「とぎれた霞」
日名あすかは久しぶりに出会った父親が待ち合わせのカフェテラスで新聞を読んでいる姿に、しばらく見入ってしまった。父親の物腰も、外見も、すべて亡くなった兄に似ていた。今はテラスの一席で新聞に視線を落としているが、夏の終わりの光の加減で、もともと若く見える父が、より若く見えてしまい、一瞬、兄が還ってきたような錯覚にとらわれて見入ってしまったのだった。
「……」
「……ゆう……すけ…」
あすかと手を握り合っていた河合春人が力を入れてしまい、思わず亡き親友の名前を零している。それほどに亡き息子と父親は姿が似ていた。センスの良いジャケットといい、白いシャツの胸元をはだけさせた着こなしといい、ファッションも同じなら、ほどよく鍛えられた胸板や肩幅も服装に合っていて、本当に雄介の再臨かと思ってしまうほど、よく似ている。
「「…………」」
黙り込む娘と恋人が何を想起しているのか、二人に同伴してきた日名えりかには痛いほどわかったので、大げさにタメ息をついて夫に声をかける。
「本当に、あなたは雄介に似ているわね。腹が立つくらい」
「やぁ♪ えりか、あすか、それに春人くん」
新聞を閉じて微笑むと、妻の苦言に少し困った顔をしてみせる。
「えりかが腹を立てるのは残念だな。あすかが君に似ていることを、オレは嬉しく想っているのに」
「えーーっ……アタシがぁ、ママに~ぃ…」
あすかがイヤそうな顔をすると、母親に睨まれる。それを見て、父は兄そっくりの声で笑う。
「ははははははは♪」
笑っている夫を無視して、えりかはアイスコーヒーを注文し、あすかと春人にも促す。
「あなたたちは? 何でもいいわよ。福岡に行ったきり帰ってこないバカが払ってくれるから」
「すいません。そろそろ面接の時間で…」
春人が時間を気にしている。
「そうだったわね。今年こそ頑張らないといけないわよ」
「はい…」
「ハル先輩は十分頑張ってるもん! この前だって決定的瞬間を撮影して、藤林高校の先生たちに大感謝されたんだよ♪ ね、聞いてよ、パパ」
娘が恋人の活躍を誇張して報告する様を見つめて父親は心から嬉しいと感じた。
「そうか、よかったな。あすかに立派な彼氏ができて。頼むよ、春人くん」
「は、はい」
「ま、オレは雄介がいた頃から、こうなるって予想していたけどね」
「パパが思うほど簡単な道のりじゃなかったんだよ。ハル先輩、三年生になるまでアタシというものがありながら麻尋さんと…」
「ま、麻尋のことは、もう言うなよ! 過ぎたことだろ。ほっとけなかったんだよ、あいつ一人でさ…」
「なるほど、あすかと両天秤にかけた子がいたと?」
「ぅっ…」
「これは父として聞き捨てならないな。フタマタということかな?」
「い、いえっ! そんなんじゃ…」
「ははははは♪ 冗談だよ、春人くん。あすかの様子を見ればわかるさ。今が幸せだってことがね。まあ、二人とも、まっすぐな道を楽に歩いてきたわけじゃないってことなんだろう?」
「そーだよ、パパ。ここまで来るのに大変なっ、たいっへーーーんっな想いがあったんだからね! まっすぐ来れたら、どんなに良かったか……」
「けど、あすかは回り道した分だけ、いろいろなことを経験したんだろ。そして、きっとまっすぐ歩いてきた場合よりも、春人くんを好きでいる?」
「パパ……うんっ! ね、ハル先輩!」
「あ、…ああ…そう…だな」
「えへっ♪ あすかの心と、ハル先輩の心が繋がったね」
あすかが自分の胸と春人の胸へ手をあてて微笑む。その気恥ずかしい行為に春人は目をそらした。逆に、えりかは夫から期待の視線を受けて、冷たく見つめ返した。
「なに、その目…」
「えりかは、もうやってくれないのか?」
「……なに…を?」
「えりかの心とダイくんの心がシンパシーしてるねってヤツをさ♪」
「っ! ……するわけないでしょ! いい歳してバカじゃないのっ?!」
「はははははは♪」
「「………」」
あすかと春人が顔を見合わせて二十年以上前に結婚した二人に問いかける。
「ママ、そんなこと、してたの?」
「………」
「雄介が小学校にあがるまでは、やってくれたぞ。あすかも見ていたはずなんだ」
「覚えてないよ……お兄ちゃんが小学校ってことは、あすかは四歳…」
「覚えてなくても、やってるじゃないか」
「……これ、あすかのオリジナルだと思ってたのに…」
「ま、なかなか人間、オリジナルのものを創るってのは難しいものなんだな。本人は創ったつもりでも、いつか、どこかで見たことのあるものだった、なんてのは、よくある話だよ。な、えりか。他にも…」
「それ以上喋るとっ!」
えりかが真っ赤な顔をしてハンドバックを振り上げたので、日名大輔は微笑したまま頭を抱えた。
「降参、降参♪」
「……二度と言わないで」
「おばさんと、あすか、同じことしてたんだ……うわっ?!」
えりかが一番嫌いな二人称を使った春人の鼻先をハンドバックがかすめていった。
「就職の面接っ! そろそろ行かなくていいの?!」
「は、はいっ! 行ってきます! それじゃ、おじさん、失礼します!」
「ああ、またね。春人くん」
大輔が手をふって見送り、春人はカフェを出て藤川駅へ走っていく。あすかも春人に続いた。
「まって、ハル先輩!」
「お前は二人といろよ、久しぶりなんだから、オレ、面接いくだけだぞ?」
「いいの! それに、久しぶりの夫婦水入らずなんだから。ね? パパ、ママ」
「子供は余計なこと言わなくていいのよ! さっさと行きなさい!」
えりかは娘を追い立てると、テーブルにおかれたアイスコーヒーを飲んだ。
「まったくっ……あなたがバカなことを言うから…」
「ごめん、ごめん。それはさておき、よさそうな青年に成長したな、春人くんも」
「……。…」
えりかは亡き息子も春人と同じ年齢だったことを反芻して、もう一口、アイスコーヒーで喉を潤した。
「雄介なら留年したりしなかったわ」
「……春人くん、五年目か? 大学」
「ええ。なのに、五月頃まで仲間と映画撮影をやっていたそうよ。のんびりというか、ゆとり教育というか……まだ、一つも内定取れていないのに」
「それは心配だね。お義母さんも」
「……。……彼、文学部よ。千羽谷大の」
「…………それは……心配だな。いい就職があるといいが……」
「あなたのツテで、ないかしら? いっそ福岡でもいいわ、正社員なら。秋田でも」
「わかった。探しておくよ」
娘の将来のために、リアルな心配をした大輔は話題を変える。
「えりか。ちょっと話があるんだ」
「何よ、あらたまって」
「雄介が死んで、もう四年になるな」
「……ええ、…そうね。それで?」
「もう一人、子供をつくってみないか♪」
「ぶっ!」
えりかがコーヒーを噴いた。
「ははははは♪」
「……」
えりかは恨めしそうに唇をナプキンで拭いて夫を蹴った。
「くだらない話なら、もういいわ。友達と約束があるの! あなたも、これから東京で仕事でしょ?!」
「まあ、待ってくれ。オレは本気で言ってる。できれば、男の子がほしい」
「………少子化に歯止めをかけようとでもいうの?」
「そんなところさ♪」
「やっぱり冗談なのね」
「いや、本気だ。な、えりか」
嫁の手を握ろうとしたが、嫁は逃げた。
「イヤよ! 今さら」
「………イヤか?」
「イヤ」
「そっか……楽しいと思うぞ?」
「下手したら、あすかの子供とアタシの子供が産院で並ぶかもしれないのよ?!」
「たはっ♪ そいつは面白い」
「………」
「な、えりか、冗談じゃなく、もう一人、な?」
「冗談じゃなく、イヤっ!」
「………、そうか……。また、考えておいてくれ」
「もう考えない。絶対イヤ!」
「そんなにイヤか?」
「イヤよ。今さら! ご近所で何を言われるかわからないし、せっかく維持してるスタイルも崩れるし、それに、あなた、どうせ子育てしないでしょ? あすかと雄介のときみたいに仕事仕事でアタシに押しつけて」
「今回は産休を申請する! 時代は変わってる。絶対に子育て協力するから!」
「福岡支社長が産休取れるわけないでしょ!」
「支社長がいなくても副支社長がいるさ♪」
「だいたい、あなたが福岡にいる時点で子供なんて無理よ。そんなことは、こっちに帰ってきてから言うのね!」
「………。東京の本社でも、いい?」
