白雪姫の指し直し   作:いぶりーす

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二十話

「凄いね、八一くんって」

「……うん」

 

 隣にいた桂香さんが遠い目をしながら言葉を漏らした。

 再び出向いた師匠の家。桂香さんの自室で二人でモニターに映る八一の姿を眺めていた。

 彼と対峙する山刀伐先生は項垂れた様子で、まるで目の前の光景が信じられないかのように盤を食い入るように見つめている。先ほど、投了したばかりだ。この前の対局とは違う、一方的な展開だった。

 この光景を私は以前にも見た記憶がある。竜王防衛戦の後、本人曰く読みの力が増した八一が再び山刀伐先生と行われた対局は今モニターの向こうで映る光景と重なった。

 

「届くのかな、私……」

 

 想いも、将棋も。

 画面の向こうにいる彼と、ここにいる私。手も声も届かないこの物理的な距離が、まるで今の私達の距離を示しているように思えた。

 今の私は以前のこの時の私よりずっと強い。それは間違いないと断言できる。当然だ。未来の記憶があるのだから。でも、それと同じように、八一もまた前回の時よりも強くなってしまっている。

 ……見えない。彼の背中にこの手が届く光景が。彼と対峙する自身の姿が。

 かつて八一と指したあの『指し直し』直前の対局。ようやく手が届いたと思ったあの日。あれも、もしかしたら私の脳内が勝手に描き出した妄想ではなかったのかと疑ってしまう。

 それほどまでに、今の八一が強くて遠い。そんな現実を改めて突き付けられた。

 

 八一の勝利に喜びよりも恐怖を感じて、私はただ茫然と彼の映る画面を眺めていた。

 

「大丈夫。銀子ちゃんなら、きっと八一くんに届くよ」

 

 まるで私の心を見透かしたかのように、優しい言葉と共に桂香さんが私の肩を抱き寄せてくれた。

 昔からずっと大好きだった、桂香さんの香りが鼻孔をくすぐる。

 ほんの少しだけ、沈んだ気持ちが安らいだ気がした。

 

「でも」

「最近の銀子ちゃんが以前よりもっと強くなったのは私でも分かるもの。それに変わったのは将棋だけじゃない。ちゃんと八一くんも銀子ちゃんの事を見てくれてるよ」

「桂香さん……」

 

 その暖かさに、優しさに、思わず涙が溢れそうになったけど、なんとか堪えた。

 ここで泣いてしまっては、きっと前回と変わらないから。

 でも、涙は堪えてもこの胸の中に溢れて広がり続ける悔しさはどうしようもなかった。

 本当に悔しい。

 八一に未だ届かない自分が。

 そしてまた、他の誰かに(・・・・・)八一の心を奪われた自分が。

 

「桂香さん、私ね……八一のことが好き」

「……うん。知ってる」

 

 私の言葉に桂香さんは特別驚いたりはしなかった。

 当然か。私の周りで私の想いを知らないのはきっと、八一本人だけだ。

 でも、今から話す内容はきっと桂香さんも驚くだろう。だって……。

 

「でもね、八一。私に言ったの」

「言ったって、何を?」

「好きな人ができたって」

「……………へ?」

「私、また八一を他の女に盗られちゃった……」

「は?」

 

 私の思った通り、桂香さんは目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

 

 銀子ちゃんがぽつりと漏らした言葉を理解するのに数秒の間が必要だった。

 余りにも唐突で、そして余りにも理解しがたい内容だったから。

 

 最近、八一くんと銀子ちゃんの仲がもの凄い勢いで進展していっているのは傍で見守ってきた私には直ぐに分かった。

 銀子ちゃんは八一くんに前よりももっと素直に甘えるようになったし、八一くんもそんな銀子ちゃんを家族としてではなく、一人の女の子として意識するようになっている。二人がデートをしている噂を最近よく耳にするし、仲良さげに指を絡めて手を繋ぐ光景もこの目で直接見た。

 

 おそらく変化があったのは銀子ちゃんの方だろう、と女の勘が告げる。銀子ちゃんに一体どんな心境の変化があったのか分からないけど、きっかけとなったのは銀子ちゃんが倒れたあの日だろう。私の想像でしかないけど、あの時に二人の仲を進展させるような出来事があったのは明白だ。

 あの日、帰ろうとした八一くんを引き留めて彼の布団を銀子ちゃんの横に敷き、一緒に過ごさせたのは我ながら会心の一手だったと思う。

 その後も、銀子ちゃんがタイトル戦を終え、袴姿のまま八一くんの家を訪れた際には、彼と二人きりになる機会を欲していた銀子ちゃんをフォローしてあげた。

 ……その数日後に二人がコスプレデートをした噂を耳にした時は、変な方向に関係が進んでしまったのではないかと心配したけど。

 

 やはり二人が幼い時から見守ってきた保護者としては銀子ちゃんと八一くんには結ばれて欲しいという想いがある。あいちゃん達には悪いとは思っているけど流石に相手が小学生は……ねえ。

