異世界隠居 身勝手に呼ばれて身勝手に捨てられたので隠居したい 作:ジト民逆脚屋
深い溜め息を落とす姿があった。山積みとなった書類の隙間に、身を潜める様にして座るネフェリタだ。
彼女はこの一日で、何度目かも解らなくなった溜め息を、また一度吐き出すと、ゆっくりと山積みの書類から一枚を抜き出す。
「……まさか、でしたね」
不意、不測の事態、盲点を突かれた。言い訳はいくらでも出来、実際にネフェリタ一人を責める声は少ない。
だが、今回の事態はファーゼル王国の治世に、深い傷を負わせた。
「官僚だけで数十人、大臣やその補佐までが、あの肉風船になっていたとは……」
油断と言い切るには、少々厳しく感じるが、政治に関わる者として、もう少し注意しておくべきだった。
重要な王族や、それに準ずる位の貴族、官僚は無事だったが、その他官僚や役人、果ては民衆に市街に居た冒険者までが、アレフト近辺を荒らした、肉風船と成り果てていた。
「しかし、一体何時から」
その事実よりも、更に重要視するべきは、あれらが何時からああなっていたかと、誰が何処から持ち込んだかだ。
これが解らなくては、これからの拡大を防ぎようがない。
だが、これを防ぐ手立てを考えなければ、経路も目的も、何もかもが不明な敵を内に抱え、何時爆発するとも分からない、不信不安という猛毒の袋を背負う事になる。
胃が痛む。只でさえ、最近はレミエーレ王国の動きがおかしいのだ。
「リンドウ、貴女は一体どうしたというのです」
明らかにあの魔女のやり方ではない。レミエーレ王国は病死寸前の重病人、竜胆は自分達の生存の為に、その重病人を生かし続ける方法を選んだ。
魔属領侵攻の遅延、公共事業の民間委託、農地拡大の奨励と補助、修学施設の敷設。未来の国益を想定した方策を発布し、死が近付いていたあの国に、幾ばくかの希望を与えていた。
だが、この最近ではその方策で得た貯金を、急速に食い潰している。計画性の無い軍備増強と、魔属領国境地域に対する、不自然な部隊派遣。
竜胆の手ではない。これだけは、はっきりと言い切れる。
あの女が、金も、利益も、何も産み出さない無益な戦いに、理由も無く手を回す事は無い。
「いや、今はそれよりも、
先の犬面人異変により、ファーゼル王国で活動する有力な冒険者達は、甚大なる被害を受けた。国が出した犬面人討伐依頼、その現場で起きた異形化した犬面人の異常発生と、それによる冒険者の異形化。
今、ファーゼルの冒険者達は、国に対する信用を失いつつある。冒険者は、自分に利益が無ければ動かない。だが逆に、利益さえあれば動くのだ。
今この状況で、もし何者かが冒険者達を煽動すれば、国に対する燻っている不信は、一気に燃え上がりかねない。
他の官僚は、金さえ払えば大人しくなると、楽観視しているが、ネフェリタはそうは思わない。
「……これまた随分、思い詰めてるじゃないか」
「ベアトリーチェですか。どうしました?」
おどけた様に、肩を竦めるベアトリーチェ。手には何か液体の入った二つの小瓶があった。
「ノックしたのに、気付かないってのは相当さね」
「ああ、そうでしたか。少し、気を詰め過ぎていた様ですね」
「まったくさ、ほら、《アルケミスト》ベアトリーチェ謹製のミント水さね」
手渡された小瓶は、よく冷えてる。《アルケミスト》の術式で冷やしたのだろう。ファーゼル王国最強の《アルケミスト》による特製のミント水、仮に販売したとして、幾らの値が付くか。
「くだらない事考えてないで、さっさと飲んじまいな。これから、まだ面倒な事が起きそうなんだ」
「ああ……、どうにか大人しくしてくれませんか……」
「知らないさ。奴さんの思惑がどうあれ、今のアタシらには、今の対策を立てるしかないのさ」
機嫌悪そうに、ベアトリーチェは乱暴に小瓶を煽る。彼女からしてみれば、大事にしている弟子が、あの肉風船になっていたかもしれなかったのだ。怒りや苛立ちは相当だろう。
