「フィンラ・カンパニー」   作:高尾のり子

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第2話

 

 

 沙子は見立ててもらった和服で、くるりと回ってみせた。

「どうかな? ショーちゃん」

「よく似合ってるよ」

「よくお似合いです」

 雅が営業スマイルで誉めてくれる。晴れ着に合わせた草履、小物入れ、かんざし、全て一式をそろえてくれる顧客を相手にして、臨月に近い雅は目立つ腹部を抱えて微笑んでいる。和服姿は妊娠した身体でも、よく似合っていた。

「本当に、お美しい黒髪で羨ましいです。とても和装がお似合いですよ」

「じゃあ、これにするね」

「はい、かしこまりました」

 雅は脳内電卓を使った。

「一式で268万円になりますが、お勉強させていただき、250万円で提供させていただきます」

 とくに値切ることもなく即断即決で買ってくれた一見客を一蹴が外まで見送って帰ってきた。

「なぁ、雅」

「何ですか?」

「今のお客さんに売った着物って、なかなか売れないから100万で売る予定じゃなかったっけ?」

「あの人の身体を見て、値上げしたのです」

「なんで?」

「子供のような可愛らしい雰囲気の人でしたが、お着替えのときに見ました。かなり鍛えたようで雰囲気に似合わず、恐ろしく強いでしょう。おそらく私よりも」

「雅より?」

「はい」

「その強い人に値上げして大丈夫なわけ?」

「あの着物が売れなかったのは、あのような鍛えた女性向けにデザインし、肩幅の広さや発達した筋肉を隠して、女性らしい優美と、いざというときの動きやすさを考えたものだったからです」

「……それでもさ、値上げした理由は? 100万で売ってあげれば、よかったのに」

「あの人にとっては250の値打ちがあり、あの人も納得されました。問題ありません」

「………前から気になってたんだけど、呉服の値段って、もしかして雅の気分で決めてる?」

「呉服の価格はあって、ないようなもの。これは業界の常識です」

「…………怖い業界なんだ……」

「この世の全てが偽りでないことは、一蹴が教えてくれましたね?」

「…あ…ああ」

「だから」

「だから?」

「この世の半分ほどが偽りでできている。私はそう思っています」

「………………………確信犯か……」

「人聞きの悪いことを。けんたろうには大学まで行ってほしいですから、今から学費を貯金しておくのです」

「しっかりしてるんだ……」

 子供の進路を早々に決めていく遺伝子は藤原家のものだと、一蹴は50年後の雅を想像して、藤原美智子を思い浮かべてしまった。性格は多少改善されても、きっと外見は似てしまう、そう思うと男として悲しかった。

 

 

 

 ルサック桜峰店で南翔太はコーヒーを飲みながら、持ち込んだノートパソコンでインターネットをしていた。

「う~……む、どうしたものかなぁ」

 液晶画面を見つめて腕組みしている。そこへ、伊波健が飛世巴を連れて現れた。

「あれ、翔太?」

「お、健か、久しぶりだな」

「そうだね、就職してから、お互いぜんぜんだね」

「お前、ほたるちゃんは?」

「ほたるはウイーンだよ」

「…そうか」

「私は劇団の帰りに出会っただけよん♪ あ、結婚指輪なんかしてる。妻子持ち?」

「子供はいないけど、結婚はしてるよ」

「翔太、なにか悩んでなかった? ここ、座っていい?」

「どうぞ」

 翔太の向かいに健と巴が座った。

「身体を動かすとお腹が空くよね。私、牡蠣フライとハンバーグのBセット」

「ボクは……同じでいいや」

「あいかわらず周囲に流されやすいな、健」

「そうかな?」

「協調性がある、と言っておこうか」

「じゃあ、その協調性でさ、翔太が難しい顔してた理由を訊いていい?」

「そんなに難しい顔してたか?」

「してたよ、ね、トト」

「してたしてた♪ こーーんなに眉をよせて、まるで川中島の合戦中の武田信玄みたいに♪ けっこう演技力あるかもよ?」

 巴が身ぶりをまじえて語ると、ふわりと甘い汗の香りが翔太まで流れてきた。それを翔太は言葉には、もちろん、表情にも出さなかったのに、巴は気づいた。

「あ、ごめん、私って汗臭い? 劇団で稽古した帰りだから、どうしてもね。カンベンしてよ」

「気にしないで。オレと健だって、高校時代はサッカーの後はドロドロだったよな」

「グラウンドの匂いもあったし、砂もついたし、でも楽しかったなァ……学生時代って最高だったよ」

「社会人一年目にして早くも老境ってか。ま、いいや。オレの悩みなんて、たいしたことないよ。これ、見て」

 翔太がノートパソコンを健たちに向けて説明する。

「実はさ、ネット上で友達になったヤツがいるんだ」

「「へぇぇ…ネットで」」

「ま、顔も知らないし、性別だって謎だけど、花の王子、っていうハンドルネームなんだけど、どことなく女の子っぽい雰囲気もするんだ。ネカマじゃなくて、王子っていうわりに、女性っぽいから」

「ふーーん…」

「あ、わかった。その彼女が会いたいってメールくれたけど、不倫になると、どうしようって、お悩み?」

 巴が茶化して笑うと、翔太も笑った。

「ははは♪ オレは健ほど色男じゃないし、相手だってオレの顔どころか、住所も知らない。おそらく日本国内だろう、ってぐらいに情報距離のある人間だよ」

「じゃあ、なにをお悩みなの?」

「花の王子さんがさ、スカイビズっていう企業の会員にならないかって誘ってくるんだ」

「スカイビズ? なにそれ?」

「翔太、それって、空飛ぶ魚を探す会とか、そういう、くだらない会?」

「健、そんな会があったら、オレは迷わず…」

「「……」」

「入る。いや、むしろ作る! そうだ! そうだよ、なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう?! 作ろう! 世界の不思議を探す会を! 名付けて! 世界を、面白くするための、翔太の団! SOS団だ!!」

「劇団一人の方がマシっぽいけど? エネルギー余ってるなら、私のバスケに入る?」

「翔太、それは、いいからさ。スカイビズって、なんの会?」

「ああ、会っていうか、企業の顧客になる感じでさ、ようは会員になるとホームページを作るスペースを一年間貸してくれるんだ。数十メガバイトって単位でさ」

「それって、すごいの?」

「いや、そんなに、すごくない。ヤフーとかの無料スペースより、ちょっと多いくらい。けど、ヤフーとかだって有料なら月々300円とか、600円で、年間だと3600円とか、7200円になるから、ビミョーなんだけど」

「ふーーん…」

「これのメリットっていうのが、花の王子さんが言うには、自分が入会して、さらに人を紹介して入会させると、紹介料がもらえるんだ」

「ああ、結婚式場の紹介とかで、お食事券くれるみたいなもの?」

 巴が牡蠣フライを食べながら問いかけると、翔太は首を振った。

「近いような遠いような。どっちかというと、ネズミ講に近いな。会員が会員を呼べば、どんどん紹介料がもらえて、儲かるって話。入会金であり使用料であるのが年間100ドルだから、一万数千円ほど、大手の有料ホームページスペースの二倍くらいの価格だな」

「「ふーーん…」」

 巴と健はハンバーグを食べつつ聞いている。

「実際、ビミョーな商法だな。あってないような、あるようなサイトのレンタルスペースって商品を介在させたネズミ講だとオレは思うけど、被害額は一万円そこそこ、これじゃ弁護士に相談するだけ相談料の無駄だし、泣き寝入りするほど涙もでない金額だ。花の王子さんは投資だって言って、一人で3口も入会したらしいけど、一人で三つもサイトを構えてどうするつもりなんだ? まあ、趣味が多ければ、それぞれのホームページにすればいいけど、そんなに管理できないし更新もムリだと思うけどな」

「それで、翔太は入るの?」

「うーーん……やめとこう、って思って悩んでるところ」

「きゃはっ♪ 断り方を考えてた?」

「まあ、そうだけどね。かなり熱心に勧めてくれてるから、悪いなって」

「実は下心アリ?」

「ないよ」

「いっそ、直接に会って話を聞きたい、こっちは神奈川県だけど、って送信してみたら?」

「…………それも手だな…………」

「考えてるくらいなら、実行、実行。やらないで後悔するより、やって後悔する方がいい、私の信条よ♪」

 巴は勝手にパソコンを触ると「詳しく会って聞きたい、神奈川県なら会えます」と送信してしまった。

「おいおい、……ま、いいか。花の王子さんの顔もみたいし」

「いい結果だったら聞かせてね」

「了解、じゃ、オレは帰るよ」

 翔太が自分の分の伝票をもって立ち去った。

 巴と健は食事を続ける。

「それにしても、世の中、いろんな商売があるなぁ」

「演劇も商売といえば、商売よ。なかなか、これで食べるのは難しいけどね」

「この前も、信くんからさ、アムウェイだとか、ニュースキンだとかいう企業を紹介されたんだけど、ボクは友達を紹介して、そこから数%のマージンをもらうとか、そういうのって、なんかズルい気がする」

「イナは純粋ね。私だって公演のチケットを売れば15%もらえるし、だいだいチケット代から、私の出演料も捻出されるのよ」

「うーーん……それは、……でもさ、トトのは文化活動というか、公演は大もうけして、楽して暮らそうとか、そういうのとは違うしさ」

「楽して暮らすところか、出演料っていっても、しれてるのに、私の自宅での練習時間まで計算に入れて時給計算したら時給100円を下回るわね。財布の寒いこと寒いこと」

「ほらね。演技って商売は大成功とか考えてないし」

「同じ女優でもテレビで活躍してる黒須さんなら、微笑むだけで数百万、男優とキスして一千万かもね」

「あの人は別格だよ」

「花祭さんなんて産まれた瞬間から大金持ち」

「………、……人って平等に生きていくのはムリなのかな?」

「赤ね」

「は? シャア専用?」

「共産主義思想のこと」

「結果平等と機会平等とは、また違うと思わない?」

「デザート、頼んでいい?」

「いいよ」

 理学部を卒業して宇宙材料会社の正社員になっている健と、高卒で劇団所属の巴では経済力に差がありすぎて、いつも健が払っている。今夜も健は財布の紐を緩めてくれた。

「フォンブラウンケーキを一つ」

「ボクはワインをハーフボトルで。トトも呑むよね?」

「うん」

「フォンブラウンケーキをお一つ、白ワインのハーフボトルをお一つ、グラスはお二つですね。かしこまりました」

 バイトのシフトが深夜に移行したようで仙堂麻尋が注文を受けてくれた。

「私は資本主義社会なら、多少のズルさは必要だと思うけど?」

「うーーん……」

「イナは理学部だもんね。机上の計算通りに人は動かないし、屏風と商人は直ぐでは立たぬ、よ」

「なにそれ?」

「商人は少しくらいウソをつかないと食べてもいけない、ってこと」

「ふーーん…」

「たとえば、このワイン」

 給仕されたワインを巴は健と自分のグラスに注いだ。

「これってルサックが仕入れたときには、販売価格の三割くらいなはずよ」

「そりゃ、ここにバイト代とかの人件費もあるし、店の維持費だってあるしさ」

「さらに利益をのっけないとね?」

 注ぎ終えたグラスを持ち、とくに記念日でもないけれど、軽く二人でチンと打ち合わせて乾杯する。

「トトの言いたいことはわかるけど、これは純粋な商売での飲食店だろ?」

「けど、ルサックはチェーン展開だから、ここは代理店の一つ。だから、きっと上の組織に利益の何%とかを上納してると思うよ。イナはバイトまでで辞めちゃったから、内部事情までは知らないでしょうけど」

「ああ、そんなことを店長がいってたかも。看板代みたいな」

「でしょ」

「でもさ、友達を紹介してマージンをとるってのは、ボクはキレイな商売だとは思えないよ。信くんがさ、ほたると寿々奈さんとトトをボクの傘下で代理店にできれば、月に15万くらいになるって教えてくれたけど、そんな女の子を利用するみたいな考え方は最低だと思う」

「ふーーん♪ 私がサイドビジネスをして、イナとインドマンに貢ぐ、と。けど、それって私だって代理店になりたいって望むからでしょ? それは、もう利用じゃなくて人間関係の活用だと思うけど」

「トトって前向きだね」

「やる気はないけどね。それにアムウェイなら母さんが10年以上前から会員やってるよ」

「そうなんだ?」

「うん、代理店じゃなくて、ただの消費者だけどね。調理器具とか、食材だとか、質がいいからって普通に通販感覚で注文してるもん」

「へぇぇ……やっぱ、有名だったのか」

「あと、タッパウェアって会社の会員にもなってるみたい。それも調理器具かな? めったに家へ帰ってこないから、帰ってくると色々な料理をしてくれるの」

「ふーーん……」

 話をしているうちにグラスが渇き、巴もケーキを食べ終えたので立ち上がった。

「あ、シカ電、もう無いかな」

「そうかも」

「イナの部屋でシャワー借りていい? さっき、中森くんに汗臭いって顔されたし、このままじゃヤだし」

「うん、いいよ」

「ラッキー♪ 朝凪荘は風呂無しだったけど、新しいイナの部屋っていいよね」

「もう高校生じゃないからね」

 健は夕食代3840円を支払って、金欠の巴を援助した。

 

 

 数日後、テレビ局のエレベーターでカナタは偶然、母親に出会った。

「「……」」

 黒須麗子も娘に気づいたけれど、お互い挨拶もせずにエレベーターに乗り込み、地下駐車場へのボタンを押している。

「「……」」

 まったくの他人としてエレベーターの対角線上に立ち、背中を向けている。このまま一言も交わさず、別々のクルマに乗り、別々の住所へ帰る、いつものことだったけれど、今夜はカナタが沈黙を破った。

「母さん、面白い話があるよ」

 娘に話しかけられて背中を向けていた麗子は振り返った。お互い他人として振る舞っているのは、どちらかといえばカナタの都合が大きい。こだわらない男、加賀正午をして麗子は、美人だけど社会問題の難しい本を書いたりテレビに出たりしてる少しキツイ感じの女性、といわしめる婦人で、隙のない灰色のパンツスーツ姿に、上品な化粧と高価ではないけれど似合っている小ぶりのネックレスが知的な印象を高めている。

「どんな話なの?」

 およそ、派手なカナタの母親とは思えない落ち着いた風貌と理知的なイメージが、黒須という同じ苗字をテレビ局で使っていながら、誰も母娘だと気づかせていない。モデル時代からカナタは素性や出身を明かさずに活動してきたので、現在も母親が黒須麗子という本名で討論などの堅苦しい番組に出る学術派芸能人であることを明かしていなかった。

「あのアホのこと」

「正午くんの?」

 ただ今は偶然に出会ったエレベーターが二人っきりだったので会話することができる環境だった。

「そう♪ あいつのアホって超人的ね。このアタシにアムウェイを勧めてきたのよ」

「アムウェイを? カナタに?」

「アタシにピッタリの仕事だってさ。会員を増やせば儲かるからって。だから、アタシは一言だけ、アホ、って教えてあげたの。母さん、この手の悪徳商法も専門だったもんね」

「………、カナタ、あのね…」

 麗子は何か言おうとしたけれど、エレベーターのドアが開き、他の社員が乗り込んできたので黙り込み、カナタも他人のフリに戻る。すぐにエレベーターは地下駐車場へ着いた。そのまま各自のクルマへ黙って歩いていく。カナタが愛車に乗り込んだときだった。

 ピピピ♪

 ケータイが鳴っている。液晶画面を見ると母親からだった。

「もしもし?」

(カナタ、どこかで話さない?)

