誰かと対局している夢を見るのは別に珍しくない。
小さい時は和服を身に纏って師匠と対局する夢を何度も見たし、月光会長や名人と言った将棋界の錚々たる棋士達と指す夢を見た事もあった。
今見ているのも、きっと夢なんだろう。
見慣れた対局部屋だった。
駒を指す音と、棋士の吐き出す唸るような呼吸が支配する俺たちの戦場。
たぶん、公式戦か或いはそれに準じた対局だろうか。
今回は珍しい事に直ぐに夢だと自覚できた。
確か、明晰夢っていうんだっけ? 夢だと自覚している夢の事。
なんで夢だと分かったのか。単純だ。
俺の対局相手が女性だったから。
別にプロの棋士が女流棋士と対局する機会が全くないという事はない。公式戦ではないイベントや企画じゃそういう機会もあるけど、タイトルホルダーの俺はそういう企画じゃまず呼ばれないし間違いなく夢だ。
俺の視界に盤の向こうにいるその人が映った。
着物姿をした女性……いや、少女と言った方がいいかもしれない。
夢のせいなのか、顔が霞みかかって彼女がどんな顔をしているのか分からない。
だけど見えない筈なのに、彼女はきっと綺麗な顔をしているんだろうな、となんとなく思った。
彼女の姿はどこか幻想的だった。
紺の振袖と緋色の袴は現実離れした彼女の美しさを引き立てている。
駒を持つ手が透き通るように白く、綺麗な手をしていた。
まるで、将棋を指す妖精のようだ。
今度は盤上に並ぶ駒が目に入る。
既に局面は終盤に入っており、俺が彼女の『銀』を取ればそのまま詰みに入る。
それにしても夢の筈なのに、やけにリアリティのある対局だ。
並んだ駒から、見えない顔の彼女がどんな棋士なのか伝わってくる。
その美しい見た目からは想像できないような、泥臭く、粘り強い指し方。
まるで、清滝師匠のような、最後まで諦めない意地を感じる。
そして、同時にもう一つ感じ取れるものがある。
この対局を終わらせたくない。
このままずっと指し続けたい。
───そんな、悲痛の叫びが。
彼女のその叫びを踏みにじるかのように、夢の俺は彼女の『銀』を取った。
どうやら体は動かせないようで、この夢はただ見ていることしかできないらしい。
……まあ、例え体を動かせたとしても、俺は彼女の駒を取ったけど。
相手にどんな事情があっても、どんな想いで指していても、それらを盤上で否定し勝利をもぎ取らなければいけないのが俺たちの生き方だから。
駒を取ると同時に場面が捻じ曲がるように急に変わった。
バラバラに切り取られたフィルムを順不同に無理やりくっつけたような映画を見ている気分だ。
夢なんだし荒唐無稽なのは当たり前なんだけど。
今度は外を歩いていた。どうやらさっきの対局が終わった後のようで、駅に向かって歩いているらしい。
俺の隣にはさっき対局していた顔の見えない彼女がいる。
彼女は、どこか上の空のような気がした。
顔が見えない筈なのに、何故かそう思える。
きっと、さっきの対局が尾を引いているんだろう。
対局後に思考が覚束ないのは将棋指しならよくある事だ。特に負けた後は。
そのまま夢の俺と彼女は駅前まで歩き、そこで俺が立ち止った。
『今日はありがとうございました。───』
俺が口にした彼女の名前はノイズのようなモノで掻き消された。
随分と距離が近いから、彼女と俺は仲のいい関係のようだ。
それにしても変な夢だ。
将棋を指す夢なら割と見るけど、大抵は対局が終わるか、その途中で目が覚めてしまう。
対局が終わっても目覚めないなんて初めてかもしれない。しかも相手は女の子だ。
それに何故か知らないけど俺、左薬指に指輪なんかしてるし。
夢って深層心理の表れって聞くけど、今のところ結婚願望なんてないんだけどな。そもそも結婚できる年齢じゃない。
……というかこれ、いつ終わるんだ?
その後も、彼女との会話が続いたが、内容は聞き取れなかった。
だけど会話が続く内に、いつの間にか霞がかっていた彼女の顔が口元の辺りまではっきりと見えるようになっていた。
よく見てみると、歯を食いしばるようにして、口を閉じていた。手も震えながら強く握りしめている。
その姿はまるで何かに耐えているかのようだった。
一体どうしたんだろう、彼女は。
夢の中の俺が何か酷いこと言ったのかな?
