それぞれのおしごと! ~りゅうおうのおしごと! 連作短編集~ 作:あすな朗
一手の読み間違いが敗北に直結するようなギリギリの攻防が始まると、
順位戦に備えて、生石は毎年必ず護摩行をする。灼熱の空間に自分を投げ込み、無我の境地を体験することが、将棋にもいい影響を与えると思っているからだ。
護摩行のおかげか判らないが、終盤における生石の集中力は、プロ棋士の中でも群を抜いている。青年期を過ぎ、四十の峠を越えた現在でも、ここ一番で発揮する読みの鋭さでは若手の棋士にいささかも引けをとらない。
生石は今、A級順位戦の対局にのぞんでいる。
順位戦は、将棋界の最高峰「名人」への挑戦者を決める戦いであり、数ある棋戦の中でも、もっとも重要視されている戦いだ。
この日の対局は午前中に始まったが、午後十時を回った時点で、勝負の行方はまだわからない。どちらが勝ってもおかしくない状況だ。
飛車角を奪い合い、大駒が盤上を乱舞する熾烈な終盤戦。相手が自分の角を取りにきた瞬間、生石は燃え盛る炎に全身を包まれているような感覚をおぼえた。ためらうことなく角を見捨て、相手玉に迫る。百十七手目、囲いを追い出された玉の頭に生石が銀を打つと、相手は居ずまいを正して、深々と頭を下げた。
「負けました」
涼やかなその声は、極限まで加熱していた生石の脳を急速に冷やした。
「…………」
生石も、無言で頭を下げる。相手は、湖面のような静けさで盤上を見つめている。
月光聖市九段。
将棋連盟会長であり、かつて二十一歳の若さで名人位を獲得して全棋士の頂点に立った、生ける伝説。
彼はしばらくなにも言わなかったが、やがて、ぽつりとつぶやいた。
「取りにいったのが、良くなかったですね」
「……そう思います」
と、生石は答えた。
終盤に月光が角を取りにいったあの局面のことを言っているのだと、即座に理解できたのだ。
その後もしばらく感想戦が続いたが、その中で月光は二回「よく見えていますね」と言った。それは、生石の読みの鋭さを称賛する言葉だったのだがーー生石はなぜか、嬉しいとは思わなかった。
感想戦が終わると、秘書の男鹿ささり女流初段にささえられながら、月光はゆっくりと退室した。その背中が以前よりも少し丸まっているような気がして、生石は思わず目をそらした。
--月光さんも、年をとってしまった……
勝負には、勝った。
しかし、勝利の喜びや高揚感といったものはまったく感じられない。えもいわれぬ寂しさが、生石の心をひたひたと満たしていた。
生石が奨励会に入ったとき、月光はすでに複数冠を保持していた。
そして彼は、すでに失明していた。
視力を完全に失いながらも、月光はタイトルを防衛し続け、A級棋士として君臨し続けていた。「私は頭の中でだれよりも正確に将棋を見ることができる。視力なんて必要ない」と言わんばかりの活躍だった。
--間違いなく、史上最強の棋士だ。
生石はそう確信していた。月光の棋譜を研究し、少しでも彼に近づこうと努力した。月光がタイトル戦に登場すると、進んで記録係を申し出て、彼が戦っている姿を目に焼き付けた。
プロになってから初めて月光と対局したとき、生石はがらにもなく緊張して、本来の力を出し切れずに完敗した。何度も対戦を重ねて、得意の「捌き」で月光と互角以上に戦えるようになったとき、生石はプロ棋士になってよかったと心底思った。
その後、現名人が七冠を制覇し、月光は保持していたタイトルをすべて失った。さらに最近は、篠窪、九頭竜らの若手棋士がタイトルを手中におさめるようになってきている。
しかし、それでも、生石はやはり月光を敬愛していた。かつての最強棋士としてではなく、現棋界で最高の棋士として。
実際、月光の棋譜は負けても美しかった。
最短手数で敵玉に迫っていく彼の寄せは、「月光流」と呼ばれている。最終盤、恐るべき速さで相手玉を追いつめる鮮やかな指し手は、まさに芸術そのものである。仮に失敗したとしても、その美しさは生石をひきつけてやまなかった。
--だが、今日の将棋は……
月光らしからぬ、無惨な戦いだった。
駒の捌き合いが終わった段階で、形勢の針は月光のほうに振れていた。しかし終盤、月光はあきらかに間違えた。角を取りにいった一手、あれが一番の悪手。しかし、それだけではない。そのあと、月光は最善手を選択しなかった。攻め合おうとすらせずにずるずると受け続け、そして負けた。「月光流」の迫力は、微塵も感じられなかった。
感想戦のときに、月光は「よく見えていますね」と口にした。しかしその言葉は、自分が見えていないということの裏返しではなかったか?
