Fate/Grand Order~荒寥魔星大陸 梁山泊~ 作:源氏物語・葵尋人・物の怪
そも盧俊義とは男。
立香がそのように認識するにはただ一つの哮りだけで十分であった。
己が高足たる燕青と同じ口上は、喉仏が壊裂するような力強い声で紡がれる。
「“十面埋伏・夢幻の如く”」
盧俊義自身が自らの体に起きた現象に記した名はそれであった。
「なっ!?」
師の絶技の始動に、燕青は意図せぬ驚愕をする。
虎を思わせる前傾した走行で燕青に近付く盧俊義の後ろから、二人の盧俊義が飛び出してきたのだ。
その盧俊義には影があった。管弦を得意とし耳の良さに自信のある燕青は、確かに心臓の鼓動を三つ聞き取っていた。
残像ではない。燕青と同じく歩法と体捌きを以ての見せかけではない。本当に盧俊義は分身しているのだ。
併し、驚愕に怯む時間は燕青には無かった。三人の盧俊義が燕青の顔、腹部、足元にそれぞれ蹴撃を仕掛ける。
上段が左側、中断が右側から来る逃げ場のない攻撃。
これを躱すには、盧俊義の上を取るか後方に逃げるかの二つに一つ。
――咄嗟に燕青は後ろを選択した。背と地面を並行にして大きく飛ぶ。
併し、その選択肢は誤りだった。
「ガハッ!?」
背中に鈍痛が走り、燕青は跳躍していた向きとは逆ベクトルの衝撃を受ける。
燕青が跳んだその先に盧俊義が現れたのだ。土から、湧き出てくるかのように。そして、燕青の背に自身の肩を激突させたのである。背中という部位も問題であるが、所謂カウンターの形で入ったこともあり、燕青は吐血した。
だが、攻撃はここで終わらない。衝撃で飛ばされた先に、最初に攻撃を仕掛けた三人の盧俊義が周り込み、燕青を蹴り上げる。
尤も、その高さは蹴り上げたというには聊かに過ぎていた。雲がすぐ傍までやって来て頬を撫でるようなともいうべき高さだ。
そして、そこから燕青が落ちてくるのを待つ程、魔星天罡を背負う悪漢は優しい人間ではなかった。
盧俊義は、他の三人の自分を踏み台にし、倒立した状態のまま飛び上がり、燕青を更に天高く蹴り上げる。
瞬間、今までいた筈の盧俊義は全て消え、燕青が浮上したその先に盧俊義がいた。
「受け取れ燕青!」
伊達男と呼ばれた顔に盧俊義は容赦なく鉄拳を振るう。
秀眉が赤く染まった。
地に落ちていく燕青。そこに更に盧俊義は追撃を掛ける。
「これが私の――」
それも、まだ人の範疇にある筈の盧俊義という人物に在っては在り得ない方法で。
盧俊義の左腕が伸び、燕青の首を絞めたのだ。
そして燕青を掴んだまま引き寄せる形で腕はそのまま元の長さに戻り、
「愛だ!」
盧俊義は燕青の顔面に膝をねじ込ませたまま、地に堕ちた。
荒野に大穴が穿たれた。
それほどの衝撃が総て燕青の頭蓋に集中したのだ。幾らサーヴァントが人よりも遥かに頑丈に出来ていようとも、致命傷となり得る。
そしてそれを盧俊義は理解していた。
「ハハハハハハ! 私の義侠かグシャグシャになった! 引き潰れて、私の子宮に入って来るよォ……フヒヒヒ! フフフフフ!」
故に盧俊義は傲笑する。
立香は呆然と彼女を見つめるばかりであった。
「そうだ、これが私だ! 私にあったのはお前を教えたという記憶とお前を情欲の眼差しで見ていたという過去だけだ! あとは全部溶けた……否、成立した私は“私”をそのようにしか認めなかった!」
『……君に混ぜられた幻霊の力を使って?』
問いはダ・ヴィンチから投げられた。
嘆息のような、嬌声のような短い応答の後に恋に狂った女として成立した英傑はカルデアの碩学を讃える。
「その通りだ。流石は万能の天才」
興が乗ったのか。
盧俊義は朗々綽々と自身の能力について語り始めた。
「私に混ぜられた幻霊は二つ。一つは“シュレディンガーの猫”」
それは量子力学に於ける思考実験の一つの名である。
この実験に於いて用意する物は四つ。
蓋付きの箱。一定時間の内に二分の一の確率で崩壊を起こす放射性原子。崩壊を検知すると有毒ガスを発生させる装置。そして、生きた猫一匹。
さて、用意した箱の中に猫と原子とガス発生装置を入れ件の一定時間蓋を閉じ、その時間が過ぎるまでの間、猫はどうなっているだろうか?
