遠いのか近いのか、狭いのが広いのか、
距離感の取れないほど白に覆われた部屋にいる。
そして、手の届きそうで届かないようなところに
一枚の鏡がある。
その鏡の中には、鏡を見ている私ではなく
黒くぼんやりとした影が映っていた。
その影はいつも私にこう問うのだ。
『ねえ、あなたは何?』
その度に私は、何とはなにか、そう思う。
そしてその通りに問えば
『わたしはわたし、あなたは何?』
なんとも不誠実な回答が鏡の奥から投げられてきた。
あなたがあなたなら私も私よ。
そう言うと、影は不気味に歪んで
『あなたは何もわかっていないのね。』
私より私のことがわかる人がいるらしい。
『あなたの思うあなたはあなたではなく、
周りのニンゲンの作り上げるあなたが
今の世界でのあなたの地位を占めているわ。
そんな状態のあなたは一体何と呼べるの?』
知らないよ、そんなこと。
私なんてまだ子供なんだし。
あなたの方こそ、随分と私を知ってるようだし、
それなら答えは聞かなくても出てるでしょ。
『いいえ、わたしの中のあなたは
一つの定まった形というものは持っていないわ。
絶えずあなたの影響を受け続けるのよ。
今のあなたから感じられるものは何もない。
だからこうしてわざわざ会いに来てるのよ。』
周りの人間が私を作り上げて、それが問題なの?
誰とも接しないで生きられる人なんていないよ。
『ええ問題よ。
そのおかげでわたしが生まれてくるのだから。』
だったらあなたは何?
『わたしはわたし、でもあなたはわたしじゃない。
あなたは氷。決して溶けない、いいえ、
決して溶かせない不思議な氷。』
鏡にヒビが走り、空間がねじ曲がって、
小さく収束して、私は暗闇に取り残された。
こうして私の不快極まりない夢は覚めるのだ。
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運動会の熱気も、ずいぶんと冷め、
帰宅部の私には余韻よりも筋肉痛が残った。
あれだけ憂鬱がっていた運動会だったが、
当日になれば、日頃の鬱積を晴らすかのように
全力で競技に取り組む私がいた。
日焼けも怪我も厭わずグラウンドを駆けていた。
そのおかげで、今の私の歩くスピードは
笹舟程度が最善速となってしまっていた。
身体から上がる悲鳴を無視して
ほんのりと雲がかかった空を見ようと窓を開けた。
少し秋を匂わせる風が部屋に流れ込み、
今日という休日に充実感を与えた。
そう、振替休日だ。
そして何が楽しみかというと、
少し前にオープンしたばかりのアウトレットへと
母が車を出して連れて行ってくれるのだ。
一応、年頃の女子らしいところもあるのだと、
少しだけアピールをしておく。
九月とはいえ、まだまだ日差しも厳しいため、
着る服は少々考えなくてはいけないのに困った。
悩んだ挙句、ホットパンツにTシャツにした。
二、三年前に買ったホットパンツは、
伸びた背丈の分だけ短くなっていて、
少しばかり不安を覚えてしまうほどだった。
それと靴下を履くのが嫌だったので、サンダルにした。
約束の時間五分前に彼が到着した。
「なあ、ホットパンツがホットパンツすぎるだろ。」
彼は母への挨拶のあと、私への第一声で
少しだけ面白さを効かせた発言をした。
「まだまだ暑いから仕方ないじゃん。
駆くんが私を見てホットになっちゃうね。」
「それ以前に暑過ぎて笑えないんだよ。」
団扇を持参してくるあたりに、
その発言の真剣さが伺えたが構わずに無視をした。
と、いつものように軽く冗談交じりに
いくつか言葉を交わし、車を出発させた。
「今日は私が駆くんの服を選んであげよう。」
「いいよ、やばいもの買わされそうだし。」
「あらあら駆くん、ましろのセンスは鋭いわよ。」
「それって良い意味にも悪い意味にも取れますよ。」
まるで彼も家族の一員かのように、
ごく普通に、当たり前に会話を交わす。
私が思い描いていた高校生活とは、
全くいい意味で違っていた。
誰とでも本心で接してこれなかったこれまでが、
ありえないほど中身のない本のようだった。
私の生活は、彼によって一変したのだ。
もしかしたら、私が変わることを望んで
彼と接点を取ろうとしたのかもしれないが、
それは水を掴むような話であった。
「さあ、ついたわよ。」
楽しい会話によって、一時間半かかる道程も
電車で二駅先に行くような感覚だった。
平日ということもあるおかげで、人は随分少なく、
混んでいる様子も全くなかった。
「じゃあ、私は私で買い物するから。
二人で楽しんでおいでね。」
母はニッコリと笑うと、
ひらひらと手のひらを躍らせながら去って行った。
