「黒い片羽の天使」   作:高尾のり子

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第2話

 

 年が明けて一月、飛田扉は剣呑な目つきて、いのりを睨んだ。

「忘れようとしてる、だと?」

「……ぅん……もう、昔の話だから…」

「ふざけんな!」

 怒鳴った扉はタバコを投げ捨てた。それは踏み消すまでもなく残雪の上でジュッと音を立てて煙をあげた。

「てめぇはリナの、たった一人の親友だったろうが?!」

「……」

「それが、忘れようとしてる、だと? そのうえ、あの男は覚えてもいないだと?!」

「………」

「………」

「………」

「それが、どういうことか。……どれだけ、リナを冒涜したことかっ、てめぇ…」

「………それでも…イッシューには、想い出してほしくないから……」

「……」

 ますます扉は眼光を強め、22年間の人生で最大の怒りを覚えていた。

 そして、深海の底にあってミサイルでも開かないような扉は、内側から海底火山の噴火によって、暴発していく。冬の嵐が、来ようとしていた。

 

 

 

 2月14日の夜、香月と雄介は日暮荘の一階にいた。

「春人、遅いなぁ……せっかく、こうして私がお前たちにもチョコを恵んでやろうと用意してきたのに」

「春人は変なところで生物的な勘がいいからな……部屋に帰る途中で危機を察して実家に帰ったのかもな」

 雄介はカレーチョコを食べさせられた舌をいたわるように赤ワインを流し込んだ。

「どうだ? 雄介、カレーと赤ワインは合うだろう?」

「カレーと赤ワインはなっ!!」

 この女とは何があっても結婚しない、たとえ間違って妊娠させることがあっても中絶させる、雄介は何度も誓ったことをバレンタインを期に、誓い直した。外はビターチョコ、中身は激辛カレーという香月の手作りチョコは殺人的だから。

「「どうせ、春人は飲まないし、口直しにアイツの分も開けるとするか」」

 買い込んできた缶飲料に二人は手を伸ばした。

 雄介はホットナタデココジュースを飲み、香月はカレードリンクを喉に流す。

「「…………」」

 お前とは絶対に相容れないようだな、長年の付き合いがある二人は男女である前に仲間として視線をぶつけていた。

「「どうやら、貴様とは永遠に分かり合えないようだ」」

 空になった缶を部屋のゴミ箱に投げ入れる。

 部屋の主は春人だったが、二人とも仲間なので遠慮はしていない。勝手に入って、勝手に呑み会の準備をして待っているが、春人はバイトから帰ってこない。

「遅いなぁ」

「そうイライラするなよ、香月。春人がバイトに励んでくれているおかげで、このCUM研分室があるんだからな」

「まーあそうだな♪」

 大学が施錠された後は、同じ千羽谷にある日暮荘が、その利便性のために部屋主を無視して、活動拠点になっていた。今もバレンタイン呑み会という意味不明の呑み会を春人に無断でセッティングしている。

「雄介、もう一本、開けよう」

「そうだな。普通のカレーとワインは合うからな」

「普通のカレーとは何だ?! 普通のカレーとは?!」

「ご飯にかかってる誰もがカレーと思うカレーだ!」

「じゃなにか?! カレーうどんは普通のカレーじゃないのか?!」

「カレーパスタは、すでに普通でないことは誰の目にも明らかだ!!」

 完全に酔っぱらいの会話だった。

 キィ…バタン!

「「お、春……?」」

 二人とも聞き慣れた足音とドアの音がしたので、てっきり春人が帰ってきたのだと思い、腰を上げてクラッカーを握ったのに、部屋の主は玄関にいない。ドアも動いた気配がない。代わりに隣室から人の気配がした。

(…雨宮さん…)

(春人くっ……瑞穂って…)

(瑞穂…)

(…春人…)

 ごく薄い日暮荘の壁は何が始まったか、大学生には一聴瞭然だった。

「春人お前、その人が……誰の嫁さんか……気づいてないのか」

「人妻なのか?! いくら酔っててもマズイだろ?! 止めよう!」

「人妻って、いっても、未亡人だからさ。……一応、自由恋愛の対象だと思う」

「………」

 二人が聴いていることも知らず、隣室の春人と雨宮瑞穂は続けている。

(……瑞穂さ…)

(…春…く…)

(…瑞…穂…)

(…こ…耕作さん…んんっ!)

「「…………ひどい…」」

 香月と雄介は上を向いて涙を流した。

 仲間として、同志として、いくら酔っぱらっていても初夜の最後で呼び間違えられた春人を憐れんで、泣いた。

「春人、アイツ童貞だったのに。ミッキーさん、なんて遺産を遺して…くっ…春人よ。いくら忠実な弟子だからって、そんなものまで受け継がなくていいんだぞ……ぅっ…ぅぅ…」

「春人……バカ野郎、……っ…くっ……ひっく…ただ胸があるからって。くっ…未亡人の代打なんかさせられるくらいなら、私がっ…私がっ…くぅぅっ…」

「香月……お前…」

 今になって雄介は自分に用意されたバレンタインチョコと、春人に用意されたチョコの大きさが露骨に違うことに気づいた。何事にも鋭い雄介が今まで気づかなかったのは、単にカレーが絡んでのことで、小さいのと大きいのなら、小さいのがいい、そう思ってのことだったが、普通の女の子スタンダードを当てはめると、露骨に本命チョコにも見えてくる。そうか、コイツも女だった。

「香月、泣くな」

「これが泣かずにいられるかっ!」

「ならば泣け、そして呑め、呑んで涙を流せ」

 やっぱり酔っぱらいだった。

「くっ…ぅぅ…」

 香月は一息にワインを干すと、テーブルを叩いた。

「…ひっく……ヒクッ……ちくしょ…」

「失恋を恐れてはいけない。失恋に必要なのは…」

「うるさいっ!! お前だって失恋したくせに!」

「諦めなければ…」

「ふんっ! そうやって、この半年、一本も映画を撮らないでダラダラしていただろう?! 私は気づいてたんだぞ!! 春人は春人でバイトを始めるし!! 我々CUM研は、このままでいいのか?!」

「はは、はははは♪」

「笑って誤魔化すな!!」

「香月、お前は真っ直ぐ歩きたいか? オレはイヤだな。だって、そんなのつまら…」

「つまるところ失恋は失恋だ!! 若さゆえの過ちだ!!!」

 思いっきり香月はテーブルを叩いたつもりだったが、酔っぱらっていたために狙いを違え、せっかくの特製カレーチョコに直撃させてしまい。チョコが割れ、中身のカレーが飛び散った。

「「…………」」

 頭から腹までカレーをかぶった香月を撮影しようという気にはなれなかった。絵的に、あまりに痛かったために、雄介は目を伏せた。

「………香月……」

 失恋のうえ、カレーまみれになった香月を見ては、さすがの雄介もコメントが出てこない。

「……香月、とにかく服、脱げ」

「………私なんか……私なんか……もおグチャグチャなんだぁぁあ!! 雄介ぇ!! お前も汚れろぉ!!」

「くッ来るなっ!」

 雄介は素早く身をかわして香月を浴室に押し込もうとしたが、香月もジャケットの袖をつかみ、雄介をシャワーに巻き込んだ。

 シャワーの音は、朝まで止まらなかった。

 

 

 

 その朝、河合春人は目が覚めると、布団の中で一匹の女が寝ていることに気づいた。

 しかも、全裸で、かつ、目元を濡らして。

「っ?!?!」

 メモリーズ・オフ、記憶がない。

「っ?!?!?!」

 覚えているのはバーで呑んでいたことだけ、その先の記憶がない。

「っ?!?!」

 さらに自分が全裸なことにも気づいた。

 これもメモリーズ・オフ、脱いだ記憶がない。

 彼は混乱し、動揺し、煩悶し、当惑し、最善の手だてを二日酔いの頭で考え、そして、その場を逃げ出した。

 服を着て、ドアを開けると、彼は再び混乱する。

「こ、ここは?! 日暮荘?! なんで?!」

 飛び出したそこは彼の生活空間でもあるアパートの前、見慣れた光景と非現実的な朝が彼を翻弄している。

「と、とと、ととと、とにかくオレの部屋に!」

 やっとの思いで自分の部屋のドアを開けた春人は瞬間冷凍された。

「………………」

 彼の部屋に、よく見知った女性が眠っていた。

 全裸で、かつ、目元を濡らして。

「っ?!?!?!」

 メモリーズ・オフ、記憶がない。

 けれど、彼女はあられもない姿で眠っている。

 一人で。

 そしてテーブルにはグラスが二つ、カレー皿が二つ、カレー系のつまみが無数に、そして彼女の衣服がカレーにまみれて散乱している。彼女以外、誰もいない。

「…………ここ……オレの…部屋……かな?」

 根本的な空間認識さえ疑いたくなり、春人は部屋を出た。

 部屋番号はたしかに彼の部屋、それだけでは気が済まず、近所の建物、そして空を見上げ、世界が世界であることを確かめた。

「…ハァ……ハァ……お……ハァ…おちつけ…河合…春人…。もう一度、最初から確認しよう…ハァ…」

 激辛カレーを一晩中食べさせられたように喉が渇いて仕方ない。それでも春人は、瑞穂の部屋を開けてみた。

「………寝てる…」

 眠っている。

 全裸で、かつ、目元を濡らして。

「…………じゃ、……オレの…部屋は…」

 春人は、入居以来の緊張した手で自分の部屋のドアを開ける。

「………寝てる…」

 眠っている。

 全裸で、かつ、目元を濡らして。

「……香月…なのか……。じ、じつは、そっくりさんとか…。って、どんなそっくりさんだよ?! 双子かよ?! そ、そうか、双子……って、双子だったとしても問題解決しないじゃん!! こっちの香月は、どうすんだよ?! それに歳違うし!! あ、実は二人は姉妹とか?! 余計ダメダメじゃん!! 浜咲伝説超えるじゃん!!」

