戦いに倒れたる者よ 案ずるな
また新たな光が 汝を護らんがため
やって来る……
さあ 陸へ戻られい
再び立ち上がった時 汝は光の力もて
生まれ変わるのだ……
21位世紀初頭、南極に突如シュバルツバースと呼ばれる謎の巨大空間が出現した。あらゆる物質を飲み込み、拡大を続ける超常現象の驚異になす術はなく、事態を重く見た国連は、有人探査機を送り込む最終プランを決行。シュバルツバース調査隊を設立する。国連が組織した調査隊の一員として、人類の命運を担った旅に、チカの両親は医療チームの一員として選ばれた。4隻構成の最先端揚陸艦隊の1号艦レッドスプライト号に搭乗し、同じ日本国籍のクルーとしてタダノヒトナリと共に調査に向かった。残念ながら帰還したのはたった1隻だった。殉職したゴア隊長の意志を引き継ぎ、帰還したタダノヒトナリを中心としたレッドスプライト号のみである。その後、シュバルツバースを縮小させる計画は順調に進行し、世界の危機は去ったかに見えた。
しかし、帰還したレッドスプライト号に乗っていたはずのクルーの中にチカの両親の姿は無かった。女子高生のチカと中学生の弟を残して両親は殉職したそうだ。二人は母方の祖父母に引き取られた。今まで住んでいた家を引き払い、吉祥寺にある開業医の家に引き取られ、なに不自由ない生活を送っていた。医師である祖父、看護師である祖母に触発され、看護師の道に進むことに決め、進学校と塾の往復をする日々を送っていた。センター試験を間近に控えたある日のこと、チカは弟から驚きの情報を聞かされる。
品川にできた教会に両親によく似た人を見かけたというのだ。半信半疑だったが、反抗期を迎える間もなく両親が亡くなり、感情をぶつけられる家族が姉しかいないはずの弟がこれだけ必死に訴えてくるとなれば無碍にできない。チカは弟と共にその教会に出かけた。宗教には詳しくないチカだったが、近所の評判を見るに怪しげな新興宗教ではなさそうだった。
救世主の出現を信じており、その力によって世界が救われることを待ちわびると謳っていた。信じる者はみな救われると代表の男はいった。秩序を重んじ、すべては法の下に管理されるべきである、と。物静かな態度で慈悲深い男だった。好奇心から訪ねてくるチカたちのような子供にも紳士的に教えを説くような口調で応じてくれた。みな、白地に青のラインが入った服装で統一されており、階級によって服飾が違うようだが、弟がいうような服の男女は見つけられない。男にも聞いてみたが、両親によく似た風貌の信者はいないらしい。悩みがあるなら相談に乗る、とセラピストのようなこともしているらしい男に名刺をもらい、その日は帰った。
賛美歌が聞こえた。
それから5ヶ月後。受験を見事勝ち抜き、第一志望の大学に進学したチカは、一人暮らしをはじめた。初めてのゴールデンウィーク、弟が宿泊代を浮かすために泊まりにくるというので、久々にたくさんの買い物をした。荷物持ちの弟は、世間話で奇妙な話を教えてくれた。タダノヒトナリさんが家に訪ねてきたという。なんでも弟が両親に似た新興宗教の信者を見たという話を聞いて、飛んできてくれたらしい。根ほり葉ほり聞かれた弟はその真剣さに当惑しながらすべてを話した。そしたら、ひとこと、忘れろと言われたらしい。そして、二度と教会に近づくなとも。根拠はないけれど、あの宗教団体はきな臭い噂が流れていると教えてくれたようだ。近頃、未成年の子供が行方不明になる事件が多発している。最後の目撃証言は必ず品川、もしくは白い布地に青のラインが入った人間がそばにいた。
「姉ちゃんも一応女なんだから気をつけろよ」
「一応ってなによ、一応って。失礼ね」
「彼氏の一人や二人いれば安心なんだけどな、いねーだろ、どうせ」
「うるさいわね、アンタに言われたかないわよ」
「どーだか。姉ちゃん、女捨ててるもんなあ。弟ながら心配だぜ。一人暮らしなんだしさ、ちゃんと鍵かけろよ?最上階だからって窓あけっぱなしにすんなよ?」
「やーね、かけてるわよ。バカにして」
