けたたましい労務交渉から約三十分、法皇執務室のドアが叩かれた。風花、水明の隊長二人は、リリー・マルレーンの帰室を確認後、それぞれの任務へと戻って行った。したがって、今現在執務室内には、リリー・マルレーン一人、と言う事だ。ノックに対し、入室の許可を口にする。来客もそれを耳にし、扉が開かれた。入って来たのは、最高神官長ニグンとヴォーリアバニーの娘。
「陛下、お待たせ致しました」
「うむ。二人とも座るが良い」
そう言いつつ、リリー・マルレーンは上座の一人掛けソファーに腰を降ろす。残された二人は、テーブルを挟み置かれた三人掛けのソファーに一人ずつ腰掛ける。ほどなくして、執務室に紅茶が届き、喉を潤わせた所で、リリー・マルレーンは口を開く。
「娘、名は何と言う?」
「あ、あの、ヴァイエストです、陛下」
ヴァイエストは、立ち上がり、自身の種族の特徴とも言える、頭頂部から生えた長い耳を揺らしながら腰を折る。そして、顔を上げると片膝を付き
「この度はご救出頂き、感謝の念が堪えません。この命続く限り………」
「いらん」
「は?」
ヴァイエストは最上級の感謝を告げようとしたのだろう。だが、リリー・マルレーンはそれを拒否した。
「礼など言ってくれるな。うぬらからの礼を受け取れば、妾はこの国の民を殺して回らねばならぬ。それほどの事を、この国の民はうぬらにしたのじゃ。じゃから、礼などいらん。落ち着き、腰掛けるが良い」
そして、こう言葉を続けた。これは暗に、国が罪を認め謝罪した事と同意である。それが暖かく思えたのか、ヴァイエストは心穏やかにソファーに沈みこむ。それを確認し、リリー・マルレーンは再度紅茶で喉を潤すと、こう切り出した。
「ヴァイエストよ、うぬのこれからを聞こうと思うてな」
「これから、ですか?」
「うむ。身の振り方、と言うやつじゃな」
リリー・マルレーンが言葉を口にした瞬間、ヴァイエストの喉がゴクリと鳴った。恐らくこれは、彼女にとって重要な選択が必要な事柄なのだろう。じっと俯きヴァイエストは黙りこむ。その様子を、焦る事無くリリー・マルレーンとニグンは見つめていた。それほどまでにヴァイエストの表情は硬く、状況を物語っていたのだ。ヴァイエストが再び顔を上げるまでには、暫しの時間を必要とした。だが、リリー・マルレーンへと向けるその瞳は力強く、決意を秘めた物だった。
「陛下、恥を承知でお願いがあります。私達を、我が部族を御救い下さい」
ハッキリと自分の願いを言葉にし、再び片膝を付きリリー・マルレーンと対峙する。
「ほう。うぬは再び妾に救いを求めるか……」
その、何の表情も浮かべない冷たい瞳で、リリー・マルレーンはヴァイエストを見つめる。その雰囲気を察知し、ヴァイエストを諌め様とニグンの腰が浮いた。一体、どうやって察知したのだろうか?リリー・マルレーンの左腕が上げられ、ニグンの行動を止める。
「うぬの願いを聞き届けて、妾に何の理がある?」
表情を引き締め自身を見つめ続けるヴァイエストに対し、リリー・マルレーンは冷酷にメリットを示せと問いかける。ヴァイエストの表情は固まり、喉がヒリ付いて行く。下唇を噛み、だが視線だけは決して外さない。
「わ、私の命を陛下に……」
「足りぬ」
捧げます、と続くはずだった言葉は、リリー・マルレーンによって妨げられる。
解っている。
解っていた。
強大な敵と戦ってほしいと言う願いとは釣り合わない事を。幾人もの人の命と、自分一人の命など天秤に掛けるまでも無い事を。だが、ヴァイエストにとって、今差し出せる物はそれだけなのだ。奴隷として全てを失った此の身に、差し出せる物など無いのだから。羞恥と怒りで掻きまわされる精神を何とかなだめ、ヴァイエストは声を絞り出す。
「では陛下。陛下は何をお望みで? どんな物なら、我が部族と釣り合うと?」
ヴァイエストの言葉で、リリー・マルレーンの瞳に表情が戻る。いや、戻った気がした。やっとヴァイエストと言う、自分を見てくれた気がした。
「全てじゃ。うぬの部族、その全員を救った暁には、全てを差し出せ。ヴォーリアバニーの全てを」
