめように装着した。

 あれから、歩純は左手と右手の使い分けを何度も練習した。それでもやはり左を使った方が捕手として満足のいくプレイが出来た。

 歩純は右よりも左手で捕手をする方がより良い捕手になれる。

 今回左にしたのはどうしても負けたくないからである。前世は女であるが、なんども女、女と言われればさすがにすこし腹が立つ。さらに貶されているような言い方であるため印象が悪い。

 実は澄ました顔をして、歩純の虫の居所は非常に悪いものだったのである。

 

 味方が全員守備につき、相手バッターもバットを素振りしている。歩純は残り僅かな時間で栄純に何を伝えようかと考えていた。

 栄純にとっては初めての真剣勝負である。

 しかも大事な幼馴染を馬鹿にされ、絶対に負けられないと意気込んでいる。明らかに力が入りすぎているのである。

 勝てると言い切った手前、ここで負けてしまっては非常にカッコ悪いし、そんな姿は見せたくない。

 歩純はどう声をかけようか、何を伝えればいいのか悩んだ。栄純にならできるとか頑張れとかは素っ気なさすぎる。

 とはいえ、歩純には野球で語れるほどの哲学を持っているわけでもない。時間がない中で最も栄純の心に響くような言葉を探した。

 それでも探しても見つからないようであれば誰か人の言葉を借りればいいだけである。歩純は若干の申し訳なさを感じながらも、まさか自分がこの台詞を口にするとは思わずつい口元が緩むのを抑えられなかった。

 そうだ、どこかのイケメンキャッチャーの名言を頂こうかなと。

 

「栄純知っているか。最高のピッチングとは何か。」

 

 緊張で強張っていた栄純の顔が歩純のほうに向けられる。掴みとしては成功である。そのままたたみ込むように言葉を伝える。

 

「最高のピッチングってのは、投手と捕手が一体になって作り上げる1つの作品なんだよ。だから栄純は僕を信じて、このグローブに最高の球を投げてくれ。最強の幼馴染同士が組むんだ、最高の作品が作れるに決まってるだろ?あとはよろしく頼むぜ、相棒。」

 

 栄純のグローブの中に球を託す。右手のグローブで栄純の胸をトンと叩く。言わずとも歩純たちの仲ならば伝えられることは多い。それでも言葉に出して伝える大事さを昨日知った。

 どうやら栄純がいい顔になったようだ。

 これならば硬さが取れて、いつもどおりの球が投げられるだろう。その球が投げられるならそうそう打たれることはない。

 あとは歩純が栄純を最大限に生かすリードをするだけである。

 さあ、プレイボールだ。

 




前回のあとがきで言った料理(野外炊飯)ができて満足。さらにピアノまで弾けて女子力高いはず。

次の話は割と早く出来上がるかもしれません。

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