こういった夢を見るのはもう何度目だろう。
夢の中の筈なのに、何故かこうして意識がはっきりと残っている不思議な夢。最近になって見る機会が随分と増えた。
ただ、今はこうして夢だと自覚できているのに、起きると何故か記憶が霧がかったように鮮明には思い出せなくなるのは少しもどかしい。今日はどんな夢なんだろうか。
そんな事をぼんやりと考えながら、俺は目の前の光景を眺めていた。
気付くと薄暗い部屋に居て、そこにあるベッドの上だった。何故か横たわっているのではなくて、まるで誰かに押し倒されたかのような、尻餅を着いたような体勢だった。相変わらず体は動かせない。
少なくともここは俺の家じゃない。家にあるベッドはシングルベッドだ。こんな二人で寝れそうなダブルベッドじゃない。
今この時のように、
目と鼻の先にあった銀色の髪が揺れる。
その白雪の頬には朱色が差し、空色の瞳はどこか潤んでいるようにも見える。
彼女にしては珍しく、いつもの見慣れた制服姿ではなくて、よく似合うカジュアルな私服姿。
見知らぬ部屋と普段とは違う彼女。その二つの要因が、非日常的な雰囲気を醸し出していた。
俺はこれが夢だという事を忘れ、酷く動揺していた。
何がなんだか分からない。何だこれは。
視界に映る鏡張りの天井と、ベッドの傍に備え付けられた台の上に見える如何わしい小物類。
ここが所謂、普通の宿泊施設ではない事に気付き始めていた。
どうして俺はこんなところに。なんで、よりにもよって彼女と一緒なんだ。
俺の戸惑いなどつゆ知らず、夢はそのまま展開していく。
目の前に居た彼女はいきなり俺の襟首を掴んだかと思えば、そのまま力一杯に引き寄せ、なんと頭突きを食らわせてきた。
ゴツンと鈍い音が鳴る。
夢の筈なのに、まるで本物のような衝撃が走った。
よく見ると彼女の方も額を押さえ、痛そうにしている。彼女の意図が分からない。そもそもどういう状況なんだ、これ。
夢の中の俺はそんな彼女に何かを言っているようだが、会話の内容はノイズが走ったようにかき消されて上手く聞き取れない。
二人がノイズ混じりの会話をしている中、俺はさっきの彼女の行動を考えていた。
間違っても頭突きが目的ではなさそうだ。いくらすぐに手の出る彼女でも、あんな自滅するような真似はしないだろう。
だけど顔を引き寄せてするなんて、他に考えられる事と言えば……。
『だからこんなことはやめてください。こんな……好きでもないような相手と、そういうことをしようなんて……』
夢の中の俺が、興奮した様子の彼女を諭すかのように言った。
突如聞き取れるようになった会話に、俺は考え事を中断してそちらに意識を向ける。
すると、その言葉に彼女は顔を歪め、内に秘めた溢れんばかりの己が感情を勢いのまま言葉に乗せた。
『……………きらい』
最初、彼女が何を言ったのか分からなかった。
あまりにも小さくて、そして聞きたくない言葉だったから。
無意識に、聞き間違いだと思い込みたかったのだろう。
だけど、彼女は更に声を強めてもう一度言い放った。
『八一なんて、だいっきらい!!』
今度ははっきりと聞こえた。否が応でも聞かされてしまった。
まるでナイフで胸をえぐられたかのような衝撃。一瞬で血は冷え、脳が、思考が止まったような錯覚に陥る。
今この瞬間は、きっと夢の中の俺と思考も肉体も同調していたと思う。
――落ち着け。そうだ夢。これはただの夢なんだ。実際に俺が言われたんじゃないんだ。
何度も自分にそう言い聞かせて、止まっていた思考を無理矢理に動かした。
切り替えの速さは棋士にとって必須項目だ。こういう時に、人よりも多少は頭の回る頭脳を持てた事は幸福だと実感した。
どうやら今回も酷い夢のようだ。悪夢と言っても過言ではない。やけに現実感がある分、余計にタチが悪い。
前までの俺なら、きっと彼女から嫌いだと言われてもここまでの衝撃は受けなかったと思う。
寂しいと感じながらも、だけどそれなら仕方ないと、そういう関係でも構わないと、割り切る事ができた。俺と彼女を繋ぐものは将棋だけでいいと、それだけで満足できた筈だった。
なのに今の俺は、夢だというのにこんなにも動揺してしまっている。
ああ、分かっている。それほどまでに恐ろしいんだろう。彼女に嫌われる事が。彼女が自分から離れる事が。