 混乱の極みにいたり、叫び、そのために香月が目を開けた。

「……………」

「……………」

「……お、……おはよう……」

「あ、…ああ、春人、おはよ…っ?!?!」

 香月が自分の姿に気づいてシーツをかぶった。

「わ、わわ、わ、私?!」

「香月………オレ……こんなこと、いうと怒るかも……卑怯だって、いうかも……知れないけど、正直に言う。……なにも……覚えてないんだ……。オレ……香月と……夕べ………なにか、……したの、か?」

「………………春人………」

「本当に、覚えてないんだ。…ごめん…」

「…春人……なにも……覚えてない……の?」

「ごめん、……本当に、なにも……。このアパートに帰ってきたことさえ……ぜんぜん……まったく…」

「………………」

「オレ……と……香月………」

「……………」

 問いかけられ、見つめられ、香月は黙って考え、迷い、そしてコクッと頷いた。

 それが状況にとって最大限有効に働くことを、知っていて、だだ頷いていた。

 女、だから。

「…そ、そうか……そうだよな……やっぱ…」

「…………春人、……ごめん…」

「あ、謝るのはオレの方だよ!!」

「……………」

 今日も、この空の下で「汚い女だな」そう誰かが罵られていた。

 

 

 

 同じ朝、日名家の玄関で酔いつぶれて眠っていた日名雄介は一匹の毒虫のように踏みつけられ、目を覚ました。

 フミ…フミ…

「ぅぅ…」

 二日酔いで痛む明晰な頭脳が、自分の美顔を踏んでいる美しい足を、妹の足だと認識するのに20秒も必要だった。そして、雄介は妹の足の裏に微笑んだ。

「おはよう、あすか」

「………ふん…」

「起こしてくれたんだな」

「………風邪引いて死んじゃえ」

「ああ、本当に風邪引くどころか、凍死するとこだった。ありがとう」

「バカ」

 あすかはフミフミと足の裏で兄の美顔の感触を確かめてから、トイレに入って二度寝する。不調なものの何とか女優業を続けている実妹は不規則な生活だった。

「……頭…痛っ…」

 今日はダメだ。今日はオフにしよう。

 雄介は冷え切った身体をシャワーで温めてから眠った。

 そして夕方になって目が覚め、なんの食料もない冷蔵庫を開けてから、コンビニに買い出しへ行こうと、玄関を開けたとき、ハラリと落ちる紙片を見つけた。

「ん?」

 拾い上げた雄介はメッセージを読む。

「……英語か……。They seem to have broken up recently.……。二人は最近別れたらしいよ。…か……誰だろう。……誰からだろう? そして、誰にだろう?」

 差出人も受取人も書かれていない。

 もしも、自分宛でなく妹や母へのメッセージだったら、あとで業火の如く怒られそうなので、雄介は冷蔵庫に発見の経緯とともに掲示しておくことにした。

 

 

 

 いのりと扉は千羽谷公園の、いつもの場所で向き合っていたが、いつも通り雰囲気は最悪だった。

「そうか。あの男と別れたんだな」

「………はい……、だから、もう、私たちにかかわるのは…」

「ピアノを辞めろ」

「………」

「ゆっくり腐っていけ」

「………」

 いのりは聞き取れないほど小さな声で「言うとおりにします」と答え、扉は一人で歩き公園の駐輪場に駐めてあったバイクに跨ると、今日もリナの墓前に報告にいった。

 

 

 

 雄介はサークル棟にあるCUM研の部室で、ホットナタデココジュースを啜っていたが、まだ半分も残っているのに手を滑らせ、缶を落とした。

「っ?!」

 腰を上げ、窓を振り返る。

「なっ…なんだ、この絶望の気はっ?! でけぇ?! こんなでけぇ気は初めてだ!」

「また、始まった」

 香月があきれている。

「雄介、いったい絶望の気ってなんなんだ?」

「絶望に瀕している少女が発する特有の気だ!」

「そうかそうか、では、地球中の恵まれない少女から、気を分けてもらって元気玉でもつ作ってくれ」

「香月」

「ん?」

「その場合、元気玉ではなく絶望玉になる」

「………………ものすごい攻撃力がありそうだな」

「ふっ…春人と、なんとかなりそうなんだって?」

「っ! 絶望したっ! 意味ありげに微笑む意味に絶望したっ!!」

 映画を作らないCUM研は、恐ろしくヒマなために香月は女性にして少年ジャンプもサンデーも、マガジンさえも目を通していた。すべて春人が買い置きするので。

「香月、絶望の中から希望が生まれることもある♪ パンドラの箱は君を待っているよ」

「待たれたくない!!」

 香月が怒っているのも放置して、雄介はビデオカメラを片手にサークル棟の屋上にあがった。

「………………、こっちか…」

 ビデオカメラを覗いて最大望遠にすると、千羽谷公園が見えた。

「っ! すごい五倍以上の絶望原因がある」

 もう迷っているときではない、雄介はフザけるのをやめた。

 

 

 

 いのりは死刑判決を受けた女囚のような足取りでフラフラと千羽谷駅に向かっていた。ようやく駅口に辿り着いた彼女の前に、雄介が現れた。

「お久しぶり」

「……」

「二度と声をかけない約束だったけれど…」

「失礼します…」

 いのりは無視して改札へ向かった。

「……」

「……」

 いのりが下り線のホームへ立つと、雄介も同じく2メートル離れて立った。

「……」

「……」

「どうして、ついてくるんですか?」

「それは仕方ないよ」

「………」

「ボクの家は藍ヶ丘、君も同じ方向。同じホームになっても仕方ない」

「……」

「というのは口実で、本当は君を心配しているんだ」

「………」

「……」

 心配している、そう明言した後、雄介は沈黙した。雄弁は銀、沈黙は金、黙るべきところで黙って待てる男、それが日名雄介だった。

「………」

「………」

「………。……私には、あなたに心配してもらう価値も資格も、無い…です…」

「有るよ」

「っ! ありませんっ!!」

「…」

「私は、あなたをフッたんですよ?! それも、さんざんお世話になっていたのに、……ひどい女……汚い女、……それが、私なんです」

「あのときはショックだった。君の答えは想定内だったのに、ね?」

「……」

 いのりは答えずホームに入ってきたシカ電に乗った。雄介も後に続く。

「……」

「……」

 千羽谷、澄空、藍ヶ丘と車両に揺られる間、二人とも口を開かない。

(藍ヶ丘~♪ 藍ヶ丘~♪)

「……」

「……」

 藍ヶ丘駅でドアが開いても、二人とも動かない。

「……」

「……」

「……。降りないんですか?」

「うん、迷ってる」

「……」

 いのりは何を迷っているのか問いたくなる会話の運びをされたけれど、相手にせずドアが閉まるのを見ていた。

「………」

「………」

「……どこまで行く気なんです? とっくに藍ヶ丘は過ぎましたよ。藤川までついてくる気ですか?」

「藤川まで」

「……」

「……」

「……」

(桜峰~♪ 桜峰~♪)

「……。…」

 いのりはドアが開くと雄介を振り返らずに何の用事もない桜峰で降りたが、雄介も降りていた。

「……」

「……」

 すぐにシカ電は走り去り、ホームは静かになる。千羽谷駅と違い、桜峰駅は無人の駅舎で人気もない。いのりは尾行者を睨んだ。

「藤川まで行くっていうのはウソですか?」

「うん、結果としてウソになってしまったね」

「………。ウソつき」

 いのりは言い捨てて歩き出した。目的もなく歩く足は、いつのまにか砂浜を踏んでいた。

 砂浜を進み、波打ち際までくると振り返って睨む。

「…………。……どこまで、ついてくる気ですか? ……ストーカー行為ですよ」

「ここで初めて君を見つけた」

「……」

「ここから、あそこの丘にある教会……遠いね。肉眼じゃ建物があるのかさえ、わからない」

「…………」

「あっちから海は見える?」

「……海は大きいですから…」

「……」

「…………」

 いのりは睨み、雄介は見つめ返す。

「……」

「…………」

「……」

「……………。……ウソが………」

「…?」

「どうしたら……」

「……」

「どうしたら、いいですか?! ウソが、ウソがバレそうなんです!!」

 いのりは叫んで両目から涙を零した。

「どうしたらいいの?!」

「……」

「あのウソがイッシューにバレたら……バレたら……イッシューが全てを想い出したら、きっと……きっとイッシューは……イッシューは……」

「……」

「だから私はっ! イッシューと別れて!! あの男の言いなりになってる!! それでも許してくれない!! だからピアノも辞めるの! それでもいい! 私は何もかも無くしてもいい! 私はウソをついたから! でも! でも、きっと、あの男は許してくれない! 私だけじゃなくてイッシューにも怒っているから! きっと! きっと、いつかイッシューにリナちゃんのことを教えてしまう! そしたら、きっと、イッシューは、……きっと、耐えられない。だから、だから、私は、…っ…ぁあ…ああ…」

 いのりが砂浜に泣き崩れるところを雄介は抱きとめて背中を撫でた。そして、泣き続ける絶望に瀕している少女から10年前の出来事を聴いた。

 

 

 

 いのりは日名家の廊下でバスタオルを渡されて戸惑った。

 たしかに波打ち際で泣き崩れそうになってしまい、長い髪が三分の一ほど海水に浸かっていて、さらに砂まで含んでいる。できればシャワーを浴びたい状態だったけれど、いきなり日名家のバスルームを借りるのは女子高生として卒業間際とはいえ躊躇していた。