「ここで言えば?」

(……顔を見て話したいの)

「………。じゃあ、少し待ってて。今、クルマでしょ?」

(ええ、東側の壁際よ)

 カナタは電話を切らずにエンジンをかけると、地下駐車場内を走り、東側に駐めてあった母親のクルマの前に急ブレーキで停車し、ほとんど後ろも見ずにバックして、空いていた正面の駐車場に駐めた。これで向かい合ったクルマに乗ったまま会話でき、しかも誰かに見られても、まさか、そんな方法で会話しているとは思われず、お互いに別々の相手と会話しているよう偽装できる。なにより、あまり仲のいい母娘ではなかった。

「これで顔を見て話をできるでしょ。それで?」

(………あいかわらず乱暴な運転ね)

「お説教なら、帰るよ」

(お説教というのは、あなたのために先人が道を説き、教えるから、お説教と…)

「帰る」

(待ちなさい、さっきの正午くんの話よ)

「ショーゴの?」

(ええ)

「で?」

(カナタにとって正午くんは大切な人なの?)

「………そーゆー話なら、やっぱり帰る」

(どうして人の話を最期まで聞かないの?)

「どうせ、そろそろ結婚しろとか、そーゆー話でしょう?」

(あら、ハズレ♪ 違うわよ)

「……。じゃ、なに?」

(でも、結婚も、そろそろ視野に入れて…)

「だから、なに? 本題は?」

(せっかちね。いいわ。ほら、さっきのアムウェイの話よ。正午くん、本当にアムウェイを始めたの?)

「そうだと思うけど」

(そう……、やめさせてあげないの?)

「アホにアホって言っても無駄じゃない? アホがアホに気づいたら、やめるでしょう」

(カナタはアムウェイを、よく知っているの?)

「あんまり興味ない。母さんの専門でしょ、あーゆー悪質な商法」

(どんなところが悪質だと思うの?)

「だから、あんまり知らないって。なんか、てきとーに物を売りつけてネズミ講的に儲ける話でしょ?」

(やっぱり、正確には知らないのね)

「専門外ですからね、お母様」

(もしも、アムウェイがネズミ講的な事業なら、すぐに警察に逮捕されている、とは思わない? ここまでの規模になる前に)

「………。抜け穴でもあるからじゃないの?」

(一応、連鎖販売取引というのは合法なの。本来は商品を使った消費者が、いいと思った物を友人に勧めるから、上質の商品が広告なしに出回るというシステムなの。アムウェイの商品はスーパーの物より高いけれど、高いなりに上質なのよ)

「ふーーん……じゃあ、なんで社会問題になるの?」

(無理な勧誘と押し売りが原因ね。どうしても人間って自分の欲に弱いから)

「ふーーん…」

(相手が望んでいないのに、もう拒否しているのに入会を迫ったり、商品を売ろうとする。それが友人だと、断りにくくて問題になる場合もあるし、ケンカになることもあるわね。友人なだけに住所も職場も電話番号も知っていたりするから、普通の訪問販売より、断るのは難しいし、トラブルも大きくなりがち)

「そーゆーことをした時点で、友達とは思えないけど?」

(つまり絶交。友人を無くすわね)

「もともと友人じゃなかったのかもね。その程度で崩壊するなら」

(あなたってドライね。どうして、そう冷たい考え方をするの?)

「母さんの子じゃないから、かもねン♪」

(……、アムウェイはね、紹介される人によって、いろんなアムウェイになってしまうの)

「意味わかんない」

(正午くんに紹介した人が、いい人なら、いいアムウェイ、悪い人なら悪いアムウェイになるわ)

「なんか童話みたい」

(紹介した人が押し売りしてでもノルマを果たそうとしたりするグループの人なら、正午くんも影響を受けてしまう。もっとも悪質なのは宗教がかってくること)

「クスっ…信者にでもなるの?」

(ええ、何から何までアムウェイの商品を必要もないのに買ってしまう、買わされてしまう。サイドビジネスのつもりが本業にまで影響してしまって解雇された例も多いわ。公務員でさえ副業禁止に違反して、自衛隊員まで参加していて国会で問題になったこともあるの)

「いっそ、北朝鮮に売り込みに行けばいいのに」

(マジメに聞きなさい。副業としての損得勘定ができる人なら破産することはないけれど、買い物依存症的に買い込んでしまう人もいるの。押し入れを開けたら、アムウェイ製品で、いっぱいなんてことも。それなのに紹介した人や上層部にカリスマ的な人物がいると、損をさせられているのに、尊敬してしまうことさえあるのよ)

「……アホの極みね……。いくらショーゴでも、そこまでアホにはなれないでしょ」

(正午くんに紹介した人が、たんに上質な商品を口コミで拡げるという本来の主旨から外れていない人なら、正午くんも押し売りしたりすることはないの)

「ああ、なるほど……信もアホね」

(正午くんに紹介した人を知っているのね。どんな人?)

「高校を中退してファミレスでバイトしてて、でも海外旅行へ長期に行くのが原因でクビになって、アパートも家賃滞納で追い出されて、今は怪しい屋台のラーメン屋。キャハハ♪ およそ、まともな人間じゃないかな♪ 信って、客観的に見るとダメダメね。お金を借りても返さないって話もあるし」

(笑い事じゃないわよ、カナタ。そんな人から紹介されているなら、すぐにでも、やめさせてあげた方がいいわ。正午くん、社会人一年生でしょう? この手の商法は社会人になりたての人や、大学生なんかが免疫のないうちに洗脳されてしまうのが問題なの)

「信に脳を洗って濯がれてるのね………、ほっとけば、二人ともアホさ加減に気づいて、いい勉強になるでしょ」

(取り返しのつかない損失になることがあるから、社会問題になって私の専門にもなるのよ。あの人に限って、という人まで、のめり込んでしまう。だから、私は最初に訊いたの。カナタにとって正午くんが大切な人なら、信者になってしまう前にフォローしてあげなさい。助けてくれる存在があるか、ないかで結果は天と地ほどにかわるわ。本当はね、アムウェイの商品なんて私たち女性のものなの、男性が善し悪しを論議して売り買いするようなものじゃないわ。洗剤も調理器具もスキンケアも、みんな女性のものでしょう? 男性、とくに若い人がアムウェイを始めたときは、ほとんどが金儲け第一でやってしまうから、大問題なのよ)

「アハっ♪ 珍しいね、男女平等論者のお母様が、そんなジェンダーなことをおっしゃるなんて、とても意外でしたわ」

(カナタ、ふざけてないで、あなたにとって正午くんが大切な人なら助けが必要か、どうかくらい見極めておきなさい。あとで後悔しても遅いのよ)

「…アタシにアホのアホを治せと…」

(あなた、幼稚園の頃から正午くんのこと好きだったでしょう?)

「……」

 これだから母親は嫌いだ、カナタは聞こえないように舌打ちした。

「そんな日もあったかもねン♪ どうしよう、アタシの正午がアムウェイに盗られちゃったら♪」

(冗談でなく、そうなるケースは多いの。アムウェイが遠因で離婚した人も少なくないし、アムウェイを紹介活動していく過程で、昔の友人に声をかけて、それがキッカケで仲が悪くなることもあれば、逆に、とても仲がよくなることもあるわ)

「それが異性だったら大変大変?」

(その通りよ。たいていサイドビジネスでやるから、会うのはアフター5、夜遅くまでミーティングやセミナーをして、夕食もファミレスや居酒屋でともにして、あとは……もう子供じゃないから、わかるわね?)

「キャッ♪ そーゆーことアタシせんぜんダメなの♪ わかんない。ね、なにするの? お母様」

(お金と異性、もっとも人間の弱いところよ。私が思うに、今のカナタに紹介してくるあたり、正午くん、相当アムウェイに、のめり込んでるわよ)

「そうかな? あのアホ、よく理解もしないうちに、とりあえずアタシに電話した感じだったけど?」

(今のKANATAにアムウェイを勧めるなんて、組織のトップでもしないでしょうね。あなたにスキンケアを説くなんて釈迦に説法。あなたにお金儲けを勧めるのも滑稽の極みよ)

「アホの極みだから、ショーゴは」

 芸能人としての所得も高く、さらに他界した祖母から土地を中心とした莫大な遺産を引き継いでいる。花祭家には劣るけれど、カナタが乗っているクルマはヨーロッパ製で最高時速は300キロ、定価は興味がないので覚えていなかった。

(正午くんを助けてあげないの?)

「…、自力で何とかするのが、スジだと思う」

(本当に冷たい人間ね、あなたって)

 麗子の声が責める響き帯びてきた。

(いつかも、そう言って、あの人の遺産を一人占めしたものね)

「お婆ちゃんが私にって遺書を残してくれたから♪ うらやましい?」

 故意に見下した声を作ってカナタはダッシュボードに脚をのせると、向かい合っている母親のクルマを睥睨した。麗子は環境に配慮したトヨタのプリウスに乗っている。約230万円の定価を10倍してもカナタのクルマにおよばないが、とくに安い車種でもない。

(私が頭を下げてお願いしたのに、マンションの一つも譲ってくれなかったこと、忘れたくても一生忘れられないわ)

「じゃあ、ずーーっと覚えてれば? お母さん賢いから忘れるの苦手だもんね」

(いくつもビルやマンション、駐車場を相続したのに、たったの一つも分けてくれないなんて、あなたの心根がわからない。実の母親が娘に頭を下げたのに)

「頭さげたくらいでマンションもらえるなら世界中の99%の人が頭さげるよね?」

(なにも私は自分のために欲しがったわけじゃないわ。それも説明したでしょう? あの孤児院が資金不足で閉院になるから、どうしてもお金が必要だったのよ)

「お婆ちゃん、寄附とか嫌いだったよね? 自分の土地にはネコでも入れない、超縄張りババァ♪ アタシに相続させたのは、母さんに寄附させないため、アタシは遺漏無く遺志を守ってるだけ」

(あの人の血筋……カナタにも遺伝してしまったのね)

「母さんが響ちゃんちに、タダでアパート貸したのも、すごくお婆ちゃん、怒ってたね」

(あなたも、あなたよ、たくさん服があるから分けてあげたのに、不足そうな顔をしていたわ)

「好きな服まで、オサガリされたら誰だってね」

(もう着られないサイズだったでしょう。それだけでなくて、あの人がカナタに買った髪飾りまで自慢して、うらやましがさせて)

「プレゼントを喜ばないのは失礼だね?」

(欲しい物を目の前におかれた、子供の気持ちを考えたの?)

「さあ? アタシも子供だったから、わかんない♪」

(今は子供ではないわね。あなたがマンションを分けてくれなかったから、あの孤児院は閉院に追い込まれたのよ。そんな風に一人占めして、うれしいの?)

「うれしい♪」

(………。お金って、集まれば集まるほど人を狂わせるのね。あなたみたいに恵まれた生まれの人間には、両親を事故や病気で亡くした子たちや、雪の日に捨てられた子供の気持ちなんて、微塵もわからないでしょう?)

「うん、わからない。わかりたくもない。恵まれた子に産んでくれて、ありがとうね、母さん」

(育て方は間違ったみたいね、ごめんなさい)

「謝って許される問題じゃないしね」

(取り返しのつかないレベルみたいね)

「……」

(あなたが持っている財産をすれば、いったい何人の子供が大学まで行けると思うの?)

「さあ? そんなヒマな計算したくない」

(……。花祭さんも計算高い人だったわ、自分の子供を連れて孤児院に来て、同じ年頃の子供たちが困っているなら寄附したい、そんなことを言って助けてくれたのは市議会議員を引退するまでのこと。引退したら寄附も無し、完全な選挙対策で、あざとすぎて悔しいより、同じ人間として情けなくて泣けてくる)

「りかりんのママは一つも選挙違反はしてないね? 当選したのは正当な民主的手続きを踏んでのこと、違う?」

(本当に助けたいなら、引退してからも寄附を続けるべきよ。花祭家からの寄附が無くなったから、あの孤児院は閉鎖されたの)

「そりゃまた大変だね。アタシがマンションあげないし、りかりんママも寄附しないし」

(浜咲学園にも寄附をしていたけれど、それも計算高い節税対策ね。納めるべき税金を不当に下げて財産を守っている。人の皮をかぶった守銭奴…)

「あのさ、アタシのことは自分の不始末だから、何と言ってもいいけど、りかりんの家まで悪く言うのはやめたら? 人を非難することで自分が正義だって思うの、貧しい思考パターンだと思うよ」

(理屈だけは言う…)

「社会活動家のママと哲学教授の娘ですからね」

(産むんじゃなかった……そんな風に思いたくないわ)

「産んでなきゃ今頃、お婆ちゃんの遺産を自由に使えて、社会福祉を充実できたのにね」

(私なら財団法人にして、たくさんの子供たちを助けてあげたわ)

「………」

(それが、たった一人の享楽のために消えていく、これが罪だってわからないの?)

