春人はファインダー内で、親友の決着を見ていた。
「…………雄介ッ……まさか…」
雄介が振り下ろした警棒は扉の頭部を打っていたが、ほぼ同時に相手はナイフを切り返して雄介の左胸を突いていた。
「…………………」
夕日の効果を考えて撮影していた春人の目に、親友が膝を着くさまが映る。
「…………ゆう……すけ………」
相打ちであり、相手も崩れていくが、雄介の胸にはナイフが刺さっている。
「…………………ゆ……………雄介………死……」
声にならない声を絞り出す春人、いのりが泣き叫びながら駆け寄っている。雄介は突かれた胸のナイフを見つめ、顔をしかめた。それから、ゆっくりとナイフを抜き、立ち上がる。
「……………」
いのりが泣きじゃくるのに微笑み返し、雄介は胸のポケットに入っていた砕けた貝殻と封筒を見せている。それで春人も安心した。少し接近して二人の声を拾う。
(覚えているかい? サーフ・クラムの言葉を)
(……グスッ……持ち主を……護る、ですか?)
(そう♪ そして)
(そして?)
(人生を恐れてはいけない。人生に必要なものは、勇気と戦闘力、それと)
雄介は穴の開いた38枚の紙幣を拡げる。
「ほんの少しのお金だ♪」
「……」
いのりが声も上げずに抱きつき、啜り泣く。それを抱き返し、夕日が沈むまで撮影して春人は満足した。
「いい絵が撮れたぞ、雄介」
「春人」
拳を突き合わせる挨拶、そして微笑み合う。
「それにしても、心配したぞ。一瞬、雄介が殺されたかと思った」
「夕日の効果は? ちょうどマジカルアワーだったよな?」
「ばっちり♪ 陵さんも名演技だったよ」
「………………」
いのりの平手が春人の頬を打つ音は、よく夜の砂浜に響いていた。
いのりは緊張した顔で日名家の玄関に立っていた。あすかと和解したい、謝りたい、そういう想いで立っている。もちろん、雄介も隣にいた。
「ただいま、あすか」
「………また、それ拾ってきたの?」
あすかはソレという代名詞を、いのりに使った。しかも、あすかは入浴直後らしくバスタオル一枚を身体に巻き付けただけの軽装なのに、物怖じしない。
「あ、あのね、あすかちゃん」
「………」
「ぃ…一日遅れちゃったけど、いっしょにケーキを作りたいから。だから…、だから、ごめんなさい!」
「…………………」
「ごめんなさい!」
「…………お兄ちゃんは、それでいいの?」
「ああ」
「…………………」
あすかは謝って頭を下げている相手の髪が、玄関の土間に着いていること、その髪が海水や砂に汚れていること、兄のズボンも汚れていることに気づいた。
「……………」
「本当に、本当に、ごめんなさい!」
「………………。お腹空いた。さっさと何か作って」
「…あすかちゃん……」
「その前に、ちょうどお風呂沸いてるし、入ってくれば? 海臭いから。ほら」
あすかはバスタオルを投げ渡してくれた。
「……あすかちゃん……ありがとう…」
彼氏の妹の扱いが、いかに難しいか、いのりは思い知っている。あすかと縁、二人とも兄へ好意を持っていて、その恋人に嫉妬してくるけれど、あすかの好意は血のつながりを感じる。今思うと、本当に何一つ、一蹴と縁は似ていなかったと、いのりは日名家のバスルームで回想していた。
これまで知らないフリをしていたけど、いのりは義妹だと知っていたから。略して、これから。
数日後の夜、音羽かおるは千羽谷駅で旧友に出逢い、声を張り上げた。
「双海さーーん」
「あら、音羽さん」
「超お久しぶり♪」
「お久しぶりですね」
二人とも高校時代のクラスメートに出逢え、うれしそうに微笑み合った。
「今、予定ある?」
「帰って、この本を読もうかと…」
「私も明日からオフなの♪」
「日本語において、も、とは係助詞で、は、と対比される語であり、は、が幾つかの中から一つを採り上げる語であるのに対し、も、はそれを付け加える意を表す、という使い方だと思うのですが…」
「相変わらずね」
かおるは高校時代を同じく大量に本を抱えている友達を強引に誘う。
「せっかく逢えたんだし、ワックでも、どう?」
「ワック…ですか…」
「露骨にイヤそうな顔ね」
「せっかく先進国に滞在しているのにワックというのも……それに、この時間ですし、いっそ、呑みにいきませんか? 美味しいブランデーを出すバーを知っていますから」
「私、夕食まだなの。お誘いは受けたいけど、せめて腹ごしらえしてからがいいなぁ。テイクアウトするから、待っててよ。あ、でも閉店ギリギリかも」
かおるの不安通り、ワック千羽谷駅前店は今夜に限って早々に閉店していた。
「ちぃ……まだ、中に店員いるかも、なんとか作らせて…」
「音羽さん、そこまでワックに執着しなくても」
「私は三食、ワックって決めてるの!」
かおるは社員出入口をノックしようとしたが、いそいそと出てきた瑞穂は鍵をかけると、よく左右を確認せずに国道に飛び出して18輪トレーラーに轢かれた。
「「っ………………」」
二人とも救命活動が無駄であることは一目瞭然にわかった。完全な即死で瑞穂は苦しみもせず、血と肉と骨がアスファルトに拡がっている。
「「…………………」」
かおると詩音は忘れることにした。
それなりに心は悼んだけれど、やっぱり赤の他人だから。略して、それから。
数週間後、雄介は日暮荘の一階、春人の部屋を訪ねる。
「………」
その前に、さりげなく二階の住人だった一蹴のポストを見てみると、ダイレクトメールなどが溢れていた。
「………。……おーい、春人。飯、喰ってるか?」
雄介は鍵のかかっていない春人の部屋に入り、手土産にもってきたコンビニ弁当をテーブルに置く。春人は起きているとも、寝ているともわからない様子で布団に潜り込んでいた。
「……春人……映画の話をしよう」
「……………」
「返事がない、ただのしかばねのようだ♪」
「………………」
「……」
怒らせようと思ってタチの悪いジョークを言ってみたが、それでも反応してくれない。
「黒い片羽の天使、やっと編集が終わったんだ。見てくれないか?」
「…………」
「春人………いつか、強くなれる。いまは時間が必要だな」
雄介は退室した。春人は何もせず、ぼんやりと過ごしている。どれくらい時間が経ったのか、よくわからなくなった頃、ケータイが鳴った。
「………」
とりあえず受信ボタンを押して、耳にあてることだけはした。
(春人、…私だ)
「香月か…」
(春人………大丈夫、か?)
