少年の夢に少女は踊る   作:七海ツヨシ

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エピローグ

 

作業を始めて二時間が経って

予定よりも多くなった荷物の荷解きが終わった。

本棚だけにこだわった生活感のない部屋は

新しい生活を十分に感じさせた。

春らしい日差しがカーテンから差して

何も考えずにベランダへと出てみれば、

近くの川べりに咲く菜の花が綺麗だった。

盆地に構えたこのアパートからは

それぐらいしか望める景色はなかった。

景色を求めて物件探しをしたわけではないが、

何もないとそれはそれで寂しいものだった。

部屋に戻り、作者のあいうえお順に

きちんと並べた本棚を見て、満足に頷く。

どうせすることもないのだから、と

昨日買ったばかりの本を取り出して

どこか気持ちのいい場所を探して読むことにした。

 

肌寒さを和らげる陽気を浴びながら、

川沿いを山に向けて自転車を走らせた。

本と貴重品だけを入れたリュックの中には

これからの生活の不安と期待が、なんて

料理に関して以外は特に不安はないのだが、

漫画の登場人物のようなことを考えていた。

海側を見れば学生向けのアパートばかりあって、

山側を見れば小さな墓地と林ばかりだった。

あまり綺麗に整備されてない道が

高速道路のすぐそばまで繋がっていた。

その下のトンネルを抜けたら、

先には空気の読めていない桜の木があった。

かなり昔に切り崩されただろう山の斜面に

一本だけぽつんとそびえ立って、

小さな公園のようになっていた。

木の麓に二人掛けほどのベンチが一基あり、

その側に自転車を停めて腰掛けた。

平日の昼間だし誰も来ないだろうと、

贅沢にリュックと二人分を使わせてもらった。

街が一望できるこの場所は、

まさに求めていた気持ちのいい場所だった。

何もないときはここで無駄な時間を過ごすのも

なかなか良さそうだと思った。

 

本を取り出そうとリュックに手を入れると、

入れた覚えのない何かの感触があった。

先に本を取り出し、その正体を確認すると

子供向けの絵本だった。

『こおりのまじょ』と書かれた本は

紫色を基調とした寒々しい表紙だった。

何故ここにあるのか、よくわからなかった。

目を通すのは二回目ほどだが、

昔読んだ絵本とは少しだけ話が違った。

たしか魔女は隣国の王子と結ばれて

幸せになる話だった気がする。

最後のページまで読み終わったとき、

はらりと何かが本からこぼれ落ちた。

それを拾い上げて、少し憔悴した。

何度も何度も思い返しては涙した過去が、

心を縛り付けて今でも離さない思い出が、

一瞬で全身を駆け巡った。

二人の男女が映る写真のなかは、

見事な風景があるわけでもなく、

桜の木々が葉を落としたあとの

冬が訪れる少し前の公園の様子で、

今の緑々しい情景とはかけ離れていた。

その一枚の写真は日に焼けて少し色褪せていたが、

写真の記憶は風化することはなかった。

裏には日付と一言、「その時まで」とあった。

 

気がつくと、荷物を全てまとめて家に帰っていた。

 

家に着くなりコートを引っ張り出し、

財布と携帯、必要最低限のものを持って

まだ覚えきらない道を自転車で走った。

今まで出したことのないスピードに

自転車が悲鳴を上げたが、

構うことなく走らせ続けた。

どれくらい経ったか考える間もなく

駅に着くなり無造作に自転車を停め、

ホームへと駆け出した。

運が良く、目的の列車がすぐさま駅に来た。

乗ったのは良いものの気持ちに急かされて、

たたんたたん、と一定のリズムを刻む電車が

もどかしくて仕方がなかった。

むず痒い時間はとても長く感じられたが、

駅に着けば止まった時間は動き始めた。

 