「……やっぱり……私…このまま…」

「あ、ああ。大丈夫だよ」

 雄介は少女のためらいに気づいて微笑んだ。

「今は妹もいるしね。両親はいないみたいだから遠慮しないで」

「…………はい…」

 シャワーで冷え切った身体を温めて、着衣を整え、教えられていた応接間に入った。

「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」

「いえ、そんな…」

「遠慮しなくていいよ。どうせ、どちらもインスタントだから。どっちにする?」

「それじゃ……紅茶を…」

「甘いの、だね?」

「はい」

「ミルクティーにした方がいい?」

「はい…」

「あ、いっそ、ホットナ…」

「ホットナタデココジュースをミルクの代わりに混ぜるのは、無しでお願いします」

「うむ♪」

 二人とも八月から半年あまり音信不通だったが、その空白が今、消えた。

「了解♪ 普通のミルクティーにしよう。いっそ、普通のカレーライスもつけて」

「仲間の香月さん、でしたよね? 映画、どうですか?」

「うーむ、君にフラれたのがショックで作ってない」

「……。……ごめん、なさい…」

「気にすることはないよ。ボクの問題だからね」

 雄介は笑って、応接間を出て行く。しばらくキッチンで何かしている気配がしたものの「ちょっとコンビニに行ってくる」と断って外出してしまった。

「そういえば、お料理とか、苦手だって…」

 いのりは雄介の母と妹だけでなく雄介自身も料理が苦手だということを思い出した。

「…………お茶くらいなら私が淹れたのに……」

 独り言を零して、応接間を眺めた。

「あ、ピアノ。アップライトピアノなんだ。妹さんの、かな?」

 いのりも、ほたるも本格的なピアノ練習をしているので、いつもグランドピアノを弾いている。それだけにコンパクトサイズのアップライトが珍しく見えてしまうが、一般家庭としてはアップライトの方が普及品だった。

「……」

 ほとんど自覚なく、まるで雄介が無断で撮影するように、ピアノのこととなると遠慮が消えてしまい、勝手に指が伸びてしまう。

 ポロン…

 一つ音を鳴らしてみる。

 音が消える前に、その音を聞きつけたかのようなタイミングで入ってきた気配に対して、いのりは挨拶しようと振り返ったが。

 ぐにゅっ…

「んんう?!」

 いのりは鼻をつままれ、口を塞がれた。

 いつも一蹴にしているような親しみを込めた鼻のつまみ方とは違う問答無用の圧迫で息ができない。

「んんぅ…苦し、ん…」

「なに勝手に人んちのピアノ触ってんの?」

「んっん、ごめうんん…なんんい…」

 いのりは日名あすかの顔を知っていた。そのあすかが腕組みして自分を睥睨している。明らかに敵愾心を感じる。

「んん?」

 いのりは疑問に思った。両腕で腕組みして見下ろしている相手が、どうして自分の鼻と口を塞げるのだろう、そう考えてから、やっと足の裏で顔を踏まれていることを悟った。

「んんっう?!」

「……」

 あすかは女優として磨いている身体の柔軟性で、高く足をあげ、とても器用に素足の親指と第二指で実兄の客人を足蹴にしていた。

「んんっ! ぷはっ!!」

 いのりは逃げ出して、やっと呼吸ができる。

「ハァ…ハァ…ハァ…」

 絨毯に両手をついて息を整えていると、あすかは絨毯でも踏むかのように長い黒髪を踏みつけてきた。

「あすかのピアノを勝手に触った罪の罰として♪」

「……罪の……罰……」

「三回まわって土下座しなさい♪」

 あすかは、ここ十年近く自分自身も触っていなかったピアノの正当な所有者として冷厳と命じた。

「ほら、早く♪」

「……。それで、許してもらえるなら…」

 いのりは回り始めたが、あすかが目を丸くした。

「ホントにする気? あなたプライドとか……」

「だって、これが罰だって……これくらいで許してもらえるなら」

 いのりは忠実に両手をついて頭を下げる。

「勝手にピアノを触って、ごめんなさい」

「………」

「おい、あすか? なにやってるんだ?」

 ちょうど雄介が帰ってきた。

「べぇ~つぅ~にぃ~。ちょっと、不良兄貴が何を拾ってきたか、観察してただけぇ~」

「あすか……覚えていないか? あすかが中学だったとき、一つ上の学年にいた陵いのりさんだ」

「みさ…さぎ…いのり……ミサ…詐欺…祈り……うーーん……あすか中学なんて、ほとんど出席してないからぁ……あのころ全盛期だったし♪ ……みーちゃんなら、なにかメモって……この髪の長さは目立つし…あっ!」

 あすかが、わずかな学校生活の記憶から何かを思い出した。

「わかった! 平安バカ女!!」

「「………」」

「平安時代かよってくらいバカみたいに伸ばしてる女だから、平安バカ女♪」

「……もう、なんでもいいです」

 いのりは一つ上からは平安娘と呼ばれ、一つ下からは平安バカ女と、年齢差による字句の違いを認識させられ、かなりヘコんだ。まだ平安娘なら武家の姫様と並べそうだったのに、平安バカ女では救いどころがなかった。

「あすか、いい加減にしなさい。彼女に謝るんだ」

「………ふんっ!」

 あすかはそっぽを向いた。

「どうして、あすかが謝らないといけないの? ホントの話だもん♪」

「あすか、謝らないなら、これは渡さないぞ」

 雄介はコンビニの袋から買ってきたホットナタデココジュースの缶をのぞかせた。

「ぅ………お兄ちゃんの卑怯者……」

「さ、あすか」

「………むーーっ……」

「わ、私は別に、いいです」

 いのりが遠慮すると、あすかは満足げに微笑む。

「ほら♪ ということで、これは、いただき♪」

「まったく…」

 雄介は妹に缶を渡してやり、あすかは受け取ると服を脱ぎながらバスルームへと向かっていく。

「妹が変なこと言って、ごめん」

「ううん、元気で可愛いですね」

 いのりはコンビニで購入されたミルクティーが、上品なティーカップに注がれるのを見ながら、微笑んだ。

 

 

 

 三日後、いのりは日名家のキッチンで肉じゃがを作ろうとしていたが、強い違和感を覚えていた。

「……この…キッチンって………」

 完全なシステムキッチンになっているが、どうにも違和感がある。

 冷蔵庫も、ほとんど物が入っていない。

「…これ? ……英語?」

 いのりは冷蔵庫のドアに貼り付けられたメッセージに気づいた。

「…They seem to have broken up recently.……。彼らは…持っているように見える…こわれて……上の……。リセントリィは……昨日、今日のこと、つい最近って意味だから……。つい最近、彼らは壊れているを持っているように見える……かな?」

 いのりの英語力は音大に実技入試だけで合格したので、一蹴並みだった。しかし、女性としての観察力は人並みにある。

「……この字……女の子の字だよね。……あすかちゃんかな? 英語力あるんだァ…。なんとなくユカリちゃんの字にも似てるかな……」

 英語であるうえ筆記体なので判然としにくいが、いのりは別れた恋人の英語問題集に頻繁に書かれていた文字に似ていると思ったが、もう忘れることにした。そもそも和訳ができないので考えるだけ無意味だった。

 再び日名家のキッチンに立ち向かう。

「うーーん……お母さん、キレイ好きなのかな………すごくキレイ………勝手に使っちゃまずいかな………」

 もちろん雄介には断ってあるが、母親とは面識がない。もしかしたら極端な潔癖性かもしれない、そう思わせるほどキッチンは完璧な清潔さを保っている。清潔というより新品同様だった。

「…うーーん……やっぱり……」

 いのりが迷っていると、あすかが背後に立った。

「うわっ…さっそく手料理でもって? ま、いいけど………いのりって料理できるの?」

「う、うん。それなりに……」

「ふーん……」

 あすかが肉じゃがの材料を検分しながらホットナタデココジュースを飲んでいる。いのりは思い切って訊いてみることにした。

「あの…、あすかちゃん。このキッチンって勝手に使わせてもらって、おばさん怒らないかな? すごくキレイだけど……」

「あ? ああ、キレイなのは使ってないからだし♪ ちゃんと後片付けまで責任もってすれば、誰も怒らないよ。見ててあげるから、作ってごらん」

「う……うん…」

 いのりはモデルハウスのように一度も使われた気配のないIHクッキングヒーターと専用鍋を手に取り、さらに傷一つ無い俎板で材料を切った。

 それから米を炊こうとして戸惑う。

「えっと、あすかちゃん…」

「はい?」

「炊飯器って、どこかな?」

「スイハンキってなに?」

「………。……お米とか、炊く…で、電子ジャーとも言うかな?」

「電子じゃー? 魔封波に使う? ピッコロ大魔王が封じられてた、あれ?」

「…………」

「あ、それがないと料理できないの? 道具に頼るんだ?」

「う、ううん。無くてもIHで炊けるよ」

 いのりは持ってきた白米をIHクッキングヒーターで炊くことにした。

 それから、いくつかの疑問を遠回しに訊いてみる。

「あすかちゃんちってパン食が多いの?」

「どうかな? 普通じゃないかな。ふーーん……お米って茹でて作るんだぁ。うどんといっしょかぁ…」

「茹で…」

 いのりは「茹でる」と「炊く」の違いを国語的にも物理的にも説明する自信が無く、言われてみれば湯で一定時間加熱するということに変わりはない、と思ったが、あすかの家事能力の絶対的欠如に気づきつつあった。

「あすかちゃんのお母さんは、どんな料理が得意なのかな?」

「あの人は料理なんてしないよ」

「そ…そうなんだ……」

「あすかの仕事をとってくるって口実で都内を遊び回ってるだけだもん。だから、コンビニで買ってきたお弁当をお皿に並べ替えるだけ♪ あすかといっしょで機械音痴だしね。電子レンジ使うつもりでお弁当箱ごとオーブンモードにして火事になりかけたことあるし」

「……」

 いのりは生ゴミ一つ無いキッチンが、いかにして維持されているか、だんだんわかってきた。あすかは「ちゃんと後片付けまで責任もってすれば」と言った。それは皿を洗うことまで、ではなく、きっとジャガイモの皮まで回収しないと迷惑をかけるのだと判断するべきなのだろう。

