薔薇と蛇の招待状   作:用具 操十雄

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※この話、後半の一部がややグロいです。
※短い濡れ場(ベッドシーン)があります。
※暇潰しに作った、反省は特にしていない




地獄巡り

 

 

 

       ――所詮、この世はまやかしよ!

 

 

 

 

 

 同族嫌悪とは――

 

 自分と同じ趣味、系統、性質を持つ者に対する嫌悪感の総称で、同じ種族を嫌悪するだけではこれに該当しない。

 

 種族に関係なく、同種族を嫌悪するものがいる。

 

 不条理な世への憎悪、社会への失望、過去の行いへの嫌悪、被害妄想、過度の自己愛、人外への畏怖、激しい劣等感、縄張りの独占欲、領地の占有など、それぞれの生まれ育った環境、現在の立場、見聞きしてきた歴史などに起因し、一概に言えるようなものではない。

 

 どこかの誰かが、それは自己嫌悪だと言った。

 

 これは、そんな彼と彼女が別れる物語。

 

 

 

 

 

 疲れてしまった。

 

 俺が何を叫ぼうと、どんな抵抗をしようと、同僚、友人は死ぬ。一人の例外なく、職場から消えた彼らの姿は二度と見なかった。俺は同じ席に座り、右から左へライン作業のように何人も消えていくのを見続けた。足りなくなった人間はどこからともなく補充され、また新たに消えていく。

 

 俺の憎悪や嫌悪はごまめの歯ぎしりでしかない。こんな世界を作った諸悪の根源に、俺の手は届かない。決心して辞表を提出した俺を、上司は諦めた顔で見た。

 

「俺が言うのもあれだが……元気でな」

「ええ、そちらも……お元気で」

 

 それ以上、互いに言葉はなかった。上司の彼も然り、部下、同僚、上司、その上役まで、全てが歯車でしかない。会社から何人消えようとなべて世は事もなし、反吐が出る諸行無常は今日も鐘を鳴らし、俺は涅槃寂静に至った。

 

 帰路で内側から溢れる感情に身を任せてガスマスクを剥ぎ取り、道に唾を吐き捨てた。自由の身になった俺は、道端のゴミ箱を蹴飛ばした。

 

「糞ったれが」

 

 小さなポリバケツに住んでいた鼠とゴキブリが慌てふためき、仲良く手を取り合って汚染された排水溝に逃げていった。こんな汚染された世界でも、奴らはしぶとく生きている。人間だけが疲弊し、耐えられなくなって消える。

 

 次は俺の番だ。

 

 だから俺は、薔薇の封蝋に蛇の絵が刻印された怪しい手紙の誘いに乗った。何かの間違いで死んでしまっても構わないと思っていた。

 

 家に帰り、PCのソケットを首の後ろへ接続し、久方ぶりに《ユグドラシル》のアイコンをクリックした。視界が暗転し、自分の体が何処かへ飛ばされるのがわかった。これで糞のような世界に別れを告げ、俺は人間を辞められる。今となっては、俺が消えることを悲しむものは誰もいない。

 

 

 今度こそ、翌日は明るい日だと思いたかった。

 

 

 

 

 銀色に輝く門を通過した気がするが、夢でも見たのかもしれない。

 

 小鳥が囁く声で意識は肉体に戻され、どろどろに溶けていた意識が覚醒で形を成す。ゆっくり目を開くと、木漏れ日の差し込む大樹の下、大の字に転がっていた。

 

 体を起こすと、自分のものではないように軽い。ガスマスクの必要のない酸素は、吸い込めば味がするようだ。汚染されていない大気は、とんでもなく遠くまで見渡せた。草原に雑草が生い茂り、流れる小川に魚や虫が生息し、そよ風が顔に当たって心地いい。

 

「ははっ……やった、俺は人間を辞めたんだ……やったぞ!」

 

 両の拳を握り、天に掲げた。

 

 今は誰かに喜びを伝えたかった。

 

 目を閉じると、周囲の気配が探れた。体の内側から力が湧き、自分の使えるスキル・技の数々が浮かんできた。それに伴い、消費されるMPも、体の疲労も、初めから知っていたように把握できた。

 

 試しに遠くの一本杉へ向かって全速力で走ってみたが、驚くほど短時間で長距離を走れた。ごつごつした大木を殴ると、視界が埋まるほど葉っぱが落ちてきた。おまけに虫まで落ちてきて、俺の頭をゴソゴソと這った。気持ちが悪いので手で掴むと、元いた世界では考えられない大きさの虫が怒っていた。

 

「でかいな……ははっ……あっはははは!」

 

 虫を放り投げると手裏剣のように切れのある動きで飛んでいった。俺は笑った。今度こそ普通に生きられると思えた。

 

 何年も会話すらしていない俺を呼んでくれた相手を探そうと、周囲を見渡した。

 

 東に小さな森、北と西にそれぞれ大きな都市、南は山脈が広がっていた。目的地も知らず、現在地からして分からない。初めに解決する問題は食事だ。空気を吸い込むと、喉がカラカラと音を立てた。先ほどの小川で水を飲んでおけばよかった。

 

 戻るより先に進みたいと思い、東の小さな森へ向かった。

 

 

 

 

 森を進んでいくと、小さなログハウスが見えた。木造の家には誰もいないが、人が住んでいる痕跡があり出払っているようだ。後払いで何か頂戴しようと思い、不法侵入を詫びながら忍び込んだ。人の気配は感じられない。貯蔵庫らしき場所へ忍び込むと、飲料用の水が入った水瓶、果物と小さな弁当が大量に並べられていた。

 

 家の主に後で礼を言おうと勝手に食べた。

 

 果実を齧ると口中に果汁が入り、実を咀嚼すれば芳醇な香りが鼻から抜けた。芯を残して食べ終え、水を流し込んだ。ただの水でさえ、甘いように思えた。喉を伝って胃へ落ち、栄養素が体中に広がっていくようだ。固形食(タブレット)の食事とは比べ物にならない。

 

 渇きを潤してから、家主を探そうと周囲を散策した。家の周りに人気はなく、森の奥へ進んでいく。隠密特化の俺は対象を発見するのが早い。

 

 森の影に隠れながら周囲を散策していると、低めの崖に行きついた。見下ろすと小さな湖があり、畔に人影が見えた。俺は対象の種族を確認しようと、気配を絶って崖を滑り降りた。

 

 相手は人間、性別は女、年齢は不明だが水浴びの最中で全裸だ。ご丁寧に彼女は生まれたままの姿だったので、何もかもが見えてしまった。迂闊に近寄り過ぎて、周囲に身を潜める場所もない。

 

 最悪のタイミングだったと言える。

 

「っ……!」

「だ、誰!?」

 

 俺が発した吐息で、金髪の女は胸と下半身を手で隠して叫んだ。女は透き通るほど白い肌で、濡れた金髪が太陽光で輝いた。顔は怯えて引き攣っているが、顔立ちを見るとさほど若くないように思える。それが彼女の色気を際立たせた。

 

 元来、女性経験のない俺は、異形種の癖に女の裸体で動揺した。このままでは立派な変質者で、アインズ・ウール・ゴウンの恥さらしだ。

 

 俺は後ろを向き、両手を上げた。

 

「迷い込んだものだ! すまない、覗くつもりはなかった」

「……服を着るので、こちらを見ないでください」

「わかった」

 

 陸へ上がる水音、衣が擦れる音、そしてこちらへ歩いてくる足音。彼女は俺のすぐ後ろにいる。衣擦れの音がしたので服は着ているだろうと振り返った。

 

 振り返りしな、平手打ちを食らわされた。物理無効化で避けると相手にダメージが跳ね返るかもしれないと、剥き身で彼女の制裁を受けた。そこまで考えられるほど、相手の平手は遅かった。綺麗な裸体を覗いた報いに、平手打ちなら安い。

 

 しかし、思ったより紙装甲の俺には堪えた。頬を抑えると熱を帯びていた。

 

「……つ」

「不埒者!」

 

