雅は一蹴との練習を終え、門限に余裕を持って帰宅していたが、藤原家の門前で後輩に呼びかけられた。
「藤原先輩」
「……あなたは……たしか……一蹴の…」
「妹の鷺沢縁です」
小柄な後輩は待ち伏せしていたようだったが、礼儀正しく挨拶してきたので雅は微笑んだ。
「私に何か用ですか?」
「はい。…」
縁は少し迷ってから告げる。
「お兄ちゃんを、よろしくお願いします」
「……え…ええ…」
なんと答えるべきか雅が言い淀んだ。
「いのり先輩に、ひどいフラれ方をしたから、お兄ちゃん、すごく傷ついているの」
「……」
「顔には出さないけど……ユカリにはわかるから……」
「…………。あまり一蹴の過去を詮索したいとは思いませんが、陵と何があって別れたのか、知っていますか?」
「ユカリも詳しくは知らないんですけど……いのり先輩、二年生の頃に浮気してたし……それが原因かも………でも、お兄ちゃんは、ぜんぜん知らないまま……」
「陵が浮気……?」
「浮気が本気になって、忘れたくても忘れられなかったのかも………結局、別れた後、ちょっとユカリが誘導したら、その大学生と…」
「誘導?」
「な、な、なんでも無いにゃ! ユカリは、ずっとお兄ちゃんを見守ってるだけにゃ!」
「…………。その話が本当だとすれば、一蹴は一年以上も裏切られたまま、陵と付き合っていた、ということになるのですか?」
「一応、二年の夏には、その大学生と会うのをやめたみたいにゃけど……、お兄ちゃんと別れてからは毎日、その大学生の家に泊まってるし」
「外泊……不埒な……」
午後七時が門限である雅にとって外泊などありえない話だった。
「……まったく…」
「それだけじゃなくて、怪しい感じのバイク乗りさんとも、よく会ってるし………いのり先輩が、あんな人だとわかっていたら、絶対にユカリはお付き合いを許さなかったのに…」
「…クスッ…」
思わず雅は失笑していた。まるで妹の許可がないと交際が許されないかのような言い方が、祖母に管理されている自分と、あまりに似て非なる状況なので、むしろ可笑しかった。
だから、普段の雅なら言わないような冗談が口をついて出てくる。
「それで、私と一蹴の交際はお許しいだだけるのでしょうか? ユカリ様」
「にゃッ?!」
「どうか、お許し願いたく存じ上げます」
「……ぅ……うん……いいですにゃ…」
もじもじと照れてしまった縁が可愛くて、雅は頭を撫でた。
「あなたのような可愛らしくて賢い妹ができるなら一蹴と結婚してもいいかもしれませんね」
「ユカリも強くて賢いお姉さんができると嬉しいですにゃ♪」
二人とも期末テストの成績は常に一位、学年が違うために掲示板では毎回並んで発表される。それを覚えるともなく覚えていた。もう一度、縁の頭を撫でてから別れの挨拶をし合い、雅は藤原家の敷地へ踏み入った。
「本当に、お兄ちゃんを頼みますにゃ♪」
「…。ええ…」
微笑ましく別れるはずが、最後に投げかけられた縁の言葉は、雅の背中に突き刺さり、まるで日本刀に胸まで貫通された気分だった。
「……」
縁は二人の関係が偽りであることを知らない。
なのに、軽々に無垢な頼みを引き受けたことが、雅の良心に痛みを知覚させた。
「………嘘つき、ですね。………この卑怯者」
自分自身を薙刀で打ち据えたい衝動を覚える。
「…………全ては、偽りでできているのです……」
胸の痛みを噛み殺して、雅は冷たい家の中へ、帰った。
翌日、いのりは武道場が気になって仕方なかった。
雅と一蹴の様子が知りたくて居ても立ってもいられない。けれど、顔を出すわけにもいかず、情報を得られそうな歩に話しかけてみたが「ほんなもん様子なんか見んでもウチらの圧勝や! 大船に乗ったつもりで任しときぃ!!」と見当違いな答えしかくれなかった。
いのりは教室と廊下を無意味に行き来している。
登校する必要がないのに来ているのは一蹴の様子を知りたいがためだったけれど、扉との約束があり積極的に会うこともできないし、また自分から別れた以上、会いに行くのも筋違いだとわかっている。
「……………」
「二人の様子が気になる?」
「はい………ぇっ?! いつから、そこに?!」
いのりは背後にいた雄介を振り返って驚いた。
「雄介さん、大学は?!」
「春休みに入るのは高校より、はるかに早い♪ それに、君のことが気になってね」
「…………また、私服で無断侵入ですか……いつか、不審者として通報されますよ」
「それより、あの武道場が気になるなら、こっちに来てごらん」
雄介は校舎の屋上へと案内してくれた。
「ここからなら、高い位置にある武道場の窓でも中の様子がわかる」
「……でも、遠すぎて…」
あまりに遠すぎて、いのりの目にも一蹴なのか、他の部員なのか判断できない。人影らしきものが動いている程度だった。
「遠すぎるし、窓の反射でぜんぜん中の様子までは……」
「大丈夫♪」
雄介はカメラ用の三脚を立てると、ビデオカメラを設置して最大望遠にする。
「窓ガラスへの入射角は計算済みさ。ノクトビジョンにしてエフェクトを…こう♪ よし♪」
「……あ、見えました♪ イッシューと藤原さん!」
モニターに練習中の二人が映っている。
「………イッシュー……まじめに練習してるんだ……」
一蹴と雅の仲がいいのか、恋愛感情があるのか、まではわからないものの、真剣に練習している様子は伝わってくる。
「……イッシューたちから……こっち…見えるかな?」