それでも、こちらに当たってこないのは、こちらの実状も理解してくれているからか。
「んで、このふざけた真似を組んだのは、一体全体誰なのさ?」
「あ、それ聞いちゃいます?」
「いいから、知ってるなら言いな」
「……先に言っておきますが、私が出した依頼をねじ曲げた奴は、もう死んでます」
「あ? 自殺か、口封じか?」
「肉風船になってました」
また一口煽り、やけに清涼感のある息を吐き出す。
「あー、一体どこまで入り込んでんのさ?」
「中枢までは入ってません。しかし、その周囲には、しっかり入り込んでいましたが……」
「はぁ、全員見直しさね?」
「ええ、やはり窓口から見直しです。……頭の痛い話ですが」
まったく、強い清涼感を喉に流し込み、ネフェリタは自分が出した依頼を再度確認する。
内容は最近大量に発生していた犬面人の討伐、期限は特に無し。報酬は基本報酬に加えて、討伐数による追加報酬。
そして、参加資格はネフェリタが指名した若干名。
この参加資格を書き換えられ、全てが狂った。自分が直に依頼を出すべきだったと、今になって悔やまれるが、宰相という身では出来るものではなく、そういった簡単に動く事の出来ない身の為に、窓口というものがあるのだ。
「〝ショクアン〟、閉じるかい?」
「いえ、下手に閉じれば、国側に何かがあったと、民衆に余計な不信を与えます。今は、通常通りに運営するしかありません」
冒険者達への依頼通達は、国が設置した窓口〝ショクアン〟で行われる。依頼内容は様々だが、その冒険者の実績から推察される、実力に見合った内容の依頼をリストアップし、その中から冒険者に選ばせる。
しかし、中には人目に付いては困る依頼や、生半可な実力の冒険者には、回せない依頼というものがある。
そういった依頼は依頼者から直接、条件を聞いた専門の仲介者が依頼を回していく。今回の事態は、ネフェリタが選んだ仲介者が、肉風船になっていたが為に起きた事だった。
「だがしかしだ。これではっきりした事があるさね」
仲介者の異変に、気付けなかった事を思い出したネフェリタが、凹みながら空になった小瓶を弄んでいると、ベアトリーチェが細巻き葉巻に火を点けていた。
一応、火気厳禁の部屋なのだが、言って聞く相手ではない。香草の匂いが、やけに強く鼻に刺さる葉巻の煙を、燻らせるベアトリーチェに目をやる。
「以前からの疑問、あれらに司令塔は存在するか、または感染源は存在するか。答えは是さ」
「司令塔が存在すると?」
「いや、むしろ感染源さね。しかも、冗談事じゃ済まない数を眷族にして、思考の誘導と自立行動、そしてそれをほぼ同時に行う様な、常識外れ。正直な話、アタシも戦いたくはないさね」
ネフェリタからしてみれば、《アルケミスト》であり《モンク》でもあるベアトリーチェも、十分に常識外れなのだが、その常識外れから見ても、その感染源は桁が違う様だ。
「解るか? 連中は明らかに、組織化されていた。解るか? 明らかに理性の欠片も無い風船共が、戦闘能力の無い市民〝から〟襲い、自分達の数を増やした」
「……習性では?」
「連中に、そんな都合のいい習性があると思うか?」
ベアトリーチェの言葉に、ネフェリタはあの肉風船の行動を思い出す。
確かに、やけに狙いがはっきりしていた様な気がする。しかし、ベアトリーチェが言う様な、異質性があったとは思えない。
「追加だ。〝ファーゼルの鎗〟としての所見、魔力の高い奴から、連中は仲間にしていた」
「そんなまさか……」
「いいかい? アタシの仮説は、あれらは何者かに操られていて、今回は何か実験をしていた、だ」
「だとすると、何の実験を?」
「分からん。情報が少な過ぎる。……ウチのバカ弟子が診ている娘っ子が、目を覚ますのを待つしかないさ」
もう何度目か、この日一番の深い溜め息が落ちた。
ショクアン
何代か前の召喚勇者が名付けた。召喚勇者の約三割以上は、この名前で膝を屈する。