とある週末の14時10分、俺は死んだ魚のような顔で水族館を訪れていた。
「よしにぃ、顔すっごいけど大丈夫?」
「よくぞ聞いてくれた陸、実は全然大丈夫じゃないんだ。俺を助けてほしい」
「ど、どうすれば良いの?」
「なぁに簡単なことだよ、ただ少し頭を撫でてもらえれば──」
「黒山さん、ここに母から教えてもらった黒山先生の番号があるんです」
「ありがとう、陸と話していたら元気になったよ」
信用は積み木のようなもので、積むのは難しいが崩れるときには一瞬だと言うけれど。
本当その通りだなって、俺は目の前で崩れかけた積み木を前にそう思った。
北沢さんのジト目は嫌いじゃないが、こういうのは引き際をわきまえないと単なる変態である。
きっと母さんのことだ。そろそろ俺が陸に悪ノリしだすからコレで黙らせてね、とか言いながら渡したに決まっている。図星だよこんちくしょう。
加えていうなら、あれは友情の証みたいなものだから大目に見てあげてね実害は無いし、なんてフォローもあらかじめ入っていたに違いない。惨めだ。
だがしかし、だ。
「まぁ冗談はさておくとして、落ち込んでるのは本当でさ。ほら、再来月に765プロの定期公演があるだろう?」
「はい、私は出演しませんけど……応募したんですか」
「まぁね。さすがに二月のは間に合わなかったけど、他チームのライブも観たくて」
あの劇的な体験を経て、つまり11月のライブを観てから、俺はすっかり765プロダクションとそこに所属するアイドルたちを応援する、一人のファンになっていた。
翌日にはファンクラブの入会を済ませ、各色のコンサートライトを購入し、放課後はもっぱら買い揃えたCDを聴いて過ごしている。
ここまで充実した私生活は久しぶりだ。
そんな俺は再来月、つまり3月に行われる765プロ定期公演に向けて、当然のごとくチケットの応募に乗り出したのだが。
「当たらなかったんですね」
「うん、そうなんだ……倍率が高いってのは分かっていたつもりなんだけど、期待が大きかった分の反動がね」
そのチケットが御用意されるか、されないかの瀬戸際がつまり本日の14:00で。
俺は物の見事に惨敗か、惜敗か、完敗か、そのいずれかを喫したのである。
ただ、その衝撃が思っていたよりもずっと大きくて悲しくて、こうして北沢姉弟の前に無様を晒しているのだった。
「えぇと、その……ご愁傷様です」
「ごめん北沢さん、もう少しでいつも通りに戻るからさ……」
北沢さんはどう声をかけるか悩んでいるようだった。
まぁアイドル本人が目の前で、ライブのチケットが用意されなかったとファンに嘆かれるなんて中々ないはずだ。非常に申し訳ないと思うが、こればっかりは仕方がなかった。
……行きたかったなぁ。
そうやって地面に溶け込みそうになっていると、俺の袖を引っぱる小さな手があった。
「しゃがんで、よしにぃ」
「あ、うん」
言われるがままにしゃがみ込む。
すると陸は俺の頭に、小さくて暖かい手を乗せて、
「また、僕といっしょに行こうね」
そういって、さっきの冗談みたいに、俺の頭を撫でてくれる。
この世に生を受けて早17年。俺はこれまでこれほど誰かに対して感じたことのない、途方もなく膨大で広大な、小さな親友への情愛を感じた。
感じて、感じるがままに、そして感情的に行動した。
「お前は、お前は本当にいい奴だなぁ!! 高い高いしてやろう。ほら、高いたかーいっ!!」
「あはは!! すっごいたかーいっ!!」
「あの、ちょっと黒山さん。まだ受付前ですけど見られてますから、りっくんも今は我慢して」
で、北沢さんに怒られた。
いやホント、申し訳ない。でも嬉しかったのだ、幸せだったのだ──やり遺したくなかったのだ。
■ □ ■
「北沢さん、もしかして何か悩みごと?」
いつものタッチプールサイドで、俺は北沢さんに尋ねた。
これまでならば間に何個かクッションを挟んだ上で切り込んでいたが、挟もうとして毎回出だしが被って気まずい思いをしてきたが、今日はそんな気にならなかった。
