如月千種と、その女性は名乗った。
彼女の娘は765プロダクションに所属するアイドルで、名前を如月千早さんというらしい。
如月千早さんは歌がとてもお上手で、その実力は群雄割拠よろしく混沌としたアイドル業界でも頂点に近いと認められており、一部のファンの間では『蒼の歌姫』という渾名がさも当然のごとく使われているらしい。
アマチュアのコンクールとはいえ民謡に童謡、さらにはロックでも賞を取った経験があるらしいのだから、如月千早さんの歌唱力は疑いようもあるまい。
「それでね、千早は小さい頃から──」
……如月千種さんは、とても親切な方だった。
その点について、俺はお墨付きの太鼓判を押してもいい。
あの後、彼女は俺たちをいわゆる常連組の皆さんに紹介してくれた。
年齢や性別、それに国籍の差はあれど、彼らは自分の大切な人を応援するために集まった同好の士であり、俺たちを快く迎え入れてくれたのだ。
そればかりか、千種さんは本公演のパンフレットまで用意してくれて、アイドルの応援に使うのだというコンサートライトなるものまで貸し出してくれた。
なんていい人なんだろう。俺はそう思ったし、今でもそう思っていることに嘘偽りはない。
「その時の千早の写真がこれでね──」
「へー、すっごいんだね千早お姉ちゃん!!」
如月千種さんは俺たち二人ともに良くしてくれたが、とくに陸への猫可愛がりようは目に入れても痛くないを通り越して、目に入れたら気持ちがいいとか言い出すのではなかろうか。などという失礼極まりない想像が浮かぶほどであった。
如月千種は素晴らしくいい人だ。
俺は心の奥底から彼女に感謝している。
しかし、しかしだ。
「でも千早はそんなところが──」
しかし俺はこの女性と話せば話すほど、なぜか彼女の娘である如月千早さんついて詳しくなるという、摩訶不思議な現象に見舞われていた。
具体的に直訳的に言うのなら、彼女は娘さんの話ばかりだ。
それが嫌だとは口が裂けても言えないし思ってもいないが、これが俗に言うところの──子離れできない親、というのだろうか。
如月千早さんも大変なんだろうなぁと、俺は見たことも話したことも会ったこともない女の子に、そんな想いを馳せるのだった。
■ □ ■
765ミリオンオールスターズ・グランドフェアリー
この公演の正式名称だ。
765プロライブ劇場に所属するアイドル達はそれぞれ、princess・fairy・angelという属性なるもので分けられており、今日はfairyチームの今年一年を締めくくる大型ライブなのだという。
出演するアイドルは総勢17名。
その中には当然、北沢さんや、この数十分で異様に詳しくなった如月千早さんも含まれている。
開演が近づくにつれて、劇場内のざわめきが小さくなっていく。いや、小さくなるというよりは、圧縮されて蓋されて、今にも爆発しそうな熱気がそこにはあった。
気がつくと、如月さんも陸へのレクチャーを止めて何かを待っていた。
それに釣られて、俺と陸も声を出さずにじっと待つ。
──そして。
「皆さーんっ!! おはようございまーーすっ!!!!」
「「「「「おはようございまーーすっ!!!!」」」」」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
あらためて考えると、マイク越しの女性の挨拶に観客が返事をしただけなのだが、それでも鼓膜をぶっ叩かれたような衝撃だ。
「本日は765ミリオンオールスターズ・グランドフェアリーへ、ようこそお越し下さいました!! 本公演のアナウンスを務めさせていただきます青羽美咲と申します、今日も一日よろしくお願いいたしますっ!!」
青羽美咲と名乗ったアナウンスの女性が、公演中の注意事項などを知らせていく。
声だけの出演ということは、彼女はアイドルではないのだろうか。
パンフレットを開けばその辺りも分かるのだが、俺は映画のパンフレットを必ず上映後に読むタイプなのだ。
彼女が口を開くたびに、会場のボルテージが上がってゆく。きっと彼ら彼女らにとっては何度も何度も聞いた諸注意であるはずなのに、んなことは関係ないと言わんばかりの盛り上がりであった。
青羽さんのアナウンスが終わる。
終わりは、いつだって始まりの合図だ。
つまり、つまるところ、これはライブが始まる合図なのだ。
場内のライトが消え、客席は真っ暗になった。いや、真っ暗ではない。そこには色とりどりの光が細かく揺れ動いていて、星空を写す海のようだと思った。
入場のメロディーに導かれて、一人また一人とステージに影が立つ。
