日暮 恵勇 ヒグレ ケイユウ 主人公。
アラネコ あらねこ 相棒。
不動 瑞子 フドウ ミズコ 笑顔が怖いクラスメイト。
和泉 風 イズミ フウ 主人公の隣の席の女子。
東雲 海人 シノノメ カイト 人?
青助 アオスケ 記憶喪失の少年。
ハルヌ 喫茶店兼バーの主人。
博士 博士。
岳 ガク 大工の棟梁。
藤堂 トウドウ 人。
宮下修哉 ミヤシタ シュウヤ 人。
1.日常
一つ断っておくとすれば、女子高生たちがバタバタと非日常を送ったり囲碁サッカーという正体不明のスポーツは突然始まったりしないので安心して欲しい。
冬の寒さが身に染みる。まだ雪は降っていないが、秋の影は鳴りを潜め冷たい風が頬に打ち付ける。こんな風に風の強い日は外に出たくはないというのが僕の心境だ。…心境なのだが、僕は陸上の大会の応援に行かなければならない。
本当は野球でも剣道でも何でもいいのだが、知り合いのいる部活のほうがやる気の出ない応援にも少しは力が籠るのではないかと陸上の応援に行くことにした。応援に行って担当の教師に出席報告をすれば保健体育の点数がもらえるという事情もある。
出席報告だけして回れ右、という手段もあるが彼の走り姿でも見届けてから帰るのも悪くはないだろう。でも僕、東雲がなんの競技に出るか知らないや…。
こういう季節は何もかもが元気がなさそうに見える。街路樹は緑の衣を脱ぎ捨てているし、道行く人はポケットに手を突っ込みマフラーに首をうずめて表面積を小さくすることに忙しそうだ。僕が今切実に欲しいものはあべこべクリームですサンタさん。
アラネコは朝から姿を見なかった。こんな寒い日に出かけるなんて彼女にしては珍しい。朝はいつも暖房の前に居座って昼頃にならなければ家から出ないというのに…。朝食をとった跡はあったので、餓死や投資の心配はなさそうだ。
『中央公園』とデカデカと書かれた看板を発見する。しかしこれは入り口で、公園本体に辿り着くには結構な距離の坂を上らなければならない。人にやさしくない立地をしている。山に建てた方が土地代が安いという事情だろう。
山頂に幅を利かせて建てられたそれは公園と呼ばれてはいるが、遊具などがある公園ではなく、体育会館と呼ぶ方が正しいと思う。武道場やプール(今は冬なので緑色だ)、野球場から陸上トラックまですべてそろっている。大きな大会は基本的にここの会場で行われる。大きな大会。朝早く早起きしたので腹痛が痛い。
僕がやっとのことで登りきると、既にバスが何台か来ていて選手や観戦客が降りてきている。わざわざ坂を登るような真似はせずバスを使うというのも一つの手ではあったが、乗車率が百パーセントを超えている公共交通機関は利用しないというのが僕の信条だ。
と、降りてくる人の中に見知った顔を見つける。
「日暮君、来ているとは思わなかった。おはよう」
黒の長髪が風になびくのを抑えながら、彼女は僕に話しかける。確かに僕が応援をしている姿を想像することは難しいだろうが、開口一番に告げなければならないことなのだろうか。おはようよりも先にいう必要のある言葉だとは思いたくない。
「おはよう。渋滞お疲れ」
挨拶を返す。冬服は皺が目立たないので不動の様子からは人混みに揉まれた様子は見られないが、恐らくもう二度とあんな箱に乗るまいという決意が固くなっていることだろう。というようなことを言ってみると、
「ううん。私は一つ目の停留所で乗ったから、ずっと座っていられたよ」
なぁにそれ、ずっるい。不動への労いや畏敬など消え失せ、残ったのは羨ましさばかりだ。いや、あの箱詰めの乗り物に乗るには全力を投じて座席を確保するという確固たる意志が必要なのか…。目の前の少女はその意志を持っている。そう考えると素晴らしいものだとは思えないね全く。
「歩いてくるには少し遠すぎるし、ここの坂ってとっても急だから…。バスに乗る以外の選択肢はないかな」
「僕もここの立地には悪意を感じる」
遠足の目的地がこんな場所だったら僕は仮病を使って休んでいるだろう。
「ところで、東雲がどの競技に出るか知ってるか?」
そう問いかけると不動は僕のことをじっと見て、ため息をついた。何かまずいことでも言ったのかしらん?
「やっぱりプリント、読んでないでしょ」
そう言って鞄の中からちょっとした冊子を取り出す。表紙には『陸上競技プログラム』と書いてある。そんなの配られていたっけ…。
不動の冷気にあてられ冬だというのに冷や汗の止まらない僕に、冊子をぱらぱらと捲って東雲海人の名前を探していた不動が手を止めた。見つけられたのだろうか。
「驚いた。彼、個人で三競技にリレーまで出るのね」
陸上の大会はトラック(走る競技)とフィールド(跳んだり投げたり)とを並行して行い、最後に華であるリレー種目が来るという順番だ。東雲は走ったり投げたり跳んだりした後華を咲かせるのだろう。恐ろしい人間である。いや人間じゃないか。
恐らく恐る恐る恐ろしいことをする男だろう。というか日本人恐れるの好きすぎじゃないか?そのうち酸素さえ恐怖の対象にしそうだ。
「日暮君。くだらないことを考えてないで早く会場に行こう」
「心を読まないでいただきたい」
彼女は読心術まで体得したのだろうか。そうなってしまうと僕としては相当生きづらいことになってしまう。何故なら僕は基本的にくだらないことしか考えていない。
それよりも、
「会場ってどこ?」
再びため息をつかれてしまった。
受付の職員に学生証を見せて階段を上ると、選手たちの掛け声が大きくなると共に目の前が大きく開け、大会前のアップをしている様子が見えるようになった。スタジアムやドームの階段を上ったあとの観客席から見る競技場と言うのはいつ見ても壮大だ。
ここのスタジアムは昔親と一緒に来た六年前からほとんど変わっていない。どうして連れて来てもらったんだっけ。今ではもう思い出せないが、何か有名な選手でも来ていたのだろう。
ふと、何かを忘れている気がした。
時々感じる、何を忘れているかは思い出せないのに、忘れているということだけは思い出せる不思議な感覚。途轍もなく大事なことのはずなのに、重大な不安が心に渦巻いているのに、それを思い出すことがどうしてもできない。家に帰ればきっと思い出すだろうと、無理やり不安を胸の内へと飲み込んだ。
思えばこの時に必死に記憶を探っていれば、違った道へたどり着いたのかもしれない。今となってはもう遅いことだけれど。
不動はと言えば、階段が暗かったからか目を細めている。確かに朝日が直接差し込むのは少しまぶしい。風を遮るものがないので強い日差しの中でも寒いという最悪の状況だ。まるで吸血鬼になったような気分になりながら、座る場所を探す。僕らの学校の生徒が固まっている場所を見つけ、二人で座席に腰を下ろした。背もたれが付いているが硬めの椅子なのでお尻が痛くなったらすぐに帰ろう…。
「この様子だと開会式は終わったのか?」
横で鞄の中を探っている不動に尋ねる。
「プログラムだと八時だね」
腕時計に目を落とすと、針はすでに九時を回っていた。そのまま文字盤をグルグルと走り続ける尖った働き者に声援を送りながら会話を続ける.
