六月某日。
北沢志保は東京都○□区、その一角に建つマンションの、そのまた一角を訪ねていた。
表札にある『黒山』の二文字をしっかりと確認して、息を整え、姿勢を整え、チャイムを鳴らす。
待つこと十数秒、彼女は全てを分かっているような顔で現れた。
「やぁ志保ちゃん、北沢志保ちゃん。よく来たね──いや、よく来てくれたね、かな」
「こんにちは、黒山先生。突然の訪問を受けてくださって、ありがとうございます」
「なぁに、北沢家なら誰でもいつでもどこでも何でも何故であっても、どうやってでも大歓迎だよ」
黒山恵子。
黒山由人の、実の母親。
和風ファンタジーを手がける、稀代の小説家。
彼女に出会った人は、皆一様に同じく等しく平等に、以下のような印象を受ける。
まるで人を食った、妖怪のような人だと。
志保は、それは間違いだと今の今まで思っていた。
今日の今日まで接して来た黒山恵子に、志保はそんな感想を持たなかった。
息子である黒山と会話する彼女は、母と談笑する彼女は、どこにでもいそうな普通の女性だったからだ。
そして今、志保は自分の考えが間違っていて、自分たちは例外だったのだと知った。
雰囲気が、違う、異なる、似て非なる。
これまで見てきた黒山恵子とは、根本的に対照的な彼女がそこにいた。
「まぁ積もる話もあるだろうから、詰まった話もあるのだろうから、北沢志保ちゃん」
まるで自分は何でも分かっているのだと、そう言いたげなセリフだった。
彼女の眼は底なしに黒く、黒々しい。
眼以外の全てのパーツで笑いながら、嘲笑いながら、黒山恵子は招き猫よろしく手で招いて手をこまねいて。
「とりあえず、上がりなよ──いや、上がっておくれよ、かな」
志保を、黒山家へと招きいれた。
■ □ ■
北沢志保のもとへ一通のメールが届いたのは6月1日、彼女が舞台初日を終えた夜のことだった。
差出人は黒山由人。
最初、志保は舞台を見ていた黒山が感想を送ってくれたのだと考えた。
そう考えてメールを開くと、中には堅い言葉で、適度に砕くとこのような内容が書かれていた。
『北沢さん、例の件について……話が急に進んで、舞台には行けなくなってしまいました。
本当に、ごめんなさい。陸とお母さんに、よろしくお伝えください』
あ、これは嘘だな。と北沢志保は5秒で見抜いて見破った。
話としての筋は通っている。
彼の夢と、その夢に向かう志は聞いていたし、事前にこうなるかもとも聞いていた。
だからこの文を素直に愚直に受け止めて、信じて明日以降を生きていくことも選択肢だ。
しかしそれではダメだ。
この話は筋が通っていても、芯が通っていない。
芯がない、すなわち真がない。
というより、仮にも真にプロとして演劇の舞台に立つ志保を、黒山は本気で騙せる気でいたのだろうか。
夢を追いかけている志保にだからこそ分かる。ここ最近、黒山の目は夢と会いにいく目ではなく、遠い夢を見る、そんな悲しい目をしていた。
それでも、志保は黒山から聞き出そうとはしなかった。
彼に彼の事情があって、どうしても遠くに行かなくてはならなくて、きっと陸を悲しませたくなくてあんな嘘をついたのだと。
だが、それはそれとして、これはこれとして、あの舞台を見てもらえないと自覚した瞬間。
北沢志保の脳内から、その辺の配慮が吹っ飛んだ。
これは酷く自分勝手な考えだと、志保は分かっていた、分かっていたけど分かって欲しかった。
だって見て欲しかったのだから。
