風来坊で准ルート【本編完結】 作:しんみり子
ここ一か月くらい500文字とか1000文字とか、ちまちま書き続けていました。
ただいま。
外套が風に揺れた。
飛ばされそうになった帽子を抑えると、ふわりと広がった外套の中にちらりと見えるVictorySの文字列。冷えた突風に負けじと息を飛ばしてみれば、白球より幾分か大きい真っ白が空の中に溶けて消えた。
今日は、決戦の日だ。
あまりの寒さにかじかみそうな手をポケットにねじ込めば、そこで固い何かに触れる。
金属のそれは冷たくて、しかも慣れない感触で思わず深紅は中の固形をとりだした。
「……ああ、そうか」
これは、ケータイ電話というヤツだ。
最近は画面に触ればそれで操作が可能というハイテクなものも登場したらしいが、正直勘弁してほしいと思う。自分にはこれでも機械的すぎて精一杯だというのに。
ちゃらり、と人差し指に引っかかるストラップ。
お守りと称して編んでくれた、グローブを模したビーズクラフト。
今日勝てるようにと。そして、これからも連れ添っていけるようにと。
そんな願いが込められたこのクラフトは、しっかりと夢や求めるものを掴めるようにという彼女の想いが見て取れる。
何故ボールでないのかと聞いたら、「ボールだとどこかに行ってしまいそうだから」だとか。
野球に触れ始めてそんなに時間が経っていないはずなのに、ペアルックと称して彼女は似たようなストラップを電話に付けていた。
深紅のそれがピッチャーグラブで、准のそれはキャッチャーミット。
これが深紅のナイスなグラブだ。
「あれ? 画面が暗い」
ケータイ電話を開いてみれば、何故か画面は真っ暗だった。
充電とやらは毎日しているはずだし、壊れたのかと首を傾げて少し弄ってみる。
と、何故か電話は突然コールを始めた。
『…………もしもし?』
「お、わ、繋がった」
電話の向こうから馴染みのある声がして、慌てて電話を耳に当てる。
聞き心地の良いソプラノを、耳に押し当てて聞くだけで、不思議と深紅の口角は小さく弧を描く。
『繋がるよ、電話だもん。使い方、覚えた?』
「いや、まだ全然。真っ暗だったからどうしようかと思ったんだけど、なんか弄ってたら電話かけてしまったみたいだ」
『……なんだろ。今日は良い天気だし、太陽の光に負けちゃって見えづらかっただけじゃない?』
「なるほど、そういうのもあるのか」
耳から外して、そっと画面に手で庇を作る。なるほど、微妙に暗く"通話中"と"♡准♡"の文字が見えた。ついでに空を仰いでみれば、バカみたいな快晴だ。陽光が若干遠くて寒さはあるが、それでも雲一つない晴天は見ていて気分が良い。
ああ、今日は試合には良い日だ。
「最後の試合を楽しんでくるよ」
『うん、頑張って。ちゃんと見に行ってあげるから』
「仕事は?」
『偶然お休みなんだよ♡』
「そうか。偶然か」
『うん、偶然ね』
それじゃ、と通話を切って、ポケットの中に電話を仕舞い直す。
外気はまだ寒々しいが、胸のうちは温かだ。
もっと野球がしたい。
そう、思える。
「よう、小波。ちょうど良かったぜ」
「権田。おはよう」
河川敷付近の道を歩いていると、後ろからやってきた車が隣に止まった。
深紅も何度か運転したことのある見覚えのある車から、ひょっこりと馴染みの顔が現れる。
この男とも、思えば一年近くの付き合いだ。目を細めて挨拶すれば、権田は空いている助手席を指さして言う。
「乗ってくか?」
「……そう、だな」
「お、珍しい。ちょっと待ってろ」
意外だったのだろう。
普段も呑気に、時間など気にせず歩いている風来坊だ。
そんな権田の思惑を理解して、しかし深紅は笑うに留めた。
言うべきことは、乗ってからでいいだろう。
ドアのロックを解除して貰って、さらりと助手席に乗り込んだ。
同時に車は発進する。こんなことが簡単に出来るのは、ここがそこそこの田舎であるからだ。
だが、それが良いのだと。
深紅は一人頷いて窓の外を眺める。
見慣れた田舎の風景と、遠目にブギウギ商店街のメインストリートが見て取れた。
「権田」
「あん?」
「最後の試合だ」
その言葉が何を意味するのかなど、考えなくとも肌で感じ取れる。
窓枠に頬杖をついて外を眺める深紅の横顔を一瞥して、権田は小さく鼻息を飛ばした。
「楽しかったな」
「ああ、最高に楽しかった。こんなに楽しく野球をしたのは、初めてだ」
「それがこのビクトリーズで、良かったぜ」
ハンドルを握る権田の表情に悲壮はない。
寂寥もない。けれど、ほんの少しだけ漂う愁いと侘しさの残り香が深紅の胸を突いた。