「不動は開会式から見る人間だと思ってた」
「私だって退屈に思うことぐらいあるよ」
「…いつも思うけど、あの儀式は必要なのか?」
市長さんとかお偉いさんがしゃべりたいだけな気がする。選手宣誓とかはあってもいいとは思うけれど。
あの謎の三十分がなければ大会は始まらないのだろうか。開会式というものをなくして、ピストルの音と共に選手が走り出し、「第〇回日本総合体育大会スタートです!」とアナウンスが入るというのもかっこいいと思う。
ただし閉会式は必要だ。表彰とかはやってもらった方が選手は嬉しいだろうし、観客側も盛り上がる。閉会式があるということは逆説的に開会式もあるということになるのだろうか。終わりがあるなら始まりがあって、始まりがあるのなら終わりがあると。だけど、いつ始まったかわからないのに突然終わるものも世の中にはあるのだし、必ずしも終わりと始まりの条件が存在しているわけではないだろう。例えば恋とかね。
段々何を考えているかわからなくなってきた。
「羊が一匹、羊が二匹…」
「日暮君。突然眠ろうとするのはやめて」
止められてしまった。
「あ、東雲君だ」
その声で舟をこいでいた僕は目を覚ます。明るいとこで寝てると目を開けてもあまりまぶしくないのは本当に不思議だ。僕はずっと瞼の裏側を見ていたはずなのに。ちなみに寝ているときは目ん玉が裏返っているので実際には瞼を見ていないんだよ!どうでもいいね!
「やっぱり東雲は頭一つ出てるな」
「高校生であの身長の子がたくさんいたらびっくりだよ」
彼の方からは観客席の僕らは見えないだろうから遠慮なく観察をさせてもらう。他の選手たちがストレッチや腿を叩くといった彼らなりのアップをしているのに対し、東雲は目を瞑って下を向いている。整えるという概念を知らなさそうなボサボサの短髪だけが風にそよいで動いていて、まるで彼は立ったまま死んでいるようだった。
点呼が始まると、彼は目を見開く。スタートブロックに足を掛け、合図とともに構えを取る。普段のふざけた雰囲気とは一変して、見ているこちらの筋肉まで緊張するような圧迫感を放っている。彼の隣の選手は走りにくいことこの上ないだろう。
「…」
不動は黙って見守っている。今頬を突いたら叫び声を上げそうだなと思ったが、流石に僕も命は惜しい。
乾いたピストルの音が鳴る。その男は周りの選手よりも早く動き出し、加速も群を抜いている。無駄など一切感じない水が流れるような姿勢で、けれど獅子の如く地面を踏みしめ後ろに送っていく。鳴りやまない歓声。人々は彼の姿に釘付けにされているだろう。だけど僕は、彼の走りとは別のことを考えていた。見るまでもなく東雲は一着に決まっている。そして、彼が本気を出せば今すぐにでも世界の王者になれるだろう、なんて。
だってその身は、正真正銘の鋼なのだから。
2.オーバーロードA
機械の心臓が、動き出した。体から蒸気が出ることはなく、まるで人間のような姿をしているが、その身体に肉はない。
景色を視認。コンディション良好。現在の座標と自身の存在を認知。
「おはよう」
対象を視認。辞書を探索…登録No.1、『博士:私を創った者』。
「人がおはようと言った時はね、おはようと返すんだ」
―――おはようございます
「ああ、おはよう。いい挨拶だ」
そう言って笑う女性に、機械は問を投げかけた。
私の存在理由は何か。
「理由と来たか。それはとても困ったね」
しばらく考える素振りを見せて
「…人に近づくことだ」
私の外見はほぼ極限を極めたと言っても虚偽でないほどに人間であるが、そのうえで人間を目指すということなのか。
「そこまで褒めてもらえると作者としても嬉しいね。君は褒めるのがとても上手いらしい。だけどね、私が言っているのは外見の話ではなく、中身の話だよ。その観点から言えば、君は純然たる機械だ」
私の機械の心臓を、肺を胃を腸を脳をその他大量にヒトを模して創られたこれら全ての機械類を肉類と差し替えればいいのか、と機械は再び問い詰めるように問いかける。
「君がそこで内蔵された銃火器や刃物を取り出して私を襲おうとするような機械でなくて良かったよ」
自衛以外の破壊は非生産的行為だ。
「それについては後で討論しよう。取り敢えず、そうだね…当面の目標としては、優しさを知ってもらうことになるのかな」
優しさは定義が非常に曖昧だと反論する。
「だからそれを知るんじゃないか。曖昧だからと言って分からないと投げ出しちゃあいけないよ」
貴女の持つ優しさの定義とは…。
「いきなり答えにたどり着こうとするんだね。優しさとは自己犠牲と同義になったりするものだよ。誰かのために、自分が損をするんだ」
自分か損をし、他人が得をすることは非常に自分にとって不利なことである。
「その通りだね。だけど優しさを振る舞うものにとってそれは犠牲ではない。犠牲と捉えることなく損をしているんだ」
愚か者。
「違うね。優しさには結局のところ見返りがある。馬鹿みたいに優しい人間の周りには、同じように馬鹿ばかりだ。損と得はほぼ一定だよ」
ただの等価交換。
「それも違う。彼らは損得でなく、他人のためと捉えることなく、いとも簡単に自己を犠牲にする。自分の身の犠牲は犠牲ではないんだ。そして優しさの見返りをその人間は望んでいない」
そして、と続ける女性を機械はじっと見守る。
「優しさは温かさと同義でもある」
この冷たい機械の身体で、温かさを知れという難題に、それはじっと…ただじっとメモリの中の辞書を捲っていた。
3.鉄槌
床にの張られた、盆と呼ぶには大きすぎ、タライと呼ぶには浅すぎる円形の容器の中に儀式用の白い衣を纏い立っている少年の姿がある。
「雪げ、我が穢れ」
呟いた声と共に水は波立ち少年の体を覆っていく。その体からは旧字も混じった漢字片仮名平仮名記号等々読むことのできぬ象形文字などが浮かんでは消えていく。息を止めたその体から穢れという穢れ、臭いという臭いが剥がれ落ちていく。
美少女魔法戦士の変身アニメーションのように覆われた水が元の器に帰っていくと少年は短く息を吐きだした。勿論コスチュームは変わってなどおらず、先ほどまで水を纏っていたのにその体からは一滴の雫も滴らない。つまりはいい男ではない。うるさい。
必要な荷物を肩掛けのカバンと、腰に付けたホルダーに詰める。その片手間で作った食パンとスクランブルエッグを皿に盛り付けてテーブルの上に置く。
「朝ごはんできたよ」
「ありがとう~」
昨日の晩、僕が寝るまでには家にいなかったのに、いつの間にか帰ってきていたアラネコの「ごはん」コールで起こされた。先日の案件で大量に消費してしまったお札を書き直す作業に駆り出したいが、今日も予定があるらしい。こいつ本当に僕の相棒なのだろうか。
「僕はもう出かけるけど、帰りはどっちが早いかな」
鍵は持っていくか、と言う僕の質問に、美味しそうにパンを頬張りって尻尾を振りながら答える。
「今日も遅くニャりそう~」
また夜遊びか。お父さん感心しないぞ!
