「黒い片羽の天使」
日名雄介は、そろそろお別れの時季がやってくる綾園学院の制服姿で海岸に立ち、目についた少女を盗撮していた。
「っ…あっち行ってよ! ヘンタイ! 人を呼ぶわよ!」
千羽谷第一高校の制服に身を包んだ仙堂麻尋が睨んでも、雄介は物怖じしない。
「ああ、ごめん。つい、あまりにも絵になる光景だったから♪」
そんな雄介のビデオカメラを持つ手首を、麻尋以外の女性が強く握ってきた。
そして冷厳と注意してくる。
「理由にならない理由だ」
ほんの偶然、海岸を散歩していた千羽谷大学法学部の鳴海沙子は鋭く雄介を睨み、彼の非をならした。
「神奈川県迷惑行為等防止条例、第二条、何人も、道路、公園、広場、駅、水泳場、キャンプ場、興業場、飲食店その他の公共の場所または汽車、電車、乗合自動車、船舶その他の公共の乗物において、次にかかげる行為をしてはならない」
「ぅぐ…、別に痴漢ってわけじゃないんだけど」
麻尋をひるませた雄介も、条文を暗唱されて、さすがに、ひるんでいる。さらに沙子の詠唱がつづく。
「第三条第二項、写真機等を使用して透かして見る方法により、みだりに衣服等で覆われている人の身体または下着の映像を見、または撮影してはならない」
「透かしてない! あれはソニー製の赤外線…」
「やはり悪意か」
「悪意なんてない! オレは、いい絵になってるから…」
「もはや話すことは無い!」
砂浜の上とは思えない華麗なバランス感覚で、沙子はハイキックを放って雄介の顎先を狙った。
「ぅぐっ…危っ…」
ぎりぎりのところで足場の悪さが幸いして、蹴速が普段よりも遅く、雄介は尻餅をつかずに済んだものの、ハイヒールについていた砂粒が顔にかかり、慌てて飛び退いた。
「いきなり蹴らなくても…」
「いきなりビデオカメラを向け、みだりに撮影された彼女の不快感を知るがいい。痴漢」
「うっ……。でも、すごくキレイな蹴りだったね♪ アクションシーンなんか最高に、いい絵になりそうだ。あなたは映画は好きですか?」
「本件とは無関係だ」
「……」
いつものように飛躍した会話で煙に巻こうとしたが、沙子は論点を外してくれない。
「任意に桜峰署へ同行するか、ここでワタクシに現行犯逮捕されるか、二つに一つだ」
「オレ、高校生だから! 少年法とかある!」
「少年法は不逮捕特権を与えてはいない。まして現行犯逮捕は会期中の国会議員でさえ免れない。覚悟することだ」
「………。…まいったな……許してもらえないかな?」
雄介は少年のような困った顔を浮かべてみたが、次の瞬間には沙子に一蹴されていた。
「痛っ…うわっ?!」
太腿を蹴られてバランスを崩したところに、さらに胸部への第二撃を受け、崩れつつもビデオカメラだけは海水に濡らさないよう、守って倒れる。映画人魂だった。
「もっ、もういいです! もういいです! それ以上、やめてください!」
「承知した」
当の被害者だった麻尋が叫んだので、沙子は矛を納めて逆に、少し震えている麻尋に気づいた。
「大丈夫か? 少し震えているようだが…寒いか、それとも…」
「…大丈夫です…。……助けてくださって、ありがとうございます」
沙子が握っていた拳を解いたので、麻尋は平静を取り戻して、礼をいった。
「本当に、ありがとうございました」
「気にしなくていい」
「強いんですね。…………。すごく締まってる」
二連続の蹴り技のために、大きく乱れた沙子の黒いブラウスから見えた腹筋に、思わず零した麻尋の感想で、見られた沙子は気を悪くしなかった。
「ふっ…わかるか?」
逆に少し筋力をため、腹筋と腕を際立たせてくれる。
「ああっすごい! すごい♪ キレてる。キレてる♪ すごく締まってる!」
「そうだ。ワタクシは単に細いのではない、無知で蒙昧な近頃の女どものダイエットとは違う。締まっているのだ」
「キャー♪ カッコいい」
「……。ふっ♪」
鍛えている肉体を絶賛されて嬉しくない人間はいない、そして麻尋も好きだった。
そんな二人から雄介は気づかれないように離脱していく。
「………」
女同士が盛り上がっている間に、なんとかビデオカメラを濡らさずに二人の視界から消えることができた。
「ふーーっ……。ハ…ハクション! ううっ…寒っ…」
真っ赤な制服が濡れて重い。それに、死ぬほど寒い。
「…………惜しい………。イッコーの彼女も、それに蹴りの彼女も、…逸材なのにな…」
ビデオカメラが壊れていないかチェックしつつ、独り言を零している。映画がからむと周囲が見えなくなる雄介は麻尋の映像を確認していた。
「この絶望に瀕している表情………実に……いい絵なのにな……」
さきほどの麻尋が水平線を見つめていた表情をリバースしている。
「………。仕方ない、諦めるか……今度見つかったら、蹴りの君に本当に警察へ突き出されそうだし……」
雄介は麻尋のことを諦め、別の一歩を踏み出していた。
「……うーーん……」
さっきと変わらず映画の材料を探して海岸からファインダーを覗いている。
「……あ」
そして、見つけた。
海岸から見える小高い丘の上に、ビデオカメラの最大望遠で捕らえたのは、吹きつける海風の中、さきほどの麻尋に勝るとも劣らないほど、絶望に瀕した表情で海と見つめている少女は、たしかに絵になっていた。
冬曇りの強風に吹かれながら、なにかを思いつめ、古びた教会の前に立ちつくしている。
「………」
海岸から丘まで、雄介にビデオカメラを向けられていることには肉眼では気づきようもない距離がある。
「………あの制服は……浜咲か…。それにしても……」
ファインダー越しに雄介は撮れた映像を反芻してタメ息をついた。
「それにしても、天使みたいだ」
そして、決意していた。
明日にも、少女を、陵いのりを捜して、声をかけようと決意していた。
しかし、その決意は延期されることになった。
