薔薇と蛇の招待状   作:用具 操十雄

2 / 12
※作者は「黎明」を未読です。どうやっても手に入らなかったので、やまいこさんの口調が違っていても恩赦をください。
※作者的に、残酷描写は一切ございません……です
※時系列的に、前話の1クール後です




寄らば優しき鬱

 

 

  タフじゃなくては生きていけない。優しくなくては生きている資格がない。

 

                      ――レイモンド・チャンドラー

 

 

 

 雪が降りそうで降らない寒い夜。

 

 風を避けて路地裏に入ろうとも寒さは神経を凍てつかせ、薄汚れた手は霜焼けで真っ赤だ。どれほど擦り合わせても手が震え、二日ぶりにゴミ箱を漁って手に入れた貴重なパンを取り落とした。気にした素振りもなく、簡単に砂を手で払い、食いつこうとしてから動きが止まった。

 

 一匹の子猫が従者のように隣に座り、綺麗な瞳でこちらを見上げていた。

 

「なんだ、お前は。あっちへいけ」

《にゃぁぁぁん》

「儂のパンだ。貴様になぞくれてたまるか」

《?》

「……我が家臣になるのなら考えてやっても良いが」

《にゃぁ、にゃぅ!》

「そうか、そこまで家臣になりたいと申すか。二日ぶりのパンだが……貴様にくれてやる。お前は今日からジェイムズだ!」

 

 焼き上がってからかなりの時間が経過したパンは固いが、子猫は美味しそうに食いついた。

 

 大人になるということは、忘れることだと誰かが言った。

 

 世界から切り捨てられ、自分が何者か忘れてしまったような人間の末路に、明るい光はない。しかし、誰も必要とせず、誰からも必要とされない生き方は必ずしも不幸ではない。自らの幸福は自分自身で決めるべきもので、他者の評価は一つの指針でしかない。

 

 

 

 

 自宅で机に向かって仕事をしていると、不意にドアが開いた。

 

「明美ちゃん、いる?」

「お姉ちゃん!」

 

 年の近い姉とはよく連絡を取っているが、実際に会うのは稀だ。教員をしている姉はいわゆる勝ち組に分類され、日々、聖職に追われて忙殺されている。前触れなく部屋を訪れた彼女に、喜びよりも戸惑いの方が大きく、私が想像したのは結婚の報せか、最悪の凶報。

 

「クビになっちゃったぁー」

 

 彼女は座り込んで力なく笑い、最悪の凶報を告げた。

 

 今の社会で、職を失うという言葉が意味するのは一つ。純然たる、避けようもない、逃れられない死だ。馘首(クビ)は斬首なのだ。姉を取り巻く事情を把握し、怒りで震える拳を握って立ち上がった。

 

「許せない……弁護士を雇って内容証明を出してやる!」

 

 胸に暴風雨(スーパーセル)が生まれていた。

 

 母子家庭の私たちは、母を亡くしてから2人で生きてきた。大切な姉の首を切った者を許せず、それ相応の報いを受けさせてやりたかった。

 

「仕方がないよ。明日から仕事、探さないと」

「どう考えても不当解雇、報復人事でしょう! 現場のお姉ちゃんがどれほど子供たちのためを思っているか!」

 

 モンスターペアレンツに分類されるクレーマーに目をつけられたのだ。そういう手合いは、往々にして権力を振るえる場所にいることが多い。学校は企業の援助なしに運営が成り立たず、姉はとかげの尻尾よろしく首を切られた。これで学校側は丸く収まり、運営に支障はでない。

 

「うん……そうなんだけどー」

「けど、なにさ」

「教頭先生にも立場があるから」

 

 確かに、この世界で生きるためには、企業側の人間を無視できない。学校は利益追求とは無縁の存在だ。授業料を高く設定したところで、寄付金が無ければ成立しない。学校は企業に都合の良いことだけを教える洗脳教育所で、管理職でさえ世界を牛耳っている企業に都合のいい歯車だ。臭い足を向けて寝れば、速やかに報いを受ける。

 

 それでは、首を切られた姉の立場はどうなる。小学校の教員とは狭き門で、不足が生じれば人が群がり、幾らでも補填される。椅子取りゲームからあぶれた姉に、同じ職が都合よく回ってくるとは到底、思えない。そんなに私は楽天的ではない。

 

「どうしようもなかったんだよ、教頭先生も」

「なんでそんなに落ち着いていられるの!」

 

 やりきれない感情が私の拳を震わせる。拳を振り上げて机に叩きつけたが、本当は姉の上司の頭に叩きつけてやりたかった。きっと禿(ハゲ)散らかしているに違いない。

 

「そんなに怒らないでよ、明美ちゃん。なんとかなるよ、きっと」

「なるわけないでしょう!」

「教頭先生、大丈夫かなぁ……」

 

 姉は遠い目をして、汚染された空気が(けぶ)る窓の外を眺めた。

 

 樹齢万年の巨木並みの精神を持つ姉は、自らの首を切った教頭の心配をしているのだ。どうして彼女は、命の危ぶまれる状況まで追い詰められているのに、こうも優しく微笑むことができるのか。

 

「優しすぎるよ……お姉ちゃんは」

 

 視点を変えてみれば好都合かもしれない。私の中に残っていた躊躇いは、姉の斬首という灼熱の怒りで一片の氷のように溶けた。机の引き出しから手紙を取り出し、姉に見えるように指で弄んだ。

 

「ねえ、旅行に行かない?」

「旅行?」

「異世界への招待状なのよ、これ」

 

 何とも言えない奇妙な顔で私を見ていた。彼女が知らないのも無理はなく、この手紙は姉には届いていない。

 

 差出人も不明なのに、この機を狙っていたかのような出所不明な怪文書。薔薇の封蝋に蛇の絵が刻印された手紙。姉の名を”舞子”から”やまいこ”に変えることが、私に舞い降りた託宣だ。もし、この文書が全て嘘であり、死んでしまったとしても構わなかった。私の愛する姉を切り捨てた世界に未練はない。

 

「異世界……かぁ……。面白いね、それ。でも本当に行けるのかな」

「駄目で元々だよ、お姉ちゃん。職を失ったし、ちょうどいいじゃない」

「う……ん。まぁ、そう言われればそうかな」

 

 二度と帰れないとは教えなかった。

 

 その夜、姉が見守る中、ユグドラシルのアイコンを押した。

 

 徐々に意識が遠ざかり、視界が暗転していく。体を失う間際、姉が倒れる音を聞いた。

 

 

 

 

「あけみちゃんの頭も撫でてよ。頑張ったねって褒めてやってよ! 勉強ばかりさせないで、二人も産んでくれたんなら、同じように優しくしてよ!」

 

(お姉ちゃん、私は勉強だけしてればいいんだよ)

 

「髪を梳かして、よしよしやってよ……勉強なんかできなくてもいいよ……僕が守るから」

 

(……私は優しくなりたくない)

 

 夢の最後に銀色に輝く門を見た。

 

 

 気が付くと私は草原に立っていた。

 

 体を通過する風が心地よく、自然と目を閉じた。汚染されていない大気は、現実世界で積み重なった日々の垢を引き剥がしてくれた。目を開いて空を見上げれば、千切れた雲の隙間から太陽光が地表に差し込んでいる。深呼吸をして澄んだ空気を肺の奥まで吸い込んだ。体の悪いところ全部、浄化してくれるような澄んだ空気が肺を満たした。

 

 私は森妖精(エルフ)になっていた。

 

 体が妙に軽いが、驚くべきはその容姿だ。女性らしいすらっとした流線形のくびれ、胸は現実よりも大きくなって、耳に手を当てると尖がった耳が生えていた。アバターを美人のエルフにしておいて本当に良かった。鏡を見るのが楽しみだ。

 

 緑色のミニスカートから露出する太腿が白くて眩しい。私でも見惚れる白さだ。緑のドレスの両腕にごつごつしたガントレットを嵌め、背中に弓と矢筒が取り付けられていた。ユグドラシルの装備品通りだ。手間と時間をかけた弓は掌に吸い付くように馴染み、背中の矢を取り出して空へ放つと、地上から飛び上がった矢の一撃で雲に穴が空いた。

 

 窓口を広げられた太陽光が地表に差し、草原の緑を輝かせた。抒情詩的な表現に苦笑いをしながら、美しい風景に口を開いて見とれた。

 

「凄いなー……」

「本当、凄いね! 明美ちゃん!」

「あ、お姉ちゃん。おはよう」

 

 いつの間にか起きた姉が、興奮した様子で叫んだ。

 

「アバターじゃなくて、現実だよ! ガスマスクいらないなんて感動するね!」

 

 何と表現したものか……お姉ちゃんは、すごく大きい。

 

 私と別ギルドへ属していた姉は、引退時に装備品とアイテムを預けてしまい、今は薄い布切れのような物を身に纏っている。いわば紙装甲だ。浮浪者のようで可愛くないし、全然、似合っていない。当の本人に気にした様子はない。人間を辞めても、大樹のように揺るがぬ精神は健在だ。

 