「ダメよ。藤川の営業所でなきゃ子育てと両立なんて無理!」
「ここの営業所かぁ……」
「ほら、無理でしょ」
「……」
「営業所長から支社長に出世した時点で、もう藤川には帰ってこられないって言ったのは、あなたよ」
「……格下げしてもらうか……」
「さっき、東京でもいいって言ったわよね? 出世の見込みありそうなんでしょ?」
「まあ、ちょっとだけ」
「本社ってことは役員なの?」
「そうなるかも、しれない。ならないかも、しれない」
「そんな人が子育てなんて、できるわけないわよ」
「そこは努力する」
「……雄介の遺言、覚えてる?」
「遺言?」
「ビデオよ。10年後のアタシたち宛てに撮っていたビデオ」
「ああ……」
「何て言われてたか、覚えてる?」
「仕事人間はやめて母さんを大事に……」
「覚えてるなら変なこと言い出さないの」
「………。だからこそ、子育てを機会に家庭人になろうかと……な?」
「イヤ」
「………」
「イヤよ」
「……わかった…」
「そ。じゃあ、アタシ、友達との約束があるから」
「もう行くのか。せっかくだから、久しぶりに、えりかの維持してるスタイルを拝見…」
「イヤって言ったでしょ。じゃ、さよなら」
えりかが立ち去ると、大輔は肩をすくめてカフェを出る。
「まだ、少し時間があるな。久しぶりにシカ電で行くか」
すぐに新幹線へ乗らなくても仕事に間に合いそうだったのでローカル線の切符を買い、ゆっくりと東京へ近づくことにした。
「…………」
しばらくは久しぶりの風景を見つめていたが、それほど大きく変わっていないので大輔は新聞へ興味を移した。福岡では買えない地方新聞の地方欄を読む。
マリンランド改修後76%来園増
鴨浦のテーマパーク「マリンランド」は大規模改修を終え、前年同月比で76%の来園者増となり盛況。とくに人気のアトラクション「スーパーコースターGG」とレッツゴー☆ペタペタのイメージチアガールによるステージ「れつ☆ぺた もってけ勇気の石」は3時間待ちとなり、夏休み中には一時入場制限が…
「あすかを連れて行ってやれば……、もう、そういう歳でもないし、春人くんがいるか……」
大輔は眼鏡を指で押し上げると、次の記事を読み進む。
FM澄空でKANATAが同性愛趣味を認める
澄空学園の現役女子高生がパーソナリティーを務めるラジオ番組「神奈の缶詰」にゲスト出演していたKANATAとKARINが番組中に以前から週刊誌で報道されていた同性愛関係についてKARINは否定し、KANATAもKARINとの関係は否定しながらも、質問した神奈さんに番組中にキスを試すなどの…
「……この新聞、スポーツ新聞みたいな記事も載せるようになったのか」
元クラス担任を殺害 精神病院に入院中の女生徒逮捕
神奈川県藤川市の海岸で9月14日正午過ぎ、無職星月織姫さん(25歳)が殺害される事件があり、県警藤川署は現場にいた女子高校生(17歳)を殺人容疑で逮捕した。発表によると、この女生徒は授業中に校内を徘徊する等の行為を繰り返し7月中旬から千羽谷市内の総合病院の精神科に入院していたが犯行の前日に行方不明となり、携帯電話で元クラス担任だった星月さんを呼び出した後、工事現場から盗んだスコップで星月さんの頭部を殴るなどの暴行を加え、急性脳出血で殺害した疑い。女生徒は「ナオくんは、どこですかぁ?」等と捜査員の問いに支離滅裂な答えをする一方で「仇討ちは嫁として当然のつとめです。あの女は悪い女でしたから」と犯行をほのめかす供述もしているという。殺された星月さんは女生徒のクラス担任だったが6月に辞職しており、そのさい女生徒が好意を抱いていた同じクラスの芹澤直樹さん(当時16歳)と交際していたとみられているが、芹澤さんは別の事件で雛岸いずみ(当時24歳、自称興信所契約社員)に刺殺されている。雛岸容疑者は逃走中に溺死しているが、7年前に当時同級生だった星月さんと同じ高校の男性教師を刺傷する事件も起こしており、事件の背後には複雑な人間関係があるものとみて捜査が継続されている。
「雄介のときも他殺の疑いがあったな………。雄介が殺したのか、殺されたのか、事故だったのか……、結局は迷宮入りだったが、えりかは仙堂の娘さんが二人を殺したって無茶を言い出したが………、それは無いだろうと止める気力もなかったオレも……、…あの娘さん……たしか、……仙堂……まひろ? さっき、あすかと春人くんもマヒロが、どうとか………、こっちの事件の背後にも複雑な人間関係があったみたいだな。こっちはハッピーエンドのようで幸いだが、逆恨みってのも怖いものだからな」
大輔は新聞を片付けると、千羽谷駅で特急列車に乗りかえる。けれども切符を買おうとして小銭入れがないことに気づいた。
「落としたか……スリか……。気に入っていたのにな、とりあえず諦めないで探してみるか」
東京行きの特急までの時間、千羽谷駅を探しみるが見つからない。駅の職員にも届出がないか調べてもらったが、無かった。
「藤川で新聞を買うときには、あったが……仕方ない。諦めるか」
大きな現金や大事なカード類は財布に入れてジャケットの内ポケットにある。それほど困ることもないので、諦めた大輔は東京へ向かい、はだけさせていたシャツの胸元を整えてネクタイを締めると本社での会議を終え、品川駅から新幹線に乗る。新幹線めぐみ号が出発すると窮屈なネクタイを外して、シャツのボタンも三つばかり外した。目を閉じて少し眠ると、名古屋、京都、新大阪、広島をへて福岡に到着する。日帰りの出張ついでに妻と娘、娘が交際をはじめた相手にも会えたので小銭入れを無くしたことは忘れることにした。とっくに日は暮れているが、日課のスポーツジムでのトレーニングは怠らず、汗を流した後、一人暮らしのマンションへ帰る。植樹されたエントランスを通り、エレベーターで八階の自室までいって、見知らぬ若い女性に気づいた。女性は着物姿で大輔の部屋の前にうずくまるように座っている。着物姿といっても柄はなく、真っ白な長襦袢姿で髪は黒髪だが、乱れている。足元も土で汚れていて、ただならぬ気配がした。
「幽霊では…ないようだけど……。なかなか、絵としては特殊な……」
普通なら声をかけにくく通り過ぎたくなるような気配だったが、大輔は物怖じせず、うずくまる女性に声をかけた。
「そこは、オレの部屋なんだけど。君は?」
「…………」
女性は顔を上げた。女性といっても二十歳に満たないくらい若い顔立ちで、あすかよりも年下かもしれない。うずくまっていた彼女は顔をあげると、渇いた唇を開いた。
「……ダイ…すけ?」
「え…」
「大輔……なの?」
「ああ、オレは…大輔、だけど、……君は…?」
「…よかった…、…大輔…」
それだけ言うと、彼女は倒れ込んでしまい、その手から大輔の小銭入れがこぼれ落ちた。
「おいっ?!」
慌てて抱き起こすが気絶している。
「おい、君?」
揺すらず問いかけるが返事はない。顔色は真っ青だが、呼吸と脈はあった。
「困ったな。……これを、届けてくれたのか」
とにかく、いつまでもコンクリートに座り込ませているわけにはいかない。大輔は横抱きに彼女を持ちあげると自分の部屋に入れ、ベッドに寝かせた。
「救急車を呼ぶようなことでもないだろうけど……」
大輔は寝息を確認してから、自分はソファに座った。しばらく黙って待つけれど、彼女が目を覚ます気配はない。そのうちに空腹を覚えたので立ち上がると、冷蔵庫を開いた。材料を出して簡単な料理をする。その物音で彼女は寝返りをうち、大輔が近寄ると目を覚ました。
「…ん……んん…」
「大丈夫かい?」
「………」
目を開けた彼女は大輔を見上げると、ゆっくりと身体を起こした。
「……ここは…?」
「オレの部屋だよ。君が倒れたから運び込んだ」
「…そう…、それは、御世話になったわね」
「それほどでもない。君は軽かったから」
「………」
「君の名前は?」
「…………。南雲……霞」
答えた霞は足袋と長襦袢についた泥でベッドを汚してしまったことに気づいた。
「ごめんなさい。シーツを汚してしまったわ」
「ああ、替えはあるから、いいよ」
大輔はクローゼットの引き出しからキレイに整えてあるシーツを出して見せた。
「……キレイ好きなのね」
「そうかな? 普通だと思うけど。とりあえず、小銭入れを届けてくれて、ありがとう」
