「あいは、もう一度ししょーの元で将棋を指したいだけです」
ようやく泣き止んだ雛鶴あいは、涙でぐちゃぐちゃになった顔で呟くように言った。
流石にこんな人目の付く場所で目を腫らして顔をびしょびしょに濡らした小学生は目立つので、ハンカチを貸してあげた。
「ぐすっ……ありがとう、ございます」
雛鶴あいは一言礼だけ言って私からハンカチを受け取った。
そのまま顔を拭いて……あろう事か鼻までかんだ。
この小童ァ! あのハンカチ、お気に入りだったのに……
「ししょーは、告白する前にもあいに言ってくれました。これからは自分の世界を持って欲しいって……自分の盤を持って、多くの人と世界を広げて欲しい、って」
私の貸したハンカチを胸元で握りしめながら、雛鶴あいは懐かしむような笑みを浮かべた。
「だけど、あいにはまだそんな勇気がなくて……だから、もう一度だけ、ししょーに教わりたいんです。将棋ことや、他のいろんなことを、もう一度」
「……そう」
改めて、この子は強いと思った。
しっかりと前を向いている。どんなに涙を流しても、前に進もうとしている。
そういう所は、やっぱり八一の弟子なんだと認めてしまう。
「……少しだけ安心しました」
「安心?」
「だって、夢みたいじゃないですか。こんな、やり直しができるなんて」
「…………」
「だから、きっとこれはあいだけが見てる夢なんだって思って……でも、空先生も同じって知って、ちょっとだけ安心しました」
私も、夢だと思っていた。いや、心のどこかでは今もこれが夢なんかじゃないかと疑っている。
でも、直ぐ傍に八一がいてくれたから、きっと冷静でいられたんだ。
こんな訳の分からないことが起きて……怖かった。八一が、手を握ってくれたから、安心できた。
雛鶴あいはどうだったんだろう。
独りで、耐えていたんだろうか。
だから、待っていたんだろうか。
あの暗い玄関で、八一をずっと。
そんなあの子が、私と八一が手を繋いで帰ってきたらどう思うのか。
もし私と雛鶴あいの立場が逆だったら、きっとあんな言葉を浴びせるだけじゃ済まなかったと思う。
「空先生は、どうしたいんですか?」
今度の問いかけは、先程の黒い感情が込められたものと違ってただ純粋に疑問を投げかけるだけのものだった。
私のしたいこと──そんなの、決まっている。
「私は、八一が好き……今度こそ八一に想いを伝える。あいつに振り向いてもらう」
『前回』みたいな、曖昧な態度は取らない。
だから、もう待たない。待つだけじゃ、ダメなんだ。
「その為に、今度は何でもするって決めた。素直になるって、八一の支えになるって」
王子様が来てくれるまで、待たなきゃいけない『白雪姫』なんて、もう御免だ。
「今は言っても、あいつにはきっと想いは伝わらないだろうけど……でも必ず、八一を手に入れる」
しっかりと、雛鶴あいの眼を見て宣言した。
この想いが、決意が、本物だって事をこの子には伝わって欲しかったから。
「……空先生も意外と鈍いんですね」
「えっ?」
「なんでもないです……空先生のしたいことはわかりました」
そう呟いて口を閉じた。
雛鶴あいは何かを考えるようにしばらく黙り込み、やれやれと肩をすくめてため息を吐いた。
「はぁ……仕方がないですね、少しだけ、ゆーよをあげます」
「……猶予?」
いきなり何を言い出すんだろう、この小童は。
「あいの体がもう少し成長するまで、待ってあげます。それまでに空先生が心も体もししょーを堕とせたら認めてあげます」
「え? あんた、そもそも八一を諦めたんじゃ」
「? あい、そんな事言いましたか?」
「は?」
何を言ってるんだこいつ、みたいな目で雛鶴あいが私を見てきた。
こいつの事をちょっとは認めようとしたけど、やっぱりムカつく。
「あんたは八一にもう一度教わりたいって、それがやりたい事だって……」
「それとこれとは別ですよ。何言ってるんですか、このおばさんは」
「小童ァ!」
思わず掴みかかりそうになったけど、ここが駅に向かう途中の人通りの多い道だって事を思い出して堪えた。
「ししょーは十五歳の貧相な体付きの空先生にこーふんしてました。まあ、二年経っても貧相でしたけど……それはともかく、あの程度の体型ならあいは、あと三年もすればなれる筈なんです! つまり、あと三年待てばあいはししょーをこーふんさせられる事ができるんです!」
「後で泣かす」
将棋で泣かす。八一の前でボロ雑巾にしてやる。