北沢さんがとても思い悩んでいる──のを陸がかなり心配している表情に、気がついてしまっていたからだ。
「悩みごとって、どうしたんですか黒山さん。いつになく急ですね」
「いやさ、陸がすっごい心配そうな顔していたから。何かあったのかなって」
そういうと、北沢さんはいつものジト目を俺に向けて、
「私の悩みごとに、私じゃなくて弟の顔色から行きつく辺り、黒山さんって感じがします」
「うん、それほどでもあるかな」
「誇らないでください、別に褒めてません。ただ……確かに悩んでいないと言えば、嘘になりますけど」
たとえなんと言われようと、陸の顔色察する選手権があれば俺は北沢家としのぎを削る心構えであった。
と、俺の心構えはさて置いて、問題は北沢さんの悩みごとである。
俺が彼女の力になれるかは分からないが、なれるものならなりたいのが俺の気持ちだ。
「どうだろう、俺が聞いても構わないタイプの悩みかな」
「どうでしょう……いえ、これは黒山さんが相談相手として問題があるとかじゃないんです」
ただ。北沢さんは言葉を挟み目を伏せたまま続ける。
「これは私の問題で、正確には私たちの問題で……聞いてくれるからといって、黒山さんにまで背負わせて良いのかなと」
なるほど、相談することで俺にまでその問題に対する責任感を負わせてしまうのではないかと、そう危惧していたのか。
真面目だ。
超がつくすっごい真面目な人だ。
自分の目的があっても、他人を気遣うことを忘れられない、北沢さんはそんな人だ。
そんな人だからこそ、俺は力になりたいと、切に願うのだ。
「そういうの、全く気にしないどころか嬉しく思う奴がここにいると想定してさ、話してみても良いんじゃないかな」
「黒山さんは、嬉しいんですか?」
「うん。北沢さんに何かを遺せるなら、それはとても嬉しいね」
俺の言葉に、北沢さんはやや考えるような素振りを見せて、やがて諦めたような顔で俺を見て、でも追い詰められたような声で返した。
「分かりました。では黒山さん、私の相談を受けてもらえますか」
「もちろん、喜んで承るよ」
こうして、俺は北沢さんの相談に乗ることとなったのだ。
■ □ ■
ことの始まりは今から2ヶ月前。
つまり11月の、俺と陸が招待されたライブの終わった数日後にまで遡る。
北沢さんに、とある仕事のオファーがあったそうだ。
そのとある仕事というのが演劇への、それもヒロインとしての出演依頼で。
オファーといっても北沢さんはあくまで候補の一人であり、後日オーディションを行い正式な役者を選ぶ。
そういう仕事が、彼女のプロデューサーから伝えられた。
さすがに具体的な名称を聞くわけにはいかないので固有名詞は暈し暈しであったが、それは界隈では名の知れている演出家が担当する劇で、聞けば北沢さんも何度かその演出家の書いた劇を見て、とても感銘を受けたらしい。
あぁ、自分もいつかこの人の書いた物語を演じたい、と。
「──私、将来は女優になりたいと、そう思っているんです」
演劇が、演技が、演じることが好きなのだと、北沢さんは語ってくれた。
アイドル業が順調に進んで、もしその先に道があるとするのなら、自分で道を選べるのなら、それは女優の道なのだと。
本物なのだ、彼女は本気で女優を目指している。
そのためにも、今回のオーディションは絶対に受かるんだと、そういう風に決意を固めている。
だけど、だから、だからこそ、北沢さんは悩んでいた。
オーディションでは北沢さんの演じる人物──つまりヒロインに成りきった上で、主人公に語りかける。という一幕を要求されるそうだ。
しかもオーディションに向けての台詞もヒロインの詳細な情報も一切知らされてなく、彼女に渡されたのは主人公の設定とシチュエーションのみ。
これは想像力の、ひいては創造力の問題だ。
北沢さんはその主人公とやらの心境を想像して、そこから更に主人公に語りかけるヒロインを創造し演じなければならない。
なんというか、オーディション方法を聞いただけで偏屈さの伺える演出家だ。ああいう世界で生きていくというのは、とどのつまり見方によっては変人である事なのかも知れない。