「………」
(そんなわけ…ない…よな)
「…………」
(なァ……私じゃ…ダメか?)
「………男がスカートをはくなよ」
(ホモダチだと想って抱いてくれないか)
「香月………強く、なったな……」
(一応、ナニもないし……穴は二つあるから)
「……考えて、おくよ。……ありがとう」
(うん。……あ、それから)
「ん?」
(雄介が編集を終えた映画、なかなかだったぞ。見てみろよ。コンペでも賞が狙えるデキだと思う。春人も撮影に参加していたんだろう?)
「…ああ……」
電話を切った春人はテレビをつけてみたが、再生する気力までは湧かない。テレビはニュースを伝えていた。
(…桜峰海岸で発見された身元不明の溺死体について、頭部を殴打した痕があり神奈川県警では他殺とみて捜査しているとのことです。現場に乗り捨てられていたバイクについては盗難届が…)
「………瑞穂さん…」
亡き人の名前をつぶやいて、春人は眠った。
春眠香月を覚えず、雄将のもとに弱卒なし。
それにしても修司が登場しないのは、どうでもいいから。略して、それから。
卒業したはずの浜咲学園の校門から出てきて、青峯学院大学の一年生になった香菜は耐えきれない憤懣を、千羽谷大学文学部の歩にぶつけていた。
「いったい! どこのおバカさんの仕業かしら?!」
「まあまあ、舞方はん、そんな怒らんと」
「これが怒らずにいられる?!」
香菜は水泳で鍛えた腕を打ち鳴らした。
「まあまあ、お茶でも一杯、今日はウチにおごらせてよ」
歩は同期生をなだめつつ近くの喫茶店で接待する。
いつになく香菜は怒っていた。
「何のために私が恥を忍んでムリヤリに事件を封印したと思っているのよ?! まったく!」
「ほんまやね、あの卒業式を撮影しとったもんがおったなんて」
「卒業式だから撮影している人くらいいたでしょうけど、それをチャップリン風のラブコメ映画にして発表するなんて、どういう神経しているのかしら?! 見つけたら、ただじゃおかないわ!」
「きっと、すんごい映画バカなんやろね」
歩は大学の先輩を思い出しつつ、香菜に相槌を打っておく。
「せやけど、あのアホ校長も今さらウチらに罰を科すやなんて、ほんまケツの穴の小さいヤツやで!」
「歩さん、お尻の穴とか……そういうことを大きな声で言わないでください。人が見てますよ」
怒りで顔を赤くしていた香菜が恥じらいの色に変わっている。
「あ、ははは…すんません」
「それとも歩さんも、そういう話お好き?」
「…いえ…すんません…ウチはノーマルです」
香菜がレズビアンなのは公然の秘密だったので歩も知っている。在学中も香菜がキャプテンになった水泳部では後輩と色々なことがあったと、薙刀部にも聞こえていて歩は少し緊張した。
「その言い方だと、私がアブノーマルみたいじゃないですか、私だってノーマルなところから、ゆっくり…」
「せ、せやけど! ホンマムカつくね! どこのアホが映画なんかに! ね!」
歩は強引に話を戻した。
「まったくです。おかげで私まで首謀者扱いなんて! 私は事件勃発まで蚊帳の外だったのに!」
「舞方はんの戦後処理は完璧やったしね。ホンマぶっつけで最高のまとめ方やったもん。惚れ惚れしたわ」
「………言葉通りに受け止めていいのかな? 歩ちゃん」
香菜が見つめてきた。
「っ! ちゃ、ちゃう! ちゃうで! 惚れ惚れしたいうのは演説にちゅー意味で! 変な意味やないよ! ま、まあ、アホ校長の罰ゆーても小言と反省文ですんだし、めでたし、めでたしやで!」
「藤原さんも可愛かったけれど、歩ちゃんの勇姿も惚れ惚れしたわ。あんな恋愛ができたら、どんなに素敵でしょうね」
「あ…あのぉ…鷺沢を忘れてません? 鷺沢を。その言い方やとウチが藤原に告白したみたいやん」
「それにしても、映画なんかにして学生映画祭で発表するから私たちが受けなくてもいい罰を……本当に腹が立ちます。もし見つけたら許さないから」
香菜がコーヒーを飲み干した。
「でも、紗代里ちゃんみたいな可愛い子だったら、ちょっと口で注意して許してあげちゃうかも。あの子、女の中の女になりたい、なんていってたから」
「それも……そういう意味で言うてたんとちゃうと思う。ちなみに、映画にしたんが男やったら、どう許さんの?」
「プールに五分間沈めてあげます!」
「半殺しちゅーことやね。……女の子やったら?」
「その後、人工呼吸してあげるの♪」
「………せめて二分にしたってな。みんながみんな舞方はんみたいな肺活量とちゃうんやし」
「歩ちゃんは実際に事件の首謀者側でしたよね? 実は計画的に撮影して映画にしたなんてことないの?」