やがて17人の影がそれぞれの位置に着くと、メロディーは終わりを告げ、それと同時に宴の始まりを告げる。
ライトが、少女を照らす。
だが同時に、太陽の輝きを受けて俺たちを照らす月のごとく、彼女たちはこの世界を照らしていた。
──その姿に、その在り方に、その輝きに、まっこと語彙力のカケラも感じさせない表現をするのなら、俺はすっかり見惚れてしまったのだ。
歌が、始まる。
彼女たちの歌が。
踊りが、始まる。
彼女たちの踊りが。
彼女のパフォーマンスに合わせて、観客もまた声を出しカラダを動かす。
話に聞いていたコール&レスポンスだ。
ふと、横を見ると陸も大きな声でレスポンスを返している。如月千種の指導力たるやであった。
気がつけば、関係者席の皆さんも声をあげていて。
それを見て、そんな光景を見て、俺は自分もやらなくては──ではなく、俺も仲間に混ざりたいと、自然とそう思った。
■ □ ■
世界がひっくり返るような感動だった。
大袈裟に聞こえるかも知れないが、俺にとってはまさしく天変地異に匹敵する体験であったのだから、なにも間違ってはいない。
彼女たちの歌に酔いしれ、ダンスに魅了され、トークに笑う。
至福の時だと、俺は断言してもいい。いやしよう、これは至福の時だ。
砕けた言い方をするなら、すっごい楽しい。
あぁ、母さんの言わんとしていた『体で当たって砕けてくる』って、ひょっとしてひょっとすると、いやひょっとしなくとも、こういう事だったのか。
なるほど、確かに心身ともに砕けて蕩けて絆されたって感じだ。
さすが母さん、俺のことを俺よりも知っていなくとも、分かっているだけのことはある。
ライブはすでに最終ブロックへ突入し、学が足りていないため曲の種類などは分からないが、カッコいい曲やしっとりとした曲を中心に客席を大いに盛り上げ泣かせている。
特にあの、白石紬さんだったか。
人間離れした、現実離れした美しさだった。
まるで芸術作品が動き出したかのような、神秘的な人だった。
彼女の曲は聴いたこともないような旋律で、俺の心を揺さぶったのだ。
有り体に言えば、ファンになった。
きっとお淑やかで仙人を想わせる、謎に満ちた私生活を送っているに違いない。
俺は確信した。
俺が確信していると、舞台を闇が閉ざした。
だが、そんな暗闇を吹き散らす音色が、歌声が、俺の耳に届く。
そうだ、そうだこれは。
──北沢さんの、歌声だ。
つい数時間前にも聞いた、涼しげで冷静な彼女の声だ。
しかし、あの時とは明確に、確実に違っているのは、その声が歌となって会場を支配しているってとこだ。
それは一人の、大切なものを守りたい少女の歌だった。
孤独で強固な殻にこもって、笑顔を心に閉じ込めて、守るために強くあろうとした少女の物語。
でもそれは間違っていた。
守りたいものを、守りたいのなら、守りぬくために、この長い旅路は誰かと歩んでいいのだと、そう気がついて少女は笑うのだ。
大切な人と、絵本のお姫様のように。
1分にも、1秒にも、1時間にも思える時が経過して、後奏が終わってようやっと。
俺は、自分が泣いていることに気がついた。
初めてだ。
初めて、歌を聴いて泣いた。歌に泣かされた。彼女の歌声に、なぜだか無性に泣けてきた。
技術的な話をするのなら、この人の方が上手いんじゃないかって、素人ながらに思う人はいたけれど。
どうしてか彼女が歌ったその時にだけ、俺はどうしようもないほどに、感動ってやつを抑えきれず泣いた。
だが、ライブはまだ終わっていない。
会場は筆舌しがたい沈黙に沸き、彼女の登場を待っている。
これで16人のアイドル達がソロ曲を歌ってきた。
それが意味するのは、意味するところは。
蒼の歌姫が、降りてくる。
■ □ ■
「如月さん。今日は本当に、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、とても楽しかったわ。ありがとう黒山くん、陸くんも元気でね」
「ばいばい!! またね、ちぐさおばさん!!」
恩人である如月千種さんに手を振り、陸と二人夕暮れ時を歩く。
終わってみれば、実に濃厚で濃密な数時間だった。
アイドルを好きなる人の気持ちってものが魂と心で理解できた。
明日の放課後にでもCDを買いに電気街へ繰り出そうと思う。
あとはそうだな、次のライブの予定も調べてチケットの抽選に応募しよう。
コンサートライトも自前のものを用意しなければなるまい。
いやぁ未来は明るい、例え暗くても照らせる!! 人生は虹色に輝いているぞ!!