……当然か。先日、ついに認めてしまった彼女への感情はそういう類いのものだ。
夢の中ですら自覚させられる自分の厄介な感情に自嘲する。これじゃあ、まるで恋に恋する思春期の女の子だな。
呆然とする夢の俺に彼女は『きらい』という言葉を更に続ける。
昔からきらい。だいきらい。
将棋バカなところがきらい。
将棋が強いことがきらい。
ずっと将棋ばかり考えているからきらい。
泥臭いところがきらい。
絶対に心が折れないところがきらい。
鈍感で誰にも優しくして優柔不断でフラフラしているところはほんとにきらい。
随分と嫌われたものだと、まるで他人事のように思った。
夢の俺は今もなお、彼女の言葉に傷ついている様子だ。その一方で俺自身は彼女の事をずっと観察していた。
不思議だった。こうして冷静になって第三者として見聞きすると、彼女の放った言葉の意味がまるで違うもののように聞こえてしまう。
夢の俺は多分気付いていないだろうけど、『きらい』と口にする彼女の表情は本当に嫌いな人に向けられたものなのかと疑問に思ってしまう。
彼女は顔に感情が出る人だ。
本当に嫌いならもっと敵意を込めた表情をしていてもおかしくない。なのに、今の彼女の顔に浮かべるそれは敵意というよりは、むしろ……。
――もしかして、『きらい』という彼女の指した手には、何か別の意味が込められているのではないのだろうか?
なんて、考えるのは都合が良すぎるのかな。悪い癖だ。相手の指した手を最初に自分にとって最も都合がいい風に読んでしまう。
読み手を間違えれば火傷では済まないなんて、分かっている筈なのに。
……でも、いいか。どうせ目覚めたら思い出せないんだ。
それならいっその事、多少願望の混ざった解釈をしてもいいだろう。夢なんだし。
そうだな。例えば、彼女の言った『きらい』は実はただの照れ隠しで、本当は逆に――
─────────
──────────
────────────
「今日の竜王サン、えらいまたへこんではるなぁ」
「ったく、辛気臭せえ空気出すなよクズ。てめぇのせいで気分転換にすらならねえじゃねえか!」
いつもの将棋会館の棋士室。
女流棋士は対局が少ないとぼやき愚痴をこぼしていた月夜見坂さんと供御飯さんが、雑談を中断して俺を見てきた。月夜見坂さんに至っては見るというよりは睨み付ける……いや、ガンを飛ばしている。怖い。今にもシメられそう。
「いや、別にへこんでいる訳じゃないんですよ。ちょっと自己嫌悪というか……黒歴史というか……」
「はあ?」
「……」
月夜見坂さんは訝しむように眉を顰め、供御飯さんは顎に手を当てて何やら考えている。
「まあ、ちょっと色々とありまして」
額に手を当て、嘆息した。
まさか、今回は夢の内容を鮮明に覚えているとは思わなかった。朝目覚めた瞬間、思わず枕に顔を埋めて足をジタバタさせてもがいた。その様子をあいに見られて、ちょっと引かれたのはショックだった。
なんで、よりにもよってあんな夢を見た時に限って全部覚えてるんだよ!
想い自覚した途端に相手とラブホに行ってフラれるってどんな夢だよ!?
しかもフラれた相手の言葉を都合よく解釈してニヤニヤ妄想してたなんてッ!!
ここに来たのも、気分転換が目的だった。家に居てもなんだか落ち着かないし、それなら誰かと会って雑談でもしながら夢を忘れようと外に出た。
気分転換に外に出たのに、結局行く場所が将棋会館な辺り俺の交友関係の狭さに虚しくなってしまう。
正直、今日は姉弟子と会う予定がなくて良かった。あんな夢を見た後では恥ずかしくて前に会った時以上に気まずくなってしまう。これで夢と同じ言葉を投げられたら立ち直れない自信がある。
でも、珍しいな。いつもなら今日みたいな予定のない日は午後からVSを誘ってくる事が多いけど、そういった連絡がなかった。
姉弟子の方も今日は特に予定はなかったと思うけど、桂香さんと一緒にいるのかな? 最近どうやら二人でいる機会が多いみたいだし。研究会でもしてるのだろうか。
そう言えば桂香さんで思い出したけど、この前に会った時に少し冷たかったのは何でだろう。気のせい、じゃないと思う。
もしかして俺、何か桂香さんに嫌われるような事しちゃったかな……?
