白雪姫の指し直し   作:いぶりーす

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プロローグ

 奨励会三段に上がったあの日から今日までの二年という歳月はとても長く感じた。

 あの地獄の三段リーグで、私は何度も躓き、心を砕かれた。敗北の恐怖に指す手は震え、プレッシャーに圧し潰されそうになって対局前には吐くことすらあった────でも、諦めなかった。最後まで、足掻き続けた。

 その無様な足掻きを見てくれたのか、将棋の神様は私の願いを聞き入れてくれた。

 

「お久しぶりです姉弟子。なんだか不思議な気分ですよ。昔から姉弟子とは何度も盤を挟んで向かい合っていたのに、今日はとても新鮮に感じます」

 

 和服を着こんだ八一が盤を挟んで向かい合う私に、懐かしむように微笑えんだ。

 昔と変わらない子供のような無垢な笑顔。将棋のことしか考えてない将棋馬鹿で、私のことなんてちっとも見てくれなくて、大嫌いで────大好きな人の笑顔。

 

「ええ、久しぶりね、八一」

 

 対局者同士が対局前の数日間は互いに接触を避けるのはプロ棋士としてよくあることだけど、私たちがこうして面と向かって話すのは、随分と久方ぶりだ。

 なぜかというと、三段リーグで躓いていた私はある一つの決心をしたからだ。それは、プロになって八一と対局するまで、あいつとの接触をなるべく断つこと。

 成績の振るわない私を八一は何度も励まし、そばにいてくれた。でも、それじゃいつまで経っても私はあいつの優しさに甘えてしまう。だから、私は八一との直接の接触を絶った。

 もちろん、竜王と練習ができる貴重な環境を無下にする訳ではなく、ネットや電話で研究会をしていたが、直接会えないのは……やっぱり寂しかった。

 だけど、その決心が実ったのか、私は今こうして八一と同じ場所にたどり着いた。 

 

「まさかプロになって指したい相手が俺だとは思いませんでしたよ」

「意外だった?」

「ええ。それに最近は俺と指したいって言う人、あまりいませんし」

 

 さっきの笑顔とは違って苦笑しながら頬をかく八一。

 でも、それは仕方ないことだと思う。私がプロに上がろうと必死に足掻いていた二年の間、未だに竜王に君臨する八一は次期永世竜王とすら噂されている。

 本当なら、例え私がプロになってもタイトルホルダーの八一と対局するにはもっと時間がかかる筈だった。今日こうして八一と盤を挟んでいるのは、これが公式戦ではなく、雑誌の企画した対局だからだ。

 公式戦ではないと言っても、かつて八一と清滝師匠が対局をした時と同じ大手雑誌が企画した対局だ。その重みは公式戦と比べても何ら遜色ない。

 史上最年少竜王対史上初の女性プロの対局。しかも同門同士。メディアがこんな対局を見逃す筈もなく、集まった記者は普段と比べ物にならない。

 

「今日は邪悪なロリ王を討伐しに来た」

「なんですか、邪悪って……歩夢みたいな言い回し止めてくださいよ。あとロリコンじゃないですから!」

 

 こんなにも注目されてる中で指すのは、私の四段昇級がかかった対局以来だろうか。でも、心はあの時よりもずっと落ち着いていて、こうして冗談を言えるのはきっと、目の前に八一がいるから。

 

「……一応言って置くけど、手加減なんかしたら殺す」

 

 確かに今日の対局は公式戦ではなない。私の目標は八一と公式戦で指すこと。だけど、プロとして本気で指すのには違いない。

 

「手加減なんてする訳ないじゃないですか。俺たちは同じプロなんですから」

 

 そう言って勝負師の目で私を見抜く八一。その視線が、その言葉が、たまらなく嬉しかった。

 あの八一が、遥か遠くにいた八一が、将棋しか頭にない八一が、やっと、やっと私に振り向いてくれた。私を見てくれたんだ。

 ずっと遠くで焦がれて、眺めてるだけしかできなかった私の将棋星の王子様。そんな八一が私と今、こうして向かいあっている。

 

「あの、さ……八一」

「なんですか?」

「対局が終わった後に、大事な話があるんだけど……」

 

 告白しようと決めていた。ずっと溜め込んでいたこの想いを、やっと向き合ってくれた今日に。

 

「奇遇ですね、実は俺も姉弟子に大事な話があるんです」

「っ!?」

 

 照れ臭そうに笑う八一。そんな姿にドクン、とさっきよりも胸が大きく高鳴った。全身が熱くなる。ま、まさか八一も? というより、八一から?