 半魔巨人(ネフィリム)だけあって背が高く、並ぶと私の頭二つほどの差があった。

 

「美人だなぁ、明美ちゃん。背が縮んでるけど……大丈夫?」

 

 大きな目で私を見下ろす姉は、妹の身長が縮んだと心配していた。天然なところも健在だ。

 

「お姉ちゃんが大きくなったんだよー」

「そんなに背が高かったっけなぁ……」

 

 彼女は体を捻り、腕を振り回し、物珍しそうに自分の体を観察していた。

 

 こうして実体化したアバターを見ると、実に奇妙なデザインだ。先に自分の紙装甲を心配すべきだが、種族が変わっても姉らしさは変わらない。ついつい、私の頬が緩む。

 

「その図太さと同じように大きいね、お姉ちゃん!」

「そう? そんなに太くないと思うけど……」

 

 どうやら自覚はないらしい。冗談交じりの冷やかしも姉の天然性に受け流された。

 

「でも本当、明美ちゃんは美人になったね。エルフってこんなに美形だったんだ」

「羨ましい?」

「うーん……どうなんだろう」

「ほらほら、アバターだから胸も大きくなってるよ?」

 

 自分の胸を両腕で持ち上げて迫ると、姉は顔を背けた。自分で言うのもどうかと思うが、バストは大幅にサイズアップが図られていた。

 

「触ってみる?」

「やめい」

「あはは!」

「すぐにお婿さん、見つかるよ。僕も一安心だね!」

「うーん……どうなんだろう」

 

 あまりそちらには興味がない。結婚適齢期で考えれば、姉の方が心配だ。上下左右、どの角度から見ても、半魔巨人に人間だった名残はない。

 

「お姉ちゃん、結婚できるかな……」

「ん? それより、ここはどこかな」

 

 私たちは周囲を見渡した。

 

 手紙には異世界の情報は一切、書いてなかった。私たちが立っている場所は広大な草原の中央で、南に大きな都市が見えた。高い城壁に囲まれた都市は大きく、それなりに栄えている。東に山脈が見えたが、山歩きの趣味はない。向かうなら都市だが、私は二の足を踏んだ。

 

「お姉ちゃん、まずメッセージで知っている人に片っ端から連絡してみよっか」

 

 ユグドラシルほどPKが流行っているゲームはない。異形種狩りは匿名掲示板で狩猟報告の掲示板が立っていたほどだ。異世界でPKは流行っていないと思うが、ユグドラシルを源泉にした世界で迂闊な行動をする気になれない。紙装甲の姉を守りながら戦えるほど、私は強くない。

 

「町へ行こうよ」

「えぇー?」

「入ってから考えても良いじゃない?」

 

 PKを警戒しているのは私だけのようだ。

 

「良くないよぅ……PKとかされたらどうするの」

「その時はほら、取りあえず殴ってみて、駄目そうなら逃げようよ」

「装備……紙装甲じゃない」

「人間、捨てたもんじゃないよ。大丈夫だよ、きっと」

 

 全然、大丈夫ではない。こちらより相手の足が早かったらどうするつもりなのか。姉は歩き始め、考えることを止めたようだ。私はため息交じりに後を追った。

 

 現実は私の想定通り、大丈夫ではなかった。

 

 

 

 

 都市に入ろうとする人間の列で、巨人種の姉とエルフの私たちは完全に浮いていた。行列の前後から視線で挟撃されたが、私たちはそれらの一切を無視した。

 

「お姉ちゃん、戸籍ってどうなるのかな。この世界の戸籍とか持ってないけど」

「戸籍なんてないんじゃないかな。異世界って中世ヨーロッパを元にしてるんでしょ? 気になるのはそれよりも通行税だよ」

「ユグドラシル金貨でいいのかな」

「わからない、困ったね」

 

 困っているようには見えなかった。

 

 緩やかに進む列が城壁まで差し掛かると、私たちを発見した門番は順番を無視して駆け寄った。私に一瞥もしないところを見ると、エルフは一般的な種族なのかもしれない。姉を見上げて凝視し、嫌な臭いのしそうな汗を流していた。

 

「失礼ですが……お名前を」

「山瀬舞子です」

 

 さも当然とばかり、涼しい顔で本名を名乗ったので私は慌てた。

 

「お姉ちゃん、それ本名!」

「あ、そっか、間違えちゃった……ごめんなさい、やまいこっていいます」

 

 姉は小さく頭を下げた。体の感覚がずれているので、下げた頭が門番の兜に衝突しそうだった。

 

「……どこかで聞いたような。食人種……でしょうか?」

「違います」

「目的はなんでしょう」

「目的……観光かな?」

「私に聞かれても知らないよぅ……」

 

 姉が私を見たので、門番も釣られて私を見た。目的地や目的など考えていないし、今は情報さえ持っていない。

 

「か、観光ですか? 種族を教えていただけますでしょうか」

「ネフィリムです」

「ねふ、ねふいりむ? 聞いたことない……。少々、お待ちください」

 

 エルフは高飛車で人間嫌いで気の強い美人と描かれることが多いが、今の私はまさにそれだ。知らない人に口を開くのが億劫に感じられた。私の種族はいわゆる長命種だが、この体は何歳なのだろうか。アバターの設定年齢が関係しているのなら、体を動かすのが億劫な年寄りの可能性もある。

 

(実は数百歳とかだったりして……なんてね)

 

 想像して怖くなった。

 

「ネフィリムってあまりいないのかなぁ」

「そういう問題?」

「違うの?」

 

 間違いなく違うと思うが、議論しても仕方がないので言及を止めた。

 

「お姉ちゃん、門番が武器を持って走ってきたら逃げるからね」

「大丈夫だよ。優しそうな人だったから」

「基準はなんなの……?」

 

「お話し中、失礼。そちらのエルフは奴隷ですか?」

 

 後方のおじさんが話しかけてきた。気安く話しかけられ、私の胸に不快感がこみ上げた。

 

「姉妹です」

「姉妹……ははは、面白い冗談ですな!」

 

 よく見ると顔が脂でてかてかと輝き、体型も弛んでいる。姉の首を切った下劣な(教頭)の人物予想図と重なり、口を利くのも嫌だった。姉は相手の容姿に気にせず、落ち着いて話をしていた。

 

「すみません、ここは何ていう街ですか?」

「あ、ああ……知らないのか。ここはバハルス帝国首都、アーウィンタール。帝都といえばどこの国でもここを指す」

「へー」

 

 何とか帝国と言われても想像が浮かばない。それよりも気になるのは、彼のいやらしい視線だ。私の頭から足先まで舐め回すように見られ、男性が女性を値踏みする、好色で不愉快な視線だ。

 

「帝都では魔導国に奴隷が買い占められて以来、エルフとは幻の奴隷です」

 

 聞いてもいないのに下世話な話を始めた。姉の眉が顰められ、私の目つきが険しくなったが、相手はこちらの不穏な気配に気づかなかった。

 

「冒険に連れて行ってよし、性の奴隷として使ってもよし。よろしければ言い値でお譲りいただけませんか?」

「は?」

「いえ、ですから、そちらのエルフを高く買い取らせて頂けないでしょうか。今やエルフは希少な奴隷で――」

 

 私が弓を構えたと同時、姉の怒りの鉄拳が地面に落ち、大地に亀裂が走った。

 

「お姉ちゃん……」

「駄目だよ、明美ちゃん。そんなので人を狙ったら死んじゃうからね」

「……死ねばいいのに」

「明美ちゃん! どうしてそんなこと言うの」

「もう逃げちゃったよ」

「あ……文句、言いそびれちゃったよ。失礼しちゃうよね、奴隷だなんて」

 

 私にセクシャルハラスメントをした下品な男は怯えて逃げ去り、列に並んでいた数名は亀裂に嵌まって助けを求めていた。喜劇的(コミカル)にして冗談(ギャグ)混じりの光景は私の機嫌を修復した。

 

 笛の音が鳴り、怒りの衛兵たちが駆けてくる。

 

「こらー! そこ、何をしている!」

「あらら……牢屋行きかな」

「それは困るよね」

 

 安っぽい長槍を持って走る姿が、今一つ、真剣(シリアス)味に欠ける。もしかすると、この世界は冗談(ギャグ)風味が強いのかもしれない。「こらー!」と、怒鳴り声がかみなり親父風なのはどういうことだ。

 

「あけみちゃん」

「なに?」

「逃げよう!」

 

 急発進した姉に引っ張られ、足先が空を向いた。列に並ぶ数名の男性たちにミニスカートから覗く下着が見られたが、羞恥心よりも衛兵を避けて都市内へ突っ込んでいく姉へ突っ込みたかった。どうして外に逃げず、内側に逃げ込むのだ。

 

「衛兵さーん! 穴に落ちそうな人たちを助けておいてねー!」

「あ、こ、こらー! く、ま、ど、どうすれば……」

 

 私は笑顔で手を振った。右往左往する兵隊さんは迷った挙句、穴に嵌った人たちの救助へ取り掛かった。姉の見立て通り、優しい人なのかもしれない。

 

