その1
トリステインの執務室、近衛の騎士ですら入ることが許されぬ状態になったそこには、三人の男女だけがテーブルを囲んで着席していた。一人は太后マリアンヌ、もう一人は宰相マザリーニ。そして最後の一人は王女アンリエッタである。
この三人だけで一体何を話すのか。部屋の外、扉の前で警備をしている騎士はそんなことを考えていた。事情を知らない人間からすれば、この集まりに下衆な勘繰りをしてしまうほどだ。太后と王女をいいように宰相が操り、国の実権を握っている。市井ではそう噂されることすらある。『鳥の骨』などと揶揄されつつもその地位に就き続けているのがその証拠だ、とも。
勿論警備を行っている騎士は本当を知っているので、その噂や街で流行っている小唄のことなど鼻で笑う。そしてマザリーニに同情する。
何を話すかは分からない。が、今この部屋の中では、また枢機卿が胃を痛めているのであろう。そんなことを考え、とりあえず部屋から追い出されて良かったと騎士は安堵の溜息を吐いた。
さてその部屋の中であるが。騎士達の予想通り、マザリーニは今胃痛の真っ最中であった。これが疲労からくるものであればどれだけ楽か。そんなことを思いつつ、彼は目の前の光景を改めて見る。
「それで、もう一度おっしゃってくれませんか?」
「あら、聞こえなかったのかしら?」
うふふ、とアンリエッタとマリアンヌが微笑みを浮かべている。傍から見れば仲睦まじい母娘の姿であろうが、生憎実態はそんな美しいものではない。
「結婚なさい、アンリエッタ」
「嫌です」
相変わらずの笑みである。が、その空気は尋常じゃないほどに冷え切っていた。アンリエッタは言わずもがな、マリアンヌもこの歳の娘がいるとは思えないほどに美しく若々しい。古い友人のおかげだというそれにより、ともすれば姉妹に見えてしまうほどの姿を保っている彼女と、その美しさが今真っ盛りの娘。その二人の笑みが、よもやここまで恐ろしいものであるとは。マザリーニはそっと二人から視線をそらし、懐に忍ばせてある胃薬を一気飲みした。ストックはまだある。
「望まぬ結婚が嫌というのならば、即位なさい」
「嫌です。そもそも、王位が空座であることが問題ならば、母さまが即位なさればよろしいでしょう?」
「わたくしは王ではありません。王の妻であり、王女の母。となれば、おのずとその座につくものは決まってくるでしょう?」
「ええ。子供のような我儘をおっしゃる方を一人、座らせれば事足ります」
「そうね。子供のように駄々をこねている者を一人、座らせれば事足ります」
そう言ってまた柔らかく笑い合う二人。勿論空気は微塵も良くなっていない。マザリーニは二本目の胃薬に手を伸ばした。
ふう、とマリアンヌは息を吐く。先程の空気を霧散させると、やれやれといった風に頭を振った。
「アンリエッタ。一体何が不満なのです?」
「全てですが」
「我儘を許しているのは、貴女がこの国に害を及ぼしていないからです。もし国を衰退させるようなことをするのならば、こちらも全力を持って貴女を止めなければなりません」
「ならばまずは御自分をどうにかなさっては? 喪に服していると言っておけば万人が納得するとでも思ったら大間違いです」
「言うようになりましたね」
「貴女の娘ですから」
緊張再び。何とかして止めたいが、止めたら死ぬ。そんな確信を持ったマザリーニは、とりあえず嵐が過ぎてからどうにかしようと心に決めて逃げた。胃薬は三本目である。
そうして笑い合っていた二人であったが、今度はアンリエッタが肩を竦める事で空気を霧散させた。いい加減宰相が限界そうなので、と視線をマザリーニに向け、マリアンヌもあらそうですね、と同じように彼を見る。
「ではここからはある程度普通に進めましょうか」
「はい、母さま。……それで、何故結婚話を?」
会話の内容は先程と同じ。だが、マリアンヌが述べたように、その雰囲気は明らかに先程と違っていた。最初からそういう風に会話してくれ、と思わずマザリーニは叫びたくなるが、言っても無駄なので口を噤む。四本目にはまだ至らなかった。
「最近、諸外国のきな臭い動きがあるのは知っているでしょう?」
「ええ勿論。そういえば、この間他国からきた人攫いを一つ潰しましたね」
さらりとアンリエッタは述べ、マリアンヌはそうでしたねと流す。これが王女と太后の会話なのだから、この国は別の意味でどうしようもない。マザリーニとしてはそう思うが、それ以外では何の問題もなく国が動いているのを考えるとそれも間違いなのかと血迷いかけてしまう。市井の噂や街の小唄の実態は、この二人のやることを取り繕う宰相の姿ばかりが目立つからである。実際の働きは太后と王女の方が彼よりも大きい。
尚、フォローを考えると噂通り、彼が殆ど担っている。
「最近はレコン・キスタとかいう輩がアルビオンを転覆させようとしているとか」