リリー・マルレーンの冷酷とも取れる言葉に、ヴァイエストは喉の渇きを覚えながら
「それは、陛下の
「左様。じゃが、
「陛下の望む世界……。それは一体?」
ヴァイエストの問いかけに、リリー・マルレーンはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ
「混沌じゃ。聖と邪。光と闇。生と死。全てが混じりあった世こそが妾の望み」
執務室に、ゴクリと言う喉が鳴る音だけが響く。それは、ヴァイエストのみならず、ニグンからも漏れだした物だ。リリー・マルレーンは、ヴァイエストに返答を迫る。だが、ヴァイエストには答える事は出来ない。その理由が解っていながら、リリー・マルレーンの視線はヴァイエストを捉えて離さない。ヴァイエストは覚悟を決めた様に、その拳を強く握りしめ
「部族全て、と言うお話であるならば、私一人の考えでは返答しかねます。ぜひとも、我が部族の長にお会いして頂きたい」
「ふむ。成程。それが道理じゃな。ニグンよ雌猫を呼べ」
「畏まりました」
ニグンはすぐさま反応し、外で待機していた下級神官に指示を飛ばす。ほどなくして、目当ての人物が姿を見せる。
「こんちゃーす」
ふざけた言葉と共に。
「うんもぅ。陛下がお呼びだって言うから、てっきり蜜月な事だと思ったのにぃ。堅物がいるなんて、ざぁーんねん」
「陛下の御前です。ふざけるのも好い加減にしなさい、クレマンティーヌ」
平常運転のクレマンティーヌに、ニグンがやんわりと釘を刺す。まあ、これで態度が治るとは、微塵も思っていないのだが。
だがリリー・マルレーンは、この光景を嬉しそうに眺めている。それが、ヴァイエストには奇妙に見える。王の前で、ふざけ合う家臣など、ヴァイエストは見た事も、聞いた事も無いからだ。
そんな疑問を浮かべていたヴァイエストの背筋に、一瞬寒気が襲った。理由は、場の空気が瞬時に凍りついたかの様に、緊張感を持った物に変化したからだ。原因は、リリー・マルレーンの瞳。先程までの楽しんでいた暖かさが影を潜め、冷たい色を浮かべながら、僅かに細められていた。たったそれだけ。それだけの仕草を察知し、ニグンと言う最高神官長と、目の前にいる猫の様な女は背筋を正したのだ。これは、それほどの威厳を放つリリー・マルレーンを凄いと見るべきか。それとも、僅かな仕草も見逃さない家臣達の忠を褒めるべきなのか。ヴァイエストは自問自答の中に身を沈める中、場は今後に向けての話し合いが始まった。
「雌猫。うぬには妾の勅使として、兎の国へと行ってほしいのじゃが。どうじゃ?」
この言葉を受け、クレマンティーヌの視線はヴァイエストを捉える。そして、その視線はリリー・マルレーンへ。投げかけられた視線を、リリー・マルレーンはしっかりと捉え、一度だけ静かに頷く。
「ん、まーぁ、陛下の命令なら従うけどさぁ、私一人だけだと不細工じゃない? そこんとこ、どーすんの?」
「ふむ。そうじゃのう……うぬは、どんな
望み、この言葉を聞いた瞬間、クレマンティーヌの口元に半月が浮かぶ。そして、二人の名前を告げた。
「まったく。何と言うか、悪趣味じゃのう」
「えー! いいじゃん。私が決めていいんでしょぅ。私の従者なんだしぃ」
呆れた様なリリー・マルレーンの言葉に、クレマンティーヌは唇を尖らせ抗議の声を上げる。その態度に溜息を吐きつつ、リリー・マルレーンはニグンに向け指示を出した。
「ニグン、件の二人に召集を。時間は二時間後」
「畏まりました」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
~スレイン法国 神宮殿 謁見の間~
二人の男がうやうやしく膝を折っていた。普通の目で見れば、王宮などで見られるごく一般的な光景だ。だが、男達に視線を絞って見ると、それが違うのだと解る。男達の表情は凍りつき、額、首筋に汗が浮かんでいた。これは、熱いのでは無い。男達は恐怖に魅入られているのだ。では、一体何がそれほどの物を感じさせるのか?それは膝を付き、礼を尽くす眼前の者。自身が支える皇に対してだ。
「漆黒聖典 隊長
「同じく、第五席次 一人師団」