「手の空いたものから後を追えぇ! 絶対に逃がすな! 探していた魔導王陛下の御友人殿だ、取り逃がしたら皇帝陛下に殺されるぞ!」

 

 後方で衛兵の怒鳴り声が聞こえた。どうやら私たちは尋ね人らしい。魔導王とは誰のことだろうか。

 

 私たちは追いすがる衛兵たちを簡単に引き離し、とある廃墟へ逃げ込んだ。

 

 

 

 

 全力で走ったにもかかわらず、姉は息一つ乱れていない。私は彼女を建物の中へ押し込め、影から街の様子を窺った。追手の騎士で騒然となった街も、逃げ込んだこの区画は静かだった。

 

「うまく撒いたみたい」

「よかった」

「良くないよ! どうして外に逃げなかったの、お姉ちゃん!」

 

 両手を腰に当てて怒っている私に、姉は嬉しそうに笑った。

 

「逃げ出すことで精いっぱいになっちゃった。ごめんね」

「もうっ……」

 

 逃げ込んだ廃墟は今でこそボロボロに朽ちている。歩くと埃が舞い、床がギシギシと悲鳴を上げた。

 

「なんかこの辺、静かだね。廃墟なのかな?」

「奥まで見てみようか?」

 

 もう少し、注意して進んでもらいたいものだ。巨人が穴にでも落っこちたらエルフの私には辛い。

 

 埃臭い廊下を進むと物音が聞こえ、私に冷や汗が流れた。椅子から立ち上がったような木材の軋む音と、男性の怒号。私と姉は無言で顔を見合わせ、聞こえた部屋の扉を隙間程度開き、室内を窺った。

 

「だから言っているだろう! これは必要な消費だと!」

 

 中から男性の怒鳴り声が聞こえ、私たちの体が跳ねた。

 

「あの糞ったれな愚か者が死ねば、我が家はすぐに貴族として復活するのだ! 我が家、フルト家は足掛け100年も続く、歴史ある帝国貴族家。断絶するなど許されんのだ!」

 

 乞食らしきみすぼらしい身なりの男性が、姿の見えない誰かと言い争っている。扉の隙間を広げても、相手の姿はどこにもない。一人で怒鳴っている浮浪者に、”狂人”という言葉が浮かんだ。

 

「ジェイムズ! ジェイムズはどこだ! 聞いてくれ、このわからずやの馬鹿娘が――」

「げ」

 

 立ち去ろうと予備動作を開始する間もなく、老人によって扉が開け放たれた。浮浪者は室内を窺っていた私たちを発見し、怪訝な顔をした。

 

「む、お前たちか。ジェイムズを見なかったか?」

「あ、ぼ、僕は――」

「まあ良い。お前からも何か言ってやってくれ。幾分か、同じ女性として、メイドの話なら聞く耳を持つだろう」

「だから、僕――」

「なんだ、そのエルフは。まさか、アルシェの下賤な仲間か!」

「明美ちゃんは僕の妹だよ!」

 

 姉の叫びで会話に間が空き、静寂が際立った。

 

 浮浪者は視線を左右に泳がしてから私たちを眺め、打って変わって優しく微笑んだ。

 

「そうか、妹がいたとは初耳だ。丁重にもてなしなさい。この家は好きに使っていいからな。それで、名は何というのだ」

「お姉ちゃん、誰と勘違いしてるんだろうね」

「しぃっ!」

「んん? どうかしたのかね」

 

 姉をメイドの一人だと信じて疑わないようだ。この姿の姉が人間に見えるというのだから、狂人の独創的な理解力には恐れ入る。流れで私もメイドの妹にされ、名を名乗らなくても勝手に話が進んだ。

 

「家臣の家族であれば歓迎するのは当然だ。由緒ある我がフルト家へよくぞいらっしゃった。自分の家のつもりで好きにくつろぎなさい。身の回りの日用品は妻と相談してくれ」

「は、はぁ……」

「客間はいくらでも空いている。後ほど案内をしてやりなさい」

「あ、の、僕はメイドじゃなくて……はぁ。明美ちゃん、外で待っててくれる?」

「お姉ちゃん、関わらない方がいいよ」

「ごめんね、放っておけないよ……」

 

 優しいにも限度がある。目的も予定もないとはいえ、狂人に付き合って情報収集もできず、社会から解放された姉の行動が阻害されるのは不愉快である。老人への敵意と害意が生まれ、私の体を内側から苛んだ。

 

 脅してやろうと弓に手をかけると、皮のブーツに違和感があった。

 

 茶虎の猫が私の足に食いついていた。

 

「おぉ、ジェイムズ! そんなところにいたのか。客人の相手をしなさい」

 

 ブーツを噛んでいた猫はジェイムズと呼ばれてから姿勢を正し、座って尻尾を左右に揺らした。全体的に丸々とした体と、ふわふわした体毛が「愛でろ」と誘惑した。

 

「あら、可愛い」

「明美ちゃん、おじさんと話をするから、外で待っててね」

「む……あまり感情移入しちゃだめだからね」

 

 猫は尻尾を立てて部屋を出ていき、私は猫に続いて部屋を追い出された。

 

 優しい姉が猫を拾う感覚で浮浪者の相手をしているあいだ、退屈なので中庭の古ぼけたベンチに座った。町の喧騒は廃墟までよく聞こえてくるが、この区画だけ、世界から忘れ去られたように静かだった。

 

「君の名前はなんていうの?」

 

 私の隣に座って背中を丸めている彼は、座って庭を眺めていた。

 

「君もあの人の家臣なの?」

 

 返事がない。見た目に反し、不愛想な猫だ。

 

「答えないならー……これならどう」

 

 手近なところに生えていた猫じゃらしを引っこ抜いて、顔の前で左右に振った。最初は無視を決め込んでいた彼も、たちまちにじゃらされ始めた。

 

 股座(またぐら)にぼんぼりのついた(オス)猫は、姉が戻ってくるまで暇潰しに付き合って遊んでくれた。どれほどの猫じゃらしを駄目にしても、一言も鳴かない猫だった。

 

 

 ハムレスと勝手に名付けた。

 

 

 

 

 猫じゃらしを全滅させてしまい、一人と一匹は口を開いてベンチに座り、退屈を満喫していた。

 

「明美ちゃん、待った?」

 

 姉の声で私と猫は同時に顔を向けた。

 

「お姉ちゃーん、遅ーい」

「あ、ご、ごめんね、明美ちゃん」

「それで、どうだったの?」

 

 四苦八苦して聞き出した話によれば、彼は没落貴族のようだ。しかも、彼の本来の屋敷は人手に渡り、ここは住人のいなくなった近隣の廃墟だという。

 

 屋敷の主はいつの間にか姿を消し、後には大量の酒が残されていた。彼はそれで栄養を摂取していたらしく、吐息はたいそう酒臭かったと言った。

 

 主の彼が贅沢暮らしをするために借金を重ね、その挙句に子供たちは逃げ出し、妻にも見限られ、家族だけでなく世界から捨てられた彼が行きついたのは、同じように世界から切り取られた静かな廃墟だった。

 

 つまり、落ちぶれて放浪した末、酒と妄想に浸る生活を送っている狂人に捕まったわけだ。

 

「さ、気が済んだなら行きましょっか」

「うぅん……でもね」

 

 そう言うことはわかっていた。この先の展開も容易に想像できるが、抵抗せずにいられない。浮浪者の面倒を見るために異世界に呼ばれたのであれば、そんな運命は願い下げだ。姉は恋愛の末に誰かと結婚し、子供を産み、細やかで幸せな家庭を作らなければならない。

 

「お姉ちゃん。放っておきなよ。現実と向き合えなくて壊れちゃったんだから」

「でも……可哀想だし」

「はぁー」

 

 未来予想図と寸分狂わぬ展開に、深いため息が出た。

 

「あのね、お姉ちゃん――」

 

 自分のことを最優先に考えてこそ、人は他人に優しくできる。今の私たちには力があるが、それは腕力だ。生活費も、立場も、権力だって今の私たちは持ち合わせていない。人の世話ばかり焼いても誰も助けてくれないなら、まず自分の満足と幸福を第一に考えるべきだ。

 

「だからね、妹の私を含めて他人のことなんか考えず、自分のことだけ考えてもらいたいんだけどなぁ」

 

 長々とした私の話を、姉は申し訳なさそうに聞いた。

 

「あ、ご、ごめんね、明美ちゃん……」

 

 図体の割にへこたれてしまった。肩を狭めて俯く姉に、寄り道くらいはしてもいいかと思った。

 

「それで、どうしたいの?」

 

 俯いた顔が即、上を向いた。

 

 

 

 

 不思議なことに、浮浪者の話は一見してまともだった。

 

「あなたはぼつら……帝国貴族なんですね?」

「む、現在、御家復興を目標に掲げている。現皇帝の改革で貴族の大多数が地位を追われ、自らの御家復興に追われている。この高級住宅街も、空き家が目立つようになったものだな」

 

 ロッキングチェアーに腰かけ、黄色いひざ掛けをかけた老人は、前後に揺れる椅子に抱かれて窓の外へ視線を向けた。

 

「具体的に何をしているのでしょうか」

「御家最高のため、娘が外で稼いでくる。私は帝国貴族として恥ずかしくないよう、ここで財産の管理をしているのだ」

 

 理性は長続きしない。どれほどまともに見えようと彼は狂人で、いわゆるアシの早い理性でしかない。話はすぐに脱線し、衝突事故を起こした。

 

「……財産の管理とは?」

「絵画を集め、屋敷で招宴を開かなければならない。あの子も年頃だ、結婚の相手に相応しい貴族か王族と婚約しなければならない。あの馬鹿娘はどこにいったのだ。大体、娘たるもの、父親の言うことを聞くのが道理だろう。さっさと金を稼いで帰ってこい! 異形種なんぞにたぶらかされ、家を捨てた親不孝者がっ!」

 

(家にいるのか、いないのか、どっちなんだろう……?)