「俺はさ、小波。商店街はもうゆっくり終わりに向かってるもんだと思ってたんだよ。時代の流れには勝てねえ。出来るのはせいぜい、それをジャジメントスーパーのせいにして悪態をつくことだけだってよ。けど、お前が来てくれて変わった。俺たちは流れに逆らうことが出来るんだって思えた。――楽しかった」
「それは俺も同じだよ、権田」
それでも、去ると決めた。
風来坊の旅路はまだ終わらない。ここで終わって良い旅ではない。
けれど、この街は本当に良い街だった。
色んな出会いがあった。色んなものを見た。
たくさん、野球が出来た。
そして、守りたいものも出来た。
「ビクトリーズは終わらねえ。お前が居なくなっても、決して終わったりしねえ」
「……」
「だから、いつでも戻ってきてくれていいぜ。お前がなんと言おうと、席は空けておく」
「………………ああ」
何かを言うのは無粋だった。
いつか本当に戻ってくることがあるのなら。それはまた、その時の話。
今はまだ語るに至る場所ではない。
「勝とうぜ、小波。今日勝って、胸張って行ってこい」
「ああ。心配するな。負ける気は微塵もない。お前こそ、久々に観客が多くても驚くなよ」
「安心しろ。俺には女神がついてるからな」
にや、と。おどけたように権田は歯を見せた。
彼の言葉が何を意味しているのかなんて、分からないはずがない。
きっと奈津姫が、そしてカンタが応援に来ているのだろう。
「そうか。なら俺も大丈夫だ」
「そうか」
あの子が見に来るから。
だから勝てる。必ず勝つ。
心にかかったアクセルが、車の勢いを増した。
早く野球がやりたい。
最後の試合を笑顔で終わろう。
何の杞憂もない。
だってそうだろう。
二人は思う。
《あいつと俺が居るから》
《She I》V――She I――
「ドーム球場か」
ジャジメントスーパーに招待されたこの球場は、どうやらジャジメントスーパーのホームグラウンドらしい。金がかかっていることが随所に見受けられ、権田あたりはやれやれと額に手を当てていた。
羨ましいのだろう。こんな環境で練習が出来る――彼らが。
先に練習を開始しているキングコブラーズの面々を眺めれば、バッティングを開始していたザ・トリオのメンバーと目が合った。
流石にロボも伸びるアームを使う気はないらしく、一塁から二塁、三塁へとボール回しの最中。
ソルジャーはあれこれ大きな声で指示を出し、チームメイトを従えている姿が見て取れた。
番長はバットを片手にストレッチの最中らしく、じっくり集中力を高めているらしい。
三人ともが、口元の笑みを隠しきれていないようだった。
――快音。
野球に慣れた者なら聞きなれたその音に、思わずビクトリーズの面々は天井を仰いだ。目に入った白球は美しい弧を描き――バックスクリーンに直撃した。
ビクトリーズは一番打者、小波の名前が光る電光掲示板に。
深紅は呆れたように目を打席の方へと移す。
満足げに打撃練習を終えた青い男が、わざわざ一塁側へと歩いてきていた。
「よう深紅。商店街も今日でおしまいだな」
けらけらと楽し気に。
頬の傷が歪んで凶悪さを滲ませている。
深紅は手元で弄んでいた白球を空に放り投げ、掴み取るまでの一瞬だけ目を閉じて。
それから、小さく笑った。
「それはどうかな。ビクトリーズは強いぞ?」
やってきた椿に対し、深紅の後ろに控える面々の瞳に気圧された様子はない。
先制攻撃、とばかりに精神を揺さぶったはずのパフォーマンスが空振りしたことに椿はこれまた楽しそうに笑みをこぼしてから背を向けた。
「面白ぇ。楽しみにさせて貰おう」
それだけ言って去っていくその背中は気迫に満ちて。
けれど、この満員のドーム球場で強敵と向き合う彼らに、緊張や恐怖は無かった。
「コアラーズとの試合以来じゃないのか。これだけ観客が入っているのは」
「でもこの観客なんですけれどね。さっき聞いてきたんですけど、殆どがジャジメント系列のスーパーの職員らしいですよ。社内イベントとしてこんな企画を持ち込んだとかなんとか」
「は~? そこまでしてプレッシャーをかけたいもんなのかね」
耳をほじりながら観客席を眺めるビクトリーズ。
古参も、助っ人も、皆が何の気負いもなく。
さあ、そろそろビクトリーズの練習時間だ。気合を入れてやっていこう。
(そして・・・)
「……ええっと。席空いてるといいんだけど」
コンクリートの階段を上った先に広がっていた、収容人数二万人の世界。
宙を覆う円と、地上のダイヤモンドが現す戦いの舞台。
彼女はきょろきょろと、見下ろした先で空席を探した。
