懐かしい匂いと、手に暖かなぬくもりを感じた。
鼻腔をくすぐるのは畳の匂い。昔、清滝師匠の家で過ごした、あの日々を思い出した。
毎日、どこに行く時もずっと八一と一緒で、一日中将棋を指して、おなかが空いたら桂香さんが作ってくれたご飯を二人で食べて、お風呂に入った後は八一が髪を乾かしてくれて。
そのまますぐには眠らずに、その日に師匠に教えてもらったことを試したくて、また二人で将棋を指した。私が先に寝落ちすると八一はいつも布団をかけてくれて、一緒に寝てくれた。
そういえば、あの時の私はよく体調を崩して熱を出していたんだっけ。そんな辛い時に八一はいつもそばにいて、ぎゅっと手を握ってくれた。
そう、今みたいに手を……
「………ッ!」
霞がかった意識が急に鮮明になって目が覚めた。
直ぐに起き上がろうと体に力を入れたけど、ダメだった。
何故か体が気怠い。上半身を起こすことすら億劫だけど、その見覚えのある天井を見てここがどこだか直ぐに分かった。
「師匠の、家……?」
どうりで懐かしい匂いがした訳だ。
ここは昔、私たちが使っていた部屋だ。そこに敷かれた布団にどうやら寝かされていたようだ。
でも、どうして私は師匠の家にいるんだろう。
私は確か……
「おはようございます、姉弟子。体調はどうですか?」
「や、八一……?」
さっきから感じていた手のぬくもりの正体が分かった。
八一が私の手を握っていてくれたんだ。昔みたいに。
もう戻れないあの日々のように。
「あ、ああっ……!」
八一の声を聴いて、あの光景が一気に蘇った。
好きな人ができたと私に告げた八一。
私が好きだったと言ってくれた八一。
……そして、すべて遅すぎたと悟って悲しみと後悔であの場から逃げ出した私。
「わ、私は……」
多分、あの後に倒れた私を後から追いかけてきた八一が見つけて師匠に連絡したんだろう。そしてそのまま、ここに運ばれて寝かされた。
実に想像しやすい光景だ。
本当に……何を、やっているんだろう私は。
自分が余りにも情けなさ過ぎて歯を食いしばった。
恥ずかしくて、まともに八一の顔が見れない。
長年の想いすら告げられず、逃げ恥を晒して挙句の果てに迷惑までかけるなんて。
きっと呆れられている。いつまで経っても子どもみたいだって。
きっと困惑している。訳の分からない女だって。
自分でもそう思う。
今まで、私は何をしてきたんだろう。
ずっと素直になれなくて、それを全部、八一が悪いんだって、子どもみたいに駄々をこねて。
プロになれば八一が私を見てくれる、振り向いてくれる、好きになってくれる……そんな都合のいい幻想を抱いて。
その結末があれなんだ。
「……まだ辛そうですね。昨日のこと、憶えてますか?」
今は誰とも会いたくない。話したくない。特に八一とは。
だから一人にして欲しい。
一人で思いっきり声をあげて泣きたい。
そしてそのまま消えて無くなってしまいたい。
でも、そんな思いとは裏腹に、八一は心配そうに優しい声をかけてくれた。
私は、彼の言葉に頷くことすらできなかった。
昨日の事を憶えている。
それを肯定するのが嫌だった。
あの出来事が本当のことだって、認めるみたいで。
本当に子どもみたい。さっきあんなに自己嫌悪したのに……馬鹿だな、私。
「昨日の俺と師匠の対局の後、急に倒れたんですよ、姉弟子」
「……えっ?」
想像していたモノと違う八一の言葉に強烈な違和感がした。
八一と師匠の対局? 私と八一の対局じゃなくて……?
その時になって、私ははじめて八一の顔を見た。
違和感が更に強まった。
「八一、その顔……」
「顔? 俺の顔に何か付いてます?」
ぺたぺたと自分の顔を触る八一に私は声が出なかった。
……幼くなってる?
私と対局した八一はもっと凛々しくなってたのに。まるで、昔みたいな……
そこまで考えて、今度は自分の異変に気付いた。
「な、なんで、私、制服なんて……」
「服はそのままですよ。さすがに着替えさせる訳にはいかないですし」
違う、そうじゃない。私が聞きたいことはそんな事じゃない。
どうして、私が中学の制服を着ているの?
