「ガマンできる霞が好きだ」
「………………、ずっと、いっしょにいてくれる?」
「ああ、約束する。ゆびきりをするかい?」
「うん!」
喜ぶ霞と小指をからめて約束する。それで安心した霞は眠りに落ちてくれた。
翌朝、大輔は起きあがると隣で眠っている霞を起こさないように身支度をして、メモ書きを残す。
今夜も遅くなる。どうしても不安だったら、支社長室の直通電話にかけて。
電話番号とテレホンカードを置いておく。えりかが女優として売り出したばかりの頃、まったく売れずに大量に残ったテレホンカードを秘かに買って名目売上を増したものが、まだ何百枚と残っているので、その一枚をテーブルに置いたけれど、霞の年齢を考えるとテレホンカードというものを知っているか、不安になってくる。
「……知ってるかな……」
今どきの女子高生なら女子高生なりに知らないかもしれないし、ワックに入ったことのないほどの良家の子女なら子女なりに知らないかもしれない。えりかの顔を霞は見ていないので、その面での不安はないが使い方がわからずに会社まで来られると困るので、使い方も書く。
これはテレフォンカードといって、公衆電話の専用差し込み口へ入れると、小銭がなくても電話ができるよ。
昼休みにワックで会えるようにするから、待っていて。
静かに準備を終えると会社へ出勤した。昨夜の霞のことで社内の雰囲気が変わっていることも覚悟していたが、目撃した社員が黙っていてくれたようで特別なことはなく仕事を進めることができた。昼休みにワックへ行くと、霞が待っていてくれた。
「待った?」
「…27分」
「ごめん。ちょっと寄り道をしていたから」
「どこに?」
「キッドホンの店に整理券を取りにね。食べ終わったら霞のケータイを買おう」
「………」
「嬉しくない?」
「………いいの? 私……あなたに迷惑ばかり…」
「いいよ。気にしないで」
正常なときは正常な反応をしてくれるんだな、大輔と霞はワックで昼食を済ませると、キッドフォンの福岡支店へ入る。入る前に、霞に身分証明書がないことはわかっているので、日名あすかと名乗るように教えておいた。問題なく携帯電話を手に入れることができ、大輔は会社へ、霞はマンションへ戻る。部屋に帰った霞は干しておいた洗濯物を片付けてからTVを見ながら携帯電話の説明書を読む。登録電話番号は一件だけ、メールアドレスも大輔のものだけという淋しい携帯電話を大切そうに抱いてTVを見る。
「そろそろ夕飯を支度しなきゃ」
夕方になってキッチンに立ち、TVのクッキング番組で見て覚えた栄養バランスを考えた料理を作り、風呂の用意もして、あとは大輔を待つだけになる。
「…………………………」
TVがゴールデンタイムの終了とともに面白くない番組になっていく。
「………あ、大輔のケータイだけじゃなくて、会社の番号も登録しないと」
メモ書きに残されている番号も登録すると、一件増えただけなのに幸せな気分になれた。
「……………………」
さらにTVが面白くなくなっている。
「……………………………。二件あるから、一件だけ」
霞は携帯電話の登録氏名を単に「大輔」とだけしていたものを一つ「鷹見大輔」と変えた。
「………でも、これでは彼に失礼……」
もう一件を日名大輔としてみる。
「…………………………………………。やっぱり、こっちを…」
大輔の携帯電話を鷹見大輔と登録して、支社長室の番号を日名大輔にしているのを逆転させてみる。
「……………………。……………………………………。………………………」
迷いながら、二件とも鷹見大輔と登録して携帯電話を抱きしめる。
「…………………………どこまで……バカなの……私は…」
急に冷めた顔になり、二件とも日名大輔と登録しなおした。
「TVが面白くないから余計なことを考えるのよ」
日付が変わって、もはや番組とも思えないくらいバカらしい内容になっているTVに文句を言い、録画している番組を見ることにする。昼休みに大輔と会ったので見逃したタモルを見るけれど、やはり集中できず、また携帯電話を触る。
「………………………………………………」
一件を鷹見大輔、もう一件を芹澤直樹、そして脳内で記憶している天川家の電話番号を入れて、天川ちなつとしてみた。
「……………………………何の意味もないわ。そんな世界は存在しない」
携帯電話を放りだして寝転がった。けれど、すぐに携帯電話へ手を伸ばし、一件を日名大輔、もう一件を鷹見大輔にして、天川家の電話番号は消去する。
「…………………………………………」
それでも落ちつかず、見ていたはずなのに何も記憶に残っていないタモルを、もう一度再生してみる。
「……やっぱり、……」
二件とも鷹見大輔にしてみたり、日名大輔にしたりを何十回と繰り返した挙げ句、小さい液晶画面を凝視していた目が疲れてきて痛くなり、涙が携帯電話に落ちた。泣きながら二件とも単に「大輔」に戻した頃、大輔が帰ってきた。
「ただいま」
「大っ輔っ」
涙声で出迎えられた大輔が少し驚き、それから優しい笑顔で抱いてくれた。
三日後の土曜日、大輔は午前中に一件だけ入れた仕事が長引き、お昼から霞と会う約束が三時間も遅れてしまい、謝りながらワックで会い、スペシャルセット二つを頼んだ。
「ごめん、お腹空いたろ。本当にごめん。せっかく霞がTVで見たっていう博多ラーメンのお店に行く予定だったのに…」
「ううん、大丈夫。本当にお仕事大変なのね」
「ごめん。こんな調子だから、福岡に来て何年にもなるけど人に案内してあげられるような店も名所も知らないんだ」
知ってるのは接待で使う料亭とか、スナックになるからね、と大輔は後半を飲み込み。美味しそうにワックを食べている霞を見つめる。
「どうしたの?」
「きれいだなと思って」
「っ…」
一瞬で霞がチキンナゲットのバーベキューソースより赤くなった。