「な、ないよ! あんときは計画の成功だけで精一杯やもん! そんな遊び半分な気持ちで協力したんとちゃうから!」
「ふーーん……なんか、怪しいのよね」
「な、なんも怪しないよ! そ、そや、バイトがあるんやった!」
歩は支払いを済ませて、もう香菜と別れようと思った。
「ほな、また今度ゆっくり」
「アルバイトって何してるの?」
「え……えっと……」
「頑張ってね。私も都内に戻るわ」
「舞方はん、ええ大学やし頑張ってな。ほな、さいなら」
歩は香菜を見送って、タメ息をついた。
「フーーーッ……あの人、頭ええし運動神経も人当たりもええんやけど……玉にキズのキズが致命傷のタイプやな」
かなり肩がこったので歩は腕を回す。
「あ~…疲れた。アホ校長の小言より舞方はんとの会話の方が尋問じみて、しんどかったわぁ」
そろそろ夏が近い、歩は上着を脱いだ。
「それにしても日名先輩にテロップに名前のせたろ言われたのを、遠慮します、ゆーといて正解やったで。ウチがかかわってたどころか、製作したサークルの一員やなんて舞方はんにバレた日には何されるか…」
ガシッ…
誰かが歩の肩に腕を回してきた。
「うひゃっ?!」
「心の中だけで思えばいいことを口に出しちゃうって、ホントなのね。歩ちゃん」
どこから浮いてきたのか、香菜がいた。
「ま、まま、ま、ま、まま、ま、舞方はん…」
「いいわよ、あなたのママにもご主人様にもなってあげる♪」
香菜が肩に回した腕に力を込めてくる。
「気づかないわけないじゃない。歩ちゃんのシーンだけ何度か撮り直ししてるでしょ? 一人だけ盗撮じゃなくて演技なんだもん。歩ちゃん表情に心が映るしね」
「ぷ、プールと人工呼吸はカンベンしてください!」
「ちょっと、付き合ってもらおうかな♪ かな♪ お茶を奢ってもらったお礼もしたいしね」
「さ、さきに言わしてもらいますけど、ホテルとか、更衣室とかには力づくでも行かへんし!」
「うん、うん♪ わかってる。ちょっと退屈だからカラオケにでも、ね。澄空のSSSにでも行きましょう」
「…ホンマにカラオケだけ? その後とかない?」
「それは二人の雰囲気次第かな♪ かな♪」
「…絶対……絶対カラオケだけやしね」
歩はカラオケボックスが個室になっていて防音な上に、電気コードやマイクスタンドなど使い方によっては想定外の拘束具になることを調教され、そして素手では香菜に勝てないことを思い知った。
いのりは住み慣れてきた日名家で掃除をしていた。
「いのりちゃんの♪ クリーニングタィ~…」
「いのり姉さん、ご機嫌なときにも語尾を消滅させるんだ?」
「あ……聞いてたの?」
「聞こえてきたから」
あすかはテレビに向かってゲームをしている。いのりも何度も誘われたが、今のところ対戦成績は、0勝8192敗でストップしていた。
「くらえっ!! バーニングイエスタディ!!」
「………」
コンピュータ相手に叫んでいるのも微妙だし、どうみても下着という部屋着も同性ながら目のやり場に困るときもある。
「ねぇ、あすかちゃん」
「はい?」
「一つ、質問してもいいかな?」
「私、バージンじゃないですよ」
「……………。う、ううん、そういう質問じゃなくて…」
「それじゃあ、ゲームの話?」
「それも違うの。……この、写真の、この人って? どういう人?」
いのりは長く訊きたくて訊けなかった質問を思い切って口にしていた。リビングに置かれた雄介の写真立てには、雄介と友人たち、香月、春人が映っているが、もう一人の人物が顔をマジックで黒塗りにされていた。黒塗りにした筆跡から、あすかの仕業にも思え、どういう意味があるのか気になっていたからだった。
「…………」
「あ、ごめん。訊いちゃいけないことなら……訊かないから…」
「その人のことは、忘れようとしてるんです」
「忘れようと……? 雄介さんのお友達じゃないの? ……」
「……………」
あすかは気分が悪そうに下着の乱れを直して、いのりを見上げる。
「あんまり説明したくないけど…」
「それなら、いいよ。ぜんぜん、ちょっと気になっただけで…」
「ずっと気にされてるのも、余計に気になるから、この機会に話しておきますから、二度と訊かないでください」
「う……うん…」
「この人、オズなんとかって名前だったんですけど、今は、この世にはいません」
「…そう……なんだ…」
「この人のせいで、あすかもお兄ちゃんも一時期、人殺し呼ばわりされたし、ホントっ最悪」
「……」
いのりは静かにお茶を淹れて、茶菓子を置いた。
「どうして、二人が人殺しなんて?」
「うちの二階の窓から落ちて、首の骨を折って三ヶ月くらい入院した後、死んじゃったんです」
