それぞれのおしごと! ~りゅうおうのおしごと! 連作短編集~ 作:あすな朗
第五十期新人戦トーナメントの二回戦。東京・将棋会館の中にある「銀沙の間」がその舞台だ。
二ツ塚は、対局開始時間の三十分前からこの「銀沙の間」に着座して気を高めていた。
新人戦は、二十六歳以下の棋士が参加するトーナメントで、若手の登竜門とされている。順位戦で好成績をつけて「気鋭の若手棋士」という評価を固めつつある二ツ塚にとって、とりわけ重要な棋戦だった。
新人戦のトーナメントには、三段リーグで好成績をおさめた一部の奨励会員も参加できる。ただし、プロ未満の彼らは、トーナメントの一回戦から地道に勝ち進んでいかなければならない。一方、二ツ塚のようなプロ棋士は優遇され、二回戦からの出場となる。二ツ塚にとっては、この対局がトーナメントの初戦だった。
(絶対に勝つ)
二ツ塚は、自分にそう言い聞かせた。トーナメント戦だから、負けたらそれっきりだ。そのうえ、二ツ塚の対戦相手はプロ棋士ではなく、奨励会三段ですらなかった。負けるわけにはいかなかった。
対戦相手は、開始時刻ギリギリになって「銀沙の間」に姿を表した。
腰まで伸ばした金色の髪。
白と黒の二色を基調にした、高校の制服。
たくし上げているのだろう、スカートの丈はずいぶん短かった。
そう、二ツ塚の対戦相手は--女流棋士。
新人戦では、数名ではあるが女流棋士にも出場枠が設けられている。二ツ塚の相手は、その枠でトーナメントに参加していた。
ただし、女流棋士の棋力は奨励会三段よりもはるかに劣るとされており、現にこれまでの新人王戦でもほとんどが初戦で破れている。ここ数年で女流棋界のレベルが飛躍的に向上したとはいえ、プロ棋士との差はまだ歴然としていた。二ツ塚としても、絶対に負けたくはない。それに--
(冷静に戦えば、勝てる相手だ)
今日の対局に向けて対戦相手の棋譜を研究した結果、二ツ塚はそう結論づけていた。
異才の持ち主ではある。
過去にはテレビ対局で、プロ棋士相手に金星を挙げてもいる。
しかし、その棋譜から感じられるのは才能と閃きだけで、将棋の『分厚さ』は無かった。地道な研究の積み重ねや、経験にもとづく勝負勘や大局観。そういったものが、彼女の将棋には欠けていた。
持ち時間が少ないテレビ対局ならば、才能だけで相手を吹き飛ばせるかもしれない。しかし、このトーナメントの持ち時間は三時間。予想外の奇手に対しても、じっくりと腰をすえて対応できる。両者が腰をすえて戦えば、将棋の『分厚さ』がものをいう展開になる。そして、将棋の『分厚さ』は自分のほうがはるかに上だ。二ツ塚はそう確信していた。
対戦相手にちらりと目をやる。
開始時刻直前に入室してきたのにもかかわらず、彼女は慌てる素振りすら見せずに、悠然と着座した。
(……メンタルの強さは中々のものだな)
駒を並べながら、二ツ塚は対戦相手を冷静に観察していた。
闘争心を燃やしながら、気負いすぎず、客観的に状況を把握できる。この沈着さが、二ツ塚の大きな武器だった。
盤側の記録係が、いそいそと振り駒の準備を始める。
いよいよ、対局開始だ。
(……勝つ!)
二ツ塚は背筋を伸ばし、将棋盤を見つめた。
振り駒の結果、先手となったのは二ツ塚だった。二ツ塚は、三手目に飛車先の歩を突いて居飛車を明示。角交換の後、銀を前線に繰り出して敵陣突破を狙った。
対する後手は振り飛車で対抗するが、先手の巧みな指し回しによって陣形を乱される。金銀がバラけて、後手陣の左翼はスカスカになっていた。
二ツ塚は持ち駒の角を打ってさらに揺さぶりをかける。後手は飛車を引いてその攻撃を防ぐ。
その後も先手が鋭く攻め、後手が辛うじてしのぐという展開が続いた。
(このまま押し切れる)
二ツ塚は、心の中で呟いた。
ちょうどそのときだった。
「あんたにはさぁ、絶対負けられないんだよ」
相手が、突然しゃべりはじめた。
(独り言か?)
無視しようとした。しかし、相手の発するねっとりとした声は耳の奥にまとわりつき、二ツ塚の集中を妨げた。
「あんた、やいちに負けてるよね? 去年の順位戦でさ、やいちとあたって負けたんだよね?」
何のことを言っているのか、すぐには理解できなかった。
しばらくしてから、「やいち」というのは九頭竜八一竜王のことだと思い当たった。たしかに二ツ塚は昨期の順位戦で、九頭竜と戦って敗れている。
(なぜ今、竜王の名前を出す……? 昔の敗戦を思い出させて動揺を誘う盤外戦術か……?)