「ば…バカ…」
「ああ、ごめん。つい、思ったことをそのまま言う癖が……ごめん」
「………。あなた、女ったらしって言われない?」
「たまに会社で言われる。そんなつもりはないんだけど」
大輔は上品に肩をすくめて微笑で誤魔化した。食べ終わって公園を歩く。とくに予定もなく、行く当てもなかった。ずっと部屋に篭もりがちな霞を連れだそうというだけのプランだったが、会社の部下たちに目撃されるかもしれないというリスクは、もう甘受するつもりだったのに、想定外のリスクが発動して大輔を凍りつかせた。
「あ……すか…。……春人く…」
あすかと春人が福岡の街で腕を組み散策しているのに、遭遇してしまった。まるで相似の図形のように霞と大輔も腕を組みながら歩いていたけれど、相似であるのは外形だけで中身は天国と地獄ほど違う。
「パ……パ…」
「…雄介、…じゃなくて、雄介の、お父さん…」
あすかと春人も凍りついている。霞が今さらのように大輔にからめていた腕をほどき、離れた。
「…あすか……」
「………パパ………」
あすかの瞳が再び光を失って、がっくりと肩を落としている。
「……あすか、どうして……ここに?」
「ハル先輩が……一次面接、通って……今日、二次面接で……パパのおかげで内定もらえそうって……すっごく感謝してたのに……、どうして…、どうして…」
娘の目に涙が浮かび、ぽろぽろと零れた。
「その子とは…なんでも……ないって……信じろって……言ったのに……信じたのに…」
「あすか、違うんだ。これは…」
「言い訳なんて聞きたくないっ!! パパのバカっ! 死んじゃえっ!!」
あすかは叫ぶと闇雲に駆けていった。
「「あすかっ!」」
春人と大輔が呼びかけても走っていく。追うべきか大輔が迷い、春人が駆け出した。
「あすかはオレが追います!」
春人の背中も小さくなっていく。残された大輔と霞は立ちつくした。
「……………………」
「………………………………」
言葉のない二人に、ふらふらと歩いてきた男が声をかけてきた。
「よぉ、我が愛しき娘じゃねぇか」
悪いことは重なるもので男は孝明だった。霞の瞳が敵意と恐怖で揺れた。
「っ! どうして、ここに……」
「どうしても、なにも、お前を迎えに来たんだ。こないだは博多ラーメン喰いそこねたからな。一日早く来てTVで紹介されてた店に並んでたんだ。まあ、並ぶほどの味じゃなかったがな」
博多ラーメンのついでに酎ハイも呑んだようで息が酒臭い。
「さ、藤川に帰るぞ。今からなら新幹線もあるだろ。本家からもらたホテル代が浮くから、ちょうどいいや」
孝明が霞の手首を握った。
「イヤっ!」
「なに抵抗してんだ。日名から聞いてるだろ。ダイちゃんごっこは終わりだ」
「離して!」
「ピーピー騒ぐな! 目立つだろ」
「大輔っ!」
「………………………」
大輔は霞に助けを求められても、立ちつくしたまま応えない。孝明が低く嗤った。
「いい加減、迷惑なんだよ。お前は」
「大輔っ!」
「本当にお前はオレに似ず頭が悪いな。普通に考えてみろよ、いきなり押しかけて居座って、おまけに理由は名前がいっしょだから、って人をナメるにもほどがあるだろ。っていうか、お前、頭が壊れてるんだ。自覚して自重しろ」
「あなたに言われたくない!!」
「やれやれ、いいから来い」
「うぐっ…」
霞は父親に羽交い締めされて口を塞がれた。そのまま駅へ引きずって行こうとする姿は誘拐じみていたが、あまりに堂々としている上に、孝明と霞の顔つきが、少しだけ親子らしく似ているところもあるので通行人は助けてくれない。
「うううっ! んんっ!」
「暴れるな」
「っ!」
霞が肉親の肉を噛んだ。
「痛っ!! このっ!!」
噛まれた孝明が怒って娘の頬を打った。
パシっ!
「親に逆らうんじゃねぇ!」
叩かれ怒鳴られても霞は睨み返した。
「親? ただのゴミでしょ、あなたはっ!」
霞が父の頬を打つ。
パシッ!
「痛ぇ…親に手を挙げるのかっ!」
孝明が娘の頬を打つ。
パシッ!
「くっ…ゴミが人に手を挙げるの?!」
霞が再び父を打つ。
パシッ!
「てめぇ、とことん逆らうってんだな」
孝明が平手打ちをやめ、拳を握って霞の注意を左手に向けさせながら、霞の腿を蹴って立てなくしようと軸足に体重を移した。霞は距離をとって父親の蹴りを紙一重でかわした後に回し蹴りを入れようと体重を背後へ流す。その動きを察知して孝明はローキックから連続してハイキックを入れる算段で娘に対峙する。
「「………」」
お互いに気をぶつけあい、呼吸をはかっている二人を大輔が止める。大輔は拳をかためている孝明の左手首を握った。
「親子ゲンカはやめてください」
「てめぇには関係ないだろ?!」
「もう十分に関係者です。それに、約束は明日のはずです」
「早い方がいいに決まってるだろ!」
「霞さんが気持ちを整理されてから帰宅される方がいいでしょう?」
大輔がグッと握っている手に力を込めた。その握力はトレーニングを続けている者らしく強い。よく鍛えられた胸板を見て孝明は舌打ちした。
「ちっ…、くだらねぇ。くだらねぇよ」
孝明は歩道へ唾を吐き捨てて背中を向けた。
「大輔っ!」
霞が大輔に抱きついた。大輔も優しく抱き返し、少し赤くなっている霞の頬を撫でる。
「大丈夫?」
「平気、こんなの慣れてる」
父親に叩かれることに慣れているという少女を大輔は強く抱きしめた。
翌日の日曜日、大輔は急に入った仕事をこなすために支社長室で取引先の社長と会っていた。
「我が社としては…」
「おっしゃることはわかりますが…」
お互いの主張を迂遠にぶつけあい、落としどころをはかっている。難しい交渉といっても結局は価格の上下にすぎない。けれど、その結果で数千万の利益が生まれたり消えたりする。大輔は真剣に交渉しながらも内心でタメ息をついて霞のことを思い出していた。
「2円が限界です」
「だが…」