 それに万が一、あいちゃんか天衣ちゃんのどちらかと結ばれるような事があれば色々と不味いでので、全力で銀子ちゃんを応援したい。自分の兄弟子が小学生に手を出して社会的に抹消されるのは洒落にならない。

 

 そもそも今まで進展がなかった方が不自然なんだ、あの二人は。

 銀子ちゃんは不器用ながらも事あるごとにアピールを続けていたし、八一くんは八一くんで口では愚痴をこぼしながらも本心では銀子ちゃんを本当に大切に思ってる。

 将棋に関しては私なんかよりもずっと凄いのに、それ以外の事は不器用すぎて見てられない二人。

 そんなあの子たちがようやく、そのもどかしい関係に終止符を打ったのだと、八一くんが家を訪ねた際に交わした会話で私はそれを確信した。

 銀子ちゃんが素直になって、八一くんが自身の想いを自覚する。こんなのは誰にでも分かる『詰み』だ。互いの駒がどう動こうかが結ばれるに決まっている。

 

 二人が無事、結ばれた暁にはお父さんと一緒に、いや一門総出でお祝いをしよう。あいちゃんや天衣ちゃんは拗ねるだろうけど、それでもあの子達なら最後は祝ってくれる筈だ。将棋界隈でも進展しないあの二人の関係にもどかしさを覚えながら見守ってきた人も多い。彼らもみんな知れば祝福するだろう。

 

 そう思っていたのだけれど。この子は一体、何を言ってるの……?

 

「えっと、銀子ちゃん。少しだけいいかな?」

「……なに?」

 

 私にしがみつきながら震えた声で返事をする銀子ちゃん。その眼には涙が浮かんでいるけど、必死に堪えているみたい。

 この可愛らしいお姫さまは、どうやらとんでもない勘違いをしているのではないのかと思う。とりあえず今はそれを確かめなきゃ。

 

「その、八一くんは本当に言ったの? 好きな人ができたって」

「……言った。私の目の前で、前みたいに」

 

 前みたい、という言葉に引っ掛かりを覚えたけど今はスルーしよう。

 銀子ちゃんの髪を撫でながら、さらに質問を続ける。

 

「その好きな人が誰かは八一くん言ってた?」

「ううん、それは言ってない。今は言えないって……これしか。また私の知らない女なのかな……それともあの女……? でも、悪い虫が付かないように監視してたのに……」

「監視? 悪い虫……?」

 

 何だか怪しげな言葉が聞こえた気がするけどこれも無視しよう。

 

「ほ、他には何かなかった? 言葉だけじゃなくて様子とか」

「……そういえば、あの日の八一、少し変だったかな」

「変?」

「うん。二人で指してたんだけど、指してる最中ずっとソワソワしてたり、私の事ジロジロ盗み見たり、目が合ったら慌てて逸らしたり……」

「そ、そう……」

「あとは……自分を誤魔化すには限界があるとか、認めてしまえばモチベーションに繋がるとか、言ってたかも……それと、全部終わったら伝えるって」

「……」

 

 だんだんと涙声になっていく銀子ちゃんを宥めながら、聞いた話を頭の中でまとめた。

 一、八一くんが銀子ちゃんと一緒に居る時、緊張した様子だった。

 二、自分の気持ちを誤魔化すのを止めるという旨を銀子ちゃんに伝えた。

 三、それらの上で銀子ちゃんに向けて好きな人ができたと言った。

 

 ………。

 

 ……何なんだろう、これは。

 頭痛がして思わず額を押さえ、話をややこしくした原因のあの年下の兄弟子を脳裏に浮かべて恨んだ。

 

 なんで八一くんは、こうも紛らわしい言い回しをしたのよ!?

 それに気付かない銀子ちゃんもなんでそんなにも鈍いの!?

 ここに来て擦れ違いってどれだけ不器用なのよこの二人は!!!?

 

「……? 桂香さん? どうかしたの?」

「あ、ううん。何でもないの」

 

 唖然として固まっていた私を不審に思ったのか銀子ちゃんが上目遣いで尋ねてきたが、何とかはぐらかした。

 ……少し落ち着こう。そうよ、ここで私が冷静にならなきゃダメ。

 将棋と同じだ。序盤で盤面を荒らされても、中盤で落ち着いて対処すれば何とか巻き返せる。

 

 まずは状況を整理しよう。

 

 銀子ちゃんの話を聞く限りでは、八一くんはほぼ確実に銀子ちゃんへの想いを自覚している。

 うん。それはいい。あの鈍い八一くんがようやく気付いたんだ。間違いなく大きな進歩だ。

 だけどなぜ、そんな言葉を濁すような告白をしたんだろう。いや、そもそも告白なのかしら。

 

 もしかしたら、八一くんなりに何か理由があったのかもしれない。考えてみれば八一くんはまだ十六歳とはいえタイトル保持者の棋士だ。対局以外にも仕事を頼まれる事もあるだろうし、最近では弟子を二人も取っている。そして更には防衛戦まで控えている。中々に多忙の身だ。