「それで単身、わざわざ私を訪ねたんだね、そしてこれから尋ねるわけだ? 一体全体、由人はどこにいるのかって」
「はい、その通りです。黒山さんは今、どこにいるんですか」
「あはは、私も黒山なんだけどな。けど志保ちゃん、それってあくまでキミの推理で推測で、推定の話じゃないの?」
確かに、黒山恵子の言う通りだ。
証拠はない、根拠はない、志保の拠りどころは己の演技に対する想いだけ。
あれは黒山の演技なのだと、見抜いた自分の目だけだ。
それでも、それだからこそ。
「大丈夫だよ、由人は今頃向こうで元気に根気強くやってるから。そりゃあ約束を果たしてもらえなかったのは残念だったと同情しちゃうけど、私は同上の気持ちなんだけど、生きていればそんなこと山ほど海ほど星の数ほどあるんだって若いうちに知れたのだから、これはむしろ──」
「黒山先生」
「うん? なにかな志保ちゃん」
「『嘘つきの舌ほどよく回る』これは貴女のセリフ、でしたよね?」
自分は、北沢志保は決して、ここで引いてはならない。
「なるほどなぁ、ここまで来ただけあるって感じだなぁ」
「それで、話してくれるんですか」
「いやそこまでは言ってないよ、至ってないと言っても良いけど……志保ちゃんはさ、これって踏み入り過ぎだって思わない? キミの中では踏ん切りがついているのかもしれないけど、踏み込んじゃいけないところってあるよね。誰にだってさ」
「分かっています。それでも、私は直接話して、納得させて欲しかった」
あんなメールで済ませてほしくなかった。
あんなメールで済ませられるような、そんな関係ではないと思っていた。
なんだかんだと言いつつ、自分には事情を教えてくれるんじゃないかと期待していた。
教えた上で、会話した上で、納得させてくれると信頼していた。
「一応、由人からメールが届いたはずだけど?」
「あんなの、信じるわけないじゃないですか」
「いやぁ信頼されたもんだね、私の息子は」
この状況を愉しんでいるのか、それとも愉しんでいるのか、黒山恵子は嬉しそうに言ってのける。
「でもね志保ちゃん、今の由人に会いにいけば、君はきっと傷つくよ。今よりもっと、深く深く傷つくことになる。由人だって、傷つくだろうね。二人して泣く羽目になるんじゃないかな」
「貴女は、そんなことまで分かるんですか?」
「うん、分かるよ。分かるとも、私は由人のことなら何でも分かる」
断言した彼女を、志保は少しだけ羨ましく思った。
自分は分かっているようで、黒山のことを母親である恵子に対して、大して分かっていない。
彼が今日まで、どんな気持ちで北沢姉弟に接してきたのか、自分は分かろうとしていなかった。
聞こうと思えば、いつだって聞けたはずなのに、行動に移せなかった。
聞いてしまえば、尋ねてしまえば、踏み込んでしまえば、これまでの関係が変わってしまう気がして。
「そもそも、志保ちゃんは由人の──いや、志保ちゃんにとって由人は、私の息子はどういう関係の相手なんだろうね?」
「それは……黒山さんは、私の……」
「恋人かい? 友人かい? 知り合いのお兄さんかい? それとも、都合のいい理解者なのかな」
「ち、違いますっ。都合のいいなんて、そんな──」
思ったことなんて、本当にないのだろうか?
つい先月、黒山を都合よく使うような頼みごとをしたのは、どこの誰だ?
彼に自分勝手な思いを、期待を、信頼を、押し付けてはいなかったか?