「「法皇陛下のお呼びにより、参上致しました」」
男達が名乗りを上げる。
「うむ。
頭上から声が掛る。だが、男達の姿勢は崩れない。顔を上げれば、その視界に、その脳裏に残る恐怖の対象が存在しているのだ。体が固まり、関節が動くなと悲鳴を漏らす。だが、心が挫けそうになるのを、何とか抑え視線を上げる。そして、そこには居た。恐怖と言う物を体現した者が。
「なんじゃぁ、硬ったいのう」
酷く砕けた口調で。そして、隣で控える最高神官長に「のう」などと同意を求めている。この光景を見せ付けられ、漆黒聖典二人が最も驚いたのが最高神官長の態度であった。
「自分を殺害した人物が目の前に居るのです。緊張するなと言う方が無体では?」
「小さい男達じゃ」
実に自然体である。死の恐怖をいかにして乗り超えたのか?一度真面目に聞いてみようと思う二人であった。そんな二人の心情など微塵も汲み取る事無く、リリー・マルレーンは言葉を続ける。実に酷い国主であった
「うぬらに来てもらったのは他でも無い。ちいと頼み事を聞いて貰いたくてのう」
気取った感じを微塵も出さずに、そう問いかけ来る。だが、相手は国主、法皇陛下だ。頼むと言われたら、従うしか無い。そして、死にたくも無い。
「妾がエルフの娘と共に、兎の娘を保護したのは知っておるか?」
「ヴォーリアバニーの娘の事です」
リリー・マルレーンの独特の言葉遣いに対して、ニグンが補足を入れた。そして、この問いに関して、漆黒聖典の二人は首を縦に振る。実はこの件、神宮殿内でかなりの噂になっている事柄であった。
「それでのぉ、その兎から助けてほしいと言われてのぉ」
二人の表情を楽しむかの様に、焦らしを含めながら言葉を口にする。
「妾としては、哀れな子兎に救いの手を伸ばそうと思うのじゃよ。そんでのぅ、相手の気持ち、と言う物も大切じゃと思う訳じゃ。妾の手を取るのか? それとも、独立独歩で行くのか? 意志の確認に勅使を送ろうと思うてな。それで、うぬらには、その護衛を務めて貰いたいのじゃよ。どうじゃ? 引き受けてくれぬか?」
実にほがらかに質問をしてきた。断っても、罰など無いと言わんばかりに。
だが、第五席次クワイエッセは知っている。自分の頭部を、フラッグポールで消し飛ばした法皇の非情さを。
漆黒聖典隊長は覚えている。自分の頭を踏み潰した、法皇の慈悲の無さを。
二人は確信していた。断る事など出来ない事を。チラリと目で確認を取り、了承の意を告げる。
「それで陛下。勅使とは誰が務めるので御座いましょうか?」
漆黒聖典隊長が質問を口にする。法皇リリー・マルレーンが、勅使と言う大役を与える人物など、二人しか知らない。最高神官長であるニグンか、自分の隊に在籍する、あの女である。
前者ならば、喜んで引き受けよう。性格はともかく、人格的に見ればニグンは立派な人物だ。だが、後者の場合はどうだろう。最早、最悪の人物だ。
漆黒聖典に配属された頃、あのハーフエルフの女に、どんな酷い事をされたか。ボコボコにされた事もあった。馬の尿で、顔を洗わされた事もあった。その結果、欝になった。
あの女、番外席次は、目の前の法皇、そして隣に座る者の妹。スレイン法国の性格の悪い女のスリートップだ。
漆黒聖典隊長は、心の中で光の神に祈った。生まれて来て最も願いを込めて。せめて、あの女で無い事を。そして……祈りは神に届いた。法皇リリー・マルレーンの右側に立っていた、ローブをすっぽりと被った者が一歩前に出たのだ。
何者かは解らない。だが、体付きから女性の様に見える。二人は、じっとその者を観察する様に見つめていた。その時、リリー・マルレーンの口が開く。
「二人とも、この者じゃ。この者が、うぬらの守るべき者じゃ。ほれ、フードを脱ぎ挨拶せえ」
漆黒聖典隊長は安堵の溜息を洩らした。だが、それは一瞬の事。溜息は、ひきつった呼吸へと変化した。
「こんちゃーす。私が勅使の、クレマンティーヌでーす。よろしくね!」
漆黒聖典の隊長の異名は、ねつ造です。
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