「………。どういたしまして」
霞は乱れていた髪を手で整え、これ以上泥が落ちないように足袋を脱いだ。真っ白い素足は美しいけれども、親指の付け根が擦れて赤くなっている。草履か、下駄で走ってできたような鼻緒擦れだった。
「足、痛む?」
「……平気よ」
「そうは見えないけど、君が平気というなら、そうなのだろうね。他に痛いところは?」
「…ないわ」
「それはよかった」
「………」
黙った霞のお腹が空腹で鳴った。
「お腹空いてる?」
「……ええ」
「じゃあ、小銭入れのお礼に、夕食を進呈しよう。オレも、まだ、だから」
大輔はキッチンへ戻ると、二人分の食事を用意して霞を呼んだ。
「たいしたものじゃないけど、我慢してくれ」
「食べられるものなら何でもいいわ。もう二日も食べていないから。いただきま……。これ、何?」
霞はテーブルに置かれた丼に箸を付けようとして、止まった。
「……これは、…なに?」
「玉子うどんさ♪ オレの得意料理なんだ」
「……たまご……うどん……」
丼には茹でたウドンと、そこに生卵を落としただけの月見ウドンとも呼べない状態のものが鎮座している。大輔は醤油を霞に渡してくれる。
「あとは、お好みで醤油をかけて、どうぞ」
「………。いただきます」
仕方がないので醤油をかけて玉子を混ぜると、ウドンを口にした。
「どう? 意外と美味いだろ?」
「…………残念すぎるで賞」
「そっか。姫様は、お気に召さないか」
「……。とても、お腹が空いているから、食べられるけれど、これは料理とは言えないわ」
それでも霞は食べきってしまい、まだ空腹が満たされなかったので大輔に二杯目をつくってもらった。
「見たところ、男の一人暮らしのようだけど、毎日、こんなものを食べているの?」
「夕食は基本的に、これかな♪」
「………。間違ってるわ。バランスが根本的に」
「そうでもないよ」
大輔は棚から栄養補助食品の瓶を何個も出すと、テーブルに並べた。
「バランスは、これで取れる。ウドンが炭水化物で、玉子が新鮮なタンパク質、あとはビタミンとミネラル、ほらね?」
「………」
「南雲さんも飲んでおいた方がいい。顔色が悪いから」
「…………ありがとう、いただくわ」
玉子とウドンだけでは満たされないので霞もカプセルや錠剤をもらったが、水ではなくホットナタデココジュースの缶を渡されて、戸惑った。
「……これで、…飲むの?」
「ああ」
「……そういう…ものなの?」
「水の方がいい?」
「できれば…」
「御意♪」
大輔は水を注いだグラスを霞に渡して自分はホットナタデココジュースで栄養補助食品を胃におさめた。霞も水で飲み込む。
「人間の食事とは言えないわ。洗濯や整理は完璧なのに、意外な穴があるのね」
「う~ん……天は人に二物を与えず、かな?」
「若いからって、油断していると病気になるわよ」
「ときどき言われるけど、オレは、そんなに若くない」
大輔が実年齢を告げると、霞は驚きのあまり立ち上がった。
「ホントにっ?!」
「ああ♪」
「……まさか…」
思い出したくもない父親の南雲孝明よりも年上とは信じられず、思わず大輔の頬へ触れてしまう。
「オレを、いくつだと思ってた?」
「……大学生くらいかと……」
「ははははは♪ これでも入社式より定年退職の方が近くなってるんだよ」
「…………」
孝明はアルコールと煙草に溺れて、もしかしたら怪しげな白い粉も吸引しているかもしれない。くたびれた老けた顔をしていたけれど、それを差し引いても大輔は若く見えすぎる。
「健康の秘訣でも、あるの?」
「まあ、週に3回のジムと、こいつら、かな」
「………効くんだ……こーゆーの…」
こいつら、と大輔が呼んだ健康補助食品の銘柄を、霞は覚えておくことにした。いくつかはテレビCMでお馴染みの商品なの記憶するのは難しくない。どうせ、ウソや誇張だと思っていた効果が、大輔を見ると少し信じたくなってくる。
「…………」
「………」
食事が終わると、不意に二人とも話題がつきて、時計を見ていた。すでに日付が変わっている。
「…………」
「……」
「…………。あなたの小銭入れ、少し使わせてもらったわよ」
「10%は拾った人の権利だったね」
「………。聞かないの?」
「なにを?」
「どうして、ここの住所が解ったんだ、とか…」
「入れておいた物に住所が書いてあったんじゃないかな……たしか…」
大輔は小銭入れをあけて中身をあらためる。
「ああ、このスーパーのポイントカードに、ここの住所がある。これを見た?」
「ええ…」
霞は大輔の反応に物足りず、使い込んだ額を告げる。
「ここに来る交通費、全部そこから頂戴したわ」
「なるほど、裏に入れておいた非常用の3万円を使ったのか」
「………。怒らないの?」
「もともと諦めていたのに返ってきただけでも、ありがたいさ。ポイントカードも、あと二つで満点になるし、中身より小銭入れそのものの方が高いからね」
「……………。……」
「君は、いい子なんだな」
「……どこが?」
「二日も食べていなかったのに、このお金を交通費以外に使わなかった。とても、いい子だ」
「……別に……拾ったお金で、何か食べるなんて、乞食のすることだからよ」
「気位も武家のように高い♪」
「……………」
「だから、意に染まぬ結婚を拒否して、ここまで来た。たまたま拾った小銭入れに、藤川から遠い遠い住所があり、そこまで逃げれば追っ手も来ないと考えて」
「っ…、どうして、そんなことまでわかるの?!」
「その着物は白無垢の花嫁衣装だったけど、今は角隠しと上着は脱ぎ捨てられている。昔だったら往来を歩けない下着姿だけど、現代でも十分に何事かなければ、そんな姿で外を歩きはしない。まして700キロも離れた福岡へ来る理由、そこのことを考えれば自ずと答えは見つかるからね」
「……………………」
「今夜は、もう遅い。あとのことは、明日、考えよう」
「……泊めてくれるの?」
「女性を夜中に放り出して、よく眠れるとは思えない。行く当てなんて無く、九州まで来てるんだろ?」
「……、ええ」
「じゃあ、風呂にお湯を入れてくる」
大輔は立ち上がると、霞の髪についていた枯葉を取ってからバスルームへ向かう。
「髪も洗わないと」
「ありがと…大輔」
「……。どういたしまして」
大輔は湯船に湯を入れつつ、クローゼットの奥から女物のパジャマを出してきて霞にタオルといっしょに渡す。
「これを使って」
「……、どうして、女物なんて、持っているの?」
「ああ、娘のだよ」
「娘っ?! …あ、でも……さっき聞いた歳だと……いても……」
霞は貸してもらったパジャマの柄が女物なのに格闘ゲームのキャラクターを描いた商品だったので、自分よりも年下を想像した。
「娘さん、おいくつ?」
「21の誕生日が終わったばかりかな」
「21っ?! 私より5つも上なのっ?!」
「……。16っ?!」
それまで雄然と余裕をもって話していた大輔も、霞の年齢を聞いて驚いた。
「君は16歳なのかっ?!」
「そ、…そうよ! 何かおかしいっ?!」
「…あ、…いや……たしかに法律上は16歳で結婚できるが……なるほど、逃げるわけだ」
「………。あと三日で17歳にはなるわ」
「…………。……」
「いったい、私のことを、いくつだと思っていたの?」
「……ずいぶんと大人っぽいから。19歳くらいかと……。うちの娘は18の頃でも君より幼くみえた」
「老けていて悪かったわね」
「そういう意味ではないよ。娘は可愛いし、君は大人っぽい、そういう違いだよ」
「……。…」
「君こそ、うちの娘が21だと意外かな?」
「ずいぶん子供っぽいパジャマだから、とても21歳とは思えなかっただけよ」
「ああ、これは単身赴任することになったとき、もしも、あすかが遊びに来ることがあったときのために買ったパジャマだから。……結局、一度も使ってないけど」
「……娘さんと仲、悪いの?」
「うまくいっていない時期もあったよ。オレが仕事ばかりで家庭を顧みなかったから。けど、今は、うん、まあ、悪くない。昼に藤川で会ったときの感触だとね」
「……そう…」
「一応、自慢の娘だから」
大輔は本棚から、あすかの写った写真を取り、霞に見せる。
「高校の入学式と、9歳でテレビに映ったときの写真さ」
