冒険に異世界を求めるのは間違っているだろうか   作:その辺の人

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黒い夜風

いつも通りの夕食。

すり傷だらけの僕とひどい汚れを洗ったらきれいに無傷だったバッツは夕飯の支度をさっさと済ませ、この部屋の中くらい対等にしてくれと僕を見て不満そうにする神様へ大盛りの野菜に塩漬け肉の切り落としを乗せてささげる。

今日は初めてダンジョンに潜った日と同じくらい凄かった。新しい僕の力は、初めてのレアモンスター、インファントドラゴンに使うことになった。凄い威力だった。その分疲れたけど、凄かった。

 

ヴェルフさんには当然誰も詳しくなかった。でもへファイストス・ファミリアで働いている神様いわく、彼は魔剣を打てるちからがあって、でもわざと打たなかったりして評判が悪いらしい。

だからどうしたんだとバッツが切り捨てると、神様は、いい男はこんなふうに秘密ごと受け入れられないといけないと言った。

すかさずベルは立派だろう、とバッツ。例えば俺よりと語り始めたところで神様は昔話は禁止と言ってすぱっとこの話を終わらせてしまった。

 

僕はもう少し、ヴェルフさんの話の前にしていた、インファントドラゴンを倒したときの話をしたかった。

それはすごいぞって、二人とも喜んでくれたけどさ。やっぱり二人は、いや、バッツは、思い出してるけどなにか隠してる。

少し、寂しい。

 

それから、ご飯を食べ終わったら拾い物の魔石灯を拭いていたバッツが夜風にあたりたいと言い出して、神様はそれをすごく怒った。

手を引いて座らせようとする神様は、最後は泣きそうなほどだった。

ただ外に出るだけじゃないのを感じ取ったんだと思う。

あんまり言われて弱ったバッツは大人しく寝たけど、神様は朝まで見張るつもりだ。色々考えてしまって寝られない僕よりも先に船を漕いでしまっているけど。

 

バッツは本当にすぐいなくなるからなあ。これさえなければこんなに頼もしい人もいないのに。

 

部屋を暗くしてからしばらくたつ。

バッツと仲間たちが魔物に燃やされた船で戦う話を思い出していた。そりゃあゴブリンくらい殴って倒せちゃうよなあ。

僕はリリに背中を押されてやっとだった。また、こういう話をしてくれないかな。

ふと、顔を向けた方ではバッツが苦しそうに歯軋りしながらうなり、寝返りをうった。

それで楽になったのか静かになる。

おかしい。息の音さえしなくなっている。

違和感に目を凝らすと、暗くて良く見えなかったのに、こっちを向いて目を開けているのが何故かはっきりわかった。

 

「まだ起きていたか。」

「悪い夢でもみた?僕はちょっと寝れないだけ。なんだかまだ冷めきらなくて。」

「…そのまま大人しく…していろ。」

 

ぐしゃっと、布団ごと押し潰されるような空気の重圧が突然僕の息を詰まらせた。

何が起こったのか理解できないまま、苦しさから逃れようともがく。

「聞こえ、なかったか。」

再び踏み潰されるような圧力。胸を膨らませるどころか潰れた胃袋から溢れ上がってきた食べ物を吐くことすら出来ない。

苦しみは増すばかりで首もまともに動かせなくなる。必死に目で追った先で起き上がる影は、人とは思えなかった。いままでに見てきたものとは、比べ物にならない。モンスターさえかすむほど、おぞましいものだった。

まとわりついた板のような布団のなかで、訳もわからないまま全身を締め上げられている。

夢なのかも分からない。声が出せない。出口が見えているのか、ふらつきながらもまっすぐ遠ざかって行く足音が消えるまで、生唾のたまった喉が縮みっぱなしだった。

 

「んぐっ、ごほっ…!?」

「うーん、ベル君?静かにしてくれよ。」

「がふっ…ひゅっ、うぅ、はぁ…」

「ベル君!?」

 

ーーーー

 