「でなければ、福岡支社は今後の取引を…」
今ごろ、霞は、どうしているだろう、オレは彼女をどうすればいい、今日、あの男に霞を返すつもりはない、けれど、それを知れば、あの男は何をするかわからない、とりあえず、もう一週間お預かりすると言って先延ばしにすることもできるし、それを、さらに延長していけば当面は過ごせる、けれど、いつまでも今のような生活を続けることはできない、たんなる問題の先延ばしにすぎない、場合によってはトラブルを大きくすることにもなりかねない、ただ彼女には時間が必要だ、大輔が上の空で黙っていると取引先の社長は交渉の余地がないと思ったのか、ソファから立ち上がった。
「残念です。日名さんなら、わかってくださると思ったのに…」
「……」
「今回の契約は、貴社の指定額で通しますが、我々としては、とても苦しい。どうか来期は考えていただきたい」
「…。善処します」
相手を玄関まで見送って支社長室に戻ると、休日出勤してくれている秘書がメモを渡してきた。
「日名支社長、さきほど直通電話に連絡があり、これを伝えてほしいとのことでした」
「これを?」
大輔がメモ書きを見ると、それは数列だった。
41332444424221*224445*110225013244
秘書が言い添えてくる。
「子供のような若い女性の声で……とても切羽詰まった感じでした」
「……」
大輔は携帯電話を見る。
「しまった」
大切な交渉ごとのときは電源を切る習慣が裏目に出た。急いで数列を凝視する。ポケベル全盛期に営業部門にいた大輔は、すぐに数列の暗号ともいえないレベルの意味を読み出してみるが、久しぶりなので手こずる。
「……………………」
五十音を数字にしたなら、41はタ、つまり…た……す……け……て……ち…ち…、大輔が指折り解読していると、秘書が別のメモを渡してくれる。
「僭越ですが、こういう意味かと……」
秘書も気になったらしく、すでに解読したメモだった。
たすけてちちがきてどあをこわして
助けて父が来てドアを壊して
大輔の顔色が変わる。
「これ、何分前?!」
「10分ほど前です。お伝えしようかと思ったのですが交渉の邪魔に…」
秘書の言葉を最後まで聞かずに大輔は走り出した。会社からマンションまでは走れば3分で着く。植樹されたエントランスを通り、運良く一階に来ていたエレベーターで八階まであがると、自室の前に霞と孝明の姿を見つけた。孝明はチンピラのような男を二人連れていて、霞を縄で縛って拉致しようとしていた。
「霞っ!」
「大輔っ!!」
部屋のドアは霞が開けたわけではなく、床に落ちている小型ドリルで鍵がこじ開けられ、チェーンロックも大型ペンチで切られたのだと、散乱している道具類と金くずで悟った。そもそも大輔は孝明に、この住所を教えていないはずで、勝手に住所を調べ、しかも強盗の如くドアをあけた相手に交渉が通じるとは思えなかった。
「霞から手を離せ!! 通報する!!」
「ちっ……来やがったか。賢いオレ様は三倍の戦力をもってして、おまけに敵の留守を狙って先手をうったのによぉ。兵法随一、孝明の罠ってヤツだ。くくっ、まあ、いい。どうせ、圧倒的にオレ様が有利だ。おい、あいつを黙らせろ」
孝明が二人組のチンピラに命令する。二人が襲ってくるのを大輔は迎え撃つ。素手で殴りかかってきた一人目を殴り返して倒すと、もう一人はナイフを出した。大輔はジャケットを脱いで防刃具として手に巻く。
「いぼれたい!」
地元で雇ったチンピラらしく方言を叫びながら襲ってくるが、ナイフを出せば大輔が怯むと思ったのに、真っ正面から大輔が体当たりしてきたので殺すつもりまでなかったチンピラは体当たりを受けてしまいつつも反撃し、大輔の背中にナイフを突き立てた。
「「ぐっ…」」
大輔とチンピラが倒れ込む。したたかにコンクリートの床で頭を打ったチンピラが動かなくなると、大輔は背中の痛みも忘れて孝明と対峙する。
「てめぇ…」
孝明がポケットから鉄パイプのような物を出して握った。もはや大輔は言葉もなく孝明を見すえる。孝明は左手にもった武器をふらふらと揺らして大輔の気を引き、右足で蹴りを入れる。
「うぐっ…」
ケンカ慣れしていない大輔は武器に気を取られていて蹴りを腹部に受けたが、よく鍛えられた腹筋は岩のように硬く孝明の足が痛いくらいだった。
「ちっ…」
舌打ちする孝明へ間合いを詰めた大輔が殴りかかる。
ガッ…
孝明は鉄パイプで防御したが、防御ごと顔面を殴られ、吹っ飛ぶ。
「ぐあっ!」
床に転がった孝明は戦意を失わず立ち上がった。
「ハァ…ハァ! 美味しいところをもっていかれてたまるかってんだ!」
怠惰な生活で体力は低下していても、その性格のおかげでケンカ慣れしている孝明は二度も同じパンチを繰り出してくる大輔の拳をよけて膝蹴りを入れる。
「ぐっ…」
大輔は腹筋を硬くして受けとめたものの孝明の蹴りは鋭くダメージを受ける。それでも膂力の強さで孝明を締め上げると壁に打ちつけた。
「ぐほっ! てめぇ!」
孝明は締め上げられながらも踵を振り上げて、大輔の脇腹を蹴る、蹴る。寝技が苦手なK1選手のように蹴り技で大輔へダメージを蓄積させていく。それに耐えかねた大輔が壁から廊下の手すりへと孝明を打ちつけたときだった。
バキッ!
やや老朽化していた手すりが大の男二人の体重と勢いに耐えかねて折れた。
「「うわぁっ?!」」
二人の身体が支持を失って宙に舞った。
「大輔ぇ!!!」
悲鳴をあげる霞の声が遠くなる。八階から真っ逆さまに大輔と孝明は落ちていく。
「うああああっ!」
「……雄介…」
とっさに脳裏に浮かんだ息子が悲しげに首を横にふった。
諦めるな、父さん
そう言われた。
「…」
雄介……、たしか、エントランスには樹が植えられていたはず、大輔は締め上げていた孝明を蹴り離して自分の落下場所を変えた。
ザァァッ!
