それぞれのおしごと! ~りゅうおうのおしごと! 連作短編集~ 作:あすな朗
「やっと会えたね、やいち」
東京・将棋会館の「銀沙の間」で、俺は雷と対面していた。
対局開始時刻の一時間以上前から、雷は将棋盤の前に座って俺を待っていたという。
俺が部屋に入ると、雷は眼を大きく見開いて俺を凝視し続け……着座した瞬間、囁くように言った。
やっと会えたね、と。
「やいち……会えて嬉しいよ……すっごくすっごく嬉しいよ…………やいち…………やいち、やいち、やいち、やいち、やいち…………」
囁きかけてくる雷を無視して、駒箱を手に取る。
いや……
無視しようとしても、無視しきれなかった。
雷の声色はどろどろに溶けたチョコレートみたいに甘ったるくて、一つ一つの言葉が脳髄にじわじわと浸透してくる。
「ねえ、やいち……こっち向いてよぉ」
至近距離でそう呼びかけられて、不覚にも、少しだけ顔を上げてしまった。
その瞬間。
「あはぁ♪ やっと目が合った♡」
そう呟いた雷の瞳は不気味な光を放っていて。
つり上がった口の端は、ひくひくと小刻みに痙攣していた。
「ねえ、やいち……。今度はさあ、前みたいなこと、ないよね? 逃げ出したりしないよね? ちゃんと最後まで将棋指してくれるんだよね?? ねえ???」
背筋がざわついて、思わず目を背けそうになる。今すぐ部屋を飛び出して、少しでも遠くに逃れたいという衝動に、身をまかせたくなってしまう。
でも--
逃げ出すわけにはいかなかった。
雷は、新人戦優勝者として、俺の目の前に座っている。
並みいるプロ棋士を葬り去って、トーナメントの頂点に登りつめた今期最強の若手棋士。文句のつけようがない、正当な挑戦者だ。
そして俺は、竜王として雷と対峙している。
目の前の挑戦者が誰であろうと、真っ向からぶつかっていくこと。相手がどんなに強くても、全力で戦って、勝ちに行くこと。
それが竜王の仕事だ。
だから、絶対に…………背を向けるわけにはいかない!!
「ああ、逃げない」
雷の視線を受け止めて、きっぱりと言い切る。
「もう絶対に、お前からは逃げない。何度挑戦されようが、受けて立つ。勝負を挑まれたら、いつでも戦ってやる。将棋盤の上で、お前と戦って……そして、倒す!」
俺がそう告げるとーー
「やっと、約束してくれたね」
雷の顔に、ゆっくりと、笑みが広がった。
それは、いつもの妖怪じみた笑いじゃなくて……純粋な喜びに満ちあふれた、人間くさい笑顔だった。
この笑顔は……
何年も前に、見たことがある。
将棋会館で、はじめて雷と出会ったとき。はじめて二人で将棋盤を挟んだとき。雷はたしか、こんなふうに笑っていた……
「こっち、絶対負けないから」
あふれんばかりの笑顔で、雷はそう言った。
「二人だけの将棋、指そう? ね、やいち!」