重力から自由になったベルは立ち上がれなかった。顔は真っ青に血が引き、目はひどく充血して真っ赤な瞳がどこを向いているかもよく分からない。

ヘスティアは冷静に振る舞った。

ベルを締め付けるぺしゃんこになった布団が木の皮のように固いのを手当たり次第にものを差し込みなんとかはがし、ベルの不自然に伸びきった指の手触りに何を触ったか分からなくなりながら体を横に向けて空気を入れさせる。

いつもの場所へ当たりをつけ、目暗に手を伸ばす。何かにぶつかる痛みを気にもせず振り回し、やっとつかんだ鞄から手触りで魔石灯を取り出し、明かりをつけながらふりかえる。まばゆく照らされ押し潰された全身が嫌でも目に焼き付き絶句する。それでも動き続けた手は鞄からポーションを開けるとベルの全身へ撒き散らし、次から次へと瓶を空にしていった。

 

悲惨に伸びきって木の根のようだった全身は元の細い小柄に形を戻した。顔色こそ精神的なダメージのせいでまだ青いが、呼吸が安定した所でひとまず肩を貸してベッドへ移す。

「もう、大丈夫です…あとは自分で」

「何が大丈夫なんだ!…ちゃんとこっちを見るんだ。」

ぼうっと視線を泳がせているベルは足にちからを入れているようだが、明らかにまだ空気が足りていない。

ヘスティアは立ち上がったベルを簡単にベッドへ押し倒せてしまい困惑した。まだ薬はなかったと思い再び鞄を開け、中をひっくり返す。

 

ベルから流れ出す意思には、恐怖と同じくらい心配の色があった。相変わらずの自分の体をいたわらない性格にいてもたってもいられなくなる。

「大丈夫です。足りてます。もう少し待ってください…」

「そ、そうかい?なんでも言ってくれ。」

「バッツは…」

そんなに冷静そうに人の心配など間違っている。子供がしていい態度じゃない。喉まで上がってきたやるせなさを誤魔化すために散らばった道具を鞄に詰め込み始める。

「…知るか。居ないよ。」

「神様、僕が潰れている間、何か感じませんでしたか?」

「何も。君が苦しむ声で起きたんだ。ボクも意味が分からない。」

ヘスティアはうつむくベルに自分のゆがんだ顔が見られないよう、水を汲みに立ち上がった。外に出たがるバッツの顔がちらつき、覚悟を決めて静かに息を吸ったものの、せめて消したかった声の震えは残ったままだった。

「バッツが、やった。…って、そういうことかい?」

「そんなわけ…」

返る言葉は弱い。それでも否定する意志が満ちていた。コップを机に叩きつけて優しすぎるから代わりに言ってやるとばかりに吐き出す。

「ないわけない。ぶん殴ってやる。」

「バッツはそんなことしない!」

今度こそ立ち上がった少年の足は震えている。恐怖が抜けきっていないのが伝わって来るからこそ、言葉が止まらなかった。

「じゃあ、バッツの偽物が?それとも誰かに操られて?」

「操られて…そうに決まってる。それなら本で…」

 

「物語と一緒にするな!」

ヘスティアはついにベルへ掴みかかった。狭い部屋で壁に背中を打ち、両肩をきしむほど押さえつけられたベルは、冷めた暗い顔で、そらすことなく目を合わせた。

「神様…」

肩を引き、額をぶつけ、されるがままのベルへ叫ぶ。

「君は滅茶苦茶にされてまだそんな…」

「神様。」

少年の色は何も変わらなかった。これ以上自分の並べる言葉が何であろうと無駄。力ずくで怒るだけでは間違っていると悟らざるを得なかった。

 

ヘスティアは少年の目に映る顔の醜さに罪悪感を覚えた。ゆっくり力を抜いた手をそのまま背中へ回し、抱き締めてベルの恐怖が薄くなるのを待つ。

無限にも思えた沈黙のあと、ベルの気分が落ち着いたのを見て、水を渡す。

「ごめん。ボクが信じてあげないでどうするんだ…」「気持ちのやり場が無いですよね。」

言い当てられてはっとしたヘスティアも叩きつけて半分こぼれたコップを煽った。ベルが立ち向かう覚悟を決めたなら、家族の長として、戦女神でなくともそれらしく歩いて見せる。