頭から樹の中に突っ込む感覚の直後に意識が途切れる。
「大輔!!」
遠いところから呼ばれている気がする。
「大輔!! 大輔!!」
悲痛な声で聞いていると胸が苦しくなってくる。そんなに呼ばれたら返事をしないといけない、大輔が目を開けた。
「大輔!! ああ、大輔!」
目を開けた大輔に霞の涙が振ってきた。
「……オレは……」
「大輔ぇ! あああっ! 大輔っ!!」
両手を縛られたままの霞が泣きながら大輔の名を呼んでいる。
「………………」
そうか、オレは落ちて、けど、生きて…。
「ぐっ…」
猛烈な痛みが背中に走った。それで背中を刺されていたことを思い出す。落下のために、より深く刺さったようで、また意識が遠くなる。背中が濡れて温かいのは自分の血かもしれない。それを確かめるために起きあがる体力がなかった。
「イヤっ!! 大輔っ!! 死なないで!! 大輔!! 大輔!! 大輔!!」
「…………」
何か言ってやりたいのに声がでない、このままオレは死ぬのか、再び意識が遠くなって真っ暗になった。
大輔が目を覚ましたのは病院のベッドだった。
「…………………………」
「大輔? っ…あああぁ! 大輔ぇ!!」
ずっと呼ばれていた気がする霞の声が耳に痛く、光になれていない目も痛い、いや、全身が痛い、大輔は目が慣れるのを待って霞を見上げた。
「……霞」
「大輔っ! 大輔っ、よかった、よかったぁ…っ…ぅぅ…ぅ…」
泣き出した霞の声で胸が痛い。
「霞……心配かけたね。ごめん」
「ぅぅ…ううぅ…うう…」
嗚咽が溢れすぎて返事ができない様子だった。泣き続ける霞の頭を撫でようとして大輔は右手首が紐で縛られていることに気づいた。紐の先は霞の手首を繋がっている。
「これ……は?」
そう問いかけた大輔の声に霞は答えず、泣き声も消えている。
「霞?」
動くと痛い身体を動かさないように視線を下へ向けると、霞はシーツに顔を埋めたまま眠っていた。
「……ずっと、…心配して……。けど、これは、やりすぎだ」
霞が心配のあまり大輔のそばから一時も離れず、そのために手首と手首を紐で繋いだのだと理解し、大輔が意識を取り戻した安心感で眠ったのだとわかった。だとすれば、ずいぶんと長い間、意識を失っていたのかもしれない。日時を知りたいと思った大輔に入室してきた天川龍三が声をかけてくれる。
「意識が戻られましたか」
「……ええ、あなたは?」
「天川龍三と申します。霞さんの叔父にあたります。……日名さんとは一度、お会いしていますが…」
「ああ……タモル似の…」
「は?」
「いえ、戯れ言です。まだ、意識が、ぼんやりしていて。……いま、何日の何時でしょうか?」
「10月17日の午前10時を過ぎたところです」
「……三日も…」
大輔は深い眠りに落ちている霞を見つめた。
「……まさか、…ずっと?」
「お察しの通りです。ずっと、霞さんは日名さんから離れなかった。文字通り一瞬も離れず、食事も摂らず、それどころか一睡もせずに………………。……この子は…」
龍三は悲しげに姪の頭を撫でた。
「……この子は……」
言いかけて龍三は滲んだ涙を拭いた。
「この子は、ずっと日名さんのそばを離れなかった」
「……そうですか…」
「そうですかの一言で片付けられるほど生やさしいものじゃないですよ、日名さん」
「……と、いうと?」
「この子は父親の葬式にも出ず、それどころか、死に顔さえ見ず、片時も日名さんから離れなかった。……あのような父親ですから、それも理解できますが……、ですが…この病院に運び込まれた日名さんが背中の傷で手術を受けるときでさえ、そばにいると泣き叫んできかず、執刀医から怒鳴られて手術室から追い出されると……発狂しかけて…、いえ、完全に発狂してしまい、他の医師が見かねて手術室へ入ることを認めたほどです」
「……………それは………」
「もしも、あなたが亡くなっていたら、この子は完全に壊れてしまったでしょうな……私の娘のように……」
「あなたの……?」
「ええっ。……っ……っ…………」
龍三は込み上げてきた嗚咽を抑えて眼鏡をなおした。その動作で大輔は自分が眼鏡をしていないことを思い出した。ほとんど度の入っていないファッションとしての眼鏡なので無くても困らないが、気に入っていたものだった。どこへ行ったのは、あの落下では無事ではないかもしれない。
「日名さんには、何のことやら、さっぱりでしょう……失礼しました。順序立ててお話しさせていただきたい。目が覚めたばかりで恐縮ですが、霞さんが眠っているのが都合がよいので……体調は、大丈夫ですか?」
「ええ、聞くだけなら大丈夫のようです」
「では…」
龍三は芹澤本家のこと、その分家である天川家、鷹見家、南雲家のことを話し、幼い頃の事故で第一後継者だった芹澤直樹が死亡し、直樹の許嫁で第二後継者のちなつが跡目取りになり、鷹見大輔が芹澤直樹を名のるようになり、戸籍としても芹澤直樹として扱いながらも、本家の当主が後継者としては認めなかったこと、そのうちに直樹を名のる大輔が年上の女性教師と恋仲になり、そのために事件に巻き込まれ刺殺されたこと、ちなつが狂気に走って女性教師を撲殺したことを話した。
「それで芹澤本家の直系の血を受け継ぐ者は、霞さんしかいなくなったのです。そして、当然のごとく彼女にふさわしい婿を探し、結婚してもらおうとしましたが…」
「拒絶して、私のところへ? ただ大輔というだけで」
「そうです。私たちは、もっと早くに気づくべきだった。霞さんも幼い頃、芹澤家から教育を受けていた。家系に、ふさわしい花嫁になるためのね。私の娘が受けたのと同じ、夫に寄り添い従い、逆らわず、徹底的に依存する………、もしものこと、実際には起こってしまったのですが、ちなつや直樹くんに何かあったり、二人に子供が産まれなかったときは、大輔くんと霞さんの二人が芹澤家を継ぐ予定で教育されていたのですから」