それからというもの、私は行きたかったお店の
ありとあらゆる所へ彼を連れ回した。
「ほら、次行くよ!」
「次は一体どこ行くんだよ……」
「熱帯魚ショップ!」
「ここで行く必要がなさすぎる……」
さすがの私も疲れてしまったので
フードコートで一休みすることにした。
別に好きでもないコーヒーを買ってくると、
クレープをもりもり食べる彼が座って待っていた。
どうやら彼は甘党らしい。
午後になって、あらかた店を巡り終わり、
次は彼の買い物に付き合うことにした。
彼は料理が趣味らしい彼の母へのお土産に、
輸入品ショップで珍しげなスパイスを買った。
どんな料理に使えば良いのかは知らないらしい。
「時間も時間だし、そろそろ帰ろうか。」
唐突に切り出された彼の言葉に、
私は言いようのない物寂しさを感じた。
そこそこの遠出をしているわけだし、
こっちに越してきて始めてのショッピングだし、
とにかくこんなに素敵な友人に出会えたことに
私は感謝しなくてはならない。
今日だって、どれだけ連れ回しても、
嫌な顔ひとつせずに一緒にいてくれた。
口下手で、不器用で、不恰好な感謝を彼に。
そして何よりも、
これから先も、私のことを忘れないように。
「じゃあさ、最後に駆くんの服を買おう。」
「え?」
おかしな顔をしている彼の手をぐいっと引き寄せ、
「よし、私についてきなさい!」
と、強引に彼を私の世界へと引きずり込んだ。
店に入るなり彼は、
「別に僕は服なんていらないのに。」
なんて白けたことを言い出した。
「だからこそ買っとくもんじゃん。
いまから着れるものって何があるかな。」
ガサガサとそのあたりにある服を探る。
不服そうでもしっかり一緒にいてくれる、
やっぱり彼は優しさの塊だった。
「よし、これだな。」
手に取ったのはグレーのチェスターコート。
「意外と身長高めな君にはこれしかない。」
「いちいちトゲのある言い方しなくていいのに。」
私は彼の好みに構うつもりは一切なかった。
そうしてしまえば、彼の中の私が薄れてしまうから。
少しでも濃く、少しでも長く、
彼の中でゆるやかに泳ぎ続けたいから。
会計を済ませ、店を出る時
「……ありがとう。」
彼は恥ずかしそうに小さくそう言った。
そして嬉しそうな表情を浮かべた。
私は彼からの感謝なんて望んではいなかったが、
大切な人の笑顔は変えられないものだ。
「いいの、思い出だから。」
「そろそろ秋も深まってくる時期ね。」
母は山道を通り抜けながら、何気なく言った。
たしかに今見える山々も、少し色づいているところも
ちらほらとあるように思えた。
「じゃあ紅葉したら、安達山公園に行かないとね。」
安達山公園とは、私と彼が花火を見た古墳のことで、
安達山古墳の上に公園が作られている。
そこは秋に木々が紅葉し、冬は冬でそこから望む
海岸への波しぶきが美しく、春になれば
樹齢300年と言われる山桜の大樹が咲き誇るのだ。
にも関わらず、公園に訪れる人はほぼいない。
その理由は、安達山古墳は海からほど近く、
周りに遮蔽物がなく簡単に見られるからだ。
公園自体は、いわゆる穴場だった。
というのは全て彼から聞いた情報であるのだが。
「そうね、それも楽しそう。」
「それに春にも桜を見に行きたいな。」
「桜が満開のときは壮観なんでしょ、駆くん?」
「言葉では言い表せないですよ。
古墳の主が踊ってるかのように思えるほどです。
あ、でも満月の夜に見る桜が一番綺麗ですね。」
光を遮るものは何もない公園で、
青白い月明かりに照らされる桜は、
今にも散ってしまいそうな儚さを湛える、と彼は言う。
飛んでいって、帰ってこないような、
零した涙は戻ってこないのと同じ寂しさ。
月に帰っていくかぐや姫や、一年に一度しか会えない
彦星と織姫のようだと私は思った。
しかし現実とはよく研いだナイフのように、
己の因果と関係なしに人を刺す。
こんなに優しい彼は、何の因果で傷つかねばならない。
ならば、彼はいつ、彼自身の持つナイフで
他人を刺しても、全くおかしくはないだろう。
私にも、彼にとっても、もっと上手な生き方は
必ずどこかに転がっていただろうに、
そうできなかったのは、私と彼以外の因果のせい。
ーそしてそれは、私と彼の因果へとつながった。
彼を家まで送った。
車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。
私も車から、彼が見えなくなるまで手を振った。
たとえ見えてなかったとしても、いい。
私はただ彼がいてくれるだけで、
ただそれだけで救われるのだ。
ーただ、それだけで。