そうだとしたら夢とはいえ、あまり良い気分ではない。
そして、更にとんでもない事が起きた。
『俺、───が好きでした』
急に会話が聞き取れるようになったと思ったら、その子に夢の俺が告白していた。
何を言っているのか分からないかもしれないが、俺にも分からない。
いやいや……いくらなんでも急展開すぎるでしょ、なんなのこの夢。
というか好きでしたって、過去形かよ。
あ、いや、指輪してるし多分俺、この夢じゃ結婚してる設定だろうから過去形の告白で問題ないのか。
それにしても、なんでこんなドロドロした展開なんだ。
案の定、告白をされた彼女は動揺した様子で固まっている。そりゃそうだ。
そんな彼女に夢の俺は言葉を続けるが、うまく聞き取れない。
……早く目が覚めて欲しい。
どうせ見るならもっと良い夢が見たかった。桂香さんとか桂香さんとか、あと桂香さんの夢とか。
自分の意志とは関係なしに続く目の前の光景をぼんやりと眺めていると、ある事に気づいた。
口元しか見えなかった彼女の顔から靄が取れ、確認できるようになっていた。
その顔を見て、一瞬、思考が止まった。
空のように澄み渡る宝石のような蒼い瞳。
銀のように輝く美しくきめ細かな白い髪。
この世のものとは思えないほど整った天使のような顔立ち。
考えてみれば、直ぐに分かる筈だった。
俺と将棋を指す女の子なんて、真っ先に思い浮かべる人物は一人しかいない。
ずっと一緒だった彼女しか。
けど、分からない。
どうして、そんな顔をしているんだ。
普段の不機嫌そうな顔は何度も見た。
俺に負けて悔しがる顔は何度も見た。
喧嘩して怒りに狂う顔は何度も見た。
たまにしか見せないドキリとさせられる笑顔も見た。
だけど、いま目の前の彼女のその顔は見たことがなかった。
そんな、今にも泣きそうで消えてしまいそうな顔は。
……見たことがない? いや、違う、気がする。
どこかで見たんだ。彼女のあの顔を。
暗い部屋だった。
その時の俺は、余裕がなかった。追い詰められた。
このままだと彼女と一緒にいられなくなると焦燥感に駆られていた。
一人になりたかった。
一人で強くなる必要があったから。
だから、彼女に酷いことを言ってしまった。
せっかく、俺を心配して来てくれたのに。
二人でまた強くなろうと言ってくれたのに。
ずっと一緒にいると言ってくれたのに。
俺はそんな彼女の手を振りほどいた。
そしたら彼女は、今のような顔をしていた。
目に溢れそうな涙を貯め込んで。
『だから、これからも今まで通り、よろしくお願いします』
彼女は、俺の目の前から逃げるように走り去った。
その時になって、初めて夢の中で自分の意志で体が動いた。
理由が聞きたかった。
なんで、あんな顔をしたのか。
どうして、俺から逃げるのか。
待って。
待ってくれ。
行かないで。
このままだと彼女が消えてしまう。そんな確信があった。
それだけは嫌だ。
あの時は追いかける事すらしなかった。けど、今度は、今度こそは……
俺は走り去る彼女の後ろ姿に手を伸ばそうとして──────
「おい。聞いてンのかクズ」
「えっ?」
「チッ、だからバニーとメイド、どっちがいいかって話だ」
「なんや、心ここにあらずって感じやなぁ。どないしたん?」
メイド服を着た月夜見坂さんに睨まれ、バニー姿の供御飯さんに首を傾げられた。
連盟の将棋室に顔を出したらコスプレ姿の二人がいて、イベントで着る衣装を決めるために二人が指していた。
二人の将棋を眺めていた筈だったけど……どうやら深く考え込んでしまっていたようだ。
気づけば二人とも指す手が止まっている。盤を見ると持将棋になっていた。
「いや、ちょっと考え事を……」
「考え事ねぇ……お前が最近取ったっていう弟子の事か?」
「小学生をしかも同時に二人も。そら妄想が捗るわなぁ」
「ンだよ、そういう事かよ。ロリ王」
「違いますよ!」
俺が弟子を取った事が既に将棋界では広まっている。