「……それなら、直樹くんが亡くなられた時点で、大輔くんを後継者にするのが順当では?」
「当主は、とても直樹くんを可愛がられていたのです。ちなつを私が可愛がるほどにね。だから、直樹くんの死の遠因になった大輔くんを許せなかった。さらに、大輔くんが直樹くんを名のることが余計に腹立たしかった。それでいて、直樹くんが事故で死んだことを本家として認めたくなかったから、直樹くんを名のる大輔くんを戸籍上は改名しながらも放逐するという矛盾した対応をとったのです。間違いに間違いを重ねて…」
「………。それだけの名家で古いしきたりを守っておられるなら、あなたや南雲孝明が婿養子に入る前に、当主の男子をつくるために側室や妾といったことはなかったのですか?」
「私たちが婿入りする前には、そのような話もあったそうです。ご当主の奥方は四人も子供をおつくりなったが、みな女子だった。女腹だから妾なり第二婦人なりを娶れと。ですが、若い頃のご当主は、それを拒否された。人倫の根幹にもとるといって……今は天皇家でさえ、側室をもたない。臣下たる我々が範にならわなくて、いかんとする、と。そのような理由をつけておられましたが、実際のところは強く奥方を愛されていたから、彼女を傷つけたくなかったのでしょう。そういう優しいところのある人でもありましたが、その優しさは直樹くんに注がれることはあっても、大輔くんに注がれることはなかった。おそらく彼の記憶の中の当主は冷たい人柄として記憶されていたでしょう。後継者としての序列をはっきりさせるためにも態度に出しておられたので余計に」
「………。ご当主の四姉妹は、それぞれ一人ずつしか、お子さんがないのですか?」
「はい。本家と御三家の夫婦には、四人しか」
「その四人ともが、同い年の産まれなのは?」
「ただの偶然です。もともと、ちなつや直樹くんの従姉妹同士での結婚のように、近親婚を重ねてきた傾向があるためか、私と妻の間にも、ちなつしか産まれなかった。南雲家だけは早くに夫婦関係が破綻しているので、もしも、破綻していなければ第二子という可能性もあったかもしれませんが、結局のところ、四人しか。そして、うち三人が他界し、残った霞さんも今や……」
「あなたの娘さんも……?」
「……。ええ、……」
龍三は表情を苦しく歪め、声を絞り出した。
「……警察病院の……精神病棟で、……、あの子は、もう存在しない直樹くんを探そうと、どんなに注されても病室を徘徊し、自分さえも傷つけかねないので、精神患者を拘束する皮の拘束具でベッドに縛りつけられ………、……そのまま狂い死にしましたっ」
「……………………」
「ちなつは、二度も直樹くんを喪った。その現実を受け入れず、狂気に走った。そして、今は霞さんが直樹くんを名のっていても大輔くんであった彼を喪い。南雲が結婚の話を強引に進め、そして、日名さんのところへ。幸いにも、あなたが優しい人であったことが、この子にとって唯一の救いであり、………最後の希望なのです」
「………………」
「お願いします。この子を救ってやってください」
龍三が頭を下げた。
「単刀直入に申し上げます。この子と結婚して芹澤家を継いでください」
「……ま、待ってください。オレには…」
「わかっています。奥さんと娘さんがいらっしゃる。僭越ながら、日名さんのことは調べさせていただいております。とても優秀な方で以前は藤川で勤務され、今は福岡の支社長、来年にも本社で役員の声がかかっていると」
「そこまで…」
「あなたなら一族も認める。それに、あなた以外の男性なら、霞さんは壊れてしまう。だから、お願いします」
もう一度、龍三が頭を下げた。大輔がタメ息をついた。
「ずいぶんと一方的なのですね。これでは思春期の少年少女でなくても従えないでしょう。いや、それを女子に限っては従わせてきた結果が……これ、か」
「無理な要求をしていることは解っています! ですが、あなたも霞さんに優しく接していた。たんに大輔という名前だけでなく、あなただって少しは霞さんを可哀想だと思うから南雲から身を挺して守りもしたのではないですか」
「守ると、約束はしましたから。………」
「霞さんは結婚してくれると約束したとも」
「……そう言わなければ、心を壊していたでしょうから」
「それがわかっておいでなら、あなたに見捨てられたなら、この子が、どうなるかも、おわかりのはずです」
「……………。芹澤家というのは、……芹澤家というのは、藤川の、あの芹澤家ですか? 澄空幕府にも仕え、足利幕府、江戸幕府では水戸藩にも連なる」
「ええ、そうです」
「あの芹澤家か……、たしか、医薬の分野でも音に聞こえ、芹澤ホールディングスという持ち株会社がある」
「おおっ、さすが、やはり日名さんしかいない!」
「……藤川で営業を仕事にしていれば、芹澤家と藤原家の名前は誰でも知っていますよ。たしか、芹澤家は、平家の流れを汲む。藤原、橘、平、源の四氏は日本の四大名家。たしか、水戸藩へ別れた芹澤家の末裔は新撰組の創始者では…?」
「芹澤鴨ですな。初代新撰組局長、……南雲孝明と同じく、本家の芹澤家では嫌われていますし、水戸藩へ別れた芹澤家は分家の末裔という扱いですが、悪名という意味では、芹澤鴨は芹澤家を歴史上有名にしている人物です」
「………、本当に立派な家柄だ……」
大輔は疲労と背中の痛みを感じたので目を閉じた。
「どうか、日名さん、お願いします。霞さんにとって、あなたは最後の希望なのです」
「……………結論を急がないでください。私は病人ですよ。それに、会社や妻は私が入院していることを?」
「幸いにして、日名さんと南雲の転落は事故、背中の傷のみ、傷害ということで九州地方の新聞に小さく載っただけでしたから。僭越ですが、会社へは私から連絡しております。そして、会社から、ご家族へは軽傷だから心配ない、と伝えるようにお願いしてあります」