「……。ざけんな!!」

(親に向かって、なんて…)

「黙れクソババァ!! そんなに寄附したきゃ! てめぇが稼いだ金でやれ!!」

(私は出演料の半分を…)

「じゃあ、それでいいだろうが!!」

(それでも救えないから…)

「恵まれない子供たちを受け取り名義人にして生命保険に入って死ね!!!」

 もう相手の言うことを聞きたくなかったのでケータイ電話をダッシュボードに投げつけると、カナタはエンジンを呻らせて、地下駐車場から飛び出した。そのまま猛スピードで嘉神川沿いにある正午のマンションへ行く。

「…チッ…、ムカつく…」

 やっぱり話すんじゃなかった、母親に話しかけたことを後悔しながらエレベーターで四階に上がるとチャイムも鳴らさずに合い鍵で入室した。

「あ、カナタか。チャイムくらい鳴らせよ」

「うるさい」

「……怖っ……超不機嫌……」

 君子危うきに近寄らず、という名言を正午は実践して三歩もカナタから下がった。

「超ムカつく」

「……」

 下手に話しかけずに正午はベッドに座った。カナタはキッチンへ向かうと赤く塗ってあるカナタ専用の戸棚からウイスキーを出して、氷も入れずにグラスに注ぐと一気に呑み干した。それから、氷を入れてウイスキーを注ぎ、ベッドサイドのテーブルに置くと、呑み始める。

「何か食べるか?」

「いらない」

 すぐに二杯目も無くなり、顎で示して正午に三杯目をお酌させる。氷を足してから正午はウイスキーを注ぎ、いらないと言われたけれど、雪印のカマンベールチーズを出した。実は空腹だったカナタは丸ごと齧り付き、グラスを正午に押しつけた。

「お前も呑め!」

「…いただきます」

 酔いかけたカナタには逆らわないこと、正午の人生訓だった。人並みに呑める正午は口紅とチーズがついたグラスを半分まで呑んだ。

 少し頭が冷えたカナタはテレビをつけて、自分のCMが映っていたので、すぐに消した。

「この部屋、退屈……ショーゴ、猫でも飼いなよ」

「気まぐれな子猫は君だけで充分だ」

「うまいこと言うね♪」

 さらに四杯目を注いでもらい、カナタはベッドに座っている正午の膝を枕にして寝転がった。

「アタシのお婆ちゃん、覚えてる?」

「ああ、あの駐車場にいた猫にシャアってやった婆さんだろ?」

「うん、そう、シャアって猫を土地から追い出したお婆ちゃん」

「それが?」

「お婆ちゃんね、名前も沙阿って書いてシャアだって」

「へぇぇ……昔の人っぽい名前。お寺関係かな?」

「どうだろうね。死んじゃってなかったら訊けたのにね。あ、結婚する前の苗字は赤井だったらしいよ」

「赤井沙阿か、かっこいい名前だな」

「でも、ずっと母さんと仲が悪かったの」

 四杯目を寝転がったまま呑み干したカナタが催促するので五杯目を注ぐ。

「へぇぇ……そういえば、なんとなく合わなさそうな二人だな。カナタの母さんって、美人だけどキツイ感じするし」

「昔は母さんみたいな女性が正しい女性の姿なんだって思ってた。ちょっと憧れてたし自慢だった」

「今は違うのか?」

「生き方はお婆ちゃんの方が自由だった気がする。自分に忠実だったよ。その辺が母さんと合わなかったみたい。母さんも自分を曲げないから」

「嫁姑か……。麗子さん、だっけ? テレビに出てるよな。カナタの母さんだって、よくバレないよな、同じ黒須なのに」

「旧姓は安室だったし、今でも、そっちの名前を使うときもあるから」

「安室麗子さんか……仲の悪さは運命的だな…」

「ショーゴは運命論者?」

「こだわらない主義者♪」

「アホニストね」

 とうとう五杯目も呑み干したカナタは膝枕のまま寝返りをうって顔を伏せた。

「……ママと……ケンカしちゃった……」

「そっか」

「…ぅっ……ぅ~……ぅっ…」

「……」

 実は泣き上戸なんだよな、正午はタメ息を隠して泣いている頭を撫でた。しばらく泣かせて、もう二杯くらい呑ませばいい、その先はカナタに任せることにして今は泣いているのを見守るだけだった。

 

 

 

 数日後、南翔太は待ち合わせたカフェで荷嶋音緒と会っていた。

「これはビックなビジネスチャンスでもあるの♪」

「…う~……む…」

「最少で、たった一人を紹介するだけで、月々何百万円って副収入が入るかもしれないの。しかも、安全でリスク無し」

「たしかにリスクはないね。宝くじにリスクが少ないように、賭けた金額以上に損失することはないだろうけど……」

「普通の紹介販売って、どんどん人を紹介しないとダメでしょ? でも、スカイビズなら自分の参加は二系統だけになるの。左と右、っていうんだけどね。で、一つの方は上から、どんどん紹介されてくる人が、どんどん自分の下へ伸びていくから、自分は、もう一つのラインを伸ばせば、その比率によって、すっごい収入になるときもあるの。それが、たったの一万円! 今なら三口入るお勧めコースで三万円だよ」

「………悪いけど…オレ、興味ないし」

「え~、ライシンは入ってくれたのに…」

「ライシンとも会ったのか? オフで?」

「ううん、ライシンとはネットだけで契約してもらったの。代わりに、ニュースキンっていう化粧品の会社を紹介されたけど、お母さんが会員だったから諦めてもらったの。悪いことしちゃった」

「バーター取引に失敗か……ライシンも、このごろ、何か変なことやってるよな」

「も、って? 私のは変じゃないよ。ステキなホームページを紹介してるだけだもん」

「あ、ああ、うん、そうだね。世の中、どんどん進んでるね」

「そう♪ だからね、入って。一口でもいいから」

「花の王子さん………困ったなァ」

「たった一万円だよ」

 音緒は渋っている翔太の手を握った。

「きっと後悔させないから」

「……」

「私を信じてくれないの?」

「……」

 ふんわりと年下の女の子の甘い香りが脳幹をくすぐってくるけれど、音緒も握っている男の手に結婚指輪があることに気づいた。

「…結婚してるの?」

「まあね」

「残念♪ オフで会って、変な人だったら、どうしようって迷ってたけど、こんなカッコいい人なら、もっと早く会っておけばよかったなァ~……結婚前に♪」

「そいつは光栄なことで。オレも花の王子さまが女性だったのは、うれしい驚きだけど、やっぱり結婚してるからさ」

 翔太は巧く会話を切り上げる糸口を見つけて、立ち上がった。

「また、ネットで会おう」

「あ…」

「ネットは広大だからね」

 意味不明なことを言って翔太は、せめてコーヒー代の伝票だけは相手が女性だったので支払って店を出て行く。残された音緒は残念そうにタメ息をついた。

「はぁ~……どうして、このチャンスがわからないかなぁ……せっかくバイト休んでまで説明したのに……時間、余っちゃった…」

 音緒はケータイで時間を確かめ、それから自分の電話帳を眺めている。声をかけられる女友達は全員すでに誘ってあるけれど、入会してくれたのは、たった二人、それも少し強引にお願いしてのことだった。

「あ~……もう、女の子はムリかな……みんなネズミ講だって思ってるし……ネズミ講じゃないのに……。……あんまり、男の子に声をかけたくなかったけど、このさい♪ まずは君だよ。ショーゴくん!」

 音緒は正午へコールした。

「もしもし、ショーゴくん? 音緒です♪」

(ああ、音緒ちゃん♪)

「この前は、ごめんね。ちょっと忙しくて」

(いいよ、いいよ。くだらない用事だったし)

「ショーゴくん、今夜は時間あるの?」

(今から会社を出るから、その後は予定はないよ)

「じゃあ、ショーゴくんの部屋に行っていい?」

(いいよ、待ってる)

「夕飯、なにか作るから食べないで待っててね」

 音緒は電話を終えると、スーパーで材料を買い、正午のマンションを訪ねた。ちょうど、マンションの前で帰宅してきた正午と出会う。

「あ、ショーゴくん♪」

「音緒ちゃん」

 正午はネクタイをゆるめつつエレベーターに乗り、その隣に音緒も立った。

「お仕事お疲れ様♪」

「たはーっ……大学と違ってサボれないから、つらいよ」

「きゃははは♪」

「外回りのついでにカフェくらい入れるけど、せいぜい30分。それ以上、油を売ってると小夜美さんに関節技かけられるし」

 エレベーターを降り、部屋へ向かう。

「小夜美さんと同じ職場なんですよね?」

「ああ、うん。まあね。しかも、上司。あれって逆セクハラだよなァ……腕十字とかをOLスカートでキメないでほしい。同僚にデキてるんじゃないか、とか言われるしさ。悪いけど、年上には興味ないよ」

「ショーゴくん、昔っから年上には興味なしのまま?」

「年上は、どうでもいいなァ。ぜんぜん興味がない。同い年か、年下かな」

「あ…カナタさん、来てる?」

「みたいだ……な。わかりやすい」

 ドアを開けて玄関に一足、廊下に一足、脱ぎ捨てられたブランド物のブーツを見て正午も音緒も誰の物か、すぐにわかった。上着や衣服までリビングへ続く通路に落ちている。まさに痕跡だらけだった。

「おい、カナタ。靴くらい土間に……うわぁぁ……もう、デキあがってるし…」

「カナタさん………酔って…」

「ん~…♪」

 カナタはウイスキーの空瓶を枕にしてフローリングに転がっている。かなり呑んだ後だった。

「まだ宵の口だぞ?」

「ん~……ん、…宵の口…ん……まだ、呑めるよ…」

「もう呑むなよ。また、空腹で呑んだな?」

「だって……冷蔵庫、…なにもないし………ん~……あれ、音緒ちゃんが二人いる?」

「私は一人ですよ。すぐに何か作りますから、もう呑まないで待っててください」

「ん~………ショーゴ、水」

「バケツでかけてやろうか?」

「それでも……いいよ……ん~♪」

 ピンポーン♪

 ガチャ…

 鳴らすだけチャイムを鳴らして勝手にドアを開けて、響が訪ねてきた。

「ショーゴぉ♪ 私だよ」

「あ、響ちゃん」

「う…四人前かぁ……」

 音緒が三人前なら作れたけれど、材料的に四人前は難しいと悩み始めた。冷蔵庫を開けてみるけれど、カナタが言ったとおり、何も無い。卵さえなかった。

「せめて卵があれば、なんとでも……」

「卵なら、私が買ってきたよ。ショーゴに美味しいオムレツを作ってあげる」

 他のことは子供並みでも食事のことだけは気の利く響は手ぶらではなく、スーパーの袋を持っていた。

「あ、じゃあ、それも計算に入れて献立を考えるね」

「うん、私も手伝う♪」

「ショーゴ……水ぅ~ぅ…」

「はいはい」

 正午はカナタに水を注いだグラスを渡してから、音緒と響に材料代として五千円ずつ、さりげなく二人のポケットに入れた。結局、音緒と響が料理を終える頃にはカナタは眠り込んでしまい、三人で夕食を過ごし、カナタの分は冷蔵庫に入れられ、後片付けが終わってから音緒が切り出した。

「ショーゴくん、実は、ちょっと耳寄りな情報があるの♪」

「オレに?」

「私にはぁ~? 耳よりないの? 耳より!」

「響ちゃんも、いっしょに聴いて。とっても、お得でチャンスな情報だから」

「聞く聞く! お得で、チャンスっ!」

「うん♪ 前向きなのは人生をサクセスするのに不可欠な要素だよ」

「サクセスする~♪ 超ゴージャス!」

「音緒ちゃん、で、どんな話?」

 正午が促すと音緒はカバンからスケッチブックとサインペンを出した。

「ホームページのレンタルスペースを紹介するだけで、サイドビジネスになるの♪」

「へぇぇ……それってマルチ?」

「ううん♪ マルチ商法じゃないよ。今までのマルチ商法は一人で何人も紹介しないとランクがあがらなくて大変だったけど、これは最低一人でも収入になるの」

「へぇぇ」

「すごいね♪ いくらくらいもらえるの?」

「最大で週給500万円くらい」

「週休? 土日が休みなの?」

「響ちゃん、そうじゃなくてね。アメリカのビジネスだから月給じゃなくて週給なの。だから月収に治すと2000万円かな。年収だと2億4000万円」

「うわっぁっ♪ すっごいよ! ショーゴ! 二億だよ! ジャンボだよ! 年末だよ!」

「別に年末じゃなくても二億は二億だし……で、音緒ちゃん、続きは?」

「ゆっくり話すね」

 音緒は喫茶店やセミナー会場ではなく、相手の自宅なので時間を気にせず翔太にしたのと同じ話を詳しく熱弁した。

 聞き終えた正午は退屈そうな顔を隠して、ワインを開ける。

「信からニュースキンとか紹介されたけど、世の中には色々あるもんだねぇ」

「信くんのにも入会したなら、私のにも、できれば、入会してほしいなァ♪」

「ショーゴっ♪ 私のにも入って」

 響までが見知らぬ入会書をカバンから出した。

「「響ちゃん、それなに?」」

「バイト先の社長さんに紹介されたの。プレミアっていう会社の生命保険だよ」

「生保か……オレはいいよ」

「私も……、って、響ちゃん、これ普通の生命保険じゃなくて、もしかして紹介型の? マルチ的なやつ?」

「うん♪ 人を紹介すると、お金がもらえるよ。さっきの音緒ちゃんみたいなシステムだと思うけど忘れちゃった。とにかく紹介すればいいんだよ」

「「…………」」

「ヒクッ♪ お腹空いた…」

 カナタが目を開けた。

「カナタさん、冷蔵庫に…」

「音緒ちゃん、スカイビズでしょ、それ」

「あ、うん」

「先々月くらいに芸能界でも密かに話題になったけど、儲からないから、やめといた方がいいよ。日本で営業していいのかも法的に謎らしいし」

「そう…なの……? かな……。でも……私に紹介してくれた人は……いいって…」

「どこの誰に紹介されたの?」

「カレーの王子様」

「……アタシ……まだ…酔ってるかな?」

 カナタは顔を洗って、冷蔵庫から夕食を出してレンジで温め、テーブルに置いた。正午が呑んでいるワイングラスを一口もらい、食事を始めつつ話題に戻る。

「アタシの耳には、カレーの王子様が音緒ちゃんに紹介したって聞こえたけど……?」

「うん、でも本名は違うと思うよ。カレーの王子様っていうのはハンドルネームだから」

「あ、ネットの友達?」

「うん、そう。料理関係のサイトで知り合ったんだけど、その人はカレーに詳しいことで有名なの」

「カレーには詳しくても、こーゆー商法には詳しくないでしょ? アタシの母さんが専門で研究してるけど、友達なくすからやめた方がいいよ」

「そう……かな……? その人も最近、大学の後輩が着物のマルチ商法にハマって困ってるって投稿してたけど、この商法は問題ないだろうって」

「どこを基準に問題ないとしたのやら……、響ちゃんのソレは?」

「プレミアっていうの!」

「ふーーん……結局、マルチっぽいじゃん」

「ぅ……ダメかな?」

「ダメダメ♪ アホの正午を悪の穴に引きづり込まないでくれるかしら? アホだから理解せずに、どこの穴にでも入っちゃうの♪」

「オレは考えてるぞ」

「へぇ~ぇ♪ なにを考えてるの?」

「……、色々……」

「色々いっぱい? 聞かせてよ、その色々を」

「た……たとえば、だな。会社に実体があるのか、とか」

「あ、いいね。それ、丸一つ♪ 他には?」

「開業何年目とか、……会社の法人登記簿の記載事項とか……売上の伸び率とか……経営状態とか……いろいろ…」

「信用金庫勤務っぽい外形ばっかの調べ方ね」

「……、じゃあ、カナタは、どれがいいと思う?」

「どれもダメ。アタシは、マルチって嫌い。虫唾が走る」

「どんな虫唾だよ」

「だいたいさ、普通に売ればいいじゃん。なんで紹介販売なの? 超意味不明」

「だからそれは口コミで売れば、本当に、いい物が広まるってことなんだ」

「それって信の受け売りでしょ?」

「いい物だから受け売りされるんだ」

「お♪ 賢いこと反論するじゃん」

「別にカナタがイヤなら入会しなければいいんだ。オレは二つとも入ってみる! 音緒ちゃん、響ちゃん、書類かして」

「ありがと、ショーゴ♪」

「ショーゴくん、スカイビズは書類がなくてネット登録のみなの。ビザか、マスターカードがあれば、入会できるよ」

「じゃあ、このカードで」

 正午が財布からカードを出して音緒に手渡す。

「暗証番号はオレの誕生日だから」

「「「………………………」」」

 あまりに軽いので三人を代表してカナタが忠告することにした。

「あのさ、音緒ちゃんを信用する君の人物眼に文句はつけないとしましょう。きっと、音緒ちゃんは、このカードを悪用してショーゴを困らせたりしない。けど、音緒ちゃんが別の誰かに欺される可能性とか、考えて行動しなよ」