 

「その伝手はあるんですか?」

「何を言うか。これでも帝国貴族の名は伊達ではない。私が一声上げれば、すぐに人が群がってくるわ。見えんのか、胸に輝くこの勲章が!」

 

(胸には何もありませんが……)

 

「そうだ、三軒先に住んでいる帝国兵士に頼もう。奴は少年期、庭の草むしりで手に入れた雑草を乾燥させ、独自の薬物を吸引して意識を天まで飛ばし、このままでは神様のところへいけないと喚き散らし、脱糞した勢いで天まで昇ろうとしていたぞ」

「ぶっ」

「踏ん張った姿勢で数センチ飛び上がっただけでも見事だが、着地のことを考えてなかったようだ。自分で拵えたモノの上に顔面から着地し、涙と糞を撒き散らして大騒ぎしていた」

 

 一生の不覚。下品で不愉快ここに極まれりという話であったが、予期せぬ冗談に吹き出してしまった。

 

「奴の話ならまだある。溜めに溜めた小遣いで花火を買い漁ったが、串焼き露店の前で転んで花火を炭火の上に落とし、起爆した射出花火が大砲よろしく通行人たちに襲い掛かったそうだ」

「ふっ……」

「頭だの、背中だの、尻だのを花火で打たれた通行人から袋叩きにされ、露店の店主に焼いた肉の弁済を求められた奴は、花火で焼けた肉を売り歩き、身振り手振りで順調に売り上げを伸ばし、儲け(アガリ)で新しい花火を買った」

「ふ、ふーん……」

「今度は大玉花火だった。またも同様、魚を焼く露店の前で転んで導火線に引火したが、導火線は長めに作られていたのですぐには着火せず、大玉はコロコロと下水道に落下し、汚水処理用のスライムどもを吹き飛ばした」

「……」

「汚れたスライムの断片が排水溝から噴き上がって町中に付着し、残骸が辺り一面にへばりつき、汚水処理のできなくなった下水溝の臭いも加えて、帝国を臭い街へ変えようとした不穏分子としてひっ捕らえられた。しばらく街の一区画に臭いは残り、奴はむち打ちの刑に処され、花火の代わりに魂を天まで打ち上げんばかりに叫んでおったわ」

「ぷっくく……」

「ここまで弱みを握れば、言うことを聞かざるをえまい。えー……奴の名はなんといったかな……いや、これは私の話だったか? まあ、誰でもよい。見つけてしまえばあとはどうにでもなる。どうだ、簡単な話であろう」

 

 最後の妖しい台詞で、ここまでのやり取りの全てが水泡に帰した。

 

 個人的に内容は面白かったが、この調子で話を続けていては埒が明かないし、時間も際限なく食い続ける。ロッキングチェアーに揺られる彼は、上から下まで一人前の浮浪者だ。何日も洗っていない頭髪にふけが絡まり、皮膚は数か月、下手をするとそれ以上、体を拭いていない。

 

 衣服だって垢だの、埃だの、土だの、様々な色に薄汚れ、所々に穴が空いてボロボロだ。

 

「家族はどこに?」

「長女は異形種に攫われたわ! あの馬鹿娘、さっさと金を稼いでこいというのに」

「攫われた……帰ってこないのでは?」

「娘はそこにいるだろう!」

 

 彼が指さした方角には飲み終えた酒の瓶が無造作に転がっている。

 

「あぁ、駄目だ、こりゃぁ」

「明美ちゃん……」

 

(なんでよりによってこの家に飛び込んじゃったのかなぁ)

 

 他の家なら彼と出会わずに済んだものを、私たちの不首尾だ。

 

「あやつさえ現れなければ、長女の稼いだ金で復興さえできていたに違いないのだ! どこの馬の骨とも知れぬ異形種になびきおって……馬鹿娘が」

 

 最後の呟きだけ、妙に哀愁が漂っていた。

 

 私は彼の背後にある謎の壁画を眺めた。血で描いたような赤色の逆十字と、黄色の歪んだ五芒星(エルダーサイン)、触手を生やした蛇の周囲を浮かぶ大量の球体。何を意味するのか知らないが、前の住人もまともな人間とは思えなかった。狂人は狂人を呼ぶのか。

 

 この高級住宅街は彼と同様に没落した貴族の持ち家が多く、家を維持できなくなって行方をくらませるのは日常茶飯事で、現実社会(リアル)に通じるところがある。実際、私たちが飛び込んだこの家の隣も、その隣も、向かいの家も隣の家も空き家だ。

 

「ジェイムズ! いないのか、ジェイムズ! 馬鹿娘はどこへ行った!」

 

(さっきはそこにいると言ってたじゃん……)

 

 どうにかしてやろうにも、こちらは狂人だ。初めから打つ手はなかった。

 

「お姉ちゃん……それで、どうしたいの?」

「理想は一人で暮らせるような環境なんだけ――」

 

《にゃぁぁ》

 

「ど、けど……明美ちゃん、猫の真似した?」

 

 ハムレスが私の足に噛みついていた。

 中庭で遊んでいたときには鳴かなかったのに。

 

「ジェイムズ! そこにいたのか、娘を見なかったか。彼女たちが来てから娘の姿が見えないが」

 

 どうやらハムレスは、ジェイムズと名付けられた家臣のようだ。この家での序列は主の浮浪者を頂点に置き、猫のハムレス(ジェームズ)が一番、姉が二番、私が三番だ。いつ瓦解しても不思議でないヒエラルキーに、頭が痛くなってきた。

 

「お姉ちゃん……ちょっと、外の空気を吸ってくる」

「うん。今のうちに換気しておくね。今日はここに泊まることになりそうだから」

「うげぇ……」

 

 窓の桟を指で擦ると、幾重にも重なった埃の層があった。簡単な掃除で積もった汚れは取れそうにない。ここで寝るなど御免被りたかったが、姉はその気になっている。

 

「おじさん、掃除するから、隣の部屋に運ぶよ」

「うむ、最近のメイドは力持ちになったものだ。空の散歩を頼んでいるびやあきいにも見習って貰いたい。びゃーきーかばいあくへーかどちらなのだろうな?」

「はいはい、隣の部屋で待っててね、おじさん」

 

 面倒見の良い彼女は意味不明なことを尋ねる狂人を椅子ごと持ち上げて移動させ、掃除を始めた。尻尾を立てて出て行った虎猫に続き、私も部屋を出て行った。

 

 私は外で深呼吸して肺の空気を入れ替え、一番の家臣に愚痴をこぼした。

 

「お姉ちゃんたら、優しいにも限度があるわよ。なんで簡単に切り捨てられないのかなぁ」

《にゃぁおあおーん!》

「ハムレスもそう思う?」

《にゃにゃにゃ!》

「はぁ……お姉ちゃんは昔からそう、人のことばっかり気にして」

《にぃゃぁぁ……》

 

 何となく会話が成立しているような鳴き声だ。

 

 猫と並んで中庭に出ても、見捨てられた廃墟は静かだ。

 

「あーあ、人助けじゃなくてさぁ! お姉ちゃんに幸せになって欲しかっただけなんだよー!」

 

 今度は返事をしてくれなかった。

 

 茶虎の彼は門から外へ出て行こうとしている。途中、何度も振り返り、私が付いてきているかを確認した。放っておこうかと思ったが、暇潰しで猫に導かれるのも悪くはない。

 

 私は外へ出た。

 

 ハムレスは人気のない石畳を迷わずに進んでいった。どこへ行くのかと興味津々で後を追っている内、彼の足は止まった。

 

「エルフのお嬢ちゃん。冒険で手に入れたお宝なら高く買い取るぜい。ご主人に伝えてくれるかい?」

 

 黒いローブの露店商人が話しかけてきた。ローブから覗く彼の顔は蛙に似ているが、笑顔は悪い人間ではなさそうだ。古物商らしきそこは、怪しい形の壺、魔方陣の書かれたスクロールなどが無造作に並べられていた。

 

「先に言っておきますけど、私は奴隷じゃありませんから」

「おっと、そいつぁ失礼。帝国じゃエルフは奴隷って印象が強くてな、一人歩きは物騒だから気をつけな。もっとも、一人で歩けるくらいに強いんだろうが、馬鹿は相手の力を見抜けねぇ。面倒事に巻き込まれる前に、このローブで顔を隠さないかい?」