開ければその猫は生きているか、死んでいるかのどちらかだ。併し、箱が閉じられている間その猫は生きているとも言え、死んでいるとも言える。
無論死と生の境界線が重なった奇妙な生命体が生まれるわけではない。生きた屍などと言った表現が存在するが言うまでもなく、そういった評され方をされる人間は生きている。死んだような目をしたと表現されるような男が仮にいたとしても、その男が生きているのならばそれは生者の目である。
現実に、生きている状態と死んでいる状態が重なるなどということはあり得ない。それは魔術的な視点で以てしても同様であり、生ける屍であろうと数字上は死んでいる魔神柱であろうと死を観測する魔眼はその“死”を捉えることが出来るのだから逆説的に生きている状態が確定されるわけである。
併し、量子力学――ミクロの視点で繰り広げられる世界では、暫し観測されるまで半々の確率でこうなるだろうということしか分からないから観測されるまではその半々の状態が保たれているとするケースが間々存在する。
そして、シュレディンガーの猫を用いて提唱者が訴えたかったこととは、『死にながら生きている猫がいないのならば半々の確率が同時に存在していることなどありはしない』ということである。
併し、この曖昧な状態を否定する為に生まれた猫は皮肉にも幻霊化に辺りその性質は変容していた。
「この“シュレディンガーの猫”という幻霊が持つ性質は曖昧な境界線そのものであり、その能力とは曖昧な状態を確定するものであるのだ」
詰まる所“シュレディンガーの猫”は、提唱者であるエルヴィン・シュレディンガーが否定したかった“机上に於いてのみ成り立っていて現実には適応し難い曖昧さ”そのものとして成立してしまったのだ。
「故に私はどこにでも現れることが出来るし、“存在しない”という状態を“存在したまま”行うことが出来る。零人であれば、沢山でもある。手足がないと思いきや無数に増える時もある。男であれば女でもある」
誰にも気が付かれず、どの装置にも検知されずカルデアに転移出来たのは、盧俊義がどこにもいてどこにもいない存在だったからだ。
燕青の白打を全て凌いだのは、曖昧さを利用して腕を生やしていなしていたからだ。
盧俊義の宝具も、自身の数量を曖昧にし分身を行うことで成り立つ絶技である。
また、元々実在しない存在として曖昧である盧俊義は、曖昧を確定することが出来るシュレディンガーの猫によって定義し直すことが出来たのだ。
何故、燕青を愛する女として在りたかったかは、盧俊義自身最早定かではない。否、そうなろうとした理由にすら頓着していない。
|我思う、故に我在り(コギト・エルゴスム)――である。
「――言っておくが、この耳は私が意図したものではないぞ。どうも猫というイメージに引っ張られてしまったことが原因らしい」
耳の理由についても話す言った自身がした約束を盧俊義は律儀に果たす。
『矢張りそれだったか』
「だが、万能の天才よ。それだけでは私を言い表すのに不十分なのだ。盧俊義がこうして形作られるに当たって、シュレディンガーの猫だけでは出力が足りなかった。だからもう一つ幻霊を混ぜる必要があったのだ」
『それについても説明してくれるのかい? 義侠殿』
その呼び方が余程可笑しかったのか、盧俊義は噴き出した。
「良き世界を作ると言ってそれを信じた者達を裏切り殺すような者に在る“義”など笑止でしかないと思うがね。併し、そう呼ばれた以上は答えるしかないだろう。尤も元より、隠すつもりなどなかったが」
「それは如何して?」
「死に逝く者が、自分を殺した者のことを知ることなく死ぬのは無念でしかないだろう?」
冗談などではなく、盧俊義は至って真剣な表情で立香の問いにそう答えた。
「何を意外そうな顔をしている、藤丸立香。君の役割とは私に燕青を運んでくることだけだった。そして、私の中に燕青は既に戻った。ならば、お前に用はない。用がないのならば生きていても仕方がない。ほら、当然の道理だろう?」
気軽な調子での殺害宣言であった。
「話が逸れたな。興が乗ると余分な話を話し過ぎる。私の悪い癖だ。何事も先送りにするのは良くないのに。死期であるのならば尚更だ」
盧俊義は困ったような顔をして、首をゆっくりと振った。