最年少竜王がいきなり弟子を取ったとなれば話題性は高い。
しかも小学生を二人同時に。更には片方は内弟子。
お陰で不名誉な噂まで流れている。マジで勘弁して欲しい。
「別にあい達の事じゃないですよ」
あの優秀すぎる弟子二人をどう指導すればいいのか悩んでいるのは事実だけど。
それに関しては今度、清滝師匠に相談してみようかと考えている。
「今朝ちょっと変な夢を見てしまって……それで少し考え事を」
「なるほど。夢なら小学生相手でも合法だしな」
「さすがは竜王サン。実物に手を出さず夢の中で好き放題やるなんて紳士どすなー」
「だから違うから! あんたら俺を何だと思ってるんだよ!?」
「ロリ」
「コン」
二人の息の合った言葉に頭が痛くなる。
そりゃあ、弟子たち二人はかわいいよ。
あいは家事を何でもしてくれるし、料理だって上手い。
指導中に褒めてあげると子犬のように甘えてくる。
天衣は三人で指導している時は割とぶっきらぼうな態度だけど、しっかりと教えは守る。
それに二人きりの時はまるで別人のように甘えてくる。まるで子猫のようだ。
だけどあくまで父性的なものを擽られてかわいいと感じているだけで、俺は断じてロリコンなんかじゃない。
「それで、実際はどんな夢見たん?」
「それが俺も殆ど憶えてないんですよ」
「ハァ? なんだそれ」
「いや、なんか誰かと指してた夢って事は憶えてるんですけどね」
目が覚めた直後は夢の事を憶えていたんだけど……直ぐに記憶があやふやになった。
夢ってそういうモノらしいけど、なんかもやもやする。
誰かと指していた。だけどその誰かが思い出せない。
たぶん俺の知っている人だと思うけど……
「別に将棋指す夢なんて珍しい話じゃないだろ」
「そうなんですけどね。あ、あと何故か俺、夢の中で結婚してました」
「ハッ! なんだよクズ。その年で結婚願望でもあんのか?」
「いやいや、ないですって流石に! それに指輪付けてただけで相手とか出てこなかったし!」
そんなどうでもいい事は憶えているのに、肝心の対局相手が思い出せない。
いや、別に夢の事なんだし誰と指していようがどうでもいい話なんだけど。
……それでも何故か気になってしまう。
と、そんな事を考えるとさっきから黙ってこちらを見ている視線が気になった。
というか見ているというより睨まれてるに近い。怖い。
「………」
「ど、どうしたんです? 供御飯さん」
「……ちょっと考え事どす」
にこやかな笑みで返されたけど、目は笑ってなかった気がする。
な、なんだろ。俺なにかしたのかな?
「それよりもクズ。結局どっちなんだよ?」
「えっと、バニーかメイド服か、でしたよね」
「そうだよ。さっさと決めろ。あと、決まった方は銀子の奴にも着てもらうからな」
「はあ!? 聞いてないですよそんな事! 無理に決まっているじゃないですか! あの姉弟子ですよ!?」
こんなの着て欲しいって言ったら殴られるのは目に見えている。
というか間違いなく殺される。罵倒されながら殺される。
「無理なことあらへんて。最近は銀子ちゃんと随分と仲ええみたいやし」
「はあ? 何言って」
「歩夢との対局終わりに手繋いで帰ったらしいじゃねえか」
「!!!?」
「あんな遅い時間にわざわざ迎えに来てくれるなんて一途やなぁ」
「な、なんでそれを」
いや待て。そう言えばあの時の対局、鵠さんもいたのか。
まさか見られてたなんて……
「ここ最近やと室内プールに行って二人で遊んだみたいやね」
「デートじゃねえか」
「!!!!!!?」
いやいやいや、待ておかしい。
なんでそれを知ってんだよ!
「せやからいけるって竜王サン」
「お前ならやれる。オレはそう信じてる」
結局、あの後二人に押し切られて姉弟子用の衣装を預かった。
選んだのはメイド服だ。特に理由はない。
人前に出るイベントで露出の多いバニーを姉弟子に着させるのが嫌だったとか別にそういった理由は断じてない。ほんとだよ?