 金髪の女性が腕を組んで俺を見上げていた。かなり怒っていたし、少しだけ痛かったが、悪い気はしなかった。彼女にどう接すべきか考え、俺は同じくらいの年齢であるかのように振る舞うことにした。異形種の年齢など、黙っていればわかるまい。

 

「あぁ……本当に、悪かった。事故だったんだ」

「本当ですか……?」

 

 女は物珍しそうに上から下まで俺を眺めた。こちらは装備品もなく裸同然の装備なので居心地が悪い。

 

「種族は何ですか?」

「ハーフ・ゴーレムだ」

「聞いたことがありません。ハーフ……混血種ですか?」

「そうだな……そうなるな」

「人間は食べますか?」

「食べない」

「よかった……」

 

 身の安全が保証されたと思い、女はため息を吐いて組んだ腕を解いた。衣服のポケットをまさぐり、煙草を取り出して小さな炎の出るマジックアイテムで一服つけた。紫煙が俺の体を通り抜けて空へ向かった。お世辞にもいい匂いと言えない上、体にも悪そうだ。

 

「体に悪い。長生きできる世界なら、長く生きた方がいい」

「私は、長く生きたくないの」

「生きたくても生きられない奴もいる」

「ええ、うんざりするほど」

「?」

 

 女は唇を噛みしめた。

 

「名前は?」

「ホヅミ……」

 

 うっかりハンドルネームではなく本名を名乗っていた。自分の名前にも慣れておかなければならない。

 

「ホヅミ……変わった名前」

 

 女は間を空けて何かを考えていた。今さら間違えたとは言えなくなってしまい、次の言葉を大人しく待った。

 

「あなたは、私を殺す人なの?」

 

 これが彼女との出会いだった。

 

 

 

 

 女は30代から40代の間に見えた。

 

 俺とそう変わらないように見えたかと思えば、時おり顔に影が差し、推定年齢を大きく上げた。顔の造りは美人だが、表情は全体的に暗い印象を与えた。

 

 彼女はメイナと名乗り、森のログハウスで相棒と働いていると言った。

 

「先ほど勝手に入り、果物と水をもらった。何か礼がしたい」

「私を……殺――」

「俺は誅罰者(パニッシャー)じゃない。ただの迷い人だ」

 

 女は俯き、また唇を噛んでいた。

 

 無言の彼女に続いて先ほどの木造家屋に着くと、子供たちが楽しく遊ぶ喧騒が聞こえた。

 

「お帰り、メイナ!」

「メイナー!」

「うえぇぇぇん……」

 

 子供たち4、5人の集団から、小さな幼女が駆け寄って彼女に抱き着いた。子どもたちは遊びを辞め、俺たちを取り囲んだ。彼女に抱き着いたり、俺を不思議そう眺めたり様々だが、号泣している幼女は彼女に抱き着いて離れない。

 

「サロ……」

 

 女は笑い、しゃがんで子供の目線に合わせ、猫毛の頭をくしゃくしゃと撫でた。子供を産んで育てた経験を匂わせる対応だった。メイナはぐずぐずした少女の鼻水と涙を拭いた。

 

「サロ、泣いてはいけないわ。喧嘩でもしたの? それとも寂しかった? 大丈夫よ、みんなで同じ場所に行くのだから」

「うん……」

「そう、偉いわね」

 

 家の扉が開き、誰かが出てきた。

 

 一目で異形種だと判断したのは、頭が魚だったからだ。体はメイナと同じく成熟した女性のもので、声は非常に可愛らしかったが、首から上は魚だ。人間の首に魚が乗っているような単純構造ではなく、衣服から魚の頭が飛び出していると言ったほうが近い。よく見ると手、足も鱗で覆われていたので、服の中身は半魚人(マーマン)かもしれない。

 

 あちこちがアンバランスな生物だと思った。

 

「落としたブローチは見つけられた?」

「ええ、席を外してごめんなさい」

「そう、良かった。その人は誰?」

「彼は迷い人なの」

 

 魚は俺をじろじろと眺めた。魚眼で見られると人間よりも余計にみられているような気がした。俺は肩をすくめて頭を下げた。

 

「家の中から林檎と水を貰ったから、何か礼がしたいと」

「そういえば、誰かが入ったような形跡があったかしら。メイナ、子供たちの面倒をお願い。あなたはこちらへ」

 

 俺は手招きされ、子供たちとメイナを残して彼女に続いた。

 

 森の木陰で彼女が聞いた。

 

「あなたは元人間の異形種? それとも、生まれながらの異形種?」

「俺は元人間だが、なぜ知っているんだ」

「やっぱり……そんな輩が増えていると噂に聞いたから。元人間はめっぽう腕が立ち、何をしでかすか分からないと言われているけど、あなたもそう?」

 

 俺の他に来ている41人のことなのだろうか。

 

「そんな聞かれ方をされると素直に”そうだ”とも言い難いが……目的地は決まっているが、場所がわからない」

「人間がここに長居しないほうがいい。林檎も水も、足りないならもっとあげるから、すぐにここを去りなさい」

 

 直球で、元人間の俺にいて欲しくないらしい。時間制限があるわけでもなく、俺は周辺国家の情報を集め、林檎の恩を返し、すっきりしてから旅に出たかった。

 

「言われなくても、勝手に恩を返し、勝手に消えるよ」

「恩を返すなら……私たちを殺して」

 

 魚は口をパクパクと開閉させた。

 

 どいつもこいつも、なぜ死にたがる。生きたくても生きられない奴はうんざりするほど見てきた。死にたがる女と魚に苛立ち、噛みしめた歯がぎりぎりと音を出した。

 

 俺は人差し指を魚の胸に突き出した。

 

「あんたらは、俺が人間を辞めてから最初に出会った相手だ。勝手に死なれちゃ後味が悪い。何に苦しんでいるのか知らないが、死にたがるのは止せ」

 

 魚はしばらく黙り込み、何かを考えていた。

 

「ただ飯を食わせる余裕はない。働かないなら出て行ってほしい」

「なら、働かせてもらう」

「……後悔するわよ?」

「ここで去った方が後悔する」

 

 どうせ行きつく場所は決まっている。せっかく異世界に飛んだのなら、寄り道は必要不可欠だ。俺はもう、簡単に諦めて誰も彼も見捨てたりしない。

 

 この日は休息を願い出て、俺は物置で翌朝まで眠りこけた。

 

 妙な流れで彼女たちを手伝うことになったが、仕事の説明は一切なかった。

 

 

 

 

 指示も出されずに、翌朝から忙しかった。

 

 俺が外に出て早々、小さな幼女が両手を前に出してペンギンのように寄ってきた。

 

「ほじゅみぃーだっこ」

「ああ、と、きみの名は……サロ?」

「しゃろ!」

 

 嬉しそうな顔で万歳をした。こんなに喜んでいる人間は初めて見た。

 

「抱っこだな、はいはい」

 

 サロは赤子の領域から出ておらず、柔らかくて軽かった。抱き上げたときに乳のような甘い匂いがした。背の高い俺の片腕に抱きあげられたサロを羨み、他の子供たちも集まってくる。全員、年齢が同じくらいの幼児に見えた。

 

「ほじゅみぃー。やたぐるま」

「肩車か?」

「ほじゅみ、だっこ」

「おいおい、もう手がいっぱいで」

「がっこ」

 

 子供は欲望に忠実で、しかも聞き分けがない。おしめのせいでペンギンのように歩くそいつらを無下にもできず、俺は朝から昼食を挟んで夕方まで四つん這いになり、背中に子供たちを乗せてログハウスや森の中を周回した。

 

「うきゃー!」

「あっち!」

「……やれやれ」

 

 体力(HP)は減らないが、思ったより忍耐の要る重労働だ。

 

 子供たちは体力の限界を迎え、ログハウスの中へ戻っていった。俺も後を追って戻ると、小さな子供なのに手助けがなくても一人で食事をしていた。教えるまでもなく、他の子を見て自然と学ぶのだという。メイナが子供たちの補助で忙しそうに動き回っていた。

 

 俺は外で薪割りを命じられた。よく使い込んだ斧は俺の手にもよく馴染んだ。スキルの練習にうってつけだった。

 