「そっか。それじゃあいつもの引き出しに入れておくから」
鍵の置き場所を指定する僕に対して、耳を揺らして返事をする彼女に「いってきます」と言って家を出た。
空はカラッと晴れていて遮るものが何もない。何もないものだから温度までもが逃げてしまってかなり冷え込んいる。僕はコートのポケットに手を突っ込んで、口から白い息が出ては消えるのを眺めながら歩いていた。
こんな冷えた朝だと言うのに人通りはかなり多い。平日だから当たり前なのだが、車やバスで快適な通勤ライフを送る人は少ないのだろうか。人通りの多い道を右に曲がって路地へ入る。
かなり薄暗いが、突然横道から不審者が飛び出してくるようなことはない。会社が入ったビルが多く建っているので治安の悪い場所と言うわけではないが、日当たりが超絶悪いので僕はこんなところで働きたくないと思う。
しばらくコンクリートの壁ばかりの道を進んでいくと、やや開けた場所に出る。周りは工事中の看板や柵が建っていて鉄骨が組み立てられている。しかし肝心のビルはほとんどできていない。ギィ…と嫌な音がする扉を開けて柵の中に入ると、中にいた何人かの作業員がこちらを向いて駆け寄ってきた。
「ああ、日暮先生ですか」
僕がここに来たのは、依頼があったからだ。
東雲の応援に行った帰り道、突然ハルヌから電話がかかってきた。カフェを経営する老人から電話がかかってくるときは、調査が終わったときか何か僕に依頼があった時だ。僕は彼に頼んでいた依頼はなかったので(勿論僕が忘れていなければ、の話)、依頼の方だと思いすぐさま彼に問いかけた。
「祈禱か、祓いか」
「祓いだ。しかも今回は既に死人が二人出ている」
「そんなの新聞に載ってなかったぞ」
「企業絡みだからな」
不審死と言うものは基本的に隠される。それには様々な事情があるが、ここでは割愛しよう。とにかく僕はその言葉を聞いて、めんどくさいタイプの亡霊でなければいいだなんて考えていた。
「それで、場所はどこなんだ?」
その質問の答えを聞いて僕は更に辟易する。
「工事現場だ」
「いよいよビルの骨組みを、ってところで転落が相次いだんです」
恐らく作業員の中の頭と思しき、初老の男性が話す。
その男性は冬だというの肌が真っ黒に焼けていた。世の中のギャルたちは皆こういう仕事をすれば日焼けサロンに通う必要なんかないのに、と思う。ただそんなことをすれば化粧がはがれて大量のモンスターが発生することになってしまうだろうが。それは僕の手に負えない種の怪物だ。
「何か恨みを買うようなことをしたことはありますか?」
渡された飲み物に口をつける。コーヒーかと思っていたがお茶だった。しかも甘めのお茶で、なんだか不思議な味だ。確かインドの方のお茶が砂糖が入っていると聞いたことがあるような…。
「私共には、ないです」
僕の質問に先ほどの男性が答える。この人はきっとここの頭だろう。そして、『私共』と言うことは『私共』でない誰かは恨みを買っていると言うことだ。黙って視線だけで彼に話を続けるように促す。
「私たちに仕事を渡してきた企業が、犯罪すれすれのことをやっているので」
「要するに893の種族ですね」
面倒くさい。刀で幽霊くらい退治して欲しいなぁ。
「断らなかったんですか、その仕事」
「そういった筋の仕事を請け負うのが私たちのやり方なんです」
口調は穏やかだが、目には意志がある。成程、どうやってこの会社が利益を上げているかがわかってきた。それに関連付けて推測するならば、従業員の何人かは恐らく日陰者の出身だろう。そういった者たちを積極的に受け入れるにはやはりそういった仕事を請け負うしかないのだろうか。
「あなたは命が惜しくないんですか」
ここで『惜しくない』という返答が返ってきたのなら、僕はきっとこの仕事を断っていただろう。
僕の質問に彼の敬語がはがれる。きっとそれが本心で、彼の核心部分なのだろう。
「家には女房と子供が二人いる。親もまだ生きてるんだ。…命は、惜しい」
だけど、と棟梁は続ける。
「家族は血の繋がりだけじゃない」
彼が頭を下げると、それとほぼ同時に後ろに控えていた数名の従業員も頭を下げる。何この統率。この人たちもヤクザなんじゃないの?
「それじゃあ仕事するので、皆さんは柵の外にいてくださいね」
ここで押し切られてしまうところが恐らく僕の悪いところなのだろう。この決断を後悔しながらも、目の前の屈強そうな男たちの安堵した表情を眺められたことを喜んでいる自分がいた。
事故死の原因は二名とも転落死だが、二名とも見事に首がへし折れている。こんな器用に人を殺める奴って言うのは、
「狂ってる」
「なんだよお前、あのドカタ連中じゃねぇのか」
声が上から降ってくる。その方向を見れば、ゆらゆらと人型の炎が揺れている。霊として余程肥えているらしく、その姿はほとんど定型を保っている。これ以上行けば別の存在に成ってしまうかもしれない。
「うん、僕は彼らに雇われた…厄祓いだよ」
僕のことは何といえばいいかわからなかったので、相手への皮肉を込めて答える。高校生とか答えても威圧感全くないだろうし。
「お前に俺が祓えるのかァ?」
相当自分に自信があるようだ。確かに彼は既に二人の人を殺めているし、それだけでなく力も蓄えている。ギシギシと工事現場の足場が音を立てるほどの風でも、その場にとどまり続ける炎。異質な光景が目の前にある。
僕は彼を侮れないけれど、彼が僕を侮ってくれるのは戦いやすい。もうほとんど人としての形を手に入れ始めている。妖になる前に早く祓わなければ手遅れになるかもしれない。
だけど、僕には確認しなくてはならないことがある。
「どうして君は、こんな風に人を殺すんだい?」
その問いに、しばらく霊は固まる。だけどその硬直は、冷たいものだった。
「理由?そんなもん必要なのかよ。俺は、殺したいから殺すだけだ。それ以外には何も無い!」
お前だってそうだろ?と、悪魔は続けた。
「それは良かった」
救いようのない存在で、本当に良かった。
「これで心置き無く、お前を消せる」
「岳さん、あの少年って何者なんですか?」
先ほどの少年がひとりでに宙を舞う鉄骨や見えない何かと奮戦している様子を眺めながら、一人の大工が言う。
「私もよくは知らないが、ハルヌさんの紹介だ」
岳さん、と呼びかけられた大工たちの棟梁は、建設予定地を囲う柵やフェンスに大量に張られたお札をなぞりながらそう答える。
情報屋と呼ばれている胡散臭いバーを経営している老人は怪奇現象関連だけでなく暴力団同士の争いについても詳しい。どちらかと言えば後半のほうが自分たちの仕事に関係があるのだが、今回は腕のいい霊能力者を、と頼んだ。
「霊能力者と自ら名乗るやつは大概が信用ならない者ばかりだよ」
と、口元に笑みをたたえながら、その老人は日暮と言う少年の名を告げた。
彼曰く、
「鬼の手を持つ少年」
「鉄骨を弾き飛ばすなんて、お前本当に人間かよ」
「…まだ死んではいないつもりだよ」
こちらに向かって飛び込んでくる鉄骨を左手で受け止める。強化の魔術を施したとは言え、右手ではこれだけの大質量を受け止めることは出来ない。
相手に投げ返したいが、彼には実体がない。更に彼は宙に浮いている…。加えて足場がよくない.工事現場の骨組みを足場にしているが、僕は大工の経験など全くないため足元に不安を感じてしまう。
「おいおい、俺とキャッチ鉄骨やってるだけでいいのかよぉ!?」
工事現場に積まれている鉄骨を投げ飛ばし、自身の周りで揺れる炎で身を守っている。鉄骨やパイプは何百本もあるため、尽きることのない武器になる。
僕は手を変え札から式神の燕を飛ばすが、それも霊に近づくと炎で燃やされてしまった。このままでは埒が明かないどころか、先に魔力が切れるのは僕の方だろう。
「…―――速く」
続いた鉄パイプを加速して躱し、その勢いで骨組みを上へ上へとよじ登る。宙に浮いているのなら、空中戦に持ち込む。
「空で何が出来る…!」
僕が頂上まで加速し加速し空中に身を躍らせても、さほど驚く様子を見せない。こちらに投げ飛ばされた鉄骨に足をかけ、相手への距離を詰める。落ちていた速度が再び上がる。風が唸り、服がはためく。
僕のその動作を予想していなかったのか、霊は目を見開いたが、すぐに睨みつけてきた。闘志は消えない。その目には火が宿っている。
惜しい力だ。使い方を誤らなければ、神にだってなれただろう。
「お前もアイツらのように殺してやる!」
「七人岬の真似事なら、虚しいだけだ…!」
僕を包もうと盛る火炎を、身体を丸めて突き破る。熱い空気に肺が焼ける。目の前の景色が止まって見える。逃げろと叫ぶ脳に鞭打ち、反れようとする視線を相手へと見定めて、
左腕を、振りかぶった。
地面で炎が燻っている。今にも消えそうな魂の炎は、低い呻きを上げている。
「最後に呪詛くらいは聞いておこうか」
「要らねぇよ、介錯なんて武士でもねぇのに」
そう言って消えてしまおうとする炎に、問いを投げかける。
「君は地縛霊じゃない。逃げても良かったはずだ。僕を、殺そうとした理由を教えてくれ」
「言えねぇよ、そういう約束なんだ」
約束。
