入学式にて
薄暗い部屋の中に、薄らぼんやりと灯りが浮かぶ。暖色系の頼りない光は、部屋の奥にいる人物――女性の姿を浮かび上がらせていた。安楽椅子が軋んだ音を立てて揺れる。
平時の頃は細かく念入りに手入れされていたであろうプラチナブロンドの髪は、当時の面影など嘘のように振り乱れていた。所々ぐちゃぐちゃにうねり、四方八方に枝毛が飛び、乱雑にぼうぼうと伸びている。彼女が着ている服――レースやリボンがあしらわれた真っ白いネグリジェは、本来の色よりも薄く黄ばんでいるように思えた。
女性はあらぬ方向を向いてブツブツと何かを呟く。時折――虚空ではあるが――視線を別方向に変えて、ケタケタと笑みを零すのだ。誰がどう見ても、
ごくり、とつばを飲み込む。幾何かの躊躇いの後、意を決した少年は部屋に足を踏み入れた。
扉が開き、床が軋む音がやけに響く。次の瞬間、虚空を見ていた女の瞳が少年の方に向き直った。
大人しく座っていた間接人形が、いきなり首を動かしたような不気味さがある。少年は反射的に肩を竦めた。
「エドアルド」
紫苑の瞳は、ただ真っ直ぐに少年――エドアルドを映し出す。
醜悪に歪んだ女の顔は、今度は喜びの色を乗せた。
「エドアルド」
女は安楽椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りでエドアルドの元へと歩み寄る。
エドアルドは直立不動のまま。逃げ出したいと思っても、身体はピクリとも動かない。そうこうしている間に、女はエドアルドの元へと辿り着いた。
女の骨ばった指が、エドアルドの頬に触れる。ぞっとするくらい冷たい。女がニタリと笑う。頬を撫でる手の反対方向には、鋭利なナイフが握られていた。
「あの女を殺しなさい」
ナイフの刃先を握る手からは、血が流れて落ちていく。
例えるならそれは雨垂れのよう。例えるならそれは、女の執念のよう。
「あの女の子どもを殺しなさい」
頬を撫でていた指は離れた。女は、握っていたナイフをエドアルドに押し付けるようにして握らせた。殺しなさいと語る女の口は、うっとりと綻んでいる。嬉しそうに綻ぶ口元。そのかんばせは、夢見る少女のようだった。
目さえ濁っていなければ、不気味極まりない格好さえしていなければ、笑って流すことが出来ただろう。殺せ殺せと謳う女の言葉に気圧されながらも、エドアルドはそれを否定することができなかった。逃げることもできなかった。
それを肯定ととらえたのか、女は更に言葉を続ける。粘りつくような響きが、纏わりつくような狂気が、じわじわとエドアルドを飲み込んでいく。齢1桁しか人生経験のないエドアルドに、それをどうにかする手段はなかったのだ。
「この家を継ぐのは、貴方なのよ」
女は笑う。狂ったように。
女は笑う。狂ったように。
女が笑う。狂ったように。
「――正当な跡取りは、貴方なのよ」
狂ったように、狂ったように、ただ笑い続けていた。
***
「――!!」
世界が切り替わったような感覚。
エドアルドは目を見開き、視線を彷徨わせた。
ここは青龍学園の体育館。エドアルドの隣には、1年1組のクラスメート(暫定)になりうる生徒が座っている。突如周囲を見回し始めたエドアルドの行動に驚いたのか、目を白黒させていた。驚かせてしまった非礼をジェスチャーで示しつつ、再び状況判断作業へと戻る。
青龍学園の体育館では、今年の新入生を迎える入学式が行われている。プログラムの番号は5番、青龍学園の校長が新入生を迎える話を行っていた。プログラムを見直したエドアルドは壇上に視線を向ける。色とりどりの花で飾りつけられた壇上には、青龍学園の校長が延々と長話を続けていた。
意識を失う前の時間と現在時刻から割り出すに、校長が話し始めてから20分ほど経過していた。あとどれくらい続きそうなのかを割り出すために
式典で行われる権力者の話というものは、どうしても長くなりがちだ。自分がいかに素晴らしいか――教養、地位、自分の血筋を含んだ、ありとあらゆる要素を駆使して――を示すため、美麗字句で飾り立てている。あとはどうでもよい自慢話や、やたら凝った時候の挨拶。