「ちょうどいいな……スキル《疾風迅雷》」

 

 素早さを上げて拵えた大量の薪で、子供たちの遊具を建設してから戻ると、魚がタオルで汗を拭いてくれた。女性特有のいい匂いがしたが、口は酸欠気味に開閉を繰り返していた。サンマに似ていた。

 

「みんなはお風呂よ。休んでいていいわ」

「そうか」

 

 大人と子供の食事は時間が分けられている。子どもたちは食事を済ませ、風呂に入って体を洗われ、全員が同じ模様のパジャマを着てから寝室で雑魚寝した。まだ幼いのに礼儀正しく、椅子に腰かけてぼんやりと彼らを眺めている俺に「おやすみ」を言いに来た。

 

「教育熱心だな……」

「ホヅミ、ご飯よ」

「あ……ああ、ありがとう」

「メイナ、あなたも食事になさい」

「はぁい」

 

 大人の食事は子供たちが眠ってから、果物、木の実、パンなどで簡単に終わらせる。俺と同じく、朝から晩まで子供のおしめと入浴の世話をしたメイナも、夕食のときだけは気が抜けて、隙だらけだった。

 

 子供たちと一緒に入浴したらしく、風呂上がりの上気した顔が艶っぽい。彼女の寝間着から覗く胸の谷間が俺の目線を吸い寄せようと(いざな)い、視線を逸らすので必死だった。幸い、気を紛らわせて(欲望を沈静化して)くれる魚の頭がいた。

 

 二人とも丁寧に切り分けた林檎を齧りながら、俺の顔を凝視していた。

 

「……何かついているか?」

「あなた、元は人間なんですって?」

「ああ、俺は人間を捨てた」

「私も……なれるでしょうか」

 

 メイナは唇に指をあて、何かを考えていた。

 

「手段はあるだろうが、なぜだ?」

「……何でもありません」

 

 メイナは出会ってからずっと言葉が足りない。思わせぶりな態度で何かを隠している。三個目の林檎に手を伸ばすと、魚が声をかけた。

 

「ごめんなさい。私たち、どちらも料理ができないの」

「食えるだけでありがたいが……チビたちはそうもいかないだろう」

「みんなの食事は別で手配してあるの。私たちと同じものとはいかないわ」

「孤児院も気を使って大変だな」

「孤児院……ね」

 

 魚は意味ありげに笑った。

 

「明日、都市国家連合に買い出しをお願い。メイナと一緒に」

「唐突だな。別に構わないが……メイナはともかく、人間じゃない俺が街を歩いてもいいのか?」

「亜人種も住んでいるし、物置の黒いローブで体を覆えばいいでしょう。背の高いあなたでも間に合うくらい大きいものだから」

 

 それだけで異形の部位を覆い隠せるか不安だが、いざとなれば隠密行動をすればいい。俺が本気で気配を殺せば誰にも気づかれない。

 

「稀に魔物が出るから気を付けてね。いつもは気のいいトロールに護衛を頼むけど、あなたは強そうだから」

「まぁ……それなりに、な」

 

 初めて人間の都市に行けるとなって喜び、顔が緩んだ。高揚しかけた気分は、魚の言葉で階段を転げ落ちた。

 

「あなた、メイナと交尾したいの?」

 

 林檎を粉々にしようとする歯の上下運動が、自分の意思と関係なく止まった。感情が滞ると体の動きに影響が出るのは、半分だけ混じったゴーレムの特性かもしれない。名目上は混血(ハーフ)・ゴーレムで、何らおかしなことではない。

 

 それよりも、上目遣いで俺を見ているメイナへ対策を取らなくてはならない。

 

「……そうなの?」

「だって、彼、さっきからあなたの方をチラチラと見ているから」

「あ……ごめんなさい、いつも二人だから胸がはだけていたのね……恥ずかしいわ」

 

 彼女は緩んでいた寝巻のボタンを止めた。僅かに覗いていた胸の谷間が覆い隠されたが、それで済むならこんなに動揺しない。年上が俺の守備範囲とは知らなかった。

 

「本当に元人間なのね。私には見向きもしないもの」

「い、いや、済まない。気にしないようにしていたが」

「あなた、女性経験がないのね」

「……」

 

 突然に言い当てられ、俺の体は金縛りにあった。取り繕おうとしても、指先一つ動かなかった。

 

「やっぱりね……。買い物に出ても、あまり遅くならないでね。二日くらいならいいわよ」

「何を……言ってる。俺は別に……女性経験がないわけじゃ」

「嘘ですね」

「嘘よね」

「……」

 

 二人には確信があるようだ。魚は人差し指を立て、指揮棒(タクト)のように振り回した。

 

「会話に慣れていないと、女性はすぐにわかるわ。二日くらいいいと言われたら冗談を交えて返すものよ。こんな美人が相手だと緊張するとでも言っておけば、嘘でも彼女は喜んだでしょう」

 

 ぐうの音も出ない。

 

「したい、ですか?」

「……」

「いいですよ。こんな年増で良ければ」

「いや、だから俺は別に――」

「ただし」

 

 メイナは強い目で俺を見た。

 

「私たちを……殺してください」

「……」

「ふふっ……」

 

 何も答えない俺に、自嘲するように笑って外へ出て行った。

 

 俺は自分で思うよりもかなり苛立ってしまい、握った林檎に亀裂が走った。メイナが死にたがる理由はまだ説明されない。こんな世界でなぜ死にたがる。生きたくても生きられない奴なんて、現実世界に吐いて捨てるほどいた。

 

 無言で林檎を睨んでいる俺に構わず、魚女は後片付けをしてメイナを追った。

 

 ぼんやりと見ていた窓の外、暗黒の夜に紫煙が流れていた。右から左へ進む煙を見ていると、魚が出て行ってから紫煙の枝分かれが増えた。手持無沙汰な俺は先に寝ようと、物置に行って横になった。恐らくは秋の夜長だと思われる静寂、身にまとう気温は一定に保たれ、毛布の類がなくても心地よかった。

 

 俺は置いてあった小さな木箱を枕にして眠った。

 

 変な匂いがした。

 

 

 

 

「ほじゅみぃーだっこ」

「サロ、俺は出掛けないといけないんだ」

「めー! やぁあああ!」

「むぅ……」

 

 コバンザメのように俺に張り付くサロは、3歳児らしく”いやいや”をしていた。聞き分けがいいはずがない。荷車の支度を終えたメイナが来るまで、彼女は俺に張り付いていた。サロは俺からメイナ、メイナから魚へと、バケツリレーよろしく引き継がれ、最後は涙目で指しゃぶりをしながら俺たちを見送った。

 

 自分の子供でもないし、すぐに再会できるのに心が痛んだ。

 

 メイナの先導で荷車を引いて森を歩くと、すぐに草原に出た。

 

 広大な草原の遥か南で謎の飛行物体が見え、北へ数キロの場所に都市が見えた。草原を撫でる風が気持ちよく、山から流れてくる風は仄かな冷気を孕んでいた。

 

 メイナは北を指さした

 

「あれがカルサナス都市国家連合です。アインズ・ウール・ゴウン魔導国に属さない、大陸北東の国家です」

「魔導国はどっちだ?」

「西のほとんどが魔導国の領地です。首都は西の隅にあるリ・エスティーゼです。ここからだと、ずっと西南西でしょうか」

「西か……」

 

 ギルドのメンバーが作った国の名が、アインズ・ウール・ゴウン魔導国だと知った。誰が決めたか知らないが、わかりやすい名前で助かった。

 

「西に行くと、まずバハルス帝国があります……都市国家連合より大都市で、魔導国に所属していて……私の祖国です。魔導国の首都へ行くには、そこからずっと西に行かないといけません」

「帝国出身者だったのか」

「私は貴族出身です」

「だから料理ができないんだな」

 

 冗談めかして言ったつもりだったが、何かの地雷を踏んだらしい。彼女は無言で唇を噛みしめた。

 

「いや、ごめん……悪かった」

「本当のことですから。生まれた時から貴族で、家事は使用人に任せて育ちました。私……いい年して、一人じゃ何もできないんです」

 