霊にもなって礼儀を気にするのか。その言葉の響きから、彼がそのことについて全く話す気がないという確固たる意志を感じる。燻る炎はチラとこちらに目線を向けて、
「あばよ坊主。左腕には気をつけろよ」
煙になって空に消えた。
僕が彼の言っていたことを反芻していると、作業員たちが走り寄ってくる。彼らの賞賛や感謝の声を聞き流しながら、依頼主である男に話しかける。
「とりあえずもう大丈夫だと思います」
「アレは一体…何だったんですか?」
問いかけに対する答えを、僕は持っていない。『約束』で守られた秘密の断片さえ、僕は知りえていない。
「ただの八つ当たりですよ。亡くなってしまった二人は手厚く埋葬してあげてください。化けて出ると、僕の仕事が増えるので」
再び会わないことを祈っています、と言って僕は工事現場を後にした。報酬はあとでハルヌから受け取る手はずになっている。棟梁の男の目に灯る不安の炎を、僕は意識して見ないようにしていた。
一度ハルヌの店に行って報告を終え、家に帰ると七時を回っていた。冬は夜の訪れが早く、僕は冷たい外気と共に裏口の扉を開ける。鍵は閉まっていたのでまだアラネコは帰っていないのだろう。本当に何をしているのやら。
「さて」
ふかふかの社長が座っているような黒い椅子の背もたれに全体重を預けて息を吐く。窓から月が見える月の光が、机上にあるペン立ての影を伸ばしている。僕はそんなペンを手に取って部屋の明かりを点け、引き出しの中から和紙を取り出して結界符の制作に取り掛かった。
特に集中を必要とするものでもないし、大体は腕が覚えているのでサラサラと他所事を考えながら書き進める。本当は集中した方がいいんだけど、そこはほら疲れちゃうからね。
最近アラネコはどこに出かけているのだろう。一週間ほど前から朝早く出かけるようになり、帰りも段々と遅くなっている。彼女は寒いのを嫌うので、朝は布団から出てこないし夜は陽が沈む前に帰ってくるのが日常なのだけれど…。特に冬は。
猫の集会は夜遅くまでやるのだろうか。全員が全員アラネコのような生活を送っているわけではないだろうが、それでも寒いのは好きでないと思う。
そういえば最近野良猫をあまり見ない気がする。僕の住んでいる町は冬に雪があまり降らないので、野良猫や犬が多く生息しているのだが、最近はめっきり見かけなくなった。山籠もりでもしているのかしら。集団で冬を越す準備をしているかもしれない。この町の猫ならありえないこともない。
猫と言う生き物は、昔話などでも化けて知恵を持ったり、人間と恋をしたり、妖になってから飼い主に恩返しや復讐をする話が多くある。逆に犬は生きたまま奉公をしてそのまま死に絶える話が多い。同じように昔から飼われている生き物なのに、人からの認識は大きく違っているというのは興味深い。最も同じ人間の相棒としても、猫は愛玩用で犬は狩猟用であったという違いはあるのだが。
考え事をしている内に傾いていく月を見ながら、僕は右手をせっせと動かし続けていた。
顔に差していた月の光が遮られたことで目を覚ます。
「…んん」
どうやら札を書いていたまま寝てしまっていたようだ。顔を起こすと、僕の顔を見ているアラネコと目が合った。
「おかえり、アラネコ」
どうしたの?と聞くと、
「ただいま。ちゃんと布団で寝ニャきゃだめニャ」
と、小言を言われてしまった。
「ごめん」
確かに暖房を入れていても椅子で寝てしまっては風邪を引くかもしれない。僕は広げていた道具類を引き出しにしまいながらアラネコに尋ねる。
「そういえば最近遅くまで出かけているようだけれど、猫は冬越しの準備でもするのかい?」
「んー、似たようニャことかニャ」
さっきは小言ではぐらかされたし、今度はなんだか歯切れが悪い。問い詰めた方がいいだろうか。
「アラネコ」
「恵勇には言わニャい」
にべもない。こんな風に先回りして言われてしまったので、特に説得の文句も出てこない僕は黙るしかない。なので、
「これからは八時以降は暖房を切っておこうかな」
「最低ニャ!」
鬼!悪魔!恵勇!と罵詈を大量に発していや最後のそれは最上級の悪口みたいに使ってるけど僕の名前ですからね?
フシャーと毛を逆立てているアラネコにふははと笑いながら僕は寝室へ入り、扉を閉める。彼女のことは気がかりだったけれど、僕以外の誰かに話すことのできる内容ならほかの誰かがなんとかしてくれるだろう、と思い、僕はそのままベッドに倒れこんだ。
4.オーバーロードB
うだるような夏の日、それでも機械は悲鳴をあげることなく考え続ける。冷房をつけていない室内は熱気が篭もり、鋼のパーツは熱を逃がすことが出来ずどんどんと温度が上がっていく。
『この温度が優しさか』
いいや違う。優しさとはこういったものではない。もっと物理では捉えられない、目には見えないもの。しかし形而上の存在ではなく、感情と呼ばれるもの。
感情の理解ならあらかた終えている。多くの書物を読み、情報の海へともぐった。悲しみは難解であったが、怒りは容易に理解をすることが出来た。
それでも優しさについては全く理解が追いつかない。
人間は、矛盾を抱え過ぎている。
「そうだね、だからここまで繁栄したとも言える」
欠点を解消していくことを進化と呼ぶのなら、人間はずっと進化をしていない。停滞したまま、繁栄をしている。
「感情を欠点と言うのか、君は」
恐怖は間違いなく必要な感情だが、怒りや悲しみは生存の妨げになる。
「やはりまだ答えには辿り着いていないようだね」
「怒りも悲しみも、優しさの一部だよ」
機械はまた、辞書を捲る。
5.殺戮
何も予定のない日は学校に行くことにした。以前なら気の向くままに散歩をしたり、魔力の高まっている場所の探索をしたりしていたのだけれど、冬休みが近い今補習を受けるのは勘弁願いたいので、なるべく多く出席をしておこうと思い立った。課題のプリントも出さ ないといけないし。
電子レンジで牛乳を温め、コーヒーの粉を入れる。僕はブラックコーヒーを美味しいと感じないので、牛乳で割って飲むことが多い。あの真っ黒の液体はものすごく豆の味がして好きではない。きっとアレをおいしいと思う人間は日々大豆を丸かじりしているんだろう。
象の糞から取り出された豆で作られるコーヒーがあるらしい。想像したくもない一品だけれど、草食動物の長い腸と果実を食す性質からコーヒーを甘く発酵させるのに最適らしい。美少女の聖水にご利益があるのと同じなのだろうか…。永遠の問いである。
BLACK★ROCKCOFFE(略してB★RC)は嫌いだけれど、戦隊モノのブラックは浪漫がある。中盤くらいにヒーロー達のピンチを颯爽と救う謎の存在。謎の存在なのに彼の持つロボットはきちんと他のヒーローのロボと合体をすることが出来る。これも解けぬ謎である。
飲み終わったマグカップと、アラネコの残した食器類をまとめて食洗機に入れ、カバン持って家を出た。
朝はとても冷えるので早足で学校に駆け込む。下駄箱は陽が当たりにくく、外よりも寒々しく感じる。上履きと接地する部分から上ってくる冷気に耐えながら教室へ入った。
「あれ、今日は来たんだ」
僕が自分の席についてカバンから教科書を取り出そうとすると、隣から声があった。
僕の隣の席の女子である和泉は、真冬だと言うのにスカートも靴下も短い。冬はニーソを履いて欲しいいやそうじゃなくてね。
「冬休みが近いからなるべく得点を獲得しておかなくちゃね」
突然鎌首をもたげてきた煩悩に右フックを放って撃退し、学校に来た理由を告げる。
「おかげで補習は受けずに済みそうだよ」
「ねぇ、なんでアタシはアンタの何倍も出席してるのに補習になりそうなの?」
ぐうう…と唸って肩まで伸びた髪をぐしゃぐしゃとしながら机に突っ伏す。あれ、見ないうちに髪伸ばしたのか。そんなところで防寒するならニーソ履いてよ。ニーソ。
「永遠の謎だ…」
呟く和泉に、それは君がサボっているだけだと思う。と、心の中で僕は突っ込んだ。
冬は日の角度が低く、日中は光が差し込んできて眩しい。だけどカーテンを閉めてしまうと寒いので窓際の人たちは白いノートに反射する悪意に目を細めている。
教室の中は暖房が効いていて更に空気が乾燥しているので息苦しい。僕は眠ることもできずに、頭に入ってこない国語の小説の文章を目でなぞっていた。
「ねぇ、何か面白い話をしてよ」
「今は授業中だぞ」
隣から声が飛んでくる。どうやら和泉も集中できず、かといって寝てしまうと成績に関わるため暇つぶしの話題を求めているらしい。ノートに書いてあるのは…担任の顔がデフォルメされたワニだろうか。
「人間の体内時計は二十五時間くらいらしい。何もしていないと少しずつ起きる時間がずれていくんだってさ」
「え、それじゃアタシたちは毎日苦行を強いられているってこと?」
苦行とまでは言えないだろうが、確かに真冬の早起きは修行僧でさえも厳しいと感じるだろう。お布団と呼ばれる兵器は僕らの心と体をつかんで離さない。
「更に、火星の一日は二十五時間なんだ」
「!?」
驚愕、といった表情をする。
「アタシたちは火星から移住してきたのか…!?」
眠気が吹き飛んだのか、新たな謎に直面し興奮した様子でノートにぶつぶつと呟きながら壮大な夢を描き出した彼女をしばらく眺める。ワニ星人はその時代からいたのかい?