二ツ塚は相手を見ないようにして、あくまで盤面に集中しようとする。しかし--
「あんたになんか負けたらさぁ、『なんだ、こんな弱いやつに負けたのか』ってやいちに思われちゃうんだよぉ。そしたらこっち、二度とやいちに将棋指してもらえなくなっちゃう。ただでさえいろんな邪魔が入って全ッ然会えてないってのにさぁ、こっちが弱いところ見せたらまたやいちとの距離が開いちゃうんだよぉ」
相手は絶え間なくしゃべりつづけている。
対局中の独り言が激しい棋士だと聞いてはいた。しかし、この言動は明らかに常軌を逸している。盤側にいる記録係に注意してもらおう、と二ツ塚が横を向いた、そのとき。
「喰らえよ、ほらぁ!!」
乱暴に駒が打ち付けられた。
そして、その一手は二ツ塚を完全に痺れさせた。
「…………ッ!?」
打ち込まれたのは、一枚の歩。
しかしその歩をとれば、自陣のかまえに微妙なほころびが生じる。そのほころびを、相手が広げようとしたら……
(それを防ぐ手が……ない?)
何度考えても、有効な受けが見つからないのだ。
(これは……難しいのか……!?)
盤面を覗き込むようにして思考を重ねる。しかし、どれほど考えようとも自分が不利になる変化しか見えなかった。
(苦しい……)
二ツ塚は、激しい喉の渇きを覚えた。
傍らにあるペットボトルの蓋を開け、水を喉に流し込む。
小刻みに水分を補給しながら打開策を考えていると--
「ほら、もうわかっただろ?」
相手が低い声でつぶやいた。
「あんた、難しいって自覚した瞬間、喉が渇いてペットボトルが手離せなくなるんだ。こっち、そういうことまでちゃんと調べてあるんだよ」
「!?」
自分の癖を的確に指摘され、二ツ塚は動揺した。
しかし、それで終わりではなかった。
「そういう癖だけじゃなくってさあ、得意な戦型とか時間配分の傾向とか、細かい情報までぜぇ~んぶ把握してるわけ。だってこっち、ここんとこずっとあんたの棋譜ばっか並べてたんだ。クソ面白くもないあんたの棋譜を、何回も何回も何回も何回も何回も--」
相手はずっとしゃべり続けていた。
ボヤキとか、盤外戦術とかいった類いのものではない。どす黒い感情の濁流が相手の体の中からあふれ出て、自分を呑み込もうとしている。二ツ塚は、ぶるりと震えた。
「だってさあ、このトーナメントで優勝したらさあ、やいちと会えるんだよ? また会って話をして将棋指せるんだよ? やいちは騙されてるだけだから会って将棋指せばこっちの気持ちをわかってくれるんだよぉだから勝って勝って優勝してそんでやいちと将棋指さなくちゃいけないんだあんたなんかただの前座なんだだからさっさと投了しちゃいなよ早く投了投了投了投了投了投了--」
「じょ、女流帝位、対局中ですのでつつしんでください」
ようやく記録係が注意してくれた。
すると、相手は--
「うひっ♪」
奇妙な笑い声を発して、しゃべるのを止めた。
(な、何なんだこいつは……!?)
ちらりと様子を伺うと、彼女は将棋盤から目を離し、彼女にしか見えない何かを見つめながら、ニヤニヤと笑っていた。
「ひひ。ひひ、ひひひ、ひひひひひひひひひ……」
不気味な笑い声が、口の端から漏れている。
もはや完全に頭のネジが外れているとしか思えない。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、二ツ塚は何度も水を飲む。長考のすえ桂馬を跳ねた。敵陣を攻め立てて逆転を狙う、果敢な一手である。
ところが、相手はノータイムで返してきた。
その手が妙手だった。
このまま攻め続けていると、攻撃のかなめを担っている自分の銀がただ取りされてしまう。二ツ塚は臍を噛んだ。
攻めが繋がらないと判断した二ツ塚は、一転して自陣に持ち駒を投じ、受けに回る。
それに対しても、即座に強手が飛んできた。
二ツ塚は慎重に読みをいれ、最善と思われる一手を指す。しかし相手はまたノータイムで--
そんなことが何回か繰り返された。
三十分後、局面は二ツ塚にとって絶望的なものになっていた。
(どこから駄目だったんだ、一体どこから……)
いつの間にか二ツ塚は、勝つために考えることを放棄してしまっていた。
--迄、百十四手で祭神雷女流帝位の勝ち。
第五十期新人戦において優勝候補の一角と目されていた二ツ塚未来四段は、その初戦で姿を消した。