過去に戻っているだなんて、普通に考えればそんな事はありえない。
真っ先に夢か何かだと考えるのが自然だと思う。
きっとこれは八一を他の女に盗られて絶望した私が望んだ都合の良い夢なんだろう。
こんな夢は直ぐに醒めて、あの名前もしらない公園のベンチで惨めな自分を嘆くのが現実なんだろう。
────でも、それが何だというの?
例え夢でも、いま、この手から感じる八一のぬくもりは本物なんだ。
いま、目の前にいる八一はまだ他の誰にも盗られていない私の八一なんだ。私だけの、八一なんだ。
なら、それでいい。それだけで十分。
これが都合の良い夢だと云うのなら、私は目醒めるまでその夢を見続けたい。
それに夢だと云うなら、前よりも少しくらいは素直になれる筈だ。それなら、
前よりもっと八一と話そう。
前よりもっと八一に触れよう。
前よりもっと八一に甘えよう。
前よりもっと八一を支えよう。
もっと、もっと、もっと、もっと
必要だと云うならなんだってやる。
前より早くプロになれと云うのなら、なってやる。あの椚創多すら倒してみせる。
雛鶴あいでもなく、夜叉神天衣でもなく、桂香さんでもなく、
この私が、空銀子が九頭竜八一にとっての一番になってみせる。
「あっ、もうこんな時間か。すみません、姉弟子。俺そろそろ時間なんで」
腕時計を確認しながら、八一は申し訳なさそうに私の手を離した。
ようやく現状を理解できたけど、だからと言って今直ぐに何かした訳でもなくあのまま八一と手をずっと繋いでいた。
手を離すのは名残惜しいけど仕方がない。昨日が師匠と八一の対局の日だったのなら、今日はあの日の筈だ。
「神鍋先生との対局、だったよね」
「はい。歩夢は手強い相手ですよ。それに今期は連敗中の俺と違ってかなり調子がいいみたいですし」
そうだ。この時の八一は竜王になって以降、スランプに陥り、十一連敗をしていた。
そして今日が、そのスランプから無事に抜け出した日。
今思えば、あの時の八一は自分の将棋を完全に見失っていた。
竜王というタイトルを背負うには八一は若すぎたんだ。
竜王として相応しい将棋を指そうと、タイトルホルダーとして恥のない将棋を指そう、そんな考えが八一の将棋を鈍らせていた。
そう言えば『前回』はあの弟子の存在でスランプから抜け出せたと八一自身がインタビューで答えていた記憶がある。
弟子の前では負けられないと、だから竜王としてではなく、一人の棋士として勝ちを狙い、あの粘り強さを思い出せたと。
「八一、目にクマができてるけど大丈夫なの? まさか昨日ずっと私を」
「えっ!? あ、いえ、別に姉弟子のせいじゃないですよ! ちょ、ちょっと今日の対局に備えて色々と考え込んでて……」
目元にうっすらクマを浮かべる八一に不安が募る。
『今回』は、どうなんだろう?
師匠との対局後に八一が家に帰ると、あの内弟子が八一の家に無断で入り待ち構えていたのが出会いの経緯だと聞いている。
だけど『今回』は私が倒れたせいで、八一はそのまま家に帰っていないみたいだから、小童にはまだ出会っていないはず。
認めたくないけど、八一の中での雛鶴あいの存在は大きい。
もし、あの弟子が不在で八一はあの時と違ってスランプから抜け出せなかったら……。
「八一」
「なんです?」
前は八一の家の前で言いそびれたけど、今度はちゃんと伝えよう。八一が勝てない原因を。
そうだ八一を救うのは雛鶴あいじゃない。今度は私なんだ。
「八一は弱くなんかないよ。八一が連敗しているのは……」
「分かってます」
途中で言葉を遮られた。私がよく知る勝負師の目をした八一に。
「……えっ?」
「大丈夫です。今日は勝ちますよ」
そう言い切った八一の言葉は自信に満ち溢れたものだった。
おかしい。この時の八一は、こんな感じじゃなかった気がするけど……。
「そ、そう。ならいいけど」
「ええ。だから姉弟子は見ててください」
その言葉に、胸が高鳴った。
見ていてと八一は私に言った。言ったんだ。雛鶴あいではなく、この私に。
この場に雛鶴あいはいないし、そもそも出会ってすらいないのだから当たり前なんだけど、
でも、嬉しかった。
「うん、ちゃんと見てるから」
きっと『今回』も八一はあの二人を弟子に取るんだろう。
それは構わない。あの二人が八一の中で大きな存在だったというのは分かっているから。
だけど、今は違う。今は私だけが八一を見ている。
その優越感が心地良くて、八一に感じていた僅かな違和感はいつの間か私の中で消えていた。
その日、八一は宣言通り、神鍋先生に勝利し、連敗更新を止めた。
前と同じように午前三時を回る長時間に及んだ戦後最長手数による対局。
師匠譲りの粘り強く最後まで諦めない、八一の将棋が前と同じように戻っていた。
この時はまだ、前回と違うのは自分だけだと思っていた。
動く駒が変われば、他の駒も動きが変わり結果が異なるなんて、当たり前の事なのに。
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姉弟子が倒れたのは師匠との対局が終わって直ぐの事だった。
下半身が悲惨な事になった師匠と急に倒れた姉弟子に俺と桂香さんは慌てふためきながらも、なんとかタクシーを捕まえて師匠の家に着いた。