「そういえば、お兄ちゃんは?」

「雄介さんは飲み物を買いに行くって」

「ふーーん……間に合うかな」

 あすかはケータイを出してメールを打ち始める。ごく短文で「ジュースとビール」とだけ書いて送った。しばらくすると、雄介が日本茶とコーヒーとミルクティーとホットナタデココジュースとビールを買って帰ってきた。そして三人で食卓を囲む。

 あすかと雄介はコンビニの肉じゃがと自炊された肉じゃがの違いを知った。いのりは痕跡を残さないよう完全に後片付けをして帰ろうとしたが、あすかに呼び止められる。

「夕飯のお礼に遊んであげる。こっち来て」

「…うん…」

 何をして遊ぶのか疑問に思いつつも、案内されたのはリビングのテレビの前だった。

「これヤったことある?」

「ううん」

 いのりは格闘ゲームの経験は無かった。

「じゃ、これ説明書、読めばわかるよ。よっぽどの機械音痴でない限り」

「ありがと……………」

「基本的には、このボタンがパンチで、これがキック…」

 あすかは要点を2分ほど教えると、対戦を始めた。

「いきなりバーニングイエスタディっ!!」

「ぁっ? ぁ? ………えっと……」

「いのりの負け。このゲージがゼロになると一回負けってことになるの♪」

 はじめて格闘ゲームを体験する者に、あすかは容赦ない洗礼を浴びせていた。

 何度やっても、いのりの攻撃は一つも当たらず、あすかはパーフェクトで勝つ、実に子役よりも子供だった。

「……あうぅ……あすかちゃん手加減してよぉ…」

「しょーがないなぁ♪ じゃ、ちょっと殴っていいよ」

 あすかは一発だけ殴らせると次の瞬間には嵐のような猛攻を浴びせる。いのりは不満に思ったが、背後で雄介が両手を合わせて頭を下げているので耐えることにした。

 そして一時間後には、あすかといのりの対戦成績は100対0になっている。

「どう? まいった?」

「参りました。あすかちゃん、強いんだね。とても歯が立たないよ」

「ふふン♪ かの軍略王いわく、敵を知り己を知れば、百戦あやうからず♪」

 素人相手に100連勝し、あすかは故事を引用した。

「あすか、一回くらい負けてやれよ」

「兄さんってバカ。わざと負けてもらって、うれしい? いのりさん」

「……ううん、……」

「そうそう♪ じゃ、お兄ちゃんが、戦いとは、どんなものか、見せてあげれば?」

「うーーむ……あすかとは、ここ数ヶ月やってないからなぁ……。春人相手じゃ練習にもならないし…」

 そう言いながら雄介は妹と激烈な戦いを見せてくれた。二人ともコントローラーを握ると性格が変わるらしく、いのりには画面の動きを捉えることさえ難しい戦闘が繰り広げられた。

「……す、すごいんだね」

「お兄ちゃん、かなりナマってるかと思ったけど、それほどでもないね」

「ふっ♪ 妹には負けん」

「はいはい。あすか、そろそろお風呂入ろっ♪」

 あすかが腰を上げると、いのりも時計を見て帰り支度をする。その動作を呼び止めたのは、あすかだった。

「いのりさん、うちに泊まれば?」

「え…でも…」

「お母さんとケンカしたんでしょ?」

「えっ?! わ、私、あすかちゃんに話して…」

 いのりは雄介にも話していないはずの親子ゲンカを言い当てられ、驚いた。

「話して……ない…はず…。どうして?」

「どうしてって、あすかも、あの人とケンカすること多いし♪ そういうのってカンでわかる♪」

「………」

 いのりは滅多に母親と口論することはなかったが、さすがに理由もいわずにピアノを辞める、音大にもいかない、と言い出せば怒らない親はいない。今までにないほどの親子ゲンカをしている最中だった。

「帰りたくないなら帰らない方がいいよ♪ 母親なんて、しょせん他人だし」

「……」

「あすかといっしょにお風呂入ろっ♪ 一回お姉ちゃんとお風呂に入りたかったし」

「………でも……雄介さん…」

 いのりは雄介を振り返った。

「ご迷惑じゃ…」

「客間に空きはあるし、君さえよければ、どうぞ」

「…」

「ほら、決まり♪」

 あすかが強引に服を脱がしてくるので、いのりは慌てて脱衣所に入った。

「いのりさん、髪長いよねぇ♪」

「う…うん…」

「うわぁ……足首まで届くよ。すっごいすっごい♪」

 あすかは自分も裸になりながら、いのりの衣服を脱がせ、ぴったりと髪を身体につけてくる。ちょうど、いのりの髪は踝のあたりまであった。

「いのりさん、切ったことあるの? もしかして、伸ばしっぱなし?」

「ちゃんと切るよ。歩くとき地面に擦る分だけは…」

「あすかも長いけど♪」

 あすかは両手を後頭部にあげ、結っている髪を解いた。

「結ってるとお尻までだけど、ほどくと膝まであるよ」

「あすかちゃんも長いね」

 いのりの身長は160センチ、あすかは158センチで大差はない。見た目の雰囲気から、あすかの方が大きく見えるくらいだった。

「あすかちゃん、すごくキレイ……やっぱり女優さんなんだね」

「そりゃもうエステも行ってますからね♪ お手入れしまくり♪ いのりさんは? ちゃんと、してる? もしかして、ここも伸ばしっぱなしとか?」

「ぁッ?! あすかちゃん!」

 いのりは身体を長い髪で守って浴室へ逃げた。あすかが追ってくる。いつのまにか、楽しい時間は過ぎていった。

 

 

 

 朝、ほたるは目が覚めるとケータイをチェックする。

 健に持たせている「今どこケータイ」は浮気癖のある恋人が、ほたるが眠っている間に、どこへ行き、今はどこにいるか、履歴を残してくれている。

「うん♪ 健ちゃんよしよし♪」

 健は怪しい行動を取っていなかった。メールを送り本人がケータイを所持していることを確かめると、ほたるは都内の音大で昼からの講義があるため身支度を整える。

 鏡を見つめて、ほたるは一人で話す。

「ほたると健ちゃんはラブラブだからね。大丈夫♪ 大丈夫♪」

 現在地だけでなく、毎月キッドフォンからは健の発着信履歴が送られてくるうえ、健のメールメモリーも逐次チェックしている。さらに預貯金の出し入れと、レシートも監査しているので安心と信頼を感じている。

「お姉ちゃん、いってきまーーす♪」

「いってらっしゃい」

「健ちゃんに手を出したら殺すからねぇ♪」

「絶対出さないから安心して、ほたる。あと、ご近所にも聞こえるから、挨拶代わりに、それを言うのやめてちょうだい」

「じゃ、いってきまーーす♪」

 ほたるは住み慣れた藍ヶ丘の街を歩いていく。そして、見てしまった。

「………いのりちゃん? ………」

 日名家の玄関から出てきた後輩は、あすかと雄介たちと楽しげに会話しながら藍ヶ丘駅へと向かっている。雰囲気から、ほたるには後輩が外泊したのだと、長年の勘でわかった。

「…………………………」

 ほたるは両手にいっぱいの軽蔑と、顔には脱力感を浮かべて、乗るつもりだった電車を一本遅らせた。それほどに後輩と同じ空気を吸いたくなかったから。略して、それから。

 

 

 

 昼、ほたるは音大での講義もそこそこに、ならずやでココアを飲んでいた。

「……はぁーっ…」

 妹の深々としたタメ息を聴き、静流はケーキの盛りつけで余った果物をサービスする。

「ほたる、どうしたの? 音大で何かあった?」

「どうもこうも…」

 ほたるは話しかけてやめた。実の姉とはいえ、あまり軽々に話しては一蹴に気の毒だという思いから、今しばらく黙っておくことにする。そんなタイミングを見計らったように、ほたるのケータイに着信が入る。

「ぁ………」

 液晶画面には「陵いのり」の文字が浮いている。ほたるはいささか嫌悪感を覚えながらも応対した。

「もしもし、ほたるだけど…」

(あ、いのりです)

「何か、用?」

(あの…今大丈夫ですか?)

「さあ? いいから早く話して」

(すいません。……今日、ほたるさんにピアノを教えてもらう予定の日でしたけど、…その……都合がつかなくて…)

「あそう。デートでも入った?」

(いッ、いえ! そうじゃ……すいません、寸前になって連絡して…)

「何の用事?」

(……。……実は……、…こうゆうことを電話で言うのも…)

「早く言ってくれるかな?」

(す、すいません! ……ピ、…ピアノ…を…辞めようかと……)

「………。ふーーーーん………。……どうして?」

(……理由は……とくに……ありません……)

「あそう。誰かさんに辞めろとでも言われたの?」

(っ?! どうして知ってるの?!)

「さあ? まあ、世の中どこに他人の目があるか、わからないしね。下世話な噂って広がりやすいし。一蹴くん可哀想」

(イッシューと別れたこと、ほたるさんもご存じ…)

「わ? 別れたの?!」

 今度は、ほたるが驚く番だった。そこまで展開が進んでいるとは知らず店内で声を上げていた。

「別れたって一蹴くんと? いつ?!」

(………。……14日です)

「バ…バレンタインに?! わざわざ?! もう少し別の日とか選んであげられないの?!」

(…………)

「なにも愛を告白するバレンタインに別れを告げなくても……ちょっと鬼だよ。……いっそ、二月なんだから三日にすれば鬼でもよかったのに……」

(私は赤鬼じゃないです……)

「黒鬼? ツノあるよね?」

(………これは髪留めです。ツノじゃありません……色は替えられるけど…)

「知ってる」

(……)

「…………」

(……………。ピアノのお稽古の方は、……もうやめようと……だから、ほたるさんにも今までお世話になりましたけれど……もう、お終いということで次回からは…)

「あそう。もういいんだ?」

(…はい、…急に勝手なことで、すいません…)

「……」

(………。それでは失礼します)

「待って」

(はい?)