 そんな忙しい今の彼が、想い人だと自覚したばかりの相手に告白するかと訊かれてたら恐らくないだろう。それに相手はあの銀子ちゃんだ。本人にとっては色々と複雑な心境だろうし、想いを伝えるなら落ち着いてからと考えるのが自然だと思う。

 八一くんが『今は言えない』『全部終わったらちゃんと伝える』と言ったのはそういう事だろう。 

 恐らくこれが、八一くんが曖昧な言葉で濁した理由。

 

 次に、そんな八一くんの指した手の意味を何故銀子ちゃんが読み取れなかったか、だ。

 これに関しては正直、ある程度予想が付いている。ずっと傍でこの子達を見てきた私には分かる。

 

 それは単に銀子ちゃんが八一くんから好意を向けられる事に慣れていないからだ。

 

 普段でも八一くんから冗談で好意を伝えられただけでテンパる子だ。真剣に好意を伝えられた事なんてなかっただろうし、向こうから自分に告白してくるなんてないと思い込んでいる可能性が非常に高い。

 だから今回も八一くんの言った『好きな人』という言葉は銀子ちゃんにとって自身を対象にしていないと思い込んでしまっている。

 

「はあ……」

 

 無意識に大きな溜め息が出てしまった。

 

 幼い時から銀子ちゃんは八一くんにアピールするも、銀子ちゃんが不器用すぎて素直になれずに想いが伝わってないし、八一くんはそもそも鈍すぎて伝わらない。

 ようやく八一くんが自覚して想いを伝えたかと思えば、その伝え方が曖昧で、おまけに相手の銀子ちゃんはその言葉を自分に向けられたものだと考えていない。

 

 ……。

 ……どうしてこうなったのかしら。なんて拗らせた関係なのよ、この子たち……。

 今回の二人の立場が逆だったとしても同じような事が起きたと思う。

 例えば、銀子ちゃんが前のように素直になれず、勢いで八一くんの事を嫌いだって言えば、八一くんはその言葉を真に受けて振られたと勘違いし、そのまま他の女の子の元に走っていたかもしれない。そんな想像が容易に考え付くほど酷く拗らせた関係だ。

 

 私のせい、なのかな? 二人のことだし余り口出ししないようにしていたけど……でもまさか、ここまで関係が縺れているなんて。こんな事ならもう少し口を挟んでおいた方が良かった。

 私も決して人様の恋愛事情に文句を言えるほど経験があるとは言えないけど、でもこれは余りにも……。 

 

「銀子ちゃん」

「……なに?」

 

 とりあえず、まずは落ち込んでいる銀子ちゃんを立ち直らせなきゃ。

 でも、八一くん本人が考えがあって言葉を濁している以上、私からはあまり余計な事は言えない。

 想いを告げるのはちゃんと本人の口からでないと。

 

「私から見てだけど、最近の八一くんはきっと銀子ちゃんの事も気になっていると思うよ?」

「えっ?」

 

 今にも涙が零れ落ちそうな空色の瞳が私を見た。

 

「そうじゃなきゃ手なんて繋がないよ。前までなら八一くん、人前でそんな事するの絶対に嫌がってるだろうし」

「それは……」

「それに、その好きな人に八一くんはまだ何もしてない。そうでしょ?」

「──ッ!!」

 

 疑似的な告白はしているけど、本人は気付かないのなら意味はない。

 私の言葉に、まるで電撃が走ったかのように銀子ちゃんははっと顔を上げた。

 

「そっか、そうだよね。桂香さん」

 

 さっきまで見せていた弱弱しい態度から一転して、何かやる気……いや、闘志のようなものが銀子ちゃんの瞳に宿ったような錯覚がした。

 

「八一はまだ盗られてない。『誰かを好きになった』、ただそれだけなんだ。まだ誰のものにもなってない」

「え、ええ」

「駒を取られたのなら取り返せばいい。まだ『詰み』じゃない。『好きな人』から私が八一を寝取ればいいんだね、桂香さん」

「そ、そうね」

 

 自分自身から八一くんを奪うというよく分からない宣言をする銀子ちゃんに本当の事を告げたくなったけど、ぐっと我慢する。たぶん、真相を知ったら紛らわしい告白をした八一くんに銀子ちゃんは間違いなく襲い掛かるだろう。

 

「ありがとう、桂香さん……私、頑張るね」

 

 何とか銀子ちゃんを立ち直らせる事ができてほっと息を吐いた。

 つい先日までは自分の将棋についてあんなにも苦しんでいたのに、今は可愛い兄姉弟子達の恋愛事情に頭を悩ませているなんて、人生は分からないものだとつくづく思う。

 さて、これからが大変だ。自身の夢も。二人の関係も。

 私は両方をこなせるほど器用でもなければ、才能もない。

 だけど、私を立ち直らせてくれた二人を支えたい、そう心から思う。

 

「頑張ってね、銀子ちゃん」

 

 とりあえず、今度八一くんに会ったら今回の鬱憤を少し晴らさせてもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 


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