日名雄介本人の寿命は延びたが、風邪をひいて寝込んだために。
六月、綾園学院卒の千羽谷大学芸術学部一年生である雄介は卒業生でもないのに、ごく当たり前に浜咲学園の校舎に無断で侵入し、かつ音楽室を見つけ、さらにピアノを練習している少女を堂々と盗撮していた。
「……」
「……」
いのりは一心不乱に鍵盤を奏でている。
雄介は静かに撮影している。
ファインダー内は、いい絵になっているが、二人の光景は変だった。
「……ぁ…」
いのりが曲目を終えてから、やっと雄介の存在に気づいた。
「…あの…」
「ショパン、ピアノ協奏曲第一番、ロマンツェ・ラルゲットかな?」
「あ……はい、そうです」
あまりにも平然と撮影を続けられているので、いのりは警戒心を抱けなかった。雄介は私服で明らかに生徒ではなかったけれど、カメラを持つ手つきからプロフェッショナルなものを感じ、卒業アルバム制作の業者か、若い新任教師なのだと思い込んだ。
「オレに気にせず、演奏をつづけて」
「はい」
言われたとおり、いのりは素直に練習を再開した。
一曲、二曲、さらに三曲も弾き終えてから、さすがに自分ばかり撮影されているので、いのりは指を休めて問いかける。
「あの、私ばかり撮っていていいんですか?」
「もちろん♪ ボクは君を撮りに来たんだからね」
状況によって無意識に「オレ」と「ボク」を使い分ける雄介は柔和に微笑み、いのりの困ったような笑顔も記録している。
「えっと……先生ですか? カメラ屋さんですか?」
「ボクは千羽谷大学の一年生、芸術学部なんだ。映画を作ってる」
「映画を? あ、それでカメラを……っ?!」
ようやく、いのりは自分を何の必然性もなく勝手に撮られていることに気づいた。
「どうして私を撮ってるの?!」
「とても、いい絵になっていたから」
「…………。や、やめてください。困ります」
「ごめん」
素直に謝った雄介は、いのりに怒られる前に別の話題を提供する。
「あの校門のところに立っている……黄色いの、なにかな?」
「あ……あれはレモンです」
いのりの答えに、今度は雄介が考え込む番だった。
「レモン……。……たしかに、レモンかもしれない…」
「はい、そうです」
「……うーむ……。たしかに、レモンだ」
雄介は撮影対象を校門に立っているレモンに替えた。
レモンは縦1.5メートル直径1メートルはある巨大なもので、しかも黄色い手足がはえている。明らかに着ぐるみ、明らかに人間が入っている様子だった。
「言われてみれば、レモンだ。……けど……どうして…」
「そんなこと誰も知りません。あの先生、赴任してきたときから変なんです」
「先生なのか?! どうして、あんなとこに?」
「今日の放課後立ち番が南先生だからだと思います」
「立ち番……」
「あの……大学生ですよね? 去年まで浜咲にいたんじゃ? 浜咲の生徒で知らないはずないのに…」
「ボクは綾園学院だったよ」
「綾園……あの赤いところ?」
「そう、赤いところ」
「…あそこ、どうして赤なんですか?」
「三倍だからじゃないかな」
「サンバイ?」
「それより、どうして、あの先生はレモンなの?」
「それは誰も知らないんです」
「理由はともかく、暑くないのかな? もう六月…」
「あの中にはアイスノンが入っていて、内部は快適だそうです。雨が降っても防水するらしいですし、立ち番用に開発されたそうです」
「………浜咲の先生って、ユニークなんだね。オレも浜咲にすればよかった」
「あの先生だけです」
いのりは雄介のことも新任の教師ではないかと思っていたのに、まったくの部外者だとわかり勝手に撮影されていたことが気になってきた。
「……」
「ピアノ、すごくキレイだった」
「あ…、いえ…。教えてくれた先輩がステキだっただけのことです。白河先輩に習ったから」
「白河って、あの白河ほたるさん?」
「はい。ご存じなんですか? やっぱり有名ですよね」
いのりにとって自分の技術より、習った人物の方が自慢だったので話した相手が知っていたことは嬉しい。それにピタリと曲名を言い当てた芸術への造詣の深さも好感度だったが、それでもまだ無断で撮影されたことの嫌悪感の方が大きい。
「オレ、白河先輩と同じ藍ヶ丘第二中学出身だったから、学校の式典とかで何度も演奏を聴いたし、中学コンクールで連続優勝していたのも有名だったからね」
「私も、私も藍二中です!」
いのりは出身中学が同じだったというだけで、もう無断撮影した部外者への警戒心は消えていた。そして気づいた。
「あ……、……もしかして? ………もしかして、サンバカトリオ?!」
「……」
雄介は少し痛そうな顔をして、それでも彼らしくスマイルを作った。
「昔、そう呼ばれていたことも、あったね。春人や修司と色々バカをやったから」
「それじゃ日名さん? あの日名あすかちゃんのお兄さん?!」
「そういうことになるね。………平安娘さん?」
「あうっ……その名前で呼ばないでください」
いのりは両手で頭を押さえた。
「髪、伸びたねぇ」
「タモルのマネですか? ぜんぜん似てません」
二人とも同じ中学で一つ違い、そして二人とも学年内で目立つ特徴を持っていた。小学校区は別々で近所とはいえないが、遠い仲でもなかった。
「この長さだと、中学からも切ってないね? あすかと白河先輩も長いけど、陵さんのは格別だね」
「冬は暖かいんですよ。これからは暑くて大変だけど」
もう警戒より懐かしさが勝っていて、なぜ、大学生が出身校でもない高校に侵入し、勝手にピアノ演奏を撮影していたのか、という疑問は想い出の彼方に消えていた。
CUM研の部室で河合春人は名残惜しそうに「光の階段」と題名の印刷された脚本をダンボール箱に投げ入れた。
「雄介、これ、もったいないぞ。いい脚本じゃないか? これで撮ろうぜ」
「オレだって惜しいとは思うけど、この脚本のイメージに合っていた役者を口説き損ねてな。仕方なくさ」