「………。あ、…この……シーン、……ハッピーファミリー?」
「よく知ってるね。ずいぶん古いドラマなのに」
「再放送で何度も見たもの。そう……あの子……。今も女優なの? テレビで、あまり見ないけれど」
「まあ、なかなか芸能界も厳しくてね。長い充電中」
「そう……」
「そろそろお湯が貯まってるから、どうぞ」
「ありがとう、大輔」
「……どういたしまして」
霞と大輔は交代で入浴し、ワンルームマンションなので同じ部屋で眠る。大輔はベッドにもなるソファを入居して始めて変形させ、横になった。そろそろ、午前2時50分を過ぎようとしている。消灯して二人とも目を閉じたが、すぐに眠れなかった霞が小さな声を発した。
「ねぇ」
「ん?」
「テレビを…つけてもいい」
「どうぞ」
大輔がリモコンを渡すと、霞は小さな音量でテレビを見始めた。けれども、5分もしないうちに眠りへ落ちていった。
「………………………」
少し霞の寝顔を見つめていた大輔も睡魔に身を任せた。
朝、大輔はベーコンの焼ける匂いで目を覚ました。
「……」
起きあがると、霞がキッチンに立っている。朝食は食べない主義なんだけど、と思いつつも一宿一飯の礼のつもりだろう16歳のけなげさを買って顔を洗い、挨拶をする。
「おはよう」
「おはよう、大輔」
「……。ベーコンなんてあった?」
「下のコンビニで買ってきたの。また、少しお金を使わせてもらったけど。だって、ベーコンどころか、冷蔵庫の中、ウドンと玉子しかなかったわ」
「ああ、ホットナタデココジュースは常温で保管しているから」
「そうじゃなくてっ!!」
「ホットなのに冷やしたらダメだろう?」
「だからっ!」
「はははははは♪」
「……まったく…、玉子は堅焼きでいい?」
「どっちかというと……」
「いうと?」
「生卵が好きかな」
「……生で食べるの?」
「ちょっと醤油を落としてね」
「それじゃあ、夕食と変わらないじゃない」
「焼いてしまうと、あの白身のドロっとした感触がなくなってしまう」
「私は半熟が好き」
「黄身の味としては、それもいいね」
「じゃあ、半熟ね」
霞は玉子を四つ焼き、サラダとトーストも用意した。
「できたわよ」
「いただきます。この部屋で朝食を食べるのは、初めてかもしれない」
大輔が食べ始めると、霞も玉子を箸で裂く。
「いったい、どんな食生活をしているの……」
「朝は生卵とサプリメント、それにホットナタデココジュース」
「……人間らしい食事をしたいと思わないの?」
「昼は会社でパワーランチになるから、幕の内か、ランチコースになるかな」
「パワーランチ?」
「会議をしながら食事を摂ることだよ」
「それって味はわかるの?」
「胃腸にもよくない。けど、仕事だから」
「…そう…」
「そろそろ会社の時間だから行くよ。明日は土曜だから、君のことは今夜から考えよう」
大輔はジャケットを羽織ると鏡で身なりを整え、財布から五千円札を出した。
「週末だから帰りは遅くなるかもしれない。玉子うどんが嫌なら、これを使って」
「……ありがとう…ございます」
頭を下げる霞に手を振って大輔は出社する。東京での会議の結果を支社内に伝え、昨日の業務報告を受けながら昼食を摂り、来週からの行動予定を細々と指示しているうちに日は暮れ、セクハラを受けたと主張する女子社員と冤罪だと憤る課長の双方から事情を聞いて無難にまとめ、地元自治会が博多山笠祭りへの寄付金増額を求めてきたのを例年通りでおさめるよう指示をして、原材料費の高騰から納入価の値上げを打診してきた取引先に要求された値上げ額の3割までなら応じると直接に電話をかける一方で、他の納入先を検討するよう部下に命令し、気心のしれた営業課長に春人のために神奈川か東京あたりで求人を考えている取引先はないか心に留めておいてくれるよう伝え、時計を見て9時を過ぎているので霞のことを思い出して帰ろうとしたが、廊下で待っていたセクハラを受けたと主張している女子社員が対応に納得できずに涙ながらの主張をしてきたので話を聞き、人事課の部長に連絡をして次善策を講じるよう用意して女子社員には一週間の有給休暇を取らせて、会社を出たときには午前2時だった。
「いつも通りになってしまった………あの子、待っているだろうか…」
マンションに帰って、八階でエレベーターを降りた。
「……待っていたのか…。…ごめん、オートロックだったから……」
部屋の前に霞が小さく丸くなって座っている。そのわきには買い物袋が置いてあるので買い物に行って帰ってきたが部屋に入れなかったのが、よくわかった。
「ごめん、言うのを忘れていた」
「おかえりなさい、大輔」
「……、ただいま…。霞」
お互いの親子より歳が離れているのに呼び捨てにしてくる霞に合わせて呼びかけると、霞は花が咲くように微笑み、何時間も待っていた疲れも見せず、夕食を作り始めた。霞は炊飯器さえない大輔の部屋で玉子うどんではなく具材の多い鍋焼きうどんを作り、大輔が愛している生卵をそえた。
「できたわ。食べて、大輔」
「いただきます」
遅い夕食と風呂をすませると、また霞はテレビを見たまま眠った。
土曜日の朝、大輔は携帯電話の音で起こされた。
「はい、日名です。ああ、西野くん、それで? 彼女の件で? ああ…わかった。……できるだけ早くいく」
電話を終えると、同じく起きてしまった霞に謝る。
「すまない。仕事が入って、午前中いっぱいは会社へ行かないと……ごめん、君のこと考えてあげるって言ったのに……」
「気にしないで。仕事なら仕方ないわよ。ちょっとだけ待って、朝食を作るから」
「午後からは、必ず」
そう言って会社へ向かった大輔が帰ってきたのは霞がお昼のタモルを見終わり、くだらない旅番組の芦鹿島特集と再放送のドラマを2本も見た後で、そろそろ再放送のアニメが始まろうかという時間だった。
「遅くなって、すまない」
「お疲れ様、大輔」
「……霞、お昼は?」
「すぐに作るわ。大輔は何が食べたい?」
「いや、外で食べよう。毎回、霞に作ってもらうのは悪い」
「気にしなくていいのに」
「どのみち、買い物に出て、君の着替えを買わないと、いつまでもパジャマ姿というわけにはいかないから」
長襦袢を脱いだ後は、あすかのパジャマを着続けている霞の普段着と下着を買い求め、帰宅した頃には日が暮れていた。また、霞が台所に立った。
「大輔、夕食は何かリクエストはある?」
「あるには……ある」
「冷蔵庫にある材料で可能なら、何でもいいわよ」
「じゃあ、玉子うどん♪」
「却下」
「……何でもいいって言ったのに…」
「子供みたいな理屈を言わないの。毎晩同じものなんて身体にも脳にも悪いわ」
「バランスなら…」
「サプリメントに頼りすぎない」
霞は豚肉とトマトをキャベツで包んで煮込み、あまりオカズに合わないことを承知で玉子うどんも作った。それを見た大輔が嬉しそうに微笑んだ。
「やった♪」
「玉子は身体にいいからよ。でも、炭水化物を毎日うどんから摂るのは良くないわ。お米も食べないと。だから、ほら、おにぎりも」
「こんなに食べると太る……」
「そういう気づかいはするのね」
「太ると服が合わなくなる」
「プライド?」
「プライド♪」
軽口を言い合いながら夕食を終え、風呂上がりに霞はテレビをつけようとして、不意に本棚の家族写真に目をとめた。四人家族の写真には大輔と妻らしき女性、夫婦そろってプライドが高いようでスタイルがいい、不摂生な父やメタボ体形気味な天川の叔父とは違っている。そしてドラマで見た子役の成長した姿と、まるで大輔の弟かと思うような息子が父親そっくりの微笑を浮かべている。
「……」
「雄介が大学に入学したとき家族で撮った写真だよ」
「息子さんと、よく似てるのね」
「よく言われる」
「息子さんは今は何をしているの? 会社員?」
「いや…、まあ…、運が無くてね。死んでしまったよ」
「っ…ご、…ごめんなさい」
「こういうとき、人は謝るものだけど、やっぱり、謝られるのは落ちつかないな。霞が悪いわけじゃない。それに、もう四年も前の話だよ」
「……。…病気か、なにかで…」
「いや、事故だよ。転落事故でね。あっさり逝ってしまった」
「っ…」
転落事故と聞いた霞の顔色が青ざめる。
「っ…っ…ハァ…っ…」
「霞?」