(やれやれ。誰が好き好んで長話なんか聞くんだよ)
この場でそんな言葉を漏らしたら、即座に入学式は中止だろう。常識や人格を疑われて退学処分――なんて未来が容易に浮かび、エドアルドは小さくかぶりを振った。
式典が如何に退屈極まりないとはいえ、こういう場では嫌でも大人しくしなければならない。社会を円滑に生きていくためには耐えることも必要である。この場を荒らすというのは、エドアルドの本位でもないのだから。
エドアルドの予測は外れたらしく、スピーチが終わったのは10分後のことだった。所々、色々と強調するためにゆっくり話したせいだろう。校長が一礼したのを見た生徒たちが安堵の息を漏らしたように感じたのは気のせいではない。
しかし残念ながら、長々としたスピーチはまだまだ続く。次は来賓の挨拶だ。
該当者を探そうと視線を彷徨わせ――ふと、慌ただしく動き回る教師たちの動きが目に入った。
司会進行役と多くの教師陣が顔を見合わせている。誰も彼もが表情が硬く、困惑していた。
――その原因は、すぐに明らかになる。
『次は来賓の方々からの御挨拶です。――顕現魔法士局官房長官、ハインリッヒ・レーム・オルデンベルクさま』
「――は?」
思わず、エドアルドの口から声が漏れた。呆気にとられるエドアルドなど知ったこっちゃないと言わんばかりに、名前を呼ばれた男――ハインリッヒはずんずんと壇上へと上がる。冷徹な鉄仮面は一切微動だにすることなく、若葉色の瞳にも揺らぎはなく、彼は威風堂々と壇上に立つ。
呆気にとられたのはエドアルドだけではない。教員も生徒も、とんでもないVIP――有名度合いや多忙さを含んだ上で――がたかだか来賓の挨拶のために青龍学園にやって来るだなんて予測していなかったはずだ。……もっとも、エドアルドが呆気にとられたのは別な理由なのだが。
そもそも、ハインリッヒは官僚である。官僚の中でも高い地位と責任を有する男だ。青龍学園のOBではあるものの、ただそれだけの理由で、わざわざ時間を割いて来るとは思えない。彼の性格や行動原理からして、今回は何か理由があるのだろうか? そんなことを考えていたら、壇上にいるハインリッヒと目が合った。
目が合った時間は僅か数秒にも満たない。ハインリッヒはすぐに視線を外し、鞄からスピーチ原稿――俗にいうカンペ――を取り出して広げる。文字数は400字詰め原稿用紙120枚――4万8千字弱。1分間に喋れる文字数が300文字だと仮定した場合、ざっと160分程度かかる。時間換算で2時間40分程度だ。
ハインリッヒが行おうとしている挨拶は、証人喚問に使う資料や想定問答関連の資料並みのものだ。学生相手に何をしようとしているのだろう。まさか証人喚問か? 一途な眼差しからして、ハインリッヒは真面目な理由であのスピーチを作ったことになる。……いくらなんでも、突飛すぎやしないだろうか。
(あの人、一体何考えてるんだ……)
あんな膨大なスピーチ原稿、来賓のスピーチに与えられた時間に間に合う訳がない。この後は別部署の役員と会議があったはずだ。
エドアルドの危惧など何のその。ハインリッヒは淡々とスピーチを続ける。けれども案の定、ハインリッヒのスピーチは時間内に終わらなかった。
壇上で話し続けるハインリッヒの元に、黒服の男が慌てた様子で駆け寄って来る。彼は二言三言ハインリッヒに耳打ちし、腕時計を指示して何かを促した。
黒服――おそらくは彼の部下だろう――に一瞥した後、ハインリッヒはマイクを取った。表情を一切変化させぬまま、彼は言葉を続ける。
「大変申し訳ない。スケジュールの関係上、私はもう行かなくてはならないんだ」
――また、エドアルドとハインリッヒの目が合った。
「話したいことは尽きないのだが、最後に一言だけ、言わせてくれ」
真っ直ぐに、真っ直ぐに、エメラルドを思わせるような若葉色の双瞼が向けられる。
ハインリッヒは噛みしめるようにして、静かに言葉を紡いだ。
「キミたちの人生は、キミたちのものだ。未来は自由に選んでいい。誰と手を取ってもいいんだ。――どうか、それを忘れないでくれ」