「口説き損ねて、ねぇ…なら仕方ないか」
春人は納得したが、隣で聴いていた観島香月が意味ありげに微笑んだ。
「雄介が女を口説き損ねたなんて、槍でも降るんじゃないか?」
「蹴りが降ってくる」
「「…………??」」
「それに、もっと別の脚本のために、別の役者を口説いているとこさ」
香月が冷たい目になった。
「また女だな? お前ってヤツは…」
「もう一度、香月を口説いてみようかな♪」
「願い下げだ。お前のストーカー行為には、うんざりなんだ。登下校を問わず、人の周りをカメラをもってウロチョロしてくれて……ストーカー防止法ってものを知ってるのか?」
「うむ。香月、正確にはストーカー行為等の規制等に関する法律だ。ちなみに、その定義は、特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情または、それが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、当該特定の者またはその配偶者、直系もしくは同居の親族その他当該特定の者と社会生活において密接な関係を有する者に対し、つきまとい、待ち伏せ、立ちふさがり、住居、勤務先、学校その他通常所在する場所の付近において見張りをし、または押しかけること、だ」
「雄介そのものじゃないか?! 私の通学路に待ち伏せしたり!! 執拗に私を口説いて立ちふさがったよな?! 今からでも訴えてやる!! まだ時効はきていないはずだ?!」
香月が事務机を叩くと、雄介は肩をすくめて笑った。
「よーーく思い出してくれ。オレが香月を口説いたのは、高校に入って間もなくだ。つまり2000年4月8日の入学後から夏休みまでくらいの話」
「それが何だ?!」
「2000年は元号では平成12年、そしてストーカー行為等規制法は平成12年5月24日の公布で施行は11月24日。香月の16歳の誕生日の五日前♪ つまりは規制される前だ。罪刑法定主義からいってオレの行為は正当だ」
「くっ……駆け込みか……。せめてカレーの10杯くらいオゴらせようと思ったのに…」
「それに、時効もきている。たとえ、不法行為だったとしても、その損害賠償請求権の時効は加害者および損害を知ったときから3年だ。つまり、つい先月あたりに時効がきている♪」
「雄介ぇえ! 貴様っ!!!」
香月が悔しがって事務机を叩き、春人が首を捻った。
「ていうか、なんで、そんな詳しいんだ? 芸術学部のくせに。法廷映画でも撮るつもりか?」
「基礎法学は一般教養にあったじゃないか」
「にしても、詳しすぎだぞ」
「ちょっと、いろいろあってな。少し自分の行動を客観視しようと思って調べてみた」
「「…………もっと客観視しろ」」
「はは、ははははは♪」
「「笑って誤魔化すな!!」」
「人生を恐れてはいけな…」
「「恐れろ! 雄介ぇお前は! 都合悪くなると、そればっかりじゃないか!」」
くだらない大学生同士の会話だった。
七月、高体連中の浜咲学園で、いのりはピアノを練習していた。かつて伊波健がよく座っていたイスに今は雄介が座っている。いのりが休憩に入ると、問いかけた。
「今日は鷺沢くんは、どこで試合?」
「イッシューは二会戦だから澄空学園とです。私も応援に行きたかったのに、明日、コンクールの予選があるから……残念だなぁ…」
恋人の試合を見に行けない愚痴をこぼすのみて、雄介は相槌をうつ。
「それは仕方ないね。ボクは二人とも勝利の女神に愛されるよう祈っておくよ」
「ありがとうございます。でも、ほたるさんみたいには、なかなか…」
「大丈夫、願いは諦めなければ…」
いのりも何度も聞いている言葉で励ましてくれるので、意趣返しにポケットから人形を出して祈る。
「ソウチンチャンソウチンニャン…」
「…願い続けていれば…」
「…どうかイッシューのチームが勝てますように…」
二人とも十八番フレーズを繰り返している。マイペースな人たちだった。それから、いのりは机の上にランチボックスを置く。
「夕べ、イッシューの必勝祈願で作りすぎて、イッシューに渡しても余ってしまって……イッシューは、いつも美味しいとしか言ってくれないんですけど、本当にうまく味付けできてるか、不安なんです。率直な感想を言ってほしくて」
「かのイタリアの作曲家は音楽家であり美食家でもあったけれど、至上のステーキとして牛肉のうえにフォアグラとキャビアを乗せて自分の名前を冠したそうだ。さて、日名雄介のクエスチョンタイム♪ かの作曲家とは誰のこと?」
「ぁう………日名先輩のクエスチョンって、なぞなぞじゃなくて本当に知識がないと解けないから…ぅぅ…せめて、ヒントをください。その人が作曲した曲名をいくつか、とか」
「絹のはしご、湖上の美人、アルジェのイタリ…」
「ロッシーニ!」
「正解♪ 賞品は自動販売機の飲み物、ということで何がいい?」
雄介は注文を聴いてから、いのりの頼まれたミルクティーと自分のためにブラックコーヒー、それにホットナタデココ・ジュースを二本も買ってきた。
「オレの仲間は、どうにも理解してくれないんだ。陵さんの率直な感想を訊きたくて♪」
「ホットナタデココ・ジュースですか……これ、買う人……はじめて見ました。と、とりあえず、どうぞ食べてください」
いのりが差し出してくれたランチボックスを、なぜか雄介は彼らしくない緊張した面持ちで開く。
「いただきます。……お、まともだ」
「……あの……それ、…どういう意味ですか?」
「あ、いや…失礼。見た目が、まともだったもので、つい…」
さらに彼らしくない失言をつづけ、いのりが頬を膨らませた。
「味付けも、まともなつもりです!!」
「ごめん、ごめん。本当に、ごめん。つい、ボクの妹や母と同じレベルだったら、どうしようかと、…はは、…は…」