すでに日は傾き始めていた。

橙色がかった陽光を海が反射して、

海の青さがわからないほど輝いていた。

風は少なかったが、海面はゆらゆら揺らめき

反射する光も同じ動きをしていた。

鳴く海鳥の声も、そこそこ離れた駅にも

届くほど大きく響く。

そして一つだけ佇んだ海岸沿いの山。

電車の扉が開くと同時に飛び出し、

ホームを駆け抜けていく。

少し前に付いたばかりの自動改札を抜け、

ロータリーを大回りして海側へ出る。

階段を降りたところで危うく

車にぶつかりそうになってしまった。

しかも運が悪く、パトカーだった。

 

「危ないぞ兄ちゃん、そんな急いでどこ行くんだい。」

案の定中年の警察官から注意をされ、

息も途切れ途切れで、反応することがやっとだった。

「すみません、大事な人が待ってるんです。

ずっと待たせたままなんです。」

「そうか、だったら乗って行くかい?」

「え?」

予想外の返答だった。

答えあぐねた様子を見かねた警察官が

「兄ちゃんにとって大事な人が待ってんだ。

困ってる人を助けるのが俺らの仕事さ。」

と言って親指を立てる仕草は

中年特有の古臭さを感じさせるものだったが、

信頼できるそれでもあった。

「すみません、じゃあお願いします。」

「おう、それでどこに行けばいいんだ?」

「足立山公園でお願いします。」

「了解。シートベルト締めとけよっ。」

軽快な返事とともにエンジンが唸りを上げ、

遠くに見える山へと走り出した。

 

「なあ兄ちゃん。待ってる人ってのは

兄ちゃんにとってどのくらい大切な人なんだ?」

唐突にそう問われて考えたが、

どのくらいなんて言い表せない。

この想いは言葉にしていいものなのだろうか。

ただ、強いて言うとしたら……

「僕がその人を殺せと言われたら、

迷うことなく自分で死ぬことを選べます。」

警察官はまっすぐ前を見たまま小さく笑い、

「幸せだな、兄ちゃんもその人も。」

と、ギリギリ聞こえる声でつぶやいた。

 

「大好きだったあの子も、大嫌いなあいつも、

憧れていたあの人も、話したことないあの人も、

全部ひっくるめて人生作ってくれんだよな。

その中で自分に幸せをくれる人間なんて

ほんの一握りしか、いるかいないかの世界だわな。

兄ちゃんが幸せを与えてもらったんなら、

言葉でそれを伝えるだけで相手は幸せになるんだ。

出会いってのは偶然じゃなくて、

自分が求めて初めて生まれるもんなんだよ。

人だけじゃない、何でも同じさ。

だから大切にするもんだろ。

出会えてよかった、ってさ。」

歯を見せて笑う警察官は、

一体どんな人生を送ってきたのか、と思った。

多くの人と出会って別れて、

もう二度と会えない人もきっといるだろう。

もしかしたら、想像もつかないほどの

悲しみや苦しみを経験しているのかもしれない。

やはりまだまだ自分は甘いなと、

自分よりも倍近く歳を重ねただけの重み、

説得力と言うのだろうか、

言葉が身体に響くのを感じた。

「おれは愛とか恋とか友情だとか、

そんなめんどくせえもんを語る権利も立場も

やる気もまるでないんだわ。

けど言っておかねえとならんことってのは、

男だったら必ずあるもんだろ。

腹括って、立派ないい男になってきな。」

ゆっくりと車が停まった。

これもまた、彼が言うように

自分の人生を豊かにしてくれる一つなのだ。

己の人生は己だけに非ず。

少し前の自分が聞いたら驚くだろうな。

「ありがとうございました。」

「おう、話はまた会ったときに聞かせてくれ。」

小さくなっていくパトカーに深く礼をして、

目の前に広がる丸太階段に足を掛けた。

 