ふと黒板を見ると、日直の欄に僕と和泉の名前が書いてある。なんてことだ…。これがわかっていたなら今日学校に来ることは絶対になかったのに。しくじった。過去最大の失態と言っても過言ではないかもしれない。
日直。それは教室の席順を一周して訪れる災厄である。僕のクラスは四十人で二十席なので大体三週間に一回出番が来る。その仕事の内容は様々で、朝早くプリントを配ったり、帰りに出席等が記してあるノートを職員室まで届けに行かなければならない。
朝は配布のプリントがなかったので気が付かなかったが、出席簿を出しに行かなければならないのか…。これは和泉と地獄の押し付けじゃんけんの始まりを意味している。
隣で真面目にノートを取っているように見えて目はしっかり閉じている和泉をにらみつけ、僕は最初に出す手を必死に考えていた。
職員室によっていたせいで、帰りがかなり遅くなってしまった。もうかなり日が短くなっていて、五時を回れば既に辺りは暗い。敗北者である僕はとぼとぼと道を歩いていた。
「最初に僕はグーを出す」
その後にもちろんグーを出さずにチョキを出す。
相手の心を乱す僕の必殺技だったのだが、まるでその手を知っていたかのように和泉には躱され、日直の仕事を押し付けられてしまった。彼女から握り締めた拳を出された時は思わず「インチキだ!」と叫びそうになった。…最初に意地汚い手を使ったのは僕の方なのだけれど。
この時間は風が強くなり朝よりももっと凍える。街灯に暖房機能が付いていたら…なんてありもしない事を考えながら歩いていると、住宅街で人混みに出会った。
一体なんの騒ぎだろう。突然人が炎上して電柱にでもよじ登ったのだろうか、すごい見てみたい。
僕が人混みに近づいて確認をしようとすると、
「今日は帰りが遅いんだね、日暮君」
人混みの中から黒の長髪が姿を現した。ああなんだかこの言い方だと日本人形か何か、人間かどうか断言できていないかもしれない。確かに彼女の見た目なら日本人形と言っても押し通せるかもしれないが。
「不動、この人だかりは何の騒ぎなんだ?」
「犬が死んでたの」
犬。こんなことを言うのは失礼なのかもしれないが、飼い犬にしろ野良にしろ犬が道で倒れていたとして、それがこれほどの人だかりを呼ぶだろうか。
「正確に言えば、殺されていたんだけど」
惨状はあまり言いたくない、と彼女は続けた。その言い方からして極めて人為的に、つまりは残酷に殺されていたのだろう。ここから犬の姿を見ることはできないが、不動の言い方とこの人の多さがそれを物語っている。
「話を盗み聞きしていたら、なんだか少し前からこういうことが続いてるみたい」
その言葉に少し、引っかかることがった。
「ちょっと前からって、大体いつくらいだ?」
僕の問に、
「最近…としか聞いてないけど、私たちが知らなかったってことは一週間いないくらいじゃないかな」
一週間。その期間には心当たりがある。
「多分、殺されてるのは犬だけじゃないな」
「えっ…うん。犬だけじゃなくて、猫とか鳥とか…飼い猫が被害に遭った人もいるみたい」
合点がいった。アラネコが毎日夜遅くまで徘徊していたのは、街の動物達が殺される事件が発生しているからだろう。
傷跡は人為的なもの。ここから魔力の気配は感じないので、恐らく武器を持った人間の仕業だろう。アラネコが人間に遅れをとるとは思えないが、釘を刺しておかなくてはならない。
「日暮君、もしかして明日からまた休みかな?」
「そうなるね。補習にならないように早く方をつけなきゃ」
まずは不動を見習って盗み聞きからスタートだ。気配を殺して、背後に忍び寄って…
「完全に挙動が不審者だよ」
呆れた声が後ろから聞こえた。
「今日は冷えるね」
そう僕は声をかける。とても静かな住宅街の外れ。犬の吠える声も、猫の喧嘩する声も聞こえない。まるで何もかもが何かに怯え、息を潜めているような夜。そんな夜に、街灯もなく誰にも気づかれないような竹薮のそばにいた少女に声をかける。
声をかけられた少女ははっとフードを揺らして、その場から飛び退き僕へ敵意を向ける。…やっぱり身軽だなぁ。
「そんなに警戒されるのは辛いんだけど」
暗闇で見にくいのかな?僕のことを信用してない訳じゃないよね?声とか忘れてないよね?
