白雪姫の指し直し   作:いぶりーす

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二十三話

 目の前の光景が、ただ信じられなかった。

 

「よくやったな……本当に、よくやったよ」

 

 八一の声がした。溢れ出る熱を抑える事なく、ただ感情のままに絞り出した嗚咽混じりの声。

 人前でこんなに感情を顕わにする八一の姿に動揺を隠せなかった。

 あの時の、蔵王先生に負けた時の八一の姿を思い出す。まるで内弟子時代の時みたいに私を銀子ちゃんと名前で呼んで、泣きついたあの時を。

 

 ただ、あの時と違うのは、その涙の理由が悔しさから流したものではなく歓喜によって流れた事と、

 

 ────そして泣きつく相手が私ではない、という事。

 

「……天衣っ」

 

 八一が彼女の小さな体を包み込むように、両腕を回してぎゅっと抱きしめていた。

 あの日と同じ、純白を纏ったシンデレラは八一の抱擁をそのまま受け入れた。

 

 いや、同じなのはそれだけじゃない。

 この神戸の街を一望できる式場も、周りに集まった見知った顔触れも、そして私自身も、あの日と同じだった。

 シンデレラと白雪姫が互いに殺しあった、あのタイトル戦と。

 

「私が勝てたのはあなたのお陰よ──師匠(せんせい)

 

 夜叉神天衣も目に一粒の涙を浮かべながら、そっと八一を抱きしめ返していた。

 大事そうに、愛おしそうに、優しく彼の背中を握る夜叉神天衣は私が見たことのないような、愛情の籠った笑みを浮かべていた。

 

 ……なんだ、これは。

 

 目の前に広がる光景を脳が処理しきれなかった。

 頭がおかしくなりそうだ。これは、一体、なに?

 

 勝て、た……?

 何を、何を言っているの? こいつは。

 確かにあの日、私は夜叉神天衣の実力を認めた。その底力を。その才能を。

 彼女もまた、並大抵の女流棋士とは違う、才ある者だと。

 

 だけどそれだけだ。結局、勝ったのは私だ。勝ったんだ私は。

 なのに、なんで? なんで八一はそいつを抱きしめているの?

 なんで、そんな表情を浮かべているの?

 私にしか向けていなかった、その暖かな笑みをあいつに。

 

 まさか私が、負けたとでも、そう言うの……?

 あり得ない。そんな事、あり得る筈がない。

 私が、こんな、八一の前で、他の女に負けるなんて、そんな事……ッ!

 

「私の中に、あなたの将棋があったから、あなたの想いがあったから、最後まで指す事ができたの」

 

 未だに抱き合い、夜叉神天衣は八一の胸に額をこすり付けながら体を預けている。

 八一も、そんな彼女の頭を愛おしそうに、優しく撫でていた。

 

「ねえ、師匠(せんせい)、あの日の事、覚えている? 私が宣戦布告をしたあの日のこと」

「もちろん忘れる筈がない。衝撃的だったよ、あれは……正直、やりすぎだ」

「嫌だった?」

「最高だったよ」

 

 八一と夜叉神天衣はクスクスと二人して笑った。互いに微笑み合うその様子は、ただの師弟関係にはとても思えない。妹や娘と接するような、家族に向けるものとも違う。

 

 ああ、そうだ。私は、八一のこの暖かな笑みを見た事がある。

 

 あの日だ。私が八一と指した、夢の第一歩を踏みしめたあの日。

 そして同時に、私に好きな人ができたと告げたあの忌々しい日。

 

 あの時、八一が私に見せた、私がずっと追い求めていたあいつの笑顔だ。

 

「私の想い、伝わったでしょ?」

「ああ、それはもう十分に」

 

 何で、それを八一はまた他の女に見せるの?

 私じゃなくて、そいつに、夜叉神天衣にッ!

 

 これは、これじゃまるで……。

 

「俺も、同じ気持ちだ」

 

 そうか。分かった。これは夢だ。

 全部、全部、悪い夢なんだ。吐き気がするほどのふざけた悪夢なんだ。

 

 夢だから、目の前の八一はあんなふざけた事を言っているんだ。

 それなら納得がいく。私の八一がそんな事、あり得る筈がない。

 

 あんな想いを秘めた眼で私以外を見つめる筈がない。

 あんな熱の籠った声で私以外の名前を呼ぶ筈がない。

 あんな眩しい笑顔を私以外の誰かに向ける筈がない。

 

「天衣、聞いてくれ。俺も」

 

 だからお願い。夢なら早く醒めて。

 さっきから視覚が、聴覚が、全ての五感が、この夢をまるで現実かのように訴えてきている。

 そんな事はあり得ない。これは夢なんだ。

 拳を握りしめて手のひらに爪が食い込む痛みも、視界をぼやけさせる涙も、全部幻想なんだ。

 だから、だから、早く目を醒まして。

 