「……………」
「いただきます」
雄介は一口食べて、黙り込んだ。
「……………………。………」
「………」
「……………うまい」
「今さら、いいです。今の反応でわかりました」
「ちがう、ちがう! 本当に、うまい!」
「いいんです。イッシューも美味しいとしか、いってくれないし……その理由がわかりました」
「誤解だ! オレは本当に感動しているんだ! 信じてくれ! 本当に、うまい!」
「……」
「最高に、おいしい! 君は料理の天才だ!」
「もう、いいです……日名先輩が、そんなヒネりのないこと言うあたり、わかってます。お詫びに、これは甘んじて飲みますから、正直に味のこと話してください」
いのりは自棄になってホットナタデココ・ジュースを一気飲みした。
「……………う…っ………甘い…」
いのりの額に汗が浮かぶほど甘く温かく、今は七月だった。音楽室でも、外から蝉の声が聞こえてくる。どうして業者が、この季節にまで販売しているのか、いのりは目まいがするほど疑問に思った。口直しにミルクティーを飲んでも重ねて甘いだけで解決できない。思わずブラックコーヒーをもらって、やっと落ち着いた。
「…ハァ……ハァ……日名先輩が、無糖のコーヒーを飲むわけがわかりました」
「苦いのと甘いのが絶妙だろ? ちなみに、あすかは連続でコレを飲む」
「うぅ……よく、こんなの連続で飲んで太らないですね…」
「カロリー計算はしているみたいだからね。一応は一日5本までらしい」
「でも、これ300キロカロリーは………これだけで1500……女の子の基礎代謝は…」
「運動もしているからさ。よくオレも腹筋運動の手伝いをさせられる」
「ふふ、妹さんのこと好きなんですね」
「妹を恐れてはいけない。妹に必要なのは根気と包容力、それと、ほんの少しのお金だ♪」
「…ジュース代、とかですか?」
「正解♪」
「……やさしいんですね。イッシューにも可愛い妹さんがいて。よく挨拶してくれるの」
「苦手?」
「え? ……どうしてですか? 私、まだ何も言ってないのに…」
「顔に書いてあるよ」
「う………。日名先輩って何でもお見通しなんですね。………。正直、ユカリちゃんのこと、ちょっぴり苦手です。でも、わかってるんです。ユカリちゃんすごくお兄さん子だったみたいだから。よくありますよね、お兄ちゃんの彼女にヤキモチ妬くって……はぁぁ…」
「義妹を恐れてはいけない。義妹に必要なのは年季と忍耐力、それと、ほんの少しのお金だ♪」
「……クスッ…」
いのりは目を丸くしてから、笑い出した。
「あはは、日名先輩、可笑しい、うふふ」
「そうかな?」
「だって、結局、なんでもお金がいるみたいで、ロマンチックなんだか、お金で解決するだけなのか、不明で…クスクス…」
「チャップリン自身が演じたモダン・タイムズじゃ、そのほんの少しのお金のために労働者は尊厳を奪われる。それを風刺していても、やっぱりお金は必要だって、ことさ。ボクも、近頃あすかとうまくいってなくてね」
「そうなんですか? 私、一人っ子だから、うらやましいですよ」
「家族だけに、いろいろ……それでプレゼントを探して、あのときも海岸にいたんだ」
「……貝殻探しでしたよね。だからって、私の姿を撮影しないでほしい…」
いのりが何度も言った文句を繰り返すと、雄介は罪のない笑顔を作って追求を逃れる。あの母と妹に挟まれて育った雄介が持つ本能的無意識的な表情だった。
「ごめん、あまりにも惹かれたから。あのときの君は天使みたいに見えたよ」
「………。私が? 天使? …………。日名先輩、眼鏡を買い換えた方がいいです」
いのりは拒絶するように顔を逸らしたが、雄介は追求した。
「あのとき、君はどうして教会に? 一人だったよね?」
「別に、散歩していただけです」
いのりは答えないつもりだったけれど、それでも零した。
「もしも…」
「もしも?」
「もしも、記憶の、ある一部分だけが削れているとしたら……、それは想い出した方がいいの?」
「……どうかな…」
あまりにも漠然とした問い、さすがに雄介も困った。
その困った雄介に腹を立てたように、いのりが追い打ちをかけてくる。
「もし、その削れている部分に、別の人がウソを入れているとしたら……それは、やっぱり罪、…なの、かな……?」
「………」
「でも、そのウソさえも、忘れているなら………。どう思いますか?」
「……………。……どうかな……。……今日のナゾナゾは、とくに難しい…」
「これはナゾナゾじゃないから」
「……」
「私が殺したのかも……しれない。………友達だったのに…」
「え?」
「私、人殺しなんです。だから、バレないかと毎日ヒヤヒヤしているの」
「………本当に?」
「……」
いのりはランチボックスを片付けて、黙って鍵盤の前に座った。
「明日、一次予選だから仕上げないと」
「………」
「日名先輩、もうお弁当の味付けはいいです。その代わりに、私の演奏に足りないものって、なにかわかりますか? ほたるさんは自分でわかるときがくるまで、わからないものだって、教えてくれなくて」
「……。調べてみるよ」
「調べる? 私をストーキングでもするんですか? そういうのは、ヤダなぁ…」
「違うって、君の演奏と白河先輩の演奏、それに他のピアニストが弾いているCDとかを聞きくらべて調査してみるってことさ」
「え……」
「?」
「……意外と……まとも、な…方法…」
「……それ、…どういう意味かな?」
「え……へへへ、…つい、いつもの行動から…。ごめんなさい、でも、さっきの仕返しです♪」
いのりが気を取り直して練習を再開したので、雄介は演奏を聴き取ることに集中した。
お盆休みの後半、8月17日ともなると客足は減ってくるが、それでも「ならずや」は繁盛していた。
「「いらっしゃいませ」」