「たぶん大丈夫、おそらく肉眼では確認できない。ただ、万全を期するなら…」
雄介は文化祭で余っていたダンボール箱を勝手に拝借し、ビデオカメラと自分たちを含めて、すっぽりと入れる監視小屋を作った。
「ダンボール箱はミッションの基本だからね」
「けっこう暖かいですね」
いのりは発見されなくなったことより、屋上の寒風から守られたことの方がうれしい。さらに、雄介は災害キットでもある超極薄のアルミ蒸着ブランケットを肩にかけてくれた。
「夕方から大雪警報が出ていたからね。今夜は冷えそうだ」
「ダンボール箱って、すごく暖かいんですね」
「夏は意外に涼しいしね。飲むかい?」
雄介はホットナタデココジュースまで出してくれた。
「あ、はい♪ いただきます」
「どうぞ」
「こういう寒くてお腹が空いたときって、このホットナタデココジュースって最高ですね」
「あすかは風呂の中で、食後でも飲むけれどね」
ダンボールの穴からカメラレンズだけを露出させて、一蹴と雅の様子を観察し続けるが、やはり恋愛的というよりは熱血武道的だった。
「イッシュー、どんどん上達してる。男の子の方が力もあるし、木瀬さん大丈夫かなぁ」
「演舞なら腕力は関係ないよ。一朝一夕に磨けるものじゃないさ。それに、君にとっては勝敗さえ無関係じゃないかな?」
「………そうですね………」
いのりは淋しそうな表情を浮かべた。雄介の指摘通り、別に歩に肩入れしているわけでも、雅が嫌いなわけでもない。どちらが勝っても、いのりには関係のない話だった。当事者にとってさえ、何の大会でも栄誉でもなく、単に歩個人の意地だけが問題といえた。
「……あ……雪……」
いのりがモニター画面を流れていく粒子に気づいた。
「やっぱり降り出したか」
「積もる、かな?」
「積もりそうな勢いだね」
外は寒そうだったが、二人の体温で中は暖かい。いのりは黙ってモニターを観察しているフリをしながら、迷っていたことを雄介に訊く決心をした。
「雄介さんは……どうして、こんなことをしてくれているんですか?」
「どうして、とは?」
「だって………」
いのりは視線を落として、それから言い淀みつつも問いを続ける。
「…だって………まだ、…私のことを好きでいて……くれるなら………。………こんな風にイッシューを見ている私を………どうして、許してくれるの?」
「それは極めてシンプルなナゾナゾだよ。なぜなら、ボクが誰を好きになろうと自由であるように、君が誰を好きであろうと自由だ♪ 憲法的には思想心境の自由であり、民法においては身分行為でさえない。ただの放任行為だからね。放任するしか、ないよ」
「……誤魔化さないで答えてください」
「…………。ボクが君を好きになったとき、君はすでに彼が好きだった。そういう君を好きになったのだから、だから、君が彼とヨリを戻すことができたなら、それも良し。そうならず、このままボクのもとにいてくれるなら、それも良し。ボクは常に勝者たれるわけさ」
「………………。……大人……なんですね」
「三月生まれだからね、まだ18歳だったりする」
「ずっと年上な感じなのに……私と五ヶ月しか、かわらないんですね。三月の、いつですか?」
「九日♪」
「来週じゃないですか。それなら、あすかちゃんとお祝いしますよ」
「君のおかげで、あすかも話してくれるようになった。それだけで十分だよ。もっとも、このごろ海岸に行っていないから、あすかにプレゼントできるのは遅くなりそうだ」
「そのことだけでも、あすかちゃんに話してあげれば、よろこぶと想うのに…」
「それじゃロマンがない♪」
「ロマン……ですか……」
いのりは手の中でソウチンニャン人形を抱きしめた。何を願うともなく祈っている。
「ソウチンニャンソウチンニャン…」
「祈りは、諦めなければ祈り続けていれば、天にとどく」
「願いじゃなかったんですか?」
「陵いのりバージョンさ♪」
「…クスッ…」
いのりが失笑する。
「ああいえば、こういう、やっぱり雄弁の雄介さんですね」
「誉め言葉だと思っているよ」
「それって……あ、イッシュー」
気がつけば一蹴と雅は練習を終え、武道場から出てきている。
「………イッシュー……」
「…………」
「……………やっぱり、……藤原さんと……仲いいんだね…」
武道場内では明らかに雅が上で、一蹴が下だったのに、着替えて校庭から校門へと急ぐ二人の様子は、いかにも雅が女々しく頼りなげで、それを一蹴が支えるようにリードしている。誰が見ても恋人同士に見えた。
「…………っ………っ……」
泣いてはいけない、自分には泣く資格はないから、そう言い聞かせても涙が溢れてくる。
「悲しいなら泣けばいい。女性の涙は、どんな宝石よりもキレイだから」
「…っ…よく……そんなキザな……セリフを……口に…」
いのりは一笑に付そうとしたが、失敗して泣いた。
啜り泣き、泣きやんだ後、濡れた頬にキスをされたとき、いのりから唇をささげていった。
翌朝、いのりは日名家のキッチンで朝食の後片付けをしていたが、ケータイが鳴った。
「……木瀬さんから?」
一応のこと番号交換しておいた歩からの着信だった。
「もしもし、陵です」
(なんしてんの? もう試合開始時間やで!)
「試合って……だって、私は無関係じゃ…」
(ウチが藤原を負かすとこ見たないの?!)
「……別に、……見たくないです」
(ノリ悪っ! イノリやのにノリ悪っ!)
「……………」
(つっこみも無しかい?! もおええわ! ほな、さいなら!)