中学なんて卒業して二年も経つのに。当時の服なんてもう残ってない。
それにあの時の私は着物を着ていた筈だ。
「やっぱり顔色があまりよくないですね。とりあえず師匠を呼んで……っ」
妙な焦燥感に駆られる。何か、何かがおかしい。
自分が今、どうなっているのか分からない。怖い。
助けを求めるように立ち上がろうとした八一の手を、ぎゅっと握りしめた。
「……置いていかないで」
「姉弟子……?」
「お願い、八一……」
「……わかりました」
八一の手を逃がさないように、握る手に力を入れる。
八一は少しだけ抵抗して、でもすぐに諦めて、そのまま握り返してくれた。
自分に何が起きているのか、わからない。
でも、こうして八一と手を繋いでると、不安も恐怖も薄れて、心が落ち着いた。
例えその指に他の女の指輪をしていたとしても、今は……今だけは昔のようにいさせて。
「えっ!? ちょっ……姉弟子?」
もっと八一のぬくもりをもっと感じたくなって、指を絡める。
八一の方も驚きながら、でも離さないで指を絡めてくれた。
その様子に、あの時のハワイの夜を思い出す。
そういえば、あの時のパーカー、結局貰っちゃったな。
今でも部屋着としてしっかりと愛用している。
八一のパーカーを羽織って一緒に夜のハワイの街を出歩いた。
指を絡めながらお店を回って、
アイスを買って二人で食べて、
……そのままキスしそうになって。
もしもあの時、無理やりにでも八一にキスしてたらどうなってたのかな。
鈍い八一でも、私の想いに気づいてくれたのかな。
そして、八一は私に好きって言ってくれたのかな。
……なんて、考えるだけ無駄か。
そんな妄想はただ虚しいだけ。
簡単に割り切る事はできないと自覚はしている。
でも、今はそんな妄想をするよりも目の前に確かにいる彼のぬくもりをこの手で感じていたい。
近い将来、私は八一の手をこうして握る事すら許されなくなるのだから。
そんな事を思いながら絡めた指で八一の薬指に嵌められているであろう、あの忌々しい銀色の指輪に触れようとして……ふと、疑問が浮かんだ。
「ねえ、八一、指輪は……?」
「指輪? なんの事です?」
思わず口にした疑問に八一は不思議そうに首を傾げた。
「なんの事って……左薬指につけてた指輪」
忘れもしないあの光景。八一は確かに指輪をつけて、私に見せていた。
見間違える筈がない。今でも瞼の裏で鮮明に思い出せる。
「左薬指って、それじゃまるで婚約指輪じゃないですか」
戸惑う素振りを見せる八一に私は腹が立った。
今更、とぼけるつもりなの?
繋いだ八一の手を強く握りしめながら彼の顔を睨みつけた。
「実際、そうなんでしょ? 最年少竜王は結婚も最速狙い?」
あんなに、嬉しそうに、幸せそうな顔をして見せつけた癖に。
……その後に、私に好きだったって、言った癖に。
『俺、姉弟子が好きでした』
あの言葉まで誤魔化すのだけは、許せなかった。
「いやいや、何言ってるんですか! そもそも俺、指輪なんて持ってないですし」
「まだしらを切るつもり?」
こんなのは自分への惨めな慰めでしかない。
でも、確かに八一は言った。私を好きだって。
あの時は頭の中ががぐちゃぐちゃだったし、今もあの光景を思い出したくなんかないけれど……
あの言葉だけは、今思い返すと嬉しかったんだと思う。
八一は私を見てくれていたんだ。
今は違うのだろうけど、でも……私たちは確かに両想いだったんだから。
「そもそも十六歳の俺が結婚できる筈ないじゃないですか!」
「………えっ?」
その言葉を聞いて、冷や水を浴びせられたような気になった。
八一が……十六歳?
何を馬鹿な事を……そう思ったけど、ようやく自分の置かれた状況に気づかされた。
八一と師匠の対局
十六歳の八一
中学のセーラー服を着た私
……そんなの、有り得ない。
夢か何かだ。こんなのは。
でも、握った手から感じる暖かさが、これが夢だという説を否定している。
夢じゃない。もしそうなら考えられるとしたらそれしかない。
私、過去に戻ってる……?
感想、誤字指摘ありがとうございます。
感想への返事は後程させていただきます。
2018/4/24 描写追加修正しました。