 彼方を見て自らを嘲るように笑った。

 

「俺を拾った……だろ?」

 

 何の慰めにもならないが、せめて笑ってほしかった。彼女は空気を読んだのか、頭を強く振って明るく笑った。

 

「それでは、拾われた恩を返すために一生懸命、働いてくださいね。今日は二人で美味しいものでも食べましょう」

「メイナ、荷車に乗ってくれ。俺が本気で走ればすぐに着く」

「よろしくお願いします、ホヅミさん」

「スキル《疾風迅雷》」

 

 一気に走りだそうとしたが、すぐに停止を余儀なくされた。

 

「きゃあああ!」

「……」

 

 想像とは違って上手くいかない。

 

 急発進についてこれず、彼女は振り落とされ、冗談のようにゴロゴロと後転した。慌てて駆け寄った俺を泥だらけになった顔で見上げ、子供のように笑い、謝りながら俺も笑った。

 

 死にたがっている女とは思えなかった。

 

 

 

 

 走る速度の加減を掴んだころ、彼女の衣服はかなり汚れていた。

 

 荷車に汚れた女性を乗せ、全身を黒衣で包んだ俺は誰がどう見ても怪しく、奴隷商人と変わりがない。都市の検閲官は当然、俺たちの馬車を止めた。

 

 彼女は平静を保ち、手提げ鞄から丸まった書類を取り出した。

 

「私たちはソーハ家の末端です。今日は仕入れに参りました。通行許可証がこちらに」

「チッ……通ってよし!」

 

 許可証を見た兵士は、忌々しいものでも見たように顔を歪めて舌打ちをした。俺の素顔が見られたのかと心配していると、荷車から飛び降りた彼女が進行方向を指さした。

 

「随分と感じの悪い兵隊だな」

「あれがまともな対応です。私たちは……だから」

「すまない、聞き取れなかったんだが」

「何でもない。さあ、行きましょう。木箱と大樽が必要です」

 

 俺にはアイテムボックスがあるので、資材と食料は多めに買えた。用途の分からない木箱と樽、食料品を大量に買い込み、全てをアイテムボックスへしまった。無限に収納できると知った彼女は喜び、指定された量より多く買い込んだ。

 

「二人の食料も果実だけじゃ足りないだろう」

「そこまで資金に余裕はないんです」

「……今度、俺が稼ぐよ。美容にもよくないからな」

「ふふ、ありがとうございます。女性に優しい異形種さん」

 

 荷車は彼女の個人タクシーとなり、馬代わりの俺に引かれて今日の宿を探した。

 

 移動しながら、情報に疎い俺に様々なことを教えてくれた。彼女は俺が思っていたよりも饒舌だった。

 

「都市国家連合の都市長は女性です。詳しくありませんが、冒険者には勇者様と闇騎士様がいらっしゃるとか」

「冒険者か……」

「身分の証明がいらないので手軽になれますよ」

「いつまでも養われるわけにはいかないな」

「都市国家連合は他国に比べて大変かもしれません」

 

 神殿国家を支配した魔導国の影響で、属国化を拒否した都市国家連合には病院代わりの神殿が存在しない。日を追うごとに治安が悪化し、回復薬は高騰を続け、犯罪件数も伸びているが、優秀な都市長のおかげで国家として維持ができているようだ。重病人や怪我人はポーションなどの回復薬で応急処置し、資金を貯めてから冒険者を雇い、神殿のある魔導国の支配国へ亡命する。そこまで移動資金が稼げないものは、必死で暮らすしかないという。特権階級である貴族の安全は保証されているが、中には裏で犯罪組織に加担し、甘い蜜を啜るものもいる。

 

 確実に人口減少が進んでいるが、問題はそれだけではないと言って言葉を止めた。

 

「どうした?」

「……あ、宿を取りますね。たまには美味しいものでも食べて、明日になってから帰りましょうか」

「?」

「あちらは亜人種たちが住んでいる区画です。お酒も飲みましょう」

「無理しなくてもいい。寝るだけでいいだろう」

「私が飲みたいんです。いつもは一人だから」

 

 酒は初めてなので気が進まなかった。俺が不安でぼんやりしているあいだ、彼女は手際よくダブルベッドの部屋を一つだけ取った。

 

「別の部屋にすべきだ……」

「お金がもったいないんです。子供たちの食費と私の煙草を考えると、宿のランクを落としても良かったかもしれません」

「いや……煙草を止めろ」

「お嫌いでしたね。窓を開けるので我慢してください」

 

 いつの間にか論点がずれていた。男女が同じ部屋に泊まるのはどうなのかと聞いたつもりだったが、俺の心を読んでくれなかった。

 

 備え付けてあるお飾りの椅子に座って、窓へ紫煙を吐き出す彼女を眺めていた。テレビもネットもない異世界で、他にすることがない。内外の温度差で、紫煙は一直線に窓から外へ逃げて行った。

 

 彼女は夜の背景が良く似合った。

 

「お腹、空きましたか? そろそろ食事に行きましょう」

 

 灰皿に煙草を押し付け、支度を始めた。

 

 

 

 

 宿に隣接している亜人種のレストラン、”アネハギテイ”はそれなりに栄えていた。人間が珍しいのか、種族を隠す俺が珍しいのか、入店してから随分と不躾な視線を浴びたが、すぐにそれらは離れていった。活気ある店内に、彼女が怯んだ様子はない。

 

 俺はいかにも空想的(ファンタジー)な世界が珍しく、ローブの隙間から周囲を観察した。

 

 猫耳が生えた人間、服を着て二足歩行する犬、猫、猿、立派な髭面の小男は山小人(ドワーフ)、美味そうに酒を飲むイグアナと、魚の頭部を持った人間。孤児院の魚女はこの町の出身者なのだろう。

 

 みんな楽しそうに食事をし、酒を(たしな)んでいた。

 

 俺は文字が読めないので注文は彼女に任せた。手慣れた様子であれこれ注文する彼女は、買い出しの度にここへ寄っているようだ。亜人種たちは黄色い炭酸の酒を旨そうに飲み干し、俺は思わず唾を呑んだ。漫画や小説に描かれているのと変わりなく、冷えた酒はとても美味しそうだ。

 

「あと、それから、灰皿ください」

「少々、お待ちください」

 

 猫のウェイトレスは尻尾を立てて走っていった。灰皿が来る前にメイナは煙草に火をつけた。

 

「ヘビースモーカーだな……」

「そういうものです」

「……よくわからん」

 

 酒はすぐに出てきた。

 

 グラス一杯に注がれた橙色の液体を前に、俺は固まった。他の亜人たちが旨そうに飲んでいる黄色い炭酸の酒が来ると思っていた。予想が外れたのもそうだが、いざ酒を前にして怖気づいた。

 

「ふー……飲まないんですか?」

 

 彼女は紫煙を(くゆ)らせ、既に酒を口にしていた。

 

「あぁ、いや、飲む」

「ふふっ、本当に慣れてないのですね……お酒も、女性にも」

 

 悪戯な笑みに、彼女の推定年齢が下がった。探るような目つきの彼女は、若く可愛らしい笑顔を張り付けていた。

 

「……そういう環境じゃなかったんだよ」

「どうしてですか?」

「いや……うん、相手がいなかった」

「人間を辞めてどうですか?」

「何がだ……」

「性欲……とか」

 

 俺が何かを言う前に、料理が運ばれて会話が中断した。

 

 割合、下世話な話をしているときでも、彼女の品は乱れなかった。酒を飲む仕草、蒸かした芋を食う仕草、肉を切るナイフとフォークの使い方、どれをとってもしっかりとした教育が身についていた。俺はテーブルマナーもろくに知らない自分が失敗しないかを恐れ、空腹の割に手の動きが鈍かった。

 

 手持無沙汰なので、恐る恐るグラスを口に近づけた。

 

 アルコール臭が鼻の奥へ突き刺さり、危なくグラスを落とすところだった。飲んでみると柔らかい柑橘系の香りが口の中に広がったが、後味はアルコール一色だ。あまり高い酒ではないらしく、後味が好きになれなかった。漫画や小説のようにはいかない。