「………………」
歩とは価値観が最後まで合わないようだった。
数日後、歩はイライラしていた。
試合に勝って勝負に負けたような気分が、ずっと晴れない。
「ああっ! もお! ホンマムカつくわぁ!!」
気晴らしにやったクレーンゲームもうまくいかない。
「だいたい藤原ちゅー名前が気に入らん!」
意味不明なことを叫びつつクレーンゲームの機械を一蹴し、店員に睨まれると睨み返してケンカを売る。相手にしたくない状態の女子高生だった。
「かーぁっ!」
とうとう非言語的な雌叫びをあげ、千羽谷大学文学部からの合格通知を破り捨てた。別に合格通知が無くても入学金さえ振り込めばいいので、とくに手続き上の問題はない。ただ、勢いでやりたかっただけだった。
「ホンマムカつく!! だいたい答辞かて、なんでアイツやねん! そら勉強の成績はトップかもしれんけど薙刀みたいなマイナーな部活やっとったモンより、次席やけど水泳で優勝した舞方はんの方が、なんぼか偉いやん!! アホ校長!!」
とうとう自分がやってきた競技まで否定し始め、次の策略を考える。
「そや……卒業式で藤原に一生消えん恥をかかしたろ……と、その前に、これを送信して♪ ポチッとな♪」
いのりのケータイを勝手に操作して手に入れておいた一蹴のメールアドレスへ、雅と藤原康三の写真を送りつけ、さらに一蹴に電話をかけ、言いたい放題に喋ってから一方的に電話を切った。
「よっしゃ♪ ちょっと、すっきりした。あとは卒業式でのプランや!」
歩の思考は陰湿な方向へ流れていく。
「どないしたろ………なんか、ええ案ないかな……。この写真を……そや、この写真を藤原の答辞の最中に生徒みんなにチェーンメールさせて、フタマタ女やゆーことを浜咲学園史に刻んだるちゅーのは、ええかも。しかも、前の晩は男のとこに泊まって朝帰りちゅー設定にして♪ これで藤原は伊波と並んで伝説のお人や♪」
歩はクククと微笑みつつも、前後を考える。
「せやけど、チェーンメールの発信元がウチやちゅーことは、みんなにバレるし。ウチが陰湿な人間やと誤解されるかもしれん。もっと正々堂々とした策を………そや! 答辞の最中に、あらかじめ武装させた部員を決起させて、藤原を討ち取る!! これぞ226事件! って、すでに三月やん!!」
一人ボケツッコミまで始めている。
「しかも、藤原のやつ神業的に強いから、マイクスタンドで応戦しよるかもしれん。籠に入っとった井伊直弼みたいに一撃でとはいかんかも。………こうなったら弓道部に頼んで間合いの外から討ち取ってもらうとか……あかん、それはリアルに殺してしまう。それでは浜咲史どころか全国紙に載ってしまう。もっと、ほどよく藤原が恥をかいて悔し涙を流してウチのことを卒業後も一生忘れられんようになるような正々堂々とした仕返しを考えんと…」
歩の望む条件に合う復讐は、なかなか思いつけないようだった。それほどに覚えていて欲しいから。略して、それから。
千羽谷の街角で偶然に出会ってしまった香月と瑞穂は立ったまま話していた。
すでに春人を巡って敵対して久しい、お互いに悪感情を持っている。
「ふざけるな!」
香月が怒鳴った。
「なにがポイント制だ!!」
「あら、最近の学生さんになら受けるかと思ったんだけど」
「なにが!」
「春人くんの気持ちをつかめたらポイントをゲット♪ わかりやすくていいじゃない」
「………」
香月は怒りのあまり血が滲むほど唇を噛んだ。
「渡さない。絶対に」
「若いわね」
「絶対に、お前のような女に春人は渡さない。たとえ、どんな手段を使っても」
「ウソの妊娠までして?」
「っ……」
「汚い子ね」
「うるさい!! 生理が遅れただけだ!!」
「ものは言い様、女は生き様」
「春人は渡さない」
「「………」」
これ以上、話しても無駄なので二人は別々の方向へ歩き出した。
三月三日、中学まで、ひな祭りは日名家を祝福する祭りだと自慢して無意味にクラスメートと揉めていた日名あすかとは無関係に、一蹴は藤原家を訪ねたものの、祖母にも、雅にも冷淡な態度で追い払われ、荒れていた。
歩からの写メールも一蹴の心を乱している。
ゲーセンで機械を一蹴して、日暮荘に戻る気にもなれず、千羽谷の公園を歩いているときだった。
「………いのり……?」
別れてから髪の長い女性を見る度に、いのりかと思っていたが、今回こそ本当に本人だった。しかも、雄介と歩いている。
「誰だよ、その男は……大学生か……オレと別れて三週間で、もう男ができたのかよ。ずいぶん、ハンサムじゃないか……くそっ!」
歩並みに頭がオープンリーチになっている一蹴はケンカを売りに行く。
「よぉ」
「っ…イッシュー?!」
いのりが驚いているが一蹴は雄介を睨んだ。
「なに人の女に手ぇ出してんだよ」
「…………」
雄介は困った顔で考え込み、二歩下がった。
「ボクには争う意志も、口論する意志もないよ」
「スカしてんじゃねぇ!!」
完全な八つ当たりだったが一蹴は殴りかかった。
「くっ…」
攻撃を予想していた雄介はフットワークだけで回避しようとしたが、一蹴は速く、避けきれずに右腕でガードした。
「イッシューやめて!!」
いのりが叫んでも一蹴は追い打ちする。
殴られつつ雄介は眼鏡をジャケットに入れた。
「くっ……降参ってのは、無しかな」
「うせぇえ!!」
「イッシューやめて!!!」
いのりが二人の間に割って入り、雄介を背中に庇って一蹴を見上げる。
「やめて、お願いだから、やめて」
「………ちっ……」
だんだん自分が客観視できてきた一蹴は居心地が悪くなったが、先に立ち去ったのは雄介だった。黙って無言で二人が気づかない間に消えている。
「いのり………今の男と付き合ってるのかよ?」
「………」
いのりは質問に答えず目をそらした。
「オレと別れたのは………あの男のせいなのか?」
「……それは……違うの……」
その答え方だと前の質問を半肯定してしまうことに気づかず、いのりは素直に答えたが、そこに元凶がやってくる。
「約束が違うじゃねぇか」
どこから見張っていたのか、最悪のタイミングかつ普段通りのタイミングで、扉が黒いライダースーツ姿で歩いてくる。
「お前は……飛田…扉…」
「ほぉ、オレのことは覚えているってか」
「あ、ああ……久しぶり、だな…。なんか久しぶりでカッコ悪いとこ見られたけど……」
「ケッ」
「………。いのりと知り合い、なのか?」
「オレのことは覚えていても、ってか。いいぜ、話してやる」
「やめて!!!」
いのりが叫んだ。
「約束、ですよね。飛田さん」
「知るかよ」
「お願いです」
いのりの困った顔、扉の嫌悪と高圧的な態度、そして「汚い女だな」という言葉が発せられた瞬間、一蹴は再び好戦的になった。
ドキャっ!