「………」
「勝手に滑って落ちただけなのに、あすかたちが疑われてホント最悪! たしかに叫んで物を投げつけたけど、それって当然じゃないですか? お兄ちゃんの友達なのに、あすかの部屋にいたんですよ! それも、あすかの下着に触ってた!!」
「…それって……」
「で、人殺し呼ばわりされたけど、オズが死んでから両親が遺品を整理し始めたら、でるわでるわ、あすかが無くしたと思ってた下着とか、縦笛とか、ハーモニカとか、小学校の頃のものまで!!」
あすかは嫌悪感が強くなったのか、いのりが淹れてくれたお茶を飲み干して唇を拭いた。
「わかります?! 親しくもない男につけまわされてたと思うときの気分!」
「……少し……は…」
「下着ならマシな方ですよ。他に、駅のトイレで捨てたはずの汚れものとか! 毛とかまでファイルしてあって! ホント最悪!」
「………盗撮とかは大丈夫だったの?」
「大丈夫なわけないじゃないですか! お兄ちゃんの友達ですよ! 見てください、そこ!!」
あすかは天井を指した。そこには家庭用の火災報知器が設置されている。
「うちはオール電化だから火災報知器なんていらないのに、どうしてだと思います?! ほんの5ミリくらいの穴! それだけでカメラは十分に撮れちゃうんです!」
「家の中まで……」
「お兄ちゃんの友達ってことで家に出入りしてるうちに家中に!!」
「……お風呂とかは…?」
「脱衣所にもトイレにも!! あすかが休みの日に何回オシッコしたかとかまで記録されてたの!! あすかの部屋なんか15個もカメラがあって、一人エッチしてるとことか、ビール呑みすぎてオネショしたときの映像まで撮られてたんです!!」
「………」
「吐き気がする!! あすかの爪まで集めて!!」
「……つめ…って……まさか…爪を剥がれたの?」
「違いますよ、爪切りしてゴミ箱に捨てたはずなのに、ゴミ袋をあさって、あすかの爪だけフィルムケースに日付ごとにいれて、あすかの栄養状態まで調査してたの!! 他にも、あすかを主演にしてエロい絵コンテとか描きまくってたり……ああ! 気持ち悪っ!」
「…………ごめんなさい……私も気持ち悪くなってきた……かも…」
いのりまで吐き気を覚えていた。
「ホント最悪! 死んでなかったら撃ち殺してやるとこ!! あの人のせいで、あすかカメラが怖くなったのに!!」
「……カメラが怖く…?」
「カメラを向けられると、レンズの背後に、あの人がいるような嫌な気分になるんです。だから、いい表情できなくて女優活動にも支障があるの」
「あすかちゃん……」
いのりが気の毒そうに心配したとき、出かけていた雄介が帰ってきた。
「あすかにプレゼントがある」
「お兄ちゃん大好き♪」
不機嫌が消え、あすかは兄からプレゼントを受け取る。
「あ……これ、…あすかが無くした……イルカのサーフ・クラム…」
「サーフ・クラムのイルカだ♪」
「ありがとう! お兄ちゃん♪」
あすかが兄に抱きつく、いのりは目だけで雄介と会話して、割れていた貝殻の残りで、なんとか一つ分だけアクセサリーを切り出せたのだと知った。
「よかったね、あすかちゃん」
すでに、いのりには卒業祝いというより婚約に近い、38万円のリングが送られていて、もう彼女の指を飾っている。本当に何もかも幸せに回り出していた。
ピンポーン♪
玄関のチャイムが鳴り、いのりが応対しようとモニターで相手を確認する。
モニターには小柄な女性が映っている。押し売りや怪しいセールスマンには見えない。
「カメラも、こういう使い方なら人の役に立つのに…」
思わず独り言を零しつつ「今、開けます」とドアを開けた瞬間、モニターの死角にいた男性の太い腕が侵入してくる。
「きゃっ?! な、なんですか?! 警察を呼びますよ!」
怖い雰囲気の中年男性が三名も玄関に押し入るように進んできて、いのりは恐怖を覚えて竦む。必殺の呪い殺すような目は発動条件が限定されているので使えない。
「警察はワシらよ。日名雄介くんはおるかいの?」
「…け……警察が……? ……どうして?」
いのりが怯えているとリビングから、あすかと雄介も出てきた。
「どうかした? オレの名前が出たみたいだけど」
「日名雄介くんか?」
「ええ、ボクは雄介ですが…あなた方は?」
「神奈川県警の方から来た。ちょっと署まで来てもらえるか?」
「…………」
雄介は考え込み、それから暗唱する。
「………何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない♪」