「あのね。由人を思うのも、期待するのも、信頼するのも、決して悪いことじゃあないんだ」
そう言われて、伏せていた目線を上げる。
黒山恵子の黒すぎる黒目に覗き込まれる、そのまま吸い込まれて、彼女を形作る世界に組み込まれるような錯覚を覚えて、志保は目をそらしたくなった。
しかしそんなことをすれば、目をそらせば、二度と黒山に会えず、顔向けできないとも思った。
だから、目はそらさない、そらせない、そらしてはいけない。
「けどね。由人を思うなら、期待するなら、信頼するなら、関係はハッキリさせなきゃいけないよ。ぬるま湯に浸かって、なぁなぁで済ませて、そんな君たちを会わせても不幸になるだけだ」
黒山恵子は繰り返す。
北沢志保にとって、黒山由人とは何なのか。
その答えが出せない限り、二人を会わせる気はないと。
「私は、私にとって、黒山さんは……」
北沢志保は考える。
黒山由人のことを、考える。
いつだって自分を傷つけまいとしていた、あの青年のことを考える。
初めて話したその時から、黒山は志保の事情をおおむね察していた。
だから、黒山は北沢姉弟に優しすぎるほどに優しかった。
きっと昔の、父親を失くした頃の自分に、二人を重ねていたのだろう。
ぬるま湯に浸かっていたとは、なるほど的確な表現だ、返す言葉もない。
……なんて答えればよいのか。
分からない、自分のことが分からない。自分のことなのに分からない。
いや、自分のことだから分からないのか。
正しい答えは分からない、でも。
納得させられるかは分からない、それでも。
確かな答えは、すでに出ているのではないか。
「分かりません。けど、分からないまま終わりたくないんです」
黒山が自分にとってどんな存在かは、まだ分からないけど──いや、分からないからこそ、分からないままで終わらせたくない。
黒山恵子の言う通り、中途半端な関係を続けても、それは中途半端な結果にしか繋がらない。
どんなものであれ、答えは出すべきだ。
「黒山先生。私は、答えを出しにいきたいんです」
志保の答えを聞いて、黒山恵子はやっぱり全部分かっていると言わんばかりの表情でこう言った。
「そっか、分からないなら、無理に答えを出す必要はないよ」
だって、となんでも分かる黒山恵子は言葉を続ける。
「分からない。これも1つの答えなんだからね」
志保に語りかける彼女の顔は、いつのまにか穏やかな女性のものに戻っていた。
以前、黒山恵子の著書を読んでいた際に、あとがきで自分が妖怪扱いされることに苦言を呈していたのを思い出す。
……こういう事をするから、そういう風にとられるんじゃないのか。
「やーそれにしても、こんなステキな女の子に追いかけられて、我が子ながら羨ましい限りだよ」
「……はぁ、それはどうも」
「試すような真似、じゃないね。試したことは謝れないけど、由人の事情について私は知りうる限りを開示すると約束しよう──というか、この封筒に全部入ってます」
黒山恵子は懐から封筒を取りだして、これ見よがしにかざして見せた。
あの中に、黒山が志保に隠していた真実がある。
あらかじめ、前もって用意していたらしい。
この人は、黒山恵子って人は。
「あなたは、どこまで分かっていたんですか?」
「私は何でも分かっていたよ、由人に関わることならね。そして志保ちゃん、これを渡す前に1つおばさんからのアドバイスをしておくとだ」
封筒を志保の手に、しっかりと握らせて、彼女は己のやるべきことを終わらせる。
「由人のところへ行く前にさ、キミがもっとも信頼する友達に、さっきの質問について相談してみなさい。きっと答えが出るはずだよ」
「それは……いったいどう言う意味なんですか、答えが出るって」
「自分のことは、案外他人の方がよく分かっている。という意味さ」
■ □ ■
「ねぇ志保ちゃん、それって恋なんじゃないかな?」
あっさりと、ことなげに。
話を聞き終えて、彼女は言った。
北沢志保のもっとも信頼する友人は、なんでも歌にしてしまうこの友達は。
矢吹可奈は実に簡潔に、問題を解決して完結させてしまったのだ。
さっきまでその答えを出すために妖怪じみた人と真正面から対峙して、退治できずに助言まで受けて送りだされる始末だったというのに。