ビクトリーズのユニフォームや、それに似た紅白の服装で身を包む人々。
これから始まる試合へ高まる期待の熱気が、この狭い世界を膨張させていく中で。
自分は浮いているなあ、と眉根を下げた。
大きく振られる旗や、揃いのタオルに描かれたVictorysの文字。
商店街のオリジナルグッズとして販売しているらしいそれを見ると、妙に最近商店街の活気があったことも頷ける。これだけビクトリーズのグッズが売られているなら、それは確かに経営も立て直せることだろうと。
「お、嬢ちゃんこっちこっち! ジャジメントに負けずに応援しようぜ!!」
「え? あ、はい」
階段口でまごついていた彼女を何人ものビクトリーズファンが席へ案内してくれた。
ビクトリーズファンの真っただ中。
相変わらずアウェーな気分を拭えない彼女だったが――実は言うほど、彼女の存在は浮いているわけではなかった。
背に流した金髪が、ふわりと風に揺れれば見える背番号1。
KONAMIと刻まれた名前は、ファンご用達のユニフォームグッズ。
彼女の心情はどうあれ、傍から見ればどう見ても彼女はただのビクトリーズファンそのものであったから。
――しかし彼らは知らないだろう。
これが、正式販売されているものではなく。
ましてや、彼女自身がオーダーメイドで作ったものでもなく。
彼女の体格より二回りは大きいぶかぶかの、"本物"であるということは。
まったく同じユニフォームに身を包んだ青年が、グラウンドの中心で最後の球を放った。引き上げていくビクトリーズと、流れ始めるアナウンス。
さあ、そろそろ試合開始だ。
キングコブラーズ ビクトリーズ
1 椿 中 1 小 波 投
2 金 遊 2 ピエロ 二
3 ロ ボ 一【プレイ】3 寺 門 中
4 番 長 三 作動能力 4 権 田 捕
5ソルジャー左 やめる 5 ムシャ 左
6 スミス 右 6 並 木 三
7 久 保 捕 7 カ ニ 一
8 須 藤 二 8 増 田 右
9バルソー 投 9 青 島 遊
一回の表。一番バッターは、あの男だった。
深紅はロージンバックに軽く触れ、指先を馴染ませて前を見る。
頼もしい捕手が、いつも通りどっしりと構えていた。
『一番、センター。椿』
青い男が、その長身を十全に使ってバットを握る。
ニヒルに笑った彼は深紅を挑発するように笑った。
深紅はその笑みに返すように、呟く。
「行くぞ、椿」
バットを握るグローブがみしりと軋んだ音を立てた。
「来い、ただのヒーローめ」
振りかぶって、第一球はストレート。
「ストライッ!!」
インコース低めに決まった、球速は152kh。
上々の出来に軽く肩を回して、権田からの返球を受け取る深紅。
権田はちらりとアンパイアを見上げる。
結構際どいコースではあったのだが、あそこでストライクを取ってくれるということは妙な贔屓やジャジメントの息のかかった審判ということではないらしい。
「安心しろ。俺とあいつの試合に、下らねえ茶々入れするヤツが居たら正義の制裁を加えてやる」
「……正義、ねぇ」
深紅を睨んだまま、権田の思考を察したのだろうか。
バットを構えた椿の台詞を、権田はひとまず信用してサインを送る。
この男に甘い球を放るのはそのまま死に直結する行為だ。
そういう意味では、深紅を相手にする時と似ている。
違うのは、深紅が丁寧に球を打ち返してヒットにするのに対し、椿は半ば強引にでもリストで外野に持っていく傾向があることだ。
どちらもアベレージヒッターとして随一の才能、そしてパワーヒッターとしての素質も兼ね備えている。
「どいつもこいつも、風来坊ってのは嫌になるね」
アウトローへの直球を要求。
ゆっくり頷いた深紅から、ワインドアップで放たれる直球。
「っ、っとぉ!」
鈍い音と共に、イレギュラーバウンドの回転がかかったボールはファウルゾーンへ転がっていく。
乱雑なバットの振り方にしては、器用なカットだった。
「……なるほど? 前回の教訓が生きてるってわけだ」
へらっと笑って、椿はバットを構え直す。
――前回の教訓。
ストレートで押すならまだしも、変化球で緩急をつけようとした瞬間にスタンドへと運ばれたそんな記憶がよみがえる。
実際、だからこそ変化球を嫌って二球続けてストレートを放らせた。
深紅の持ち球はスライダー、フォーク、シュート。
きっちり三振を取りに行くには、中々に組み立てが難しい球種だ。
どれも変化量が大きいわけではないし、何よりも球速でテンポが作りづらい。
それでもこれまでビクトリーズでエースの座を獲得出来ていた理由はたった一つ。
「っ、ファール!!」