「……………」

 ほたるは指を折って簡単な暗算をすると、無礼な後輩に要求を突きつける。

「48万円でいいよ」

(……え?)

「今までのレッスン料、過去二年分でいいから払って」

(………二年分…)

「ほたるのアルバイト料、高校の頃で一時間に3000円だったし、それから金賞とって値打ちあがってるから、一時間5000円ってことで計算したの」

(………………あ……あの、……お稽古は……ほたるさんが……その……無料でって話だと、私の勘違い……だったなら…)

「無料のつもりだったけど、こんな風に勝手な感じで投げ出されるなら、ほたるの時間を返してって気分なの!」

(……すいません…)

「で? 払ってくれるよね?」

(………そんなに持って無くて……あるだけなら10万円と少し……)

「じゃあ、とりあえず10万円でいいよ。残りは来月でも」

(……………。……努力…します……)

「これに懲りて、あんまり自己中なことしないようにね。ほたるより一蹴くんの方が、よっぽど青春を返してって気分だろうし」

(っ…)

「じゃ、さよなら」

 ほたるは電話を切った。それから、カウンターの姉を見上げて問いかける。

「ねぇ、お姉ちゃん」

「なにかしら?」

「10万円くらいで一蹴くんが喜びそうなものって、あるかな?」

「一蹴くんが? …うーーん……」

「やっぱり腕時計とかかな?」

「ほたる……男の子の気持ちを物で釣ろうとするの、やめなさい。物で釣っても、半年くらいしか持続しないって学んだはずでしょ?」

「うッ………」

 ほたるは痛いところを突かれたが、ちょうど当の本人が制服姿で来店してきた。

「お姉ちゃん、今の話はナイショだからね。季節遅れのサンタさんとかって感じで慰謝料を…………………………」

 ほたるは頼まれてもいないのに慰謝料を代理請求するつもりだったが、来店した一蹴が女連れだったので思考が止まる。

 別れて一週間も経たないのに一蹴は女連れ。しかも顔なじみの多いバイト先に女子を招待していた。ほたるはカウンターに座ったまま気づかないフリをしつつ、スプーンに映して女子を観察する。

「一蹴くんって、ロングヘアが好みなのかな?」

「どうかしら? でも、いのりちゃんよりは短いわね」

「ポニーテールにしてるしね。ほどいたら、かなりじゃないかな。……ポニーテールっていえば、あの泳ぐドロボウ猫に似てるかも……」

 ほたるは高校時代のクラスメートを思い出して不愉快な気分になった。それで身勝手な正義感から立ち上がって、一蹴と藤原雅に声をかける。

「ほたるちゃんのナゾナゾタ~ィ…」

「……ほたるさん、……何か用っすか? タチの悪いジョークならやめてくださいね」

 一蹴はフられた恋人のモノマネをされて笑えるほどの状況ではなかった。

「ね、一蹴くん。いのりちゃんと別れたってホント?」

「………ええ、まあ…」

「それって、どっちからフったの?」

「…………。話さなきゃいけないことですか?」

「気になる♪」

「秘密だね? とびっきりの秘密だね♪ のんも知りたいよ」

 バイト仲間まで寄ってきた。

「……ったく……」

「鷺沢、何を躊躇しているのです?」

 雅が口を開いた。

「陵から離縁を申し出てきたと有り体に話せばよいではないですか。それとも女から見放されたなどと言うのはプライドが許しませんか? 狭量な」

「うぐっ……」

「やっぱり、いのりちゃんからフったんだ?」

「………。ええ、そうですよ。それが何か?!」

「それって、この子が原因なの?」

 ほたるが雅をチラっと見た。雅は他人事のように超然としている。

 一蹴が答えたくなさそうに解答した。

「いいえ! オレにも理由はわかりませんけど! 少なくとも藤原さんとは、つい先日から会話するようになっただけで! まず! 絶対に! 原因として藤原さんは無関係です! 今日だって単にカフェに誘っただけです!!」

「単に…ね……。……」

 ほたるは意味ありげに一蹴と雅を見比べると、老婆心を発揮した。

「一蹴くんはね、ひどいフラれ方して傷ついてるから、優しくしてあげてね」

「………。未練がましいところは一日中見せていただいていますから、こうして誘いにのってやったのです。感謝しなさい」

「「………」」

 ほたるはカウンターへと退却することにした。それから、二人には聞こえないように姉に愚痴る。

「最近の高校生って、軽いよね」

「ほたる………私より老けてきてない?」

「お姉ちゃん、それ禁句」

 ほたるはもう他人の恋愛にかかわるのはやめて健の居場所をチェックしてメールを送ることにした。いつでも、どこでも、彼氏の所在地がわかる、便利な時代になったと感謝しながら「10万円くらい臨時収入があるから春休み旅行しよ」と送信した。それでも金はとるつもりだから。略して、それから。

 

 

 

 翌々日の午前中、いのりは教室で何をするでもなく、ぼんやりとしていた。ほとんどの生徒は自宅学習、登校してきた生徒も自習か、おしゃべりをしている。いのりのように何もしていない生徒も少なくないが、そこへ木瀬歩が近づいてきた。

「こんにちわーぁ♪」

 関西訛りのある挨拶をされ、いのりの机に紙コップが二つ置かれた。

「ちょっと、おしゃべりせん? ま、飲んだってよ」

「あ、ありがとう……木瀬さん」

 三年間同じ学校に通った同性なので名前くらいは知っていた。いのりは関西人の馴れ馴れしさは特有だなァと思いつつ勧められた紙コップの紅茶に口をつける。

「熱ちッ」

「ふ♪ 飲んだ、ね?」

 歩が不敵に微笑む。

「タダより高いもんは無いちゅー諺、知っとる?」

「………身にしみて…」

「しみ方が足らんのとちゃう? ま、ええわ。たいした質問やないから正直に答えい」

「…はい…」

「あんた鷺沢と付き合てたよね?」

「………。うん…」

 すでに歩の質問も過去形だと関西弁を翻訳することができたので、いのりは肯定した。

「ほんで、今は別れたと」

「…うん…」

「あんた、ええ子やね」

「?」

「いんや、これが、あの根性悪女やったら、こんな質問したとたん紙コップぶちまけよるとこや」

「?」

「次の質問や」

 歩は軽い調子で話しているが、いのりを観察するように目を見つめてくる。

「鷺沢と付き合とる間に、浮気とかあった?」

「……。ない、よ」

「あったんや」

「っ!」

「否定せんでええよ。顔に書いたる。目ぇも逸らしたし」

 歩は大袈裟に肩を落とすと、いのりの腕を撫でてきた。

「あんたも可哀想にな。ひどい女やね」

「…………」

「ま、これで裏は取れた。まさかホンマに鷺沢と付き合うとるとは……ま、その方が、おもろいか」

 歩は立ち上がるとケータイを見つめている。

「ほな、さいなら♪」

「ま、待って! 木瀬さん!」

「ん、なんよ?」

「話がぜんぜんわかんない!」

「? …………。……もしかして……知らんの?」

「知らないって、なにを?」

「あちゃッ…………そっか、それで二人で秘密にしとったんや……ホンマ汚い女や。秘密にするならするで卒業まで秘密にしとけばええのに、ウチらにつつかれたくらいでバラしおったら陵さんの立場がないやん」

「だから、何の話なの?!」

「………しゃべらな、あかん?」

「……」

「そ、そんな呪い殺すような目ぇで見んといてよ。あんた見かけによらず怖い子やね。ああ、ビビったァ……しゃべる! しゃべるから、その目ぇやめい!」

 歩は自分の髪をかきあげ、耳にかけてから話しにくそうに伝える。

「ショック受けんときや。………その…、あれや、……鷺沢と藤原、付き合おとる…らしい。というか、本人らから聞いた」

「ウソっ!?!?!」

「大声ださんと」

 歩は想定内だったので耳を押さえていた。

「こんなウソついて、どないなるよ? エープリルフールには、まだ一ヶ月以上あるんよ」

「…………」

「ということや。ほな、さいな…」

 歩は早々に立ち去ろうとして考え直す。いのりの利用価値を考え、使うことにした。

「あんたも釈然とせんやろ、どや?」

「……」

「いっそ、藤原に直接、訊いてみるちゅーのは?」

「………」

「よしゃ、決まりや。おいで」

 歩が手を引いてくるので、いのりは慌てた。

「ま、まって! 教室にはイッシューがいるかも…」

「わかっとる。あいつらの教室に行くんとちゃう。女子トイレよ」

「トイレ?」

「ええか、藤原は三時間目が終わった後、ほぼ必ずトイレに行きよる。ほんまに計ったようにピッタリ行動しよるから確かや♪ 私はずっと観察しとるから藤原の行動パターンなら暗唱できるよ」

「………」

 木瀬さん、それは同性とはいえストーカー行為です、いのりは自分の回りには、どうしてストーキングしたりする人が多いのだろう、と嘆きつつも一蹴とのことは気になるので歩とトイレに入った。

「ほら、おった」

 歩が個室に入ろうとしていた雅を指した。

「なんですか?」

 雅は虫けらのように「ほら、おった」などと言われたので不愉快きわまりなく、歩を虫けらでも見るような目で睨む。

「「……」」

 お互い睨み合い、虫けらでも見るような目で見つめ合う。特殊な人と人との関係だった。

「ドロボウ猫が一人前に人様の便所で用足しよるとは世も末やね」

「あなたこそ下品な言葉遣いをやめなさい」

「ぐっ! 関西弁のどこが下品やちゅーねん!!」

「全てです」

「ざけんなや!!」

「そうやって、すぐに怒鳴り散らす。底の浅い証拠です」

「ムカつくわぁ!! ホンマ叩きのめしたる!!」

 歩は掃除用具ロッカーから、デッキブラシを二本取り出すと一本を雅に投げ渡す。

「勝負や!!」

「くだらない」

 くだらないと言いつつも構える雅、わざわざ相手に対等な武器を与える歩、いのりは二人を見ていて実は仲がいい、もしくは掛け違えたボタンの一つさえ直せれば、きっと無二の親友になれそうな気がしたが、今は目の前のケンカを止めようと割って入る。

