母さんはパートを始めた。いつも家にいた母さんは夜遅くまで帰ってこない。
もう卒業式の季節だった。母さんには内緒で父さんに会いに行こうか、卒業式は来てくれるのかと聞きたかったが怖くて行けない。
中学生になっても勉強に困らないようにと来月から塾に行くことになった。塾の先生は面白くてすぐに仲良くなった。背の高い目つきが悪い男の先生だった。
予定とは違う引っ越しをしてから2週間がたった。すごく大変な2週間だった。なにより父さんがどこからかこっちを見ていていつか連れ去られるか部屋に火をつけられるか母さんをまた殴りに来るのではないかと毎日おびえていた。怖かった。2週間もするとそんなことも少し忘れてきた。
学校は卒業まで今まで通りの学校に行くことになった。中学はみんなと違う中学校に行く。少し寂しい。でも塾は今通っているところに通うから塾にいる同級生とは会える。塾がものすごく特別な場所に思えた。
「弟は死んだ」
そう告げられたのは引っ越して1か月経った土曜日の朝だった。今日は友達とサッカーをする約束をしていた。携帯電話を持っていなかったから母さんの携帯から電話をして今日いけないと言った。そんな気分になれなかった。
意図的なものでなくても死んでしまうことはあるんだと聞いた。まだ見たことのない弟の死にショックを受けた。また、父さんのせいなのではないかと父さんに対する怒りや恨みをその時初めて感じた。
卒業式の前の日に母さんにスマホをもらった。すごくうれしかった。説明書を読んだけど何が書いてあるのかさっぱりだった。母さんは使ううちに慣れると言っていた。スマホを持っている友達は結構いて使い方は結構知っていた。困ったことは友達が全部やってくれた。正確には友達のお兄ちゃんだった。同じ塾に通っているから話しやすく自分のお兄ちゃんのような存在だった。先生とも仲がいい。3年前に教わっていたらしい。
中学生になると友達はたくさんできた。母さんは相変わらず帰ってくるのが遅かったが、僕にとっては好都合だった。遅くまで友達といられるし塾の先生とおじゃべりしてても塾にうちの子帰ってこないんですけどみたいな電話はかかってこない。先生とずいぶん打ち解けて父さんの話をしようかと思った。今度話してみよう。
部活はサッカー部に入った。クラブで習ったことはなかったけど父さんがよく教えてくれてサッカークラブに入ってる人並みに動けた。ボールさばきもなかなかだった。
でもサッカーより勉強が楽しかった。特に数学が楽しかった。解けたときの快感よりマイナスとはどういう数字なのか、なぜ存在しないんだとかを考えるのが好きだった。
部活は平日毎日あって、塾は週に2回。英語と数学を取っていた。数学の授業はその先生になるかと思ったら違った。次の先生は面白くなかった。真面目過ぎる。国語の授業なのかと錯覚するぐらいノートに文章を書かせ、先生に文句を言いに行った。もちろん担当の先生ではなくあの目つきの悪い先生だけど。
「あの先生のほうが授業上手いよ。俺は無駄話しかしない。わからなくなったら俺に聞けばいい」
と言われた。分からなくて困ることはなかった。ただつまらないのだった。
「先生、父さんが母さんに暴力をふるうんだ」
勢いだったのか周りに誰もいなかったからなのか、突然口が動いた。先生は困ったような驚いたような顔をしていた。
「優作は大丈夫なのか」
僕はそんな父さん見たこともないと説明した。空いている教室で話そうと気を使ってくれた。まだ会って1か月ちょっとの僕の話を親身に聞いてくれた。1時間ぐらい経って今までの経緯を話した。そして母さんには言わないでほしいと。
「わかった。もし困ったことがあれば塾に来ればいい。連絡すれば助ける。警察もきっと力になってくれる」
警察。その手があった。母さんや自分が危なかったら警察に連絡すればいいのだ。お礼を言ってその日は帰った。
それから淡々と時間は過ぎていき夏休みを迎えた。
毎日のように部活があった。そして塾の夏期講習も始まった。なんと目つきの悪い先生が担当だった。最初の日は嬉しさのあまり帰るのが1時間も遅れた。先生は早く生徒を帰せと塾長に怒られていた。ごめんねと言って足早に帰った。
玄関を開けると母さんの靴があった。もう帰っていた。いつも遅くなっていることがばれる。少し焦ったがそれより隣にきちんとそろえてある靴が気になった。男物だ。父さんかもしれない。恐る恐る家に入った。そしたら知らない人がいた。
「おかえり」
「ただいま」
母さんは普通の顔をしていた。
「達也さん。息子の優作よ。」
「優作くん。こんばんは。塾に行ってたんだって?えらいね。」
「どうも」
そっけなく返した。その達也さんとは母さんの仕事場の上司の人らしい。清潔感はあるがかっこいいとは言えない。
「優作くん、僕は君のお母さんのことが好きなんだ。結婚しようと思ってる。」
え?母さんの顔を見る。何だか嬉しそうな顔をしていた。
「父さんは?」
「もう離婚するの。ごめんね優作。」
よくわからなかった。
「優作くん、僕は君と明音さんを守りたい」
母さんはきっと弱っている。愛した人から殴られて怖くてこの人に泣きついたんだろう。
「別に反対はしないよ」
国語は苦手だけど人の気持ちはわかる方だと思う。
「ありがとう」
結婚式はないけどそこの中学の近くのマンションに住むことになった。こうなると引っ越しはお手の物だった。達也さんはお父さんとは呼べなかったが、すごく頭のいいひとだった。先生にこのことも言おう。きっと安心する。