「……つまり、この病院を教えていないわけ……か」
「はい」
「……………………もう、休ませてもらっていいかな。それと、霞にも、ベッドを用意してあげてほしい。このままでは可哀想だ」
大輔は傍らで眠る霞の髪を優しく撫でた。龍三は、ほとんど結論は出ていると確信し安堵した。
翌週、ようやく背中の傷が塞がった大輔は病院の個室を後にする。入院中、ずっと霞は大輔のそばにいた。龍三が手配してくれた個室は特別室だったので、風呂もトイレもあり、歩けるようになってからは手首の紐は解いてくれたが、トイレ以外は常に霞がそばにいた。
「ナースステーションへ退院の挨拶にいかないと、霞は片付けをしていてくれる?」
「いっしょに行くわ。少しだけ待って」
「…了解」
二人で病院を出ると、まずは眼鏡屋に寄って1時間ほど悩み、新しい眼鏡を選ぶ。それから龍三との待ち合わせがあるシティホテルの喫茶店に入った。
「日名さん、お身体の方は?」
「もう、すっかりいいです」
「それは何よりです。………」
「…………」
「それで、…結論の方は?」
「せっかちですね」
大輔が明言をさけると、隣にいる霞が不安そうに身震いする。それが、あまりにも可哀想で大輔は答えを出した。
「えりかとは別れます。……別れてくれれば、の話ですが」
「おお、よかった」
喜ぶ龍三に大輔は渋い顔をした。
「娘さんを亡くされている天川さんに言うのも何ですが、霞とのことがバレたとき、あすかに、死んじゃえ、と言われました。あれは効きましたよ」
「それは………、……、……、失礼しました」
「それで、私の身分は、どうなるのです? 今の会社に勤めながらでもよいのですか?」
「いえ、退職していただき、芹澤ホールディングスの役員になっていただきたい」
「当面は見習い役員というやつですか」
「そうなります。あと、…日名という姓名は…」
「わかっています。婿養子でしょう」
「話が早くて助かります」
「………えりかの話が早く終わるとは限りませんよ。だが、早い方がいい」
大輔は携帯電話を取り出した。大輔と孝明は転落したが、ジャケットごと八階に残っていた携帯電話は無傷で、問題なく使えていた。大輔はコーヒーを一口飲んでから、えりかの番号へコールした。
「やぁ、えりか」
(珍しいわね。あなたが昼間に電話してくるなんて)
「ちょっと、聞いてみたいことがあって」
(なにかしら?)
「もし……もしも、別れてくれって言ったら、どうする?」
単刀直入すぎて冗談にも聞こえる言い方に、えりかも冗談のような答えを返してきた。
(一億円)
「……いちおく…か…」
(あと、あなたの退職金と、……この家も)
「…………ははは」
(あ、年金の分割手続きも忘れないでね)
「えりかはえらいな。……あすかは、どうしてる?」
(あの子? 知らないわ。春人くんが内定とれたから就活終わったし、二人で遊びに行くとか言ったまま、同棲はじめたもの。まあ、就職するのは春人くんだから妊娠しても困らないでしょうけど)
「そっか………淋しくなるな」
(そろそろ友達との約束があるから切るわね)
「あ…ああ…」
(じゃ)
えりかが電話を切った。大輔は携帯電話をジャケットにしまい、半分くらいは会話を聞いていただろう龍三に問いかける。
「一つ、こちらから要求してもいいですか?」
「はい、何でしょう」
「……霞の結納金、…一億円って可能ですか?」
「可能です」
「……では、契約成立ということで」
大輔と龍三は親戚となる者として握手を交わした。
さらに一週間が過ぎ、突然に退職する大輔が支社長へ昇格する副支社長に引き継ぎをして、送別会を断り、マンションを引き払って荷物を芹澤本家に送り、霞と二人で新幹線に乗る。
「…………」
福岡、広島、新大阪と車窓の景色が流れていく。大輔は手を繋いで眠っている霞を見つめた。
「………」
こんなに遠くまで来るときは一人で来たんだな、あてもなく、いや、あてはオレのポイントカードの氏名と住所だけ、心細いを通り越してるな、通過駅程度の速さで、大輔は一瞬で通り過ぎた米原駅の駅名を読み取れなかった。名古屋で乗りかえ、藤川で降りると龍三が予約しているという法律事務所の前に立つ。すでに待っていた龍三が挨拶してくる。
「もう、すっかり傷は治られたようですね」
「ええ」
「では、顧問弁護士には説明してありますので確認だけです」
「わかりました。……霞は、どうする? 近くの喫茶店にでも…」
「いっしょに……行きたい」
「そう。イヤな想いをするかもしれないよ?」
「……いいの、行く」
霞が大輔の腕に抱きついた。
「わかった」
男子トイレ以外はついてくる霞は、うっかり大輔がトイレで仕事の電話を受けて長くなると、個室のドアを一つ一つ開けにくるほど大輔から離れない。それがわかっているので、えりかと対面させたくないと思いつつも、法律事務所に入った。中には、えりか方の女性弁護士と司法修習生の鳴海沙子がいた。龍三が芹澤家の顧問弁護士がいないことを問いかける。
「先生は?」
「先生は急な国選弁護が入り、わたくしが要件を承っている」
沙子が答えた。
「わたくしは司法修習生で本件を完遂することはできないが、先生は30分ほどで戻られるはずだ。それまでの進捗を任されている。始めよう」
「「「「……………………」」」」
霞はもとより、龍三と大輔、えりか方の弁護士も沙子の威圧的な態度に、どう対応していいかわからず、とりあえず話を始める。えりか方の弁護士が書面を出した。
「奥様からの要求は以下の通りです」
「あの…、えりかは?」
「顔も見たくないそうです」
えりか方の弁護士が告げると、沙子が頷いた。
「当然だな」
「「「「……………………」」」」
「有責配偶者は日名雄介だ。一方的に」