「俺も、お前が────」

 

 でないと、私は、私は……。 

 

 ─────────

 ──────────

 ────────────

 

 

「……えっと、何かありました?」

 

 前回と同じく私は釈迦堂先生と、八一は神鍋歩夢と研究を目的に、釈迦堂先生のお店へと出向くために原宿の駅で待ち合わせをしていた。予定の時間より少し遅れて現れた八一は申し訳なさそうな顔をして開口一番に尋ねてきた。

 どういう意味かと聞くと、不機嫌そうだとか、少し顔色が悪いだとか、そういった言葉が返ってきた。

 どうやら、顔に出ていたらしい。

 必死に忘れようとしていた今朝の夢が、八一の顔を見て再び鮮明に脳裏に蘇った。

 夜叉神天衣を愛おしそうに見つめ、抱きしめる八一の、あの悪夢が。

 

 あれを下らない夢だと吐き捨てるのは簡単だった。あんなものは所詮はただの夢。

 昨日の馬鹿げた騒ぎを見て、脳が勝手に描きだした荒唐無稽な幻想だと。

 だけど、何故か、あれをただの夢だと割り切れない自分がいた。何か、妙な引っかかりのようなものを感じる。

 思い返すだけで悪寒がするあの夢はただの幻想ではないと、そう告げている自分がいる。

 

 ──あれは、本当にただの夢だったの?

 

 まるで目の前で本当に起きているかのように展開された現実味を帯びた光景。

 あの時、五感で感じたモノを果たして夢だと切り捨てていいのだろうか。

 もしかしたら、夢なんかではなくてこれから本当に起こりうる未来の──

 

「姉弟子?」

「……なんでもない。行くわよ」

 

 馬鹿な妄想をしそうになった私を八一の声が引き留めた。

 私の顔を覗き込む八一に思わず素っ気ない返事をしてしまい、誤魔化すように彼の手を取って目的地へと向かって歩き出した。

 

 

「あの、もしかして怒ってます? 昨日のあれ」

「……」

 

 互いに無言が続く道中。痺れを切らしたのか、不安そうな表情を浮かべながら隣で私の手を握る八一は立ち止まって私を見た。

 八一が指すあれ、とは何の事か直ぐに分かった。同時に今朝の夢がまたリフレインする。

 何とかそれを振り払おうと、八一の手を握る力を少しだけ強めた。

 こうして八一の手の温もりを直接感じていれば、あの光景をただの夢だと思う事ができる気がして、実際に少しだけ落ち着けた。

 

「あれはその、なんというか……天衣なりの冗談というか」

「八一はあの顔が冗談に見えた?」

「……まさか」

 

 肩を竦めるようにして八一は大きく息を吐いた。

 そういった異性の想いに対して鈍い八一とはいえども、どうやら昨日の夜叉神天衣の宣言に込められた並々ならぬ決意には思うところがあるようだ。今も複雑そうな顔をする八一を見ると、少なくともあのガキの言葉に戸惑いを隠せていない。

 無理もないか。九歳の弟子に自分のモノだと堂々とネット中継で宣言されたんだ。ある意味では前回以上に衝撃的だっただろうし。

 

「随分と大口を叩く生意気な弟子を育てたものね」

「き、棋士はそれくらいの気概があってこそなんで。それにほら、姉弟子もあれくらいの年齢で生石さんに殴り込みに行ったじゃないですか」

「憶えてない」

「ええ……絶対憶えてますよね? ほら。今みたいに手を繋いで京橋のゴキゲンの湯に堂々と殴り込みして二人揃って返り討ちに……」

「憶えてない」

「まあ、そういう事にしておきます」

 

 思わず出た内弟子時代の話題に暖かな懐かしさを感じた。八一も私と同じようにかつての頃を懐かしんでいるのか、口元を綻ばせている。

 その表情が、二人で一緒ならどこまでも強くなれると信じていたあの時に私に向けた無垢な笑顔と重なって見えて、さっきまで感じていたあの夢への不安は、気付けば胸の内から消えていた。

 

「それにしても、昨日のあれであんたも一気に有名人になったね、ロリ王」

 

 気分が軽くなったので、今日遅刻してきた弟弟子の制裁としてからかう。

 繋いだ手を離すのは嫌だったので、肘で八一の横腹を軽くこずいた。

 

「や、やめてくださいよ。その呼び名、マジで最近は洒落にならなくなってきてるんですから。それに一応、竜王なんで元から有名人ですよ」

「ロリコンとしての方が知名度高そうだけど」

「そ、そんな筈は……」

「あんなのを見せつけられたら誰でもそう思うわよ」

「ぐっ……」

「だいたい何よ、山城桜花にも手を出したって。あんた、まさか万智さんにも……」

「違いますよ! あれは根も葉もない出鱈目だから!」

「あれは、って事は内弟子に毒牙をかけたのは本当って事?」

「だから違うって! 揚げ足取りは止めてくださいよ!」

「どうせ小童からも追求されたんでしょ? 昨日のあれ」

 