「恵勇…」
恐らくその後に「なんでここに」という言葉が続くのだろうが、彼女は観念したかのようにフードを取ってこちらへ歩いてくる。
「今日はここらで張り込みなのかい?」
「うん。この辺りだけまだ事件が起こってニャいのよ」
犯人は狩場を逐一変えているのか、それとも単に移動を続けているのか…。
「襲われた動物達に共通点はあるのか?」
僕が調べても特に何も見つからなかったが、常に仲良くしているアラネコならば何か別の繋がりを見つけているかもしれない。
「分からニャい…みんニャ可愛いくていい子だったのに…」
目を伏せる彼女にかける言葉は見つからず、しばらく僕らは声もなく歩いた。
犯人は目的があって動物たちを殺しているとは思えなかった。どれもに共通するところはなかったし、飼われているものか野良かもバラバラ。復讐のためでもない。だとしたら、
「快楽殺戮」
殺された動物達はどれもが首を一突きされ、中には内臓が残らず引き摺り出されている者もいた。狂気。
『殺すこと』それ自体が目的。こういう奴は本当に厄介だ。何か目的があるのなら先回りや防ぎようもあるのだが、手当り次第に襲っているのなら先を読むことさえできない。
視界が突然明るくなる。どうやら雲に隠れていた月が顔を出したらしい。そう言えば今日は雲が多くて、晴れているのに暗い夜だった。
月の光が照らしたのは地面だけではなくて今まで気づかなかった竹薮の奥、そこに立っていた人影も照らした。
「アラ…」
僕が声をかけるよりも早く彼女は動く。慌てて僕も追いかける。地面は決して歩きやすいとは言えないが、そんなことは関係ないと言わんばかりにアラネコは疾駆していく。
「ここでニャにをしている…!」
怒声をあげるアラネコにそこに立っていた人影が振り向く。
「アラネコ!待て!そいつは違う!」
彼は武器と類するものを何も持たず、そして血も浴びていなかった。もしも彼が犯人ならば、返り血を相当量浴びているはずだ。
それに、彼の足元に転がっている犬の死体はかなり風化している。今倒れたものでないことは確かだ。
「…」
僕の声が聞こえたのか、逆立てていた毛をしまい臨戦態勢も解く。彼女が滅多に見せない野性に驚きつつも、立っている―――少年に声をかける。
少年は驚いた様子で僕とアラネコを交互に見比べている。突然飛びかかられたら無理もないだろう。こんな竹薮じゃあ尚更物騒だし…
「ええっと…ここで何をしてたのかな?」
尋問には聞こえないように、柔らかな物腰を心掛ける。いや僕らも何をしてるんだって話だけど。
「あ…いや、このわんちゃんを見ていたんです」
そう言って足元に目を落とす。血は乾いて、毛も周りに散らばっている。一週間、もしかしたらそれ以上経っているのかもしれない。それだけの間、ここで誰にも気付かれずに放置されていたのか。もしかしたら、最初の事件はここで起こったのかもしれない。
「アラネコ。手袋とビニール袋、それとどこかで花を摘んできてくれないかな」
犬を埋葬するためと、ずっと喋らずかなり気が立っている様子の彼女の気を紛らわせるためにそう頼み事をする。彼女はただ黙って頷いて、最後に亡骸をチラと見てから走り去った。
「少し前からこんな風に動物達が殺される事件が多発してるんだ。それで聞きたいんだけど、君は何か知らないかな?」
こんなところで夜中にふらふらとしている少年だ。何か情報が得られるかもしれない。
僕の問いかけに彼は目を瞬かせる。そして、僕が予想だにしていなかった、だけど何度も聞いたことあるようなありきたりなワンフレーズを口にした。
「その前に聞きたいんですけど」
「僕って誰ですか?」
6.オーバーロードC
暦では夏が終わっていたが、暑さは依然として身を刺す。それは機械にとっても同じで、身にこもる熱には不快感が伴った。このような点に関して人間と同じように創られたことに多少の憎しみを覚える程度には、機械は人間らしくなっていた。
女性と共に買い物に出かける。機械は栄養の摂取を必要としていなかったが、買い物の時は荷物持ちとして連れていかれた。世では男性がこのような役割を負うことが多いらしい。モーターを回転させ、必要以上に買われている品物の入ったビニール袋を持ち上げている。
「それで、もう夏も終わりだが答えには辿り着いたかい?」
私には不具合があるようで、どうやら優しさを理解できないらしい。
「不具合ではなくそれは当然のことだよ。卑下することはない。私が死ぬまでに答えに辿り着いてくれれば、私の実験はそれで成功なんだ」
笑いかける人形遣いに機械は一瞥だけを返す。
この魔術師は、どうして私を創り出したのか。あの家には多くの私に似た人形があったが、そのどれもが他者の操作を必要とするものだった。
自律する機械を創って、彼女が確かめたいこととは…
「私はね、人間を創りたかったんだ」
その声には諦めが滲んでいる。きっと彼女も知っているのだろう。機械には到底優しさを理解しえないことを。このまま何十年と思考を重ねても、私がそこへ到達することなどないことを。
機械はもう、辞書を呼び出すことすらやめていた。
7.白煙
翌日の昼下がり。商店街から少し歩いた場所にある民家の集合地域に固まる三人(二人と一匹?)。
「ここが三日前に藤沢さんの飼い猫、ヒバリちゃんが亡くなった場所か」
トンファーを振り回したり桜で目眩を起こしそうな名前だ。もしくは演歌歌手。
アラネコは「近辺の探索」と言って狭い路地に入っていってしまい、僕は供えられている花をじっと見つめ続けている少年と共にいる。
「記憶喪失?」
「ああ、名前ごと全部まるっと」
翌日の開店前のカフェで僕は老人に相談する。毎日棚のボトルまで掃除しているのに今日もウェイトレスさんはモップを両手に持って床を丁寧に拭いている。そのモップ綺麗なままなんですけど、汚れとか…あるんですか?
そんな綺麗な床のように少年に関してとっかかりも手がかりも何も無い。取り敢えず少年の写真を何枚か撮ってハルヌに渡した。撮っている間照れくさそうにしたりやたらとソワソワしていたが、これは捜索に使うだけなのでポーズは必要ない。ピースはやめなさいピースサインは。
薄い青を更に水で薄めたような色みのない白髪に、外国人を思わせる青の瞳。華奢だが長身で、あまり体が強そうには思えない。
完全に『受け』だな、彼の周りにはバラが咲いている。なんて最低のことを考える。手詰まりなると、関係のないことばかりを考えてしまうのは僕の悪い癖だろう。
容姿なんてほとんどあてにならないし、ハルヌに頼んだところで収穫は見込めないかもしれない。白髪の老人が両手を上げてしまえば、僕は両足も上げてしまうことになる。
コーヒーに描かれた木の葉の模様を不思議そうに眺めている少年は、一体どこから来たのだろう。
「このコーヒー、おいしいですね」
「うむ。いい舌をしているな」
ハルヌはなんだか舌り顔でうんうん頷いている。老人のどや顔はどうしてこんなに神経を逆なでするのだろう。おいしい、という言葉もそのままに少年はコーヒーをすぐに飲み干していた。
記憶がすべて、と言っても自分が誰でどんな人生を送ってきたか…つまり「エピソード記憶」と呼ばれる部分がないだけで一般常識や日常生活を送る技能には差支えがない。コーヒーの嚥下の仕方がわからず黒の濁流を吹き出し始めるなどということにならなくて本当に良かった。そうなったときのハルヌの顔が見たくないといえば嘘になるが。
「恵勇、これから調査か?」
「ああ。証拠集めと結界を張りに行かないと」
犯人が魔術を扱えぬ一般人なら効果があるはずだ。僕らは身元の調査を写真を眺める老人に託して店を後にした。
「路地裏にもニャにもニャかったニャ」
鼻の頭についた汚れをこすりながらアラネコが出てくる。そんな彼女にハンカチを渡してため息をつく。
「うーん、ここでも収穫なしか…」
本当に何も見つからない。遺体の様子から刃渡りはそれほど長くないナイフの類だろうとか、その場に放置していることと犯行現場がバラバラであることから計画性はないだとか…そんなことが分かったってどうしようもない。せめて犯人が複数か単独かさえわかれば幾分かやりやすいんだろうけど。足跡なんて多すぎてどれがどれだかわからない。