「じゃあ北沢さんは、その主人公の気持ちってやつを量りかねているわけだ」
「そう、なりますね。これが一番の問題でもあります」
だって主人公の心を把握しないことには、つまり掴まないことには、ヒロインはヒロイン足り得ないのだから。
そうなると、こうなると、俺は北沢さんに一つ聞いておかなきゃならない事がある。
この相談の本題ともいえる問いかけだ。
本丸ともいえる謎だ。
本心ってのを探る質問だ。
「その物語の主人公って、いったいどんな設定なのさ」
俺の言葉に、北沢さんは言葉を選んでいるようだった。
ここまで話してもらえた以上、オーディションに際して周囲からのアドバイスを禁じられているとか、そんなことはないはずだ。
固有名詞を特定できないような語り方をしていたのも、そこが守るべきラインであったからだろう。
黙って待つこと何秒かして、北沢さんは口火を切った。
「主人公は青年です。高校生で、男子生徒ですね。そして、ある大きな問題を抱えています」
「問題、か。それが北沢さんにとっても問題になっていると」
その通りです。と、北沢さんは言った。
そう言って、俺の目を見て、斬りこむようにこう続けた。
「──主人公は、余命を宣告されているんです」
■ □ ■
北沢さん曰く、主人公である青年は物語がスタートした、ようはヒロインと出会った時点で、余命が残り一年と少しであると医師に宣告されている。
北沢さん曰く、指定されているシチュエーションでは、ヒロインは主人公の余命を知った直後で、そこから話しかける。というものだった。
悲劇だなと、俺は他人事のように感想を心で呟いた。
ヒロインが主人公をどう思おうと、彼は死ぬ。
愛しても、憎んでも、好きになっても、嫌っても、絶対に死ぬ。
それは覆しようのない確定的な決定事項だ。
そんな主人公の心情を想像して語りかけるだなんて、とんだ無茶振りだ。無茶な振りにもほどがある。
なるほど、これは確かに北沢さんであろうと悩むはずだ。
「ちなみに北沢さん、オーディションまではあと何日あるのかな」
「……六日、です」
「えっ」
「六日後、私はヒロインを演じなきゃならないんです」
残り六日、か。
六日では神も世界を創れはすれど、最後に休む暇がない。
こう言ってはなんだが、ズブの素人であるところの俺が言うのもなんだが、こんな呑気に水族館を訪れている場合なのだろうかと、失礼を承知で尋ねると。
「わ、わかってますよっ。わかっています……わかって、いるんです」
ただ、と北沢さんは消え入りそうな声で、
「今日は一日休んで、気持ちと気分を入れ替えて、それからまた考えよう。そうプロデューサーさんに言われてしまって」
北沢さんの、キレイな眉間にシワが寄る。
誰かを責めるような顔だ。
この現状で北沢さんが誰を一番責めるとしたら、それは間違いなく彼女自身だ。
自分自身に、腹を立てている。
「これでも昔より、劇場にきた頃よりは私も色々と学んだんですよ? 一人でやれることには限界があって、助け合う大切さとか、お互いを高め合う重要性とか」
まるで決壊寸前のダムのように、北沢さんから言葉が溢れ出す。
きっとそれは、今日ここで俺と話すまでに貯めてきた北沢さんの心だ。
「だから仲間に、プロデューサーさんにも協力してもらったんです。どうしてもオーディションに受かりたいって、助けて欲しいって」
彼女の仲間たちは、それに応えたに違いない。
俺が北沢さんに対して思ったのと同じように、いやそれ以上の想いで。
どうにかして彼女の力になろうと。
「けど、ダメなんです。どれだけアドバイスをもらっても、どうしても納得のいく演技ができなくて、仲間は十分凄いって言ってくれましたけど……私が、私自身がこうじゃないって叫んでいるんです」
相談される前、彼女が気にしていたことを思い出す。
俺に相談することで、重荷を背負わせてしまうんじゃないかって、北沢さんは心配してくれていた。