「ほぉ…憲法33条を丸暗記しておるとは、最近の学生さんにしては勉強熱心なことじゃけんどな。いかにも今は任意同行の段階じゃけど、日名くんには殺人の容疑がかかっとる、ごたくを並べんと、素直に来た方が自分のためじゃと思うぞ」
「雄介さんが殺人?!」
「お兄ちゃんが人殺し?!」
「…ボクが……」
いのりと妹が驚き、雄介も微笑みつつ、内心でかなり焦る。容疑が盗撮だとか、迷惑防止条例違反だとか、道路無許可使用だとか、著作権法違反だとか、名誉毀損だとかなら三人とも納得できたのに、さすがに殺人では理解できない。
「困ったな………」
「来てもらえるな」
「………わかりました。行きます。あすか、オレの机から六法全書をもってきてほしい」
「うん!!」
あすかは珍しく素直に兄の頼みをききいれ、ダッシュで六法全書を持ってきてくれた。
「お兄ちゃん……」
「雄介さん……」
「大きな気持ちで行ってくるよ。ただ、あまり簡単に考えない方がよい。かのA級戦犯の言葉だ♪」
泰然自若の政治家、広田弘毅の言葉を残して、雄介は日名家を去った。いのりは無事を祈り、あすかは啜り泣くことしかできなかった。飛田扉の件だと事情が分かってくるにつき、母親の日名雄子は「雄介を人殺しにしたのはお前だ!」といって、いのりに八つ当たりしたが、あすかは「あの人は、いつもああだから気にしなくていいよ」と励ましてくれた。
晩夏、藤原本家が主催した呉服展示会で審査員特別賞をもらって、さらに婚約発表までした雅は晴れ晴れとした気分だったが、その表情が瞬時に翳る。
「…………陵…」
「雅? …ぁ…いのり…なのか…? ………」
見間違いようのない足首まで届く黒髪が揺れている。
表彰が終わり、三々五々に客たちが雑談している中に、いのりがいる。
「「…」」
雅も一蹴も緊張した。
もう一蹴が迷うことはない、それはわかっていても笑って再会を喜べるような仲ともいえなかった。
どうして、今頃、なぜ、ここに、いったい、なんのつもりで、二人に疑問と不安が襲いかかってくる。まさか、祖母美智子が最後のクリチャーとして、いのりを改造して二人を妨害するつもりなのか、そんな考えさえ浮かぶほどに二人は混乱する。
「「………」」
「あ、イッシュー」
いのりは真っ直ぐに二人の前に進んできた。
「お久しぶり、イッシュー、藤原さん」
「あ、ああ、久しぶりだな」
「お久しぶりです、陵さん」
雅は呼び捨てではなく敬称をつけた。それでも声が硬い。いつのまにか握っていた一蹴の手に力が加わる。
「「…」」
その雅の手を一蹴も握り返してくれた。
大丈夫、大丈夫、私は大丈夫、真実はここにあるのだから、雅は冷静さを取り戻した。
「陵さん、どうしてここに?」
「いのりちゃんのなぞなぞタ~ィ…」
「「……………」」
「あんな婚約発表をされたら、私も黙っていられなくて」
「「……………」」
黙っていられなくて、黙っていられなくて、なんなんだ、どうするつもりなんだ。
復讐か、呪いか、祟りか、いったい何をするつもりなんだ。
「ほら、見て」
いのりは左手の薬指を飾っているリングを見せてくれる。
「実は私も婚約してたりするのだ♪」
「「………」」
「こちらは日名雄介さん、一蹴は中学が違うから知らないかもしれないけど、藤原さんは中目町だから、もしかしたら知ってるんじゃないかな?」
いのりは誰もいない自分の隣の空間に、さも人がいるかのように紹介してくれている。
「実はイッシューと別れて、すぐお付き合いしてるの。私たち四人、いろいろあったけど今は幸せになれそうだね」
「「………………」」
「?」
「「……………」」
痛い、痛すぎる、二人は強い罪悪感を覚えた。
「……いのり……」
「…陵さん……」
失恋のあまり、心を病み、居もしない婚約者を紹介してくれている、思えば卒業式での行為は二人にとってはプラスでも、いのりにとっては残酷すぎた。一蹴と雅は涙を耐え、なんとか言葉を紡ごうとする。
「…げ……元気そうだな………いのり…」
「お…お元気そうで……なによりです……陵さん…」
この世のすべては偽りでできている、どうせ、偽りであるなら、現実と夢幻は等価値、ならいっそ、苦しい現実よりも、自分にとって都合のいい出来事だけで心を埋めてしまえばいい、半年前の雅が陥りかけていた思考だからこそ理解できる。この者から私は真実を奪ってしまったのだから、現実を見つめなさいとは言えない。
「どうしたの? 二人とも? 私が年上の人とお付き合いしてるの変かな?」
いのりは首を傾げ、それから、隣を見上げる。
「でも、雄介さんとは五ヶ月しか……あ…あれ?」