三球目のストレートも椿は押し負けてバックネットへと浮かせてしまった。
深紅の武器は、この最高品質の剛球である。
深紅本人曰く大した球ではないと肩をすくめるこの球は、才能無しには得られない強力な武器だ。
詳しく聞けばどこぞのホッパーズのエースと比べて自分のストレートを卑下していたようだが、権田からすれば馬鹿げた話。
キレ〇、リリース〇、逃げ球、ノビ〇、テンポ〇、重い球、etcetc……などという慮外の化け物と張り合えるだけでも相当のものなのだ。
これでツーナッシング。
考える限りでは二番目に理想的な形で椿を追い込んだ。
あとは。
「ぐっ」
またしても鈍い音。
しかしゴロにしては早いペースで1、2塁間を抜けようとするこの球に、深紅はすぐに反応してファーストのベースカバーに入った。
飛び出していたカニの綺麗なダイビングキャッチ。セカンドのピエロにグラブトスからの丁寧なワンアウト。
「良い連携だ!!! ワンナウト!!」
権田の気迫籠った咆哮に応じるように全員が声を上げる。
「ああ、いいチームだ」
帽子の鍔を握り、深くかぶり直した深紅は小さく笑って呟いた。
金を三振に打ち取り、ロボをぼてぼてのピッチャーゴロで抑え込んだ一回の裏。
電光掲示板の表示はフルカウント。
悠々打席に立つ深紅は、探るような表情でピッチャーのバルソーを睨んでいた。
「球速はざっと見積もって俺と同等かそれ以上。みんなは"慣れた"って言ってたが、流石にやっぱり速いってのはそれだけで打ちづらいな」
小波深紅の球速とその剛球に慣れているビクトリーズの猛者たちにとっては、バルソーのストレートくらいは驚くに値しないらしい。
そんなバカな話があるかと、深紅は球速を見ながら思う。
しかし実際、深紅が試合に遅れた日には彼らは自力で三点を獲得しているし、彼らの言葉を信用しない理由は深紅には無かった。
一番、投手。
深紅ほどのパワーと選球眼があるバッターが、投手として先発しているこの状況は控えめにいってスタミナには優しくない。
一番と先発。本来ならばどちらかを選ぶのがセオリーだ。ましてや負けられない相手に一回勝負。それでもビクトリーズにとって、一番バッターに最も相応しいのは小波深紅であり、先発投手に相応しいのもまた小波深紅だった。
だがそれは、それだけではこうしてフルカウントまで粘って一番としての仕事をここまで懸命にこなす理由にはならない。
ある程度の情報を持って帰ればそれでいい。
だというのにここまでの仕事をしている理由は、簡単だった。
投手としても。打者としても。
後ろのメンバーを信頼できるから。
小波深紅という強打者を、クリーンナップにすら置かずに済む打線。
そして、リリーフを任せられる投手が他にもいるという安心感。
ちらりとベンチに目をやれば、静かに状況を見守る権田と、欄干に乗り出してヤジなのか応援なのか分からない声を上げる木川の姿。――あ、隣の寺門と喧嘩になった。
仕方のない連中だと思う。
けれど、確かに木川の口から"打て"という一言が聞こえてきた。
だから決める。難しい話じゃない、チームの為に一撃を。
――快音。響き渡る鈍い音と共に転がった白球の速度は最高。
あっという間にバルソーの足間を抜けて、セカンドベースに跳ねて大きなイレギュラー。
「よし、回れ回れ!!」
思わず叫ぶ木川の頬は赤らんでいる。一回からチャンスを作ることが出来ればゲームメイクは遥かに楽になる。そうすれば先発である本人にも負担がかからないと踏んでの声援。
ビクトリーズ側の応援席からも同じように沸いた喜色に染まった声が届いたが、しかしコーチャーの増田とランナーの深紅は冷静だった。
一塁を駆け抜け、しかし少しいったところで制止する。
なぜなら。
「……ちっ」
既にショートの金がセカンドのベースカバー、送球を受け取り深紅を二塁で潰す気満々に待ち構えていたからだ。
「マジかよ!」
「兄貴の足でアレが一塁どまりだぁ?」
目を剥く木川と、運動能力には一家言ある寺門の呟き。
彼らの視線の先に居たのは、外野の浅いところで帽子を目深に被る一人の男。
センター椿の弾丸のような送球があってこそ、深紅は一塁に釘付けにされたのだ。
「……ふう、この前はかけっこ負けちまったからな。今回はぶっ殺してやるつもりだったんだが」
「わざわざ死地に飛びこみゃしねえよ」
「おいおい、ヒーロー唯一の得意分野だろ?」
「得意分野ってのがお前のスローなスローを言うのなら、まあ得意分野だな?」
「抜かせ」
続く二番のピエロが打席に入り、バルソーの速球が唸りを上げる。