扉は殴られるとは思っていなかったので、まともに左頬を打たれ、一歩下がった。
「なにしやがる?!」
「パンチだ」
「上等だ」
一蹴からの二発目の攻撃を見切った扉はボディーブローを撃ち込み、低い声で警告する。
「熱くなるなよ」
「うるさい!!」
もう灼熱していて冷めない。連戦だったが一蹴は頑張った。しかし、やっぱり胸骨を義足で一蹴され倒れる。そこに、いのりが割って入ってきた。
「やめて!!」
前戦とは逆の構図で、一蹴を背中に庇い、扉を睨みつける。
「……」
必殺の呪い殺すような目を全開にして、いのりは睨んだ。
「………」
「………」
呪いは、呪い続けていれば、きっと叶う、とでも言うかのように睨みつける。
「……」
「………」
先に目をそらしたのは扉だった。
「ケッ。くだらねぇ、くだらねぇよ!」
言い捨てて、淋しそうな背中で歩み去っていく。リナの墓前へ報告するつもりらしかったが、そんなことは二人とも関していない。
一蹴は、いのりの肩を握った。
「いのり」
「…………」
「いのり、オレのこと、まだ好きだよな?」
「……………。一蹴には、藤原さんがいるじゃない」
「藤原さんとは、なんでもない。本当に、何でもないんだ」
「………」
「いのり」
「……イッシュー…」
いのりは抱きしめられて、抱き返していた。
いのりは千羽谷駅まで一蹴に送ってもらった後、シカ電を藍ヶ丘駅で降りた。
「………日名さん…」
いのりのケータイには雄介からのメールが入っていた。内容は「離れたところから見ていた。おめでとう、と言うべきかな。ボクは今夜は家に帰らないつもりだから、君の荷物は持ち出しておいてほしい。しばらく、いや、永遠に君とボクは会わない方がいいだろうしね。風と共に去りぬ、バーイ♪ 日名雄介」という心情のわかりにくい文章だった。
「………私って……本当に、汚い女……」
結局、一蹴とヨリを戻すことを選んだ、それを謝る機会さえ持てずに、いのりは日名家で荷物をまとめていた。
荷物といっても一蹴の部屋とは滞在歴が違い、カバン一つに納まった。それをもって玄関に立つと、あすかが二階から全裸に近い下着姿で降りてきた。
「あれ? いのり姉さん、家出は終わり?」
「…うん…長い間、お世話になりました…」
「お兄ちゃんとケンカでもしたの?」
いのりの表情と歯切れの悪さで、あすかは目聡く事情を察してくる。
「私が悪いの。……イッシューとヨリを戻すことにした…から…」
「………。ふーーん、で?」
あすかの目が親愛から軽蔑に切り替わっていく。その変化は速かった。
「本当に私の身勝手で…」
「約束したよね」
「……」
「お兄ちゃんの誕生日に、いっしょにケーキ作るって、あすかに作り方を教えてくれるって」
「………。ごめんなさい……あすかちゃん……ごめんなさい……」
「……………。さっさと帰れば」
あすかは母親に向けるのと同じ、何の期待もしない、望みも持たない、無機質な目を向け、飲みかけだったホットナタデココジュースの缶を投げつけてきた。いのりは避けず、長い髪に当たり、べったりと甘い汁が髪を汚した。
雄介は日暮荘の一階、春人の部屋へノックもなしに乱入すると、親友を殴りつける。
ドキャッ!
いきなり殴られた春人は何の防御もできず畳の上を転がった。
「痛っ……雄介……いきなり…何を…」
「この拳の意味もわからないなら!!」
さらに倒れている春人を一蹴する。
ベキッ!!