 いやいや、あの八一が、そんな事ある筈がない。冷静になれ。何を期待しているんだろう私は

 

「そ、そう……なら対局後にね」

「ええ、話はその後に。今は……盤の上で語り合いましょう」

 

 思わぬ盤外戦術に動揺するも、すぐに頭を切り替える。今は八一の言う通り、盤の上で語り合わなければ。

 思考を棋士としてのものに切り替えようと深呼吸をして、その時だった。

 

「…………えっ?」

 

 懐から対局用の眼鏡を取り出す八一の左手の薬指に、銀色に輝く何かが私の眼に写った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 対局に集中するのは当たり前のことだ。私たちは棋士で、勝つ為に指しているのだから。

 でも、ここまで集中したのは初めてだと思う。息を忘れ、瞬きすらせず、時間間隔は消え、視界に入れるのは盤上に広がる駒の描く世界のみ。

 

 ────────まるで、現実から逃避するかのように。

 

 気づけばすべて終わっていた。対局も、感想戦も、記者たちのインタビューも。

 

「今日はありがとうございました。姉弟子」

 

 全てが終わり、将棋会館を出てただ茫然と歩いていると、隣にいた八一に話しかけられた。その時になって、ようやく思考が対局時の極限状態から戻ってきた気がした。対局が終わった後なのに、ここまで集中した状態が続いたのは初めてかもしれない。

 あたりを見回すといつの間にか駅前に着いていた。

 

「……ありがとうって、何が?」

「対局ですよ。こんなにも甘美な将棋を指せたのは、本当に久しぶりです」

 

 未だに対局時の意識が抜けきらないのか、あまり実感はないけど、どうやら八一を満足させる将棋を指すことはできたらしい。

 八一と本気の将棋を指す。今日の対局は公式戦ではなかったけど、それでも確かに夢は叶った。

 

 なのに、なんで私の心はこんなにも苦しいんだろう。

 

「ところで姉弟子。対局後に話しがあるって言ってましたけど」

「……っ!」

 

 背に冷や水を浴びせられたような気がした。一気に現実が押し寄せてくるような錯覚に陥る。

 

「それは、その……」

 

 うまく言葉が出ない。でも、決めていた筈だ。こうして八一と向かいあった今日、想いを伝えると。

 

「や、八一」

「なんです?」

「わ、私は……っ!」

 

 言葉を必死に繋ごうとして、息が止まった。

 八一の左薬指に輝く銀色。

 対局前に見てしまった“あれ”が、見間違いじゃないと分かってしまったから。

 

「……やっぱり、やめとく」

「ええ? なんですかそれ。気になりますよ」

「いいから……それよりも、それ」

「ああ、これですか?」

 

 照れくさそうに笑ってその手を掲げる八一。

 

 やめて……どうして、そんな顔をするの?

 そんなに幸せそうで、嬉しそうな顔なんて、私には全然見せてくれなくなったのに。

 

「今日、姉弟子に話したいことがあるっていいましたよね? これのことなんですよ」

 

 聞きたくない、聞きたくない! そんなこと……

 やっと、八一と同じ場所に立てたのに、

 やっと、八一と向かい合う事ができたのに、

 

 

 

「俺、好きな人ができました」

 

 

 

 ────────やっと、八一に好きって言おうとしたのに。

 

 

 

「そ、そう……なんだ」

「はい、姉弟子には最初に言っておきたくて。実はまだ誰にも言ってないんですよ」

 

 後頭部をガツンと殴られたような衝撃がした。足元がふらつきそうになって、胸元が締め付けられるように痛くて、吐き気と寒気がこみ上げてきた。

 

「あ、相手は……だれ、なの……」

 

 本当はそんなこと聞きたくないのに、でもこのまま何も言わないと涙があふれそうで……私はなんとか声を出した。

 

「あの小童? それとも黒いほう? 月夜見坂燎? 万智さん? それとも……」

 

 心当たりのある名前を必死になって挙げる私に八一は首を振って答えた。

 

「いえ、姉弟子は知らない人ですよ。というか、なんでそこであいや天衣が挙がるんですか」

「……えっ?」

 

 知らない、人? ……私が?

 

「彼女、元々は俺のファンだったんです。何度か手紙を出してくれてたみたいで、最初は俺も気づかなかったんですが」

 

 照れくさそうに話す八一の言葉が理解できなかった。

 意味が、分からない……ファン? 女流棋士でもなんでもないただの素人が?

 

「最近は俺も将棋の交流イベントの依頼が来てまして、まあ姉弟子ほどじゃないですけど。そこで何度か出会って話していくうちに知り合った感じですね」

 

 話を聞いてる内に、手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめていた。歯を食いしばり、心の底からこみ上げてくる色々なモノを混ぜ合わした黒い感情をなんとか抑えようとしたけど、ダメだった。頭がどうにかなりそうだった。

 

 そんな、そんな女に……将棋で八一と本気で向き合えないような女に、私の八一が……?