「だから、それまでは空先生がししょーに前みたいな悪い虫が付かないように見張ってください。その間だけは少しだけ、待ってあげます」
からかうような口調から、急に真面目な声に変わる。
そして、雛鶴あいは私の眼をしっかりと見据えながら、静かに宣言した。
「でも、もしそれでも空先生がもたもたしてるようなら……」
「──────九頭竜八一師匠はあいが貰います。どんな手を使ってでも」
本気の眼だ。勝負の世界で生きる私たちが放つ、冷徹な、勝負師の眼。
そんな眼をされてどう返すか、だなんて決まっている。
「舐めるな、小童」
そう返すと雛鶴あいは子供のように笑った。
「……凄まじいな、これは」
「あの、弟子にしていただけますか?」
八一が驚愕した様子で目を見開いて盤を眺めていた。
同じ部屋で二人の将棋を眺めていた桂香さんと師匠も驚いた様子だ。
八一と向かい合って座る雛鶴あいは、膝の上で拳をぎゅっと握りしめ八一の顔を伺っている。
清滝師匠の家に雛鶴あいを連れて行くと、前回と同じように既に雛鶴あいの両親から連絡があったようで特に説明もなく師匠は雛鶴あいを快く出迎えた。
前回と違って、雛鶴あいが無断で家を出たのではなく両親に承諾を得た上でこっちに来たという話らしい。
小童曰く、
「ちゃんと『説得』したら分かってくれました」
との事だが、どういった説得を行ったのは聞いてないし、聞きたくなかった。
「……君は、誰かに将棋を教えてもらっていたね? それもプロ相当の実力を持った人に」
「えっ……?」
「指し方を見れば分かるよ。定跡の理解、そして崩された時の対応、終盤力の読み……とても素人が指せる代物じゃない」
やっぱり、バレるか。
今の雛鶴あいが初心者を名乗るにはあまりにも完成されすぎている。
当たり前だ。この小童は三年間も竜王に師事して己の棋力を磨き上げたんだから。
「はい。おじいちゃ……祖父に少し教わって」
「その方はアマチュア棋士なのかい?」
首を振り、雛鶴あいは八一の瞳を見る。
「いえ……もう一人、わたしに将棋を教えてくれた人がいました」
哀愁と懐古を混ぜ合わせたような声だった。
「なるほど。その人が……でも、君のために言うけど、君はその人の元で将棋を指したほうがいいと思う。その方が、確実に強くなれる」
「……それはできないんです」
「どうして?」
「その人はもう、いないから……」
「「………」」
気まずい沈黙が流れた。
確かに雛鶴あいに将棋を師事したのは未来の八一だし、『いない』という表現は正しいのかもしれないけど……これじゃまるで死んだみたいだ。
「ご、ごめんね? さすがに無神経な質問だった」
「い、いえ……それよりも、弟子にしてくれますか?」
「それは……」
何故か渋るように言いよどむ八一。
おかしいな。確かにこの雛鶴あいは前よりも、強いかもしれないけど……そこまで渋るものなのかな。
「八一が決める事だし私は別にどっちでもいいと思うけど……何か渋る理由でもあるの?」
別にあの小童に助け舟を出したつもりはない。ただ単純に疑問に思っただけ。
だから、小童。そんなきらきらした目で見るな。
「ええっと……正直、この子の才能は本物ですし、育ててみたい気持ちはあります」
「なら……」
「ただ……才能がありすぎる。この年齢でこれは明らかに異常だ」
なるほど。私はこの小童の事情を理解してるし、どんな将棋を指すか知っているから驚かないけど、何も知らない八一からすれば異常に見えるのは頷ける。
最初に雛鶴あいを見た時ですら、あの才能に脅威に感じたんだ。今のこの小童なら更に別格だ。
「俺にこの才能を導ける自信がない」
「わたしはししょーに将棋を教えて欲しいんです!」
「でも……」
「八一、その子の才能云々やない。大事なんはお前がその子をどうしたいんかや」
必死に訴える小童と渋り続ける八一に声をあげたのは清滝師匠だった。
「俺が、どうしたいか……?」
「せや。その子はお前に憧れてわざわざ大阪まで来たんや。ご両親をちゃんと納得させた上でな」
「あいちゃんはお前に弟子入りしたい。じゃあお前はこの子をどうしたいんや?」
懐かしいやり取りに心が温かくなる。
あの時も弟子を取るか悩む八一に師匠が背中を押したんだっけ。
やっぱり、師匠は師匠なんだ。
「まあ、急に弟子を取れ言われてその直ぐ後にまた弟子入り希望の子が現れて戸惑うお前の気持ちも分かるけどな」
「「…………は?」」
雛鶴あいと私の声が重なった。