急所を避けて肋を狙ったが、かなり強烈な一撃だった。
「春人」
「……雄介……」
春人は自分が悪いのだと悟り、雄介は八つ当たりできて満足だった。
「雄介……香月のこと……気づいて……。もっとオレを殴ってくれ」
「いや、映画の話をしよう」
「雄介?」
「今夜は女の話は無しだ♪ 映画の話をしよう、一晩中」
「………。ああ!」
春人の顔が輝いた。
「ああ! そうだよな! オレたちはCUM研だからな!!」
「同志だ!」
「ああ!」
女性関係は雄介が秘密主義、お互いのファッションセンスは合わない、学部も違う、唯一の共通の話題である映画で二人は夜を徹した。
「春人……いま、何時だ?」
「……んーー……14時……20分……」
デジタル時計を読み替えることもできないほど寝ぼけた春人は返答すると同時に眠り込んでしまう。
「昼すぎか……寝よう」
雄介も眠ることにした。二人の3月4日は大学生らしく過ぎていく。
3月5日、ほたるはピアノを再開したいという弟子から報告を受けていた。
「急に辞めて、今度は急に始めたいって?」
「すいません、本当に身勝手で…」
いのりは恐縮して頭を下げたが、ほたるは思ったより怒らない。
「まぁ、いいよ。ほたるだって急に練習がイヤになる日もあるし。とくに彼氏の行動が怪しい日とか」
「……」
「いのりちゃんが辞めたくなった理由って、やっぱり一蹴くんと別れたせい? それとも日名くんに辞めろって言われたの?」
「日名さんはそんなこと言いません。誤解です。それにイッシューとはヨリを戻しました」
「へぇぇ……ええ?!?!」
ほたるが驚いた。
「ヨリを戻したぁ?!」
「はい」
「それじゃ日名くんは?!」
「………。……日名さんとは……もう会いません」
「もう会わないって、ずっと泊まり込んでたくせに?!」
「…………。お母さんにもピアノは再開するからって……ケンカもやめて、夕べは家に帰りました」
「そんな問題じゃないでしょ?!」
「……………」
「ていうか、一蹴くんも彼女できてなかった?!」
「……。…藤原さんとは何でもないってイッシューが言ってくれたから…」
「言ってくれたから、じゃないって! それじゃ二人して日名くんと藤原さんを振り回しただけじゃないの?! 愉快犯だよ?!」
「………………」
「最悪」
ほたるはソファに座り込んで天井を見上げた。
そして、考え込み、呻り始める。
「……んーーーーー………んーーーーーっ……」
「…ほたるさん……」
「んーーーっ…」
「………」
「……んーーーーーっ………。やっぱ、ダメかも」
ほたるは立ち上がってハンドバックを持ってきた。
「はい、こっちは返すね」
「……何ですか、これ?」
いのりは少し厚みのある封筒を渡されて意味がわからない。
「何ですかって、38万」
「38万?!」
いのりは言葉と中身に驚いた。
「どうして、こんなお金が?!」
「いのりちゃん…………日名くんが払ってくれたの。知らなかったんだ?」
「日名さんが………」
「ピアノ再開するっていうなら、………というか、日名くんが、あまりに可哀想だし返してあげる。でもぉ………」
ほたるの歯切れが悪くなる。
「でもぉ……いのりちゃんから先にもらった10万円はぁ……もう健ちゃんと旅行するのにJTBに払い込んじゃって……もう手元にないの。あれも返さなきゃダメかな?」
「い、いえ! いいです! ずっとお世話になっていますから」
「そ♪ よかった」
ほたるは微笑み、それから雄介のことを愁える。
「日名くん、いのりちゃんのこと本気みたいだったのに………38万なんて、ほたるが健ちゃんにあげた腕時計の三倍だよ? 通常の三倍! やっぱり伊達に赤を着てたわけじゃないんだよ」
「………日名さんには……本当に……」
いのりが泣くので、ほたるは真剣な目で見つめる。
「結局のところ、いのりちゃんの気持ちは、どうなの?」
「…私の……?」
「出逢った状況とか、出逢った順番とか、そういうの抜きにして、ただ一人の男の子として、一蹴くんと日名くん、どっちが好き?」
「…………………。………イッシューです」
「そ」
ほたるは即答されなかったが、微笑んだ。
「それが真実なら、いのりちゃんの選択は正しいと思うよ」
「………」
「ま、これで一件落着めでたし、めでたしってことで」
ほたるは使い道に困っていた大金を返せて、ちょっと安心していた。
日暮荘の一階、雄介と春人は前夜の勢いで映画を見ながら語り合い、また深夜になっていた。
「雄介は哲学的すぎるんだ。リメンバーパールハーバーは恋愛映画として見るべきだとオレは思うね」
「春人の言いようだと東京裁判でさえ家族愛を描いた映画ってことになるぞ」
「どっちもプロパガンダ映画という要素をだな、まったく無視して見れば、純粋な作品として」
「プロパガンダ映画は、プロパガンダを楽しむものだ。いかに偏って主張しているかを味わい、その時代の雰囲気を知る。これが楽しみ方だ」
「それは、わかるけど………ダメだ。……オレは寝る」
春人が倒れた。
「オレも…」
雄介も睡魔に襲われている。それでもシャワーを浴びようと立ち上がった。
ダンダンダン! ダンダンダン!
「ん?」
真夜中に迷惑なほど激しいノックが響いてくる。音は春人の部屋ではなく、二階からだった。
(開けてください、一蹴! 私です)
「まだ、物語は終わらない……か」
眠気が飛んでいた。
いのりは早朝から、衝撃的な痕跡を見つけていた。
「…………」
日暮荘の二階から降りてきた二つの足跡は、寄り添うように進み、駅へと続いている。一つは一蹴の靴だとわかり、もう一つは和服に合わせる草履だとわかる。
「………………」
しかも、足跡は二つだけで、残されたばかりの鮮明さがある。つまり、夜を室内で過ごし、朝になってから二人並んで歩いていた、と名探偵でなくても推理できた。
「ぃ…いのりちゃんのナゾナゾタィ~………。こんなイタズラをしたのは誰でしょう?」
いのりの質問には誰も答えてくれなかった。
「ソウチンニャンソウチンニャン」
とにかく、祈ってみた。
祈りが通じたのか、一蹴は戻ってきてくれ、表情的にバレバレだったのに説明したりせず、関係を続けてくれそうだった。
いよいよ雄介は親友の助力を求めていた。
「春人、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
「ああ、何でも言ってくれ」
「この二人を追跡して撮影してくれ。できれば映画にできるような絵を」
いのりと一蹴のデータを見せられた春人は頷く。
「わかった。お前、もう二人に顔を知られてるんだろう?」
「春人は察しがいいな」
「昔っからの仲間だからな。で、どういうコンセプトで、どんな絵が残ればいい?」
「あまり接近して気づかれてはダメだ。けど、可能なら、こっちの女の子、この歴史的な長髪が、風に吹かれたとき、まるで黒い天使の羽みたいに拡がる映像、しかも、表情までとらえられたら最高だ」