「やめて!!」

 人がケガをするところは絶対に見たくなかったから。

「やめて!! ケンカしないで!! 女の子なのに!!」

「「……」」

 いのりに水を差され、二人とも矛を納める。

「せやった、くだらん挑発にのってやる場合やなかった。陵さん、本題に入りぃ」

「う………」

 いのりは関西人の切り替えの速さに圧倒され、二の句が継げない。

「遠慮することはあらへん。あんたは被害者なんや!」

「………」

「何か私に話があるようですね。……察するところ、鷺沢のことですか?」

 雅が先に切り込んできた。

「なにか文句があるなら言いなさい」

「…う………」

「早く言いなさい」

「い………イッシューと……付き合ってるって本当なの?」

「ええ、本当です」

「……いつから?」

「…そんなこと、あなたには関係のないことです」

 本当は歩に教えた瞬間からだったが、それは言えない。なにより、段階的には偽りの関係だった。

「関係ないことあれへんやろ? 陵さんは鷺沢と、つい最近まで付き合おとったんよ」

「その関係は陵から解消したと聞いています。今さら……男が男なら、女も女で未練がましい」

 吐き捨てるように雅が言い、いのりは目を伏せた。

「話は終わりましたか」

「「………」」

「まったく不愉快な…」

「藤原さん……イッシューを……、お願いします」

「………、…あなたには関係のないことです」

「それでも……私、ひどい別れ方をしたから…」

「では、なおさら」

 雅が鋭く、いのりを睨む。

「あなたから一方的に離縁したのなら、なおのこと今さら善人ぶって私にお願いしますなどと、よく言えたものです。恥知らずな」

「ッ……それでも、お願いします。……イッシューには幸せになって、ほしいから…」

「…………くだらない…」

 雅は言い切って個室に入った。

 

 

 

 昼、屋上で雅は手作り弁当を食べさせながら、一蹴に言い放った。

「この世の全ては偽りでできている。私はそう思っています」

「……このミートボールも?」

「…………。……バカですか」

「あ、そっか。狂牛病とか、産地偽装とか、そういう意味?」

「……………」

「実はミートボールと見せかけて、豆腐ハンバーグみたいに材料が違う、とか?」

「……私はもっと観念的な話をしているのです」

「観念的……観念的かぁ……」

「バカに話しかけた私がバカでした」

「おお、トートロジー。単純な自己矛盾によるパラドックス論理♪」

「…………」

「はい、すいません。観念的ですよね。観念的」

「………」

「この世の全ては偽り………たとえば?」

「たとえば、真実だとか、無償の愛などというものは存在しないのです」

「………真実…か………。たしかに、…」

 一蹴は立ち上がってグラウンドを見渡した。

「この地球だって今は丸いってことで統一見解になってるけど、実はやっぱり平らかもしれないしね」

「………天動説ですか…」

「でもさ、キリスト教が栄える前、ギリシア時代にはちゃんと星の動きとか、太陽の動きから地球が丸いってことも、その半径さえもわかってたのにな。真実を中世になってかえるんだから、人間って進歩してるとは言い切れないよな」

「……………」

「なんだよ、その目は」

「バカなだけだと思っていましたが、意外とものを考えているのですね。少しは見直したという目です。喜びなさい」

「はい、はい、ああ、嬉しいなぁ♪ 喜ばしいぃなァ♪ 神さまに感謝しよう。お弁当も美味しかったし、藤原さまにお褒めいただいたし♪ 今日は人生最高の日だァ♪」

「クスッ…やっぱりバカです。バカにつける薬はありませんね」

「誉めたと思ったら、これだからなぁ……ま、さっきの地球うんぬんも受け売りだしね」

「どこから仕入れたのですか?」

「サッカー部の先輩でさ、宇宙が好きな人がいたんだ」

「宇宙が好きとは、またとらえどころのないものを好きになったものです」

「とらえどころのあるものを好きになって問題とかも起こしたけど……あ、もしかして、この世の全ては偽りとか考えるようになったのって、その先輩の影響じゃないか? あの人、浜咲の生徒たちの恋愛観について悪影響を与えたし…」

「……伊波…」

「健」

「「…………」」

 二月、屋上でのランチタイムは寒かった。

 それでも地球は回っているから。略して、それから。

 

 

 

 雅からの電話で突然に呼ばれた藤原本家での茶会から、雅と一蹴は逃げるように街中を走っていた。

 追ってくる者はいない。

 けれど、雅も、一蹴も、なにかから逃げるように必死に走っていた。

 固く、固く、手を握りあって。

 

 

 

 あすかは女優を自負しているものの、あまり仕事は多くない。高校にも積極的に行く気になれない。

「今日は、どうしよっかなぁ……、あ、学校休みか♪」

 早蕨美海が誘ってくれ、かつ、睡眠不足でなかったときだけ登校するというゴージャスなライフスタイルだったが今日は休日、兄たちを遊びに誘うことにした。

「遊園地に行きたい! 三人で♪」

「いい気晴らしになるかもしれないな。行こうか?」

「ぇ……、……でも…」

 いのりが戸惑うと、あすかが追い打ちしてくる。

「あすかがいるとお邪魔かな? 二人っきりがいい?」

「そ、そういうつもりじゃないの!」

「じゃあ、なに?」

「……こ……今月……お小遣い厳しいし……」

「なんだ。それなら、お兄ちゃんが出してくれるよ」

「そんなの…」

「いいの、いいの♪ あすかから誘ったんだし、妹の責任は兄の責任♪」

 あすかは強引に話をまとめて三人で出かけることになった。

 

 

 

 マリンランドの観覧車で、あすかは金欠の理由を訊いて憤った。

「ピアノ辞めるならレッスン料48万円よこせって?!」

 狭い観覧車のカーゴ内に、あすかの声が響く。

「ふざけすぎ!! 最初はタダって約束だったんでしょ?! そんなの払う必要ないよ!!」

「ぅ……うん……でも、ほたるさんに、さんざんお世話になって、……なのに、急に私が辞めるっていいだしたから、ほたるさんが怒るのも無理ないし……」

「お兄ちゃん! これって払わないといけないの?!」

「うむ……オレは芸術学部だからな、こういう債権債務については…」

 雄介が少し大学生らしく頭脳を使ってみる。

「白河先輩は過去二年分と言ってきた。これは音大生ながら民法173条3項にある、学校・塾・個人教授などで、教育したり、茶の湯・生花・洋裁などを教える場合、生徒に対する授業料・衣服費・寄宿費などの債権は、二年間行使しないと消滅する、という短期時効あるからね。だから、時効にかからない二年分は取れると踏んだのかもしれない。音大とはいえ芸術学部なみに一般教養はあるだろう、あまりナメてかかると痛い目をみるかもしれないな」

「けど! いのりさん最初はタダって約束で始めたんだよ!」

「そこが難しいところなんだ。無料というのは口約束だったろうし、そもそも教えてあげる、と言っただけで無料か有料かは決めていなかったかもしれない」

「けど!! いきなり二年分も取るなんて!」

「うむ、あすかの言う通り、急に請求するというのは信義則違反だ。けれど、こちらがピアノを辞めると言い出したのが原因であるなら、むしろ信義則違反は、こちらにある。金銭価値はどうあれ、白河先輩は将来同じピアニストになってくれることを目当てにしてレッスンしていた、と主張してくるかもしれない。なにより、問題なのは、すでに10万円強の支払いをしてしまったことだ。これが、まずい」

「どう、まずいっていうの?」

「これは債務の承認にあたるんだ。つまり48万円を支払う義務を認めて、そのうちの10万円を現実に支払ってしまった。だから、相手方は残金についても支払ってもらえると当然期待するし、もはやレッスン料が高いか、安いかは問題じゃなくなる。それにレッスン料は一時間5000円で計算されているから、実は白河先輩のレベルを考えると妥当な金額かもしれないし…」

「役立たず!! 兄さんは、どっちの味方なの?!」

 あすかは窓を叩いた。雄介が状況に応じて無意識に「オレ」と「ボク」を使い分けるように、あすかは好感を表すときに「お兄ちゃん」を使い、嫌悪感を含めたときには「兄さん」を使う、よく似た兄妹だった。

「あすかちゃん、いいの。私、ちゃんと支払うつもりだから……ほたるさんを怒らせたのは、私の身勝手だから…」

「…いのりさん…」

「一つだけ、いい方法がある」

 雄介が提案する。

「これは常套手段かもしれないし禁じ手かもしれないけど…」

「役に立つんでしょうね?」

「たぶん、ね。白河ほたるは成人だけど、陵いのりは未成年、あすか、この意味がわかるね?」

「あ、わかった!! 少年法! 相手を殺しても少女Mで済むから!!」

「ほぼ正解」

 大ハズレだったが雄介は妹の御し方を間違えない。

「あすかは賢いね。正解は民法5条、未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。これに反する法律行為は取り消すことができる。これにより、すでに支払った10万円でさえ取り戻せるかもしれない。ただ、……君に、その気があれば、だけど」