あ、そうだ。忘れないうちに言っておかないと。
「なぁ陸、一つお願いがあるんだけど」
「お願い? 僕に?」
「うん。すっごい大事なお願いなんだ」
俺は陸だけにお願いが届くよう近づいて、そっと耳打ちした。
「おねーさんにさ、俺が泣いていたのは内緒にしてほしい」
「……泣くのは、恥ずかしいの?」
陸がそう聞き返したのは、俺の他にも泣いている人が大勢いたからだろう。
例えば、ソロ曲のトリを飾った如月千早さんが歌った際に、涙を零していた女性とか。
「泣くのは、恥ずかしくもなんともないよ。泣きたい時は泣くのが一番だと思う」
それになにより我慢した涙は心に溜まって、心を蝕む毒になる──って母さんの小説に書いてあったし、実際その通りだ。
「ただ、まぁなんというか。泣いていたことを、おねーさんに知られるのが恥ずかしいのかも」
「そうなの?」
「そーなの、秘密にしてくれるならジュースを買ってやろう」
「うん分かった、秘密にするねっ」
「……お前のちょろさは誰譲りなんだろなぁ」
適当な自販機に小銭を入れ、オレンジジュースと緑茶を購入する。
俺は陸の手にオレンジジュースの缶を握らせると、
「じゃあ陸、指切りげんまんしよう」
「はーい」
「指切りげんまんっ、嘘ついたらアリ千匹のーますっ、指切ったっ」
「あり千匹?」
「そうだぞー、千匹の蟻が喉に向かってゾワワーって」
「うわぁ……」
どうしよう、未就学児をわりと本気で引かせてしまった。
いや、まぁ。逆を言えばだ、これだけしっかり約束をすれば北沢さんに俺が号泣していたとはバレまい。
と、とりあえず。
「陸、もう一本ジュース飲む?」
「飲む!!」
■ □ ■
その晩。
夜の9時を回って、そろそろ風呂に入ろうかなとか、そんなことを考えていると。
携帯の着信音が、鳴っていた。
普段ならばあり得ない光景だった。
この俺に、夜中の9時に、それも携帯の番号に、電話をかけてくる人間なんて母さんくらいしかいないし、当の母さんはついさっき帰ってきたばかりだ。
となるとだ。他に電話をかけてくる、すなわち俺の番号を知っている人物は一人だけ。
北沢志保、と。
携帯の画面にはそう表示されていた。
俺は慌てなかった。慌てず騒がず、一呼吸を置いてから通話ボタンを押して──
「「あの」」
ここまでくると、北沢さんが意図的に被せているのではないかと疑いたくもなるが、きっと彼女は俺と同じで会話のタイミングを計るのが苦手なのだ。
「こんばんは。お先にどうぞ、北沢さん」
「こんばんは黒山さん。今、お時間平気ですか?」
「大丈夫だよ、ちょうど空いてたところ。今日はお疲れ様でした」
「ありがとう、ございます。実は今日のこと、あらためてお礼が言いたかったので」
それで電話してくれたのか。
ホント義に篤いというか義理堅いというか、その日の内に電話するあたりが律儀の証拠だ。
「今日は陸を連れてきてくれて、本当にありがとうございました」
「うん、どういたしまして。それでその、陸の反応は? だいたいは想像つくけど、気になって」
「それはもう大はしゃぎで、私が帰ってからずっとライブの話ですよ。ついさっき……寝る直前まで話していましたから」
気のせいか──いや、気のせいなんかじゃないだろう。電話越しでも彼女の嬉しそうな声から、陸との楽しげなやり取りが眼に浮かぶようで、なんだか自分まで楽しい気持ちになってしまった。
陸がライブを楽しんでいたのは、隣で見ていた俺もよく知っている。
