「弟子を取ったとは聞いていたが、ここまでとんでもないとはな……」
どこか呆れたような声をしながら生石さんは飛車を振った。彼の前のテーブルの上に二つの将棋盤が並んでいて、それぞれ対面するのは弟子のあいと天衣。生石さんが指す度に二人の表情はだんだんと険しいものになっていった。
ここは京橋の商店街の奥に構える銭湯、ゴキゲンの湯。その二階で今日は《捌きの
その目的は言うまでもなく、次の山刀伐さんとの対局に向けた対策だ。
「……ありません」
「……私も」
あいと天衣が二人揃って拳をぎゅっと握りしめ、悔しそうに頭を下げた。そんな二人の表情を見て自然と笑みが浮かぶ。勘違いしないでもらいたいが、負けて悔しがる幼女を見て喜んでいる訳では断じてない。
相手がタイトル保持者だったから負けて当然、なんて思うようでは本当に強い棋士にはなれない。誰が相手だろうとも、例えあの名人が相手でも敗北の悔しさと勝利への飢えを忘れてはいけない。
そういう意味では負けず嫌いのこの子たちは勝負師としての素質がある。そして何よりもずば抜けた将棋の才能がある。
もしかしたら将来、この子たちは第二、第三の空銀子に為り得るかもしれない。そう思うだけで高揚感が抑えきれなかった。
「…弟子が負けてニヤニヤするなんて変態よ」
「ししょー……」
「ごめんごめん、二人が負けて笑ってたんじゃないんだ。生石さん、どうでした?」
口を尖らせるあいと天衣。普段は大人びた二人だけど、たまに見せるこういった子どもらしい反応は本当に可愛らしい。いつもこうならいいが、最近は割とガチで小学生とは思えないような目つきで睨んでくるから怖い。さっきも飛鳥ちゃんと話してただけで睨まれたし。怖い。
弟子達を宥めながら生石さんに投げ掛けた。
すると生石さんは煙草を懐から取り出そうとして……ふと俺の弟子達を眺め、そのまま煙草をしまって大きくため息を吐いた。
「……軽く見てやる程度だったんだがな。これだけ指せるなら最初に言えよ八一」
「すみません、生石さんならどう捌くか見てみたくて」
「ったく、お前は……」
ここに来た目的は俺の研究の為だったけど、俺以外のタイトル保持者と指せる貴重な機会なんて滅多にないし先にあい達の相手をお願いした。
生石さんには二面打ちというハンデはあるが、平手で二人と指してもらった。
最初は平手で指す事に眉を顰めた生石さんだったけど、指している内にだんだん目の色が変わっていったのが分かった。
「この子たち、何歳だ?」
「九歳ですよ。今年で十歳になりますが」
「九歳でこれか。怖いもんだ」
「ええ、将来が楽しみですよ」
そう言った瞬間、さっきまであい達の将棋を見ていた振り飛車党のギャラリー達がざわついた。
えっ、なに、なんなの。
「やっぱり九頭竜って噂通りの……」
「いや、女ならなんでもいいって聞いたけど……」
「将棋はちっちゃい時から居飛車一筋やのに性癖はオールラウンダーなんや」
……。
最近もう否定するのも面倒になってきた気がする。
というかこの先、俺がロリコン疑惑が晴れる日は来るのだろうか。もういっそ開き直ってロリコンだと宣言した方がいいのかな。ロリコンじゃないけど。
「まっ、才能があるのは分かったよ。女流棋士になるどころか、タイトルも狙えるかもな」
「ふん、当然よ」
「ありがとうございますっ!」
生石さんの言葉を天衣は当然のことのように、あいは嬉しそうに笑いながら受け止めた。
正直、この人がここまでべた褒めするとは思わなかったけど、俺も同じ意見だ。この子たちならそこまで到達し得る。
「……しかしだ、八一。この子たちに才能があっても師匠のお前が山刀伐なんかに負けてたら格好もつかんだろ」
「うっ」
「ったく、
随分と痛いところを突かれた。
棋士同士には相性の良し悪しがあるとは言われているけど、流石にそれを言い訳に何度も負けていい筈はない。
だからこそ、今日はここに来たんだ。山刀伐さんに勝つ為に!