やっと、いのりは隣に雄介がいないことに気づいた。
「雄介さんは?」
「「……………」」
その人は実在するのか、二人が不安に思っていると、いのりは展示ブースでビデオカメラを回していた男子を連れてきた。
「もォ! カメラを回すと、すぐに夢中になるのやめてください」
「ごめんごめん♪ つい、いい絵が撮れそうだったから」
雄介は雅の祖母二人が会話しているのを盗撮していたが、そんなものを撮って「いい絵」になるのか、三人とも疑問だった。雄介は「絶望に瀕している老婆」がどうのと言っているが、やっぱり絵としては痛いと思う。
「紹介してたのに、いてくれないから、イッシューと藤原さんが、私が心の病気なんじゃないかって顔したんですよ」
「ぃ、…いや、そんなことないぞ!」
「ええ、そんなことありませんよ、陵さん」
「ウソ、思いっきり腫れ物に触る対応だったもん。ひどいよ」
「はは、はははっはは♪」
雄介が笑ったので、一蹴と雅も笑って誤魔化し、一蹴が問いかける。
「それにしても、どうしてオレたちが展示会に来るのがわかってたんだよ?」
「二人の安否が心配で、私が頼んで雄介さんにインターネットで調べてもらったの」
「藤原、呉服、雅、鷺沢、一蹴、卒業式、行方不明、身元不明、駆け落ち、色々なキーワードで検索したら偶然に、出展者の一人として藤原雅の氏名があったからね。もしやと思って来たのさ」
「そうですか………。あの……殴りかかったこと……すいませんでした」
一蹴が以前の言いがかりによる暴力を詫びた。
「過ぎたことさ♪ いいフットワークだった」
「…いえ……本当に、すいません……。あなたには、オレを殴る権利がある」
「そいつは遠慮しておこう。刑務所から出所したばかりなんだ♪」
「雄介さん!! 二人が誤解するようなこと言わないで。たった三日、署に泊まっただけなのに」
「はは、ははは♪」
「三日も泊まったって、なにかに巻き込まれたんですか?」
「なんでもないさ。ちょっと売られたケンカを買ったら相手が大事になってね。でも、ちゃんと正当防衛が認められて無罪放免さ。まだ、ぎりぎり未成年でよかった♪ それに相手は麻薬密売や無許可露店営業の前科があったからね」
雄介は婚約者の想いを慮って一蹴には詳しいことを教えなかった。
そして、最後の動乱が起こる。
まず、雅が伯母である柏崎とおこが客の対応に困っているのに気づいた。
「どうかしたのですか? 伯母さま」
「どうしたものでしょうね。雅ちゃん」
とおこが肩をすくめる。
「この外人さんが雅ちゃんの染め物を気に入ってね。ぜひ売ってくれと…」
「外人……いま、外人と言いましたか」
とおこの隣で殺気だった目をした詩音が怒っている。
「中央アジアのアーリア人みたいな赤毛をしているのに、ちょっと髪の色が違うからって私を外人扱いするとは……ならば、日本人らしく決闘です!!」
詩音が抱えていた日本刀を抜いた。
一蹴が我が目を疑う。
「うわっ?! なんで、この人! 刀なんか持ってるんだよ?!」
「一蹴! さがってください!」
そう警告する雅の手にも薙刀が握られている。しかも、刀身が竹製の練習用ではなく金属製のギラリと光る業物だった。
「って、雅?! どこから、そんなもの?!」
「あちらです! おそらく、この者も」
雅が指したのはデパート内にある呉服展示会の隣の会場だった。隣では同じく藤原本家の主催で刀剣武具展示即売会が行われている。
詩音が刀を構えた。
「私はちゃんと支払いを済ませてきましたよ」
「そういう問題じゃないし!!」
「一蹴!」
「イッシュー! 危ないから!」
「うわっ?!」
近づこうとした一蹴の鼻先を刀身が走った。
「こ、殺す気かよ?!」
「一蹴さがって!! この者は私が取り押さえます!!」
「意気込みや良し」
詩音が構え直して、雅と向かい合う。
「そのような構えで日本刀が扱えるものですか、やめなさい!」
片手持ちで構えている詩音を軽く打ち据えようと、雅は薙刀を振るった。
ギンッ! ガキッ!
それを詩音が弾き返し、間合いを詰めてくる。もちろん、雅も接近を許さず打ち返した。
「「………」」
できる、二人とも実力者だった。
カキンッ! ギンッ! ビュッ!
さらに数合打ち合わせ、雅は故意に自分の構えに隙をつくり、詩音を誘った。
ガキッ! ギュルっ!
狙い通り詩音は薙刀と刀をからめ、打ち下ろすと一気に間合いを詰めてくる。
「…」
「はぁっ!」
雅は薙刀を一回転させ、石突きで詩音の眉間を狙った。
バキッ!
木と木が激しくぶつかる音が響く。
「なっ?! 鞘で?!」
「…」
詩音は鞘で受け止めていた。
ビュッ!