 

 俺はちびちびとグラスの液体を減らしながら、ナイフとフォークで肉を解体して口に運ぶ彼女を眺めていた。ソースで濡れる唇がやけに目についた。彼女は布巾で口を拭いながら俺を見た。

 

「あ、お肉、大きいのを頼んでいるので取り分けましょうか?」

「孤児院の子供たちがやけに少ないのはなぜだ」

「孤児院……そう、確かにそう見えますね」

「違うのか? ソーハっていったか。そこの貴族の援助で孤児院を運営してるんだろう?」

「……まぁ、そんなところです」

 

 俺の発言以降、彼女の肉は減らなくなった。

 

「食べますか?」

「ああ、もらおうかな」

「どうぞ」

 

 肉を突き刺したフォークが鼻先に突きつけられた。

 

「いや、どうぞって……」

「ソースが零れちゃいます」

 

 「このまま食え」と顔に書いてあった。周囲で俺たちに関心を払っている者はいない。かといって、受け入れるには抵抗があった。

 

「早く」

 

 彼女も引く気配がない。止む無く俺は、年上の淑女に”あーん”としてもらった。

 

 初めて食べる肉は内部までよく焼けており、香辛料の匂いが口内に広がり、噛むと肉汁が溢れた。噛めば噛むほど体が悦び、口はもっと寄越せと欲しがった。

 

「畜生、こいつぁ美味いな……」

「もっと食べますか?」

「食べる」

「はい、どうぞ」

 

 いくら年上とはいえ、弐度も甘えるつもりはない。

 

「皿をくれ。自分で食える」

「そうですか……」

 

 少しだけ残念そうだった。

 

 調理した料理はただの果実とは比べ物にならない。調理しただけでこんなにも違うのかと、感動して体が震えた。結局、彼女の残したものを全部、平らげてしまった。

 

 食後に改めて酒を飲むと、アルコールが油分を洗い流すようで心地よかった。

 

「ふー……」

「私、子供に捨てられたんです」

 

 一息ついた俺に対し、何の脈絡もなく過去の話を始めた。よく見ると顔が赤くなっている。酒が回った彼女は、より饒舌に重たい過去を話した。

 

「子供を捨てたんじゃなく、子供に捨てられたんです」

「旦那は?」

「別れました。子供たちと一緒に使用人まで出て行って、新たに使用人も雇えず、夫婦喧嘩が絶えなくなりました……。彼、後先考えずに借金だけしていたみたいで。娘たちを引き取った御方から選別に頂戴した白金貨も、夫が勝手に使い果たしてして一文無しになりました。家も土地も、借金の果てに残った僅かな財産も借金の形に取られ……途方に暮れた私たちは、帝都を逃げ出してから街外れで大喧嘩して……何度も、何度も……何度も、顔や頭を叩かれました」

 

 俺の中で黒い何かが蠢いた。

 

「酷い旦那だな……」

「ふふっ、だから私、彼の股間を蹴り上げてやったんです。とても痛がっていました」

「だろうな……」

 

 彼女の笑顔と武勇伝で、俺の溜飲も下がった。

 

「そこで別れました。それ以来、彼とは会っていません」

 

 話を聞く限り、彼女にも非はある。しかし、借金を申し入れたのが旦那なら、やはりそちらが癌だ。唇を噛む彼女を責める気にはなれなかった。

 

「昔の私は本当に最低で……貴族だから最後は何とかなると、何も考えていなかった。そんな地位なんて、生きるだけのことに何の価値もない」

「終わった過去は戻らない」

「知っています。だからこそ、せめて、あの子たちだけは魔導国で幸せであってほしい。私はもう、あの子たちの母親ではありませんから」

「行けばいい、魔導国へ。俺の目的地は魔導国だ。そこで友人たちが待っている。俺と一緒に魔導国へ――」

「子に捨てられた親の末路なんて悲惨なものです」

 

 彼女は煙草を灰皿に押し付け、自嘲気味に笑った。その顔は自分自身への嫌悪で満ち、明確に死を望んでいた。昔は大変だったにせよ、今は孤児院の養母に収まっている。それほど苦しめられる過去なのか疑問に思えた。

 

「それから、その日、一日を生きるために必死で働きましたが、何の取り得もない年取った貴族のお嬢様は、どこへ行っても役立たずです。娼婦に身をやつしたときもありましたが、それも長続きはしませんでした。あちこちを放浪し、ようやくエナが拾ってくれて」

「エナ?」

「魚の……」

「ああ……」

 

 魚女の名前を初めて知った。

 

「子供がいないからよくわからないが、母親ってのは死んでも母親だろう。血の繋がりはどんなに否定しても変わらないと思うが、違うのか?」

「私に子供たちを抱く資格はありませんから……」

「俺が見てこよう。子供たちが元気でいたら、母親がここにいると――」

「止めてください……それだけは、止めて」

 

 拒絶が色濃く出ていた。

 

 言葉を待ったが、それっきり彼女は唇を噛んで黙った。

 

 酒場独特の喧騒の中、食事を終えた俺たちの間に重苦しい沈黙が居座った。無言で会計を済ませ、大人の男女が寝泊まりするダブルベッドの部屋へ戻った。

 

 俺は所在なさげに壁際に立ち、ベッドシーツの皺を伸ばす彼女を見ていた。

 

「俺、床で寝るから、ベッドで寝ていい」

「お願い、側にいて……買い出しに出ると、いつもは一人だから……寂しくて」

「……そうか」

 

 彼女に懇願され、俺はベッドに入った。

 

 俺も酒が入って冷静でなかった。ステータス異常の対策はアイテムに頼っていたので、紙装甲の俺には一杯の酒という初体験が堪えている。それだけで十分に許容量を超えているのに、別の初体験もしないかと誘われた。彼女は広いダブルベッドの上で俺に抱き着いてきた。

 

「抱いてください……哀れな私が、一時でも過去を忘れるために」

「……俺、異形種なんだけど。メイナたちの言った通りで経験ないから……その」

「私が動きます」

 

 彼女は顔を上げて俺の唇を奪った。

 

 つるりとした体が硬直し、唾液が二人の唇の間に糸を張った。

 

「混血種なら人間も混じっているのでしょう?」

「いや、だから……そういう問題じゃなくて」

「……ごめんなさい、私はこんな汚らわしい女なんです」

 

 彼女は泣いていた。

 

 俺は脊髄の反射に従い、優しく抱きしめた。

 

「どうなっても知らないからな……」

「ありがとう」

 

 導かれるまま、俺は発情した獣のように、涙の止まらない彼女を飽くほど抱いた。つるんとした体を、彼女は優しく愛でた。恥ずかしいことに自分では止められなかった。

 

 激しく、灼熱の闇の中、彼女が力尽きて意識を失うまで涙は止まらなかった。

 

 起こさないようにベッドから抜け出し、煙草に火をつけて咥えた。お世辞にも美味しいとは言えず、好きになれそうもないが、熱を帯びた体を冷ますにはちょうどよかった。

 

 月光に抱かれて泣き寝入る女と、初夜を迎えた異形種の男。

 

 彼女の涙が粒ダイヤのように光った。

 

 肺に吸い込んだ紫煙で、酒に似た独特の酩酊を感じて頭痛がした。

 

「サロ……」

 

 ベッドの彼女は孤児の名を呟いた。

 

 あの子は子供に似ているのだろうか。

 

 

 

 

 朝、会計を済ませた俺たちは森へ向かった。あまり時間をかけて魚に勘繰られるのは御免だ。空っぽの荷車に彼女はぽつんと座り、ぼんやりと空を見ていた。俺が振り返ると笑いかけてくれた。

 

「しっかり捕まっていろ」

「よろしくお願いします、従者さん」

「……ああ」

 

 一晩を共にした相手にどんな顔と対応をすべきかわからなかった。

 

 行きよりも速度を上げてログハウスに戻ると子供たちの姿は見えず、トロールらしき異形種が魚女と何かを話していた。トロールは俺たちを発見し、鼻をひくひくと動かした。

 