しかし俺は、あの姉弟がライブで通じ合えたことが自分のことのように嬉しかったのだ。
すると北沢さんは一呼吸し、こんなことを尋ねてくる。
「黒山さんは、どうでしたか?」
「えっ?」
「楽しみにしてるって、言ったじゃないですか。感想、お聞きしても構いませんよね?」
確かに言った。
俺は本番前、彼女と通話したさいに楽しみにしてるよと、確かにそう言った。
ただ、北沢さんがそれを覚えていたのが少し以外だった。
やはりプロたる者、こういうところでも意見を求め己を高める材料にするのだろう。
実にあっぱれな向上心である。
「素直に言わせてもらうと、感激した。今まで気にしたことがなかったけど、こういう場所があるんだなって」
熱気に包まれながら彼女たちを応援していたことを、俺は鮮明に明白な記憶として覚えている。
今までに感じたことのない、あの衝動を、感動を。
「念のため言うけど、お世辞じゃないよ。明日にでもCDを買うつもりでね、とはいっても一気に買うのはお財布的に厳しいし、ここは何枚か選んで──」
「黒山さん」
「あ、はい」
「黒山さんが私たちの公演で、私たちを好きになってくれたのなら、私は765プロのいちアイドルとして嬉しく思います」
ただ。そう言葉を挟み、北沢さんは一瞬迷うように間を置き、
「……私の歌は、どう思いましたか?」
北沢さんの言葉に、数時間前の号泣が脳裏をよぎった。鼓動が速まり、体温が上がるのを感じる。
鏡なんて見なくとも、自分が赤面していると分かった。
あぁ、どうでしたかって、そう言うこと。
「えと、そうだね。すっごい素敵だったと思う。歌を聴いて、北沢さんを観てると、曲名通り絵本を読んでるみたいで、さ……」
自分で言っておいてなんだが、本人に直接こんな言葉で伝えるのは度胸がいる。
俺の胸は早鐘を撞くがごとく鳴っていて、通話終了のボタンを押したい気持ちに駆られるが、それはそれで度胸がいる話だ。
端的にいうと、恥ずかしい。
しかも俺が返事をしたっきり、北沢さんが反応しないもんだから、余計に気まずい。
「黒山さん」
「う、うん」
実に情けないが、俺はもう彼女に名前を呼ばれるだけで、胸がいっぱいいっぱいだった。
世のアイドルを応援する人たちは、よくこんな動悸に耐えられるなぁと感心するばかりである。
「そう言ってもらえると、私も努力して良かったと思えます。絵本みたいだって……その、汲み取ってくれて嬉しいです。ありがとうございます」
「いや、こちらこそだよ。すっごいものを、観させてもらった。また観に行きたいって本気で考えてるところでさ」
「なら私も、それまでにもっとレッスンを頑張って、今日以上のものを見せられるよう努力します」
「うん。楽しみにしてるね、北沢さん」
あれ以上を見せられて、魅せられた時に、はたして俺の心臓は持つのだろうか
そんなことを思いながら、しかし必ず行こうと俺は決意するのだ。
あの素晴らしい世界に、俺は何度でも感動するに違いない。
今日は日記に『ようこそ』新しい世界と書き遺そう。そんな日だった。
「そろそろ切るよ。北沢さんもゆっくり休んで」
「……黒山さんって、時々プロデューサーさんみたいなこと言いますよね」
「え? 俺がなに?」
「いーえ、こちらの話です。お休みなさい、黒山さん」
「え、うん。お休……あ、ごめん北沢さん、もうちょっとだけ良いかな? 出来たらでいいんだけど──」