「………。あ、そっか。音緒ちゃん、素直だから、人に欺されるかもしれないよな」

「お前もな!!」

「あ、お前って言った!」

「えばる前に暗証番号を誕生日にするなっ!! で、それをアタシたちといえど人に教えるな! カードを人に預けるな!! 社会人になれ!! アタシは帰る!!」

 言いたい放題に怒鳴ったカナタは皿を洗って帰ってしまった。

「カナタめぇ……、飲酒運転で帰るカナタこそ社会人じゃないぞ」

「「……それは同感」」

 呻りを上げているエンジン音と四階まで匂ってくるタイヤの焦げた匂い、まだ部屋に残っているウイスキーの香り、どれもカナタの残り香だった。

「じゃあ、ショーゴくん、このカード預かっていいよね♪」

「あ、うん…いいよ」

「明日には返しに来るから。今夜中に登録しておくね」

「面倒なことさせて、ごめん。もし、儲かったら何かプレゼントするよ」

「きゃはっ♪ いいの、いいの、紹介したのは私なんだから、むしろ私がプレゼントすべき♪ じゃ、おやすみなさい」

「「おやすみーい」」

 正午と響は玄関まで音緒を見送った。

 

 

 

 

 

 半年ばかり月日が流れ、暑い夏が来た。

 花祭家の広大な庭にあるガラス張りのテラスで正午と花祭果凛は向き合ってイスにかけ、アイスコーヒーを飲んでいる。

「正午くんが、紹介してほしいっていうなら……本当は事務所を通してほしいけれど……できなくもないわ」

 果凛はアイスコーヒーの隣にある2リットルのペットボトルを見つめ、メイドとして使っている野乃原葉夜に用意させたグラスに中身を注いだ。

 無色透明な液体はグラスの中で陽光を反射してキラキラと光っている。

「これを……さりげなく宣伝すれば、いいのね」

 とくに何の変哲もない、ただの水に見えた。

「かなり健康にいい水でさ。オレも飲んでるよ」

「……フィンランドの水よね」

「そうそう♪ あそこって北極圏でさ、何万年も前の水が氷になって残ってるって。それを日本で売ってるんだ。特別な販売ルートでね」

「フィンラ・カンパニー……聞いたことのない会社ね」

「半年ほど前にオープンしたばかりらしいけど、本場のフィンランドでは何百年もの歴史がある会社だってさ」

「ヨーロッパのミネラルウォーターなら、いくつか知っているし、モデル仲間でも飲んでいる人はいるわ。私が雑誌のインタビューで、これを紹介しても爆発的に売れる保証はないけど、それでもいい?」

「雑誌に写真が載れば、充分だよ」

「……。特別な販売ルートって?」

「う~ん……会員制の紹介販売みたいな感じ。詳しいことは、また信から説明させるよ。でも、りかりんは芸能人だから、会員には勧誘しないって。事務所的にも芸能人的にも」

「なるほど♪ ………つまり、私を利用しようって、わけね?」

「ひらたくいうと、そうなるよ。イヤかな?」

「……。正午くんからの頼みなら……、露骨に宣伝というわけじゃなくてインタビューに答える形での、私が愛用している健康食品の一つ、みたいな程度で……やってもいいけど、一つ条件があるの」

「どんな?」

「正午くんのマンションの合い鍵、私もほしいなァ。カナタとか、しょっちゅう遊びにいってるんでしょ? 事務所も家も、やっぱり気が抜けなくて。どこか安らげる場所がほしいの。正午くんなら中学からの友達だし、人に見せられないような私の素顔でも驚かないでくれるもん」

「お安いご用だよ。いつでも来て」

 正午は合い鍵とサンプル用のペッドボトルを1ダース置いていった。

 

 

 

 翌週、南翔太にファミレスへと呼び出された健はミネラルウォーター入りのペッドボトルを見せられて、タメ息をついた。

「あのさ……翔太って、こういう商法には手を出さないんじゃなかったっけ?」

「その様子だと、すでに聴いているな?」

「聴いてるよ。それ一本1500円だよね。で、人に紹介するとピラミッドの一人目から10%、三段階目まで10%で、4から5段階までも5%のキックバック。ネズミ講みたいだけど一応は合法的、だろ? 信くんに誘われたけど断ったよ」

「オレも始めは怪しいと思ったけどな、この手の話って、誰から聴くかによるしな。たしかに信くんも参加してる。でも、オレに紹介されてきたライン上に信くんはいない。オレは意外な人物から紹介されたぞ」

「誰?」

「お前の、もっとも身近な人物だ」

「……まさか、鷹…寿々奈さん?」

「……………。身近だけど距離的には、ものすごく離れてる人だ。地球の裏側あたりにいる」

「ほたる?!」

「正解♪」

「あ、そういえば、ほたるが先々週、フィンランドの水を飲み始めたら絶好調とか、メールで書いてあったかも。ボクは興味がなかったから、ふーんって感じだったけど」

「オレは面白そうだと思って電話をかけたんだ。そしたら、なんと、ほたるちゃんに紹介したのは誰だと思う?」

「………さあ?」

「日本にいる、ほたるちゃんと健にとって身近な人物だ」

「………静流さんか……トト?」

「どっちか選べよ」

「静流さん?」

「ハズレ、飛世さんだ」

「でもさ、トトは日本にいるのに、どうやって?」

「メールか何かだろ、オレだって、ほたるちゃんからメールをもらったのがキッカケだからさ」

「ほたるとメールやりとりあるんだ?」

「まーな」

「…、トトは誰から紹介されたの?」

「音羽かおる、っていう人。で、その音羽さんに紹介したのが今坂唯笑さん。この人は看護婦でさ、半信半疑で飲んでみたり病院の患者に紹介したら、かなり結果がよかったって話だ」

「へぇぇ…看護婦さんまで…」

「この水の良さは、すでに論文にもなって医学博士が発表してるぞ。マイケル・ジャン博士とか」

「へぇぇ……って、信くんも、それは言ってたけど、なんとなく信用できなくて」

「話す人によるからな……信憑性は」

「信くんが憑いてると、信憑性がないよね」

「………うまいこと言うな。……それは、いいとして、その今坂さんは、この会社に直接のコネがあって日本オープン前から知っていたらしいぞ。先月、ようやく正式オープンしたばかりの会社だ」

「へぇぇ……って、信くんも、それは言ってたけど、なんとなく信用できなくて」

「お前、……さっきとセリフ、まんまだぞ」

「ははは……で、今坂さんは、どうして?」

「なんのことはない、単に社長と幼馴染みだったらしい」

「あ、なるほど」

「ということで、健。お前も入会してこれを飲め。きっと体調がよくなる。そして、いいとわかったら、人に勧めろ、とくに寿々奈さんに」

「…う~……ん………まあ、翔太が言うなら信じてみるよ。普通に飲めばいいの?」

「普通に飲んでもいいけど、一番の飲み方は、夜寝る前に一杯飲んで、そのコップに、さらに注いで一晩おいておく、で、朝が目が覚めて一番にベッドから起きずに、一杯飲み、頭の中でフィンランドや北極圏の美しい光景をイメージして、そのイメージした清水が自分の身体に行き渡るようなイメージもするんだ。だいたい10分くらい」

「ふーーん……イメージトレーニング入ってるね」

「ああ、なつかしいな。オレらも全国大会前にはイメージトレーニングもしたよな」

「なつかしいね。………まあ、あの頃のサッカー仲間の翔太が紹介してくれたんだし、そんなに高価でもないから、試してみるよ。もし、よかったら寿々奈さんにもプレゼントしてみよ」

 健は一度は断った契約を翔太から紹介されたので申し込んだ。

 

 

 

 翌週、真新しい一戸建ての藤原家で、けんたろうに授乳中の雅へ、歩は熱心に説明していた。

「さよりんの兄貴から回ってきた話やけど、ほんまに、この水は最高の水やよ♪」

「なるほど。…あ~、よしよし♪ いい子ね、けんたろう、気にしないで吸いなさい」

 意識のほとんどは親友よりも乳飲み子に向いているが、まったく聞いていなかったわけでもない。右を飲み終えてくれたので、左の母乳を与えつつ、歩に向き直った。

「オリンピック選手も飲んでいるとか?」

「そうそう♪ 私らの先輩の寿々奈選手! ほかにもモデルで活躍中のKARINも雑誌の中で、さりげなく秘密の美容法って紹介してはる」

「美容はともかく、けんたろうには健康に育ってほしいですしね。授乳中の女性が飲んでも問題ないのですか?」

「もちろん、そんなことは勧める前に会社に訊いてみたよ。ぜんぜん問題ないそうや」

「そうですか。一本1500円で一週間に一本、月に6000円で送料別の宅配なら、買い物に出にくい今の私にはありがたいですから、しばらく購入してみましょう」

 すっかり母親になった雅は子供のために契約した。

 

 

 

 日暮荘の一階、春人の部屋で香月は契約書を持って迫っていた。

「この水でカレーを煮込むと通常の三倍うまいぞ、春人!」

「……香月……、香月の味覚は通常の味覚じゃないからさ……。だいたい、その水ってマルチ商法だろ? 木瀬さんから回ってきた話に、なんで香月が乗るんだよ? 前にも問題にしたじゃないか」

「あんな着物なんて値段があってないような押し売り商法の話とは、ぜんぜん違うからだ」

「そういって、半年前にスカイなんとかって商法をオレに紹介してムリヤリ入会させたじゃないか。あれは、どうなったんだよ? 儲かったのか?」

「あれは……まあ、あれは失敗だ。ビジネスには成功もあれば失敗もある。けど、契約通りホームページのスペースはレンタルされたろ? 利用するかしないかは個人の問題だ」

「まあ、CUM研のサイト立てたけどさ……更新してないけど。……また、このミネラルウォーターだって怪しいぞ。外国企業なんだろ? 日本人カモにするつもりだって」

「私も最初は疑ったよ。けどな、歩がもってきた医学論文、どうせデタラメだろうと思ったけど、英文を読んでみたら、どうにも本当に実験で良好な結果がえられているらしい」

「へぇぇ……よく英文なんて読んだな」

「大学四年生だからな、私は」

「三年生で悪かったな!」

「いや、羨ましいよ。就職活動しないでいいからな」

「そうだよ、就職活動しろよ、留年したオレの相手なんてしてないでさ」

「ある意味、就職活動より大事だ。これはチャンスなんだ」

「またチャンスとかサクセスとか、そういう単語に踊らされて……」

「この水は違う! 論文では本当に糖尿病やボケにも効いてる。それにフィンラ・カンパニーは医学の本場ドイツの製薬会社とも資本関係にあるらしい。私だって、なんだか体調がいい」

「気のせいだって」

「気力も充実してる」

「……」

「もしかしたら、美海の記憶喪失にも効くかもしれないぞ」

「………美海の話はしないでくれ。オレも忘れたいよ。美海みたいに、さっぱりと」

「そうか………すまない。けど、万に一つということもある。あすかを通して美海に紹介してみるのもいい。あすかも最近、糖尿病になりそうだと悩んでいたし。それに、春人、お前も飲め」

「オレは病人じゃないぞ」

「雄介が死んでから、病人みたいなものだ!」

「………」

「この頃、私はお前が同性愛者で雄介を好きだったんじゃないかと思うほどだ。三回忌も過ぎたのに、いつまでも、いつまでも、サークル活動も授業もテキトーにして、部屋にこもりっきり!」

「オレは同性愛者じゃない! ちゃんと、美海のことは好きだったんだ!」

「従姉妹とか、同性とか、きわどいラインを狙うなよ。ちゃんと普通に、同級生とか、サークル仲間から恋人を見つけろ」

「オレと同期でサークル仲間って、木瀬さんしかいないぞ」

「……。いいから、これを毎日飲め! 少しは元気になるさ! あと、論文の和訳も置いておいてやるから、読んでおけ!」

「命令するなよ」

「いいか、言いたくないが忠告してやる」

「…な……なんだよ…」

「文学部を留年して卒業する春人に、まともな就職はないっ!」

「うぐっ……痛いです。先生、胸が痛いです! 頭も痛みます!」

「そうやってフザけていられるうちはいい」

「……」

「だが、すぐに現実は迫ってくるぞ」

「…………なんとか就職するさ」

「ああ、基本給14万とかなら、あるだろうな」

「バイトって手もある。しばらくフリーターをして探すさ」

「大学卒業してまでバイトじゃあ、ご両親が泣くぞ! 結婚もできない!」

「結婚なんて……しなけりゃいい…」

「やっぱりホモか?! 今度は修司か?!」

「違うって! 別に今から結婚なんて考えなくていいじゃないか!」

「目を覚ませ春人! もう映画で成功するのはムリだ! というか、その努力さえしてないだろ?! 美海のシナリオ一本きり! あれが我々CUM研の最初で最後の一本になってしまう! もう終わりだ!」

「……」

「だいたいバイトなんて時給800円だぞ、それでアパートの家賃と年金と健康保険と電気ガス水道代を払ったら、いくら残る?」

「3万円くらい…かな…」

「そうだ! 現実が見えてるじゃないか! お前の生活は一日1000円だ!」

「………。…みんな、そんなもんだよ…」

「だからこそ! これからはサイドビジネスの時代! ダブルワークの時代なんだ!」

「そっちに持って行くのかよ…」

「いいか、このフィンラ・カンパニーの毎月購入を一人紹介すれば、6000円の10%で600円だ」

「時給にもならないじゃん」

「一人が五人に紹介したとしよう。600円だから3000円のマージンがもらえるな。これで、春人の生活が一週間分だ」

「でも、マージンをもらうには自分だって6000円以上を毎月買ってないとダメなんだろ。それじゃマイナスだし、そもそも2リットルで1500円なんて水として高すぎるぞ」

「このフィンランドの古代水を1500円とは、安い方だ。まあ、聞け。さらに自分が紹介した五人が五人に紹介すれば傘下は30人だ。二段階目も10%もらえるので1万8000円。これが毎月もらえる」

「……毎月か…」

「毎月はすごいぞ。着物を売りつけて一回きり5万もらうより、毎月もらえる数万円。就職して働いて、給料の昇給が毎年あるとは限らない。昇給で1万8000円も上がったら万々歳の時代に、たった五人が五人に紹介するだけで、差し引いても1万2000円のプラスだ」

「………」

「さらに、その五人が五人に紹介してみろ、三段階目も10%だから、125人プラス30人かける600円で93000円だ」

「すげぇっ! 十万かよ?!」

「やっと、すごさがわかったか。けど、まだまだだ。ここから先がすごい。さらに四段階目が5%もらえるから、625人かける300円で187500円プラス、さっきの93000円を合わせれば月給28万0500円だぞ」

「……月給30万か……それだけあれば、こんなボロアパートじゃなくて、河の向こうにあるようなマンションに住めるかも」

「住めるぞ。実は日本で、すでに大きく成功している人が二人いる。稲穂信さんと今坂唯笑さんというが、この二人は日本オープン前から会社と直接契約で、持ち込んでくれた。私のアップラインももとをたどれば、稲穂さんなんだ」