「セリフを取ったな。でも以心伝心だ。嬉しいね。」

「大丈夫だって、言ってたけど、やっぱりバッツは無理してるんだ。それがこうなったんだ。」

「訳が分からないまま因果とか運命とか言うなよベル君。ボクたちで何とかしようじゃないか。だからまずはバッツと話して考えよう。」

 

今は何時か気になるほどには余裕が出たヘスティアは、残しておいたじゃが丸くんを袋から取り出し半分に分けるとベルへ渡した。

「ありがとうございます。そうだ、もし僕とバッツが喧嘩しても、止めないでくださいね。」

がむしゃらに明るくしていたせいですっかり切れかけた魔石灯を前に肩を寄せ、薄暗い部屋でじゃが丸くんを頬張る。ベルはヘスティアの腕についた青あざに顔をしかめ、さすってくれよと言われるがままに優しく手を添えた。

 

「君が喧嘩?あり得ないね。」

「たぶん、顔をみたら怒っちゃうと思います。なんで隠すんだ、心配させるなって。」

さする手を握り、目を合わせる。互いに落ち着いた表情で、ヘスティアの声色は柔らかかった。

「バッツが昔の事を隠すのはボクの命令さ。怒るならボクにしてくれ。」

「うっ…」

喉をつまらせるベルの背中を叩きながら続ける。

「露骨だなあ。ベル君に叱られてみたいんだ。おかしいかい?」

「神様を叱るなんて考えもしませんでした。」

「あー、痛むなあー。手当てしてあげたのにお願いも聞いてくれないなんて。」

 

ベルはどうしても叱る気はないらしい。じっと見つめて何かしてくれる期待をこれでもかと注ぐ。

目をそらしたベルは再びあざを押さえると、もう片手で人差し指をたて、くるっと回して空へ投げた。

「…いたいのいたいの、とんでけー。」

言い終わったベルが上目遣いでヘスティアを見上げる。すべて吹き飛んだ。互いに赤面し、なにも言わないまま数秒、女神はこらえきれず徐々に口角をあげた。

「うへへ、やるじゃないか。へへ…」

「それは、良かったです。」

「ああ…最高だよ…」

「じゃ、バッツ…」

「もう少し噛み締めさせてくれ…あ、手は離さないで。」

「いや、さっきから神様が自分で掴んでます。引っ張らないで下さい…」

 

「ふう。良し、じゃあ外にいこうか。財布だけで良いよ。武器はいらないぜ。」

「…はい。」

 

ーーーー

 

外はまだ明かり無しでは歩けない。

よいどれた大人をそれなりに見かけ、日を跨いで少し位かとベルが当たりをつけた。

「なんで時間を予想できるんだい!夜遊びは禁止だったはずだよ!」

「遊びじゃなくて、ダンジョン…」

「言い訳はナシだ!何だかんだでボクを放っておいてメスを見つけて来るじゃないか。じゃああのへんから聞いていこう!」

「メスって…」

すでにいくつかの店を覗き、今から飲み始めそうな冒険者へとにかく怖い人や悲鳴の類いに覚えはなかったか聞いて回っている。これで2つ目の通りへ聞き込むことになる。

 

先を行っていたベルは初めて追い越されたヘスティアから果物の芳醇な香りが漂ってくるのに気付いた。みれば後ろ手には、鮮やかな色の液体が残り少ない小瓶が握られていた。

「ちょっと!なに飲んでるんですか!?」

「良いだろう?愛する人とお酒はいくらあっても良い!」

「おじいちゃんみたいなこと言わないでくださいよ。探す気有るんですか。」

歩みを止めることなく言い争っているうちに飲み干した空き瓶と小銭を露店の飲み屋へ手渡しして奪うように次の小さい樽を仕入れる。振り向いたヘスティアは赤い顔で小樽を飲み、ベルはこんなときでなければ良い笑顔なのに、と叫びたくなる気持ちを飲み込んだ。