冷えきった頭で、考えずにはいられなかった。
月光さんは、将棋が見えなくなってしまったのではないだろうか、と。
「会心譜やったね、充くん」
人当たりの良い笑顔を浮かべた中年の男が、棋士室で生石を待ち構えていた。
「何だお前、こんな時間までいたのか」
「つれない言い草やわあ。充くんの応援や思うてこんな遅い時間まで待っとったのに」
中年の男--
「そりゃずいぶん無駄な時間を過ごしたな。家に帰ってさっさと寝ろ」
「ほんまにつれないなあ。昔は対局が終わったあと、夜っぴて色々話し合ったやろ」
「そんなこともあったかね」
生石はぶっきらぼうに言って、ロッカーへと向かう。辛香には目もくれない。
「充くん、何や今日えらいご機嫌ななめやないの。対局中に何かあったん?」
「別に。何も」
「つっけんどんな台詞ばっかりやなあ……なあ、もっと素直に喜べばええんや。永世名人相手の大勝利やで。今夜は一杯、勝利の美酒でも飲みに行こ。もちろん僕のおごりや。な?」
「…………」
「ちょ、ちょっと充くん!」
生石がロッカーから鞄を取り出して帰り支度を始めたので、辛香は慌ててひきとめる。
「なんだよ」
「なんだよ、やあらへん。旧友が久しぶりに飲みに行こう言うてるんやで。それなのに何でさっさと帰ろうとするんや。薄情やないか」
「娘がいるからな、朝帰りするわけにはいかないんだ。それに、お前--」
生石は鋭い目つきで辛香を睨みつけた。
「俺から何か引き出したい情報があるんだろ? さっさと訊いたらどうなんだ。俺に答えられることだったら答えるし、答えられないことだったら答えない。それだけの話だ。回りくどく飲み屋に誘う必要なんて微塵もないんだよ」
辛香の笑顔がぴたっと固まって、ひきつった。
「お前は昔からいつもそうだったな。俺と話したがるときは、俺から何かを引き出そうとたくらんでいるんだ。次の対戦相手の棋風、くせ、弱み、私生活……。だいたいそんなところか。今度は何だ? 銀子のことでも根掘り葉掘り聞こうってのか?」
辛香はひきつった笑みを浮かべたまま、しばらく黙っていた…………が、やがて意を決したように口を開いた。
「……充くんは、僕のことそういうふうに見てたのか。いや、充くんの言う通りや。僕はたしかにそういうやつなんや。けど……」
顔に貼りついていた笑みを消して、辛香は言った。
「充くん。僕と練習将棋を指してくれ」
よく見ると、真剣な表情で哀願する辛香の両目は、うっすらと血走っている。
「一週間に一度……いや、充くんの都合のいいときだけでええ。とにかく、練習将棋を指してもらいたいんや」
「充くんも知ってるやろ。僕、三段リーグで勝ててへんのや。一期目は次点やったけど、二期目は降段点ギリギリやった。今期は……初戦から四連敗や」
「ソフトで研究すれば何とかなる思ったのは、間違いやった。今日びの若手は、ソフト研究くらい誰でもやってるんや。連中に勝つためには、研究だけや足りん。差し向かいで戦うときの感覚、実戦の感覚を磨かなあかん」
「実戦をやった上で、手の内を明かしあって本音の感想戦ができる相手いうのは……充くんしかおらんのや。今日は、それをお願いしにきたんや。たのむ、後生や。僕と練習将棋を指してくれ」
辛香が話している間中、生石はじっと彼を見つめていた。
そして、辛香が話し終えると--
「辛香お前、本当に
生石はうっすらと笑いながら、そう言い放った。
「お前の緩いところは、二つ。まず一つは、俺がお前のお願いとやらを聞き届けてくれるだろうと思っているところだ。奨励会時代、お前の引退がかかった一戦で、俺はお前を負かした。俺には、お前に対する負い目がある。だから俺はお前の頼みを断ることができない--そういう確信があったから、俺に声をかけたんだろ?」
「ッ…………!」
「もう一つはな…………俺と練習将棋を指したくらいで、自分が強くなれると思ってるところだよ。三段リーグがどれくらい厳しいところかは、お前も身に染みてわかってるはずだろ? どれだけ才能があっても、努力したとしても、必ず勝てるわけじゃない。精神的に追い込まれていくのもわかる。でもな、自分のやり方に自信が持てなくなって俺にすがりつくようじゃあ、三段リーグは抜けられないんだよ。絶対に、な」
絶句する辛香に向かって、生石はとどめの一言を放った。
「一人で戦うのが辛いんなら、さっさと辞めちまったほうが身のためだぜ」
言うべきことをすべて言うと、生石は棋士室を後にした。ロッカーのそばで茫然とたたずんでいる辛香の姿が、ちらりと目に入る。もの寂しいその姿が、先ほど目にした月光の背中と重なって見えた。
月光との対局が終わってから一週間ほど経った、ある日の朝。
生石は居間で煙草をふかしながら新聞を広げていた。すると--
「あ、あの、お父さん」
生石が振り返ると、高校の制服を着た生石の娘が、もじもじしながら立っていた。
「もう学校か?」
「うん。今日、合唱コンクールの練習があるから、早めに行かなくちゃいけなくて……」
「そうか。気をつけてな」
「あ。ありがとう。……………………あ、あの、お父さん」
「ん?」
「が、学校終わったら……また、しょ、しょ、将棋教えてもらっても、いいかな?」
少女はうつむいて、どもりながら言葉を発する。
「…………寄り道せずに帰ってこいよ」
生石がそう答えると、少女は顔をぱっと輝かせて、「うんっ!」と元気よくうなずいた。
うきうきと玄関に向かう愛娘の後ろ姿を見送ったあと、生石は再び新聞に目を落とした。
生石はいつも、後ろの方から新聞を読む。一つ一つの記事をくわしく読むことはせず、記事の見出しにだけざっと目を通していく。
その日も、生石は新聞を後ろからめくっていった。全体の半分くらいまで読み進めたとき--
ある記事の見出しに、生石の目は吸い寄せられた。
『月光九段が入院 会長辞任か』
煙草の灰が、膝の上にぽとりと落ちた。