ぽん、と転がったゴロに深紅は大きく舌打ちして飛び出した。
「番長!!」
「分かってる!!」
サードの番長が目の前に転がったボールをベアハンドでつかみ取り、そのまま二塁へ送球。セカンドの須藤に仕掛けたスライディングはしかし空を切り、一塁のロボが危なげなく捕球した。
ダブルプレー。
せっかくノーアウトのチャンスだったが、まだまだ野球はこれからだ。
ピエロの肩を軽くたたいて、ベンチへと戻っていった。
続く寺門が初球をフライに上げて、ビクトリーズの攻撃も0点に終わる。
静かな立ち上がりだった。
『二回の表、ジャジメントキングコブラーズの攻撃は――』
ドーム球場はいっぱいに人が押し寄せていた。
ジャジメントスーパーの社員が多くを占めているにせよ、当然ながらブギウギビクトリーズの応援団も駆けつけている。
一塁側のスタンドを埋める彼らの中には、選手たちと縁深い人物も多く居た。
「おじちゃーん! おっちゃーん!」
「おら気張りなさいよ、正男ー!」
その中央に陣取って声を上げる見慣れた親子。
神田カンタと、その母神田奈津姫。
ビクトリーズにとっての勝利の女神、などと言われて本人は少し照れ臭げにしていたが、試合が始まればこの通り。しかめっ面に大きな声で、子の尻でも叩くような声色で応援を送っている。
そんな彼女に当てられて、熱気の籠った声援がチームの選手たちに送られるスタンドは、プロ野球や高校野球の大舞台と比較しても遜色ないほどの盛り上がりを見せていた。
元々、ビクトリーズはこの半年間で多くのファンを獲得したスター性溢れる選手たちのチームだ。
だから、ピエロがダブルプレーに倒れた時はがっくりと皆が肩を落としたが、決してそれはピエロのプレーを卑下するようなものではない。
ツーアウトになれば、ビクトリーズ勝利の方程式が完成しない。
そう思ったからだ。
ネクストサークルから出ることなく回を終えた男に注がれる期待の視線は伊達ではないのだ。
権田正男。
元ビクトリーズのキャプテンで、今は捕手としての仕事に全力を注ぐ、猛者揃いのビクトリーズにあっても最高の強打者。
ベース上に小波深紅、打席に権田正男が立つという条件下において、ビクトリーズが他チームから1点も取れなかった回は今までに一度たりとも存在しない。
だから、深紅が塁から居なくなったことに対する落胆は大きかったのだろう。
しかしビクトリーズは折れない。
ネクストサークルに座っていた権田が戻り、商店街メンバーに手伝ってもらいながらレガースを装着している隣で、白球を弄る深紅があれこれと何かを呟いているようだった。おそらくは、バルソーとキングコブラーズについての情報のやり取りだろう。
真剣な彼らの表情はしかし、どこか楽しそうにも見えるもの。
スタンドからは見えないが、グラウンドに散っていく選手の背中から十分に感じ取れる"熱"。
それこそが、ビクトリーズの原動力だ。
「おじちゃーん! おっちゃーん! 三者三振だー!!」
豪胆な応援をするこの少年、カンタは最早ビクトリーズの試合に足を運ぶ者たちにとって名物マスコットと化している。
元キャプテンの遺児であり、勝利の女神の息子、などと言われて。
その本人にも類稀な野球の才能があるとなれば、人気になるのも当然のことか。
おっちゃんに負けないキャッチャーになる、と豪語する彼は小学校のクラスメイトと共に毎日野球に励んでいるらしい。
その練習風景は、たった数人の野球クラブにも拘わらず異常なほどの実力に溢れているとか。
「よく言ったぜカンタ!! 小波ーー!! カンタに恥かかせんなよー!!」
「お前ならやれる!! エースの力を見せつけてやれ!!」
勢いに任せて咆哮のようなエールを送るビクトリーズ応援団。
会長を筆頭としたこの集団は、商店街に無関係なただのファンも多く押し寄せまさしく大きな和を生み出している。
だから。
たまたま親子の隣に居合わせた少女は、なんとなく居心地の悪さを感じていた。
「……深紅さん」
そっと、ざわつく胸の感情を抑え込むように、持っていた携帯電話をぎゅっと握りしめる。添えられたキャッチャーミットのストラップが、天井の証明に反射してきらりと光る。込めた想いは、今日も頑張れますように。
マウンドに上がった彼を見つめ、そっと祈った。
「――おじちゃんなら、大丈夫だよ」
「え?」
顔を上げる。自分に向けられたと感じた、まだ変声期も来ていないあどけない少年の言葉。目を丸くする少女をよそに、カンタはグラウンドを見つめて呟く。
「さっき会った時、言ってたんだ」
背番号1が振りかぶった腕が勢いよく降ろされると同時、主審のコールが響き渡る。