「誰だぁ?」

「迷い込んだ異形種だよ、手伝って貰ってるの。それより、今日の分が少ないのはどうして?」

「あぁ、そいつぁ、悪かった。瓦礫の山の発掘が終わってねぇのさ」

「こっちだって手を汚しているのよ。次はきっちり払いなさい」

「あぁ?」

「対価は高すぎず安過ぎず。しっかり仕事に精を出しなさい」

「おい! お前ぇ、自分が食われないとでも思ってんのかぁ!?」

 

 トロールは魚の首を掴んで持ち上げた。俺がどうやって助けるか考えた数秒で、魚が怒鳴った。

 

「やれるものならやってみなさい。あんたらの欲しがるものは永遠に手に入らないわよ」

 

 トロールは両眼をぎょろぎょろと動かして何かを考え、彼女を下ろした。意外にも彼は後頭部をぽりぽりと引っ掻きながら謝った。

 

「悪かった、また来る」

「真剣に瓦礫を掘りなさい」

 

 トロールは小さな木箱を担いで森の奥へ消えた。心なしか哀愁を漂わせていた。魚は金銀の混じった財宝らしきものが見える木箱を置き、俺たちに駆け寄った。

 

「お帰りなさい。早かったのね」

「何だ、あいつは」

「顧客だよ、私たちの」

「顧客?」

 

 質問に答えはない。

 

「それより資材はどこなの?」

「ホヅミが不思議な力で仕舞っているの」

「そうなの?」

「ああ、全部、俺が持っている」

「まとめて物置に運んでくれるかしら」

 

 詳しい話を聞きたかったが、家の中から飛び出してきた子供たちに見つかり、話すどころではなかった。物置に資材を降ろして外に出ると、子供たちがメイナに纏わりついている。俺も幼児専用の馬に変わり、彼らの子守に移った。

 

 俺が違和感に気が付いたのは夜になってからだった。

 

 サロがどこにもいなかった。

 

 

★★★

 

 

 俺が枕代わりにしていた木箱は見当たらず、生木の匂いが香る新品を枕にした。

 

 深夜、目を開くと月の明かりが顔に差し込んでいた。眩しくて起きたのではなく、誰かが外を歩く音がした。昼間のトロールが意趣返しに来たのかと思い、警戒して外へ出た。

 

 森の奥へ向かう魚は、何かを抱きかかえていた。

 

 月光で光る血痕を見つけた。何かあったのかと思い、隠密として後を追った。魚女は時おり振り返って周囲を警戒していたが、本気で気配を殺した俺に気付く素振りはない。

 

 森の中の少しだけ開けた場所で立ち止まり、担いでいた何かを下ろした。

 

 荷物が月光で照らされ、俺は卒倒しかけた。

 

 つい昼間まで笑っていた幼子が、首にナイフを当てられていた。魚女の目には何も映っておらず、深い闇で気持ちよさそうに眠る幼児を見下ろした。

 

 俺は何も考えず走っていた。突然に現れてナイフを掴んだ俺を、魚は不思議そうに見上げていた。

 

「……どうして起きてしまったの?」

「足音がしたからな」

「そう……尾行が上手いのね」

「隠密の本業だ」

 

 俺はナイフを奪い取り、アイテムボックスへ仕舞った。

 

「お前たちは貴族の援助で孤児院を運営しているんじゃないのか」

 

 彼女は嗤った。無知な俺を嘲るのではなく、自分へ対しての嘲笑が混じっていた。

 

「私たちはそんなに優しくない」

「俺は拾っただろう」

「行く当てのないものはよく働いてくれるから」

「……子供が少ないのは、殺していたからなのか?」

「少しだけ昔、獣人の小国家が滅びたの。トロールは瓦礫から財宝を掘り出し、私たちは調理してトロールに売る。財宝を街の貴族に渡して、新たな子供を得る」

「調……理……?」

 

 想定外の最悪の展開に、俺の想像力が動いた。

 

「食人種に子供たちの肉は高く売れる。体が柔らかい幼児は彼らの嗜好品なのよ」

「サロを、殺して売ったな!」

 

 俺たちが帰ってから、よちよちと歩いていたサロを見ていない。俺は彼女の胸倉を掴んで持ち上げていた。次から次に沸き起こるのは、サロを家畜のように捌いて殺した彼女への怒り。怒鳴ったくらいでは引きそうにない。

 

「あの子はまだ3歳だぞ! この子だってそうだ。おむつも取れてない、お前を親のように慕う子供を、躊躇いなく殺したのか。なぜそんな真似ができるんだ!」

「子供は種族に関係なく可愛い……本当に可愛かった。ひと月でも一緒にいれば情が移ってしまう……私の可愛い子供たち」

 

 彼女は脱力し、サロの名前を聞いて涙を流した。後悔と懺悔は彼女の中で溢れ、俺の手を掴んで懇願した。

 

「全ては生きるため。弄ばれ、残虐に殺されるよりは、私たちが安楽死させた方がいいとしても……可愛い子供を殺す私たちは……いつか必ず報いを受ける。ふらっと現れたあなたは、私たちに罰を与える者だと思った」

 

 人間が食われるという、容易に想像ができる残酷な真実。何年も続けているはずの孤児院に、幼子数名しかいない事実。自分がとても汚らわしいものだと思う彼女たちの苦悩。

 

 考えればわかることを考えなかった。サロが消えたこと、あるいはトロールと魚の会話、いま考えれば全てが事実を指している。

 

 俺は誤魔化していた。

 

「皮肉なものね。生きるために何でもしようと思ったのに……最近、死ぬことばかり考えているの」

 

 何も答えられなかった。目の前にいる魚と、歯ぎしりをしていた現実世界の俺が重なった。

 

「あと数日もすれば、トロールたちが財宝を抱えて持ってくる。それまでにすべての子供たちを処分しなければ、子供の補充と財宝の回収に来た使者が子供を殺す」

「生きるだけが……そんなに難しいのか」

「馬鹿ね……捨てられて、選択肢がない人はたくさんいるのよ」

「メイナは……」

「直接、聞きなさい」

 

 俺は彼女を下ろし、しゃがみ込んで子供の頭を撫でた。幼子の髪は俺の指を流れ、触れるとさらりと溶ける氷のような優しい感触がした。胸が上下し、楽しい夢でも見てるように微笑んでいた。

 

「俺が……片をつける」

「人を殺した経験があるの?」

 

 彼女は鋭い。幼子を助けて彼女たちを殺すか、彼女たちを生かして幼子を見殺しにするか、どちらを選ぶべきか、答えは簡単に出る。問題は、俺に彼女たちが殺せるのか、だ。

 

 今の俺は、誰も殺せそうにない。人間基準の倫理観は理性の奥まで根を張っている。

 

「殺すのに躊躇いがあるなら、物置の上に置いてある木箱を開けなさい。きっと、決意は固まるから」

 

 魚は子供の頭を膝に乗せ、優しく頭を撫でた。母親が子供を愛するように、慈悲深いものだった。

 

「私はここで待っているわね。この子と一緒に」

 

 俺はその場を去った。

 

 静かな森を歩きながら自問自答しても、俺の迷いは大きい。物置に戻り、棚の最上部に乗せてあった木箱を持つ。中に何が入っているのか、薄々は勘づいていた。俺は優しく床に置き、蓋を一気に開いた。

 

 金縛りにあった。

 

 中からむせ返る肉の臭いが立ち上る。顔を背けて臭気を逃がすと、赤いゼリーが飛び込んできた。スライムを箱に押し込めたような赤いゼラチン状の塊。ぶつ切りにされたサロの体が、赤いスライムの中でまばらに散らばっていた。

 

 これは、煮凝りだ。

 

 魚は血の一滴まで解剖した肉と一緒に煮詰め、俺たちが買い出しに出ているあいだ、長い時間をかけて煮凝りを作った。

 

 サロの面影が残らないように丁寧に捌いた様子が見えたが、彼女の眼球と唇らしきものがゼリーの表面に浮かんでいる。表層に浮かび上がる肉塊はゼリーに凹凸を作り、浮かんだ両目と俺は目が合った。