「さすが!ボクの事は何でもわかってる!あんなやつクソ真面目になんて探してやるもんか。ボクは君と一緒にいられれば良いんだ!」

「…もう帰りましょう。僕たちは頭を冷やして、また朝からリリにも手伝ってもらいます。あと、シルさんたちと、ミアハ様たちにも。それから…」

「これだけ探したんだ。どうせいつでもほっとけば帰ってくるのがバッツさ!だから遊んで帰ろう!」

「話を聞いて下さい!」

「固いことは言いっこなしさ!」

 

「誰か助けてくれ!」

「バッツだ…!見てきます!」

「何が聞こえたんだベル君!?待ってくれ!」

 

ーーーー

 

聞こえなくなった悲鳴の方へ右左と曲がるうちに迷い混んだ小道。人の姿はなく、さっきまで追っていたはずの小さな足の深い踏み込みの跡すらいつの間にか見当たらなくなった。まだ通りから大して離れていないはずだが、酔ったヘスティアには引き返す選択肢はなかった。

「はあ…どこ行ったんだ!ベル君!」

「ちいと、付き合っとくれんか。神ヘスティア。」

響く叫びに返ったのはしわがれた男の声。声の方には民家にはまず取り付けられないであろう鉄の扉があり、わずかに開いている。

違和感など感じることなくヘスティアは顔の見えない男へ再び叫んだ。

「ボクは今忙しいんだ!ごめんねおじいちゃん!夜は危ないよ!」

扉の縁が光って動く。走り出したヘスティアの後ろ髪をつかむように、突如答えは突きつけられた。

「バッツじゃろう?わしを探すために街へ出たんじゃ。」

「今、何だって…?」

見えた姿は足元まで伸びた長いひげに真っ白のローブの老人だった。杖は持ってこそいるが突いているわけでもなく、暗い路地で長いまつげの影になった目は鋭く青白い光をたたえていた。

「ムーと申します。お初にお目にかかります。以後よしなに。…年は忘れたがまだ呆けてはいない。さあ中へ。」

 

ーーーー

 

レベルアップでよくなった聴力は叫びの主をいくつか聞き当てた。これまで見つけた数人はほとんど歩いて帰る途中のようで、遠目に恐ろしい人影を見たと指で示される。

「大事には、なってないみたいだ…」

「ーーー!」

これまでにない大きな悲鳴。迷いなく飛び込んだ見知らぬ路地でベルはうずくまる人を見つけた。

「はぁ…誰か…」

「しっかりして下さい!」

背中をさすられた男がベルの足へすがり付く。ほとんど開いていない目でうつ向いて、衣服に傷はなく、痛みを訴える様子もない。ひたすらに気分だけを狂わされていることがベルにははっきり理解できた。

「なんであんな化け物がうろついてるんだ…」

「気をしっかり。怪我はないです。なにもされてませんよね?」

「え?おれが勝手に腰を抜かしただけなのか?」

ようやく自分の格好に気付いた男は財布も荒らされていないのを確認して壁にもたれ掛かる。

ベルは自分の上がった息を整える間もとらず尋ねた。

「落ち着いて。どっちに行ったか分かりますか。」

男の頭が上がり、表情が一変する。開ききった目は血走って、絞り出した声が訴える。

「思い出させるな!止めろ!」

思わず後ろずさるベル。すぐに目をそらしたが、恐怖が移ってくるのに気付き更に下がった。

「ごめんなさい…大通りはあっちです。」

互いに冷や汗をかき、浅くなる呼吸をどちらともなく落ち着かせる。立ち上がった男に先ほどまでの狂気はなかった。

「助かった…とにかくお前も帰れ。あれは子供が…人が見るもんじゃない。」

 

男が大通りの方へ曲がるのを見送り冷静になったベルは自分の通った道を思い返す。ここからどちらへ通ったか考えるのに使えるかもしれない。

「人の多いところは通ってなさそう。ここは多分ミアハ様の薬屋が近い。この向きなら進めば壁だ。町の端っこになにかあるのか。外に向かってるのかな…」

「あの怪物か?」

 