「……あの、家賃滞納で追い出された稲穂?」

「そう、そんな苦労話も前回のセミナーでされていた。稲穂さんから見て私は四段階目。ちなみに五段階目の計算をすると、3125人かける300円で93万7500円、さっきと合わせて121万8000円の生活ができる! 稲穂さんは、すでに春人が言ったマンションの五階を借りきってるんだ」

「へぇぇぇ…最上階を?」

「ああ、昔っから稲穂さんは今のダウンラインの一人でもある加賀さんが、何の苦労もなくボッチャン育ちで、あのマンションに住めていたころから、ずっと自力で住んでやりたいと思っていたそうだ。その夢をかなえたってことだな」

「加賀さんって去年卒業するまで、一度も学食で飯を喰わなかったって?」

「そう、あの加賀さんだ」

「普通の学生は貧乏で学食を使うのが当たり前なのに、毎日のようにカフェで過ごしていた人か……その人も、このビジネスを?」

「ああ、彼もなかなかだ。なぜか、手広く女性に声かけするのが、うまくて女優のKARINまで、ほら、この雑誌の切り抜きを見ろ。彼女も愛用してる」

「へぇぇ…」

「他にもオリンピック選手やピアニストまでが、この水を愛用しているんだ。間違いない、この水は大ブレイクする。今坂さんなんて病院の患者へ広めたおかげで看護婦としての給料をはるかに超える収入だそうだ」

「………そんなに、すごいのか……」

「ああ、さっきは五人でのシュミレーションだったが、これが二人でも、なかなか、逆に10人でシュミレーションすれば、すごいことになる」

「………五人はムリでも三人くらいなら……」

「そうだ。その意気だ。いっしょに成功しよう! 私たちは仲間だ! 私は仲間を大切にしたいんだ!」

「香月……」

 やっぱり持つべきものは友人だと、春人は感動しながらサインし、そのまま小津修司と日名あすかを香月と勧誘した。

 

 

 

 仙堂麻尋は深夜のアルバイトを終えて、風呂に入り眠る前にフィンラ・カンパニーの水を飲み、さらに枕元にグラスを置くと、ベッドに正座して果凛のポスターを見上げた。

「私も少しはキレイになれますように♪」

 パンパン♪

 神社に祈るように拍手して、頭を下げている。

 尊敬から尊崇、崇拝に変わりつつある芸能人も愛用している水をバイト仲間の相摩希から紹介され、すぐに契約した。しばらくは自分もサイドビジネスとして収入につなげようと考えてみたけれど、友達はいない、恋人もいない、バイト仲間は、すでに全員が知っていたので、もう麻尋の人間関係で声をかけられそうな者はいなかった。

「おやすみなさい、果凛さま」

 けれど、そんなことは、どうでもいい、果凛と同じ水を飲んでいる、その喜びだけで、夜勤の疲れも飛んでいく、毎日が絶好調だった。

 今まで愛用してきた栄養ドリンクの代わりにマイフェレバリットドリンクとして、朝も昼も夜も、水分の全てはフィンラ・カンパニーから摂っているので、毎月の支払いは36000円にもなるけれど、深夜バイトなので時給は高いし、ルサックで食事も出るので、なんとか続けていける。

「果凛さまァ~♪ 夢で会えますように」

 この頃、自分が同性愛者ではないかと想う日もあるほど、果凛との一体感を覚える。毎日が幸せだった。たまに飲みすぎて両親の夢を見てオネショする日以外は。

 

 

 

 正午のマンションを訪ねたカナタは仲間はずれだった。

「アタシは飲まない。そんな水、いらない」

「別にムリにとはいわないけどさ。カナタ、いつも呑みすぎだろ? 肝臓とかにも、いいらしいぞ」

「……いらない」

 完全に仲間はずれになっている。タイミングがいいのか、悪いのか、部屋には音緒と響、沙子、那由多、果凛、葉夜までいた。みんな抵抗無くミネラルウォーターとしてフィンラ・カンパニーの水を飲んでいる。

「アホみたい」

 カナタは果凛を睨んだ。

「だいたい、勝手に雑誌で紹介したの、あれって事務所的に問題になったでしょ?」

「私が私生活で、どんな水を飲むかは自由、そーゆー結論で落ち着いたよね♪」

「………。のんまで飲んでるの?」

「秘密の水♪」

「……」

「ショーゴくんはカナタさんのためを思って、勧めてくれてるから…」

 助言した音緒が睨まれる。

「アタシに指図する気?」

「そんなつもりじゃ……ね、響ちゃん」

「超ゴージャスな水だよ」

「アホ。たかが1500円の水のどこが。本当の命の水っていうのは、これ」

 カナタは赤く塗ってあるカナタ専用の棚から高級ウイスキーを出した。

「京都の天然水で蒸留されて30年も寝かされたサントリーの最高級ウイスキー♪ おちょこ一杯でも2000円。瓶の定価が12万円♪」

 きゅぽっ♪ とくとくとく…

 グラスに注ぐと美味しそうに喉を鳴らして一気飲みしてくれた。

「あ~美味し♪」

「だから、呑むなって。運転して帰るんだろ?」

「今日は泊まる!」

「「「「「……………………」」」」」

 余計に仲間はずれ感が増した。

 そして那由多がケンカを売る。

「サントリーのウイスキーってさ、ヨーロッパ製と違って水で割ることを前提にブレンドされてるって知ってる?」

「知ってるけどアタシは割らない。ウイスキーはストレート。不純物を入れるのは邪道」

「あっそ。っていうか、私、酒呑みキライ。ね、沙子」

「なゆちゃん……可哀想だよ、みんなして仲間はずれにするの、とっても、つらいよ。ね、カナタちゃん、みんなと仲直りしよ?」

「……………………」

 カナタが不愉快そうに顔を逸らして二杯目のウイスキーを一気飲みした。

「…………ヒクッ……あ~美味し♪ ……」

「沙子もね、昔、仲間はずれにされたことがあるから、わかるよ?」

「………………………」

 黙っているカナタに沙子はウイスキーを酌した。はるか昔、まだ父親を慕っていた頃に、よく書斎にいた父へ酌したことのある沙子の手つきは確かだった。

「淋しいよね」

「……………………美味し♪ ……ヒクッ…」

 いつのまにか四杯、五杯と沙子の酌で呑んでいたカナタは酔いが回ってバランスを崩し、沙子にもたれかかった。

「別に……淋しくなんかない……ヒクッ…」

「……。沙子も、これ、もらっていい?」

「……呑みたきゃ…呑めば……ヒクッ…」

 六杯目を半分ほどで残しているグラスをカナタは押しつけるように渡した。

 見ていた那由多が驚く。

「沙子、呑めるの?!」

「……あの人の子だから」

「………。笑い上戸とか、泣き上戸にしてよ。酔って暴れるタチなら私は避難するしね」

 那由多はクッションを抱いて、沙子から離れた。別に父親は酔って暴れる男ではなかったし、むしろ静かに肩身が狭そうに呑む男だったけれど、沙子に流れている血の50%を那由多は知らない。もし、酔って暴れるタイプなら警察を呼んで麻酔銃が必要かもしれない。

「いただきます♪」

「「「「「……………………」」」」」

「うん、美味しいね♪」

 沙子はウイスキーを飲み干しても豹変することはなかった。少し頬が赤くなっている程度で、ごく普通の変化しかない。那由多はクッションをおろした。

「一杯くらいにしときなよ」

「ごちそうさま♪ カナタちゃん、もっと呑む?」

「呑む」

 七杯目を沙子は丁寧に注いで渡し、そして誰にも聞こえない声でカナタの耳元に囁く。

「やっぱり、お酒の勢いをかりないと言えなかったけど……ごめんなさい、このキズ、まだ消えないんだね」

「っ……別に、……気にしてない」

「本当に、ごめんなさい。……これからは……仲良くしてね」

「……………ヒクッ……ひっく……」

 カナタは飲み干した七杯目をテーブルに置いた。

「……別に、……あれは事故……沙子ちゃんは悪くないよ……っ…ひっく……ヒクッ……う、呑みすぎたかも……」

 カナタはテーブルに置いたグラスを正午へと滑らせた。

「ショーゴ、水」

「これでいいか?」

 正午がペッドボトルを開けている。

「………なんでも、いい。こだわらない主義でしょ?」

「たはっ♪」

 正午が注いでくれた水を飲み干したカナタは感想を零した。

「……普通の水じゃん」

「だろ?」

「……………」

 自分や沙子はともかく、音緒や響の経済状態で1500円の水は高いと思うけれど、もう、こだわる気持ちも、わだかまりも無かった。

 

 

 

 詩音は智也とホテルの一室で夜景を見下ろしながら、乾杯していた。

「なんとか、ここまで来たな」

「はい、やっと損益分岐点を超えてくれました」

「750万円だったよな。総売上で」

「はい、派遣会社からのスタッフの人件費だけで300万ほど必要ですしね。これまでの投資を取り戻すことを計算にいれて、やっと、明日からプラスになります」

「会社を興して成功させるって、大変だったなァ……楽して儲かるってことは、ないな」

「商品の調達コストは一本200円なので、利益幅は大きいのですけれど、40%も仲介者たちに分配しますからね」

「フィンランドで、何百年も前から休眠してた会社を、ただ同然で買い取って歴史があるように見せて、売り込んだもんな」

「この業界では、多いことらしいです。どこかの健康食品会社も、オランダ王室の関係会社と資本提携があるように見せていますし、私たちのフィンラ・カンパニーもドイツの製薬会社と関係があるように見せるため、ほんの少しだけ株式を買いましたしね」

「一株でも株を持ってれば資本関係があるって表現はウソじゃないからな♪ 信が頑張ってくれたおかげで、早く広まったよなぁ。オリンピック選手だった寿々奈さんが、いい広告材料になったけど、いっそ最初から彼女を誘えばよかったんじゃないか?」

「私は鷹乃には向いていないと思ったのです。それに最初から当社が抱き込んでは、広告だというのが誰の目にも明らかになります。自然な形で鷹乃に話が行くのが一番だったのです」

「なるほどね」

 智也はワイングラスをテーブルに置いて、妻の肩を抱いた。

「そろそろ教えてくれよ。あの水の正体。本当に論文通りなのか?」

「クスッ…」

 髪を撫でられた詩音は気持ちよさそうに微笑んだ。

「いいえ、あの論文は捏造ですよ。マイケル・ジャン博士も、もうこの世にはいません」

「………殺したとか?」

「私が、そんなことをする人間に見えますか?」

「見えない」

「種明かしは、こうです。父のツテで医学博士を捜してもらいました。それも、最近になって自然に死亡していた博士を」

「病死とか、老衰?」

「別に事故死でもいいのですが、死んでいることが重要なのです。Dead men tell no tales.というじゃないですか」

「死人は………何も言わない…?」

「意訳すると、死人に口なしですね。すでに死んでいる博士が、論文を書いたことにすれば、本人が書いていないと否定することもない、実験結果や研究期間に対する質問もできない、すべては闇の中、ただ、論文が書かれていたという当社の主張があるだけ。すでに死んだ人間が、あることをした、と主張するのは簡単でも、していない、と反論するのは難しいものです」

「なるほどなァ……でもさ、唯笑も患者に広めて、かなり病気が軽くなった人とか、実際にいるしさ。みなもちゃんも体調がいいって喜んでいたぞ? マジで効くのか?」

「一応、ちゃんとした実在する医学博士の論文も参考にしています。甲田光雄という先生ですが、彼は朝食を抜くことが健康の秘訣だと結論しています。当社は朝食の代わりに水を飲むようセミナーで案内していますから、それを実行すれば、ある程度は血液検査の結果もよくなりますし、プラシーボ効果も高いです」

「病は気から、か♪」

「あと、創価学会などの一部や、いくつかの宗教勧誘でも同じように一晩置いた水を朝一番に飲むことを勧めていますね。茶道でも一番とり水を珍重しています」

「宗教まで参考にしたのか……。でもさ、この頃、フィンランドからの船便が遅れて、実は藤川の名水を混ぜてるだろ?」

「いいえ、もう、フィンランドの水はやめました。今は100%藤川の天然水ですよ」

「……それってヤバくない?」

「おかげで調達コストが下がり、損益分岐点を早く超えたのです。どうせ、誰も水の違いなんて私以外はわかっていません」

「なるほどな……思ったより、儲からなかったからな。ここからは、儲かりそうだけど」

「あまり長くは伸びないでしょうね。手放すタイミングを考えないと…」

「藤川の天然水だってバレても、やばいしな。あれだと地元の商店で198円で売ってるもんなァ」

「そんなことはありません。時間の流れを人間に限定せず、地球規模で考えれば、海水の全ては一度は恐竜の体内にあった計算になるそうです」

「へぇぇ…」

「藤川で採取された井戸水が、一度もフィンランドの水ではなかったと証明する手だてはありません。なにより、フィンランド人でもある私が、これはフィンランドの水です、と言えば、それでフィンランドの水なのです」

「……………。すごい発想だな」

「魂が流転するのかは科学的に不明ですが、水は流転します。もしかしたら、数百年前に夫婦だったカモメの体内にあった水が、今も私と智也さんに流れているのかも…」

 そう囁いて近づいてくる妻を智也は優しく抱きしめた。

「水も魂もカネも流転するさ。何度でもオレと詩音は、いっしょに幸せになろう」

「はい」

 幸せな夜が更けていった。

 

 

 