階段を登りながら、ふと足元に目を落とした。

最後に来た時はたしか、学校の革靴だった。

立てる足音の違いと目に見える色の違いが

一つだけ穴の空いた時間を覚えさせた。

そしてその時間を埋めるように、

滑りそうな丸太階段を踏みしめて登る。

今日はスニーカーを履いている。

革靴よりもよっぽど滑りにくい。

東側の空が緋色がかって、

だんだんと夜が近づいていることを知らせていた。

階段で滑らないように注意しながら

登る足取りを少しだけ早めた。

山頂に近づくにつれて辺りが明るくなり、

時間が少しだけ巻き戻ったように感じた。

そして最後の階段に足を乗せた時、

ずっと吹き続けていた海風に正面から当たった。

 

登り切った先、右手に巨大な桜の木が、

それは見事に咲き乱れていた。

ごうごうと音を立てる風のせいで

荘厳さが幾分か増して感じられる。

いつ見ても圧倒される素晴らしい景色だった。

海側へ向き直ると、真ん中あたりにある社の

さらに向こう側に人影が一つあった。

どうやら夕陽を眺めているようだった。

 

自然と歩く足が早まってしまう。

息が上がっていることも今気づいた。

 

はやく、はやく。

はやく会いたい。

 

立っている女性の、コートのベルトあたりまで

長く伸びた綺麗な髪が揺れる。

それは風でなびいたのではなくて、

こちらを振り向く仕草だった。

 

「人を待たせる癖は相変わらずだね。

そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうよ?」

 

その女性は、最後に見た時より大人びていた。

髪が伸びたからなのか、それとも

一年という年月がそれほど人を変えるのだろうか。

流したような前髪から覗く視線は

西日でハッキリとは見えないが、

それでもわかる。僕にはわかる。

前と変わらず綺麗な真紅だった。

 

「いいんだ。君さえいれば。」

 

それだけを伝えて、彼女の横に並んだ。

 

何度二人で見たかわからない夕陽を

久しぶりに揃って見て、僕は勝手に

懐かしさを感じていた。

今より未熟で馬鹿だった自分、

その頃の彼女の姿や、

高校時代の友達や何もかもを思い出す。

横にいる彼女も、きっと同じだろう。

僕らの視線がぶつかって、二人とも笑った。

 

僕は不意に、彼女の手を取った。

 

「なに?『二度と離さない。』なんて

キザな台詞でも言えるようになったの?」

 

「だったらとっくに君が好きだって言えてるさ。」

 

「なんだよばーか。かっこつけんな。」

 

彼女が僕の襟元を掴み、引き寄せ、

そして唇を重ねた。

柔らかく僕を包む彼女の唇から

妖艶な暖かさが流れ込んできて、

僕は握る手に力を込めた。

ゆっくりと流れる時間は、僕の心を

まるであの頃に戻しているかのようだった。

想いを言葉にできなかったクリスマスの夜、

初めて弱い姿を見た病院、一緒に花火を見た社。

僕に色を教えてくれた花畑。

 

僕の全ては、彼女と共にあった。

虚ろな世界をまた、彩ってくれた。

 

随分長い時間口づけをしていたように感じた。

唇が離れると、小っ恥ずかしさが襲った。

お互いにかける言葉も見つからず、

静かに波音だけが響くのがそれを助長した。

 

「あたしも大好き。だから、離さないで。」

 

「ああ。もちろんだよ。」

 

 

三日月が顔を覗かせ始めていた。

夜がすぐそこまで迫ったが、

失った時間を取り戻すように僕らは肩を寄せた。

 

一年ぶりに寄り添って眺める日没は、

彼女の瞳のように真赤で、この上なく美しかった。




ということで。
共に目に闇を持った少年と少女は
幸せな結末を迎えることができました。
僕自身は初めてということもあって
いろいろ試行錯誤しながら書き抜けて
非常に達成感を感じられております。
ここまで応援してくださった方、
本当に感謝の言葉もありません。謝謝。
重ねてのお願いになりますが、
こうしてほしかった、ここがダメだった、
逆にここが良かった、などなど
辛辣な意見からお褒めのお言葉まで
感想をいただければ幸いでございます。
ではまた次回作でお会いしましょう。

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