「ハァ…ハァーっ…」
「顔色が悪い。こっちに座って」
大輔は湯上がりで火照っていたはずの霞が真っ青な顔をしているので、ベッドへ座らせて様子を見る。けれど、霞は落ちつかず、じょじょに呼吸が荒くなり、今度は真っ赤な顔になって激しく呼吸を繰り返している。
「ハァっ! ハァっ…苦しっハァ!」
溺れた人が岸にあがったような必死の呼吸をしているのに、どんどん苦しさが増すようで、支えている大輔の腕や背中に指が食い込むほど、抱きついて苦しんでいる。
「ハァヒッ! ハァヒィっ!」
「……過呼吸」
大輔の脳裏に過呼吸症候群という知識が浮かんだ。鬱病で退職した女子社員が何度か職場で倒れたときと様子が同じだった。それならば、対処法も同じだろうと、大輔は枕カバーを枕から引き剥がすと、霞の口元をおおった。
「んんっ?! んーーっ!」
「息をしない方がいい! 苦しくても息を小さくして!!」
「んんんっ!」
苦しくて呼吸しているのに呼吸を制限され、霞は本能的な抵抗をしたけれど、腕力の違いから押さえつけられ、そのうちに呼吸が落ちつき、死んでしまうかと思うような苦しみからは解放された。
「はぁ……はぁ……」
「落ちついた?」
「……」
霞は弱々しく首を振ると、啜り泣きはじめた。
「っ…ぅっ…」
「……」
大輔は黙って優しく頭を撫でると、霞が落ちつくのを待つ。けれども、霞は啜り泣き続けて明け方になってようやく眠りに落ちてくれた。そっと霞を起こさないように大輔は離れようとしたけれど、ずっと霞の両手が大輔のシャツを強く握っていて、眠ってしまったいまでも無意識で力を入れているので、離れるのは諦めた。
翌日の夕方、一週間の疲れが溜まった大輔は深い眠りから覚める前に、首筋へキスをされたような感触があったような気がしたが、確証もなかったので何も言わずに目を開けた。
「いま……何時?」
「6時よ」
腕の中にいる霞は少し前に目を覚ましていた様子だった。カーテンの隙間からオレンジ色の光が差し込んでいる。
「……午後の?」
「午後の」
「そっか……日曜日を寝て終えてしまったわけだ……」
「ごめんなさい。夕べ、私が…」
「いや、…いい」
どうやら転落事故という言葉が禁句になるらしい、大輔は昨夜の様子から霞が強いられた結婚だけで家出したわけではないと察したが、もう日曜日は終わろうとしている。今からでは何もできないし、月曜の朝は早朝出勤で片付けなければならない仕事が山積している。
「諦めよう。とりあえず、今日は」
「……何を諦めたの?」
「いろいろさ」
君が家に帰る気になるか、親御さんが心を入れ替えるか、とにかく君の家族関係を修復する方法を模索することをだよ、大輔は霞に抱きつかれたまま眠ったせいで硬くなった身体をほぐしてシャワーを浴びる。それから、二人で買い物に出た。
「明日から、また仕事だから。たぶん帰りは日付をこえていると思う」
「大変なのね。お仕事」
「大変なのさ、お仕事♪」
かなり過酷な勤務をこなしていることを自分で茶化してスーパーの向かいにあるケーキ屋に目をとめた。
「そういえば、霞は今日が誕生日だったけ?」
「ええ…、なりたくてなるわけじゃないけれど、17歳よ」
「そんな27歳を迎える未婚女子みたいな言い方しなくても」
「27歳になると、そんなに嫌なものなの?」
「あと3年で30の大台だからね。もう、いろいろと禁句があったりするんだ。上司の一言で大きなトラブルになったり、裁判になったりとね」
「私には理解できない世界ね」
「一人の人間に理解できている世界なんて多くはないし、最初から理解できていたら、つまらない」
大輔は小さなホールケーキを買った。
「とりあえず、お祝いしておこう」
「そんな……いいのに…」
「単身赴任のせいでね、娘の誕生日に帰宅できないことが多かった。もう高校生なんだからスルーしてもいいかって思っていたら、しっかり怒られた。そういえば、あすかが小さかった頃は、あすか自身の仕事も忙しくて、ろくに祝ってやれなかったから、ほんの数回しか、いっしょに過ごした誕生日が、ないんだ」
「その罪滅ぼしってわけ?」
「いや、誕生日ごっこをしたいだけ、かな」
「……。そう、そういうことなら、付き合ってあげてもいいわ。でも、子供扱いはイヤ」
「御意、お嬢さま」
芝居がかった物言いが、よく似合う大輔が微笑むと、霞は頬を赤らめて目をそらした。マンションに帰って二人だけの誕生日を過ごすと、大輔は仕事にそなえて早く眠る。
「お仕事、そんなに大変で身体は大丈夫なの?」
「健康管理はしてるさ。だから、夕方に起きたのに、今、寝る」
「でも、過労死ってあるわ」
「よく気づかってくれるね。まあ、仕事が面白くてやっている部分もあるから、大丈夫だと思う。イヤイヤやっていたら身体が拒否反応するだろうけど」
「仕事は……面白いの?」
「でなきゃやらない」
「うまくいってるの?」
「九州支社の売り上げを5倍にしたのは、このオレだっ、と胸を張って本社に言える立場は、なかなかに爽快なものさ」
「……すごいのね」
「運もあるよ。成功に必要なのは知恵と勇気、そして、ほんの少しの運さ」
そこまで言うと大輔は目を閉じた。
翌朝、大輔が目を覚ましたとき、霞はテレビの前で眠っていた。起こさないように、そっと身支度を整え、生卵とサプリメントを飲み込む。静かに大輔が出社したあと、残された霞は9時過ぎになって目を開けた。
「…大輔、……行ってしまったの…」
空になっているベッドの温もりを確かめ、もう冷たくなっているのでタメ息をつくと顔を洗い、冷蔵庫をあけた。
「一人だと作る気がしないものね。………大輔が食べているなら…」
霞も生卵に醤油を落として飲み込んでみる。
「…うぅ…」
どろっとした白身が喉を通りすぎていく感触が、気持ちいいのか、気持ち悪いのか判然としない。
「生だと熱を通すよりビタミンが多く摂れるのは、たしかだけど……美味しくないわ」
いくつか、大輔が飲んでいるサプリメントも飲ませてもらい、部屋の掃除と洗濯をしていると、タモルの時間になった。家事の手を止めてテレビの前に座る。
(お昼休みは♪ ウキウキ…)
今日もタモルは元気そうで、彼の健康管理も入念なのだろうと霞は感心する。
(今日のゲストは、KANATAさんです! どうぞーっ!)
(ハーイ♪)
あまり霞は好きではない破天荒なモデルが映っている。
(さっそくですが、KANATAさん、実は同性愛者なんだって?)
(さあ?)
(またまた)
(たまたま♪)
(きん)
(たまたま♪)
((イエェーっ!))
タモルとKANATAがハイタッチしている。話のノリは最高潮のまま、性癖の実態についてはタモルの追求をもってしても明かさない。見応えのあるインタビューになっていた。
(KANATAさん、かわしが巧いね。あいかわらず回避率高い!)
(そう?)
(だから、すごいよ)
(何が?)
(KANATAさんに、自白させちゃったラジオのパーソナリティさん。たしか、かん…)
(神奈ちゃんね)
(そう、神奈ちゃん。彼女すごいね)
さりげなく明日のゲスト候補をリクエストしているタモルだったが、KANATAは別の相手に国際電話をかけた。
(ハーイ♪ ほたる、テレビ見てる?)
(見てないけど……どうしたの? 何か事件? また、テロ?)
電話の相手はテレビを見ていなかったのでタモルが軽く姿勢を崩してみせる。KANATAは白河ほたるが見ていないことを予想していたので、まったく動じない。
(今さ、タモルからかけてるんだ♪)
(タモル……? …タモルっ?!?! あの、お昼の?!)
(うん、お昼の)
(ちょ、ちょ、っ、ちょっっと! ちょっと待って! こっち夜だから!)
(待てないよ、もうかけちゃった♪)
(かけちゃたって……、ほたるがウイーンにいるのわかってる?!)
(わかってる♪)
(無理だよ! 間に合わないよ! それに、ほたるは一般人だもん! 芸能人じゃないから、パスして! パス! スルーっ!)
(ほたるは芸能人だよ。ピアノ芸能世界一♪)
(だ…だけど、…テレビは…、…)
(もう、かけちゃったから。タモルをがっかりさせないでね)
(で、でも! こっちは夜中過ぎなんだよ?! 今から空港に行っても乗り継ぎ便が悪いと、正午に都心なんて無理っ!)