  

「や、八一は……将棋が恋人だって、好きな人はいないって言ってたのに……」

「それは、まあ、そうなんですが……」

 

 私の言葉に八一は言い辛そうに頬を掻いた。

 その様子を見て確信した。きっと何か理由があるんだ。

 本気で将棋と向き合う事もないような女を八一が好きになる筈がない。

 竜王の地位だけを見て摺り寄るような女を八一が好きになる筈がない。

 八一の苦しみを見てこなかったような女を八一が好きになる筈がない。

 もしかしたら、その女に八一は何か弱みでも握られているのかもしれない。なら私が確かめなきゃ。

 

 八一に追及しようとして、言葉を続けようとしたその時、何かを決心したような目で八一が先に口を開いた。

 

「すみません、姉弟子。実はあの時、嘘ついてました」

「……嘘?」

 

 頭に上っていた沸騰するかのように熱かった血が一瞬で冷えたように感じた。まさか、あの既に八一は誰かのことを……

 理解の追いつかない私に八一はさらにとんでもない言葉を続けた。

 

 

 

「俺、姉弟子が好きでした」

 

 

 心臓が止まるかと思った。

   

「正確には、あの時は自分の気持ちに気づいてすらいなかったんですが……いまの人に告白された時、最初に姉弟子の顔が思い浮かんだんですよ」

「それで、その時になってようやく気が付いたんです。ああ俺って姉弟子が、銀子ちゃんが好きだったんだなって」

 

 目の前にいる真剣な眼差しで話す八一の言葉を、ただ茫然と聞いていた。

 何か言葉を発しようにも、頭の中がぐちゃぐちゃでうまく言葉がまとまらなくて。

 

 八一は将棋しか見てないじゃなかったの?

 八一は私のことを見てくれていたの?

 私たち、両想いだったの?

 

 ……なのに、なんで八一はそんな女の指輪をしているの?

 

「でも今更なんですよね。好きだって自覚して同時にあの時、姉弟子は俺のことを嫌いって言ってたことを思い出して……俺って失恋してたんだな、って気づいて」

「あっ……あれは」

 

 違う、って言おうとして、声が出なかった。

 だって、気づいてしまったから。もう、何もかもが手遅れだって。

 ただ無性に、あの時の自分を絞め殺したくなった。

 

「姉弟子との繋がりをあの時の俺は将棋以外に望んでしまった。今にして思えば贅沢でしたよ」

 

 贅沢なんかじゃないのに。私はその繋がりをずっと、求めていたのに。

 

「でも今日、姉弟子と指して改めて思いました。あんな将棋を指せるなら、俺たちの関係はそれで十分だって」

 

 全然、十分なんかじゃない。私は八一ともっと色んな事がしたい。

 昔みたいにずっと手を繋ぎたい。そのまま一緒にお出かけして、一緒にご飯を食べて、キスをして、一緒の布団で寝たい。

 何よりも、私は大好きな八一と大好きな将棋をずっと二人で指したかった。

 

「だから、これからも今まで通りよろしくお願いします。姉弟子」

 

 昔と何一つ変わらない八一の笑顔を、私は直視することができなかった。気づけば私は八一を背にして走って逃げだしていた。

 

 

 

 

 

 あのまま八一の目の前で泣いてしまいたかった。

 あの時、嫌いって言ったのは全部ウソだって、言いたかった。

 抱き着いて、無理やりにでもキスをして、本当は大好きだって伝えたかった。

 

 でも、全部、なにもかも、遅かった。

 

「私、せっかく八一と同じところに立てたのに……」

 

 駅の近くにあった人気のない知らない公園まで逃げて、そのままベンチに倒れこんだ。

 

「こんなの、いやだよ……八一」

 

 我慢していた涙が後悔と共にあふれ出してきた。

 素直になれなかった自分への嫌悪と、悔しさと、悲しさで吐き気がした。

 ただでさえ体が弱く、体力もないのに全力で走ったせいか、意識が朦朧とする。

 

 

 もし、あの時にホテルで嫌いって言わなければ。

 もし、あの時に八一をちゃんと励ませて喧嘩せずに済んでいたら。

 もし、もっと最初から素直に好きだと伝えれていたら。

 

 とめどなく溢れる『もし』に自分が嫌になる。プロの将棋指しが『待った』を望むなんて、恥知らずにもほどがある。

 

 だけど、願わずにはいられない。『待った』を……いや、『指し直し』を。

 将棋の神様はこんな私を許さないだろう。それなら、どんな神様でもいい。悪魔だって構いやしない。誰か、どうかお願いします。素直になれなかった愚かな私にもう一度チャンスをください。

 

 もし、『指し直し』が許されるなら私は────────

 

 

 

 

 

 




初小説ですので、至らぬ点が多々あると思いますが、ご指摘ご感想をお待ちしております。
※誤字及び一部台詞を修正しました。

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