それぞれのおしごと! ~りゅうおうのおしごと! 連作短編集~   作:あすな朗

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かいちょうのおしごと!

 

 新幹線が六甲(ろっこう)トンネルに入ると、ああ戻ってきたんだなと思う。

 

 トンネルを抜ければ、そこはもう神戸である。

 

 神戸には、山があって、海があって、四季の移り変わりがある。日本全国どこでもそうだなどと言われそうだが、神戸の自然がおりなす風景はまた格別。自分の生まれ育った土地だから、特別な愛着がある。

 

 ただ、その風景を見ることはかなわない。

 

 二十数年前、私は視力を失った。プロ棋士として絶頂期にあったときの、突然の失明。悲しいとか悔しいとか思う以前に、事実を受け止めきれなかった。

 

 失明したあとも、自分が盲目になったという自覚はあまりなかったように思う。多少の光は感じることができたせいかもしれない。将棋会館と近くにあるマンションを往復するだけの毎日だったから、慣れてしまえば目が見えなくてもわりあい普通に生活できた、という理由もあっただろう。

 

 しかし、私が「失明した」という自覚を充分に持てなかった一番の理由は、将棋だった。両目が光を失ってからも、私の頭の中にある将棋盤が消え去ることはなかった。否、頭の中の将棋盤は、ますますはっきりと見え、ますます強い光を放っていた。だから、目が見えなくなったといってもそれほどの喪失感がなかったのだと思う。

 

 自分の障碍(しょうがい)の重さに気がついたのは、失明したあとはじめて六甲トンネルをくぐったときである。トンネルをくぐり抜けるとすぐ、明るい光とともに神戸の街並みが目に飛び込んでくるその瞬間を、私はいつも楽しみにしていた。だがその日は、トンネルを抜けても、明るくなったなと感じるだけでいっこうに景色は見えない。「新神戸ー、新神戸ー」というアナウンスが聞こえるだけで、緑に覆われた山脈も、遠くに見える瀬戸内海の水面も、しっとりとした風情のある神戸の街も、何一つ見ることができなかった。

 

 私は愕然とした。

 

 自分の目では、二度と神戸を見ることができない。

 

 いや、神戸だけではない。これまで目にしてきたありとあらゆる景色、これから目にすることができたであろう様々な光景を、私は全て失ってしまったのだ。

 

 盲者にとって当たり前の事実が、異様なまでの重みをもって私の前に立ちふさがった。

 

 私はそのことがきっかけでしばらくふさぎこんでいたが、将棋の対局はそんなことにおかまいなくやって来る。ひたすらに戦い続けるしかなかった。

 

 そして、数年後。

 

 タイトル戦の最中に、阪神淡路大震災が起こった。

 

 日常生活はあっという間に破壊され、数千人の命が一瞬で失われた。

 

 こんなときに、タイトル戦などやっていていいのか。将棋なんて指している場合じゃないんじゃないか。

 

 そんな思いがよぎったが、いざ対戦相手と盤を挟んでみると、私の心は喜びで満たされた。

 

 ーー生きて、将棋が指せる喜び。

 

 突然、予想もしないかたちで命を落とした人たちがいる。

 

 苦労して育ててきた小さな幸せを、奪われた人たちがいる。

 

 そんな人たちがいる中で、私は将棋を指している。生きながらえて、好きなことができる環境にある。

 

 盲目の私にできることといえば、将棋だけだ。神戸の棋士である私がタイトル戦に勝てば、苦しんでいる人たちに少しだけ明るいニュースを届けられるのではないだろうか……

 

 だとすれば、私は、傷ついた人たちに顔向けが出きるような、立派な将棋を指すべきだ。目が見えないことくらい、なんだ。もっと困難な状況におかれている人はいくらでもいる。私は、自分に与えられた状況下で全力をつくさないといけないんだ。

 

 私は持てる力を全て出しきり、タイトル戦に勝利した。

 

 その後、月日は流れ……

 

 私は将棋連盟の会長に就任したが、すべてのタイトルを失い、無冠の棋士になっている。両目はあいかわらず見えないままだ。それどころか、この前は体調を崩して入院までする羽目になった。体は、少しずつ衰えてきている。

 

 神戸の建物は復興したが、災害公営住宅に暮らす人たちの話などを聞いていると、人びとの生活が完全に元に戻ったとは言い難い。さらに、東日本では阪神淡路大震災を上回る規模の震災があった。

 

 いいことばかりではない。

 

 それでも、神戸には、山があって、海があって、四季の移り変わりがある。

 

 だから私は、新幹線が六甲トンネルに入ると、ああ戻ってきたんだなと思う。

 

 そして、私の隣にはーー

 

「会長、トンネルを抜けました」

 

「ええ、明るくなりましたね」

 

「降りる準備をしましょう。男鹿の腕にお手をお置きください。廊下は狭いですから、もっとぴったりと、そうですもっとぴったりくっついて歩きましょう」

 

「いつもありがとうございます、男鹿さん」

 

「どういたしまして♡」

 

 私の隣には、今日も彼女がいてくれる。

 

 会長秘書として何年も務めているこの女性の顔を、私は一度も見たことがない。けれども、いつも影のように付き添ってくれる彼女の声を聞いていると、不思議と心が落ち着く。彼女の手が私の体にふれると、言いようのない安らぎを感じる。神戸の風景を見ることができない寂しさも。多忙な日々のなかでたまっていくフラストレーションも。彼女と一緒に時間を過ごしていると、少しずつ薄らいでいく気がする。

 

 もしも、私の目が見えるようになって、日常生活で彼女の補佐が必要なくなったとしても……私は彼女を必要とするだろう。今や彼女は、私にとってかけがえのない存在になっているのだから。

 

「さあ行きましょうか、男鹿さん」

 

「はい、会長!」

 

 彼女の腕の感触をそっと確かめながら、私は駅に降り立った。

 

 

 

 

 

 

 


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