疲れを隠して野乃原葉夜と鷺沢一蹴が挨拶したのは、ケーキの予約を入れた学生だった。とくに千羽谷大学が近いために、学生客は多い。
「頼んでおいたケーキ、できているかな?」
「はい。少々お待ちください。のんちゃん、頼む」
一蹴は他の客に呼ばれていたので、葉夜が担当して冷蔵庫からケーキ箱を出して会計を始める。
「特別注文のブルーベリーホールケーキ、こちらでよろしいでしょうか?」
「はい、ありがとう」
雄介と葉夜は他人行儀に応答し、支払いを済ませる。ケーキ箱を持って店を出ようとした雄介に、接客業としては違和感のある調子で葉夜が確認してきた。
「本当にブルーベリーでよかったんですか?」
「え?」
「だって、四日も早いから」
「……。……知性は君にこそ、ふさわしいね」
雄介は目を丸くして驚いてから、微笑んで答える。
「ノノハラさんのお誕生日は?」
「5月4日♪ ピーーースッ♪」
「苺のケーキも、よく似合いそうだ。花言葉も幸福な家庭、無邪気か……そのものかも、しれないね?」
「…ピーースっ♪ また、お越しください」
「ありがとう」
店を出た雄介は千羽谷駅でシカ電に乗り、まっすぐ陵家へと足を運んだ。チャイムを鳴らすと、いのりがドアを開ける。
「あ、日名先輩。どうして?」
「君の演奏に足りないもの、それと四日も早いけどブルーベリーのケーキをよかったら、と思って」
「あ、本当に調べてくれて……、ありがとうございます。どうぞ、あがってください。いま、お茶を淹れますね」
「おじゃまします」
ピアノの部屋であり応接間でもある部屋に入った雄介に、いのりが告げる。
「どうぞ、座って自由に寛いでください。あ、でも、自由といっても撮影とかはしないでくださいね」
「ふっ…お見通しか♪」
いつもポケットに入っているビデオカメラの電源は切ったまま、雄介はソファに座った。すぐに、いのりが紅茶とケーキをテーブルに置いた。
「それで私の演奏に足りないものって、いったい何でした?」
いのりが訊きたかったことを単刀直入に持ち出してきたので、雄介もティーカップに手を伸ばさず、すぐに答える。
「音が編み込まれていない」
「音が…? 編み込まれてない? って、どういう意味ですか?」
「ボクは演奏なんてしたことないから、聴く人間の立場としてしかアドバイスできないけど、君の音には情感が無いんだ。まったく無いわけじゃないけど、プロピアニストと比べると、すぐにわかるよ」
「情感……ですか……、それは静流さんにも、言われたかも………。でも、情感っていわれても…」
「たぶん、君は楽譜通りに弾くことに集中しすぎて自由度がないんじゃないかな? ピアノ曲は楽譜通りであることが大前提であっても、電子ピアノとの違いはタッチにあると思う」
「はい、それはそうです」
「ボクには技術的なことはいえないから、抽象的にならざるをえないけど、音が編み込まれていない、と言ったのは、織物を考えてほしいからさ」
「織物?」
「ああ、糸は一本では線にすぎない、けど、織り上げられていくと、次元が一つ増えて、そこには平面ができあがる。けれど、作り上げられる平面の…」
「?????」
「ごめん、君は数学が苦手だったね。うーーむ……一本一本の糸だと、糸は糸だけど、糸にすぎない。けど、何百本の糸が織り上げられれば、絵にもなるよね?」
「あ、はい」
「でも、逆に何百本の糸でも、ただ寄り集まっただけじゃ糸束にすぎない」
「はい」
「音にも同じことが言えるんじゃないかな? 楽譜に従った適切なタイミングで適切な強弱で鍵盤が叩かれたとしても、そこに人間の意図や感情が織り込まれていないと、ただの音の寄り集まりにすぎない。音と音が絡み合って絵にならないと聴衆を感動させる作品には仕上がらない。人を感動させることができなければ、それは芸術にはならない。ボクは、そう思うよ」
「……………日名先輩の言うとおりだと思います………」
いのりは答えた後、黙り込んだ。
それから、問いかける。
「でも、どうやったら、それができるんでしょうか? ……」
「………」
「あ、すいません。そこまで日名先輩に頼るなんて、私って……」
「コンクール直前に君を混乱させることになるかもしれないけど、一つ方法はある。試してみるか、どうかは君次第だけど…」
「やります!!」
「即答か」
返答が前向きだったことに雄介は好感を覚え、それを表情に出してから立ち上がって応接間の本棚を眺める。棚には楽譜が並んでいた。
「試す曲の条件は…」
「……」
「君が目を閉じていても弾けるほど暗記している曲がいい」
「目を閉じていても……何曲かなら、完全に暗譜しています」
「その中でも……」
雄介は棚にあるチャイコフスキーの「交響曲第6番ロ短調 悲愴」とタイトルのある背表紙を指で撫でる。
「悲しみか、絶望を君自身が強くイメージしてしまう曲がいい」
「私が、悲しみか、絶望を?」
「そう、クラシックには歌詞なんてないし、あっても日本語じゃないからね。聴いていると、勝手なイメージで、その曲を聴いていることがないかい?」
「あります。魔笛とか、ジュピター交響曲とか、私には楽しく聞こえてしまいます」
「モーツァルトが優しいからかもね。ボクはドボルザークの新世界が最高に気分が良くなる。まるで新世界の神にでもなれるような気分、この世界に神がいるとしたら、それは、すなわちボクだ! そんな気分に……話がそれたね」
雄介は眼鏡を指で押してから、いのりを見つめる。
「悲しみ、絶望、それを君がイメージする曲は?」
「……………」
いのりは少し考え、雄介の隣に立って本棚から楽譜を出した。
「これです」
「意外……だな。月光とは……。本当に人の感性をは、それぞれだ。ボクには、優しい月の光ってイメージだけどね」