興奮して聖水をぶちまけた師匠もさすがにパンツを履き替える頃には落ち着いていて、倒れた姉弟子のご両親に連絡を入れていた。
話し合った結果、時間も遅かったため今日はとりあえず師匠の家で姉弟子を預かることになった。
一通り事を見届けてから帰ろうとしてたけど、桂香さんに泊まっていくように勧められた。桂香さん曰く、
「八一くんが傍にいてくれた方が銀子ちゃんも安心するから」
だそうだ。あの姉弟子が俺なんかが傍にいて安心するなんて普段の姿から想像できなけど。
でも、心配なのは確かだったので桂香さんの言葉に甘えて師匠の家で泊まることにした。
「やっぱり懐かしいな、この部屋は」
二つ並んで敷かれた布団の片方に姉弟子が寝かされていた。空いたもう片方の布団に腰を下ろす。
幼い時は一緒に寝てたとはいえ、流石にこの年で一緒に隣で寝るのはどうかと思ったけど、文句を言う前に桂香さんが布団を敷いて姉弟子を寝かせてしまったので諦めた。
部屋を見渡して、昔を懐かしむ。
二人で寝て起きて、将棋を指した、俺の人生で一番思い出深い場所だ。
そういえば姉弟子は昔は今より体が弱かったっけ。
少し日に浴びるだけでも肌が赤くなって、体調を崩していたな。
「やい、ち……」
目が覚めたのかと思ったけど、違うようだ。
呼吸は乱れ、辛そうに、何かにうなされるような声だった。
その声を聴いて、無意識に姉弟子の手を握っていた。
昔、体調を崩して辛そうにしてる姉弟子の……銀子ちゃんの手をこうやって握ると落ち着いたんだっけ。
今起きたら殴られるんだろうな、なんて考えながら銀子ちゃんの手を強く握った。
これで少しでも楽になってくれればいいんだけど。
「置いて、いかないで……」
「大丈夫、置いていかないよ。銀子ちゃん」
その消えそうな声に思わず返事をしてしまった。
何やってるんだ、俺。起こしちゃいけないのに……
だけど、何故か言葉を返さないと彼女がどこかに消えてしまいそうな気がした。
しばらく握っていると、ようやく落ち着いたのか呼吸が正常に戻った。
とりあえず一安心かな。
もう離してもいいかと思い握る力を緩めてみるけど……
「あれ……?」
動かない。
どうやら今度は銀子ちゃんが強く握ったままで、離してくれそうにない。
これは諦めた方が賢明のようだ。
「……手、綺麗だな」
なんとなく繋いだ手を眺めた。
透き通るような白く小さな女の子の手。
皮膚が固くなった人差し指と中指を触らなければ、とても棋士の手には思えないほど綺麗で、繊細な手。
昔はこの手を繋いで二人で色んな所に行って将棋を指した。
銀子ちゃんが生石先生に殴り込みに行った時もそうだったかな。
他にも新世界で真剣をしたり、東京まで行って将棋を指したり……あの時は二人でならどこまでも強くなれると思っていた。
────けど、そんなのは幻想だった。
いつからだろう? 俺たちが手を繋がなくなったのは。
何か特別なきっかけがあった訳ではなかったと思う。
ただ、自然と繋ぐことがなくなっただけ。
幼い時の子ども同士の関係なんだから、そんなものだ。
例え手を繋がなくなっても、俺たちの関係はずっとあのままだ。何も変わっていない。
だけど、次は手だけではなくこの関係まで離れてしまう予感がした。
十一連敗を晒すような、まぐれで竜王を取れたとまで言われるような俺と、目の前で眠る美しい白雪姫との関係が。
そう考えるだけで、何かおぞましい寒気のようなモノがした。
「……勝ちたい」
唇から洩れた言葉に、自分自身驚いた。
勝ちたい、なんて勝負師として、棋士として当たり前の事を俺はわざわざ口にしたんだ。
……それがどういう事か。
「なんだ、そんな事だったのか」
こんな単純なことに今日まで気づけなかった情けない自分に笑ってしまう。
俺はいつの間にか忘れていた。見失っていたんだ。大事なモノを。
勝利への執着と渇望を。
竜王に相応しい将棋を指す。
タイトルホルダーとして恥のない将棋を指す。
なるほど。それは確かに大事な事だ。
竜王という重い称号を背負う者に求められる責任だ。
けど、俺はそんなものを背負って竜王になれた訳じゃない。
勝利への執着、渇望。
俺が憧れた清滝師匠は、今の俺が指してるような小奇麗な将棋じゃない。
最後まで諦めず、泥臭く、どんなに醜く足掻いてでも勝利を勝ち取る。
だから勝てたんだ。
だから竜王になれたんだ。
明日は勝とう。
相手はあの歩夢だ。もちろん簡単に勝てる相手じゃない。
でも勝つ、勝ってみせる。
どんなに汚い棋譜を残したって構わない。
どんなに醜く指しても構わない。
何時間でもかけて、何百手でも指して、そして勝つ。
「……ありがとう、銀子ちゃん」
ようやく、自分に欠けたナニかを取り戻せた気がする。
こんな時に不謹慎だと思うけど、お蔭で大切なものを思い出せたのは事実だ。
隣で眠る銀子ちゃんに礼を言って布団に寝転んだ。そろそろ明日に備えて寝よう。
「やいち……」
瞼を閉じてそのまま眠ろうとした時、また小さな声が聞こえた。
眠気が押し寄せて、さっきのように言葉は返せそうにない。
だから、返事の代わりに彼女の手をぎゅっと握り、そのまま寝ようとして─────
「すき」
眠気が吹き飛んだ。
2018/04/24描写追加修正しました。