(大丈夫♪ りかりんのパパに頼んでフランクフルト空港に自家用ジェットを用意してあるから、ぜんぜん間に合う! 成田からヘリで行ける♪)
(……確信犯……、テロリスト…)
(完全計画犯罪♪ じゃ、バーイ♪)
かなり相手は迷惑そうだったのにKANATAは気にせず電話を切った。
「………私には理解できない世界ね……」
霞はタモルが終わったので腰を上げ、バスルームを掃除する。洗濯物を干してから簡単な昼食を摂ると、再放送のドラマを見て、洗濯物を畳みながらテレビ高校講座で物理と数学の学習を済ませると、英会話も学び取り、夕食の下ごしらえをしてからゴールデンタイムの放送に食い入る。
「やっぱり再放送より面白いわ」
バラエティ番組を見終わると、映画を見る。
「やっぱり映画っていいわ」
映画が終わってしまうと風呂の準備をしておく。まだ11時なので大輔が帰ってくるのは、もっと遅くなるだろうと夕食を加熱するだけでいい状態まで調理すると、またテレビの前に座った。夜のタモルの空耳アワーを見て、50年以上昔の西部劇を見終わった頃、大輔が帰ってきた。
「おかえりなさい。大輔」
「ただいま」
「すぐに食べられるようにするわ。お風呂も」
お湯を入れながら料理を温める。大輔は17歳にしては家事能力が高すぎることを珍しく思ったけれど、よほど実家が嫁ぐにあっての花嫁教育を徹底していたのだろうと推察し、そのことについては何も言わず、仕事の疲れから霞のことは深く考えずに眠った。
翌朝、大輔はテレビの前で眠っている霞を起こさないように身支度を整えようとしたが、かすかな気配で霞は目を覚まして朝食を作ってくれる。玉子うどんに焼いたベーコンとホウレン草という大輔の好みを反映しつつ、バランスを考えた朝食だった。
「ごちそうさま。美味しかった」
「よかった」
霞が嬉しそうに微笑んでくれるので大輔も気持ちよく出社する。山積している仕事を順序よく片付けていると、疲れを感じる頃には日が暮れている。
「西野くん、2時間ほど席を外す。戻るまでに、これと、これ、各課長に検討しておいてもらって」
「はい、支社長。いつもの、ところですね?」
「ああ」
所在を明らかにしておくのも支社長の義務なので行き先を告げて会社を出ると、スポーツジムで身体を動かす、心地よい汗を流した後、会社へ戻る道すがら駅前の通りでタモルに似た男性を見かけた。
「…」
少し禿げた髪をオールバックで撫でつけて眼鏡をかけている。これでサングラスだったなら、ちょっとメタボ気味のタモルそのものだとテレビを見ることが少ない大輔でさえ思うような男性だった。その男性は通行人に声をかけていたが、大輔にも声をかけてくる。
「ちょっと、すいません」
「はい?」
「このあたりで、この少女を見かけませんでしたか?」
「……」
大輔は霞の写真を見せられて黙り、もう一度、男性を観察する。タモルのようなオールバックだが怪しい人物には思えない。ただ、ずいぶんと疲れた様子だった。
「いえ、知りません」
「そうですか、お手間を取らせました」
大輔に頭を下げると、次の通行人に声をかけている。少し様子を窺った後、会社に戻って日付が変わるまで働くと、マンションへ帰った。
「ただいま」
「おかえりなさい、大輔。早かったのね」
「火曜日だからさ。どうしても週の初めと週末は遅くなるから、週の中日くらい午前様にならずに帰りたいけど、結局は、もう1時か……ふーっ…」
タメ息をついた大輔にホットナタデココジュースを渡してくれる霞の心遣いが嬉しかった。霞が食事の用意をしてくれている後ろ姿を見ながら、夕方のタモル似の男性のことを告げるべきか迷ったが、夕食が終わってから話した。男性の特徴を告げると、霞は覇気のない声をこぼした。
「その人は…きっと……天川の叔父さん……」
「叔父?」
「でも、どうして、ここが…」
「君は目立つカッコで来たからね。記憶に残っている人も多いだろう。藤川駅で聞き込みをして、福岡だと知り、いずれは、このマンションにたどり着くかもしれない」
「……………」
「叔父さんが、どうして姪の霞を?」
「…………私の家と、……天川の家は、…もともと一つの本家から派生しているの…」
「それで?」
「けれど、天川の娘さんは…、…っ…ハァっ…」
話している途中で霞は具合が悪くなった。呼吸が速くなり、冷や汗を浮かべている。大輔は話すのをやめさせてベッドへ促した。
「今日は、もう、おやすみ」
「…大輔……」
「そばにいるから」
大輔が手を握ると霞は小指をからめるようにして握りかえした。
「ちゃんと、そばにいてくれる?」
「ああ」
「ずっと、離れないで」
「…ここにいるから、安心して眠って」
「うん」
霞は大輔と手を握ったまま、眠りについた。
時間をかけて霞の事情を確かめることにして、とくに大きな変化もないまま、深夜に帰宅して少し話して、また翌朝出勤という生活を繰り返した五日後の朝、出勤しなくていい日曜日なので深夜まで二人でテレビを見ていた大輔と霞は玄関の気配で目を覚ました。勝手にドアが開いていて、ガチャガチャとチェーンの鳴る音がしている。
「パパっ♪ 遊びに来たよ! 開けて!」
あすかの明るい声が部屋に響く。まどろみから一気に醒めた大輔は寝ぼけている霞の口を手で押さえる。
「早く開けてぇ♪ ママもいるよぉ!」
「……」
状況は最悪だ、落ちつけ、クールに考えろ、ああ、そうだ、えりかたちには合い鍵を渡してあった、だから、ドアを開けられた、けど、幸いにしてチェーンロックがあった、だが、逆にチェーンロックをしていることで居留守は使えない、しかし今まで一度も来なかったのに、どうして急に、いや、その追求は後だ、まずは全てを隠さなくては、完璧に、大輔は考えを巡らせながら霞を静かに起こす。
「目を覚まして、霞」
「…ん…、朝食なら、すぐ…」
「違う。妻と娘が急に遊びにきたんだ。静かに隠れてくれ」
「……」
霞も事態の深刻さを認識した。あすかの明るい声と大輔の切羽詰まった声色で、自分が置かれている身分が理解できる。ここを追い出されないためには隠れるしかない。
「クローゼットに…」
「ダメだ。そこじゃ見つかるかもしれない」
「じゃあ、ベランダか、お風呂場?」
「もっと、ハイリスクだ」
「………。ベッドの下? ……」
霞が困ると、大輔は天井を指した。
「そんな忍者みたいなこと、私…」
「大丈夫、点検口がある。これは十円玉で開くんだ」
大輔は静かにイスをもってくると、天井へ手を伸ばして45センチ四方の点検口を開ける。天井板とマンション構造体のコンクリート壁の間には狭いが霞ならギリギリ入り込めそうな隙間があった。
「霞」
「うん」
霞は抱きあげられると、点検口へ入る。よく鍛えている大輔は難なく天井まで霞をあげてくれるけれど、さすがに隙間が狭くて、かなり苦しい姿勢で押し込まれてしまった。
「ぅぅ…狭い…」
「声も物音も立てないで」
「わかってる」
「じゃ、閉めるから」
大輔は点検口を閉めると、十円玉で止め金も回した。
「あとは物品だ…」
「パパぁっ! 早く開けて!!」
「……まず、あすかを黙らせよう」
大輔は玄関へ向かう。
「パパっ!」
「あすかか?」
今起きたばかりのような寝ぼけた声を演技してドアの向こうの娘に声をかけた。
「うんっ♪ 驚くと思って連絡なしで来たの!」
「……驚いたよ……とても…」
「早く開けて」
「ああ、ちょっと、待ってくれ。先週から忙しくて部屋の中、ぐちゃぐちゃだから、せめて10分、片付けさせてくれ」
まだ寝ぼけているという声を出して、ロックを外せとチェーンを握ってガチャガチャやっている娘をおいて、まずは霞に買い与えた靴を手にする。
「……」
玄関はよし、次は部屋だ、大輔は部屋の中にある衣服や下着を手際よく集める。さらに洗面所やバスルームにある歯ブラシや排水口の髪の毛、冷蔵庫の中のウドンと玉子以外の食材も回収した。
「ほんの10日なのに、けっこうな量に……」
霞が寝泊まりするようになって、まだ10日だったが、かさばる長襦袢も含めるとゴミ袋にして二つ分くらいになってしまった。
「どこに隠す……………………」
クローゼットやベランダ、ベッドの下は霞の提案だったが、リスクが高い。
「いっそベランダから下に投げて…」
食材は買えばいい、けれど、長襦袢まで下へ投げ捨てるのは躊躇われる上、けっこうな量であり八階という高さなので、もしも下に人が出てきて直撃したら怪我ではすまない、明日の福岡新聞を飾ってしまうかもしれない、やはり天井裏が一番だった。小声で霞へ声をかけてみる。
「霞、君の荷物、入れられるスペースある?」
(…む…無理…)
苦しそうな霞の声が聞こえる。天井板は石膏のボードを金具でコンクリート壁から釣り下げているだけの構造なので霞の体重でも動き方によっては穴があくかもしれない。それを考えて慎重に身じろぎさえしないでいる霞に、これ以上の負担はかけられない。
「パパっ!! まだぁ?!」
「早くしてよ! この後、観光に行きたいのよ!」
えりかまで待ちかねて玄関で叫びだした。
「くっ……諦めるな……頭を使え……諦めたら、そこで試合終了だ…」
大輔は諦めずに考え、そして閃いた。
「もう一つ点検口があった!」
霞の荷物をもってバスルームに飛び込む。ここにも点検口が一つある。イスを持ってくる時間もないのでバスタブの縁を足場にして円形の点検口を押し上げた。
「よし、なんとか入る」
霞の荷物を天井裏に入れ込むと点検口を閉じる。けれど、わずかな安堵感から気を許したために足を滑らせてしまった。
「うわっ?!」
倒れる、そう思って何かを掴もうと手を伸ばすと、何かを掴めた。おかげで倒れずに済んだけれど、掴んだのはシャワーのコックで頭から水をかぶってしまった。
「…………」
ちょっとミジメな気持ちで濡れたパジャマの上着を脱ぐと、そのパジャマで顔を拭いて洗濯機へ放り込む。
