ピッ、ピッ。
白けた部屋に電子音だけが鳴り響く。
ベッドと何脚かのイス、それから心拍計と点滴、
今この場に必要最低限のものしかない部屋は、
規則正しく訪れる母の命の音をよく響かせた。
どうやら通り魔の犯行らしかった。
三箇所の刺し傷と、こめかみの辺りに
包丁の柄で殴られたような痕が残っていた。
前いた街に住んでた人間の怨恨とも疑われたが、
傷がそこまで深くないこと、
地理的に限りなく不可能に近い遠さと、
母の交友関係、それから
この街に越してきてあまり時間が経ってないことから、
通り魔的犯行と断定されたらしい。
中身の詰まったスーパーの袋が側に落ちており、
突発的な犯行であったことも伺えたそう。
パパは忙しく、今夜は見舞いに来れないそう。
誰よりも心配で仕方ないはずなのに、
顔すら見ることができないのはさぞ辛いだろう。
私が我に帰ったのは、つい何分か前のこと。
先生はそれまで一緒にいてくれたようで、
ものの数分で太陽と一緒に帰って行ったらしい。
ピッ、ピッ。
綺麗な顔をして、ベッドに横たわる母は、
酸素マスクをつけていなければ、寝ているようだ。
痛々しいこめかみの打撲痕が目に映る。
私は母の手を握った。
私の手は知らぬ間に、大きくなっていた。
小さい時、いつも私を包んでくれた母の手よりも。
その手には暖かさと冷たさが混ざっていた。
私は静かに、涙を流していた。
母がこのまま死んでしまったら、
母がこのまま目を覚まさなかったら、
思いつくのは悪いイメージばかりだった。
流す涙に嗚咽が混ざり始めた。
どうして母なのか、
どうしてこの街なのか、
どうせ誰でも良かったのに、
平和に甘えている人間は山ほどいるのに。
もう高校生だというのに、
相変わらず人間とは分かり得なかった。
私が人と違うからだろうか。
私が化け物だからだろうか。
意外にもそれは、
私が大人になりきれていないから、かもしれない。
ドアが開く音がした。
立っていたのは、私と同じ、少しだけ人と違う彼だった。
学校に置いたままだった私の荷物を持っていた。
私の元まで寄ってきた彼は、少し息を切らせていた。
「叶さんの容体は?」
「……命に別状はないらしいけど、
頭を強く殴られてるから、もしかしたら
記憶障害と後遺症が残るかもしれないらしい。」
私は涙声で精一杯答えた。
彼は何も言わず、私の隣に腰をかけた。
彼のその優しさに、私はこの世を憎んだ。
こんなにも優しく美しい人がいるのに、
殺人という、人として一番愚かな行為を
犯そうとする人がいることに憤りを感じた。
「……ねえ駆くん、どうしてお母さんなのかな。」
彼が固まったのがわかった。
でも言わずにはいられない、
言わなきゃ私が私でいられなくなりそう。
「お母さんじゃなきゃダメだったのかな。
私の目が赤いのだって、
こうなることだって、運命だったのかな。」
私は強がっていたが、涙がこぼれてしまった。
彼の前でこんな弱い姿は、見せたくなかった。
でも彼は、むせび泣く私の頭に手を置いた。
「小さな子供が虐待されて死んだとして、
それが運命だったって言う人間はそういないでしょ。
元より運命なんてないものなんだよ。
何かの巡り合わせをどうにか肯定したい、
自分の不幸を他の物のせいにしたい、
そんな風に作り出された、都合のいい口実だよ。
だから受け入れちゃダメなんだ。
僕たちは、誰かが言う運命なんて、
蹴飛ばして抗わないといけないんだ。
ましろの目も、僕の目も、
きっとそれを忘れないためだ。」
時に現実とは不幸そのもので、
誰かに絶望をもたらす。
それは試練か、はたまた単なる苦痛か。
もしかすると、心の捉え方次第なのかもしれない。
「いつだってましろは隣にいてくれたし、
僕に世界の綺麗さを教えてくれたじゃないか。
でないと僕は、こんな風にはなれてない。
叶さんもきっと僕と同じ、
ましろがいるだけで救われるはずだ。
僕が同じ状態だとしても、簡単に死ねない。
死んでたまるか、って思うはずだよ。」
私は笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
流れる涙はその量を増し、
決壊したダムのように溢れて止まらなかった。
そして彼は、涙が枯れるまで、
私を優しく抱擁してくれていた。
仕事で忙しいパパの代わりに、
母に付きっ切りでいなくてはならなかったから、
その後数日間、私は学校を休んだ。
私が休んだ間も、彼は毎日病院を訪れた。
配布されたプリントや、授業の板書、
学校であったことなどを話してくれた。
彼が私に、ずっと病院にいるのも退屈だろうと、
本を貸してくれた次の日、母が目を覚ました。
すぐに検査をした結果、後遺症はなく、
傷が癒えたら退院しても大丈夫と言われた。
その日、私はとてもよく眠れた。
時に現実とは、無情なまでに残酷で、
人と人との関係そのものを壊してしまう。
運命、と逃げたくなるのもうなづける。
でも私はもう、逃げはしない。
抗う勇気を与えてもらえたから。
しかし、その小さな覚悟も嘲笑うように、
火のついた蝋燭は短くなり続ける。
風の当たらない場所に灯されれば、
全て溶けるまで燃え続ける。
ふっ、と一息で消えてしまうほどの火でも、
少しずつ、少しずつ、蝕んでいる。
そして気づかぬ間に支配される。
それは、私と彼の生まれついての不幸、
母が通り魔に遭ったこと、
どちらもが段階を踏んでいたような、
もっと根本的なところをえぐられるのだ。
彼は運命なんてないと言った。
でも、もしかしたら、運命という言葉は、
この先に起こることを示していたのかもしれない。