「あら怖い。……まあ、あの一件以降こちらとは折り合いも悪いので何も出来ませんが」
さらりと言ってのけるアンリエッタをマザリーニはギョッとした目で見る。対するマリアンヌはふむ、と彼女を見て口角を上げた。あれはまた何か企んでいる顔だな。そんなことを思いつつ、凡そのあたりを付け口を開く。
「……アンリエッタ。もし、結婚相手を、貴女が自分で決めていいと言ったら?」
「是非」
「そのために必要なことは?」
「今のアルビオンをどうにかすれば。さしあたっての予定としては、レコン・キスタが現王家を打倒する辺りでわたくしは意中の方を頂いていくつもりですが」
アンリエッタの言う意中の相手、というのはアルビオンの皇太子ウェールズ・テューダーのことである。現状、正攻法ではトリステインとアルビオンの友好が芳しくないために不可能な相手である。そのため、彼女は国の混乱に乗じて掻っ攫い自分の伴侶にする腹積もりらしい。控えめに言って外道である。勿論マザリーニは四本目の胃薬を一気飲みした。
「あらアンリエッタ。貴女はレコン・キスタがアルビオンを打倒すると?」
「今のままでは、おそらく。烏合の衆というわけではなく、どこかがバックについているようですので」
「流石はわたくしの娘。では、それを防げば向こうに多大な恩が売れるということも、当然分かっているのでしょう? 何故王家が倒れる方を選んだの?」
「分かりきっていることを尋ねないでください。アルビオンが残っていては、ウェールズ様をこちらに迎えられないでしょう?」
「テファをアルビオンの王にすればいいではないですか」
「御冗談を。ジェームズ陛下がお許しになりませんわ。それにシャジャル様も」
「ふむ。確かにシャジャルはそういうところは頑固ですものね」
若い頃、あの四人と一人を伴い彼女絡みの問題に首を突っ込んだことを思い出す。思えばあれをきっかけに魔女の知恵を積極的に吸収するようになったのだから、そういう意味では彼女は恩人、その意志を尊重せねばなるまい。後で説得でもしに行くかと予定を決め、マリアンヌはひとまず保留と話を止めた。
「しかしアンリエッタ。貴女はレコン・キスタの背後の正体を掴んでいないというのですか?」
「ガリアであろうとあたりは付けていますが、まだ確証は」
「成程。では、アルビオンとガリアがこれまで以上に親交を深めようとしているのは知っているかしら?」
「……レコン・キスタとアルビオン王家、双方と結びつき全てをガリアのものに、というところでしょうか」
「恐らくそうでしょう。とはいえ、明確な証拠はない以上、それを公にするにはもう少し深く調査する必要があります」
ニヤリ、とマリアンヌは笑う。何のつもりだ、とアンリエッタが眉を顰めるのを気にせず、彼女はそのまま言葉を紡いだ。そこで、アルビオンの調査に丁度いい催しがあるのだ、と自分の娘にとっての爆弾をその場に投げ落とした。
「実は今度ウェールズ皇太子の婚約のお祝いに行くの」
「――は?」
こんな彼女を見るのは何時ぶりだろうか。ルイズは幽鬼のような目でガリガリと書類にペンを走らせるアンリエッタを見てそんな感想を抱いた。ギーシュとモンモランシーはこれはもう絶対に関わってはいけないやつだ、でもどうしようもないと諦めの境地に達している。
「ひ、姫さま?」
「何ですか」
ギロリ、とアンリエッタはルイズを見る。うわ、と思わず引いた彼女であったが、しかしこのままでは話が進まないので、溜息と共にアンリエッタの頭を軽く小突いた。あいた、と彼女らしからぬ間抜けな声が漏れ、そして目に生気が戻ってくる。
「わたくしとしたことが。少し動転していたようですね」
「まあ姫さまがおかしいのは今に始まったことじゃないですから」
自国の主君をボロクソに言いながら、ルイズはそれで一体何があったのだと問い掛けた。アンリエッタも彼女のその軽口など今更なので気にせず流し、ええ実はと口を開く。
アルビオンでの遊園会。そこでレコン・キスタなりその裏のガリアなりの暗躍の証拠を掴みたい。要約すればそういう話である。マリアンヌのお伴として『暴風雨』で向かう、ということである。
「ですから、今回はミスタ・グラモンとミス・モンモランシも調査に参加していただきたいのですが」
「役に立ちますか? 僕ら」
「ええそれは勿論」
力強く断言されれば、ギーシュもモンモランシーも首を横には触れない。まあ仕方ないか、と肩を竦め分かりましたと頭を垂れた。ここで何だかんだで了承してしまう辺り、二人も大分染まってるな、とルイズは思う。口には出さない。
「それで、一体何の催しなんですか?」
他国の人間を招くほどの遊園会を開くとなれば、それなりの理由があるはずだ。そんなことを思ったルイズがアンリエッタに尋ねたが、それを聞いた彼女の目が急速に死んでいくのを見てしまったと顔を顰めた。ついでに、どうやら先程の状態になったのはそれが理由らしいと感付いた。