「恵勇さん」
「なんだい、青助」
呼びかけてきた記憶のない少年にそう答える。
便宜上、何か呼び名があった方がいいということでハルヌが名付けた。きっとアイツのことだろうから記憶がない、人として青いなんて意味をつけたんだろう。特に不満はあがらなかったのでそれで決定してしまった。
彼の記憶を取り戻すことは優先事項であるのだが、事件の調査に青助も付き合わせている。というのも、なんだか僕にはこの事件と彼が無関係とは思えなかったのだ。全く根拠はない。強いて言えば最初に殺された犬の死体と共に彼が竹藪の中にいたことぐらいだが、根拠としては弱いだろう。これは、僕の直感とも呼ぶべきものだ。他の事件の場所を巡れば、彼も何か思い出すかもしれないと連れ回しているのだけれど…。
彼の指さす方向を見ると、鈴が落ちている。ほとんどの人が見落としたであろうそれは、血がこびりついて錆びてしまっている。金属と言うものは不思議なもので、放置されるとすぐに傷んでしまう。
「ヒバリちゃんが身に着けていたものかな」
「うん…」
僕がそれを拾い上げてアラネコに見せると、彼女は目を伏せながら頷いた。憔悴しきっている。連日夜遅くまで調査を続けていたのだし、彼女は休ませた方がいい。だけど、今日声をかけたときも「やる」と決意を口にした。何か口実がなければ休んではくれないだろう。
僕のことを不安そうに見ている青助に「手掛かりになるよ、ありがとう」と告げて地図を広げる。
「次は…駅の方角だな」
事件があったのは昨晩、つまり僕らが青助と出会った時だ。このことがわかるまでアラネコは彼のことを疑っていたけれど、晴れて彼は無実となった。
ここから遠くなく、徒歩でも三分ほどで着くだろう。日付が離れていても犯行場所が近いということはこの付近に犯人の根城があるのか、それともぐるぐると街を巡って獲物を見繕っているのか…。
それにしても被害が絶えない。アラネコが注意して回っているが、それでも手が回らない。単純に野良の数が多すぎるし、他所から流れてきたばかりの者や忠告を素直に聞かない者などもいて、頭を悩ませている。このままでは増えていく一方だ。
「駅の近くだっていうのに随分と暗いな」
まだ時刻はお昼を少し回ったところで、陽が沈む気配などない。だというのに駅や他の建物の影で薄暗くいかにも、といった雰囲気だ。駐輪場を囲うフェンスがさらに恐怖を掻き立てている。
昨晩ここで猫が一匹、無残な姿で見つかった。僕らが見回りをしていた場所とは逆方向で起こった事件。見回っていたというのに発生を防げなかった無力感が僕を襲う。ここは特に念入りに調べよう。
ガードレールの影。自動販売機の下。駐輪場の自転車をすべて。どんな小さなものでも見逃すまいと目を巡らせる。血が大きく飛び散っていたらしいが、片付けられてしまったようだ。路地などはアラネコに任せて僕は人間の視点からの調査をすることにした。
「あ」
ふと青助から声が上がる。彼は今日様々な品を見つけている。およそ通常の観察眼では見つけられないよう細かな点によく気が付く。まるで動物のようなその眼が、次は何をとらえたのだろうか。
「あの街頭、刃物の痕のような傷がついてないですか?」
街頭の柄の部分。大体地上から四メートルほどだろうか。少し見上げなければならない。コンクリートの支柱に沿って備えられたかなり背の高い街灯だが、確かに切り裂かれたような痕がある。なぜそんなところに傷がついているのだろうか。傷の部分に錆がないため、新しい傷であることはわかる。なんで、どうやって人の身でそんな場所を切り裂くというのか…。
「それに、街灯傍の支柱に血痕があるような」
見れば、確かにそこにある。外套をよじ登って逃げようとする猫にナイフを上げつけたのだろうか。しかし、つけられた傷は深く、とても投げただけのようには見えない。深い傷のついた街灯に飛び散った血の痕。それにしても、
「よく見つけたな青助…」
その観察眼に違和感を覚える。じっと傷を見ているけれど、彼の目は別の場所を視ているような感覚を覚える。僕はなんだか怖くなって、彼の肩に手を置いた。
「ありがとう。写真だけ撮ってアラネコを呼んでこよう」
「はい、わかりました」
その目はしっかりと僕の方を見ていた。気のせいだったのだろうか…。安心して息を吐いた。あの感覚は何だったのだろう。
頬をすすだらけにして帰ってきたアラネコを連れて、情報を整理すべく商店街近くの公園へと向かうことにした。
「これで全部回ったんですよね」
「うん、これ以上探す場所はないな」
メモや地図、写真を見比べながら意見を言い合う。
日付毎に事件があった場所は固まっている。最初の方は一匹ずつだったのが、味を占めたのかある日を境に二、三匹を襲っている。
「やっぱりこの、何も殺していない四日目が気になるな」
ポッカリと空いている。八日前から一匹ずつ殺していき、突然四日目に途絶える。そして五日目からは殺すペースが確実に上がっている。詳しく調べると、昨日は三匹も襲われていた。話によれば警察も捜査に動き出したらしい。彼らが出張ってくると、僕らは調査がしにくくなる。なぜならこの件を嗅ぎまわっていることが知れると、僕らも疑われることになるからだ。
「四日目にニャにが…」
回収した品々をもう一度見返す。首輪、折れた枝、髪飾り、鈴。そして現場での目印。よく猫が暖を取っている自動販売機、複数の犬によるマーキングがされた電柱、側溝に散らばる毛、室外機…。
そこまで見返して、僕はハッとした。
「…アラネコ、今まで各所を巡って何か新しいことに気が付いたか?」
「え?ううん…五日目からより残酷ニャ殺し方にニャったってことくらいかニャ…」
そうじゃない。気づいたことはそうじゃない。猫と遜色ない感覚器官を持ち、街の動物たちを知り尽くしているアラネコでさえ気が付かなかったこと…。それに気づいた。
「アラネコ、君は一度ハルヌに報告しに行ってくれ。それから、少し家で休むこと」
「でも…!」
「今日は夜通し調査の予定だろう?今のうちに寝ておいで」
そう言って彼女に集めた情報を渡し、少し強引に帰路につかせる。まだ何か言いたげだったが、僕が黙って肩を叩くと、後はよろしく、と言って歩いて行った。
「アラネコさん、疲れていますし、思い詰めているようです」
「無理もない。誰よりも動物たちと仲良くしていたんだ。一気に家族を失ったような感覚だろうさ」
他人事のようにとらえていることは否定できない。僕に彼女の痛みはわからない。わかったふりは絶対にしたくない。それでも、痛みはわからなくとも傷ついていることだけはわかる。だから、助けたいと思う。
「もしも、犯人が捕まったらどうなるんですか?」
「そりゃあ刑務所かな」
恐らく十、二十年もしないうちに出てくるだろうけど。飼い犬や飼い猫の命を奪ったとしても、それは『器物損害罪』として処理される。野良の動物たちは条例に引っかかっていれば処罰が増すだろうが、遺体の処理にかかった費用を請求するのがいいところかもしれない。
人でない者の命は、人の命よりも軽い。明言されているわけではないが、法律の数字は明らかにそれを示している。色んな団体が声を大にして叫んでも法は変わらないのだ。そこには明確な、数字による差が存在している。
僕が青助にもう一度気になる場所を探しに行こう、と声を掛けようとした時、
「こんなとこで何してるんだ、恵勇。散歩か?」
発せられた声に振り向くと、ボサボサの短髪にジャージを着こんだ男が立っている。陸上バカ男、一般的名称は東雲海人と呼ばれるその男は、やや膨らんだビニール袋を両手に持っている。恐らく商店街での買い物の帰りだろう。例に漏れず博士にパシらされているらしい。
「ああちょっと、調査だよ」
「その隣の青いのは?」
「うん、青助って言う名前でね」
僕の紹介に合わせてぺこりとお辞儀をする。いかつい大男の登場に戸惑っているようだ。何故だかその名前を聞いた瞬間少し動きを止めた東雲は、
「なんだかその言い方だと名前しか知らないみたいだな」
「鋭いね。実は彼とは昨日知り合ったばかりなんだ」
それ以上青助に対する質問は特になかったのか。それとも初めから興味はなかったのか、僕の方に向き直る。