「ほたるさんも弾いていた曲ですけど……私には、これが優しいけど、悲しい、冷たくて、寒い、月の世界、日の当たらない、太陽とは違う、死の世界。……でも、地球の夜を照らす月は………なんだか、絶望的なんです」
「いいさ、君自身のイメージが大切なんだから」
雄介は楽譜を眺めてみたが、博学な彼にとっても音楽史は既知の世界であっても、楽譜そのものは理解不能な記号の羅列だった。
「それじゃ、少し弾いてみて」
「はい」
いのりは普段通りにピアノを奏でようとしたが、雄介は彼女の肩に手を置いて語りかける。
「ただし、手が留守になってもかまわないから、君は心の中では、あのときのこと、あのとき、君が教会で想っていたことを強くイメージしながら弾いてみて」
「……………」
いのりが驚いて雄介を見上げた。
「……」
「……」
「………それが、私に必要だと、どうして言えるんですか? なんでも人のことをわかっているみたいに…」
「わかろうと努力した結果、この答えに辿り着いたつもりなんだ」
「………」
「弾いてみて」
「…………はい」
いのりは演奏を始めた。
はじめこそ旋律は整っていたが、すぐに乱れ、音を間違えることもしばしばだった。
それでも最後まで弾き終えた。
「………」
弾き終えた後、いのりは濡れそうになった頬を指で拭いた。
「とても感動した」
「ウソです。間違いだらけで…」
反論しようと見上げると、雄介が眼鏡を外して目元をぬぐっている。
「本当に感動した。感動とは感情を動かされること、喜怒哀楽、どちらの方向であってもね」
「………」
「君が持っている感情の一番に強い印象はボクの中では、あのときの君の表情なんだ。まるで片羽の天使が、人間界を見つめて…」
「勝手なイメージを! 私に押しつけないでください! なにも知らないくせに!!」
「……。ごめん…」
「あ、…いえ、その…私こそ……本当に、すいません」
「いいんだ。ボクが勝手なイメージを押しつけて、映画に出演してほしい、なんて依頼してるのは事実だからね。それを怒るのは君の権利だ♪ 今度は、いっそ今の怒った気持ちでビバルディの四季でも弾いてみないか?」
「………。まったく、もお、……今の気分は、猫踏んじゃったです!」
いのりは一曲激しく弾いてから、ケーキを食べて「六時から、ほたるさんが来てくれる約束なんです」と言って雄介と別れた。
都内の音大から新幹線で帰郷していた白河ほたるは後輩の上達ぶりを絶賛した。
「すごいじゃない、いのりちゃん♪ ぜんぜん良くなってる!」
「そう、ですか? 五つもミスしちゃったけど…」
「そういう技術とは違うとこが、ぜんぜん良くなってるの♪」
「エヘヘ…。でも、五つもミスがあったら、月末のコンクールじゃ落選ですよね」
「は?」
ほたるが目を丸くしている。
「いのりちゃん、月末のコンクールって何?」
「コンクールは……コンクールです。え……ほたるさんも金賞だったじゃないですか?」
「…………あのさ、いのりちゃん、あのコンクール………三月中旬になるって、知らないの?」
「えっ?! えええええ?!」
「……知らないんだ……っていうか、自分が出場するのに……、ほら、ここにも印刷してあるよ」
ほたるはリーフレットの開催日を指した。明らかに八月ではなく三月だった。
「えええ?! だって、ほたるさんが出場したのって夏休みの最後で! 私も聴きに行きましたよ?! なんで、三月に変わってるの?!」
「ご都合主義じゃないかな?」
「……ご都合主義……ですか…」
「うーーん……むしろ、八月末の開催の方が、無理があったの」
ほたるはカレンダーを指した。
「そもそも、金賞の人はウイーンに留学できるっていっても、金賞になるか、どうかは最後までわからないでしょ?」
「は…はい…、普通そうですね」
「で、金賞だったら新学期が始まる9月までにはウイーンへ渡れ、なんてムチャな話だと思わない? ほたるじゃなくても蹴るよ」
「……。そうですね」
「パスポートだって申請に二週間はかかるし、だから金賞が決まる前に候補になってる子たちは無駄になるかもしれないのに申請しなきゃいけないし」
「あ、そっか。私、万が一、八月末で金賞とれたらパスポートが無い……」
「でしょ? それに高校の卒業資格も曖昧になるから、いっそ、三月に開催して金賞だった子は、次の九月に行くってことで解決したらしいよ。ほたるが蹴ってから、そうなったのだ♪」
「……。そうだったんですね」
「あと、いのりちゃんは万が一じゃなくて十分の一くらいの可能性で金賞とれるから、あんまり謙遜しないの!」
「は、はい! あ、でも、イッシューと日名先輩にコンクールの日にちを…」
「ヒナセンパイ? って、誰?」
「あ、日名雄介先輩のことです。ほたるさんも藍二中でしたよね、それじゃ知りませんか?一つ上、ほたるさんからだと一つ下の。ほら、このケーキと、それに私の演奏に足りないものっていうのも…」
いのりはケーキを勧めてから、雄介とのことを話した。
話しているうちに九時を過ぎていたが、ほたるは後輩の説明を聞き終えてから、冷めた紅茶を啜り、言い放った。
「なにそれ?」
「へ?」
「トボけなくていいよ……それとも、自覚もないんだ?」
「自覚って……」
いのりは先輩の声が冬の校舎のように冷たいので焦った。なにか機嫌を損ねるようなことをしたのかと思い返すも、思い当たらない。
「あ…あの、私、ほたるさんを怒らせるようなこと…」
「ほたる的には第三者だけど。あんまり許せることじゃないかな」
「……」
「まだ、わかんないの? いのりちゃんのやってること、ただのフタマタだよ」
「あ……。あ、…か、勘違いです! ほたるさん誤解してる!」
「誤解…ねぇ…誤解かぁ…」
「誤解です! 日名先輩とは、そんなんじゃありません」
「ふーん…」
「だ、だいたい日名先輩は私がイッシューと付き合ってること知ってるんですよ?」
「で?」
「ほたるさんは飛世さ…」
パシッ!!