「うっそつけー。いつもばーちゃんに怒られてた癖に。一人暮らしになったらますますしないんじゃねーの?」
「それはアキラもでしょ?」
「僕はいいんだよ、まだ実家暮らしなんだから」
「ねえ、頼むからどっか別の学校に進学してよね、アキラ。万が一、私の家に近くになろうものなら、一緒に住まなきゃなんないんだから」
「うげっ、それほんと?勘弁してよ、なんで姉ちゃんと」
「仕方ないじゃない、おばあちゃん達がそのつもりなんだから」
「うわー、まじか。そんなの聞いてないよ」
「つーかさ、そもそもアキラは将来とか決めてるわけ?」
「ぜーんぜん?だってまだ15だし」
「そうよねー、まだ15だもんね、アンタ。これからか」
「姉ちゃんは?」
「え?」
「なんで姉ちゃんは看護士になろうって思ったんだよ?」
「そーねえ、やっぱおじいちゃん、おばあちゃんの影響かな。あとはお母さん。大変そうなのは見てたはずなんだけどね。タダノさん、言ってたじゃない?生きて帰れたのは、お母さんたちのおかげでもあるって。いざいなくなってみるとやっぱ、あこがれちゃうんだよね」
「ふーん、そっか。ま、がんばれ」
「なにその上から目線、むかつくー」
けらけら、とチカは笑う。アキラはつられて笑った。今日は久しぶりにチカのオムライスが食べられる。それがなによりも楽しみだった。これが最期の会話になるなんて、誰が思っただろうか。
宇宙を含めたすべての世界の創造主は、今日に至るまで明確な意志を示してはいない。そのため、救済という言葉に対する解釈は、配下であるはずの天使たちの間ですら齟齬が生まれていた。世界は人間が治めるのが神の意志であり不干渉であるべきなのか。人間を徹底的に管理するのが神の意志であるのか。アゼルは後者から前者に鞍替えした堕天使の一人である。
鞍替えするきっかけは、地上に降りたとき出会った一人の女だ。まだこのときアゼルは人間を神の望む姿に作り替え、選ばれた人間のみが永久に生きる国を作ろうとした大天使の勢力に組みしていた。無垢な子供を選別し誘拐するために地上に降りた。グリゴリという天使の集団を率いて、表向き新興宗教という形で品川に根を下ろした。シュバルツバースで人々の意識を根本から作り替える賛美歌の蓄音機と化したロシアの女を教祖として水面下で行動した。賛美歌を聞き取ることができるのは、無垢なる魂を持つ、選ばれる資格がある人間だけだ。反応を示した子供を中心に誘拐し、地下施設で秘密裏に建造していた繭と呼ばれる箱船に押し込めた。その中に入った人間は問答無用で肉体改造が施され、自我を持つことができなくなる。神を盲信する人間ができる。体が作り替えられる間、動力源は天使の力である。必要な人数がそろい、教会からうちあがった箱船は空高く舞い上がる、選ばれなかった人間を根絶やしにするため、某国から核兵器が打ち落とされた。ある少年が自らの体を生け贄に捧げ、その殲滅から免れるべくすっぽりと東京を岩で覆い隠してしまうという誤算があったものの、繭は無事にその岩盤の上に着陸した。長い時間をかけて作り替えられた人間は、文明を放棄し、かつての原始的な生活にもどるべく、選ばれた始まりの民として繭から出された。
アゼルは女と再会した。
赤子のように無知で、無垢で、真っ白な人間の中で、驚くべきことに女はまだ正気を保っていた。異分子は排除されるべきだ。不幸にも選ばれていながら神の御心に沿うような人間に生まれ変われなかった人間である。哀れみをもって彼らは処刑されていった。女を誘拐した張本人であるアゼルは、つまらない人間になってしまった者達に違和感を覚えていたものだから、その変わらぬ姿に歓喜した。そして、惜しいと思った。捨てるのならいっそのこと自分のものにしたいと思った。そしてアゼルはアザゼルに堕天したのである。にも関わらず、アザゼルが未だに天使勢力にいられる理由は、四大天使と敵対しながらも背反した思想から神の意志を示そうとするマンセマットの配下に下ったからだ。マンセマットは大天使でありながら堕天使や魔神の軍勢を率いている。人間を誘惑し、迷わせる試練を与えることで神への信仰を示そうとする特異な天使なのだ。アザゼルのように堕天した者はほとんどが四大天使によって殲滅され、生き残りのほとんどはルシファに下ったが、そのうち1割は神に進言したマンセマットの温情により生き残り、配下に加わった。