「オッケー、やってみる」
「頼む」
雄介と春人は友情を確かめる動作である拳を突き合わせるアクションをし、春人が苦笑する。
「お前のパンチ、効いたぜ」
「まだ、痛むか?」
「目が覚めたよ、オレ、ちゃんと香月に言う」
「それがいい」
もう一度、友情を確かめる動作をしてから異口同音する。
「「一生カレーはイヤだ。男がスカートをはくなっ」」
深いところで繋がった仲間だった。
春人は自分の恋愛問題を忘れ、いのりと一蹴を追跡することに没頭していた。
「あまり動きはないなぁ……ミュージカル観て、ショッピングってか…」
ファインダーの中で二人は平凡なデートをしている、それが次の瞬間、雰囲気が変わった。
「あ? ………いきなり修羅場か…」
最悪の偶然、この世に神がいるとすれば、よほど冷笑的な存在なのだろう、いのりと一蹴が手をつないで歩道を歩いているとき、雅と美智子がクルマに乗る、乗らないで揉めているところにへ遭遇している。
「フタマタかぁ……最低だな」
つい、自分のことを棚に上げつつ、撮影に集中する。
「お、和服の女が抱きついた。バァさん激怒、どういう家柄なんだろう。ってか、この男の方、ときどき見かける気がするんだけどなぁ……」
春人は一蹴と同じ屋根の下に住んでいるとは気づかず、さらに追跡を続行する。寒さも、人目も、映画のことになると忘れられた。街中なら身を隠す場所に不自由しないが、うら寂しい教会となると潜伏に苦労する。それでも、春人は頑張った。繁みに分け入り、教会の外から内部を撮影する。
「お、抱きついた。いい絵だ」
いのりが教壇の前で一蹴に別れの抱擁を受けているところを、見事に撮影し、深い満足感にひたっている。
「あれ? 女は一人で帰るのか………」
いのりは教会から一人で帰り、一蹴も別々の道へと進み始める。
「…どうする……どっちを………」
春人が迷っていると、いのりの背後に雄介が現れ、春人に向かって「こっちは任せてくれ」という合図を送ってきた。
「雄介のやつ、結局、遠くから見てやがったのか。完成度を求めるアイツらしい。じゃ、オレはこっちを」
春人は一蹴を追跡する。
一蹴は浜咲駅まで行き、雅と少し話している。
「……あ、和服の女が泣いた」
(これ以上、私を苦しませないで!!)
「……なんて、いい絵だ」
ちょうど春人が撮影している方へ、雅が振り返って泣いているので泣き顔が撮れ、なおかつ「待ってくれ」とばかりに宙へ手をさまよわせて立ちつくしている一蹴を雅の背後に入れることができた。絵としては最高の構図だった。
3月8日、歩は二年生の教室へと入ると、紗代里に声をかける。
「おーい、さよりん」
紗代里は縁と会話していた。先輩が呼んでいるので振り返ったが、あまり表情は冴えない。
「なんや、不景気な面して。まァええわ、ちょっとオモろい話があんねん」
「…なんですか」
「卒業式で藤原が答辞読みよるやろ。そんときな、これを投げつけてほしいねん」
歩は生卵を差し出した。
「……これ……なんですか?」
「生卵や!」
「……………どうして、そんなことするなのですか?」
「薙刀部の追い出しコンパ、いまいち盛り上がらんかったやろ? ほんでな、ずーーと上の先輩に訊いたら、部内で首席がおるときは答辞中にイタズラするちゅーのが薙刀部の伝統らしいねん」
そんな伝統は無かった。ただの歩のでっちあげだった。
「せやから、あんまり害にならんと、それでいて藤原に恥を…やない、オモろい程度で済む生卵作戦ちゅーことや。あいつ、恐ろしい運動神経しとるけど、剣道部と野球部にも頼んで同時に30個も投げつけたったら、いかに藤原といえど避け切れんやろ?」
「…………そんなことして……おもしろいなのですか?」
「オモろい! 最後にウチがマイクを奪って言うねん! 卵まみれになった藤原に、これで卒業や、殻を割って自由に大空へ羽ばたくときやねぇ、って♪」
「………………。わかりました。でも、その前に私の頼みもきいてもらえますか」
「ええよ、ゆーてみ」
「ちょっと目を閉じていてくださいです」
「はいよ」
歩は至極素直に後輩の前で無防備に目を閉じた。
そして、その顔面に生卵が炸裂する。
パシャッ!
そばかすが印象的な歩の鼻面に黄身と白身が拡がり、どろりと顎先まで垂れる。
「痛っ! なんすんねん!!」
すぐに目を開けられずとも怒鳴った歩の頬を、今度は強烈な平手打ちが襲う。
バシンッ!
教室に音が響いた。
小柄な紗代里が三年生を平手打ちにする場面にクラスメートの誰もが注目している。
歩の頭に一気に血が上った。
「痛っ……おどれシゴされたいんかい!! ええ度胸じゃカタにはめたる!!」
「木瀬先輩!!」
怒鳴られた以上の声で紗代里が怒鳴り返す。
「師匠には自由なんてない!! 羽ばたく大空なんて無い!! 何も知らないクセに!! よくも!!」
「うっさいわい!!」
怒った関西人は人の話を聞かない。
紗代里も歩も武道家のはしくれ、第二撃を用意するが、縁が横やりを入れる。
「えいっ」
縁は餌づけのために常備しているパンくずを投げつけた。それが煙幕になって歩の視界を奪う。
「くっ、卑怯な!」
生卵に加えてパンくずまで目に入れられては紗代里を相手にしても勝てない。さらに、縁は軍勢を強化する。大きな獲物には複数で襲いかかる、動物界の掟だった。
「谷川くん! お願い! 押さえつけて!!」
縁は先々週に告白してくれた男子を使い、優勢を決定的にした。たった一人で二年生の教室に入ったことを歩が後悔したときには、もう遅かった。
「は、離せ!」
「木瀬先輩には反省してもらいます!」
歩は負けた。そして紗代里から雅が許嫁とムリヤリ結婚させられるという事情を聴き、反省して仲間になった。あっさりと心を入れ替えて、雅をなんとか助けてやりたいと思う派閥になった。
それほど根は悪い人じゃないから。略して、それから。
双海詩音は大学の図書室でタロット占いをしていた。
「TSKIGOSIJ」
怪しげな本を開き、怪しげな魔法陣を輝かせ、怪しげな呪文を唱えている。
「ISOIOUEI」
カードを並べ、結果を詠み上げる。
「…死者……避けようのない運命……。やはり、ヒマつぶしにタロット占いなどするものではありませんね。的中することはないでしょうが、私の近しい人でないことを祈りましょう」
いきなり登場して、かなり的中しそうな占いをしてくれた。
それにつけても詩音が好きだから。略して、それから。
いよいよ卒業式当日、体育館に入場するとき、一蹴と歩は目を合わせた。
「「…」」
まるで長年の仲間のように、それだけで意思疎通ができている。
「………?」
しかし、一蹴は体育館の様子に違和感を覚えた。どうにも教師の人数が少ない。リハーサルの三分の二くらいしか教師席が埋まっていない。
「………………」
卒業生代表の答辞まで時間は長い、一蹴は紗代里にメールを打ってみた。
(先生たち、少なくないか? もしかして計画がバレたとか?)