 

 黒いローブを差し出した。商売上手な彼の私見も一理ある。奴隷ではないにせよ、奴隷と間違えられて馬鹿どもの厄介事に巻き込まれるのは御免だ。厄介事は多重作業(マルチタスク)するべきではない。

 

「珍しい金貨とか、買い取ってもらえますか?」

「ほ? 見せてくれるかい」

 

 ユグドラシルの金貨は使い道がない。アイテムボックスで腐っている金貨を取り出し、駄目で元々とばかり、数枚の鑑定を頼んだ。彼は金貨を掌に乗せ、鑑定の呪文を唱えた。

 

「ふーむ……彫刻……模様……珍しいが、金以上の価値はない、か。対等な金から手数料を引いた額でなら引き取るが、どうするね」

「何枚まで引き取ってもらえますか?」

「……そんなに大量にもってるか?」

「100枚くらいは」

「う……ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

 店主は路地裏に引っ込んだ。

 

 強面のお兄さんたちを連れて戻ってくるのかと思い、弓を構えて待っていると、戻ってきた店主が突きつけられた矢に驚いて金塊を落とした。右足の甲に落として鈍い音がなり、大そう痛そうだった。申し訳ないので回復薬(ポーション)を分け与えると、回復薬(ポーション)の色が赤いことにも驚いていたが面倒なので無視を決め込んだ。

 

 そのまま金塊を突き返し、手数料を引いてもらってこの世界の金貨に換金して貰った。

 

「これがこの世界の金貨かぁ……これ一枚で、どれくらい生活できますか?」

「慎ましく過ごせばひと月は過ごせるわいな」

「そうなんだ……」

 

 100枚ならしばらくは遊んで過ごせる。職探しの支度金には十分だ。ユグドラシル金貨の手持ち数はわからないが、朧げな記憶を辿れば、桁が多くて数えるのが面倒な程度には余っている。

 

 これなら姉も彼に構わず、ようやく旅行ができる。

 

 一緒に飲み食いもしたいし、この世界の化粧品やアクセサリーも見たい。

 高級宿に泊まり、食って寝るだけの自堕落な生活を送りたい。

 現金一括払いで宝石、化粧品、ドレスなどを買い漁り、大量の袋を荷物持ちに持たせ、帰ってから開封せずにベッドに倒れ込みたい。

 

 資金力は夢を膨らませ、現実味を帯びた欲望が妄想の呼び水となる。一刻も早く、姉にも洒落た格好をさせなければならない。異形種とはいえ、そろそろ結婚適齢期だ。もたもたして高齢出産ともなれば、様々なリスクが跳ねあがる。

 

 人間を辞めた件に問題はあるが、私たちを呼び寄せた誰かなら人間に化ける方法くらい知っているだろう。

 

 私は資金を得たことで浮かれ、急ぎ足で来た道を戻った。

 

 まったく、ハムレスは優秀な執事だ。

 

 

 

 

「凄いよ、あけみちゃん! 流石は天才肌の妹だね!」

 

 持ち帰った金貨を見て、両手放しで喜んでくれた。

 

「でも、どうやったの? 危ないことや、いけないことしてないよね?」

「ユグドラシル金貨を換算したのー」

「あ、そうなんだ……」

 

 姉はアイテムボックスに手を突っ込み、手持ち金貨を取り出した。

 

 頼もしく、大きな掌には、ユグドラシル金貨が3枚だけ乗っていた。

 

「少なっ!」

「実は引退の時に、金貨は全部、宝物庫に置いちゃったんだ」

「それが全財産なの?」

「そうみたい。アケミちゃん、金貨はあと何枚ある?」

「うーん……」

 

 アイテムボックスに手を突っ込むと、腕の周囲が金貨で覆われているような感覚があった。

 

 私の使う矢は消耗品で、使えば買わなければならない。それもゲームの引退間際は消費せず、際限のない貯蓄をしていた。全ての金貨を吐き出したら部屋が埋まるかもしれない。

 

「なんで三枚だけ残したの……?」

「覚えてないなー。全盛期は一億に届くかなってくらいだったけど、これじゃ仕方ないね」

「お姉ちゃんも換金する?」

「今後のことも考えて、案内してもらっていいかな」

「いいよ! すぐに行こう! ついでに観光しようよ! 私、ショッピングしたいな」

「明美ちゃんはこの世界でも変わらないね」

 

 それは違う。

 

 エルフの種族が影響しているのかもしれないが、私は他人など興味ない。私にはお姉ちゃんだけいればいい。お姉ちゃんだけ、幸せになってくれればいい。

 

 金貨の入った袋をおじさんに手渡すと、袋の重みでロッキングチェアーが激しく揺れた。

 

「おじさん、当面の生活費。大事に使わないとぶっ殺すからね」

「明美ちゃん、口調」

「これはありがたい! 欲しかった絵を買いに――」

「あぁ!? マジに殺されないの?」

「明美ちゃん! 駄目だよ、そんな汚い言葉。お嫁に行けなくなっちゃう」

 

 緊張感のない姉にため息が出た。

 

 私はおじさんを指さして叫んだ。

 

「金は使えば終わりがあるの。主食にしているお酒だっていつなくなるか分からないでしょ? それはあなたの食べ物と新しい服、職が見つかるまでの生活費にしなさい、わかった?」

「う、うむ、ありがたく使わせていただこう」

 

 やや横柄な態度に、理解が追い付いているのか怪しい。ハムレスが椅子に腰かけているおじさんの膝の上に乗り、私をじーっと見上げた。

 

「なぁに、ハムレス。あんたもそう思う?」

 

 差し出したひとさし指の匂いを嗅ぎ、「ふんっ」と鼻を鳴らして鼻息を吹きかけた。

 

 素直じゃない奴だ。

 

「お姉ちゃん、行こうよ。情報収集は大切だよ。外出する支度は終わった?」

「これでどうかな?」

 

 姉は壁にかかっていた黄色い外陰(ローブ)を身に纏った。顔は影になって見えないが、黄色い布切れを纏った巨大な彼女は、誰がどう見ても不審人物だ。もし、今の姉と現実世界で出会ったら、間違いなく怯えて逃げ出す。

 

「他には何もないの……?」

「ほら、ここは廃墟だし」

 

 それでよく出掛ける気になるものだ。

 私は違う意味で姉の精神を見直した。

 

 ともあれ、私たちは街へ繰り出した。

 

 私は姉と一緒に異世界に転移したことで浮かれ、調子に乗っていた。

 

 

 

 

 追加で私の金貨100枚を換金して貰おうと思ったが、店主のほうに手持ちがなかった。姉の3枚だけ交換してもらった。

 

 店主は巨人種に怯えていたので、私たちはその場を去った。

 

「ハムレスの御飯も買わないといけないでしょー……それにぃ、掃除道具とー……お姉ちゃんの服とー……」

 

 指が一本、折れる度、次に買いたいものが浮かんでくる。

 

「僕の服はいらないよ」

「真っ先に買うべきだと思うけど……」

「もっと金貨、持ってくればよかったね」

「数枚はくすねてきたよ」

「いつの間に……」

「これで宿でも取りたいところなんだけど……食料だけ買って帰りましょ。あの汚い家で寝るの、本当はいやなんだからね」

「う、うん……なんか、ごめんね。付き合わせちゃって」

「お姉ちゃん。あそこの飲食店からいいにおひが……」

「明美ちゃん! ゾンビみたいになってるよ!」

 

 ゾンビのように口を半開きにして、両手を前に差し出して歩く森妖精(エルフ)と、全身を黄色い布で覆った巨人。すれ違う人間たちは目を見開いて私たちを見た。そんな視線など、今は関係ない。姉妹水入らずで、異世界を満喫しようと大きい飲食店に入った。

 

「い、いらっしゃ……い……ませ?」

 

 従業員はメイド服を着ていた。中世とはそういうものなのだろうか。

 

「女性二人で」

「女性!?」

「はぁ、何か文句ありますか?」

 

 私の攻撃的な視線がメイドの心臓を射抜き、彼女の足が痙攣と見紛うほど震えた。

 

「明美ちゃん。僕、そういうの嫌い。止めてよ」

「ひぃぃ!」

 

 私の横からずいっと前に出た巨人にメイドはひきつけを起こしていた。接客態度が悪すぎて、空腹の前に怒りが腹に溜まった。

 

「明美ちゃん、弓に手をかけちゃだめ!」

「社員教育がなってないから」

「だ、誰か助けてぇ!」

「騒々しいぞ! 食事くらい、静かにさせてもらえないのか、この店は!」

 

 両手に盾を持った、戦士にしては珍しい格好をした騎士が奥から出てきた。どうやって食事をしていたのだろうか。

 

 彼もメイドと同様、姉を見て口を開いていた。どいつもこいつも、初対面で無礼な態度の人間たちにこれまで受けた教育を疑い、親の顔が見て見たくなった。

 