いのりの頬と、ほたるの手が強烈な音を立てていた。
「人のことはいいでしょ?! だいたい、どうして、いのりちゃんが知ってるの?! 私が一度でも話した?!」
「……」
いのりでなくても浜咲から澄空までのシカ電沿線の一帯で女子高生なら知らない者はいないといっていいほど、有名な話だった。健はサッカー部員としても、いくつかの乱闘などの武勇伝を持ち、校長まで殴っている。ほたるもピアノにおいては学年で日本一だったし、そんな二人が夏休みに破綻しかけ、さらに未確認情報とはいえ、秋の学祭では女子水泳部の美人キャプテンとキスをしたという噂まであっては有名になるな、という方が無理だった。
「人の彼氏が、ほんのちょっと浮気したくらいのこと!! そうやってコソコソ噂話にして楽しいの?!」
「……すいません、……」
「どうして知ってるの?!」
「……風の噂で……ちょっと……小耳に挟んだ程度です…」
「風の噂ってなに?! 風が話すんだ?!」
「……いえ…」
「小耳ってなに?! その頭に着けてる白い変なのが小耳のつもり?!」
「…いえ……すいません……ごめんなさい。……何も知りません…」
「……………。……今は健ちゃんは、ほたるとだけ付き合ってるの。変な噂とか、絶対やめて」
「はい、絶対しません」
「……」
ほたるは憤って立ち上がっていたが、やっと自分が我を忘れて怒鳴り散らしていたことに気づいて、ソファに座り込み「怒鳴って、ごめんね」と付け足した。
「……」
「……」
「いのりちゃん、一蹴くんに日名くんのこと話してる?」
「あ……いえ、あんまり……」
「あんまりって……少しは話したの?」
「いえ……出会い方がストーカーみたいだったし、話すと心配かけるかも…」
「嘘っぽい」
「嘘じゃありません!」
「あのね、いのりちゃん。………」
ほたるはタメ息をついてから後輩にわからせる。
「恋人に話してない親しい異性がいて、恋人が部活とかバイト中に、こそこそ会いに来てくれて、誕生日前に彼氏をさしおいて誕生花にひっかけたケーキまでくれて、それで自分もまんざらでもなさそう、っての問題じゃないんだ?」
「ぁ……ぅ……で…でも、日名先輩には、いろいろと相談に…」
「一蹴くんにもしてない相談を?」
「日名先輩は音楽にも詳しくて…」
「音楽なんて知らないおおざっぱな彼氏より、ちょっとキザでもハンサムな賢い大学生の方が、ステキに見える?」
「そんなこと言ってません! だいたい、ほたるさんは日名先輩の何を知ってるんですか?!」
「まあ……いろいろと中学時代に……河合くんとかと、問題を起こしてたね。盗撮したとか、しないとか。……三上くんとは違うタイプの問題を、いろいろと……。ま、健ちゃんだって校長先生を殴ってくれたし♪ ああいうのならいいんだけど…」
「……」
校長先生を殴るのは一番問題だと思ったけれど、いのりは黙っておくことにした。
「あくまで、いのりちゃんはフタマタじゃないって言いたいの?」
「はい」
「じゃ、どうして日名くんは毎日のように、いのりちゃんに会いに来るの?」
「それは映画に出演してほしいって…」
「なかなか、いい口実だよね、それ」
「口実って…」
「いのりちゃん……本当に日名くんの好意に気づいてないの?」
「こ…好意?!」
「どう考えても、日名くん、いのりちゃんのこと好きだよ」
「ま、待ってください! 私なんかが、あの日名先輩に好きになってもらえるわけ…」
「好きって言われたら、どうするの?」
「………」
「あ、即答じゃないんだ?」
「こ、断ります! 私にはイッシューがいるんだから!」
「即答じゃなかった」
「とっさに混乱したからです!」
「そんな必死ならなくても」
「ほたるさんが変なこと言うから!!」
「変なこと? 変なことかな? 変なことか、どうか、一蹴くんに説明して訊いてみよっか?」
ほたるがケータイを出したので、いのりは焦った。
「やめてください! イッシューは試合で疲れてるのに!」
「ひどいよね、彼氏が一生懸命に試合してたのに応援にも行かないで…」
「そういう言い方やめてください!!」
「やめない。だって、いのりちゃん自己欺瞞してるもん」
「してません! 日名先輩とは純粋に先輩後輩ってだけです!」
「それじゃあ、どうして夏休みに入ってから、一蹴くんと会ってる時間より、日名くんとの方が多いのかな? さっきまでの説明だと、明らかに多かったけど?」
「それはイッシューが、ならずやでバイトをしてるからです。夏休みに一気に稼いで冬にそなえるって。私だってピアノの稽古とか…」
「ああ、そっか。バイトで相手してくれない恋人より、いっぱい自由な時間がある大学生に、こっちの都合に合わせてもらった方が、便利だもんね」
「………いい加減にしてください……」
「いい加減に認めたら?」
ほたるは隙を突いて、いのりのケータイを奪った。同じキッドフォン系列の機種なので操作は早い。
「ほたるさん!」
「ほら、履歴でも一目瞭然。メールも一蹴くんとのやりとりより多いよね?」
「っ………。……」
いのりが突きつけられた液晶画面から目を逸らした。
「…メ……メールが多いのは……相談を…」
「これ、一蹴くんに見せられる?」
「やめて!!」
「やめて、欲しいのは、一蹴くんの方じゃないの?」
「………………。私と日名先輩は、ぜんぜん、恋愛感情なんて無いんです。信じてください」
「………………」
ほたるはジッと後輩の目を見透し、それから決めた。
「これから、ここに一蹴くんを呼ぶから」
「ひっ、非常識なことしないでください!! 何時だと思ってるんですか?!」
「じゃ、代わりに日名くんを呼ぶ」
「どっちも非常識です!!」
「大丈夫だよ、大学生ってオールナイト平気だから」
「そんな問題じゃないです!! いい加減やめてください!!」
「やめるのは、いのりちゃんの方なの」
「……………」
「ほら、だんだん、やましいことしてるってわかってきたでしょ? さ、二つに一つ、一蹴くんを呼ぶか、日名くんを呼ぶか、どっちにするの?」
「………。イッシューは絶対ダメ………。やめてください」
「じゃ、日名くんだね」
「日名先輩だって…迷惑…。…だいたい、呼んで…どうするんですか?」
「いのりちゃんのこと、どう想ってるか、訊くの」
「っ! イヤ!! そんな恥ずかしいことしないでください!」
「恥ずかしい?」
「そんなこと訊いて日名先輩が私のこと何とも想ってなかったら、完全に私の自惚れじゃないですか!!」
「じゃ、逆に好きだってわかったら、どうするの?」
「それは……丁寧にお断りします」
「じゃあ、丁寧にお断りするために、呼ぶね」
「っ…」
「呼ぶの、一蹴くんの方にする?」
「…………」
いのりが答えないので、ほたるは雄介に電話をかけた。
「もしもし、日名くんですか?」
(はい、日名です。あなたは?)
