Fate/Grand Order~荒寥魔星大陸 梁山泊~ 作:源氏物語・葵尋人・物の怪
「これ、聖杯?」
「……みたいだな」
杯を拾い上げる燕青の顔はどこかやるせなさを感じさせていた。
『やったことの規模が規模だけに魔力は殆ど残っていないみたいだね』
ダ・ヴィンチは聖杯についてそう鑑定した。
百八魔星を疑似的に作り出したこともさることながら、小規模ながらも天体を創造してしまったことが大きかった。
何しろ神代の事象の再現である。権能或いは大権能とも呼ばれる太古の神々のみが持ちえた力が大いに関わる現象に費やす魔力の量は万能の願望器を一つ程度ならばいとも容易く食い潰すだろう。
『まぁ、万能の願望器でないものと言えど聖杯を取り戻せたことには間違いはない。これでこの特異点も修復される筈だ』
「その通り。これで君たちは無事にカルデアまで帰るだけだ」
瞬間、この場にいた誰もが呼吸すらを忘れた。
ダ・ヴィンチに応答したのはこの場にいてはいけない筈の人物であったから。
頚椎が砕けるような凄まじい速さで、立香と燕青はその声の在処に振り向く。
「盧俊義ッ!」
倒した筈の特異点の元凶たる人物がそこに立っていたのだ。
『そんな如何して!?』
「依違な夢幻の住人たる私だ。死んだか生きたかさえどっち付かずに決まっている」
曖昧さを力として振るう盧俊義は、自分の生き死にすらも虚実の境界線に乗せ、そして無理矢理自分がまだ“生きている”と解釈し、肉体を再構成したのである。
事実としては受け入れ難いことだろう。現にマシュもそうであった。
だが、そんな彼女を盧俊義はより深い迷夢に陥れる。
「所で少女よ。君は美しい声をしているな。顔は分からないが屹度美人だろう。名前を教えてくれないだろうか?」
『え? 何を言って……』
マシュの声には困惑の色が見え隠れしていた。
無理もない。気障ったらしい言い回しではあるが、盧俊義は至って真剣にそう言っているのだ。
畢竟するに、此処にいる盧俊義の認識は、『マシュのことは今初めて知った』なのである。
「一体何がどうなってやがる!?」
燕青も、立香もまたマシュと同じく戸惑いを隠せない。
フムと一呼吸置くとダ・ヴィンチは手元のキーボードを操作し、盧俊義の霊基を解析した。
『――なんだ、コレ。心電図じゃないんだぞ? なんでこんなに数字が上下するんだよ?』
モニターに表示された現実は常識を超越している筈の万能の天才を以てしても俄かには信じられないことであった。
盧俊義のステータス、属性などのデータが絶えず変化し続けていたのだ。
ステータスや属性を変化させるスキルや宝具を保有するサーヴァントはカルデアにもいないことはない。例えばエルキドゥは“変容”のスキルを以てステータスを自由に振り分けることが可能であるし、秩序・善の属性を持つヘンリー・ジキルは宝具を使い混沌・悪の属性を持つハイドになる。
だが、それらの前例があったとしても一秒として同じ状態である時が存在しない今の盧俊義は異常と言わざるを得なかった。
「……シュレディンガーの猫の力を使えば使うほど、盧俊義自身も曖昧になっていく?」
ふと思いついたように呟いた所に、それだと、ダ・ヴィンチは叫んだ。
『カルデアへのレイシフト、いかなる装置にも引っかからない認識遮断能力、完全消滅からの霊基再構成――幻霊とはいえあまりにも大きな力には変わりはない。そして盧俊義という幻霊はその大きな力にへばりついているだけの存在なのだから、当然それに呑み込まれるってこともあり得る。ついさっきまでは大丈夫だったみたいが、無からの再生は魔法域の奇跡だ。症状が発露するトリガーになってもおかしくはないだろう』
――実際はそうではない。
これは盧俊義の中にさえ消えてしまった事実ではあるが、きっかけは自分が定義した在り方を自身で否定してしまった所為で、“盧俊義”という概念の強度が薄弱になってしまった為だ。
彼女は燕青を孕む母という在り方に依存し、目を逸らしたかった己の罪悪に向き合うことを選んだのだ。
「――盧先生」
無論、燕青は知りもしないことではあるが、それでも嘗て親愛した師であり主であった人の痛ましい姿は感じ入るものがあった。
「ダ・ヴィンチの姐さんよォ。仮にこのまま盧俊義がシュレディンガーとやらの力を使い続けるとどうなる?」
『可能性でしかないが、恐らく消える。“盧俊義”と呼ばれた幻霊すらなかったことになるかもしれない』
自分は今どんな顔をしているのだろうかと、燕青がふと思うには十分な仮想であった。
「聞いたか、盧俊義。せっかく生まれたんだ何も消えちまうこたぁねぇだろ。大人しくしていろ。これ以上アンタが戦う意味はねぇんだ」
「何を言う燕青。元より“盧俊義”など無いものだ。そこに在る意味も無い。消えることに恐怖などある筈もないだろう」
盧俊義の言葉に、立香は物悲し気に俯いた。
「――戦う意味はある。言っただろう? 散り逝く者が葬る者のことを知らぬことは無念だと」
「何を言っている!? 貴方が、この燕青を知らぬわけがないだろう!?」
「いいや知らないねぇ。私が知っているのはあくまでも私が知っている“燕青”だ。此処にサーヴァントとして藤丸立香の下にある燕青を私はまだ総て知った訳じゃあない!」