声は後ろからだった。黒いローブで顔と腕は見えない。わずかにのぞく足の防具は店売りされていない形で、上等な品であることは分かる。

上級冒険者であると思ったベルは、相手が冷静にバッツを見ることが出来たのではないかと期待した。

「見かけたんですか?どこへ…」

「あの御方があれを気にかけられるのは分かるが、お前も、というのは納得がいかない。」

返事は押し付けられるような愚痴だった。明らかな苛立ちに見下す色が混じった声。

眉を寄せたベルに舌を打ったローブは半身に構えた。

「試してやる。」

「…通して下さい。僕は追わなくちゃ行けないんだ。」

「ここで死んでもか?」

バッツに出会うことへの警告には微塵も感じられない。うらみを買ったことがあるとすれば、リリを助けた時くらいだろうか。

バッツが殺す気で構えたときはこんなものではなかった。ベルは実力で劣ることを悟りつつとも引く事を考えず、構える事すらせず叫んだ。

「あなたには関係ないでしょう!?邪魔をしないで下さい!」

聞く耳を持たず、這うように音もなく詰めてきた影は目で追うのがやっとだった。ファイアボルトすら間に合わないと思ったベルは空振りでも仕方がないと急所を狙う一撃をはね除けるために勘で腕を振る。

勢いがついた拳に確かな感触。しかしそのまま振りきれることはなく、胸の前で止まった。

「逃げの一手か。」

捕まれた腕を引かれる。体が浮く。一方的な身体能力差の前に防御すら許されない。

投げ捨てられてひっくり返る景色は見慣れている。壁に手を付き、辛うじて顔を守りながら着地すると、見上げた正面には、何もない。

脇腹に打ち付けられる衝撃。真横から伸びた拳は見えもしなかった。

打撃を逃がすことさえ許さない壁への殴り潰し。無抵抗に折れる音が体内で響く。よろめき、痛みに膝を付く。

「置いていかないでよ…」

「なんの素質も感じられない。何なんだ?お前は。」

足を蹴られ、力なく倒れ、組伏せられる。頭はろくに動かせず、見下す顔を見返す事はかなわない。ベルは叫んだ。

「…家族だ!」

「…」

「僕はどうなってもいい!バッツを助けてよ!誰か!」

拘束がとける。きつく絞められていた腕は痺れてまともに動かせない。

もがく事しか出来ないベルは離れたローブの背中が見えると、白く霞んでいく視界に最後の力を振り絞った。

「なんだってする…!お願いだから…」

「その覚悟が本物なら、…に見せてみるんだな。」

「なん、て…?」

 

 

近付いてくる足音が聞こえる。

倒れ伏した子供に気付いた足音がこちらに向きを変えた。

「何があった。」

「ヘスティアの子ではないか…」

「とりあえず家へ。すぐそこだから。」

 

ーーーー

 

細くて強い背中で、揺られている。手足の感覚はない。下を向いた顔は後ろからではうかがえず、彼の深い息づかいを聞くのはかなり珍しい。

 

「まただめだったの?」

誰が話しているのかはわからない。自分かもしれないし、彼かもしれない。他に見えない誰かがいて、その声かもしれない。

「だめなもんか。思い出せなかっただけだ。」

「元気だしてよ。」

ずしんと沈んで揺れが止まる。もう進まないのだろうか。振り返るように顔をあげた彼には、何もなかった。目も鼻も口もない。吐き出し続ける深い息と声だけは変わらず耳をくすぐるようだった。

「ずっと思い出せなければ、それがいいんじゃないか。」

上を向いている。雲で風を読むように。何もないこの道の終わりが待ち遠しいようだった。

「何を言ってるの?」

「心配に縛られて、弱るだろう?そうしたら何時までも好きに出来るってことさ。」

「意味がわからないよ。」

「お前が苦しんでいる間にも、俺たちは増える。」

「俺達?」

何もない顔が近寄ってくる。ぶつかっているのか通りすぎたのかわからないほど近くで聞いた息の音は、大きくはっきりと別のなにかの集まりに聞こえた。

「ファファファ…」

 