 

「っ、あ、かっはっ……ぁ……!」

 

 つぶらで小さな両眼球は、可愛い女児の生きている様子をありありと思い出させた。俺は顔から汗を零し、吐き気を堪えながら緩やかな動きで外に這い出た。

 

「っ……ぁ……ぁあ……あああああああああ!」

 

 気が付くと俺は絶叫していた。声は森の奥へ反響し、這いつくばる俺を月光が照らした。悲劇の舞台に立った主人公のようで情けなかった。

 

 人間が管理するこの場所は、子供の家畜を締めて調理し、食人種に出荷する人間牧場だ。

 

 子供たちは放牧されて健康に成長し、成長して膨らんだお腹が縮む前に捌かれる。

 

 リアルでも、企業の歯車になって生きる子供は多い。

 

 どちらも根本は同じで、一部の支配者層が甘い蜜を啜る。反吐が出る諸行無常はどの世界でも健在だ。

 

「ここも……地獄だ」

「見たんですね……」

 

 涙、鼻水、脂汗など、顔から様々なものを吹き出しながら振り返ると、月の明かりを背にしてメイナが立っていた。逆光で表情は黒く塗りつぶされている。俺は酷い顔を隠そうと顔を背けた。

 

「死ぬべきだったんです、子供たちと別れたあの日に。だから、私に子供たちを抱く資格なんてないんです」

「こんな…………まだだ、お前はやり直せる!」

「私は、雇い主である貴族の情婦だった。散々、遊ばれて、犯されて、飽きたから、ここに回されたんです。あなたに抱かれたのも、現実から逃げ出したかったからです」

「う……あああああああ!」

 

 俺の頭蓋骨の中を、これまで以上に色鮮やかな感情が溢れ、渦を巻いて意識を浚った。

 

 自分でもどうしたいのかわからなかったが、激情は俺の体内で暴れている。俺は彼女の首を両手で掴んでいた。締めようにも力が入らず、俺の震えと彼女の震えが共鳴して力が滑り落ちた。

 

 体から力が抜け、俺はしゃがみ込んだ。

 

「畜生……何であんたが、こんな目に……」

「生きていたかった。いつか子供たちと会えるんじゃないかって……子供たちに捨てられてから散々、さまよった挙句、幼子を殺す仕事に行きつくなんて……皮肉ですよね」

 

 自嘲して小さく笑い、しゃがみ込む俺に顔を近寄せ、体液塗れの俺の顔を優しく拭いた。

 

「命令に従っているだけなら、俺がそいつらを殺してくるから……それであんたは自由の身だ。俺と一緒に魔導国へ――」

 

 彼女は俺の口に指をあてて遮り、微笑みながら懐の血塗れナイフを取り出した。付着したばかりの鮮血はナイフの表面を切っ先に向けて流れ、草地へ滴った。

 

「ほ……ら。子供たちは、みんな死にました」

 

 子供たちとメイナ、魚を連れて魔導国へ亡命する妄想は露と消えた。滴る血が誰のものかなど、彼女の塗りつぶされた顔が物語っている。

 

「なぜだぁ! 子供たちは何も!」

「あなたが人を殺すには理由が必要でしょう? それに、どの道、こうなる運命だったんです」

 

 俺は目を見開いて立ち上がり、ログハウスへ顔を向けた。死者へするように合掌し、彼らの死体が冒涜されないように防いだ。

 

「忍術、《火遁、無礼蚓(ブレイズ)》」

 

 口から炎で出来た蚯蚓が這い出し、一直線にログハウスへ向かい、家の中で暴れ回って火をつけた。ログハウスは炎に包まれ、暗い森は文字通り火がついて明るくなった。俺は炎に当てられた体をねじり、メイナを睨みつけたが彼女は笑っていた。

 

「優しいですね。私の言葉を信じてくれた」

「……死が救いだと思うなよ」

「首を刻むのが楽しみで楽しみで、内臓を引き摺りだし、血をバケツ一杯に啜って美味しかったとでも言えば、あなたはきっと私を殺してくれたんでしょうね」

「……あぁ、本当だ。出会った時にそう言ってくれればよかったんだ。それなら――」

「子供たちも死ななかったかもしれない?」

 

 彼女は炎に照らされ、出会ってから一番、良い笑顔を見せてくれた。

 

「なぁ……死ぬ以外の道は無いのか」

「私は弱いから、もしかすると子供たちとまた暮らせるかもという希望に縋ってしまう。だから、子供たちを拾った人と同じように、強くて冷酷な異形種に、汚れた私を滅茶苦茶に壊してほしかった」

 

 ナイフの切っ先を自分の胸に当て、柄を俺に握らせた。目を閉じた彼女は嬉しそうに笑っているが、裏で底の見えない闇が口を開いて嗤っている。俺が手を伸ばしても、闇の奥には届かない。

 

「私があの夜、抱かれたのは忘れるため。弱肉強食の世界で、弱者は自分を誤魔化して生きるしかない。あなたは強いから、忘れて生きてください」

「やめろ……そんなことは――」

「さようなら、優しい異形種さん」

 

 ナイフの切っ先を自らの胸に当てた。俺は必死でナイフを奪おうとしたが、先に唇を奪われて俺の動きが止まった。異形の体の特性を知っているかのように、俺の動きを止めてから刃へ倒れ込んだ。

 

 ナイフは容易く心臓を食い破り、彼女の柔らかい体を貫いた。

 

 掌から女性の命を奪い取った感触が伝わり、俺の胸の奥へ楔として打ち込まれた。

 

 しな垂れかかる彼女から力が抜け、魂が剥離していくのがわかる。慌ててアイテムボックスを探ったが、よりによって回復薬の類は見当たらない。彼女の柔らかい唇から血が流れ、白い肌が青白くなっていく。

 

 俺は今日を永遠に忘れない。

 

 リアルから続いていた何も出来ない無価値な自分への嫌悪。それらから逃げ出し、解き放たれて逃げ込んだ先も、リアルと何も変わらなかった。彼女の闇を晴らすことのできなかった無力感が、また誰も救えないとせせら笑った。

 

「反吐が出る……」

 

 俺は初めから、自分だけは綺麗な場所で死んでいくものたちを見ていた。自分が汚れないように気を付けながら、同じように要領よく過ごせない連中に苛立っていた。

 

 自分に吐き気がこみ上げ、俺はその場に嘔吐した。

 

「うっヴぉぇえ……」

 

 胃の内容物を全て吐き出す傍ら、メイナが体温を失っていく。燃え上がる炎は俺たちを照らしながら森中へ広がっていった。周囲が昼のように明るい夜、小さなログハウス、家の中の子供たちの死体まで、炎は残さずに飲み込んでくれた。

 

 冷たくなっていくメイナを抱き上げ、森の奥へ運んだ。

 

 

 

 

 魚女は俺がメイナを横たえるまで、何も言わずに俺たちを見ていた。まるで眠っているように、彼女の死体は綺麗だ。いま思えば、闇の深い彼女だからこそ綺麗でいられたのかもしれない。今ではその闇が眩しくもある。

 

「そう……全部、終わったのね」

「いや、まだだ。俺はこれから都市国家連合へ行き、貴族どもを殺す」

 

 メイナはソーハ家と言っていた。

 

 彼女を情婦として弄び、ここへ人間牧場を作らせ、子供を誘拐して彼女たちに殺させていた卸元だ。彼女のためと言えば聞こえはいいが、俺は自分の恨みを晴らしたいだけだ。

 

 彼女の衣服をまさぐり、煙草を取り出して一服つけた。

 

「ふー……」

 

 空気を汚染する紫煙が俺の口から吐き出され、頭痛と酩酊感が訪れた。

 

「鬼神でも乗り移ったみたいね、ホヅミ」

 

 彼女の言う通り、鬼でも宿ったように、俺の心は黒い鎖に囚われている。かつての俺と同様、自分の罪を自覚しない屑共を、あるべき地獄に叩き落としてやる。

 