 信が住みはじめたマンションに案内された音羽かおるは目を輝かせた。

「うわぁ♪ すごいじゃない、稲穂くん」

「まあねン♪ この五階は全て合わせて一つだから。ちなみに四階には正午が住んでる。学生用のワンルームに」

「ここは6LDK? すっごい広い♪ 家賃いくら?」

「月に75万♪」

「朝凪荘から日暮荘、さらにホームレスしてた人間とは思えないね♪」

「音羽さん、オレは挫折しても、ビックになれる男さ」

 信は新居を誇りつつ、かおるの肩に手を回した。

「ふーん♪ ここなら、私の職場から近いしね。遊びにきてもいいかなァ~」

「かおるが来てくれるなら、専用の部屋を決めるよ。ここなんか、どう?」

「きゃは♪ いきなり同棲しろって? 稲穂くん、調子に乗ってるね」

「来たいとき、来てくれればいいよ」

「ふーーん♪ あ、ここも広いね」

 かおるは専用にしてもいいと言われた部屋を覗いて喜んでいる。

「あ、クローゼットもある♪ すっごいね。マジでセレブって感じ」

「気に入ってくれてよかった。実は最初から、かおるの部屋はここかなって想ったんだ」

「……信くん……もおっ! 成功したからって調子に乗りすぎ♪」

 かおるは個室のドアに「かおるの部屋」と彫られたプレートをかけられて用意の良さに照れて信を叩いた。

「すごいね♪ 本当に」

「ま、智也と双海さんのおかげさ」

「ご謙遜♪ 私は唯笑ちゃんから紹介されて、なんとなくトトに回したけど、信くんは真剣にビジネスとして展開したんだァ……いま、月収いくらくらい?」

「どんどん伸びてるから固定してないけど、来月は1500万かもしれない。今月は350万だけどね」

「……すっごい……」

 かおるは肩に回されている手に頬をつけた。

「映画会社って給料安いのよねぇ」

「かおるの部屋も決まったし、どこかレストランでも行こうか。イタリア料理なんて、どう? その後、ブティックでも回ろう。なにか、プレゼントするよ。今日の記念に」

「う~ん♪ 調子に乗ってていいねぇ」

 かおるはクスクスと笑って、その気になった。

「じゃあ、指輪とかネダろうかな♪ でも100インチの液晶もほしいかな♪ 二人で映画みるのにね」

「なんでも、どうぞ♪」

 二人して玄関へ戻ると、玄関脇の部屋のドアが開いた。

「あ、信さん、おかえりなさいです。ちょっと、うたた寝して出迎えられなくて」

「いいよ、さよりん。疲れてる?」

「ぜんぜん平気なのです。ちょっと引っ越しが終わってホッとしただけですよ。あ、音羽さんですか? お話は聞いてます。はじめまして、さよりんといいます。よろしくです」

「え…ええ、よろしく、…はじめまして、音羽かおるです」

「どうか仲良くしてくださいです。いっしょに暮らしてケンカするのは、いやですから」

「…え…ええ…、……妹さん? お姉さんがいるっていうのは前に聞いていたけど…」

「紹介するよ、さよりん、紗代里っていうんだけど、苗字は秘密♪ オレの恋人さ」

「はいなのです!」

「………」

 かおるが黙っているので、信は気を利かせて紗代里に紹介する。

「音羽かおる、高校のとき同じクラスだったこともあるんだ。今日からオレの恋人として、ときどき遊びに来るけど、ケンカしないでくれよ」

「はいなのです!」

「……」

 かおるは肩を抱かれたまま信を見上げてみた。

「いくつか質問していい?」

「どうぞ♪」

「何人くらい恋人がいる予定?」

「五人かな」

「へぇぇ……6LDKにしては遠慮してるね♪ 部屋も決まってるの?」

「本人の希望にもよるけど、予定は、あそこと、あそこ、それに、あそこ」

 信が指した部屋のドアを、かおるは参考までに覗いてみる。すでにドアのプレートが用意され「ふみきの部屋」と「唯笑の部屋」「麻尋の部屋」があった。

「すごいね♪ ところで、信くんの恋人でいるための条件とかあるの?」

「二つあるよ」

「二つとも聞かせて」

「一つは他の恋人とケンカしないで仲良くすること」

「なるほど♪ それは必須ね。もう一つは?」

「オレが旅行中に死んでも、いつまでも悲しんだりせず、笑って忘れてくれること♪」

「きゃはっ♪ それ、自信ある! 絶対笑っちゃう♪ キャハハッハハッキャハハハッハッ♪」

「そりゃ良かった。ははははは♪」

「キャハハッハハッキャハハハッハッ♪」

「ははははははは♪」

「キャハハッハハッキャハハハッハッ…はぁ…。あ、ケチな女だって思われるかもしれないけど、2年前に稲穂くんが困ってるとき5000円貸してあげたよね? 出世払いで倍返し、って約束で」

「あ、そんなこともあったな」

「一万円、返してくれる?」

「もちろん、出世払いさせてもらうよ」

 信はブランド物の財布から一万円札を出して、かおるに渡した。

「ありがと♪」

「こちらこそ」

「大笑いしたら、喉渇いちゃった。あの水、ある?」

「私がもってくるなのです」

「悪いね」

 かおるは紗代里からペッドボトルを受け取り、一口飲むと微笑んだ。

「これって万病に効くらしいね」

「そこまでじゃないけど、かなりいいよ」

「じゃあ…」

 かおるは信の頭へ向けてペッドボトルを逆さにした。

「脳、ゆすげ! 頭、冷やせ! 調子に乗るにもほどがある!!」

 バコッ!

 思いっきりペッドボトルで信を叩くと、かおるは部屋を出た。エレベーターに乗り、一階のボタンを押したけれど、四階で音緒と響が乗ってきた。

「「「…………」」」

 あまり顔見知りではないので、無言で過ごし、マンションの外に出ると、かおるは五階を見上げた。

「いくらなんでも調子に乗りすぎ。………絶対、なにか裏がありそう。知り合いのルポライターに調べさせてみよ」

 一人の女として静かに怒りを燃やしていた。

 

 

 

 半年後、かおるはフィンラ・カンパニーの社長室に特攻をかけていた。

「調べはついてるよ! 藤川の天然水をフィンランドの水だって偽って売っているでしょ?! 双海っ!」

「音羽さん、なにを証拠に?」

 詩音は冷然と見返したけれど、かおるも負けずにルポライターに調べさせた証拠書類のコピーを執務机に叩きつけた。

「これが動かぬ証拠よ!」

「……よく調べましたね」

 速読ができる詩音は書類を読み、タメ息をついた。

「それで?」

「来週の週刊誌に載せる予定だから覚悟しなさい!」

「………智也さん、金庫を開けてください」

「ああ」

 智也は社長室の金庫を開け、詩音は札束を執務机に積んだ。

「音羽さん、いくら欲しいですか?」

「……………。……い、…いらないわよ!」

「では、何が目的ですか? まさか、正義の味方だ、なんて言いませんよね?」

「っ……。…社会正義って日本語を知ってる?」

「正義、justice社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由平等的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている、といったところでしょうか」

「ぅ………いちいち定義まで語ってくれなくても、けっこうよ! わかっているなら、こんな商売やめなさい!!」

「我が社の行為は正義に背いているでしょうか?」

「当ったり前よ!!」

「私はそうは思いません」

「フザけないで! たった198円の藤川の天然水をフィンランドの水だって1500円で売りつけてるじゃない!!」

「2リットルのH2Oを1500円の通貨と交換する、という契約が、それほど不当ですか? 同じ水じゃないですか、藤川でもフィンランドでも」

「健康にいいとか! 病気が治るとか! そんな宣伝文句を付けてるじゃない!」

「屏風と商人は直ぐでは立たぬ、日本の諺ですね。宣伝文句が多少誇大なのは社会常識です」

「みんなフィンランドの水だと思って飲んでるのに!」

「では、これからも、そう思ってご愛飲くださる方が、みなさまにとって幸せではないでしょうか。必ずしも真実を知る必要はない。つらい現実よりも、甘い幻惑の方がいい、どうせ、同じ水なのですよ」

「病人だって信じて飲んでるのよ?! 罪悪感とかないの?!」

「当社は治るかもしれない、という偽りの希望を与えますが、完治するというウソは伝えていません。どうせ、治らない病気の絶望より、死の瞬間まで希望にすがっている方が幸せではないですか? その希望が偽りだと報道されたら、最期の最期にまで裏切られた気持ちで死ななければならない、音羽さんのしようとしていることの方が、多くの不幸を産み、多くの幸せを壊す行為です」

「っ……へ…屁理屈よ!」

「現実です」

「フィンランドの水じゃないことも現実よ!」

「藤川の天然水だって、富士山に降り注ぐ前はロシアの湿地に、ロシアの湿地に降り注ぐ前はフィンランドの湖に、そう考えれば…」

「欺瞞よ!」

「自社欺瞞といったところですが、同じ雨ですよ。ただフィンランドというブランドに踊らされている人々が愚かなのです」

「でも、フィンランドの水には効果があるって!! コスト節約しないで正直にフィンランドの水を売ればいいじゃない!!」

「ありません」

「ぇ……」

「フィンランドの水は普通の水です。病気が治ったりしません。錯覚です。その錯覚で血液検査の値が良くなるのです。だから、藤川の天然水でも、水道水でも同じです」

「……そ……それって……詐欺?」

「水を売っている実体はあります。詐欺ではありません、水商売かもしれませんが…」

「どうして、そんなウソを?!」

「健康食品を開発するコストを削減するためです」

「……」

「さらに、藤川の天然水を使ったことで、フィンランドから輸入するコストと燃料を節約し、CO2排出削減にも協力しています。地球に優しいでしょう? そもそも身土不二といい、甲田博士も生き物は生まれ育った土地のものを利用するのが理にかなっていると云われています。わざわざフィンランドの水を飲むなんて生き物として間違っています」

「…あ……あきれた確信犯ね!!」

「私は人々に夢を売り、甘い水を飲ませてあげたのです。しかも、形のある夢を」

「詐欺よ!」

「副作用もなく、なんとなく体調がいい気になれる、ステキな水ですよ」

「悪徳商法じゃない!」

「ビジネスチャンスも与えてあげたのです。何人も成功させ、何百人という人が小遣い銭を稼いで喜んでいますよ?」

「もともと巻き上げたお金でしょうが?!」

「2リットルの水と交換した通貨です」

「……。どうあっても、やめるつもりはないわけ?」

「音羽さんこそ、ここまで話してあげたのですから、義理を感じて黙秘してください。事実を発表しても、誰も幸せにはなりません。せいぜい、音羽さんの功名心を満たすくらいですね?」

「………。事実は事実よ! 発表するから!」

「……………これでも?」

 詩音は執務机に積んだ札束を抱え、かおるの前に差し出したけれど、もう金銭に目を曇らせるつもりはなかった。

「お金の問題じゃないの!!」

「……そうですか、とても残念です。……智也」

 詩音が合図すると智也は社長室のドアに鍵を開けた。

「ちょ…ちょっと、監禁する気?」

「いいえ」

 詩音は執務机の引き出しを開けた。そこには文房具も書類もなく、一丁の拳銃だけが入っていた。

 ガチャ…

「とても残念です」

「っ! こ…殺す気?! やっぱりマイケル・ジャン博士も殺したのね?!」

「さあ♪」

 詩音は銃口を、かおるに向けた。

「っ…は、離して!」

 かおるを背後から智也が羽交い締めにした。

「離して!」

「すまないな、音羽さん」

「やめて! 離してよ! 三上くん、やめて!」

「音羽さん、三上智也は、もうこの世にはいないんだ」

「っ…」

「残念でしたね。私は独占欲が強いんです。そうやって音羽さんの身体に智也が触れているだけでも嫉妬するくらいに」

 詩音は社長室の隅に派遣社員が置き忘れていたバケツを取り、かおるの前に置いた。

「このペルシャ絨毯、とても高いんですよ。音羽さんの血で汚すのは、もったいないくらい」

「ひっ…人殺し!!」

「はい、呼びましたか?」

「っ…ぃ…い、いや……いや!! いや! 殺さないで!」

「クスッ…さっきの勢いはどこへ?」

「助けて!! お願いだから殺さないで!!」

「お願いされても、それはできない相談ですね」

「お金のために友達を殺すの?!」

「正義のために友達を売るつもりだったでしょう?」

「ぜ…ぜんぜんレベルが違う!! いや! 死にたくない! 死にたくないの!」

「それはお気の毒に」

「助けて! 三上くんまで洗脳されてるの?! 私たち友達でしょ?!」

「まったく…」

 かおるの口に詩音は銃口を突き入れた。

「何度いえばわかるのですか、ここに三上智也はいません、双海智也なら、いつでも会話くらいさせてあげますよ」

「んっん! うぐう!」

「あまり暴れると、うっかり引き金を引いてしまいますよ?」

 詩音が銃口を抜いてくれると、かおるは軽く咳き込んで智也を振り返った。

「けほっ…ハァ…ハァ…助けて、お願い」

「残念だけど、音羽さん、もう遅いよ」

「私たち友達でしょ?! 死にたくない! 助けてよ!」

「高校で一年半ほど同じクラスだったけど、それだけの関係だろ? 友達とは思ってない」

「私も同感です」

「っ……ぃ…ぃあ………死にたく……ない…」

「そろそろ、ごきげんようの時間です♪」

 詩音は再び銃口を、かおるの口に入れた。

「んんっ! うううっ?!」

「ごきげんよう」

 おごそかに詩音が引き金を引いた。

 パンッ!

「んうっ?!」

 かおるの身体がビクビクと震え、短パンを濡らした小水がバケツに零れて貯まったけれど、血は一滴も流れてこない。

 パンッ! パンッ!

「ひっ…ひぃっ!」

 パンッ! パンッ! パンッ!

 続けざまに軽い炸裂音が連発され、かおるはオモチャの鉄砲だと認識して、膝から力が抜けた。かおるの体重は智也が支えてくれているので倒れ込まずには済んだけれど、心底恐怖していたので、卒倒しそうなほど血の気が引き、寒くもないのにカタカタと震えている。

「そんなに怖がるくらいなら、たった一人で乗り込みなんてするものじゃないですよ?」

 悪役を演じるのをやめた詩音はオモチャの火薬を詰め替えてから拳銃を引き出しに片付けている。使い慣れた手つきだった。

「私が旧友を殺すような人間に見えますか?」

「…ひっ……ハァ……ハァ……グスッ…」

「たった一人で乗り込んできて、バックアップもなしに組織の頭を糾すなんて、私が普通のボスなら、本当に今頃はバケツではすまないほど血が流れていましたよ。捕まってからも、相手の情にすがって命乞いするなんて無意味です。たとえハッタリでも警察に通報しているとか、仲間がビルの外から監視しているとか、マシな言いようもあったでしょう? この世の中、1万ドルも絡めば人の命なんて儚いものですよ。もう社会人なのですから、少しは慎重に行動してください」

「…ハァ…ハァ…」

「ニセモノでよかったですね」

「……ふ……双……海…」

「クスッ♪ でも、ホンモノの音羽かおるの天然水が採れました。高くつきそうですが」

「………」

 オモチャの拳銃に恐怖した短パンの生温かさが屈辱だった。

「さて、音羽さん。お友達として話し合いましょう」

「………」

「どうしても音羽さんは事実を公表するようですから、諦めます。ただし、二つ条件があります」

「……どんな?」

「一つは2週間以上は公表を待ってくれること。これは私たちのためだけでなく、今も当社の水を愛飲されている人にショックを与えないよう、準備期間が必要だからです」

「………逃げ支度?」

「それも否定しませんが、やはり今坂さんは病人を中心に売り込まれてしまいましたので、その方々が藤川の天然水でもショックを受けないように前準備が必要じゃないですか? ショックで病気が悪化したら、誰が責任を取るのです?」

「…………」

「だから、2週間は待ってください」

「………わかった…。……あと一つは?」

「私たち、友達ですよね? 友達だから音羽さんが辿り着いていなかった真相まで教えてあげましたが、世間には隠してください。私と智也さんは何も知らなかった、フィンランドの水だと思って部下に売らせていたけれど、派遣社員の一人が輸入の経費を横領し、代わりに藤川の天然水をつめて売っていた。その派遣社員は逃亡して行方不明。私たちの氏名も被害者なので公表されない、そういう筋書きです」

「……誰もが被害者で加害者は存在しないって……こと?」

「さすが、音羽さん、頭の回転が速いですね♪」

「…………それを私が飲むと?」

「お友達ですよね? 殺さなかったでしょ? 普通なら殺す場面ですよ」

「………………」

 かおるが反論せずに黙っているので詩音はロッカーから自分用の着替えとタオルを出して、智也には目隠しした。

「そろそろ着替えないと風邪を引きますよ」

「……くっ…」

「もちろん、お友達の失態なんて公表したりしません。だって、大切なお友達同士じゃないですか? ね?」

「……………わかったわよ……着替え、貸して!」

「はい、どうぞ♪」

 詩音は微笑んで着替えを渡し、ついでにクリーニング代と称して札束を一つ、かおるのポケットに入れた。

 