「白河ほたるです」
(ああ、あの白河さん)
「……あの、って、どういう意味かな?」
(あの、とはアは代名詞、ノは格助詞で、話し手からアレと指せる位置にあるもの、またはことにかかわる意です)
「……誰がレモンかぶったバカみたいな国語的説明をしてくれっていったの? あいかわらず人をナメた話し方してるんだね? サンバカトリオ、雄弁の雄介くん」
(ほわちゃんは、ずいぶんと怖い感じになられたんですね? あの、ほわっとした…)
「その呼び方、次にしたら殺す」
(……失礼しました。それで、ご用件は?)
電話の向こうで雄介も、ほたるの恋愛沙汰を思い出したようだった。
「いのりちゃんのことで話があるから、可能な限り速く、ここに来て」
(こことは?)
「いのりちゃんのウチ!」
(すぐ行きます)
年上の異性が怒っているときは、素直になる。雄介が母体から離れたときから身につけた本能だった。同じ中学校区なので本当に、すぐ雄介は現れた。
「こんばんは、白河先輩」
「単刀直入に訊くよ」
「遠回しにしてもらえませんか?」
「訊くから!」
「はい」
ほたると雄介のやりとりを、いのりはハラハラとしながら見守ることしかできない。ほたるは遠慮無く核心を突く。
「日名くん、いのりちゃんのこと、どう想ってるの?」
「………」
さすがに雄介は即答しない。
たっぷり考え込み、それから口を開く。
「…………。それは、今、ここで明らかにしなければならないことですか?」
「日名くん、一蹴くんのことは知ってるよね?」
「はい」
「だったら、明らかにして!!」
「…………。ボクに負けいくさをしろと……」
雄介は悟っていた。
そして少しばかり姿勢を正すと、いのりを見つめた。
「ボクは、あなたが好きだ」
「っ…ひ、日名先輩?!」
「ほら、やっぱり……いのりちゃんに、ちょっかい…」
「白河先輩、せめて二分、黙っていてもらえませんか?」
「……ふん…」
ほたるが鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「陵さん、ボクはボクの気持ちを告げるつもりはなかった。けど、どうして、今、こうなっているか、だいたいの予想はつくつもりではいる」
「……すいません……日名先輩…」
「それじゃあ、答えを聞きたい」
「…………ごめんなさい、私には……イッシューがいるから…」
「…………」
「日名先輩とは、お付き合いできません」
「………」
「それに……日名先輩が、……そういう気持ちをもってくれて…いるなら、……もう、会うことも……できません。……それを知ってしまった私が……これ以上……日名先輩と親しくすることは……できないから……。……すいません」
「………」
「さ、もういいでしょ?」
ほたるが入ってきた。
「わかったら、二度と、いのりちゃんに近づかないこと。それと!」
ほたるは二人からケータイを取り上げ、双方のお互いに関するデータを消去していく。
「電話もしない、撮影もしない、いい?」
「「……………」」
「盗撮なんかしたら、即警察沙汰にするから!」
「………」
「わかってるの?! 日名くん!」
「……ええ………」
「わかったなら、さっさと帰って! いつまでカカシみたいに突っ立ってるの?!」
「…あ、ああ……すいません。ちょっと想定外だったもので…」
「は? なにそれ? もしかして、いのりちゃんが一蹴くんと別れて、自分と付き合ってくれるとか、想ってたわけ?」
「いえ……陵さんの答えは想定内でした」
「じゃあなにが想定外なの?」
「それが、ですね。想定内の答えだったのに、想定外なほどショックだなぁ……と…」
「バカじゃないの?!」
「バカですね。映画バカなだけだと思っていたのですが、他にもバカがつくみたいだ」
「一回、死ねば?」
「ほたるさん!!」
「いのりちゃんも金輪際、わかってるよね? いい? 浮気もフタマタも相手が気づいてないなら、それはマナーとして絶対に白状したりしないこと!! こうやってバレずに済んだんだから、自分から話すなんていうのは自分が楽になりたいだけなんだから! 相手を苦しめるだけなんだから!! 絶対に話さないこと!! いい?!」
「………はい」
いのりはフタマタをかけられたり、浮気されたことのある被害者からの切実なる訴えを前に、頷くしかなかった。
「さ、いつまでも、いのりちゃんの家にいると迷惑だから、帰るよ!」
ほたるは雄介を押して、陵家から消えた。
四日後、昼すぎにバイトを切り上げた一蹴が陵家に現れた。
「いのり、誕生日、おめでとう」
「うん、ありがとう。イッシュー」
玄関で挨拶して応接間にあがると、一蹴が持ってきたケーキの箱を開ける。
「あ……これ…」
「静流さんがさ、持って行けって」
「……ブルーベリーの…」
「いのりの誕生花ってブルーベリーなんだってね。さっき静流さんから聴いてさ」
「……これ、通常のメニューじゃないよね。………わざわざ……作ってくれたの? ……」
「ちょっと前に特別注文が入って、それが美味しくできたから新作メニューにするってことになったらしいよ。で、これが第一号♪」
「そっか………そうなんだ……」
いのりが涙を浮かべて、ぽろぽろと泣き出したので一蹴は焦った。
「な、泣くなよ! そんな感動するほどじゃないだろ?!」
「えへ……っ…えへへ…ひっく……ごめんね。こんなに嬉しいのに……」
拭いても、拭いても、涙が止まらない。
「っ…お礼、言わないと……ね……。静流さんと、ほたるさんに…」
「………ほたるさんにも?」
「とっても、美味しそう」
いのりは二度目になるケーキへ丁寧にナイフを入れて、切り分けた。