灯されるランプの色は黄。わっと歓声が巻き起こる。
「今日は商店街の為にも負けられない。それに、負ける気がしないって」
「……そうなんだ。あの人、凄いんだね」
子供に優しく接する、保育士か教師かのような笑顔を浮かべて彼女は頷いた。
誇らしげな気持ちと一緒に、ほんのちょっとの疎外感。
けれど、カンタは小さく首を振った。
「おじちゃん、普段は負ける気がしない、なんて言わないよ。オイラ、"その人"のことは知らないけど……」
鋭い投球の速度は155km/h。本人の最高球速に、またしても会場が沸いた。
Sと表記された電光掲示板に、輝く星が二つ目。
「大事な人が偶然来られることになったらしいって、嬉しそうに言ってた」
「――」
『仕事は?』
『偶然お休みなんだよ♡』
『そうか。偶然か』
『うん、偶然ね』
深紅が腕を振り抜くと同時、バットを振ることも叶わずに打席を降りる。
『ストライク!! バッターアウト!! チェンジ!!』
当たり前のような顔をして三者三振。ああ本当に負ける気がしていないのだろう、淡々と、しかし軽い笑みを浮かべてベンチへと戻っていく背番号1に投げかける。
「偶然なわけないでしょ。ばーか」
ああ。蹴りたいなあ、あの背中。
キ00000000
ビ0000000
試合は膠着状態を脱することなく、既に八回の裏を迎えていた。
深紅は一度マウンドを降り、継投を任された木川は二回を無失点に抑えきっていた。
ここで打席は、一番センター 小波深紅へと舞い戻る。
ノーアウトの状況。ここが最大のチャンスだと、会場も大きく盛り上がる。
行け、押せ、重なり溢れる声援がただ一人、打席に立つ男へと向けられた。
――ただ、感じる。この手に漲る力を。
「小波!! ここが! こここそが正念場だ!!」
今までの回は腕を組み、ベンチでじっくりグラウンドを見据えていた権田が柵から乗り出すようにして咆哮する。
追随するようにベンチで騒ぐ、ブギウギビクトリーズのメンバーたち。
「兄貴!! いっけええ!!」
「小波さん!! 打つカニー!」
「……ゆけ、小波」
「小波くん、頼んだよ!」
「小波さんならいけるよ~!」
寺門、カニ、ムシャ、青島先生、そして、ネクストサークルのピエロ。
初めてだった。こんな風に、多くの想いを託されて打席に立つのは。
カウントは既に2-2だ。
腰元をえぐるようなストレートを見逃し、一息つく。
明確なボール球。フルカウント。
――と、そこで気づく。
投手であるバルソーが、険しくも愉しげな表情で頷いたのを。
重々しく縦に振られた首から、入るのは綺麗なワインドアップのモーション。
深紅は微妙に違和感を捉えた。
投げられたのは低め、ストライクゾーンには入っている。
カットしにかかるかとスイングすると同時――その変化に気が付いた。
左投手。この軌道。
前回の情報には無く、今回初めて出てきた変化球。
後半もここまで詰まった状態まで温存しておいた隠し球。
ここまで溜めておいたのは、勝負を決定付けるためか、それともまだ未完成だったのか。両方、なのだろう。険しい表情も、見せつけたいという意志も。
――小波深紅は、これまでただの一度とて、打席での勝負で安藤小波からこの球を打ったことが無い。もしかしたらその情報が洩れ、弱点だと思われていたのかもしれない。
この土壇場で、しかも小波より速い球の持ち主であるバルソーなら、安藤小波に迫る投球が出来るかもしれないということか。
――スクリュー。
インコース低めに食い込んでくるこの球に合わせ、深紅はバットを振るった。
バルソー本来の球速よりも20キロ近く遅い球。
それをしかし、深紅は当たり前のようにタイミングを計ってステップする。
「あいつの球で鍛えられた俺に、そのスクリューは温かったな」
変化球のキレも、その緩急の落差も、コースの選定も全て。
あいつに比べれば大したことはない。
打ち抜くは左中間。ソルジャーと椿という外野陣を鑑みれば二塁打は厳しいだろうが、それでもノーアウトでのランナーだ。
ここで一点でも取れば世界の見え方が変わって来る。
終盤でのヒットに沸くビクトリーズスタンドに軽く手を振って、深紅は一塁からバッターボックスを睨んだ。
二番はピエロ。軽くリードしておくと、監督からバントのサインが出る。
是が非でも一点が欲しい場面、そして小波深紅が一塁に居るのと二塁に居るのとでは大きな差が生まれる場面。
ワンアウトと引き換えに、勝負への鍵を手に入れるビクトリーズ。
丁寧にボールを転がせたピエロは、やり遂げた顔をして深紅と目を合わせた。