「二度と会わないでしょうけど、元気でね」

「お前は自由だ。その子は……他の子供たちが死んでいく中、偶然、最後に残った命だ。何かの縁だと、立派に成長するまで面倒を見てやれ。死ぬならその後で魔導国に来い。そのときは、今度こそ俺が殺してやる」

 

 俺は殺気を込めて魚を睨んだ。彼女は俺の視線を受け入れ、穏やかに笑った。魚なので表情はわかり辛いが、子を殺そうとする母親には見えなかった。彼女の明るい声が聞こえた。

 

「世話になったね、コウノトリさん」

 

 煙草をくわえて紫煙を引き摺る俺は、途中で振り返った。

 

「俺の名はホヅミでも、コウノトリでもない。本当の名は……」

 

 目を閉じて、俺が俺の生き方を受け入れる時間を要した。これから俺は、人間だった自分を殺し、暗殺者として血塗れの闇を生きなければならないのだ。

 

 魚は不思議そうに首を傾げてから、顔に似合わない可愛い声で聞いた。

 

「名は?」

 

「弐式炎雷。アインズ・ウール・ゴウン魔導国の弐式炎雷だ」

 

 俺は残像さえ残さず、その場を去った。

 

 

 

 

 魚と別れてから、俺は夜の草原を走った。すぐに都市の明かりが見え、気配を消して闇に紛れた。ロールプレイも自己陶酔も存在しない。これから起きるのは、憎悪に囚われた俺の快楽殺人だ。

 

 まだ明かりの灯る貴族の邸宅は警備が薄く、侵入は容易かった。応接間から下卑た笑い声が聞こえてくる。

 

「明日、仕入れたガキどもを牧場へ納品だ」

「ガキだからすぐに順応でき、彼女たちも楽な仕事でしょうな」

「スラムの孤児など、いくらでも替えがきく。食事をさせ、好きに遊ばせ、子守までついているんだから、短くて幸せな人生だな」

「ははは、仰る通りです。スラムを残してくれた都市長様様ですな」

「ああ、スラムには捨てられた子供たちが大勢いるからな。家畜にはしばらく事欠かんよ。いざとなれば、他国から攫ってくればいい」

 

 揉み手の商人らしき男と、貴族の青年が話していた。

 

 貴族は他人を見下したような目つきで、軽薄さが見て取れた。予想通り、特権に甘んじて何をしても許されると思っている性格らしく、こちらも必要以上に残忍になれそうだ。

 

 影から歩み出た異形の俺に、二人は耳障りな悲鳴を上げた。

 

「な、なにものだ、いつからそこにいた!」

「誰か!」

 

 俺は魚から預かったナイフを持ち、素早さを向上させた動作で商人の口を抑え、首を掻っ切った。出血は裂け目から吹き出し、貴族の体を赤く染めた。白目を剥いて絶命した彼を蹴飛ばし、紅に染まった手を伸ばして貴族を恐怖のどん底へ叩き落とした。

 

 彼は絶叫を上げながら逃げ出した。

 

「闇に踊れ……」

 

 一人の例外なく、皆殺しにするつもりだった。案の定、標的は情けなく逃げ惑い、屋敷中の護衛をかき集めた。奴にも兵隊にも家族がいるはずだが、俺は躊躇わなかった。終わったら屋敷に火をつけ、炎で包んでやろう。

 

「だ、誰かいないか! 賊が侵入したぞ!」

 

 彼の護衛は驚くほど弱く、背後に回って首に線を引くだけで力尽きた。多少のダメージは覚悟していたが、俺の素早さを目で追うこともできないようだ。部下や護衛として雇った兵士が背後で死んでいくの聞き、逃げる貴族の足がもつれていった。

 

 屋敷の中庭で力尽き、失禁しながら腰を抜かして座り込んだ。

 

「な、なんなのだ、貴様は! この化け物がぁ!」

 

 その頃、俺の両手は返り血で赤く染まっていた。

 

 強い殺気で奴を睨みつけ、両手で印を結んだ。

 

「拙者の名は弐式炎雷……世に蔓延る悪鬼羅刹へ、天誅を下すもの」

 

「なん――」

 

 赤い掌を突き出して口を塞ぎ、顎の止め骨を砕いて外した。罪の意識がない汚らわしい貴族の言葉など、聞く価値はない。

 

「御命、頂戴する。畜生道に落ちた貴様らに生きる術無し。六つの地獄を巡り、己が罪科を悔い改めろ」

 

「おご、ご……」

 

「腐れ外道どもがぁ!」

 

 俺は指を口に当てて火を吐いた。

 

 火だるまになった敵が断末魔の叫びを上げて暴れ回った。中庭の雑草に引火して炎が広がっていく。焦熱地獄を肉が灼ける臭いが漂った。仇敵が息絶えるまで、何の感情もない瞳で眺めていた。炎は屋敷に燃え移り、全てを呑み込もうとしている。

 

 場所を移動し、離れた場所から屋敷が炎上する場面を腕を組んで眺めた。

 

(所詮、この世は弱者のまやかし……か)

 

 闇に走り、影に潜む、鮮血で彩られた暗黒こそ、忍び耐える俺の生きる世。正義や愛は必要なく、暗殺者に慈悲はない。

 

 これで俺も彼女と同じ、両手を血に染めた罪深き外道だ。

 

 俺はそうすることで彼女が救われたと思い、自分を救いたかった。まやかしだろうと、死後は彼女と同じ場所へ行けると思いたかった。俺は望んで地獄に囚われ、足跡は血でと汚れていくのだろうが、やっと彼女と同じ目線に立てた。

 

 俺はきっと初めから、現実世界から逃げ出した自分も含めた人間が嫌いだった。幼い時から歯車のように利用される人間、虫けらのように死を受け入れた同僚、一部の特権階級だけが平和に過ごせる社会。

 

 それらよりも、要領よく立ち回って難を逃れていた自分自身を、心の底から嫌悪していた。

 

 

 地獄から逃げた俺が行きついたのは、やはり地獄だった。

 

 

 それだけのことだ。

 

 

 

 貴族の館が崩壊するのを見届けてから、アインズ・ウール・ゴウン魔導国を目指し、西へ走った。

 

 

 夜の草原を忍者走りで駆け抜けたとき、こみ上げる吐き気に立ち止まった。

 

 どれほどえずこうと、俺の胃からは何も出てこなかった。

 

 俺は自分考えていたよりずっと、一晩だけ肌を重ねた彼女に惚れていた。

 

 気が付くと、顔を掻きむしりながら吠えていた。

 

「ぐ、ああああああああああ!」

 

 傷口から流れる血が顔を流れていく。

 

 二度と帰らぬ過去の彼女が、月に浮かんで俺に笑いかけ、月光で俺を灼いた。

 

 

 彼女の子供を拾い上げた異形種が誰かは知らないが、子供たちは魔導国にいる。名前も聞かなかったのに、会えばわかると確信があった。

 

 森で眠る彼女の墓前に花を添え、報告しに来よう。

 

 穢れた人間を辞め、血に塗れた異形の生、しばらく抜け出せないであろう地獄にいる俺に、新たな目的ができた事が嬉しかった。

 

 

 風を切り裂きながら西へ走った。

 

 

 







     所詮、この世はまやかしよ!

              ――ザ・ニンジャ


まやかし→ごまかし、偽り、見せ掛けの紛い物

サロ→36人目の商品

エナ→恵那→胎盤
情緒不安定なアニメ声、イメージ的には中原麻衣みたいな可愛い系の声

ソーハ→そうは→掻爬

メイナ→偽名
苗字はフルト、アルシェ母。
姉と妹の年齢差を考慮し、年齢は35歳~38歳。この世界では40代~50代が脂肪率が高く、十分な年増扱い。
弐式さんの年齢が30~32だと設定しており、色恋沙汰が混ざってもおかしくはない。

こういう話、大好き。

ザ・ニンジャ→「地獄巡りNo.4  焦熱地獄」

蛇の所感
「地獄は消すはずだったのに……間違った……ゴメン」


弐式炎雷、参陣

本編へ続く
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