「あ…」
夕べ霞が洗濯機にいれた女物の下着のことを思い出して、それも洗濯槽から取り出すと、点検口へ再び入れる。
「これでよし。もう、ないな? 痕跡、ゼロだよな?」
自問自答して室内をチェックした後、ようやくチェーンロックをあけた。
「もう! 遅いよ、パパ!」
「急に来るから…」
娘と妻を迎え入れて、大輔はコーヒーを淹れる。あすかが初めて訪ねる父親の単身赴任先に目を光らせて好奇心を発揮している。
「お宅っ拝~見のコーナー♪ まずはァ! お風呂!」
「やると思った。それで、えりか、どうして急に訪ねて来たんだ? 遠かっただろ?」
あすかが捜索活動していることは、あえて止めない。まさか点検口の中まで見るようなことはないだろうし、下手に慌てると逆に勘ぐられるので好きにさせつつ、急な訪問理由を妻に問う。
「あなたのおかげよ」
「オレの?」
「春人くんの就職口を紹介してくれたじゃない」
「ああ、営業課長に話はしたけど……」
「一昨日、あなたの部下から連絡があって、神奈川か静岡に営業所を計画している取引先が、春人くんと会ってみたいって。つまり面接してくれることになって、で、引率♪」
えりかは右手を出した。
「交通費と観光のお小遣い、頂戴♪」
「……、急に来るとATMにも…」
大輔は財布から5万円を出すと、えりかに渡した。
「あ! アタシも! あすかも欲しい!」
「二人で5万円だ」
「え~っ…それじゃ、新幹線代にも……」
ぶつぶつと文句を言いつつも願いを諦めた娘は勝手にクローゼットを開ける。
「何か面白いもの無いかなぁ~♪」
「ないから、散らかさないでくれ」
大輔は早く帰ってほしいと思いつつも、その素振りは見せずにソファへ座る。
「いろいろ案内したいけど、こんな急に来られても…」
「仕事が? でしょ」
「ああ…、悪いけど、日曜も色々あるんだ」
「わかってるわ」
えりかは手土産にもってきたケーキの箱を開ける。手作りケーキだった。
「ほんの少し、ここを眺めたら、あすかと観光に出るわよ。夕方には春人くんの面接も終わるでしょうし、最後の新幹線で帰るわ」
「そっか」
内心で安堵しつつも、残念そうな顔は続ける。あすかは一通りの探索が終わって食品棚から見つけたホットナタデココジュースを持ってきた。缶を開けると大輔が淹れたコーヒーへミルク代わりに注ぐ。三人ともホットナタデココジュース入りのコーヒーを飲みながらケーキを食べて談笑する。すぐに帰れともいえず、大輔は笑いながら、天井裏の霞が気になるけれど、やたらと見上げたりはしない。一点の不信感も妻と娘に与えないつもりだったのに、とうとう娘が霞の痕跡を見つけてしまった。
「パパ……」
「ん?」
「どうして、こんなにテレビの予約録画してるの?」
「…あ」
「ここ一週間くらい、すごい量……」
あすかは勝手にテレビをつけて録画リストをチェックしている。大輔は一度も使ったことのない録画機能を霞が使っていたのを忘れていた。物証は隠したのにデジタル的データが発覚の契機になりかけている。
「しかも、ジャンルもバラバラ……古いドラマに、英会話、タモル…」
「そ、それは…」
「パパってタモル、好きだっけ?」
「あ、ああ、ここんとこな。うん、まあ、…会社の広告をテレビCMでも、とか、そういう話もあってな。ちょっとチェックしていたんだ」
大輔の説明に、えりかがタメ息をついた。
「あいかわらず仕事にからまないと興味がないのね。ホントに仕事人間」
「はは、はははは♪」
笑って誤魔化すのが一番、大輔は爽やかに笑った。そんな薄氷の下に地雷があるような会話を続けているうちに一時間近くが過ぎていく。そろそろ霞が限界かもしれない。大輔は立ち上がって身支度を整える。
「悪いけど、そろそろ仕事に…」
「「いってらっしゃい♪」」
「ぇ……」
「私たちはケーキを食べ終わってから、出るわ。気にしないで」
「あ……けど…」
えりかは合い鍵をもっているので大輔が出勤してしまっても戸締まりができる。何の問題もなく夫を送り出そうとしているが、まさか霞を残したまま部屋を出ることはできない。大輔はポルトキーゼ社製のクロノグラフを見る動作をした。
「まだ、もう少し時間はあるか…」
大輔はイスに座った。あすかは春人の面接がうまくいくか心配しながら、ケーキを食べている。えりかは福岡の観光雑誌を見ながらケーキを食べている。
「………」
大輔は所在なげに妻と娘を見る。
「ハル先輩、ここの会社に決まったら、営業所ができるまでは、こっちで働かないといけないのかなぁ……そうなったら、あすかも福岡に来ようかなァ」
「ダメよ、同棲なんて」
「ぅぅ……先手を打たれてる。でも、心配なんだもん。ハル先輩がアタシというものがありながら、また、麻尋さんのときみたいに…」
「それなら、あすかは、ここに住みなさい」
「え~……」
「ぃ! いや、ここはワンルームだから!」
「何、本気にしてるの? どっちもダメに決まっているでしょう。春人くんが福岡に決まったら、しばらくは遠距離恋愛しておきなさい」
「う~……」
「そういえば、マヒロさんというのは、あの仙堂の麻尋さん、なのか?」
大輔は話題を変えようとする。
「…うん……そう…だよ…」
「いや、話したくないなら話さなくていい」
「ううん、パパにも……いつか、話さなきゃいけないことだと思ってるから……」
あすかは少し迷って、えりかが無関心そうにホットナタデココジュース入りコーヒーを飲んでいるので、話すことにした。
「長い話になるよ」
「な…、…いや、…今は、そろそろ仕事に…」
「でも………、うん、また、ゆっくり…」
あすかが断念し、えりかはコーヒーを啜る。そのコーヒーカップに天井から何かが落ちてきて、水冠が波立つ。
「っ?」
えりかが天井を見上げると、顔に何か液体がかかった。
「きゃっ?!」
慌てて飛び退く。
「なによ、これ?!」
「ママ?」
「えりか? ………」
大輔は点検口の隙間から、何か液体が零れてくるのを見て絶句した。タンポポ色の水滴が、えりかが座っていたソファに降り注ぎ、水たまりができていく。
「……霞…」
考えてみれば霞は起きたばかりのまま点検口に押し込まれている。かなり無理な姿勢で長時間なるので生理現象を耐えきれなくなるのは自然なことだった。大輔は急いでフォローする。
「こ、これはだ! う、上の階からの水漏れなんだ!」
「水漏れ? 高層マンションなのに?」
えりかは濡れてしまった顔をハンカチで拭いて、不快そうに匂いを嗅ぐ。
「………下水?」
「か、管理会社に電話しないとな。と、とにかく、そろそろ、えりかたちも観光に出たら、どうだ? 日帰り旅行なんだろ? 時間がなくなるぞ」
「そうね」
えりかとあすかを押し出すようにして部屋から送り出すと、大輔は雨漏りのように濡れている天井へ声をかける。
「霞……、今、開けるから」
「……」
聞こえている様子だが、返事はない。大輔は十円玉で点検口の止め金を回して、ゆっくりと開ける。ザァ、と点検口の上に溜まっていた霞の小水が降り拡がり、パジャマ姿の霞が見える。
「ゆっくり、足をおろして」
「………」
言われた通りに霞は濡れた足をおろして大輔に支えてもらいながら、天井から床へおりる。天井裏で身を伏せていたおかげでパジャマも髪も、全身がずぶ濡れになっていた。
「大丈夫? 霞…」
「…………」
おろしてもらった霞は顔を伏せて表情を見せない。肩が小刻みに震えていて、とても可哀想な姿だった。天井裏にはマンションが建築されたときから降り積もっている埃もあり、濡れた霞の全身が埃まみれになっている。大輔はバスタオルをもってきた。
「とりあえず、シャワーを浴びておいで」
「………」
顔を伏せたまま霞は汚れたパジャマと下着を脱ぎ始める。これ以上、床を汚さないようにと、その場で脱いでいるので大輔は目をそらせて待つ。霞は全裸になるとバスタオルを身体に巻いた。そのタイミングで、あすかが戻ってきた。
「ラララ♪ 忘れ物ぉ♪ アタシの忘れ物ぉ♪」
鍵をかけていなかったドアがチャイムも無しに開けられ、あすかの瞳に父親と見知らぬ若い女性が飛び込む。
「っ…」
「ぁ……あすか…」
「…パ…パ…」
あすかは自分よりも幼そうな女子が半裸で父親といる姿を見て驚愕し、そして失望した。あすかの瞳が光を失い、雄介が死んだときのような暗澹とした目になり、だらりと肩を落とした。
「そう……だよね。……単身赴任……長いもんね…」
「あすか?」
「パパだって男だし……」
あすかは失望を諦観にかえ、暗い瞳でタメ息をついた。
「だから、さっき、様子が変だったんだ。あすかとママを早く帰らせようと…」
「まっ! 待て、あすか! 誤解だ!」
「あすかは、いいよ。ママには黙ってる。で? それ、どうしたの? デリバリー? それとも援助?」
「…あすか………」
娘の口からデリバリーヘルスや援助交際という単語が出てくることに悲しさを覚えながらも、大輔は誤解をさける。
「聞いてくれ!」
「値段を?」
「違う!」
「ケータイなんて忘れなきゃよかったなぁ……知らないでいれば……」
あすかはテーブルに置き忘れた携帯電話を取ると、顔を伏せたままの霞が濡れていることと、開いたままの点検口を見比べ、霞の失禁に気づいた。
「かわいそー……。ここに隠して…………みじめ…」
1%の同情と99%のさげすみを込めて霞を見下す。
「よく売りとかできるね。お金目当て?」
「あすかっ!」
「それとも生きていくため? 家出? 興味本位? 親はいないの? 恥ずかしくない?」
「……………………」
親という単語に霞が反応して、聴きたくないというように耳を手で塞いだ。その動作でバスタオルが落ちてしまい、尿の染み込んだ埃まみれの裸体があらわになる。
「汚っ。ホントにみじめ…」
「あすかっ!!」
パシンっ!