「雄介さん………いいんです。……私が…悪いから…」

「君なら、そう言うと思ったけど。残りはどうするつもりだい?」

「……なんとか…します…」

「いのり姉さん、なんとかって親ともケンカしてるじゃない? どうするつもりなの?」

 あすかの中で、いつのまにか「いのりさん」から「いのり姉さん」に昇格しているようだった。

「……あすかちゃん、……いいの……なんとか頑張ってみるから……」

「まさか、アコムとか、武富士じゃないよね?」

「あすか、それは無理だ。さっきと同じ未成年って理由があるからな」

 雄介が軽く手を叩いて、提案する。

「それじゃあ、こうしよう♪ 君はボクの映画に出演してくれる。そしてボクから出演料の38万円をもらう。ってことでどうだい?」

「っ…ダ、ダメです! そんなお金もらえません!」

「そんなことはないよ。な、あすか、出演料は正当な報酬だよな?」

「うん♪ ナイスアイデア!」

「そんなことまでお世話になるなんて、ずっと居候させてもらって……ぇっ!」

 いのりは途中で喉を詰まらせて言葉を切った。それが単なる遠慮や感激ばかりでないことに兄妹は気づいた。

「…っ………っ……」

 いのりは観覧車から眼下に見えるメリーゴーランドを見つめ、耐えきれずに涙を流している。メリーゴーランドには一蹴と雅の姿があり、かなり距離が離れていても一蹴だとわかり、さらに雅も和服姿なので、よく目立った。

「……っ………ひっく………」

「…いのり姉さん……」

「いのり」

 兄妹は泣き震える肩に優しく触れ、泣きやむまで待っていた。

 

 

 

 翌日、登校する必要はないのに、いのりは浜咲学園の自分の教室で時間を潰していたが、歩に誘われて女子トイレにいた。

「木瀬さん、いったい何を見せてくれるの?」

「藤原の盗撮写真や♪」

「………」

 木瀬さん、とうとう盗撮まで始めたんですね、いくら同性でもストーカー行為です、いのりは見たくないという表情を浮かべたが、歩は長年の友達みたいな気安さで肩を抱いてくる。ちょっと親しくなると親友のように馴れ馴れしくなる、関西人の生物学的特徴だった。

「あんたも気になるんちゃう? 藤原が鷺沢以外にも男がおるちゅーたら」

「っ?! イッシュー以外に?!」

「ほれ、見せたろ」

 歩はケータイに記録してある盗撮画像を見せてくれる。やや粗いものの雅本人が年上の男性のクルマに乗り込むところが写っていた。

「……これ……藤原さん……。でも、これだけじゃ相手の男の人と、どういう関係かまでは……」

「せや、なんとなく雰囲気的には男女っぽいけど、ただの親戚のオッサンかもしれんし。そこはカマかけてみんとな」

「…………そんなことして、どうするの?」

「ええか、これをネタに藤原をおどして鷺沢を巻き込んで薙刀の演舞試合をさせんねん」

「……どうして?」

「あいつに恥をかかすためや!!」

 力一杯に叫んでくれた歩だったが、いのりは疑問が消えない。

「……あの……木瀬さん、イッシューって薙刀したことないのに巻き込んだところで、負けて当然なんじゃないの? どうしても藤原さんに恥をかかせたいなら、他にもっとまともな方法があると思うんだけど?」

「どんな方法があんねん?!」

「……たとえば、…ありきたりだけど…この写真を印刷して学校にバラまく、とか…」

「そんな卑怯な方法は却下や!!」

「……………」

 盗撮写真でおどすのは卑怯じゃないんだ、いのりは歩の心中を計りかねる。

「だいたい、その方法やったら犯人が名乗り出ることができんやん! ええか、藤原が直接にウチに負ける必要があるんや! 直に! 直接に! 目の前で! あいつを負かさな意味ないんや!!」

「…そ……そうなんだ……」

「ああそうや! あいつは最低の根性悪女や! あのスマした面の下に最低最悪にねじ曲がった性根をもっとんや!」

「………………」

 そういう個人的復讐に私とイッシューを巻き込まないでほしい、いのりは寒い女子トイレから教室へ戻りたくなったが、やっぱり気になっている。そして、歩の予定通り雅は定刻に女子トイレに入ってきた。

「……」

「……」

「……」

 いのりと雅、歩、三者の視線が複雑に絡み合い、そして雅は無視して通り過ぎようとしたが、歩がケンカを売る。

「あんたフタマタかけとぉやろ?」

「相変わらずバカですね。何を根拠にくだらない言いがかりを…」

「根拠はこれや」

 歩はケータイの画面を雅に向けた。

「っ………」

 画面を見た雅の顔が凍りつく、今までの超然とした態度とは明らかに違い、いのりの目にもわかるほどの動揺が見て取れる。

「あはは♪ 顔に描いたるよ? マズいもん撮られたぁぁって」

「…………」

「あんた鷺沢と付き合うとるのに、別に男おんにゃ? ええ根性しとるね?」

「………………。くだらない………」

 雅は言い捨てて顔を背けたが、いつもほどの覇気がない。それで歩は作戦を進める。

「これを鷺沢に見せられとぉなかったら、鷺沢とペアを組んで私らと演舞試合で勝負や!!」

「………。そんなことに何の意味があるのですか?」

「勝負ちゅーたら勝負や!」

「しかし、鷺沢と陵は薙刀の素人でしょう? 二人を巻き込んでどうするのです? 勝負なら一対一ですればいいでしょう?」

「み、陵はちゃうで! 私はいつもの部員と組む! あんただけ鷺沢と組むんや! 彼氏やろ!」

「……………………。それでは、一方的に木瀬に有利ではないですか?」

「に、逃げるんか?! 逃げるんやったら、この写真を印刷してバラまくで!!」

「………………。……勝負を受ければいいのでしょう」

「せや! 最初から素直に受ければええんや!」

「話は終わりましたか」

 雅は個室に入ろうとしたが、いのりが寄ってくる。

「藤原さん」

「何ですか?」

「……イッシューと………付き合ってるんだよね?」

「ええ、そうです」

「じゃ……写真の男の人は、藤原さんのなに?」

「………。あなたには関係のないことです」

 いつも通りに雅は切り捨てようとしたが、いのりが追いすがってきた。

「イッシューと本気で付き合ってるの?! どうなの?! 本当にフタマタなの?!」

「…………あなたには関係のないこ…」

「答えて!!!」

 いのりの気迫に雅は目を丸くして驚いたが、すぐに冷たく睨み返す。

「陵、あなたは鷺沢と離別したのでしょう。今さら未練がましく…」

「答えて!! イッシューをどう想ってるの?!」

「………。……ふんっ、…くだらない。……別に、なんとも想っていません。高校を卒業前に恋人の一人や二人いた方が女としての箔がつく、そう想って誘っただけのことです。いえ、誘ってきたのは一蹴から、でした。だから、少しばかり相手をしてやっているだけのことです」

 雅は真実と偽りを混ぜて説明した。きっかけは単に歩にからかわれて勢いで一蹴を恋人だと偽ったのが、今では引っ込みがつかなくなっている。その上、許嫁の存在は誰にも知られたくないことだった。

「……イッシューを……からかってるの? ……」

「ほれ、みてみぃ♪ 最悪の根性悪女や! どうせ男のことなんか下僕くらいにしか考えとらんにゃで! 鷺沢のことかてソレ扱いやしね!」

「私が私の恋人をどう扱おうと、あなたたちに指図される覚えはありません」

「うわっ…ホンマに最悪発言や」

「ふんっ…」

 雅は鼻を鳴らし、いのりを振り払おうとした。

「さあ、どきなさい」

「本当に……イッシューを、なんとも想ってないのに………付き合ってるの?」

「何度も説明させないでください。あなたには関係のないこと、そう言ったはずです」

 雅は冷厳に言い放った。それで、いのりなら萎縮すると思ったが、食い下がってくる。

「藤原さんの本当の気持ちを教えて。どうなの? イッシューと本気なの? からかってるだけなの?」

「………。さあ? どうでしょう。本気になってやってもいいかもしれませんが、からかっているだけ、かもしれませんね?」

 雅は無意識に自分の心情を吐露していたが、いのりの顔色が変わった。

「もし、……もしも、イッシューをからかっているなら……イッシューを傷つけたなら……私は…私は…」

「「……」」

「私は、あなたを許さない」

「……ふんっ! いい加減、そこをどきなさい!」

 雅は腕力でも技術でも勝っていることを利用し、いのりにつかまれている制服の袖を一振りしただけで羽虫のように払った。

 いのりは為す術もなく一回転半させられ、歩に支えられて倒れ込むのだけはまぬがれる。それを雅が見下ろして、勝ち誇る。

「何が許さないですか、あなたが私に勝てるわけがないでしょう」

「許さない」

「……許さなければ、どうだというのです? だいたい、あなたの許可などいりません。私の恋人は私のものです。私が不要だと思ったときには遠慮なく捨てるでしょう。あなたがしたのと同じように」

 格闘でも論理でも雅は自分が勝っていると思い、これで、いのりも黙るだろうと睨みつけた。

「……」

「…イッシューを……傷つけたときは……絶対に……絶対に……」

 いのりが呪い殺すような目をした。

「…許さない。……私、あなたに何をするか、わからない」

「っ…!」

 思わず雅は後退りして個室のドアに背中がぶつかる。

「………私、あなたに何をするか、わからない…」

「……っ……」

「……」

「……く、…くだらない……くだらないです!」

 なんとか言い放って雅は個室に入るとドアを閉めた。

「…ハァ……ハァ……」

(あんた実は怖い女やねんね。……横で見とっても怖かったわ……)

(…………私は……なにも……)

(目ぇだけで呪い殺すつもりかと思たよ。あの藤原がビビって逃げよったし。あいつチビっとるかもしれんで♪ あははは♪)

「(………………)」

(ほな! 藤原ぁ試合の話っ! 忘れんときや!!)

 歩はドア越しの雅にも聞こえる大声を出した。

(木瀬さん、試合なんかよりイッシューに写真のことを教えて…)

(あんたも優しい子やね。別れた恋人をそこまで心配せんでもええんちゃう?)

(でも、本当に藤原さんがイッシューをからかってるなら…)

(それは鷺沢の問題やん。その様子からホンマは別れとうないのに何か事情があって別れた、とか? 相談にのったろか? 藤原から取り戻そか)

(………。木瀬さんには関係ないことなの…)

(そーでっか。ま、ええわ。ウチは試合さえできたら、ええんや)

(イッシューに写真のことを…)

(心配する気持ちはわからんでもないけど、あんた噂通りに自分から別れよ言うたんやったら、今さら鷺沢に、新しい恋人が浮気してますよぉ、フタマタかけられてますよぉ、って告げ口するのはお門違い、というか、イヤミなだけやし、あんたの口から聞いたら普通の男やったら信用せんで?)