 

 

 三日後、信と詩音は社長室で重要会議を開いていた。

「双海さんと智也が現役を退くって?!」

「はい、会社も軌道に乗ったことですし、しばらく智也さんと世界旅行などしてみたいとクルーザーを予約しましたから」

「オレだって、そろそろビジネスを離れようかと思ってたのに…」

「稲穂さんはトップディストリビューターじゃないですか。稲穂さんがいなければ、セミナーも盛り上がりませんよ」

「それは、そうだけど……稼げば稼ぐほど忙しくなってさ…」

「本当に、我が社は稲穂さんあっての販路ですからね。とても感謝していますよ」

「はは♪ 双海社長に今さら言われると照れるよ」

「いいえ、本当のことです。それから、社長の座も稲穂さんに譲りたいと思います」

「……本気で引退か……。でも、オレは社員でさえない、代理店だけど……」

「ついては株式の2/3を買い取っていただきたいのです。別に社員でなくても、株主総会で選ばれれば社長になれますから」

「ああ……なるほど……。でも、2/3も……66.6%もか…」

「私と智也さんがいない間は、経営権を握っていてほしいのです。重要な決定は特別決議が必要ですから2/3を持っていることが用件となりますので」

「……そこまでオレを信頼してくれるのか?」

「もちろんです」

 詩音が握手を求め、右手を差し出してきた。

「ありがとう、双海さん! オレは君と友達なれて本当に嬉しかった!」

 信は握手に応じ、それだけでなく感涙を流して詩音を抱きしめた。

「困ります、稲穂さん!」

「あ…ああ、ごめん、つい感激のあまり……許してくれ、……あとで智也にも謝っておくよ」

「変な誤解を与えそうなので黙っておいてください」

 少し怒った顔をした詩音は襟元を整えた。

「今のセクハラの罰金として株式買い取り価格は予定の15%増しにします」

「ぅ………高くつきそうだな……。……で、いくらで?」

「3億4500万円です」

「……………。……安いような高いような……最近、金銭感覚が無くなってきた…」

「高くはないでしょう?」

 握手のついでに抱きしめただけで4500万円を請求する女だった。

「ああ……この会社の将来性を考えたら破格の安さだ。……けど、今までのオレの収入の、ほとんどだから、それを払うと残金がゼロに近いかも……ま、来月になれば、すぐに取り戻せるから、いいか」

「では株式売買契約書にサインを」

「はいよ♪ とうとうオレも社長か……世界旅行は今年もムリだな♪ 二人の土産話を期待してるよ」

「別に土産話くらいなら、すでに巡った国だけでも一晩や二晩では語りきれませんよ? だいたい高校時代にインドへ行かれる前にも、どうして私に話を聞かなかったのですか?」

「ぅ………若気の至りさ、忘れてくれ」

 うかつな人生を送ってきた信は署名捺印して新社長となった。

 

 

 

 綾園霊園で亡き桧月彩花の墓石に智也と唯笑は花を供えていた。

「よ♪ 久しぶりだな、彩花」

「忙しくて来れなくて、ごめんね。彩ちゃん」

 珍しく智也から誘っての墓参りだった。

「彩花、水をかけてやろう。高級な水だ、喜べ」

 智也は墓石に持ってきたフィンラ・カンパニーの水をかけた。

「トモちゃん、そんなドバドバかけたら線香が消えちゃうよ」

「美味いか?」

「なんとなく彩ちゃんが怒ってる気がする」

「………たはっ♪」

 こだわらない男のモノマネをした智也は唯笑の肩を叩いた。

「唯笑、貯金してるか?」

「うん、7000万円くらいあるよ♪」

「そうか。けど、人生楽あれば苦もある、わかるか?」

「うん、恵まれない人にも…」

「そうじゃない、しっかり貯金は分散して管理しろ。ほいほい人に判子を渡すな。あと、貯金額も簡単に人に教えるな。わかったか?」

「うん、トモちゃんにしか言わない」

「………」

 智也はポケットから鍵を出した。

「オレと詩音は、しばらく旅に出るけど、もし、その間に、ものすごく苦しいことや、逃げ出したいことがあったら、ここに逃げ込め」

「この鍵って? ………どこかで見たことあるかも…」

「彩花の両親から空き家になっていた隣家を買ったんだ」

「唯笑が自由に使っていい……の?」

「ああ、でも誰にも言うな。夜は電気も消して、ひっそりとひそめ」

「……………。……それって……信くんが誘ってきたみたいに、二人目の奥さんになれってこと?」

「はぁっ?! 信のヤツそんなこと言ったのか?!」

「うん! すっごいマンションにね、唯笑の部屋もあるから住もうって! ってっきりプロポーズだと思ったのに、紗代里ちゃんと麻尋ちゃんっていう奥さんが二人もいるの!」

「………」

「そこに唯笑もまぜて、片倉先生まで誘う予定だったんだよ! ひっどいよ!」

「…………最低だな……。どうやったら、そこまで堕ちられるんだ……」

「でも………トモちゃん、…この鍵は? やっぱり、唯笑のこと……。……もし、…そうなら………。………詩音ちゃんは、いいって? 唯笑を二人目の奥さんにしても…」

「いいわけないだろ。それを預けたのは幼馴染みとしての情けだ。逃げ場がなくなったとき、そこに逃げて隠れていろ。ちゃんと食料も何ヶ月分かある。水もな♪」

「……………。……もしかして、詩音ちゃんがタロット占いとかで大地震を予言したの? それで日本から逃げるの?」

「………………………………そんな感じだ」

「……連れて行っては……くれないんだ…?」

「悪いな」

「ううん……ありがとう、もしものときは言われた通りにするよ」

 なんとなく動物的な勘で唯笑は近いうちに危機があることを感じた。

 

 

 

 二週間後、歩はCUM研の部室で追いつめられていた。

「なんよ、この縄はっ?!」

 暴れ始めるとCUM研の誰よりも強いので、香月によってイスに縛られている。机の上には山積みになったフィンラ・カンパニーのペッドボトルが置かれていた。

「マスコミで、この水は藤川の天然水だと言われているぞ」

「よくもオレらを欺してくれたな!」

「みーちゃんと私のお小遣い返して!!」

「ボクにも!!」

 香月、春人、あすか、修司に取り囲まれ、歩は顔を伏せた。

「私かて知らんかったゆーてるやん! 私も被害者や!!」

「歩は儲けただろ?」

「そうだ!」

「そうだよ!」

「儲けてへん! せいぜい、月に3万くらいやってんで!」

「先月には、来月は三倍になるとか言ってたじゃないか!」

「そんなんリップサービスや! そー簡単に倍々で増えるわけないやん! あくまで売り上げ目標や! 今月かて3万ちょいしか振り込まれてないんよ!」

「とにかく、この残っている分だけでも歩に買い取ってもらうぞ」

 香月が山積みのペットボトルを示した。

「もちろん、一本1500円でだ!」

「返品なら会社にいうたらええやん!」

「いくら電話してもつながらないんだ!! 歩が私たちから買い取って返品しろ!」

「そんなんひどいわ! 私かて被害者やん!」

「加害者が被害者ぶるのはやめろ。少なくとも、このCUM研にフィンラビジネスを持ち込んだのは歩だ!」

「ぅ…ぅぅ……ひどい……ひどいわ……後輩に何もかもなすりつけるやなんて……自分かて儲けるゆうて売り込みまくって、買い込みまくったくせに…うう…」

「全部で37本、5万5500円だ」

 香月が縛っている歩から財布を取り上げた。

「な、なんすんねん! ドロボウ!」

「差し押さえだ。人聞きの悪いことを言うな」

「差し押さえは権限のある裁判所しかでけんのや! 一般人がやったら、ただの窃盗や!」

「文学部のくせに一般法学を………ぜんぜん足りないじゃないか」

 財布の中身は小銭しかなかった。

「どこに儲けた金を隠してるんだ? 口座か?」

「どこにも隠してへん! それが私の全財産や! しゃーないやん! 夏に向けて染め物の浴衣を買うたんやもん! ローンだけで消えてるわ!」

「浴衣って……夏まで何ヶ月あると……お前、まさか、まだ着物のマルチ商法から脚を洗ってないのか?」

「ぅ…、もう人には勧めてないよ! ただ私のために染めてくれた言われたし義理もあるし…」

「1500円の水を売りつけて、何十万もする浴衣を買わされたのか……」

 香月は財布を返して、イスに座り込んだ。

「浴衣も晴れ着も返品なんてさせられないからな……」

「…ぅ…ぅぅ……私より、もっと上をあたったらええやん……ぅぅ……稲穂なんか、ええマンション住んどるで……ぅぅ…」

「…………はぁ~…………」

 香月は深々とタメ息をつき、仲間を見つめた。

「仕方ない、諦めよう。………いい社会勉強になった……と…」

「香月……」

「香月ちゃん……」

「納得できない!」

 あすかが異を唱えた。

「キ先輩が買い取れないなら、シマ先輩が買い取るべきです!!」

「私が?!」

「キ先輩からシマ先輩を通して、私たちに話が来てるんですよ! 当然じゃないですか!」

「し、しかしだ。……私は被害者で…」

「私だってバイト先の社員さんに売った5本を5000円で買い取らされたんですよ! ずっと年上のオバんで社会経験もあるくせに! しっかり私に買い取らせた!!」

「「「「「……………………」」」」」

 ずっと年上で社会経験もあるからビミョーに安くして返品させられたのか、とメンバーは納得した。

「わかった……あすかが買い取らされた5本だけ私が3000円で買おう」

「5000円!」

「3500円」

「5000円!!」

「4000円だ。これ以上は妥協しない。文句があるなら裁判でも何でもすればいい」

「…ひ、ひどっ! 開き直るんだ!! 最低!」

「私だって被害者なんだ! それを誠意で応えてるんだ! いやなら受け取るな!」

 香月は四千円を机に叩きつけた。

「まだ私が買った分もあるもん!!」

「そんなものは知らない! 納得の上で買ったんだろう?! 返品なら会社にいえ!!」

「ひど! それじゃキ先輩と同じじゃないですか?!」

「うるさい!」

「……最低…」

「あすかちゃん……、あすかちゃんとボクに契約を勧めたのはハルだよね?」

「ぅ…」

 修司に矛先を向けられて春人は困った顔をした。

「…はは……、そ…そうだった……かもな…」

「じゃあ、春人が弁償してよ」

「……弁償っていわれても……一応、水もあるわけだし…」

「フィンランドの水じゃないじゃないか! 藤川の天然水なんて!! 藤川市内なら水道水だって地下水を使ってるんだよ?!」

「うるせぇよ! お前だって納得して買ったんだろ?!」

「欺されたんだよ!! だいたいボクは健康だったのに! ハルと香月ちゃんが強引に勧めたんじゃないか!」

「意思の弱い自分が悪いんだろ! イヤなら断ればいいだろうが!」

「何度も断ったのにムリに入会させたじゃないか!」

「説得はしたが、ムリヤリじゃない!」

「…ふ……ふざけるなぁぁっ!!」

 修司がキレて春人を殴りつけた。

 ダンッ! バタバタ…

 殴り飛ばされた春人が机に倒れ、何本ものペッドボトルが床に落ちた。

「痛っ…てめぇ!」

 怒った春人が殴り返すと、身体の小さい修司は大きく殴り飛ばされ、机の上を転がってペッドボトルが部室に散乱した。

「くっ…ハァハァ…ハル…。…よくも……ボクは被害者なのに……」

「ハァハァ…てめぇが先に手を挙げたんだろ……ハァ…」

「アホちゃう、みっともない」

「「なっ?!」」

「男のくせにケチくさいことでケンカして…」

 パンッ!

 縛られて抵抗のできない歩を叩いたのは、あすかだった。

「あなたがっ!」

 パンッ!

「変な商法をサークルに持ち込むから!」

 パンッ!

「痛っ…くっ…」

「あすかのお小遣い返して!!」

 パンッ!

「頑張ってバイトして貯めたのに!」

 パンッ!

 あすかは泣きながら手が痛いほど叩いている。叩かれている歩は防御もできず鼻血を流していた。

 パンッ!

「水も、晴れ着も、必要ないのに!」

 パンッ!

「痛っ…え、ええかげんにせんかい!!」

 反撃できないのをいいことに、往復ビンタを続けられた歩がキレた。

「女の顔をパンパン叩きくさって!! このっ!」

 ドカッ!

 歩はパイプイスに縛られたまま立ち上がり、あすかの腹を蹴った。

「はぐっ?!」

「何発も叩きくさって!!」

 さらに二発目の蹴りは、あすかが腹を押さえて倒れ込んだために、顔面に命中してしまう。

 メキッ!

 靴の爪先が右目に命中して、骨の折れるような音が響いた。

「…ぁ……ヤバ……い…かも…。……大丈夫やった?」

「ぅ……う…うわあああああああぁあああぁあああぁ…」

 あすかが右目を押さえて転げ回っている。押さえている手から血が溢れていた。どう見ても危険な状態に見える。

「あすかちゃん?! あすかちゃん?! 大丈夫?!」

「香月っ! 救急車を!!」

「わ、わかった! ぅわっ?! くっ…」

 香月は慌てていて落ちていたペッドボトルを踏みつけ足首を挫いた。

 グキッ…

「痛っ…くっ…」

 それでも、あすかに比べれば軽傷なので倒れたままケータイを使い、救急車を呼んだ。

「ああああっ! 痛いっ! 痛いっ痛いぃいひいい!」

「あすかちゃん! あすかちゃん!」

「修司、タオルかなにか! それで血を!」

「待て、春人! 救急車が来るまで何もしない方がいい!」

 部室は騒然となり、救急車が来るとサークル棟全体が騒動になった。

 ピーポー♪ ピーポー♪

 あすかは血まみれで担架に乗せられ、サイレンの音が遠くなっていく。

「………」

 ずっと、黙って部室の片隅で立っていた美海は誰もいなくなり、静かにボールペンを握った。

「………」

 白紙のA4用紙に「退部届、早蕨美海」とだけ書いて机に置くと退室した。

 そして、家に帰ってCUM研の想い出を来年は振り返る必要のない事項というフォルダに移動させた。すでに移動させていた春人との想い出とともに。

 

 

 

 正午の学生向けワンルームマンションで正午と音緒と沙子とカナタと果凛はテレビを見ていた。液晶画面の中で信がリポーターにマイクを向けられている。

(稲穂社長! 一言お願いします! 藤川の天然水で偽っていたのは、いつから?!)

(知らん! オレは何も知らん!)

「アホね。こーゆーことになる気がしてたのに」

 カナタが嘲笑してウイスキーグラスにフィンラ・カンパニー販売の藤川の天然水で作った氷を入れた。

「オレは……大丈夫かな…」

「ショーゴは小物だから平気でしょ? ね、沙子ちゃん」

「う~ん……どう…かな…?」

 カナタに作ってもらったロックを一口呑んだ沙子が悩む。

「ショーちゃんは利益をえてるけど、金額が大きくないから検察は相手にしないと思うけど、マスコミが取材に来るかまでは沙子にはわからないよ」

「ぅ……しばらく部屋から出ない方が良さそうだな。……この映像って、実は上の階だよな?」

「アホ信が調子にのって借りてくれたから、いい迷惑♪」

「信くん、大変そうですね」

 音緒が自作のチョコケーキを食べながら、リポーターを前にして汗を流している信を観察している。

(稲穂社長は代理店としても相当な利益をえているとか?!)