「全くよ。私の
「ししょーなら大丈夫です! 次なら必ず勝てます! だってししょーは最強なんだもん!」
天衣には呆れられ、あいは純粋に勝利を信じてくれている。全く、だらしない師匠ですまない。
中々のプレッシャーだけど、俺はこの子たちの師匠なんだ。あいの信じる最強にならなくちゃな。
「あの生石さん、今日は折り入って頼みがあるんです」
「お前の言おうとしてる事は大方、検討付いてるよ。俺に振り飛車を習おうって寸法だろ?」
「もちろん、ただでという訳じゃないです。ギブアンドテイクのつもりですよ。研究パートナー、という形で」
「パートナーねえ、山刀伐に勝てないようなお前がか? お前の居飛車の最新戦法でも提供するつもりか?」
揶揄うような言い草にムカッとくるが、生石さんの言う事も分かる。それにこの人は元々一匹狼で研究会やVSすらしない人だ。口でいくら言っても簡単に頷いてはくれないだろう。
だが、彼が食いつきそうな餌は用意してきたつもりだ。
「それを今から証明します」
棋士が自分の価値を示す方法なんて一つしかない。
あい達が座って席を代わってもらい、正面の生石さんを見据える。
「……面白い。見せてみろよ八一」
対峙する生石さんも唇を釣り上げて不敵な笑みを浮かべた。
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「ごめんね。今日は私に付き合ってもらって」
清滝師匠の家の和室で盤を挟んで対面してる桂香さんが申し訳なさそうに苦笑した。
八一達と銭湯に行った数日後、私は桂香さんに呼び出されていた。要件はきっと前回と同じだろう。私は二つ返事で師匠の家に出向いた。
「ううん、いいよ。だって桂香さんのためだもん」
それに家族なんだし。ありがとう、といつのも優しい笑みを浮かべる桂香さんを一瞥して盤に視線を落とした。
そこに広がるのは前回見た定跡を表面的になぞるだけの芯のない『着せ替え人形』だった彼女の将棋……ではなかった。
「どう、だったかな。少し思い切った指し方をしてみたんだけど」
不安そうに顎に手を当てて私の顔を伺う桂香さん。そんな彼女に対して私は前と同じように素直な意見を述べた。
「正直、甘い。自分の将棋をまだ煮詰めきれてない」
「……そうよね」
「けど、悪くないと思う。定跡を外された後も一手一手、ちゃんと考えられてた」
「っ!!」
指していた時の桂香さんからはあの時のような焦りがなかったように思えた。もっと単純な子どものような手探りの一手。そこには強い意志が込められていた。
強くなりたい、もっと指したい。そんな強い想い。あの時の小童と桂香さんの対局が脳裏に浮かんでいた。
「そっか、ありがとう。銀子ちゃん」
「……私は素直な感想を言っただけだよ」
いい傾向だと思う。将棋はメンタル状態の影響が非常に大きい。負けが続いたこの時期の桂香さんは自身の実力を発揮できていなかった。
「……」
「銀子ちゃん? どうかしたの」
だけど解せない。前回の事を知っていなければ私は素直に喜べた。
けど違う。私は知っている。これからの事を、この時の事を。だからこそ分からなかった。
なんで、前回とこんなにも違うのだろうか。
桂香さんになにかあったの? 前に晶さんと話して精神的に楽になったから? でもそれだけでここまで変わるとは思えない。
変わる? 急な指し方の変化、まさか……いや、流石にない、と思う。
今のところ私の知る限りでは『指し直し』をしてきたのは八一に対して並々ならぬ想いを抱いた人間だけ。桂香さんも八一の事は好きなんだろうけど、それは異性ではなく家族としての愛情だ。私たちの抱くそれとは違う。桂香さんの変化には何か他に原因がある筈だ。
「……桂香さん、聞いていい?」
「なにかしら? 銀子ちゃん」
「何かあったの?」
「えっ?」
「えっと、その……指し方、変わったから」
「ああ、うん。実は私ね、この前の研修会でBが付いたの」
この時期の桂香さんが降級点が付いたのは知っていた。前も、そして今回も。
だからこそ、焦っていた。追い詰められていたんだ。家族の私に首を垂れて教えを乞うほどに。
「C2に上がったころは勝ちと負けが交互してたんだけど最近は全く勝てなくてね……」
「……」
「銀子ちゃんに相談しようか悩んでた時に、うちに八一くんが訪れたの」
「……八一が?」
意外な人物の名前に思わず首を傾げる。確か、この時期の八一は生石さんのところで小童と一緒に研究をしていた筈だ。銭湯の仕事も手伝っていたようだったし、わざわざ師匠の家に出向く暇なんてなかったと思うけど……。
「八一くん、研究に使うから昔の八一くんが指した時の棋譜を見たいって言ってね」
「棋譜を? あいつならそんなのを見なくても奨励会時代のも憶えてると思うけど」
「奨励会の時のじゃなくて、もっと古いの。お父さんに弟子入りした時くらいのだったかな」
もっと古い? そうなると小学生名人大会か、それとも弟子入りした当初の頃?
「なんでそんな古いのを……」
「私もそう思って聞いてみだんだけど、八一くんこう言ったの。”定跡も何も知らなかった昔の自分が指した一手にどんな意図があったのか思い返したくなって”って」
「そう、だったんだ」
もしかしたら私が知らないだけで前回もそんな事があったかもしれない。何も四六時中ずっと八一と一緒に居た訳ではない。当然、私が知らない行動を取っていてもおかしくなはい。
「八一くんの言葉を聞いて、私も何となく昔書いてた研究のノートを手に取ってみたの」
「そしたらね、出会ったんだ。昔の自分に。私がどうしたいのか、思い出せた」
懐かしそうに、愛おしそうに。桂香さんは足元に置いていた古びたノートを抱きしめた。
そっか。今回の桂香さんは前よりも早く気づけたんだ。自分の武器に。桂香さんだけの将棋に。
きっかけは、こんなにも些細な事なんだ。たまたま八一と桂香さんがそんな会話をしたから、こうなったんだ。
「私、もっと指したい。もっと強くなりたい。だから、銀子ちゃん……私とこれからも指してくれる?」
「……うんっ、もちろんだよ」
銀は桂の隣にいるから。私は桂香さんに抱き着いた。
そんな中、桂香さんが話した八一の事が頭の隅で引っかかっていた。
昔の八一が指していた将棋。それを聞いて真っ先に思い浮かべるのはあいつが私と共に内弟子をしていた時に指していた『右玉』の構えだろうか。今ではソフトによって有用性が証明されて評価された当時はゲテモノ扱いだった変態戦法。
そして、八一の指していたその『右玉』をソフト以外で評価していた人間が一人いる。
『あんな天才いませんよ!』
『ぼくにとって史上最強の棋士は九頭竜八一です』
『現代将棋は八一さんを弱くしました』
『わかりますよ───少なくとも、あなたよりは』
あの天才の言葉を私は思い出して、何故か八一が前よりも遠くに行ってしまうのではないかという予感がした。
些細なきっかけで事は大きく変わるんだ。今は前よりも八一との距離は近い。でも、逆に前よりも離れてしまう可能性だってあるのだから。
更新が随分と遅れてしまいました。