 私がそう考えた数秒で彼は跪いたので、今度は私が度肝を抜かれた。

 

「ぶ、不躾ながらお聞きしたい。昼間に逃走した、アインズ・ウール・ゴウン魔導王閣下の御友人では?」

 

 彼は頭を上げずに尋ねた。追手の存在など、今の今まで忘れていたが、彼の顔に敵意が無いので警戒せずに済みそうだ。

 

「確かに僕は、アインズ・ウール・ゴウンの一人ですけど」

「アインズ・ウール・ゴウンなんてニックネームの人、いたっけ?」

「一人……とは? 魔導王閣下の御友人ではないのですか?」

「アインズ・ウール・ゴウンはギルドの名前ですよ?」

「うーん……誰かが名前、変えたのかなぁ」

「それにしても、ギルド名を名乗るかな?」

「変だよねぇ……」

「私たちをこの世界に呼んだ誰かだよ、きっと」

「そう考えるのが自然だけど、ちょっと気になるんだよね」

 

 顔を近づけて囁き合う私たちに、メイドの金切り声が聞こえた。

 

「早く誰か助けてぇぇ!」

 

 その後、事態の収拾を図ろうと騎士は思うままに埒を開け、私たちは個室へ案内された。騎士は部下に何事か耳打ちをし、外へ走らせた。彼は帝国4騎士、”不動”の異名を持つナザミ・エネックと名乗った。

 

「”山の”不動ではないのですか?」

「……は?」

 

 100年前の漫画を知らないらしい。てっきり、誰かがそれを持ち込んだことで影響をされたのかと思ったが、掻い摘んで話しても彼は理解を示さず、平身低頭で謝罪された。

 

「無知なもので、申し訳ありません。ここの会計は宮廷が持ちますので、ご自由にお召し上がりを」

「本当ですか? あ……いえ、そう言うわけには」

「明美ちゃん、ここは御馳走になっておこうよ。ほら、ギルドのことも知りたいから」

「お姉ちゃん……」

 

 姉は素直で優し過ぎる。外へ走らせた騎士がこの場所を包囲していたらどうするのだろうか。仕方なくメニューを開いたが、書いてある文字がわからず、蚯蚓ののたくったような字に眩暈がした。

 

「あけみ様。昼間は帝国の騎士が無礼を働き、そのお詫びだと考えていただきたい。魔導王閣下の御友人から金を取ったと皇帝陛下の耳に入れば、私の首が飛びます。ここは私の顔を立てると思って」

 

 彼は良く分かっている。こういう言い方をされると、優しい姉は相手の立場を考えて従うしかない。お姉ちゃん大好きっ子な私も、従わざるを得ない。料理の注文を彼に任せてから、話に耳を傾けた。

 

 アインズ・ウール・ゴウン魔導王は、ギルドマスターだった”彼”と考えて間違いない。

 

「なるほど……道理で名前のセンスが、その……独特だったんだね」

 

 姉はメンバーだけが知る何かに納得したようだった。目的地が分からなかった私たちは、魔導国を目指すべきだと早々にわかった。

 

「なんで騎士さんは私たちのことを知ってるんですか?」

「話せば長くなりますが……皇帝陛下に妾はいますが、お世継ぎを産む正妃を探しております。魔導王閣下の御友人となれば、その実力は保証されています。魔導王陛下の友人という称号は、全ての国で無条件通過(フリーパス)が可能であると、周知の事実なのです」

「知りません」

「そこで御二方に、皇帝陛下へ謁見を願いたく」

「お断りだっ」

 

 どこの馬の骨とも分からぬ皇帝陛下に、大事な姉を渡してたまるか。

 

「明美ちゃん、失礼だよ。そろそろ怒るよ?」

「ごめんなさい……お姉ちゃん」

 

 調子に乗り過ぎた妹に、姉が怒りの鉄拳を握っていた。このままだと鉄拳制裁のたんこぶが頭頂部に(こしら)えられる。私は申し訳なさそうに俯いたが、騎士は私の言葉に反応していた。

 

「失礼を承知でお尋ねするが……その、人間であったとはいえ、今の種族は本当に女性……でしょうか?」

「むかっ、お姉ちゃんだって言ってるんだから、女性に決まっているでしょう!」

「明美ちゃん! いい加減にしなさい!」

 

 テーブルを叩いて立ち上がった私に、姉の怒号が店内に響き渡り、遠くで陶器が割れたような音が聞こえた。

 

「だって……」

「謝りなさい!」

「……ごめんなさい」

 

 腰を下ろした椅子の温度が冷たく感じられた。

 

「度重なり、妹が申し訳ありません。姉としてお詫びいたします」

「とんでもない! こちらこそ、不躾なご質問をお許し願いたい」

 

 姉が頭を下げようとしたので、騎士は慌てて立ち上がり、頭を下げた。コップに頭が当たって派手に零れた。

 

「わ、お姉ちゃん、タオルか布巾!」

「無いよ、そんなの!」

「誰かタオルかおしぼり持ってきて!」

 

 彼の失態で場が和んだ。知っててやったのなら、なかなかの策士だ。

 

「あ、ぼー……私は女性です。現実世界では30ちょっとです。こちらは妹の明美で、まだ20代です」

「ほう……ねふいりむという種族ですか」

 

 姉はフードをまくって顔を露わにした。騎士が物珍しそうに眺めていると、料理を運んできたメイドが足をもつれさせていた。しばらく巨人の頭部を凝視し、何事もなかったかのように料理を置いて立ち去った。態度に不満はあるが、指摘を始めたら止まらなくなりそうだったし、料理の匂いに鼻が引き寄せられた。

 

「うわぁ、美味しそう……お姉ちゃん、本当に食べられるのかな?」

「食べられるでしょう……多分」

「御二方とも、お詫びだと思ってお召し上がりを」

「半魔巨人って珍しいんですか?」

「聞いたことありません。物語や神話、スレイン法国の教典など、様々な文献に触れましたが、巨人種について詳しい資料はありませんでした」

 

 見た目に反し、教養があるのかもしれない。

 

 それにしても、食事はとても美味しかった。

 

 この店の等級がどれほどなのか知らないが、口から食べられる料理は噛めば噛むほどお腹が空くようで、幾らでも入った。サラダ、肉、魚、デザートの甘味と奇妙なフルーツ、肉と魚は少し脂っこいのが難点だが、それでも初めて口から食べられる食事で心も体も満たされた。こんなペースで食べ続ければ、あっという間に太ってしまう。

 

 姉に怒られてもなお、私は本当に調子に乗っていたらしく、食べ過ぎて動けなくなり、騎士の話に耳を傾けざるを得なかった。

 

「魔導王閣下とその異形種の御友人方は単身で世界を滅ぼせるお力を持っています。改め、魔導国までご案内をさせていただきたい。今はどちらへ滞在を?」

「実は……」

 

 最強の魔法詠唱者と名高い魔導王陛下が探し求める友人、世界の強者ともあろう私たちが、没落貴族の狂人の相手をしていると聞いて唖然としていた。

 

「お止めください……そのような真似をさせているとわかれば、私だけでなく、私の家族まで首が飛びます」

「皇帝陛下さんって、随分と酷い人なんですね。元を正せば皇帝さんが貴族の地位をはく奪したからでしょう? いつだって割を食うのは社会的弱者ですよ」

「それは違います」

 

 はっきりとした強い口調で否定し、真っすぐに私を見つめた。

 

「現皇帝陛下は、国の未来を守ったのです。自分の家族、腹違いの御兄弟、反皇帝派・邪教徒に与する腐敗貴族、更には前皇帝を暗殺したと思しき母君までその手にかけ、この国の地盤を確固たるものとなさった。数万、数十万にもなる国民の生活を守るためとはいえ、どれほどの軋轢を生み、陛下の苦悩を必要としたのか、想像を絶する覚悟で、それこそ命を賭して行った大改革だったのです。現在、この国、特に帝都は魔導国の加護を受けながら更なる発展を遂げようとしています。全ての責任者である皇帝陛下の苦労たるや――」

 

 彼の演説はとても長かった。

 

 早い話、魔導国の属国にされながら、(したた)かにそれを利用して帝国の繁栄に繋げようとする皇帝に心酔しているようだ。彼の話は個人的な思い入れがちょくちょく混じり込み、若き皇帝とやらの人物像は掴めなかった。確実なのは、皇帝が若くにして頭が禿(ハゲ)そうな苦労人であることと、不動さんが暑苦しい体育会系という2点はわかった。

 

 正妃候補としてお姉ちゃん、餡ころさん、茶釜さん、おまけに私まで名前が上がっているらしい。半魔巨人(ネフィリム)と人間の間に子供は作れるのか知らないが、皇帝がいい男だったら姉を進めてあげてもいい。

 

 異世界で一人の女として、平々凡々とした慎ましい生活が送れるなら、それに越したことはない。姉の性格を考えれば、教師として子供たちへ指導・鞭撻をして生きたいと言うだろうが、それは結婚してから続ければいい。

 

 私一人ならどうにでもなる。

 