「……婚約を、祝うらしいのです」
「婚約、ですか……。え? アルビオンの、だ、れが」
言いかけて気が付いた。わざわざアルビオンで行うのだから、アルビオンの王家の誰かであろう。そして今現在婚約をするような、それを祝われるような人物は一人しかいない。
ギーシュもモンモランシーもそれを察し、おいマジかよと顔を引き攣らせている。ここにいる三人は知っているのだ。アンリエッタの想い人が誰なのかを。
何せ、二年前のラグドリアン湖でのプロポーズ大作戦に駆り出されたのは他でもないこの三人なのだから。
「……ウェールズ様が、婚約、するらしいの」
ぽつりぽつりとアンリエッタは言葉を紡ぐ。それは決して現実であって欲しくないという願望も混じっているのだろう。発せられた声は、少し震えていた。
ギーシュとモンモランシーは何も言えない。好きな相手が、自分の想い人が他の誰かと婚約する。そうなったときの胸の痛みは一体どれほどのものであろうか。分からないし、分かりたいとも思えない。ギーシュは少なくとも今モンモランシーが他の男と婚約したらそのまま生きる気力を失うだろうと自信を持って断言できる。
そんな二人とは違い、ルイズは泣きそうな顔をしているアンリエッタの肩を優しく叩いた。大丈夫です、と笑みを浮かべた。
「そもそも姫さまフラレてるじゃないですか」
「振られてない! わたくしは振られてなどいません!」
「いやだって、あの湖の誓い。姫さまは愛を誓って、ウェールズ殿下は再会を誓った。ほらもう完膚無きまでにフラレてますよ」
「おだまりっ!」
言いやがったこいつ、という目でギーシュとモンモランシーはルイズを見た。それを考えないように、綺麗な思いを表面に出していたのに。はぁ、とモンモランシーは溜息を吐き、さてどうしようかとギーシュを見る。いやどうしようもないだろうと肩を竦めるのを見て、そうよねと傍観に徹することにした。
「ウェールズ殿下としても、普通に考えてこんなのよりもっとちゃんとした女性と婚約したいと思うでしょうし」
「わたくしのどこがいけないというのよ!?」
「見た目以外全部でしょう。あのですね姫さま、こんな中身が酷い人を好きになる奇特な男性はいませんよ」
はぁ、と溜息と共にルイズは述べる。もはやフォローする気など欠片もなく、そして相手が王女であるということをこれっぽっちも考慮していない。ここまでくるといっそ清々しかった。
アンリエッタはぐぬぬと顔を顰める。ルイズのその態度については別段怒ることはないが、言われた言葉は純粋にムカついた。が、自分でもその辺りは自覚しているので普段ならばともかくこの場で否定することは出来なかった。改めるつもりはない。
「……でも、烈風カリンはきちんと結婚して子供も生んでいるではないですか」
「あれはたまたま近くに中身が酷い人を好きになる奇特な人間がいたから成立した奇跡です。というか女性に不自由しなかったくせに惚れた相手がノワールおばさまと母さまとか、むしろ父さまの方が頭おかしいレベルですし」
「自分の父親ボロクソだな……」
「母親に対しても無茶苦茶言ってるわねあれ」
とはいえ、自身の親からその辺りは散々聞かされている上に現在進行系で色々やらかしている人物なので、そこのフォローはしない。ついでに今会話に参加したらとばっちりがくるのでやめておこうと二人は更に一歩下がった。
「ともかく! わたくしは振られていませんし、ウェールズ様に近付いたその女性はまず間違いなくレコン・キスタなりガリアなりの刺客です」
「姫さま、きちんと現実見ましょうよ」
「後半部分は真面目に話しています。今回母さまがこちらに話を持ってきたのも、恐らくそのためでしょうから」
唇を尖らせているものの、その表情は普段のアンリエッタのそれである。そのことを理解したルイズは態度を元に戻し、それで一体どうすればいいと彼女に問い掛けた。
そこは最初に言った通り。そう言って口角を上げたアンリエッタは、ルイズを見て、ギーシュを見て、モンモランシーを見た。
「マリアンヌ太后の雇われメイジとして、『暴風雨』が同行します。目的は先程も言った通り、暗躍の証拠集め」
そこで言葉を一旦止め、アンリエッタは視線を落とした。三人に表情が見えないように、顔を隠した。クスクスクス、というどこか怪しい笑い声だけが彼女の表情を推察出来る唯一の情報である。
「まあそれはそれとして、ウェールズ様の婚約は関係なくぶち壊しましょう」
「結局それなんじゃないですか……」
はぁ、とルイズは呆れたように溜息を吐いた。ここで止めないのが、彼女がアンリエッタの『おともだち』である所以である。
着地地点にちゃんと落ちるんだろうかこれ