沙子が容赦ないのを見かねて、えりか方の女性弁護士が相手方弁護士としては異例の助言をする。
「鳴海さんは、大輔さん方の依頼を受けておられるのですから、ここは、大輔さんの弁護をするところですよ」
「ない」
「…は?」
「弁護の余地はない」
「……、そうじゃなくて、たとえば私たちの要求が高額すぎるとか、えりかさんも家事をしなかった、とか。このまま話を進めると、帰ってきた先生に鳴海さんが、すごく怒られるかも…」
「えりか婦人は単身赴任で家庭を一切放棄した夫大輔の非協力的な態度にもかかわらず、一男一女を育て、かつ長男を喪った後にも不登校がちであった長女を育てあげ、無事に成人させている。にもかかわらず、大輔は不貞にも、いわゆる愛人をもうけ、夫婦関係の破綻を一方的にもたらした。なんら、弁護の余地がないばかりか、南雲霞は17歳で児童福祉法違反の疑いさえある」
「だ、だから、それは私が指摘することで、鳴海さんは……もういいです。こちらに有利なことを言ってくれる分には。でも、あなた弁護士失格よ」
えりか方の女性弁護士は書面を大輔に突きつけた。
「この条件でいいですか?」
「「………」」
大輔と龍三がアイコンタクトを交わし、同時に頷いた。
「「かまいません」」
「では、こちらに署名を。あとの手続きは、この未熟な修習生とではなく、ここの先生としておきます」
「あすかに会うことはできますよね?」
「書面の条件では、娘さんが個人で判断されることになっているでしょう」
「あすかは何と……?」
「何も聞いていません」
「そうですか……」
大輔が視線を落とすと、霞が寄り添った。
「ごめんなさい、大輔…」
「霞が謝ることはないよ」
大輔が霞の頭を撫でると、沙子が吐き捨てるように言う。
「謝る相手が違う!」
「っ…」
霞が怯えると大輔が沙子を睨んだ。龍三も見かねて苦言を呈する。
「こちらの弁護をするのが仕事だろう。どうなってるんだ?!」
「南雲が謝るべき相手は、えりか婦人とあすか嬢だ。それを教えるのも大切な仕事である。この女は罪を犯している。それを自覚なく弁護されることは害悪であって正義ではない」
「なっ…なんなんだ、この小娘はっ?!」
「霞のことを悪く言うのはやめてくれないか。すべての責任はオレの選択にある。違うかい?」
「わかっているのだな」
沙子は大輔の顔面を蹴りつけたくなって、無意識のうちに体重を軸足へ移動していた。そのわずかな気配に霞が反応して前に出る。大輔が蹴られそうになったら、その蹴りを蹴りで迎え撃つ体勢に入っている。その敵意に沙子も気づいて、二人とも睨み合って沈黙する。
「「……………………」」
この女、できる、沙子と霞が一触即発になっていることに年配の三人は気がつきもせず、手続きを進めている。そのうちに本来の芹澤家の顧問弁護士が帰ってきて、えりかと大輔の離婚は成立することになった。大輔たちが帰り、沙子と顧問弁護士だけになると、龍三が帰りがけに諤々と言い立てた苦情の件で沙子は怒られたが、反省せず膨大な残業を言いつけられて、それを処理する。その途中で帰宅が遅くなることを加賀正午にメールしたのに返事がこないので、電話してみるが、応答してくれない。
「……ショーちゃん……どうして、電話にでてくれないの…」
無性に不安な気持ちになり、帰りたくなるけれど仕事が終わるまで耐え、急いで帰宅すると、鳴海家のリビングで正午は寝ていた。
「ショーちゃんっ、どうして電話にでてくれなかったのっ?」
「ん~……ああ…」
正午は今起きたという顔で携帯電話を確かめた。
「あ、ごめん、ずっと寝てた」
「………」
それが嘘とは思えないほど、のんきで真実味はあったけれど、沙子は気持ちが鎮まらず、スカートを脱いだ。
「抱いて」
「……、昨日、オレがしたいって言ったら、司法修習中に妊娠して裁判官に任官した人はいないから、しばらくガマンしようって…」
「………。でも、抱いて」
沙子がショーツも脱いで下半身裸になる。
「電話に出てくれないショーちゃんが悪い」
沙子がソファに寝転がっている正午に抱きつこうと近づくと、背後から北原那由多に冷たい缶ビールを、お尻につけられた。
「スキあり♪」
「きゃっ?!」
「やった! お姉ちゃんから一本取れた!」
那由多が喜び、そしてあきれる。
「っていうかさ、リビングで何やってんの? 同居人がいること忘れないでくれる?」
「だ、だって、ナユちゃんの靴が無かったから、まだ帰ってないかと……また、ガレージからあがったの? 行儀が悪いよ」
「……。……それ、行儀がいいの?」
那由多に下半身を指されると、沙子は両手で前を隠して赤面する。その姿が可愛くて正午は寝起きの身体に血が巡るのを感じた。今度は正午が背後から沙子のお尻を撫でる。
「やんっ」
「沙子ちゃん、仕事でイヤなことでもあった?」
「……うん、…あった」
「どんな?」
「………。守秘義務があるから」
沙子は恥ずかしくなったのでスカートを拾って身につけようとしたが、正午が止める。
「オレもしたくなった♪」
「……。二階に、いこ」
沙子は移動しようとしたけれど、正午が抱きすくめてブラウスまで脱がせようとする。
「やっ…ショーちゃん、ここじゃヤだよ。ナユちゃんが…」
「一回さ、お姉ちゃんが、どんな顔でイくのか。見てみたかったんだよね」
「ナユちゃんっ?!」
「私さ、処女だから興味あるっていうか。見学、みたいな。お姉ちゃんの裸なら見慣れてるし」
「そんな……それに、ショーちゃんの………ナユちゃんに見せたくない」
「じゃあ、お姉ちゃんだけでいいよ。ショーゴ、やっちゃって♪」
「イエッサー♪」
正午がブラジャーまで脱がせ、沙子は全裸にされた。
「やっ! ヤダよ、ショーちゃん! 蹴るよ?」
「ぅっ…蹴られのは…」
「ね、お姉ちゃん」
「う?」
「罪を犯したら罰を受けないといけないよね?」
「……うん」