「失礼、話しが長くなってしまいました……。明朝、馬車のご用意を致します」

「話はわかりましたが、姉は没落した老人を気にしておりまして。それが片付くまで結婚どころではないのではないでしょうか」

「明美ちゃん……」

 

 さりげなく結婚を匂わせたことで、姉が目線で責めていたが、これは私の妥協案だ。彼は私の意を汲み、強い目で頷いた。

 

「その貴族の復興ですが、皇帝陛下へ進言してみましょう。4騎士の私の意見であれば、皇帝も無下にはしないはずです。何よりも、御二人とこうして巡り合えたのは彼の功績といえましょう。しかし、問題は彼が狂人という点ですが……」

「お酒を断って変わることに期待するしかありません。今の境遇は正直なところ、自業自得だと思います。何から何まで手を貸す必要はないので、出来る範囲で助けてあげてください。魔導国に行って、彼の娘たちを探そうと思います。とはいえ、あまり助け過ぎても本人のためになりませんから、ほどほどで結構です。ね、お姉ちゃん?」

「う、うん……」

 

 こうでも言っておかないと、姉は何から何まで手を貸す。きっと彼の娘を探して、彼の狂気を払い、御家復興を果たしてからと考える。そしてあのおじさんは、また同じことを繰り返す。優しさは時として相手のためにならないのだ。

 

「どちらにせよ、急いだほうがいいでしょう。皇帝陛下は魔導王に招かれ、魔導国の首都へ滞在しております。明朝にここを立てば、まだ間に合うはずです」

 

 騎士は私が望んだ話をしてくれた。

 

「ありがとうございます。早速、帰って話してみます。浮いた金貨で彼らの食料を買って帰らないといけないので」

「手土産はこちらで用意させましょう。その貴族の苗字をお教え願いますか?」

「フルト家です」

 

 ここまで順調に進められていた会話が滞った。彼は緩んだ空気を呑み込み、神妙な顔で何かを考えていた。

 

「どうかしました?」

「以前、邪教徒に関与の疑いのある貴族に名が挙がっていたような……」

「勘違いではありませんか? 変なおじさんなんか、邪教徒さんの方から願い下げだと思いますけど」

「む……心配に越したことはありません。近頃、連中の動きが活発です。魔導王が人間ではないという点を最大限に利用し、帝国を秘密裏に乗っ取ろうとしている節さえあります。空き家の目立つ高級住宅街を根城にしている輩も多い。御二方の実力はお墨付きですが、くれぐれもご注意ください」

 

 彼の話が進むにつれ、取り返しのつかない失態を演じたような原因不明の焦燥感に駆られた。一刻も早く帰るべきだと、頭のどこかで警笛が鳴っている。

 

 食事を済ませた私たちは屋敷の場所を伝え、翌朝、現地で落ち合うと決めてから、人助けの目途がついたので、私たちは帰路を急いだ。

 

 

 

 

「でも、よかったよ、本当に」

「あとはおじさん次第だからね。何でもかんでも手を貸しても、おじさんのためにならないんだから」

「う、うん……そうだよね」

 

 まだおじさんの未来について心配をしている。フルネームも知らない、精神がややぶっ壊れたおじさんに腹が立った。

 

 収入もないのに借金を重ねた結果、家族に見捨てられ、家を取られるのは当然の報いだと思う。そんなダメ人間が姉の手を煩わせているのが気に入らない。姉は自分のことだけ考え、自分の幸せだけに生きればいいのに。

 

 不穏な考えをしているうち、気が付けば廃墟に着いていた。

 

「ただいまー」

 

 扉を開いてから濃厚に香る、鼻を突く嫌な臭い。埃ではなく、生々しく新鮮な鉄錆の臭い。血の匂いだと本能的に悟り、私は弓を構えた。

 

「お姉ちゃん……気を付けて」

「明美ちゃん?」

「血の匂いがする」

「っ! おじさん!」

 

 姉は家に飛び込み、家の暗がりに紛れた。

 

「お姉ちゃん、だめぇ!」

 

 慌てて後を追った私は、おじさんの部屋にて怒りで拳を震わせる姉を見つけ、その視線の先に血反吐を吐くおじさんをみつけた。倍に腫れあがった顔と、体中に赤と青の痣を拵え、刃物で切り裂かれた腹部から内臓が見えた。酷い暴行の跡だったが、私は存外、落ち着いていた。

 

 部屋の中に放置されているのは死にかけたおじさんと、金貨の入っていた空っぽの袋。山のように積み重なっていた酒瓶は全て消えていた。

 

 そして、おじさんに寄り添って眠るハムレスの遺体。

 

「ハムレス!」

 

 小さな猫の体はずっしりと重く、無情な冷たさを帯びていた。全身に付けられた刃物の傷と潰された両目、剥き出しの胸部から折れた肋骨が心臓に突き刺さっているのが見えた。

 

 手遅れだとはっきりわかる。既に子猫の魂はここにはない。体温の冷たさが、十分な時間経過を教えてくれた。

 

「ハムレス……どうしてよぉ……」

 

 私の目から涙が流れ、赤くなったハムレスの死体に零れた。血で汚れるのに構わず、小さな子猫を抱きしめた。姉は回復魔法を使い、必死でおじさんの治療をしていた。

 

「おじさん! しっかりして! すぐに回復魔法をかけるから」

「アルシェ……か?」

「喋らないで!」

「アルシェ……ジェイムズを……」

 

 まともに体も動かないはずなのに、彼は私の方へ這った。

 

「駄目だよ、おじさん。この子はもう……」

「クーデ? ウレイか? 大きくなったなぁ……私も年を取るはずだ」

 

 おじさんは私を見て嬉しそうに笑った。

 

「意識が……明美ちゃん、手伝って! ポーションがない!」

「許せない……」

「どうして!? 回復魔法の効果が薄い! 明美ちゃん! 早くっ!」

 

 私はポーションを放り投げてから立ち上がった。

 

 脳の奥深くから湧きだす黒く泡立つ何かが、私を報復に駆り立てる。索敵スキルによれば、周囲の家屋に複数の反応がある。おじさんとハムレスをこんな目に合わせた相手かはわからないが、何もせずにはいられない。

 

 私は姉のように優しくない。

 

「おじさん、意識をしっかりと保って。明日、帝国の人がこの家を復興するために来るから!」

「そうか……ありがとう、アルシェ。これで私も……死ねる」

「死なないでよ! 明日だよ! やっと貴族に戻れるのに……何でよ!」

 

 姉の回復魔法、私の回復薬は期待の効果をもたらさなかった。穴の開いた風船に空気を入れているようで、もしかすると魂が剥がれかけているのかもしれない。

 

「私は役目を全うした……これからは……お前がフルト家の領主だ」

 

 おじさんは穏やかに笑った。彼にこんな顔ができるとは思わなかった。

 

「アルシェ……父さんは……立派だろう?」

 

 娘と勘違いしている姉の顔を、おじさんは優しく撫でた。姉は敢えて否定せず、娘らしい言葉で返事をした。

 

「うん……お父さんは凄いよ」

「妹たちを……」

 

 妄想に囚われ、最後の言葉まで口数が足らず、本当に下らなかった。

 

 そのまま安らかに眠らせてやるべきだ。今は一人ではなく、寄り添って眠る小さな家臣がいる。下らない狂人は、最後に娘を思う心を取り戻した。あるいは、家の再興を聞いて安堵し、魂まで抜けてしまったのか。

 

「おじさん! おじさん! おじさん……どう……して。全部、これからだったのに……」

 

 姉がどれほど声をかけ、体をゆすろうと、彼の目が開くことはなかった。

 

 私の目から涙が溢れた。

 

「お姉ちゃん、ハムレスとおじさんの側にいてあげて」

「明美ちゃん……」

「私は狩りに行ってくるから」

「明美ちゃん! 駄目だよ!」

 

 姉の制止も聞かずに私は飛び出した。

 

 姉の頼もしい両手は、誰かを裁くものではない。これは、成長する過程で優しさをどこかへ捨ててきた、出来損ないの妹の仕事だ。信賞必罰、人を殺してはいけないというのは現実世界の法だ。人間を辞めた私たちが、なぜそんなものを守らなければならない。

 

 賊は無警戒にも二軒先の家で祝杯を挙げていた。

 

 物陰から様子を窺うと、ローブに身を包んだ魔法詠唱者らしき彼らは、奪った酒をがばがばと飲み、奪った金貨を積み上げて下品に笑い、奪った2つの命を称え合った。

 

「傑作だ! 暇潰しに金持ってるエルフの後を付けたら、金貨100枚も持ってやがっんだぜ! 最高だろ?」

「お前はいいな、気楽で。俺はあの猫に片目、持ってかれちまったよ。あーあ、付き合うんじゃなかった」

「猫だと思ったら魔獣の子だったとはな。まぁ、お前の片目を治しても予定の枚数は達成したんだ。そんなに怒るなよ」

 

 どうやら私は尾行されていたらしい。ハムレスは猫ではなく、猫科の魔獣だったようだ。彼は主人を守るために、ぼろ雑巾のようになりながら必死で戦ったのだ。

 