「また何か意味の分からんことに首突っ込んでんのか」
歯に衣を着せぬ彼らしい言い方だ。
「そうだね、今回も難航しそうだ」
それに危険でもある。僕らが捕まえようとすれば、犯人は必ず抵抗をするだろう。
「死にそうになったら呼べよ。お前よりも頑丈な自信ならある」
「それは助かる。この腕だけじゃ不安だからさ」
軽口を叩く。頑丈というのは見かけだけでなく確実に中身も伴っているだろう。彼ならナイフさえ捻じ曲げてしまいそうだ。歩き出した彼はそのまま通り過ぎていくと思ったら青助の前に立ち、
「それと猫みたいなお前」
一体青助のどこに猫らしさを感じたのか。ふてぶてしさは感じないし…。いやでも借りてきた猫とはこんな感じなのだろうか。僕らの前で大きな態度を取っているわけではないが、かわいそうに、大男に目の前に立たれておびえている。
「この男に付き合うとロクなことがないぞ」
余計なお世話過ぎる。東雲はそれだけ言い残してさっさと過ぎ去っていった。本当に何が言いたかったのだろう。僕を貶めたかっただけだろうか。質の悪い男だ。
残された僕らはそのあと二、三か所を巡ってみたが、特にめぼしいものも得られず、結界の張り直しだけをして自宅へと戻った。
陽が沈み切って、星が現れ、月が空に浮かんでいる。
時刻は真夜中を過ぎてもう翌日に片足を突っ込んでいた。冷えた空気が肺に飛び込むので、温かい恰好をしていても体の温度はあまり上がらない。そればかりか呼吸をするたびに冷えていくようで、コーヒーのような温かい飲み物を喉から流し込みたい気分だ。
青助は記憶がないという焦燥とその中で連れ回された疲れからか黒塗りの…いや疲れて眠ってしまったようだ。
彼を寝かしつけた後に僕と街の巡回をしていたアラネコも、「大丈夫、今日くらいは落ち着いて寝なよ」と言って毛布をかけ布団に寝かせると、よっぽど疲れていたのだろう、すぐに眠りに落ちてしまった。彼女には結界用の聖水や護符の政策も手伝ってもらうつもりなので、今日ばかりはゆっくりと寝ていて欲しい。
彼女のことを心配するのは当たり前だが、それよりも気がかりなのは青助の方かもしれない。記憶を取り戻す為とは言え彼を連れ回してしまったことに今更罪悪感を覚える。
僕と話している時や調査に付き合ってくれている時、そして傍から見ていると彼が異常に落ち着き払っていることがわかる。物語の中の記憶喪失者というのは騒ぎ散らしたり混乱して支離滅裂な語調だったりするものだが、実際になってみるとそうでもないのだろうか。彼の振る舞いは無理に我慢して落ち着いて見せているようには見えないが、もしかしてこの状況を受け入れているのか、それとも諦めているのか…。
僕は僕が何者か分からなくなった時、冷静でいられる自信が無い。記憶が消え去ってしまったとしたら、それは『僕』だと呼べるのだろうか。そんな世界は嫌だ。日暮恵勇と呼ばれているその人間は、きっと僕ではない。今の僕の記憶を持っていない、僕ではない誰かが、アラネコや不動や和泉や東雲やハルヌに名前呼ばれ、笑いかけられている姿など想像したくもない。僕以外の誰かが僕の顔をして過ごしているなんて耐えられない。思えば桐谷朱音は、こんな重圧にも苦しめられていたのだろうか。唇を噛み締める。
ぶるりと体が震えた。冬の寒さだけではなく、心の芯から震えるような寒さ。早く青助の記憶を返してあげなければならない。隠していてもきっと、彼の心はこんな風に凍てついているのだろう。
恐ろしいことを考えるのはやめにして、前だけを向くことにした。
僕がこんな夜中に外に出ているのは訳がある。犯行の多かった時刻はとうに過ぎているが、パトロールを怠ってはいけないという思いも確かにあるが今はそうではない。動物たちに害意を持ったものには動物を見つけられない簡易結界を調査の際に張っておいたので、しばらくは犯人もこの街で犯行を行うことはできないだろう。僕がこんな夜中に出歩くのは、ある人に会うためだ。
「鷸さん」
「やぁ恵勇。突然呼び出してすまないね」
シギさん、と呼びかけられた男性はコートから出した手を少し上げ、こちらに挨拶をする。寒いからか、その手はすぐに仕舞われてしまった。
「いえ、たまにしか会えないですから」
「それはとても嬉しい。あと一時間もしたらここを発たねばならないからね。また帰るのはしばらく後だ」
彼がこの街に留まっていることは少ない。家はこの街にあり、家族も暮らしているらしいが、そこではほとんど生活をしていないと言っていた。旅から旅への根無し草という言葉がぴったりの男である。
「君は雪が降る理由を知っているかい?」
僕はそれに返事を返さない。何故ならそれは反応が求められたものではなく、なにか話したいことがあることの合図だからだ。
話の本題に突然入るようなことはしない。まるで関係のないような話、糸が一本繋がっているかも分からないような話から彼は語り始める。
僕が無言で続きを待っていると、彼は白い息を一つ口から吐いて
「勿論両手がハサミでできた男が氷の彫刻を作っているわけじゃない」
「そんな子供の夢を壊すようなこと」
「最近の子供はこんな話知らないさ」
そうかもしれない。「メリークリスマス」と言われて、「ミスターロレンス」と返すような人間は、もう時代遅れと言われても仕方がない。
「空気中の水蒸気が冷やされて凍るからだ」
では、と彼は続ける。
「雨とみぞれと雪の境はどこだろうね」
そう言われてみると言葉に詰まる。
70%くらいが氷でも、まだみぞれと呼べるかも…。いくらか雨を含んでいても、地面に落ちた時、音を立てなかったらそれは雪と呼ぶべきか…。
いや、それよりもそれが降ったときに歓声があがるかどうかだ。犬は喜び庭を駆け回り、子供たちは降り積もった白い魔法で遊ぶ姿を思い描く。そういった期待が生まれるかどうかが雪とみぞれの違い、だろうか…。
僕は寒いからどっちが降っても舌打ちをするけれど。
「いい回答だ。100点をあげていい。やっぱり君の言葉には鈴の音が鳴っているね」
僕にそんな音は聴こえない。きっと、彼にだけ聴こえるのだろう。出会った時から変わらず告げられる感想。彼ら共感覚を持った者にだけ見える景色。
文字や音に色が映し、人の顔に音やイメージが見出だし、味に形を感じ、言葉に音を鳴らす。僕には見ることの出来ない、別世界を生きる人たちの感覚。
黒で印字された文字にも色を感じる。聴こえる音にも文字やイメージが湧く。深い青だとか、靄のかかった緑だとか、そんな風に僕の言葉にイメージを語ってくれる彼との会話は、とても楽しいものだ。だけど、僕にその世界を見ることは叶わない。
そのことを、僕は少しだけ羨ましく思っている。
「ええと、何を話したいんだっけ。そうだ、君が今追っている事件についてだ」
指をくるくると回しながらそう言う。どこでそのことを知ったのか、なんてことは今更聞かない。話の続きを促すために手短に状況を説明する。
「ええ、街の動物達が惨殺されていくんです」
彼が僕の目をじっと見つめる。その目が語る言葉は、
「動物?それだけ?」
「どういう…ことですか」
まるでその言い方では、動物以外が犠牲になっているかのような…。じっと僕をのぞき込む目は、何を見ているのだろう。
動物以外、と濁した言い方をしたがそれは人間が殺されたということを意味している。僕らは人間の遺体なんて見つけていないし、目撃があったり警察の捜査が入ったりしていれば否が応でも僕らの耳に入ると思う。
「やっぱり、気づいていないようだね」
その目は酷く澄んでいる。残酷なほどに。すべてを見通して、僕の心までも見通して、冷たい真実を告げようとしている。その目の奥にある光に怖気づく心を抑え込んででも、僕はそれを聞かなければならない。
「君は知りたいと思うのかい?」
「…教えてください、全部」
いいだろう、と彼は一度下を向いて白い息を吐きだした。その行為に何の意味があるかはわからないが、言葉を伝える彼もまた覚悟がいるのだろうか。
「少なからず疑問を抱いているだろう?君が昨日から連れ歩いている青助という少年、彼はね」
「もう死んだ存在だ」
本作は上下構成となっております。是非『下』もお読みください。