(ゆかにゃんのお手柄なのです)
(ゆかりが? なにしたんだ?)
(昨日、在校生での最終準備が終わった後、手強そうな体育系の先生たちに、ゆかにゃんが特製の御饅頭を差し入れしたなのです)
(差し入れって………いったい、何を入れて?)
(たしか、福寿草と水仙を混ぜたそうなのです)
(フクジュソウとスイセン…それって毒?)
(少量なら死に至らないらしいです。むしろ薬にもなるとか)
「…………………」
一蹴は後方の在校生席を振り返り、義妹の姿を探した。
「………ゆかり」
「♪」
縁が可愛らしくペロっと舌を出して微笑んでくる。確信犯だった。
「……………」
大丈夫、ゆかりは賢い、きっと致死量は把握してるはず、だから先生たちは腹痛で欠席くらいだろう、一蹴は安心することにした。
「………………」
もう一度、教師席を観察してみると南つばめが退屈そうに座っている。
「「…………」」
目が合ってしまった。
「♪」
つばめまでニンマリを微笑んでくる。共犯者だった。
「……………」
仲間が多いのは頼もしい、そう思うことにした。
雄介と春人は堂々と保護者席にいた。
「「……………」」
それぞれのポジションで堂々とビデオカメラを構えている。卒業式なので撮影していても誰も咎めない。年齢的に卒業生の兄くらいに思われ、誰も注意しない。学校がテロリストに弱いことの証左だった。そして、テロは発動する。
部員たちの決起、それを押さえる教師陣は縁によって、すでに層が薄くなっている。
壇上へ駆け上る一蹴。
謝罪と告白。
抱擁と逃走。
手を握り合って走り去る一蹴と雅、それを春人は追いかけて撮影を続ける。雄介は体育館内に残り、争乱の行方を撮影している。
「…………………君は、何を祈っている?」
ファインダー内で、いのりは両手を組み、ただ祈っている。その微動だにしない姿が、他の生徒たちが浮かれて歩き回っているのに比べ、印象的だった。
「それにしても、この騒動を、どうやって治めるつもりかな」
雄介は後始末を見守るつもりだった。いったい、これほどの騒ぎを起こして、どう処理をするのか、生徒たちに覚悟はあるのか、知りたかった。
「……彼女は?」
雄介はビデオカメラを壇上に登ってきた卒業生の一人に向けた。
マイクを持った卒業生は、よく通る声を響かせる。
「これをもって答辞とさせていただきます。卒業生代表、舞方香菜」
「「「「………………」」」」
水を打ったように体育館が静かになった。誰もが疑問のために、騒ぐのをやめ、黙っている。舞方香菜は生徒たち、教師たち、保護者たちを見回し、そして口を開く。
「卒業式は無事に終わりました。ここでは何の騒ぎも無かった。はじめから卒業生代表は私だった。そういうことにしましょう」
「「「「………………」」」」
「それとも、この不祥事をすべて世間に晒しますか? いったい、卒業生の何人が退学または留年になるでしょう? 先生も校長先生も気の毒なことに責任を追及されるかもしれません。卒業生代表が答辞中に消え、こんな騒ぎがあったことを浜咲学園の歴史に残し、神奈川県で一番有名な高校になりますか? せっかくの卒業式を見に来てくださったお父さんお母さん方に来年度も高校の学費を払ってもらいますか? もう大学の入学金もいただいているのに」
「「「「………………」」」」
「誰もが、こんな騒ぎは望みません。では、いっそ無かったことにしましょう。忘れましょう。それが一番だと考えます」
「「「「………………」」」」
事なかれ主義の教師たち、お祭り気分で騒ぐだけ騒いだものの退学は免れたい生徒たち、そして迷惑なだけだった保護者たち、誰もが香菜の意見に黙り込む。
「では、在校生と先生方は席へお戻りください。私たち卒業生は整列し、整然と退場します。ご協力お願い申し上げます」
香菜がマイクを非常識国語教師に渡す。
「A組、整列しつつ退場しなさい」
「「「「………………」」」」
誰も逆らわなかった。
「続いてB組」
つばめの有無を言わさぬ指揮のもと、竹刀や薙刀を持った卒業生たちも粛々と規律正しく退陣していく。凱旋であり退却だった。
すでに一蹴と雅が走り去った後の校門で、いのりは祈っていた。
「君は…」
雄介が問いかける。
「君は、何を祈って?」
「……………。もう、あのときみたいな事故に、二人が遭わないでほしいから」
「…………」
「やっと、イッシューが、偽物のリナちゃんじゃなくて、本物のリナちゃんを見つけてくれたなら、私にできるのは祈ることだけ……どうか、無事に、幸せになってほしいから」
いのりは修道女のように祈り続けている。
「……」
雄介は眩しさを覚えた。
そして、誘う。
「海を見に行きたい。君と」
「………私には…」
「行きたい」
「……」
いのりは拒絶できなかった。
三月の海は寒い。
いのりと雄介は波打ち際を歩いていた。
「……」
「………」
「暗褐色で、およそ手のひらくらい。殻は厚く重い」
「………サーフ・クラムでしたよね……」
「見つかるとすれば引き潮の今なんだ。とくに、今日は最干潮だからね」
「……………」
「ものを探す、という行為は、これでなかなか集中力がいる。探している間は、他のことは考えられないほどね」