マンセマットはアザゼルの率いた天使部隊グリゴリが堕天したことを揶揄はすれども、女と結ばれたことを咎めはしなかった。女が住んでいた吉祥寺の真上に村を作り、そこでひっそりと一生を終えるまでそばにいても、なにも言わなかった。ただ意味深な笑みを浮かべていただけである。
「俺を見ろ、チカ」
もっとも、望まぬ婚姻を強いられたチカにとっては、たまったものではなかった。新婚の簡素な邸宅にはいつも静寂があたりを包んでいた。抗議の意志を示すべく目をそらした瞬間、顎を掬われる。天使には言霊による拘束が容易だと悟ってから音を発さない誓いを立てたチカは息を呑む。流ちょうな英語はわからないが、日本語に精通するアザゼルの言葉は他より強烈だった。無性に懐かしくなって泣きたくなるのだ。この国に日本語はない。ケガレビトの言葉だと使うことが禁止されている。目尻が潤むチカをみるたびに、アザゼルはいつもひどくうれしそうな顔をした。不安をあおり立てた。手首を捕まれ、傾いた体を受け止められ、口づけられる。のどが鳴るのがおぞましい。鳥肌が立つ。アザゼルはいっこうに構わないようだった。
堕天したにも関わらず、アザゼルはかつての天使になるのを好んだ。マンセマットの配下に下ったのは、天使の姿を剥奪されるのを恐れたのかもしれない。堕天したことで得たおぞましい本性を現せばチカは抵抗しようがなくなるというのに、何故かアザゼルはそれをよしとしない。誘拐した犯人としての天使、もしくは相談相手として淡い恋心を抱いていた新興宗教の男、そちらの方で対面した時に見えるチカの反応を特に好んでいたようだ。
人としてのアザゼルはおぞましいほどに美しい男だった。この国の公用語である英語で表現するにはチカは少々学がなかった。その事実を恥じてしまうくらいには妖艶で、玲瓏な美青年だった。同時に恐ろしい男だった。いつもするりと心の中に入り込んでしまうような雰囲気がある癖に、その瞳の奥には人間が欲望を解放することを是とする矛盾した信条がある。人好きのする穏やかな笑みをたたえていながら、チカが抵抗するのを待ち望んでいる。
離して、と腕を突っ立ってると、アザゼルの瞳に濁流のような高ぶりがちらついた。怒りでもない、悲しみでもない、それはいつでも楽しげにゆがんでいた。
「確かにこの世界は俺たちの存在を否定する、輪廻転生の理で成り立ってやがる。お前が俺から逃げるっていうんなら、やってみろ。だが、忘れるなよ。俺は必ずお前を見つけて、ここに連れ戻してやる」
女を翻弄し、陥落させることに慣れきった堕天使の戯言である、とチカは聞き流すことができない。恐怖に染まる衝動のまま、チカは走り出す。どこにもいけないまま、連れ戻される毎日が繰り返された。ただの人間にすぎないチカはアザゼルが張った結界を突破することができないのだ。
チカが最期に見たのは、弟と共に見上げた時と同じ、澄み渡る青空だった。
時が流れ、アキラが天井に到達したとき、すでに時間は300年近く経っていた。チカが残した子供の末裔と初めてあったとき、アキラは天使に管理された国を人による国に変えることを決意する。いつか再会することを夢見て悪魔討伐隊と別れ、仲間数人と悪魔を退治する部隊を組織することで悪魔召還プログラムの剥奪を免除。天使討伐をうちに秘めつつ、国の中にとけ込んだアキラはその代表として頭角を現すようになっていく。マンセマットと通じ、人間による統治が神の意志だとする勢力に組みすることで、四大天使を排斥、封印することに成功する。東のミカド国はこうして建国され、人による統治が始まろうとした矢先、封印を免れた大天使の一人に暗殺され、短い生涯を閉じた。アキラが最期に見たのは、青空。広がる岩盤、そして近づいてくる懐かしい東京のネオンだった。