 殺してやりたかった。

 

(許せない……今度は私が奪ってやる)

 

 弓を握る手が震え、私の目から涙が流れた。

 

「本当はエルフを転売したかったが、まあ、仕方がないな」

「盟主様に献上するなら美しい女の方がいいが、金貨だけでも十分だ。どこかで奴隷を仕入れればいい」

「後でもう一度、あの屋敷に行かないか?」

「お前も大概、好色だな。エルフなんて気が強いから止めとけよ」

 

「私もそう思うよ」

 

 私は暗がりから出て行った。

 

 弓の標準を合わせ、いつでも彼らの命を刈り獲れる。彼らが瞬時に臨戦態勢にならなかったのは、私が泣いていたからだ。

 

「……おい、鴨がネギ背負って現れたぞ」

「へっ、エルフ、泣きながら俺たちを相手にすんのか?」

「誰か防護魔法を展開しろよ。後方から奴を無力化してやっから」

「伊達に邪教徒やってねえんだよ、エルフの姉ちゃん」

 

 もはや救いがたい。放たれた矢は最前列にいた男の右大腿部から下を食い千切った。矢は勢いを殺すことなく、賊の右脚を持ったまま壁を突き破り、どこか遠くへ飛んでいった。

 

 瞬間、彼らの顔色が変わる。

 

「こいつ強いぞ!」

「魔法展開、急げ!」

 

 もう遅い。速射系のスキルを使えば、数秒で彼らの命を奪える。

 

「あなた達が誰かなんてどうでもいい。これは私の個人的な復讐。私をすっきりさせるために、死んでくれる?」

 

 彼らの魔法などたかが知れている。低位魔法無効化の障壁を破れず、放たれた魔法は掻き消えた。降り注ぐ魔法を全て受けながら、人差し指で標準を合わせた。

 

 躊躇わずに顔面を打ち抜こうとしたが、何かとても重たいものが私にぶつかった。壁まで飛ばされてから横を見ると、姉が本気で怒っていた。

 

「お姉ちゃん……」

「明美!」

 

 彼女は私に近寄り、大きな両手を私の肩に置いた。

 

「どうしてそんなことするの!」

「……ねぇ。逆に聞くけど、どうしてこいつらを殺しちゃいけないの? ハムレスとおじさんを殺したじゃない!」

「人を殺しちゃいけないんだよ! どんな理由があっても、人を殺したら償わなければいけないんだよ!」

「だって……こいづら”……酷いこどをしだも”ん”」

 

 私の叫び声に嗚咽が混じった。

 

「わかってる。わかってるよ、明美ちゃん。だから、あとは僕がやるよ」

「お姉ちゃん、私が殺すからそこをどいて! お願いだから殺させてよぉ! 二人が可哀想よぅ!」

「明美ちゃんはそんなこと、しなくていい。全部、お姉ちゃんがやってあげるからね」

 

 優しく頭を撫でられ、強張っていた力がどこかへ逃げ、私はその場に崩れ落ちた。

 

 新手か味方かを決めかねていた彼らも、自分たちに近寄る姉の姿に恐怖を覚えたようだ。しかし、彼らの膝は大そう笑っている。姉の巨大な拳は大きさに反して素早く、身動きが取れずにまともに食らった。

 

 思うままに蹂躙する様子は、まるで一陣の竜巻だった。

 

 手加減しているとはいえ、彼らは一撃で壁にめり込み、白目を剥いて痙攣していた。生死は怪しいが、一仕事終えた姉は脱力する私を優しく抱きしめた。

 

「明美ちゃん、もう大丈夫だよ。彼らは明日、不動さんに引き取ってもらうからね」

「ぢがっ……ぅもん……わだじ」

 

 せき止めていた嗚咽が混じり、言葉は濁っていた。説明しようにも唇が震え、声は嗚咽となって口から零れる。私はただ、彼らが許せなかっただけだ。そこには彼らへの慈悲などなく、殺意を伴う憎しみに突き動かされていた。

 

「ぇっ……ぇっ……」

「優しいね、あけみちゃんは」

 

 私は優しくなんかない。

 

 老人がこうなったのは自業自得で、ハムレスだって着いていく主人を間違えただけだ。彼女は哀れな老人と子猫の死を心から悼んでいる。私が泣いていなければ、彼女が泣いていたはずだ。

 

 私は………自己中心にして利己的で、我がままで、痛みが分からない悪い子だ。考えれば考えるほど、涙は絶えず流れ続けた。姉の胸を借りて、静かに泣き続けた。

 

「可哀想だったね……今は、好きなだけ泣いていいからね」

 

 私もそう思いたい。

 

 彼らの死で見えない涙を流したい。

 

 いい子になりたい。

 

 お姉ちゃんみたいに、優しい大人になりたい。

 

 現実を捨てた方がいいのは、私の方だったのだ。

 

 だから私にだけ手紙が来た。

 

 

 

 

 姉の胸を借りて泣き腫らした朝。

 

 赤を基調にした装飾の馬車を屋敷に乗りつけ、不動さんは挨拶もそこそこに尋ねた。

 

「それで、フルト家の方はどちらに?」

「……死にました」

「……畏まりました」

 

 ふん縛られている賊たちを見て察し、彼はそれ以上、尋ねなかった。賊を部下に任せ、私たちはすぐに出発した。

 

 不動さんも同乗するかと思ったが、彼は別の馬車を手配した。姉妹だけの方が気兼ねなく旅に出られるという配慮がありがたかった。草原を行く馬車の中、私は頬杖をついて窓の外を眺めた。開いた窓から緑の匂いがする風が吹き込んだ。

 

 今ごろ、風通しのいい廃墟で、おじさんと一番の家臣は寄り添って眠っているだろう。薄汚れたカーテンレースと開け放された窓、入ってくる風に埃が舞い上がり、二人が御家復興を喜んでいる姿が浮かぶ。

 

「明美ちゃん、なんか嬉しそうだね」

「ん?」

 

 指摘されてはじめて、私は自分が微笑んでいると気付いた。

 

「ねえ、おじさんさ、娘の名前、何て言ってたっけ?」

「え、と……確か、アルシェとその妹って。クーデとウレイって言ってたっけ」

「そ」

 

 魔導国で彼の子供たちを探し、いつかまた会いに行こう。そのときは、今度こそ彼を可愛そうな人だと思えるような優しさを携え、優しい私になっていよう。

 

(また来るよ。おじさんとハムレス)

 

 夢半ばで朽ちた老人が、今わの際に理性を取り戻したのか、今となっては分らないが、さして重要ではない。確かなことは一つ、子猫(ハムレス)はいつまでも彼の忠実な家臣でいる。

 

「明美ちゃん……?」

「あ、お姉ちゃん、見て! 遠くで虹色の何かが飛んでるよ!」

「本当だ! 何だろうね、あれ!」

 

 彼女は誰かを守り、気にせずにはいられない。教職は彼女の天職だ。姉にのんびりと守られながら、優しい私になればいい。アラサー間近ながら独り立ちできないようで憂鬱だが、大樹に寄りかかるのも悪くない。

 

「お姉ちゃん、魔導国に着いたらギルマスさんに挨拶してから、皇帝さんとお見合いだね! ついにお姉ちゃんも結婚かぁ……」

「明美ちゃんたら……僕はそんなの興味ないよ。でも、元気になってくれて良かった」

 

 

 私たちの明日はもう見えている。

 

 

 





ハムレス→ハミングレス→鳴かない猫→静かに寝る子
家畜がいれば、リアルに生息している(いた)動植物は異世界にもある(これは本編で言及します)→つまり猫だっている
でも彼は猫ではなく、ケットシーLv1。ご主人サマ大好きな優しい魔獣の子


――上から順番に猫語翻訳――
パンを貰ったところ
《お腹空いた》
《家来、なる!》

姉妹で打ち合わせをしている場面
《もう許してあげてよぅ》

明美ちゃんと会話
《あれでも結構いい奴だよ!》
《違うってば!》
《駄目だこりゃぁぁ》


行き先→4《1借金取り 2冒険者 3酒を売る 4ケットシーが教えてくれる》
遭遇→5《1異形種嫌いの神官 2店長 3冒険者 4古田さんの弟子 5不動 6ロクシー》


山瀬姉妹(公式)
「黎明」登場人物。天才肌の妹、それに劣等感を感じない大樹のような精神の姉。

明美step
天才肌の性格→挫折に弱い、協調性がない、思考がstep(飛ぶ)、常識が無く小さいことは気にしないくせに心配性、コンプレックスがある、積極性があり、基本的に努力しなくても何でもこなせる。

山瀬舞子
姉なるもの。厳しくも優しい女教師。妹とは対照的な性格だが、不思議と意見は対立しない。参考:ユリ


所感(ツイート)
「どうも上手くいかないなぁ……」

次話(仮タイトル)
《1森の皇帝(ヴァルト・カイザー) 2甘味なるもの 3銭ゲバ商会、評議国支店 4???(エクストラhell)
1d4→3

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。