(う…、………それは無関係…)

(無関係と言うことはないでしょう?! そんな無責任な態度が許されると?!)

(だ…だから、オレも欺されてた! いや、信じてたんだ! フィンランドの水だって! なのに派遣社員の一人が勝手に藤川の天然水をつめて…)

(社員の管理は社長の責任ですよ!)

(オレは着任したばっかで…)

「りかりん、オレのせいで事務所から怒られただろ? ごめんな」

「いえ、平気ですよ♪ ちょっとお小言があったくらいで、私は会員じゃなくて正午くんから直接売ってもらっていた形ですし」

「やっぱ、お金みんなに返した方がいいかな?」

「私は今さら、飲んでしまいましたし♪」

「アタシは実は冷蔵庫にあるのを勝手に飲んでるだけだしぃ♪ 沙子ちゃんが一番たくさん買ってない?」

「沙子も別にいいよ♪ ショーちゃんだって信じて紹介してくれたんだもん。美味しい水だったのは真実だしね」

「たはっ……よかった。でもさ、法的には問題あるの?」

「う~………とても難しい問題だよ」

 沙子が真剣に悩み始めた。

「売買契約の締結時にフィンランドの水であると説明しているにも関わらず、藤川で採取されたものだと立証されてはいるけど、今までに消費した分まで返金を求めることが可能とは考えにくい………同じ水であることには変わりなく、また、健康にいい、という売り文句は水の本質と関わりがあるか……無いか、…この点を裁判官が、いかに判断するか、担当する裁判官で裁決が異なるかもしれないよ……。……1500円で2リットルの水が安いか高いかも一般常識に照らして不当に高いと判断されるか、されないか、グレーゾーン……。水の売買契約としては、フィンランドの水でなく藤川の水であったという瑕疵は軽微とも、いえる。……なにより、被害額が軽微であり、訴訟経済から考えて訴訟よりも和解か…」

「鳴海さん、私の意見をいってもいいかしら?」

 果凛が口を開き、沙子が頷いた。

「うん、いいよ♪」

「私が思いますに、和解前にフィンラ・カンパニーが倒産する可能性が高いかと」

「きゃは♪ アホ信、夜逃げ?」

「フィンラ・カンパニーは株式会社にしてるでしょ? 法人の解散とか倒産は個人に影響を与えないから稲穂さんは財産を失わず……ただ、株券は紙切れになるかな♪」

「フィンラが無くなれば、アホ信、ここの家賃払えないでしょ? やっぱ、夜逃げ♪」

「たはっ♪ 今夜あたり徹夜で見張ってれば、見送れるかな?」

「あ、それいい♪ 面白い♪ アタシ賛成!」

「だいたい信はアホなんだ。一人で独占しようとするからバチが当たったんだ。金は天下の回りもの、一人で金持ちになろうとするからだ」

「りかりんちはバチが当たらないね?」

「先々代の行いがよかったからですの♪」

「気が向いたときに孤児院に寄附したりするもんね。キャハハ♪」

 カナタが笑っていると音緒は少しマジメに考えた。

「どうして人間って、幸せを分け合うことができないのかな。独占するために争うより、分け合う方が豊かになれるのに」

 とても哲学的な命題だった。

 

 

 

 神奈川県警千羽谷警察署の留置所で歩は人生を悲観して震えていた。

「…ど…どうなんねん……私……もう…おしまいや……」

 あすかに対する傷害罪で逮捕され事情聴取されている途中に病院へ問い合わせた刑事から、あすかは眼底骨折で右目を失明したと聞かされた。

「……もう…家にも帰れへん……せめて、未成年やったら……」

 もう成人しているので少年法は適用されず、刑事罰が下される。しかも、文学部ながら一般教養もあるので民事責任を追求され、あすかに失明させた慰謝料を何千万と支払わなければならないともわかっている。

「……破産や……もう、…おしまいや……」

 歩は天井を見上げたけれど、首つりに手頃な物もなく、ベルトも女性警官に取り上げられていた。

「…ぅ……ぅ…ぅうぅ…」

「木瀬」

 呼びかけてくれたのは雅の声だった。

「藤原っ?!」

「いったい、どうして木瀬が、こんなところに?」

 けんたろうを抱いた雅が鉄格子の向こうに歩み寄ってきた。

「ごめんな、ごめんな! 迷惑かけて、ごめんな!」

「事情を話してください。木瀬が悪人でないことは私が知っています。きっと冤罪ですよ」

「ホンマごめんな、家族に知られたないねん! ごめんな!」

 歩は刑事から身元引受人を問われたとき、とっさに藤原雅の名前を出したことを土下座して詫びたけれど、雅は頭を上げてくれといった。

「あなたと私の仲ではないですか。さ、事情を説明してください。力になれるよう、いっしょに考えますから」

「藤原…ぅ……藤原、ありがとうな、ありがとうな。あんたはホンマの友達や…ぅぅ…」

 歩は泣きながら今までの事情を語った。

「なるほど、わかりました」

「…私、どないなるやろ…」

「私が弁護士を雇いましょう。大丈夫です」

「……せやけど、……相手は失明しとるし…」

「ええ、国選弁護の当番弁護士なら、流し仕事でロクな弁護もしてくれないでしょうが、少しお金を積めば、ちゃんとした弁護士を雇えます」

「………それで……大丈夫なん?」

「聞けば、木瀬は男性二人を含めた部員たちに縛りつけられ、反撃を封じられた上で暴行を受け、身の危険を感じて必死に抵抗した結果、相手に重傷を負わせただけ、ではありませんか。正当防衛ですよ」

「…ホンマに?」

「薙刀の有段者ですが、多勢に無勢の上、監禁されて財布を取り上げられ、暴行された女性が反撃したところで、何の罪に問われましょう。木瀬は無罪です」

「……ふ……藤原……ありがとうな、ありがとうな、あんたは一生の友達や」

 この先何があっても雅を信じると、歩は心に決めた。

 

 

 

 福岡県博多区の二流ホテルで智也と詩音はテレビを見ていた。

「信、逮捕されずに済みそうだな」

「詐欺ではありませんから」

「けど、オレらは海外に飛ばないのか? 福岡空港から飛ぶのかと思ったのに」

「今、海外に脱出したら、いかにも高飛びで後ろめたさを証明することになるじゃないですか? 私は疚しいことはありません。だから、のんびり国内を旅行しているのです」

「なるほどな。じゃあ、株式を2/3しか売らなかったのは? まだ、詩音名義で1/3持ってるよな? 大丈夫なのか?」

「持っている方が安全なのです。フィンラ・カンパニーが倒産したとき、紙切れになり私も名目上損をします」

「名目上?」

「二部上場もしていない、不動産もない株式会社の株なんて、流通性もなく無価値ですが、一応は比率に応じた会社の所有権です」

「ああ」

「だから、倒産時に稲穂さんだけでなく私も損をする、私も被害を受ける、紙切れになってしまう。そういうことです」

「なるほどな。信は紙切れを3億4500万で買ったのか♪」

「疲れましたね。なんだか、思ったより儲からずに終わってしまいました。やはり、この業界に手を出したのは失敗でした。初期投資に3000万円もかかり、一年以上も忙殺され、儲かったのが7億弱……ある程度うまくいったからいいようなものの、失敗していたら3000万円の丸損でした。ハイリスクですね………いい社会勉強になりました」

「博多ラーメンでも、喰いに行こうか?」

「はい♪ 長崎の出島にも行きましょう」

「カステラと紅茶は合いそうだからな」

「はい♪」

 独占欲の強い女は幸せそうに微笑んだ。

 

 

 

 家賃滞納でマンションを追い出される信は、麻尋に睨まれていた。

「あ~あ、欺された。最悪」

「………」

「なんとか言いなさいよ」

「……ごめん…」

「チッ…」

 麻尋は舌打ちすると、床に転がっていたペッドボトルを蹴った。

 ボコッ! どくどくどく…

 水が零れて床に拡がる。

「ふんっ……オレについてくれば一生安泰だ、もう深夜バイトで苦労させない、誰のセリフだっけ?」

「………ごめん……」

「調子に乗って二人も女カコいやがってさ! マジムカつく!」

 さらにペッドボトルを蹴ると、信の脚に当たった。

「こうも言ったよね、KARINと同じブランドを着せてやる、リムジンも買ってやる」

「……そのつもりは……あったんだ…」

「はっ?! 超ムカつく!」

「………ごめん……麻尋」

「気安く呼ばないでよ! 虫唾が走る!!」

「……………」

「で、今、いくら残ってるの?! いくら私に慰謝料くれるの?!」

「…………ごめん……本当に、無いんだ……」

 信は高級紳士ブランドの革財布を開けて見せた。紙幣は一枚もなくカードはあったが、すでに止められている。財布がブランドなだけに虚しかった。

「腕時計は? 売れば、いくらかになるでしょ?」

「ごめん、派遣会社への人件費が払えなくて、取り上げられたんだ」

「………ちっ……ホント最低」

 麻尋は舌打ちした口の中に不快感を覚えて、信の顔に唾を吐いた。

「ぅっ……」

「クズ! 失敗者! 飛び降りて死ね!」

「………」

「そうよ、死ね! 私のために死んでちょうだい! 生命保険かけに行こ! さ、慰謝料2000万くらい払ってよ!」

「…………」

「死ねよ、早く!」

「……………。…くっ…」

 信が顔を歪めて歯を食いしばった。

「あん? なにその顔、文句でもあんの? 失敗者! 敗残兵!」

「……うるせぇ…」

「あ? 聞こえねぇよ、小心者! 早く飛び降りて死ねよ!」

「うるせぇ!!」

 信が怒鳴り、拳を振り上げた。

「ひっ…」

 麻尋が素早く転がって逃げる。

「待てよコラ! クソ女っ!」

「いや! やめて! 来ないで!」

 麻尋はペッドボトルを投げつけて時間を稼ぐと裸足のまま玄関を飛び出し、非常階段を駆け下り、どこかへ消えた。もう二度と信の前に現れないと決めて。

「………ハァ…ハァ……くっ………ちくしょーっ!」

 信は壁を殴った。

「……くっ…」

「………」

「…………いいぜ、オレに文句があるんだろ? 言えよ」

 信は振り返って紗代里を見た。

「どうせ、慰謝料なんて払えねえよ、文句くらい好きなだけぶつけてくれ」

「……信さん……」

「………」

「失敗も間違いも、誰にでもあるなのですよ」

「…………」

「今回の事業は失敗でしたが、信さんなら、次は成功しますですよ」

「…さよりん………」

「一回のことで後悔するなんて信さんらしくないです。笑って忘れて次のチャンスを待ちましょう」

「………けど、……もう何もないんだ……」

「また、屋台を引けばいいじゃないですか? ラーメンでも魚でも売りましょう。私も協力するなのですよ。そのブランドの財布を売って、魚市場で鮮魚を安く仕入れて、リヤカーで売れば、今夜は橋の下でも、明日の夜は銭湯くらい行けるなのです」

「ぅ……くっ…ぅぅ…」

 信は膝をついて泣いた。

「ごめん、ごめんな、さよりん! うう…ううう…」

「いいってことなのです」

 紗代里は愛を手に入れた。

 

 

 

 一ヶ月後、香月は一人でCUM研の部室にいた。

 散乱していたペットボトルと、あすかの血痕を片付けた後、女一人で機材やテレビ、ビデオテープなど部室内の全ての荷物を大学の裏手にある廃棄物置き場に運び、ホワイトボードと机だけにした。

「………すまないな……雄介」

 今は亡き仲間に謝り、香月は「解散届」を書いていた。

「こんな形でCUM研が……終わるなんて……な……本当に、すまない」

 書きかけの解散届が涙で濡れた。

「……私が歩の誘いに乗らなければ……いや、二年生のとき、雄介をマネて強引に歩を入部させたのが失敗か……近江商人の通ったあとは草も生えないというからな……、……違うな、…やっぱり、私が雄介の誘いに乗ったのが失敗だったよ……ごめん…。私さえ、いなければ……お前も春人と、ここで笑っていたかもしれないよな……ごめん…」

 一度マイナス思考に陥ると、何もかも自分のせいにして終わらせようとする香月は啜り泣きながら解散届を書き終えた。

「…………。この部屋も、さっぱりとしたものだな。物がないと……、…人もいなくなる………。…もう仲間ゴッコは……終わりだ…」

 香月は四年間たまり場にしてきた部室を見つめていた。

「………」

 ピルルル♪ ピルルル♪

 突然、ケータイが鳴り、聞き慣れない着信音がした。

「………誰だ?」

 液晶を見ても番号しか表示されていない。香月のケータイに登録がない番号からの着信だった。

「……………もしもし?」

 少し迷ってから香月はケータイを耳にあてた。

(観島香月さんですか?)

「ああ…観島だが…、その、あなたは?」

(うふっ♪ 私)

「ぇ……」

 名のらない相手の声に聞き覚えはあるけれど、すぐに想い出せない。

(私よ。忘れちゃった?)

「と……すまない、……ここまで出かかっているんだが……少し時間とヒントをくれ」

(ずいぶん男っぽい喋り方になったのね♪)

「………」

 香月が男性のような喋り方を選ぶようになったのは高校に入ってからだった。

「…ぇっと……」

(香月ちゃんとはケンカ別れだったもんね。……私、ひどいこと言っちゃって、やっぱり怒ってる?)

「っ…まさか?! まさか?! お前か?!」

 香月は中学の友人を想い出した。

(アタリ♪)

「…ひ…久しぶりだな…」

(昔の香月ちゃんとは、ぜんぜん喋り方ちがうのね)

「…ま、まあな…。しかし、…何年ぶりだ?」

(香月ちゃん、同窓会も来ないから、もう7年ね)

「…そんなになるのか……あの頃は若かった…」

(うふふ♪ 私も。自分がフラれたからって香月ちゃんに、ひどい八つ当たりして、ごめんね)

「いや……私こそ、すまなかった」

(もう、いいの。お互い、水に流して忘れない?)

「ああ、もちろん、そう望みたい」

(よかった♪)

「……。ずっと気になっていたんだ……水に流してくれて、本当にうれしい…」

(また、友達に戻ってくれる?)

「もちろんだ!」

(うふっ♪ よかった、香月ちゃんくらい気の合う友達って、なかなか居なくて)

「私もだよ」

(うん、私も。……じゃあ、香月ちゃん、友達として、ちょっと耳よりな話があるの)

「…え? なんの話だ?」

(香月ちゃん、アムウェイって聞いたことある?)

「……………………」

 香月は腕から力が抜けダラリと垂れさげ、指からケータイを床に落とした。

「……もう、うんざりだ……」

 もう仲間も友達も彼氏もいらない、香月は独身貴族を決めた。

 

 

  副題「人生いろいろマルチもいろいろ」

 

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