さらに、鞘と刀をクロスさせて薙刀を完全に封じると、高い蹴りを放ってくる。
薙刀を両手で持っている雅には避けようがない。
「雅っ!!」
一蹴が両腕で蹴りを受け止めてくれるが、詩音は間髪を容れず、刀を支えにして軸足までも舞わせて二度目の蹴りで一蹴を一蹴した。
「ぐはっ!」
「イッシュー!!」
「陵! 一蹴を!」
なんとか薙刀の自由を取り戻した雅は戦慄していた。
「…ハァ…ハァ…」
「…」
「………」
強い、刀の扱いは剣道とは明らかに異なり、カリブ海の海賊のような変幻自在の取り回しで、しかも鞘まで使い、鞘の使い方は中国の青竜刀術を思わせる。それでいて蹴りは南米黒人のカポエラという国際色豊かすぎる手合いだった。
「…」
「……くっ…」
「やめて!! やめてぇぇ!!」
いのりが一蹴を抱き起こして、叫ぶ。
「これ以上するなら! するなら! 私は! 私は!!」
いのりが詠唱に入った。
「…」
「あなたに、なにをするか、わからない!!」
一蹴と一蹴の婚約者に危機が迫り、いのりの必殺技、呪い殺すような目の発動条件がそろった。
ビカッ!
「…。っ」
さすがの詩音も一瞬怯み、そして瞬時に対応する。
刀身を横に構え、刀の腹で自分の目を隠すと同時に、いのりへ鏡写しに反射する。
「っ…ひゃっ?!」
いのりは刀身に映った自分の目を見て気絶した。
「「いのりの目を弾き返した?!」」
「陵の目を封じたのですか?!」
雅と一蹴だけでなく、撮影していた雄介まで驚く光景だった。
「…」
詩音が雅に迫る。
「雅ちゃん! 危ないから逃げて!」
とおこが叫び、母親を呼ぶ。
「お母さん!!」
「とおこ? 呼んだかい? …その刀は…」
やっと騒ぎに気づいた雅の祖母二人が表情を曇らせた。
「美智子さん、あなた、あの刀を売りに?」
「……致し方なかったのです。当家の諸事情はご存じでしょう?」
「お母さん?! いったい何なの?!」
「お祖母様?!」
防戦一方になっている雅に、二人の祖母が加勢に入った。
「美智子さん! なんとか刀を取り上げるですじゃ!!」
「わかっています! 雅さん、あなたは右から!!」
「はい!」
老練な達人二人の活躍により、ようやく詩音を取り押さえることができた。
「くっ……殺しなさい! 日本では戦犯は死刑と決まっています!」
どこで歪んだ知識を得てくるのか、捕まった詩音が叫んだ。
「これこれ、そう興奮せんと。お茶でも一杯飲んで落ち着きなさい。お嬢さんが悪いのではありゃせんから。ねぇ、美智子さん」
「ええ……やはり売りに出すのではありませんでした。この妖刀を…」
「妖刀…ですか…」
展示会の即席で設けられていた茶席で、和茶を飲ませてもらった詩音は正気を取り戻していた。美智子が当主として売主として説明する。
「あなたがお買い上げになった刀は藤原道真公に縁ある妖刀です。よもや、いまだに心を奪われる者があるとは思わず、展示即売会に出しましたが……もう正気ですか?」
「妖刀……道理で、買った直後から抜いてみたくて仕方なくて……抜けば抜いたで人を斬りたく………立派な刀ですね」
「「「…………」」」
「それで決闘の続きは、いつ始めるのですか?」
「お茶のおかわりでも……雅さん、あなたがお立てなさい」
「はい、お祖母様」
いまだ美智子に命令されると素直に身体が動いてしまう、雅のさがだった。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
詩音は日本の作法にかなった所作で二杯目の茶を干した。いのりも目を覚まし、それぞれ茶席につく。真剣で大立ち回りを起こしたが、戦っていたのが暴漢ではなく女性が主であったためにイベントだと思われたようで、警察が来る気配はない。まだ決闘にこだわっている詩音が事情を語る。
「私が怒ったのは、そちらの方が私を外人扱いしたからです」
「ごめんなさいね。だって、あなたが刀を買うときに、英語みたいな言葉を話していたから、きっと日本語のうまい外人さんなのかなぁって思ってしまったの」
とおこが言い訳し、詩音が応える。
「それはですね、はじめは日本語で売ってほしいとお頼みしましたのに、いろいろと理由をつけられて交渉が難航しましたので、英語とフィンランド語を混ぜて煙に巻いたのです」
「………。美智子伯母さん、ご説明願えますかしら? どうして売っちゃったの?」
「めったな方には売れないと私は言ったのです」
「でも、売っちゃったのよね?」
「…………。途中から日本語を話さず英語で、いかにもご自分の父親が権威ある学者であるようなことを言い募るので、……それに、茶道の所作をご覧になった今なら、とおこさんにもおわかりでしょう。それなりの家柄の者だと判断して、お売りしたのです」
美智子は意地でも高額な代金を詩音がカード決済してくれたことは言わない。とおこは察していて、それには触れない。
「ま、そういうことだから。私の無礼も許してやってよ?」
「わかりました。ですが、決闘を中座しては、名折れです。そちらは、どうします?」
「雅さんが負けを認めなさい」
「お祖母様………」
雅の顔に意地が浮かんだ。なにより美智子に負けを認めろと言われたことが、抵抗の原因になってしまう。