いや、しかし待ってほしい。
「で、でも可奈、そんな簡単に分かるものなの?」
「分かるよ〜。志保ちゃんはその人のことが好きなんだなって、すっごい伝わってきたもん」
「私は、黒山さんが好き……」
自分は、黒山が、好き。
北沢志保は、黒山由人が、好き。
でも、とか。
だって、とか。
だけど、とか。
否定の言葉が次から次へと湧いて、その全てが『好き』の二言に押しつぶされる。
どうして、2つの音を組み合わせただけの単語に、こんな力があるのだろう。
好き、すき、スキ、隙、空き、意味なんていくらでもあるこの二文字に、なぜ心乱されなければならないのだろう。
理由は単純明快だ。
志保にとって、好きという気持ちが真実だったからだ。
その気持ちを友人である可奈に肯定されたことで、一気に自覚してしまったからだ。
自分は、黒山が好きなのだと。
「あはは、志保ちゃん顔真っ赤だよ〜」
「だって、だってこんな、こんな急に分かっても私は……」
「んー、とってもステキな恋だって、私は思ったけどなぁ〜」
「ステキって、どこが? 私にはよく分からないわ」
頭に血がのぼっていくのを感じる。
指摘された通り、志保の頬は赤く染まっていて、ここが喫茶店の隅であることに彼女は感謝した。
なんとか平静を装ってみるが、もう可奈に何を言われたところで轟沈まで秒読み待ったなしである。
「その人が志保ちゃんのことを大切にしてるのが分かるし、志保ちゃんがその人のことを大切に想ってるのも分かるんだ」
最近、恋愛小説も嗜む百合子に感化されたのか、矢吹可奈はいつも以上に饒舌だった。
ついでに言うと、志保の舞台を見て演劇にのめり込み始めた影響で、セリフの語り方がしっかりしている。
それに対して志保が何が言いたいかというと、だ。
「それに、志保ちゃんがあんな誇らしげに男の子の話をするとこ、見たことないよ?」
「誇らしげって、別にそんなつもりは──」
「もう途中から、百合子ちゃんが教えてくれた惚気っていうのを聞いてた気分だったかな〜、なんて思っちゃったり」
自分はもしかしてもしかすると、いやもしかしなくとも、猛烈に恥ずかしい真似をしていたのでは。
志保は耳まで真っ赤に染めあげて、そのまま机に突っ伏した。
とんでもない羞恥心に見舞われ、まともに前も見られない。
「だ、大丈夫?」
「あまり……」
「えーっと〜。じゃあ志保ちゃんは、これからその人に……こ、告白するの?」
問われて、北沢志保はゆっくりと顔を起こした。
封筒の中身を思い出す。
とても衝撃的な事実がそこに記されていたが、不思議と志保の心には納得があった、合点がいった。
なぜ彼が、死んでいく青年の気持ちを理解していたのか、苦しいほどに分かってしまった。
青年は、演劇の主人公は、黒山そのものだったのだ。
今になって思えば、黒山からアドバイスを受けていた自分は、黒山を好きになっていた自分は、ヒロインと同じような心を持っていたのだと。演出家はそれを見抜いていたのだと。
そこまで思い出して、自分がどうするべきかを考える。
自問自答を繰り返す。
しかし、いくら自分を問いただしてみたところで。
やっぱり、答えはもうすでに、志保の中で定まっていた。
「──告白するわ。人を好きになるって、つまりそういう事だから」
自分の演じるヒロインがそうしたように、たとえ別れが待っていたとしても、それでも自分は自分を偽れない。
心地の良いぬるま湯から、上がる時が来た。
黒山と腹を割って分かり合う時が。
「そっか、そうだよね」
矢吹可奈は、慈しむような笑顔でそう言った。
友人の恋路が、どうか素晴らしい路であるように。
心から、志保の幸せを祈った。
「いってらっしゃい、志保ちゃん」
「ありがとう、可奈。──いってきます」
■ □ ■
都内某所の病院の、そのまた一室に、二人の男女がいた。
男は、青年は、黒山由人は、ベッドに寝かされて、腕には点滴用の管が挿してある。
女は、少女は、北沢志保は、横たわる黒山を見守っている。
無言の数瞬が過ぎ去って、黒山由人はこう言い捨てた。
「帰ってくれないか、北沢さん」