あすかは父親に頬を打たれて、顔を真っ赤にした。
「ぶった……。パパにもぶたれたことないのに!!」
「……。…」
そういえば、初めて叩いてしまった、だからって、その古典的言い回しは、どうかと思うが、とにかく今は誤解させたまま、えりかまで来たら大変だ、大輔は娘の肩を抱いた。
「あすかっ! 聞けっ!」
「イヤっ! 離して!」
「彼女とは何でもない! 誓っていうが、愛人でも売春でもない!」
「うそっ!」
「本当だ!! 一度たりとも性的な関係をもったことはない!!」
「じゃあ、どうしてパパの部屋にいるの?!」
「それは彼女の事情で行くところがなく、仕方なく、ここにいるんだ」
「なにそれ?! もっとマシなウソつけばっ?!」
「本当だ! 信じろ! パパを信じろ! 絶対に性的な関係じゃない!!」
「…………」
父親の剣幕と真剣みに押され、信じたい気持ちも働いて、あすかの瞳に光が戻ってきた。
「……ほん…とう……に?」
「ああ、誓って本当だ」
「………お兄ちゃんに…誓える?」
「誓える。雄介の名にかけて誓う」
「……………………。わかった。……けど、どうして隠したの? 本当に事情があるなら、あすかとママにも言えばいいじゃない」
「えりかは……ママは、ああいう人だから、あすかほど、オレの言葉を冷静に聞いてくれるとは思えなくて……」
「……。そう……だね。ママは……ああいう人だから…」
あすかの脳裏にケーキを壁に投げつけたり、どう考えても不可能な突き落とし殺人を決行したと言い張る母の姿が走馬燈のように流れた。
「ママは……信じないかも…」
「だから、とにかく今は、えりかまで戻ってくる前に…」
「うん。わかったよ、パパ」
あすかは納得して携帯電話をポケットに入れると、顔を伏せて耳を塞いでいる可哀想な少女を見つめた。
「……ごめんね、…」
それだけ言うと外へ出て行く。今度こそ、大輔は鍵をかけてチェーンロックもする。振り返ると霞は裸体のまま立ちつくしている。
「…………」
「……お湯をはってくるから」
大輔はバスルームに入り、お湯のコックを回してから、バスルームの点検口を開け、霞の荷物を取り出した。着替えの下着と衣服を脱衣所に置いてやり、まだ立ちつくしている霞の肩を抱いてバスルームへ導く。さっとシャワーで身体の埃を洗い流してやると、大輔は脱衣所へ出てドアを閉める。しばらくして髪や身体を洗っている気配がしてきた。
「ふーっ……」
大輔は安堵のタメ息をついて濡れたソファや床を片付け、パジャマやタオルを洗濯機に入れる。
「あとは……天井かぁ…。これは染みになるかもな」
濡れた天井は石膏ボードなので清掃の仕方がわからない。とりあえず、点検口を閉めてタオルで軽く拭いた。そのうちに霞がバスルームから出てきた。
「…………」
「…………」
着替えて髪はタオルで巻いている。霞は大輔へ頭を下げる。
「…………。すぐ……朝食をつくります…」
「いや、別に…」
「………」
朝食を作ると言ったわりに霞は一歩も動かず、そのまま座り込むと両手で顔をおおった。その肩が震えて、すぐに大粒の涙が指の隙間から溢れ出してきた。
「ぅぅっ…くうぅっ…ひううぅっ…ううううっ…」
「霞……」
一週間前に17歳の誕生日を迎えたばかりの一番デリケートな年代の少女が背負いきれない恥を背負い、泣き崩れている。
「ぅぅううぅ…うああっ…」
「…霞…」
大輔は駆けよって霞の背中を撫でた。考えてみれば、泣くのを今まで我慢したこと自体、よく耐えたと想える。えりかがいるうちに、濡れた天井から啜り泣く声が聞こえて不信感を与えても不思議ではなかったのに、それを耐え、あすかからの侮辱にも耐え、気丈にも朝食をつくろうとまで言ってから、嗚咽を決壊させた。その泣き声で大輔も胸が痛む。
「ごめん、本当にごめん」
「…ううぅっ……ぅぅっ…もう、私、お嫁に行けないっ…ぅぅっ…」
「………」
ギャフンという言葉をリアルに言う人に出会ったことがないように、もうお嫁に行けないというセリフも冗談で発するのでなく、心の底から本気の本気で言う人がいるとは思っていなかったので大輔は一瞬、冗談かと思ったけれど、霞の言い方も涙も本気だった。
「ぅぅっ…うぁぁっ…もう、私…ぅぅ…」
「……」
「お嫁に……いけない…」
「そ……そんなことないって! 君みたいな可愛い子なら絶対いける」
あまりにも本気で泣いているので大輔も本気で慰めるために肩を抱くと、霞は涙目で大輔を見上げた。
「ぐすっ…っ…ほんとに?」
「もちろん♪」
「じゃあ、大輔がもらってくれる?」
「……、いや…それは…」
さっき、女房と娘を見たじゃないか、オレがもらえるわけないだろ、というツッコミだけは涙が本気のようなので飲み込んだけれど、大輔が言葉を濁すと霞は涙を滝のように溢れさせた。
「やっぱり、もう、お嫁にいけないんだっ…ぅうぅあああああ!」
「いや、だから、そんなことないって!」
慌てて慰め、背中を撫でて落ちつかせる。しばらく大泣きした後、やっと涙が止まりかけた。
「ひっく……ぅぅ…」
「大丈夫、泣かなくても、霞なら絶対お嫁にいけるから。オレが保証する」
「ぐすっ…っ…ほんとに?」
「ああ、本当に」
「じゃあ、大輔がもらってくれる?」
「………、…」
そこに戻るのか、大輔が曖昧な大人の笑顔で霞の頭を優しく撫でて誤魔化そうとすると暗黙の否定を機敏に察知して霞が悲鳴のような泣き声をあげる。
「ぅっ…ぅっ…うああああああぁあぁ! ひぅぅぅ…」
「……。泣かないで、な? 泣いたら、せっかくの美人がもったいない」
誉めてみたり、あやしてみたり、大輔は色々と慰めを言ってみたが、結局は泣きやまず、挙げ句に泣き過ぎて過呼吸の発作まで起こしたので、とうとう大輔は緊急避難的に折れることにした。
「オレが守るから」
「…大輔…」
「オレが君を守るから、もう泣かないで」
霞の手に騎士が王女にするようなキスをして抱きよせた。
「必ず、君を守る」
「……ほんとに?」
「本当に」
「……ゆびきり…してくれる?」
「…………」
「ぅっ…ぅぅっ…」
「する! するから! もう泣かないで!」
大輔と霞は小指をからめた。
「大輔」
「…霞」
「ずっと離れないで、お願い、大輔」
「…。ああ、ずっと君を守る。だから、霞。もう泣かないでくれるかな?」
「うん」
やっと霞は納得して頷くと、気絶するように眠りへ落ちてしまった。大輔は抱きあげてベッドへ寝かせ、裸のままだった霞にシーツをかける。
「……困ったな…」
かなりの疲労感を覚えて時計を見ると、午後4時過ぎ、えりかたちが来たのは午前中だったから5時間以上も霞は「もうお嫁にいけない」と「大輔がもらってくれる?」を繰り返して泣いたことになる。
「疲れた………、オレも寝たい」
朝から何も食べていないのに、疲労感が強くて空腹感が少ない。大輔はホットナタデココジュースを2本続けて飲むと、ソファに寝転がった。
「ゥっ…まだ、濡れて…」
ソファは霞の小水で湿ったままだったけれど、大輔は疲労感に負けて、そのまま目を閉じた。えりかたちが来なければ昼過ぎまで寝ているつもりで昨夜は夜更かししたので、目を閉じると8階から転落するようなスピードで眠りに落ちた。そのせいか、久しぶりに雄介の夢を見てしまう。夢の中の息子は走馬燈のように、幼い頃、いっしょに秋田の海岸で貝拾いをしたときや地元の祭りでナマハゲを怖がっていたとき等から、急に成長して高校時代の姿になり、あまり想い出もないまま、今度は死後に発見されたビデオテープの中の姿になっていたりした。