「………」
「今日なら見つかりそうな気がするんだ」
「……………。……どうして、私……私は、あなたを何度も裏切ったのに…」
「君は一度もボクを裏切ってはいない」
「…」
「君が一度も彼を裏切っていなかったように」
「………でも、私は、さんざん甘えて……そのくせ、イッシューが求めてくれたら…」
「けれど、いま、君はここにいる」
「…………もし、……もしも、また、イッシューが私の前に来てくれたなら……私はまた、あなたを、きっと裏切る」
「そうなって欲しい?」
「いえ………もう二度と、イッシューには悲しい想いをしてほしくない。だから、私の前に来てほしく……ない。幸せになっていて、ほしいから」
「ボクの願いは君と同じだった。だから、君が彼とヨリを戻したときも、裏切られたとは砂粒ほども……あ」
雄介の視線の先に一匹のカラスがいた。
「はい?」
いのりも同じくカラスを見る。カラスは波打ち際に降り立ち、砂以外の何かに着地している。
「あれは…」
「もしかして…」
カラスが乗っているのは、貝殻だった。
「これですよね?!」
「ああ」
二人が駆け寄るとカラスは飛び立ち、後にはサーフ・クラムだけが残る。いのりが拾い上げて海水で洗い、雄介に渡した。
「間違いない、これだよ♪」
「おめでとうございます!」
「ありがとう……あ、そういえば、君に言ってなかったね」
「え? 私に?」
「卒業、おめでとう」
「あ……はい」
いのりが初めて卒業したという実感で涙を浮かべた。
「ありがとうございます」
「この貝から二つはアクセサリーが切り出せそうだ。卒業祝い、君には何が似合うかな?」
「あ…これを…」
いのりは胸に入れていた封筒を雄介に渡す。その封筒に雄介は見覚えがあった。
「白河先輩が返してくれたの?」
「はい。……本当に、なんとお礼をいっていいか…」
「いいよ。ボクが勝手にしたことだ」
雄介はサーフ・クラムと封筒を大切そうにポケットに入れ、いのりを見つめた。
「音大には、もう入れない?」
「はい……ギリギリで蹴ってしまいましたから、もう、どこの音大も……海外なら可能性はありますけど……それも、もう…」
「四月から、どうするつもり?」
「………未定です…」
「ボクと結婚してほしい」
「ぇッ?!」
「ボクと結婚してほしい」
「…………」
いのりは聞き違いでないことを問い返す前に、繰り返され、真っ赤になった。
「ゆっくり考えておいて」
「……はい…」
いのりが頷くと雄介は手を握った。
「手、冷たいね。もう寒い。そろそろ帰って……お前は…」
「っ?! 飛田さん?!」
「よォ」
砂浜に扉が立っていた。
「汚い女だな」
「「…………」」
「ウソを通したあげく、これだ」
吐き捨てるように言った扉の右肩にカラスがとまって、二人を威嚇するように啼く。さながら、くすんだ黒い死神だった。
雄介が美眉をよせ、彼らしくなく睨み返した。
「撤回と謝罪を要求する」
「あん?」
「女性を侮辱するヤツは許せない。しかも、それがオレの愛している女性なら、その名誉は不可侵だ」
「バカか、てめぇ」
「映画バカだ」
「……。ナメてんのか?」
「いつになく怒っている。少なくとも一発お見舞いしてやりたいほどに、ね」
「ケッ。ナイト気取りかよ」
「気取りじゃないさ。ボクは彼女を守るナイトだ」
「…………ホンモノのバカだな、てめぇは」
「リナ」
「っ! ……この男には話したのか?!」
扉が怒鳴ると、いのりは身をすくめた。それを庇うように雄介が立つ。
「リナ、君が守りたかった女性の名前を侮辱さ…」
「黙れ!!」
「リナ、ボクには君の気持ちも…」
「黙れ!!!」
扉が殴りかかった。想定していた雄介も応戦する。
ガッ!!
「「ぐっ…」」
お互い、恐ろしいほど鋭くカウンターで殴り合い、ダメージを受けている。
「やめて!!」
いのりが割って入ったが、扉は長い髪をつかみ、ムリヤリに退ける。
「貴様っ!」
「バカが!!」
戦闘的な勘は扉に優位があったが、雄介は相手が義足であることに気づき、砂浜という地の利をいかしてフットワークよく戦い、殴り合いは互角だった。二人とも組み合いの距離には入らず、徒手空拳の距離から、さらに離れた。
「「……」」
ほとんど同時に二人とも腰のポケットから武器を出した。
雄介は伸縮式警棒、扉はジャックナイフ。
「「…………」」
さらに距離をとり、睨み合う。
ビュッ!
扉がナイフを横薙ぎにし、それを牽制にして殴りつける。
「くっ…」
雄介は大きく後退して、膝まで海水に入った。
「来いよ、カラスの親分」
「ケッ」
見え透いた挑発に、扉は乗らない。海に入ってしまうと義足である扉は圧倒的に不利になる。すでに足首まで波が打ち付けているので、かなり足元に不安があった。
「なら!」
雄介は海水と砂を蹴りつけた。
「野郎っ!!」
一時的に視界を奪われることになる扉は、狙ってくる相手を牽制できる最高のタイミングで横薙ぎにナイフを振ったが、雄介は見切っていた。
「…」
ナイフの軌跡が過ぎた直後に間合いをつめる。
雄介が上段から警棒を振り下ろし、扉はナイフを構え直した。
「「っ!」」
「イヤァーーーーーーっ!!」
いのりの叫びが、砂浜に響き、勝負は終わっていた。