「“ドッペルゲンガー”のことか?」
燕青は自身に混ぜられた幻霊の能力のことを言わんとしていると思った。
だが、盧俊義は首を横に振った。
「違うね。お前の力はそんな所にない。私が見せて欲しい力とは、即ち藤丸立香と紡いだ絆のことだ。今のお前にとって最も強い力のことだ」
燕青はその言葉に怒りを露わにした。
「俺が、主を信頼していないと言っているのか?」
「そう言っている。自身を失うかもしれない力を使わないのはそういことだろう?」
確信を以て盧俊義は言った。
「藤丸立香の声は君にとってその程度の物か? お前を燕青と呼ぶ声があればお前は燕青であれると思わんのか? お前の主は十全にお前を信頼したぞ。ならば十全の信頼を返せよ」
顔を覆い、燕青は乾いた笑声を上げた。
「燕青?」
その様子を心配し、立香は彼の名を呼んだ。
「いや、大丈夫だ、マスター。当たり前のことを、意外なヤツに指摘されたのが可笑しくってたまらないってだけだ」
「当たり前のこと?」
「俺が俺を失った新宿の時と今の俺の違いさ。アンタがいるかいないか。大きな違いだった」
立香は大きく目を見開いた。
「何、意外そうな顔してるんだよ。大きいぜ、主の存在は」
義侠は笑顔を見せて、自身のマスターに背中を預けた。
「俺は藤丸立香の声がある限り、もう俺を見失わない。証明してやる。拳を構えろ。掛って来い盧俊義。見せてやるよ。カルデアがサーヴァント、燕青の全身全霊ってヤツをよォ!」
その啖呵に、盧俊義は呵々大笑する。
「良いねェ! それでこそ浪子と言われるだけの好漢だ!」
オオと雄叫びを上げ乍ら、盧俊義は燕青に突っ込んでいく。
「食らえ!」
ただ真っ直ぐ向かってくる盧俊義に、燕青は大きく距離を取りながら短刀を手に作り出してそれを投げつける。
数本投げつけた短刀は全て盧俊義の体に突き刺さる。
すると、彼女の体は大きくよろめき、同時に吐血した。
『これは、静謐のハサンさんの毒の刃です!』
「自分の姿を保ったまま能力だけを再現した!?」
マシュの分析に、立香も流石に驚嘆を表す。
「この程度で、麒麟たる私が止まるかァ!」
併し、盧俊義は体制を持ち直し、尚も疾駆し続ける。
「ならこれはどうだ!?」
今度は燕青の手に横笛が現れる。
そしてそれを吹き鳴らすと、またも盧俊義の体勢が崩れる。
『これはオルフェウスに由来する音魔術だ!』
今度はアマデウスの能力だった。
併し、稀代の音楽家の力ですらも盧俊義は止まらない。
「舐めるなァ!」
自らの腹に手刀を突き立て、痛みで以て微睡を掻き消し乍ら、盧俊義は燕青に向かい続ける。
盧俊義の意志に舌を巻きながらも、燕青は次の手を考える。
元より燕青は、徒手空拳以上に弩を用いた戦いを得意とするアーチャーである。ならば彼の全霊が弓矢にあるのは当然のことだ。
手に持つ武具は弓。そして振るうべき力は――
「森の恵みよ! 魔星を滅ぼす毒となれ!」
その毒は毒を火薬として爆発させる力がある。
静謐のハサンの毒の刃に蝕まれている盧俊義には最も強力な武器となる。
魔星天罡の肉体は木っ端微塵に砕けた。
「成程、これが燕青か」
塵に還った筈の盧俊義はまたも肉体を再構成し、遂に疾走を止めた。
「良いものを見せて貰った。有難う。満足のいく敗北だ」
「じゃあなんで戻って来たよ?」
毒を吐く燕青に盧俊義は苦笑した。
「後始末が残っているからさ。何、安心したまえ。それが済んだら、私は無に還るさ」
ズキリと、立香は自分の胸が痛むのを感じる。
「そんなこと言わないで下さい」
気が付けばそんな言葉が口に出ていた。
「無かった筈のものだからってそこに在ったんだ。簡単に消えるなんて言わないで下さい」
思い出されるのは一人の男の顔だ。
総てを背負って、たった一人で消えていった、優しいただの人間の気の抜けた様な笑顔だ。
彼もまた本来は在らざる者だった。
人間性の無かった王が、人間性を望んだ結果生まれた、無かった筈のものだ。
それを無意味だったと言うことなど、消えるのが当たり前だと思うことなど藤丸立香に出来る筈もない。
「――私は多くを殺めたのだぞ?」
「それを悪いと思うなら尚のこと消えちゃ駄目だ。失ったものは他の何かを差し出して戻って来るものじゃないんだ。消えることには何の意味も無い。それは、アナタのエゴだ」
その言葉に、盧俊義は力無く笑った。
「優しいと言ったが君は残酷だなぁ。残酷で優しいよ、藤ィ丸ゥ立香ァ」
藤丸立香の本質を知って盧俊義は
「燕青」
と自分の弟子に語り掛ける。
「彼の優しさと残酷さは屹度、いつか彼自身を突き刺す刃となるだろう。師からの――元主からの忠告だ。その時が来たら君は支えてやれ。彼を主だと思うのなら。それを今後も貫くのならば」
「語るに及ばず。それが千山万水を踏み越えるような道であろうと」
燕青の啖呵に、盧俊義は穏やかな顔をしていた。
まるで総てに安堵しきったかのように。
「……帰ろうか、カルデアに」
「ああ」
遂に二人は荒寥たる魔星大陸から退去した。
「若し縁があったらまた会おう」
消えると言って憚らなかった筈の英傑の次を望む言葉を聞きながら。