仲間たちに背負わせてしまったのと、同じように。
「わかっているんです。勝手に追い詰められているって、だからプロデューサーさんは一日休むように言ったんだって
わかっているんです。私が今こうしている間にも、プロデューサーさんは私のために手を尽くしてくれているって」
わかっているんです。北沢さんは言い聞かせるように繰り返した。
「私はオーディションに受かりたい、舞台に立ちたい。それは自分のためで、自分のためでしたけど……いえ、たぶん今でもそうですけど。でも今は、私を信じてくれている人の期待に応えたいって、そうも思うんです」
なんだか、言葉で言い表すのが難しいというか、野暮というか。
北沢さんの告白に、俺は圧倒されて、圧倒されて感動していた。
初めて出会った時から、クールな人だなと思っていた。
冷静で、沈着で、熱血ってタイプではないなと。
しかし蓋を開けてみればどうだろう、彼女心にはこんなにも熱いものが眠っていたというのに。
俺は今の今まで、それに全く気がつけなかった。とんだ節穴だ。
だけど俺は、だから俺は、だからこそ俺は、あくまで気軽に問いかけた。
「あのさ。北沢さんは、運命って信じてる?」
■ □ ■
「運命、ですか?」
「うん、運命。運勢の運に、命と書いて運命」
運命、うんめい、ウンメイ。
命を運んでくると書いて運命。
命で運ぶと書いて運命。
命に運ばれると書いて運命だ。
「唐突ですけど、このタイミングで聞くってことは、私の相談に関係しているってことなんですよね」
「うん。直接的ではないけれど、間接的にはかなり」
そう返されて、北沢さんは暫く考えて、そして答えてくれた。
「私はないと思います、運命って。仮に凄い偶然で、都合の良いことが起こっても、それは全て行動の結果です」
「……そっか、そうだよな。全ては行動の結果、か。確かに、その通りだ」
なら、俺がこれから君の助けになるのも、なれるのも、全部行動の結果だ。
どこぞの誰かが決めた、運命とやらのおかげじゃあない。
「北沢さん、その主人公の心境について──俺が思えることを全部話すよ」
俺は語る。
北沢さんに、余命を宣告された青年が、男子高校生が何を思うのか、何を思ってあまりに早い余生を生きるのか。
まず最初に、青年は少なからず自暴自棄になる。
徹底的に塞ぎ込むか、何かに八つ当たりをするか、まるで気にしていないような面をするか、それは知らないが平静じゃあいられなくなる。
当然だ。
あなたの寿命は残り一年ちょっとです、なんて言われて平気な人間がいるもんか。
それが落ち着くと、青年は人と関わることが嫌になってくる。
それも当然だ。
もう一年と少ししか生きられないのに、人と仲が良くなったり悪くなったりして、それがいったい何になるんだ。
相手に別れを押し付けるような真似が、どうして出来るんだ。
けど、それでも青年は、自分で気がつけるか、はたまた人に……例えば母親にぶっ飛ばされて気がつくかは分からないけど、それでも元いた人間社会ってやつに戻る。
自分は死ぬ、それは変わらない、変えられない。でも今のまま、辛く絶望したまま、それだけを遺して死にたくなんてないと。
そういう、当たり前のことに気がついて。
たとえ先が暗くても、先を照らすことはできて、人生は虹色に輝いている。
だから、青年は、主人公はその少女に──。
「なにか一つでも遺したいって、最終的にはそう思うんじゃないかな」
一息ついて、俺は話し終えた。
北沢さんは、いつぞやの時のように意外そうな顔で俺を見ていた。
「……驚きました、凄いです黒山さん」
「まぁ、俺も現役男子高校生だからね、想像してみたんだ」
「でも、こんな……まるで、私たちの想像し切れなかった部分を埋め合わせるような……」
あとは母さんの教育による賜物かな、とか俺はそれっぽいことを言った。
それっぽく受け入れられそうなことを言って、北沢さんに受け入れてもらった。
そういう、嘘をついたのだ。
これで、北沢さんにも何か一つでも遺せたのだろうかと、そんなことを思いながら。