後は頼んだとでも言いたげな彼に笑みを作ることで応え、バルソーの背中越しに三番寺門を見守る。
外野まで飛べば一点確実に取ってやる、とにじり寄るように三塁側へ足を向ける深紅だが、彼の快速を知るジャジメントがそう易々とリードをさせてはくれない。
二度にわたる牽制によって、寺門もテンポを崩されたように眉根を寄せる。
そんな中、深紅は様々な方向からの視線を感じ取った。
右方向には三塁の番長とレフトのソルジャー。
左方向からは、一塁のロボ。
そして背後にはセンターの椿。
ボールが来たら、真っ先にお前を叩き潰す。そう言わんばかりの体勢に、深紅は思わず苦笑いした。戦いの中でこんな感情を覚えるのはきっと間違っているのだろうが、それでも。
一時は敵対し、殺し合う可能性すら示唆された相手。
つい先日は共闘し、この日の為に決別した連中との野球。
つくづく、この世にはまだ未練が多すぎる。
楽しくて。もっと色んなことがしたくて。
バルソー渾身のストレートを、寺門が打ち返した。
レフト前へ抜ける速い打球に、深紅は躊躇うことなく駆け出した。
確実にここで一点を取る。その意志を込めて蹴ったスパイクは、まずは三塁とばかりに突っ走る。
だが。
「させるか!!」
ソルジャーはすぐさま球を拾うと、フィルダースチョイスも躊躇うことなく三塁にボールを放る。番長もそれが分かっていたかのように身構えている。
だから、
「ストップだ!!!」
三塁のコーチャーになっていた電視の叫びに、深紅は三塁でつんのめる身体を押さえブレーキを掛けた。
屈辱の進塁に歯噛みする深紅を後目に、番長は笑みを作って捕球する。
「……まだまだだな」
「ちっ」
しかし寺門も生きてのワンアウト1,3塁の状況は間違いなくチャンスだ。
そして、何より。
『四番 キャッチャー 権田』
強打者揃いのビクトリーズにあって四番を張る、得点圏打率七割に迫る男が今、打席に上がろうとしているのだ。
コールされた名前にお祭り騒ぎと化したビクトリーズスタンド。
"ベース上に小波深紅、打席に権田正男が立つという条件下において、ビクトリーズが他チームから1点も取れなかった回は今までに一度たりとも存在しない"
その小波深紅が三塁。
ワンアウトで権田正男。
湧き上がる歓声は最早喚声、鬨の声と表現する方が正しいくらいの轟音だ。
しかしその中にあって、打者は冷静だった。
バットをゆっくりと構えると、一度だけ三塁側に視線を寄越す。
目が合った深紅もいつも通りの気楽な表情で、権田は一つ頷いてバルソーと相対した。
「――あれがお前の相棒か」
三塁で構える番長が、権田から目を離さずに隣の深紅に問いかける。
無言の首肯に、彼はそうかとだけ頷いて。
「なるほど、強い。心にブレがない。お前や椿ともまた違う強さを持っている」
神妙に呟く番長に、しかし今度は深紅は否定した。
「あいつはそんなに精神が強いヤツじゃなかったよ」
「――ほう?」
「ブレてないように見えるのは、支えてくれてる人がいるからだ」
バルソーがクイックでストレートを振り抜く。
「いいもんだろ?」
それだけ言って、深紅は駆けだした。
権田の振り抜きと同時、快音と共にセンター方向へ白球が宙に弧を描いたからだった。
ボールはセカンド後方に落下する。ちょうどセカンドショートセンターの中心部、これで打球が緩ければポテンヒットになってもおかしくなかった三角地点。
しかしそこに飛び込むように、もしセカンドやショートが居れば跳ね除けるような勢いで駆けてきた椿は、そのままボールを掴み取り――一気にセカンドベースを踏んだ。
「アウト!!」
塁審の声に椿は口角を上げる。
「いいや、チェンジだ」
勢いよく肩を振るった。
捕手の久保が、槍投げのような椿の鋭い球を捕み、一気にベース前に叩きつける。
完璧なブロッキングだ。椿の投球も見事だった。
――喚声が上がった。
「――欲を掻かなきゃ、お前の勝ちだったな。椿」
久保の背後から聞こえた声。
主審が何のコールもしなかったのは。既に深紅が帰ってきていたから。
念願の一点を、ビクトリーズが獲得した。
キ00000000
ビ00000001
運命というのは、やはりあるものだ。
ビクトリーズ八回の先頭打者が小波深紅であったように、コブラーズ九回の先頭打者は青の男その人。
『一番 センター 椿』
ヘルメットを目深に被り、やれやれと首を振る動作は本当に己の行動を悔いているような、そんな雰囲気さえ纏っている。
「いや、やっちまったな。ああ、やっちまったよ。お前を潰すって決めてたのにな。かっこつけちまった。――だが、だからもう二度はない」