それは、ハインリッヒ・レーム・オルデンベルクとしての言葉だったのだろうか。それとも、エドアルドしか知らない意味が込められているものなのだろうか。
自惚れてもいいのか――などと、ハインリッヒにそれを問う立場にない。その資格は、エドアルド・ノイマンの人生を歩むと選んだときに手放した。
……おそらく、二度と、その権利を取り戻すことはないだろう。エドアルドは開きかける口を無理矢理真一文字に結び、じっとハインリッヒを見つめた。
どういうつもりかは全く分からないが、ハインリッヒはエドアルドから目を逸らすことなく小さく頷き返した。そうして、彼は壇上に上がったときと変わらぬ足取りで去っていく。
膨大なスピーチ原稿は祝辞として掲載されることになったらしい。一部の教師陣が顔を真っ青にして張り出し作業にかかっていた。原稿量の関係で、急ごしらえの壁では足りないのだ。ああ大変だな――と、エドアルドは他人事のように彼らの背中を見送る。
会場内はまだざわめきが収まらない。しかし、司会進行役には頓挫することなど許されなかった。ややどもった様子で、次の来客を告げる。ハインリッヒという爆弾の次に壇上に上がる人物は、きっとこれ以上のない災難だ。
エドアルドの予測通り、次に壇上に上がった人々は引きつった顔のままスピーチを開始する。しかし、まどろっこしい話に興味が湧くはずもない。周りは未だにハインリッヒのことを引きずったままだ。
(『キミたちの人生は、キミたちのものだ。未来は自由に選んでいい。誰と手を取ってもいいんだ』――か)
エドアルドはひっそりと笑みをこぼす。誰も自分のことなど気にしていないのだから、ちょっとくらい自惚れたって迷惑は掛からないだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか地獄の来賓の挨拶コースは終了したらしい。ハインリッヒ来襲の衝撃も和らいだ様子だった。
『次は新入生の挨拶です。1年1組、ユズル・アートラムさん』
「は、はい」
名前を呼ばれたのは、エドアルドと同じクラスの生徒だった。黒髪に青い目、何処にでもいそうな一般的な青少年を体現したような顔立ち――エドアルドが憧れるような“平凡”を体現したような少年――ユズル・アートラムは、どこか緊張気味に壇上へと向かった。
そういえば、新入生の挨拶は土壇場になって担当生徒が変わったらしい。理由はよく分からないが、急きょ白羽の矢が立てられたと聞く。
ガッチガチでぎこちなく壇上に立ったユズルは、どこか悲壮感に満ち溢れていた。憐れみさえ抱いてしまう程、彼の姿は頼りない。
しかし、エドアルドの認識は即座に破壊された。挨拶用の原稿――所謂カンニングペーパーを開いたユズルは、朗々と言葉を紡ぐ。
「拝啓、桜の花が美しく咲き始める今日この頃――」
先程までプレッシャーに押しつぶされそうになっていた頼りない少年はどこにもいない。エドアルドの目の前にいたのは、数多の強豪に囲まれても怯まない勇猛果敢な少年だった。立派に務めを果たさんとするリーダーそのものだった。
壇上に佇む彼の姿は、つい先程立ち去ったハインリッヒとどこか似通った部分がある。ユズルは――ハインリッヒと違って土壇場ではあるものの――プレッシャーをはねのけて見せた。揺らぐことなくスピーチを続けている。
「――以上です。新入生代表、ユズル・アートラム」
噛まなかった。失敗しなかった。ユズルは深々と一礼し、つかつかと自分の椅子に戻る。
姿勢を整えたところで、彼は深々とため息をついた。壇上に上がる前の彼に戻ったらしい。
土壇場でこそ真価を発揮するタイプのようだ。しかも、そのポテンシャルも高いときた。
(憂鬱な学生生活になるだろうなあって思ったけど、そこは杞憂ってことになりそうだ)
エドアルドはひっそりと目を細める。
(――彼やクラスメートのみんなと、友達になれたらいいなぁ)
自分の眼差しに気づいたのか否か。
件のユズルは、むず痒そうに背を丸めて視線を彷徨わせていたのだった。
「後々になって意味を持つお話」予定。