「ちょっと、いいかな」
雄介が口を開いた。
「決闘ってフランスの習慣じゃなかったかな。日本の仇討ちと勘違いしてない? それに、仇討ちは幕府への申請が必要だったし、決闘は刑法で罰されると思うけど」
「あ……そうかもしれません。たしか、決闘罪は明治に入ってから西欧の決闘習慣が国内に流入することを恐れて設けられたとか…」
詩音が納得する。
「わかりました。和をもって貴しとなす、決闘にこだわるのはやめます。逆に、友好の証として、着物を注文させていただきたいのですが、よろしいですか?」
「はじめから、そうしてくれたら、ものすごく楽だったんだけどね。雅ちゃんのが欲しいってさ。それで、売ってもいいものか、私も迷ってたの」
「とおこ伯母さま……」
「一応、展示会に出しているものは全部、値段交渉さえ成立したら販売するってうたってるけど。これは雅ちゃんにとっても、特別な作品だったから、どうしたものかと、ね」
「…………。……あなたご自身の振り袖としてですか?」
雅は詩音の身の丈と、染めとの似合いを考えながら問いかけた。
「はい。私のとして。ただ、振り袖は成人式であつらえましたので、今度は趣向の斬新なものが欲しいのです」
「斬新なもの、とは?」
「日本刀」
詩音が妖刀を鞘ごとかかげた。
「古来、男性の和装は刀を携えることを機能美として踏まえていますが、女性の和装は然らざり」
「………」
「私は日本刀の似合う女性の和服がほしいのです。それも華美にならず、礼装ではなく日常の機能美を優先した和服です。たとえば、千羽谷や藤川の街を歩いていても、廃刀令…もとい、銃刀法違反で注意されないほど、よく似合う和服がほしい」
詩音は掛けられている雅がデザインした染め物を見上げる。
「この華美でなく、目立たないのに、美しい反物なら、あるいは可能かと思っています」
「これを……振り袖ではなく、まったく新しい男装でも女装でもない着物にしろと?」
「はい」
「………………刀の似合う……女性装……」
雅は考え、そして、やってみたくなった。
「……お引き受けしたいと思いますが、この染め物は私の初めての受賞作で、まだ値段を決めておりません。仕立てを含め、これで願いたく存じますが、よろしいでしょうか?」
雅は上品に指を二本そろえて立てた。
「二万ドルですね。お願いします」
「……、こちらこそ」
商談が成立した詩音は妖刀を風呂敷に包み、お茶の礼を述べてから立ち去った。
「雅ちゃん、なかなかに商売人だねぇ」
「とおこ伯母さま……」
雅が赤面して恥じらった。
「雅、でもさ、ドルのつもりで言ったんじゃないだろ? 指二本って、本当はいくらなんだよ? 呉服業界の習慣でもあるのか?」
「私は20万円か、200万円のつもりで提示したのです。もちろん、あの方が20万円だと思われたなら、お断りするつもりでした。自分の技術を安売りするのは、愚か者のすることですから」
「すっげぇ……たった五日で200万かよ」
「けして私だけの手柄ではありませんよ、一蹴。デザインしたのは私ですが、染めたのは染め師です。生地は紡績職人の、生地の原料は繊維農家の、みなが丹誠込めて作ってくださったから、ここにあるのです」
「なるほどな……。でも、二万ドルって、いくら?」
「一ドル115円ならば、230万円ですね」
「おお、あの人が勘違いしてくれてラッキーなんだ!」
「勘違いでしょうか……もしかしたら、故意に値を上げて確実に商談を成立させようとされたのかもしれません。そも、お祖母様から家宝を買い取ったような人ですから」
売約済みとなった染め物を見上げる。
「どちらにしても、いただくお金に見合う着物に仕上げなくてはなりません。これが、実はかなり難題だったりしますが………」
注文はもらっても形一つ決まっていない、雅は伝統を重んじつつ、斬新でかつ機能的なものを要求されていることに、自信があるわけではなかった。
「………刀の似合う……女性装……まったく、五里霧中ですね…」
「雅なら、できるさ」
「ありがとう、一蹴」
雅が微笑んだ。
「どちらにしても、これで挙式の資金ができましたね。人並みの結婚式ができそうです」
「あ……ああ、気が早いな」
「早くはありません。だいだい、婚約発表から挙式までは半年というのが世間並みです。発表だけして2年も3年も挙式しないというのは恥ですから」
「な…なんだか……思いっきり手綱を握られてる感じだ……はは、ははは…」
空笑いする一蹴の肩を雄介が叩いた。
「結婚を恐れてはいけない。結婚に必要なものは届出と意思能力、それと、ほんの少しのお金だ♪ はは、ははははは♪」
民法的な条件を年下に教えて笑っている。
「もぉ、雄介さん、イッシューが困ってるよ」
「はは、ははははは♪ そろそろ戻る?」
「うん。それじゃ、またね。お二人ともお元気で」
「ああ、またな」
「また、いらしてください」
いのりと雄介が歩み去っていくのを見送り、雅と一蹴は見つめ合った。
「一蹴」
「雅」
二人にとって懸案だった全てが解決し、目の前には新しい道がある。
「私たちも行きましょうか」
「ああ、……喜んで♪」
手を握って歩いていく。
雅と一蹴、いのりと雄介。
それぞれの道を歩き出したから。略して、それから。