握りしめたバットで睨むマウンドの上。
ロージンを弄びながら、ビクトリーズのエースは小さく口角を上げていた。
――木川が二回を押さえてくれたおかげで、だいぶ休むことが出来た。
草野球のルールに、再登板を禁止するものはない。
だからこそ最終回は小波深紅が、というのはチームの共通見解だった。
この試合が終われば、小波深紅は旅に出る。
みんなそれを知っていて、商店街の進退を決定づけるマウンドを彼に任せたのだった。
無責任に去るとは微塵も思っていない。
信じているからこそ、彼に決めて貰う。
だから、そののびやかなストレートに快音が走った時も――すぐにセンターの寺門が反応した。
左中間を抜けるような痛烈なヒットに、しかし寺門は食らいつく。
二塁打以上になどさせて溜まるかとセカンドへ放られた球を、すかさずピエロがカバーに入った。
椿の足でも、シングルヒットに済ませる守備。
投手への信頼と、信頼しているからこその堅守。
この回をしっかり終えて、勝利をもぎ取るのだという熱意がここに在った。
二番の金を三振に打ち取り、続く打者は三番のロボ。
ここから三人、ザ・トリオの打順が続く。
じりじりとリードを取る椿に一度牽制を入れて、バッター勝負へ。
彼ら三人は強打者ではあるが、バッティングの巧さは無い。
一番打者の椿が異常に優れているだけで、トリオは典型的なプルヒッターでパワーヒッターだ。
だからこそ――権田のリードが光る。
「ロボッ……!?」
「悪いなロボ……全力だ」
あの日は助けて貰ったが、それとこれとは話が別。
ロボも分かっては居るだろう。
だが、流石に。ツーストライクまでど真ん中のストレートを連続して投げるとは思っていなかったようだ。
「どうしようもなく、身体が軽い。負ける気がしない」
椿が塁上に居ようと。
これからトリオを相手するというのに。
球速は未だ衰えず150キロ。球はずっしりと、浮くこともない。
この回を戦い抜いてなおあまりある気力が、全身にみなぎっていた。
「ストライク!! バッター、アウト!!」
九回表、ツーアウト。
ロボがしょげたように打席を外れ、肩を叩いた番長がゆっくりと深紅に相対した。
「私に回せ!! 必ず逆転してみせようぞ!!」
ネクストサークルでソルジャーが叫ぶ。
頷いた番長はヘルメットの庇を軽く握り、深紅を睨む。
そして、
「支えるもの、か。俺にはそんなものはないが。――だが、それでも負けたくはない」
にや、と口角を上げてバットを振り抜いた。
「ストライク!!」
アウトコース低めに決まったストレートの、上を振るった番長に深紅の口元がひくついた。
どうやら、あの振り方。球は見えている。捉えられたらそれで仕舞いだ。
しかしそれでも、変化球の選択はない。
権田は一球外すことを指示。
頷いて、振りかぶる。
コースは外角、外すとしても、空振りを狙う。
――快音。
慌てて深紅が振り向く先は――内野のスタンドだった。
ファールボールへの警告アナウンスが流れる中、一つ息を吐く。
少しずれていたらホームランだ。
トリオの中でも飛びぬけたパワーを持つ番長の腕。
それを改めて痛感させられ、深紅の背を伝う冷や汗。
ジャジメント側の大歓声。
逆転ホームランが出れば、九回裏のビクトリーズは下位打線だ。
勝てる目を、夢を、期待を見せた一条の光こそ、今の番長のファールボール。
「俺を返せ、番長!!!!!」
熱くなった椿が吼える。
珍しいほどに鬼気迫ったその表情に、番長は応えるように頷いた。
ベンチからも、いつから結ばれていたのか絆の芽生えたメンバーたちが口々に声援を送る。
ムードは完全にジャジメントキングコブラーズ。
不味い、と思った権田はタイムを取ろうとして――辞めた。
深紅は、ファールボールの飛んでいった方角をじっと見つめていた。
最初は惚けているのかとも思ったが、違う。
あちらは、ビクトリーズ側のスタンドだ。
「――深紅さん!!」
――声が、聞こえた気がした。
だから大丈夫だ。権田はミットを大きく叩く。
バッター勝負だ、とその意志は目と目だけで伝わり、振り返った深紅の熱のこもった瞳に権田は頷いた。
大丈夫だ、何一つ問題はない。
勝てる。
椿という快速の選手が居るにも拘わらず、ゆっくりとワインドアップで振りかぶられたその腕。
全速力で走り出す椿を気にも留めず、勢いよく指先から放たれた白球は――番長のバットの下を掻い潜るように権田のミットの中に納まった。
「ストライク!! バッターアウト!!」
「ゲーム、セット!!!!」
――試合が、終わった。