「もう一つ私に混ぜられたものは、日本のとある物書きが生んだ精神科医。登場する物語自体が、というのもあるが、その医師というのも死んでいるのか生きているのか曖昧な境界にあった。故にだ、丁度良かったのだ。曖昧さを必要以上に味付けせず、そのままに補強するには」
――曖昧であることを確定させるというのは、なんて矛盾した話なんだろう。
淡々と語られる盧俊義の発生経緯に対し、立香はぼんやりとそのような感想を抱いた。
「さて、これで君に話すべきことは話した。そろそろ幕引きとしようか」
愈々盧俊義は、立香に手を掛けようとする。
屹度、慄くだろう。盧俊義はそんな想像をしていた。
だが――。
「何が可笑しい?」
意外、藤丸立香は酷く悲しそうな顔をしていた。
気を違えたというわけではなく、素面の儘に。
「アナタは燕青のことを愛しく思っている筈なのに、燕青のことは何一つ見えていないんだなと思って」
立香が抱いたその感情に敢えて名前を付けるのならば――それは“憐憫”だろう。
「何故、そんな顔をする?」
「悲しくなるからです。見えていない相手をそれでも思い続けるアナタのことを思うと。そういう在り方を選んでしまったアナタを思うと」
「……君は優しいのだな。だが、何を以て私の目に燕青が映っていないと言う? その根拠は何だ?」
立香は目を閉じた。
そして、直ぐに開けるとその顔から悲しみは消えていた。
代わりに顔に現れていたのは、何と形容することも出来ない強い思い――。
「俺の知ってる燕青は、こんな所で倒れたりはしない!」
それは自身のサーヴァントに対する絶対の信頼であった。
根拠としてはあまりにも薄弱だ。
だのに、三絶と謳われた勇士は胸のざわめきを止めることが出来なかった。
ゆっくりと後ろを振り返る。
「なっ――」
絶句した。
確実に倒した筈の燕青が立っていたのだ。
それを認識した頃にはもう遅い。
光輝く義侠の拳が、盧俊義の胸を貫いていた。
「――ッ! 如何して……」
盧俊義は自分の口元に湿り気を感じる。
臓腑の一つか二つ、潰れたのだろうと冷静に考えた。
その疑問の回答として、立香は自分の右手の甲を見せた。
「令呪を三つ使った。これでアナタの宝具に耐えたんだ」
魔力の塊である令呪は一度に複数使うことも可能である。
三つ合わせた場合の魔力総量は、サーヴァントの存在を固定させる霊核の損傷を瞬時に補修することすらも可能とする。
確かに致命傷を負った筈の燕青がこうしてこの場にいるのはそういった経緯であった。
「……おかしい。手ごたえはあった。この身に燕青を編む魔力が入って来るのも感じた。他に強い魔力も感じなかった」
『その理由は、多分、貴女自身が話したことの中にあると思います』
その疑問に答えたのはマシュであった。
「……キリエライト」
『貴女の能力は“自分の曖昧さ”を“望んだ形に固定する”もの。なら、欲した結末を望む気持ちが強すぎればそれを自分の中に作り出してしまうかもしれない』
「私が私自身を騙した?」
意図せず乾いた笑声が出てくるのが、盧俊義には愉快で、それでいて不愉快で堪らなかった。
「だが、分からない。令呪を使った時点では燕青も藤丸立香も、私の力について何も知らなかった筈だ。如何してこんな方策が取れた?」
「そういうのじゃないんだ」
策という言葉を燕青は否定する。
「マスターは、何とかなるとしか思ってなかったんだ。後も先も、考えず」
盧俊義はポカンと口を開き、虚空を見つめた。
理解し難いことだった。
そして、同時に思った。
藤丸立香は燕青を信頼していたのだと。燕青がいれば、燕青にならば何とか出来るだろうと。
「私に、足りなかったものだ」
手繰るのは胡乱な境界に埋没した自身の――サーヴァントではない盧俊義の記憶。
創作物に過ぎない英雄が持たない筈のものの中で、盧俊義は幾度となく燕青を信頼しなかった。彼の言葉に耳を傾けず、その行動を否定し続けた。
自分に向ける思いを裏切り続けた。
――痛みだ。盧俊義にとっては認識したくない痛覚であった。
故に盧俊義はそこから逃げ出したくて仕方がなかったのだ。
そんな彼の耳に届いたのは一篇の詩であった。
“胎児よ、胎児よ。何故躍る? 母親の心が分かって恐ろしいのか?”
スカラカチャカポコと奇妙な響きと共に聞こえてきたその詩に盧俊義は身をゆだねてしまったのだ。
「私の負け――か」
その一言はふと凪いだ風の中に消えた。
泡沫のように大気に溶けていった盧俊義の肉体と共に。
足元には黄金に輝く杯が落ちていた。