でも、全く心当たりがないんだけど。
「竜王サン、ちょっと」
「……?」
ひょいひょいと手招きをする供御飯さんに気付いた。何だろうと近づくと、急に供御飯さんに顔を近づけられて、そのまま耳元で囁かれた。
「……夢って前みたいなん?」
「えっ?」
耳に吹きかけられるようなこそばゆい感覚と、彼女からほんのりと漂う甘い香りに思わず緊張する。
「この前、言うてはった、あんな夢?」
「い、いえ、あんなんじゃないです。もっと下らない内容で……でも、ありがとうございます、心配してくれて」
「ええんよ。いつでも相談に乗るから」
そう言って供御飯さんは顔を離していつもの笑みを浮かべた。どうやら前回のドライブの件で俺がへこんでいたのを思い出してくれたのだろうか……少し、気を遣わせちゃったかな。
ふと、あの時の光景が脳裏に浮かんだ。目の前に広がった京の夜景と、腕に伝わった柔らかい感触。そして供御飯さんの──万智ちゃんの優しい微笑みを。
「どうしたんだ? 万智」
「なんでもあらへんよ。それより竜王サン、最近は随分と調子ええみたいやなあ」
自然な流れで話題を変えた供御飯さんは視線を俺に向ける。
釣られるように月夜見坂さんも俺の顔を見て愚痴をこぼした。
「見たぜ、この前の中継。んだよあれ」
「何って言われましても……」
「この前は苦戦してた山刀伐先生相手にあそこまで圧倒するって、どうなってんだよお前」
「まっ、これでも竜王なんで」
「チッ」
決め顔で言ったら舌打ちされた。ひどいや。
「ほんま絶好調やな。ズバリその秘訣は?」
「秘訣、か……うーん、なんだろ」
変な夢みたら調子が上がりますよ! なんて言ってもまあ、信じないだろうな。
「あっ、でも前に比べて食生活や家庭環境が改善されたのは大きいかも。あいが料理や洗濯みたいな家事全般できるお陰で健全な生活できてるし」
単純に肉体を健康的に維持できるのはパフォーマンスの向上に繋がるのは間違いない。
「それにあいだけじゃくて、天衣の方も……あ、いえ何でもないです」
マッサージをしてもらっていると口に仕掛けたけど、その光景を姉弟子に見られてボコられたばかりだ。二人に話したらドン引きされるだろうし、言わないが吉だ。危ない危ない。
「へえ、お前の弟子がねえ」
「随分と師匠想いの可愛いお弟子さんやなあ」
「ええ。本当にあの子達には助けてもらってますよ」
実際、弟子を取ってから夢云々は抜きにしても好調なのは間違いない。
あいが家事をしてくれるお陰で対局に集中できるという点はかなり大きい。
それに、あの驚異的な才能を持った弟子達の前では簡単に負けられないと、奮起できるのも一つの理由かもしれない。
「ただ、山刀伐さんに勝てたのは……多分吹っ切れたから、かな」
「吹っ切れた? なんだそれ」
「実は最近、将棋とは関係ない事に少し頭を悩ませてまして……それが思った以上に影響してたんですよね。でも、ようやく自覚できたお陰で全部吹っ切れて、それで思うように指す事ができたんだと思います」
ただ、自覚しただけでちゃんと相手に伝えてないからまだ根本的には解決はしてない。
……いや、でも流石に本人の前であんな風に言ったんだし察してるとは思うけど。
それも含めて、次に彼女に会う時が少し怖い。
「……そうどすか」
「供御飯さん?」
どうしたんだろう。供御飯さん、急に俯いて。
それに何だか、ちょっと雰囲気が怖いような……。
「せや、竜王サン。話変わるけど、ちょっとええ?」
「え? なんです?」
顔をパッと上げ、いつもの笑みを浮かべる供御飯さん。
さっきのは何だったんだ? 様子が変だったけど俺の気のせいかな。
「今度、銀子ちゃんに会ったらお茶でもせえへんかって伝えといてくれへん?」
「姉弟子に?」
「最近、ちゃんと会ってなかったからなあ。積もる話もあるやろうし。女子会でもしようと思って。お燎も来る?」
「パス……銀子の奴の顔は当分見たくねえ」
どうやらこの前の女王戦でのトラウマは相当深いみたいだ。月夜見坂さんの表情は少し青ざめているように見える。
まあ、容赦なかったもんね、姉弟子。仕方ないよね。
「分かりました。とりあえず姉弟子に伝えておきますよ」
おおきに、と供御飯さんはにこりと笑みを浮かべた。山城桜花の彼女がいつも浮かべる笑みだ。
だけど俺はその時、見てしまった。
「………そろそろ、こなたも動かなあかんなあ」
供御飯さんの表情が、その時だけは何故か無表情に見えた。