(っ…………)

(ほんな暗い顔せんと)

(……)

「………………まったく………くだらない……」

 いのりと歩が立ち去る気配がしてから、やっと落ち着く。

「………くだらない……」

 吐き捨てるように言いつつも、雅は寒いはずのトイレで下着が濡れるほど汗を浮かべている自分に気づいた。そして寒さ以上に指が震えている。

「………」

 この世で自分を畏怖させることができるのは祖母だけだと思っていたが、いのりは別の意味で怖かった。

 

 

 

 CUM研の部室で雄介から話を聞いた香月は事務机を叩いた。

「出演料38万円だと?! ふざけるな!」

「正当な報酬ってことで予算にしてくれよ、香月」

「なにが正当な報酬だ! 今まで劇団員に頼んだ場合でも足代くらいしか出してないんだぞ! それが演技の素人に報酬?! それも高校生?!」

「すぐに卒業するさ」

「そんな問題じゃない! だいたい撮影前に前払いで、今すぐ払えってのは何なんだ?!」

「前払いは業界じゃよくあることだよ。あすかだってもらってる」

「お前の妹はプロだからだ!」

「彼女のピアノ演奏はプロ級だよ。それにオレの脚本には、なんとしても彼女が必要なんだ。そのための予算だ。頼む」

 雄介が両手を合わせて拝んでくると、その罪のない表情のために香月は千分の一だけ迷ったが、すぐに頭を振って机を叩く。

「ダメだ! ダメだ! ダメダメだ! CUM研の財布を預かる者として絶対に許可しない!!」

 とくに役割を決めたわけでもなかったが、自然とCUM研の会計は香月ということになっていた。しかし、いのりのために工面したい雄介は粘る。

「いいじゃないか、香月。去年ほとんど活動しなかったから、予算余ってるだろ? たしか、18万ほど」

「その全部を高校生に貢ぐ気か?! しかも20万足りない!」

「足りない分は大学に頼めば10万円まで予備費申請できたろ?」

「予備費申請は臨時の出費のみだ! だいたい申請書や理由書だとか、どれだけ必要書類があると思ってるんだ?!」

「香月なら立派に申請書類を仕上げてくれるだろ?」

「たとえ、それでも10万足りない!!」

「香月、たしか洋画のDVDを買うって貯金してたよな? 春人の誕生日のために」

「あ、あれは私個人の財布だぞ?!」

「………」

 雄介は優しく微笑み、窓から空を見上げた。

「香月、春人にウソをついてるよな?」

「っ…」

「バレンタインの夜」

「………」

「春人のやつ、悩んでいるよな? バージンの責任は重い。けど、人妻なら一夜の過ちも許されるかもしれない」

「…………」

「なのに、春人は悪趣味なことに、未亡人、年上、巨乳というキーワードに欺されている」

「………」

「香月、春人を救ってやってくれないか?」

「……なにが……言いたいんだ?」

「オレは香月と春人、お似合いだと思うよ。それに比べて」

 雄介は小声で囁く。

「春人のためを想うなら、やっぱり未亡人は良くない。このままじゃ春人、一生ミッキーさんの代わりにされてしまう。それを救ってやれるのは香月だけだ」

「…………だから……私は……春人の誤解を利用している……と?」

「汚い女だな」

「っ……………」

「でも、仕方ないさ。それが春人のためなんだから。それはオレもわかってる」

「………雄介、お前……何が、言いたい?」

「ただ、オレも心が痛むよ。春人も香月も仲間であり親友なんだ。その一方に秘密があるっていうのは、………つらい。……黙っていることが、つらい」

「………」

「春人に教えてやる方が、……いいのか、迷う日もある」

「…………口止め料……?」

「彼女も困っているんだ。救ってやりたい。どうしても38万、必要なんだ。わかってほしい」

「……お前は……悪魔か、それとも、天使か……」

「ボクは彼女の幸せを願う、そのためには鬼にも悪魔にもなるよ」

「…………。……けど、DVDのために貯めたのは5万そこそこで……あと、5万…足りない」

「香月」

 ゆっくりと雄介は香月の手に手を重ねた。

「春人に頼んでくれ」

「………?」

「こう言えばいい。何も訊かずに5万円、用意してほしい、それで忘れるから。こう言いながら…こう…」

 雄介は重ねている香月の手を彼女自身の下腹部にあてさせ、ゆっくりと痛々しく撫でてみせた。

「大丈夫、春人は鈍い」

「…」

「鈍いから大丈夫。きっと予想通りの誤解をしてくれる。そして、それ以上は詮索しない」

「………イヤだ。そこまで春人を欺したくない」

「香月」

「イヤだ!」

「香月、負けそうなんじゃないのか? 今日も春人は学校に来てないな? たしか、風邪を引いたんじゃないか? なぜか、バイト先で隣室の雨宮さんも風邪を引いている。これは苦しい戦況だな」

「………………」

「一発逆転するには、これしかない」

「…………だけど……私だって、春人に……ニセの罪悪感を持たれたまま一生…」

「それなら、あとで言えばいいさ」

「言えるわけがない!」

「違うよ。中絶するまでもなく検査の後で流産したっていえばいい。いや、むしろ生理が遅れただけだったってさ。それなら女としての香月も保てる。金は、いたたまれずに孤児院へ寄附したとでもいえば、春人は優しく香月を慰めてくれる。大丈夫、オレが保証する、春人は、いい男だ」

「……………」

「香月」

「……………」

「人生を恐れてはいけない」

「…………」

「人生に必要なものは?」

「………………ほんの少しの……お金……」

「正解♪」

「………………」

 うなだれる香月の肩を雄介が軽く叩いた。

「香月」

「…………」

「お前は真っ直ぐ歩きたいか?」

「………………歩きたかった……」

 香月は買ったばかりのスカートに涙を落としていた。

 それでも負けたくないから。略して、それから。

 

 

 

 ならずやでバイト中の一蹴は明日から薙刀の特訓だと言われている。あまり納得していなかったが、歩との不仲が原因だとは知らされていた。

「……ったく、…なんでオレが……」

「一蹴くん、ご機嫌悪いね? 新しい彼女できたばっかりなのに、またフラれたの?」

 ほたるがカウンター席から話しかけてきた。

「別に……雅とはうまくいってますよ」

 雅、一蹴と呼び合うことは決めたものの、偽りの関係であることは変わりない。あまり他人に話したい話題でもなかった。

「ふーーん……」

 ほたるは髪の毛をくるりと回して話題を変える。

「いのりちゃん、ピアノ辞めるってよ」

「いのりが?」

「あは♪ その反応、まだ未練あるみたいね?」

「……別に……いのりとは、もう終わりましたから」

「どうしてピアノを辞めるのか気になる、って顔に描いてある♪」

「………。ほたるさんこそ、愛弟子が辞めるっていうなら、心配じゃないんですか?」

「辞めたいなら辞めればいい。そう思うけど?」

「……………。そうですね」

「だいたい恩知らずなのよ。ずっとレッスンしてあげたのに辞めるときは電話一本で……ちょっと、ごめん。……あ? 日名くんから……なんで、だろ…」

 ほたるは当然と言えば当然の文句を言い始めていたが、そこでケータイが鳴って店内なので小声で応答していたが、すぐに笑顔で電話を切った。

「ほ、ほ、ほ~たる♪ 来い♪ こっちの水ぅは甘~いぞ♪」

「いい知らせですか? 顔がゆるんでますよ。それマイソングですか?」

「エヘヘ♪ わかる?」

「もうダメダメなくらい笑顔です」

「だってね、諦めかけてたバイト代が入ることになったの」

「それは、おめでとうございます。いくらくらい?」

「38万♪」

「38万も?! よく諦めようなんて思いましたね? オレなら許せない金額ですよ」

「エヘヘ♪ せいぜい10万で終わりかなって思ってたんだけど、やっぱり、ふっかけてみるもんだね。全部で48万だよ♪」

「……それって、ヤバイ金ですか? 白い粉とか売ったり?」

「失礼ね」

「だって48万っていったら、オレだったら半年分のバイト代ですよ」

「時給800円そこそこと、ほたるをいっしょにしないで。ほたるのレッスン料は一時間5000円なの! …あっ?! 失敗した!」

「どうしたんですか?」

「消費税! 請求するの忘れちゃった! 本当なら5250円なのに! ああ……全体で2万4千円にもなるよぉ……」

「ほたるさん……どうせ、納税しないでしょ?」

「取れるものは取った方がいいの! 金は天下の回りもの♪ 健ちゃんは、ほたるだけのもの♪」

「ノロけないでくださいよ。こっちはフラれたばっかなんですよ」

「いいじゃない♪ 新しい彼女、できてるんでしょ」

「それは……まあ……そうですけど…」

「ね、ね♪ 新カノとは、どこまでいったの? エッチした?」

「してません!!」

「きゃは♪ 赤くなったぁ! 初々しぃ」

「怒りますよ」

「いのりちゃんとは、したよねぇ?」

「っ……。ノ…ノーコメントです!」

「いいよ、いいよ、バレバレだし。二人とも、もう高校生じゃないしね」

「…………」

「新カノさんは口説けそう? あのタイプは奥手っぽく見えてて意外に積極的だったりするよ。私を女にしてください、一蹴、愛しています、とか言ってくれちゃったりぃぃ♪」

「静流さーーん、なんとかしてくださいよ! お姉さんでしょ?!」

 一蹴は助けを求めたが、静流は生暖かく見守ってくれただけで、ほたるワールドは閉店まで続いた。

 それ以上、聴きたくないと言ったのに、ほたるは健との初夜まで語ってくれたから。略して、それから。

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