「妹の不在を確かめずにリビングでエッチしようとした悪い子は、おしおきを受けないと♪」
「り……リビングで……しようと……したわけじゃ…」
「あ、反省してない」
「けっ、計画性は無いのっ! 一時的な感情の高まりで……とっさに犯行に…」
「およんだ? 犯行って自覚があるね?」
「っ………」
「せめてカーテンは閉めてあげるよ」
那由多がリビングのカーテンを閉め、キッチンのブラインドも遮光にして、沙子と正午を見られる位置のソファに座ってスケッチブックを開いた。
「じゃ、ショーゴ。刑の執行を♪」
「イエッサー♪」
正午が沙子の身体を愛し始める。
「あんっ……いや……ナユちゃん、何してるの?」
「スケッチ♪ お姉ちゃんの」
「っ……やめて…」
「法廷画風と、アニメ風、どっちがいい?」
「どっちもヤダ!」
「お姉ちゃん、素直に刑に服さないと、刑期が長くなるよ?」
「ぅぅ………、あっ、……んっ……ショーちゃん、…そこ、…やだ…」
沙子は異母妹の前で恋人に愛されて果て、完成した那由多のスケッチは法廷画風だった。
一年が過ぎ、芹澤大輔は当主代行補佐としての仕事をこなし、当主代行となって半年で病身となった龍三を見舞っていた。
「天川さん、お加減は、どうですか?」
「…ああ……大輔さん、……まあ、…こんなものかな…」
「お気を、しっかり持ってください」
「……そう言われても、……ちなつもいないし、……期待以上に、大輔さんが芹澤家を切り盛りしてくれるようになって、……私も気が抜けたよ……。もう長くないかもしれない…」
「天川さん……」
「すまないなぁ……、私たちは、……霞さんを口実にして、…大輔さんから将来を奪ってしまった…」
「そんな……別に、たしかに、あのまま会社にいれば、あと一段か、二段は出世できたかもしれませんが、まあ、会社に縛られるのも、芹澤本家の執務に忙殺されるのも、かわりませんよ。それに、出世といえば、出世ですし、慣れてくれば、この仕事も楽しいです」
「……はは……大輔さんは根っからの仕事人間だね…。ごほっ! ごほっ!」
咳き込んでしまった龍三を介抱した後、大輔は本家へ戻り奥座敷で休んでいる妻に声をかけた。
「霞、具合は、どう?」
「ずいぶん元気よ。もう一人で歩けそう」
「無理はしないで」
「………。あなたこそ、無理をしてない?」
「霞?」
「私は……、鷹見大輔を喪って………あなたを、……」
「霞……その話は、あまり…」
正式に結婚してから霞の情緒不安定は回復しつつあり、今では大輔が仕事のために屋敷をあけても問題ないほどになっている。けれど、完全に安定したわけでもない。大輔が気づかうと霞は気丈に微笑んだ。
「一度、謝りたかったの。……謝って済むことではないけれど。ごめんなさい」
「心外だな」
「…………。はい、どんなに責められても…」
「違う。たしかに、霞のためにオレの進路は大きく変わった。でも、それは、オレがそうしたかったからなんだ。君のために、そうしたかった。だから、そうした。今、君が正気なら、オレも言っておくよ。ごめんなさいじゃなくて、ありがとうが、聞きたいって」
大輔の言葉を聞いて霞は目を潤ませ、涙を零した。
「……、……、あ……あなたが……大輔で、よかった。ありがとう。大輔」
「霞」
「大輔、好きよ」
「霞、愛してる」
大輔は霞の頬を撫でると、その隣で眠っている新生児を見つめた。
「さっき、天川さんを見舞う前に、市役所へ行ってきたよ」
「ご苦労様です」
「ははははは♪ 出産の苦労に比べたら、男は楽なものだって。霞こそ、ご苦労様」
初産の陣痛に耐えた妻をねぎらって額にキスをした。それから、何度か問うたことを、あらためて訊く。
「霞、本当にオレが決めた名前で、よかったのか?」
「ええ、あなたが決めたなら。ね、雄介」
霞は眠っている新生児に口づけした。
「雄介も気に入ってるよね? 雄介」
「……」
「ほら、笑ってる」
かすかに新生児の唇が動いたような気がした。
「そっか。じゃあ、お前は雄介だ。ま、今さら気に入らないと泣いても届出は出してしまったからな。じゃ、霞、オレは仕事に戻らないと」
「はい、いってらっしゃいませ。旦那様」
「いってくるよ」
大輔は奥座敷を出ると渡り廊下を進み、庭から見える空を見上げた。
「諦めなければ、願いはかなう。あのとき、お前が言ってくれなければオレも死んでいたかもしれない。だけど、雄介。お前も諦めずに生まれ変わっていると信じるぞ。諦めなければ、かなう、だからな」
空の高いところへ囁いた。
「………」
返事はなかったが、かつての雄介が微笑んだ気がした。そこへ、使用人が近づいてきて跪いた。
「ご当主代行補佐、お手紙が届いております」
「ありがとう」
大輔は手紙を受け取ると、胸を熱くすると同時に不安にもかられた。あすかからの手紙だった。使用人を去らせ、庭へ降りて一人で読む。あすかは3ヶ月前に春人と結婚したはずだった。結婚式へ春人から招待状が来たけれど、あすかの意志を春人に確かめると、大輔の参列に前向きでないという答えが返ってきたので、娘の晴れ姿は見ていない。
「あすか………」
手紙には結婚式の写真と、産まれたばかりの孫の写真が入っていた。
拝啓、っていうか、実の父親に拝啓とか書かなくちゃいけない関係になったのが、とっても残念です。まだ、許せないけど、報告だけはします。春人さんと結婚しました。なので、これからは河合あすかです。とうとう日名家は滅亡しました。でも、子孫は増えたよ。名前は河合雄介、ということで、出産祝いと、来年からのお年玉、期待してます。
河合あすか
読み終えると大輔は和服の袂に写真と手紙を入れた。
「……あすか。……………………ははは。相談しなかったからな」
潤んだ目を空に向けた。
「で、雄介、お前は、どっちの雄介に生まれ変わった?」
両方
息子なら、そう答える気がした。