ーーーー

 

「お前は誰だ!」

掛けられた毛布に激しく動かした手足を絡め取られる。転げ落ちた床であわてふためくのを起こすでもなくただ覗き込んで話しかけてきたのは、上裸の神だった。

「運び込んですぐに起きたかと思えば戦闘する気とは。治療は済んでいる。何を見た。話せ。」

「え?シヴァ様…」

ミアハ・ファミリアのホーム。ベルは入ったことのない薬屋の奥の部屋で目覚めた。

 

倒れるまでの説明を終えたベルには力が入っていない。バッツの行方はわからず、何もできずに道端へ転がされ、ヘスティアも置いてきてしまったと口にしてはっきり形どられた無力感を拭える何かはなかった。

腕を組み、目を閉じて思案するミアハに顎を撫でるシヴァ。紅茶を並べるナァザは普段より目が大きく開かれ、いつもの眠そうな雰囲気がまるで感じられない。

部屋にはシヴァが作り出す雰囲気とは別の緊張感があった。

「よく話してくれた。…そろそろ、ヘスティア用に胃薬を調合しておくべきか。」

「武器も持たずに襲撃者へ啖呵を切るとは。やるな。」

「危険なことをほめるのはよせ。…それにしてもまた、出歩いたか。バッツの場合、精神的に狂っているとは思えん。あるいは私が見誤ったか…?」

 

「とりつかれたんじゃないかって…思うんです。」

言い終わってから、首を振って恐怖を払うベルを二人の神は無視した。

「そんなことがあるのか?モンスターが人に?」

ナァザはベルの手を取り、落ち着いた表情でもう思い出さなくていい、とささやいた。

湯気のたつ紅茶を一口で流し込んだシヴァは、空にした器をソーサーを避けて机に置いて鳴らした。

「思い当たることはある。」

「教えて、ください。」

顔をあげてすぐさま懇願したベルにうなずき、シヴァは続けた。手をほどかれたナァザの顔が曇る。

「ただの怨念。どこにでもある死霊やうらみの類い。」

「そんなもの…」

ベルは否定しようと口を開いたものの、しっくり来てしまった。それによって更に増す無力感。もう何も手がないんじゃないかと誰かが呟いた気がした。

「よく覚えておけ。幽霊のたぐいは確かにある。ミアハ、お前にも覚えの一つくらいあるだろう?」

「ある…確かに説明も付くが…」

息を深くして動かないミアハは言い淀む。シヴァは続きを待たなかった。

「とりつくほどなら自らが戦えば良かろうと言いたいのか?」

「いや、ここでは見たことがないのだ。力がないから気づかないだけかもしれんが。」

「ここの人々は、はっきり言って弱い。証拠に英雄譚は嘘ばかりで架空の神まで作っている。それだけのことだろう。」

「フィアナ伝説か。では、バッツはそんなものに取りつかれる男だと?」

 

否定したがるミアハにナァザは同調したが、シヴァとベルの表情は固くなる。バッツが長い旅を続けられた理由を垣間見た二人には確信があった。

「強さの問題ではない。サガなのだ。宝箱なら罠だろうと残さず開き、見知らぬ場所ならたとえあの世でも世界の端まで触って回る。心を閉じることを知らない。そういう奴だ。」

「バッツは神様の命令で、誰にも、僕にも言いたいことがあっても言わないようにしていたんです。ひとりぼっちで、ずっと我慢してた。」

誰かの声にもならない息を最後に張り詰めていく空気。ミアハは眉間を撫でて鼻でゆっくり息を吸い込んだ。

「体を明け渡す程か。ケガならなんとでもしてやれるが…悔しいな。」

「あの部屋で目覚めたあと、私に気づかないくらい淡々と、踊っていたの。あの頃からもう始まっていたのかもしれない。」

 