 あの小童の事だ。昨日のあれを見せつけられたら、怒り狂って八一を問いただす姿が簡単に想像出来る。それどころか、夜叉神天衣にも激しい嫉妬心と敵意を剝き出しにするだろう。

 ところが、私の予想は真逆の答えが八一から返ってきた。

 

「いや、俺もそうなると思ったんですけど……なんか昨日は意外と大人しくて。俺が東京にまだ残るって伝えても素直に返事して、先に戻って次の対局に備えるって言ってましたね」

「えっ?」

「まあ、あいなりにマイナビ戦に集中しているって事なんだと思いますよ。出来れば俺も傍に居てあげたいんですけどね」

 

 どういう風の吹き回しだろうか。あの小童が動きを見せないなんて。

 八一の言う通り、大会に集中しているのだろうか。小童なら今回のマイナビ戦でも難なく勝ち進める事は出来るだろうけど前回通りに進めば、あの祭神と当たる事になる。小童も全力で迎え撃つ準備をしている可能性はある。あれは今の小童でも決して油断できない相手だ。

 

「そうだ、今日戻る時は何かあいにお土産でも買って帰えろう。あいなら何が喜ぶかな。どうせなら天衣にも何か買ってあげるか」

 

 口元を緩めながら呟く八一の姿は本当に楽しそうに見える。

 改めて思ったけど、今回の八一は前以上に弟子馬鹿になっている気がする。何かと甘いというか甘やかしているというか。将棋の指導は勿論、手を抜く事はないのだろうけど、それ以外の部分に関しては随分と骨抜きにされている。指し直しをしたあの二人の策略がここに来て盤面に現れてきているのか。

 思わず、ある懸念を抱いてしまった。

 

「八一」

「なんです? あっ、そうだ。姉弟子ならお土産に貰ったら何がいいです? 大阪なら豚まんが割と安定なんですけど、東京のお土産となると中々……」

「……あんたが前に言ってた好きな人って、まさか本当に小学生じゃないでしょうね」

 

 内心、緊張しつつも疑惑の目を向けて尋ねると八一は吹き出した。

 

「そ、そんな訳ないでしょ!! あの子達まだ九歳ですよ!?」

「でも八一ってロリコンじゃない」

「違うって言ってるでしょ!? なんであんたはそう、人をロリコンにしたがるんだよ」

 

 ……どうやら違っていたらしい。とりあえず弟弟子が異常性癖でないと分かり、ほっと安堵に胸をなで下ろした。ここまで全否定だと逆に怪しい気もするけど、今は八一の言葉を信じてあげよう。

 けど、一つ疑問が解けると更なる疑問が湧いてくる。

 ここで聞いてしまうか一瞬、躊躇ったがそのまま続けて問いただした。

 

「……じゃあ、誰なの」

「誰って?」

 

「八一の……好きな人」

 

 八一は目を丸くして私の顔を見た。

 まるで、信じられないものを見たと言わんばかりの顔だ。

 当然か。今の八一からしたら、きっと私がこういった質問をする事自体が意外だとでも思っているだろうし。

 

「えっと……」

「誰?」

「ま、マジで言ってるんですか?」

「どういう意味よ」

 

 冗談でこんな事を聞いているとでも言うのだろうか。

 そう尋ねると、そうではなくて、と言葉を濁しながら八一は首を横に振った。

 

「いや、その……分かりませんか? 前に言ったあれで」

「何言ってるの。あんた、好きな人が出来たしか言ってないじゃない」

「……」

 

 八一はさっきよりも目を見開きながら、一瞬だけ固まった。

 まるで対局時に相手に想定外の手を指されたかのような表情だ。

 

「……まさか伝わってないの? ぼかし過ぎたか? いや、でもあんな露骨に本人に言って気付かないなんて、そんな……でもこれじゃ……」

 

 棋士らしい思考の切替の速さなのか、固まった後に瞬時に口に手を当てて何やらブツブツと呟きだした。

 どうやら八一からすればあの言葉だけで私が八一の好きな人が誰か察せる事が出来ると思っていたようだけど、さっぱり見当もつかない。

 いくら長年の付き合いとは言え、あれだけで察しろなんて無茶がある。八一の考えが読めないのは将棋だけで十分なのに。

 

 その後も釈迦堂さんのお店に着くまで八一に何度も問いただしたが、返ってきたのは困ったような顔をしながら放った濁した言葉ばかりだった。

 

 

 

 

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