何が手掛かりとなるかは誰にもわからない。霧に突っ込んだ感覚に包まれた部屋は明確な答えを求めていた。この場でもっともバッツを知る神を除いて。

「それが兆候かなど、どうでも良い。だが怪我人がお前しかないのは、今も戦いが続いている証拠だ。おい、落ち着いたなら支度しろ。」

驚く二人を置いて迷いなくうなずいたベルは立ち上がり、やれるだけの身支度を始める。余計な荷物を置き、ズボンの裾を整えて子供には大きすぎる足首のブーツを丁寧に履き直しながら低い声で聞いた。

「一応…教えて下さい。正気に戻るには?」

 

「怨霊に取りつかれた者の最後は、いつもひとつだ…」

言い終わって首を振ったミアハが目を閉じた。続きは立ち上がって同じく支度を始めたシヴァが日頃と何も変わらない調子で続けた。

「もったいぶるな。殺す他ない。」

息をのむナァザ。ベルは背を向け日頃からやりなれた身支度の動きを止めた。その表情は誰にも見えない。

冷めたポットの紅茶を注ぎ直し再び一気に飲み干し、シヴァはミアハの腕を持ち立ち上がらせながら音量をあげた。

「だが、それは弱き者の話。バッツが勝てるなら話は別だ。そういうときは経験上気合いが入れば何でも良い。気力の問題だ。」

「そんな…」

 

魔法でも道具でも良い。何かを求めるベルの呟きはナァザにすら察する事ができた。

すでにもう二度倒れ付した体で進むことだけは止めない少年をみるシヴァの表情は固い。

「…バッツは父親のことを話したか?」

「少しだけ。英雄だったって。」

「ああ、病に倒れ魂となれども、今回のような怨念を退け子供らの背中を押した。だが人が生きる限り怨念も絶えない。」

最大限の励ましだった。それを聞いたミアハはとりかけた上着を戻した。

「その部屋でな。死ぬな、と…父親のことか?」

言い終わると、神威が鋭く部屋を満たした。その中心から飛んだ腹を両断するような一睨みにミアハは後ずさる。

「いい加減にしろ。もう出るぞ。」

「すまない。」

すっと空気が清んでいく。神の一喝を至近距離で浴びた二人は我を失っていたが、ミアハの上着の音と共に動き出した。

「ベル。家族はお前だけだ。行け。」

「私も行きます。」

「そうしなさい。倒れた人のために、薬草酒とポーションを持っていきなさい。酒は悪い気分を誤魔化して帰らせるために大きく一口だけ飲ませること。」

 

ーーーー

 

夜道へ駆け出した小さな二人の影はほんの一度またたく間に見えなくなった。それを見送る眼差しに揺れはない。

「良いのか?」

「ベルを止めるなどおこがましい。お前こそ良いのか、ナァザはバッツがまともに動けるなら手も足も出ないだろう。」

「一人より二人だ。きっと祈りは届く。」

「そう言うことだ。」

「そうか。そうだな。」

 

夜風が見送った二人を追うように首を撫でて通りすぎる。震えるほどではないが、ミアハには一度断られた提案を蒸し返すには都合が良かった。

「…これからまだ冷える。これを羽織るといい。」

「わざと着ていない。鬱陶しいものを寄越すな。」

「しかし婦女子だけにとどまらず視線がな…」

「気にしない。」

無味乾燥の拒否に行き場をなくした上着は、ほらこうすると暖かいぞなどと着込んでみせたミアハの体をそのまま蒸す事になった。

 

誰がみても足して割ればいいのにと言わずにはいられない不格好で歩く二人は、あれこそ神だと酔った神に言われながら酒場を縫っていった。

「あの言われようではどうせ酔いつぶれて誰かをかかしに、わめいているだろう。」

「忘れるな。ヘスティアはついでだ。」

「ああ。いざとなれば止める。」

「逆だ。あの手紙のとおり、暁の四戦士は家族の居ないあの馬鹿の手には余る。取り上げるぞ。」

 


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