推敲を重ねました。
目が覚めたとき、外はまだ暗かった。
二度寝をしようとも思ったがなかなか寝付けなかった。
気は乗らないが携帯で動画を見る。
カーテンの外が白んできたのを確認して、身体を起こし学校の支度を始める。
朝食を食べ、たっぷり時間に余裕をもって学校へと向かう。
学校が始まって一か月が経とうとしていた。
三日目に少し話をして以来、逢沢ましろは僕にやたらくっついてくる。
登校も一緒、昼の弁当も一緒、下校も一緒。月の頭に初めて会ったとは思えないほどだ。
さらに悪いことに、席替えで隣同士になってしまったのだ。
もちろん、クラスの男子からは殺意のある目を向けられる。
山田に至っては付き合っていると思っているようだ。
「おいっ、昼飯の時間だぜぃ。」
チャイムと同時に僕の方に向き直って彼女は言う。
「なんで君はそんなに僕に付きまとうんだよ。」
僕は皮肉さをたっぷり纏わせて言った。
彼女はその皮肉をものともしない様子で
「君が川を見ていた理由を言わないのと同じ。野暮だなぁ、まったく。」
と、手をひらひらさせながら言った。
どうもこの女は理由を聞くまで嫌がらせをやめないらしい。
「わかった。教えてやるから週末僕の家に来い。」
教室がシン、と静まったと同時に、彼女の意外そうで嬉しそうな表情が見えた。
しかしその向こう側からの男子諸君の目線が、あまりにも痛かった。
僕は弁当を持ったまま固まっていた。体中から嫌な汗が出ていた。
彼女が振り返って、
「大丈夫だよ、清水君に私を襲うような度胸ないって。」と手をひらひらさせて言った。
その一言で教室がどっと沸いた。
彼女はこちらに向き直り、ウインクした。
助かったのは嬉しいが、ウインクされたをところを見られてないか心配になった。
そして週末、約束の時間が近づく。
待ち合わせは学校にしているため、ぎりぎりでも間に合う。
とはいえ待たせるのは気が引けるので、五分前に着くようにしよう。
そろそろ行こうと思い、玄関のドアノブに手をかけたとき、ドアが勢いよく開いた。
逢沢ましろだった。
彼女はジーパンにパーカーと、実にラフな格好だった。
髪もいつもと違ってポニーテールになっていた。
「遅いから来てやったぞ!」
「集合時間でもないのに遅いんだ。」
「十分前行動、五分前集合って知らない?」
「まさに十分前なんですけど。」
「家近いからってゆっくりしてたらダメだよ。」
「君が僕の家を知ってることを知らなかったら、ゆっくりしていた。」
「まあね。この間帰り道追跡してたから。」
「この犯罪者が。」
「立ち話もなんだから、入れさせてもらうね。」
おじゃましまーす、と言って慣れたように家の中に入っていく。
「わ、広っ。」
「普通だよ。」
リビングを見た彼女の反応を軽めにスルーして、僕の部屋に案内する。
「へえ、意外と片付いてるじゃん。」
「物が少ないだけだよ。」
よくよく考えればデートに等しいことをしているな、と思った。
そう考えた途端、恥ずかしさがこみ上げてきた。
僕の部屋に女の子がいる。
想像もし得なかった光景が目の前にある。
なんというか、親が見たらどう思うだろう。
この日ほど両親が共働きでよかったとは思わなかった。
そんなときに山田から
『変なことしたら月曜ぶっ飛ばす』とメールがあった。
するかよ、と一人でツッコミを入れた。
彼女が家に上がって、どれくらい経っただろう。
彼女は何分経っても部屋の物色をやめない。
本棚から始まり、学習机やら隅々まで見ている。
「そんなに物色して、何が見たいんだよ。」
「昔の君とか、前科とか。」
「君と違って人の家を特定したりしない。」
「はじめてくる家なら物色して当たり前でしょ。」
はあ、とため息をついてベッドにもぐりこむ。
「え、寝る気なの?」
「寝不足なんだよ。」
「寝てたら私、何するか分かんないよ。エロ本とか見るかもよ。」
「見られて恥ずかしいものは僕の部屋にはない。」
「じゃあベッドに忍び込んでいろんなことしちゃうよ。」
「僕が寝てたら被害者だ。」
「学校で清水君に襲われたって言ったら?」
寝返りを打って、彼女の顔を見る。ひどくニヤニヤしている。
しぶしぶ起き上がることにした。
やっと彼女の物色が終わった。
「疲れちゃった。眠い~。」
目をこすり、あくびをしながらつぶやいていた。
「君が僕の家に来た本懐を忘れてるだろう。」
「あ、忘れちゃってた。川を見ていた理由だね。」
この子はいつも何を考えているか分からない。
突拍子もない話をしたり、わけのわからない
思い付きのゲームをやらされたり、神経も体力もすり減らされる。
しかしそれは、きっと僕にだけ見せる一面であって、僕も彼女のそんな一面を
見ることができるのは、まんざらでもない。
だから僕はあえてすぐには言わなかった。
僕も彼女にしか見せない一面があるから。
「まず君の予想を聞かせてくれ。」
「私に興味がなかったから。」
まっすぐ僕の目を見て即答した。
その眼には信念が宿っているように見えた。
しかし、やはり素直でいい子が故に、答えが安直だ。
「残念。不正解。」
ちぇ、と見るからにつまらなさそうな顔をして悪態をつく。
「だったらなんなのさ~。」
「そこの壁見て。」
そこには細やかに描かれたスケッチが並んでいた。
海、チューリップ畑の中にある風車、山のふもとの梅の木。
そして都会のビル群が描かれていた。
すべてがモノクロの写真のように見える。
「すごい、これ全部書いたの?」
その完成度は、思わずため息を漏らすほどだった。
微妙な陰影の一つ一つまで繊細だった。
彼女は本当に目を奪われていたようで、しばらく黙っていた。
一通り見終わった彼女が顔を上げた。
「隠れた才能ってやつかー。」
「隠した覚えもないのに勝手に隠すな。」
「これが君が川を見ていた理由?」
「その通り。」
また彼女はまじまじと絵を見つめなおした。
隅から隅まで見て、こちらに向き直って
「わかんない。」
とぼけた顔でそう言った。
「じゃあさ、これを見てどう思った?」
「めちゃくちゃ細かいなって。」
「他には?」
「凄いんだけど、色があるともっと凄いって。」
胸を刺されたように心が痛んだ。
今の彼女の発言には悪意は全くない。
でもどうしようもなく体が反応する。抑えろ。
「君の言うとおり、この絵には色がない。
その理由が川を見ていた理由と同じだ。」
「え?」
言葉がのどにつっかえてうまく出ない。
言いたいのに。言おうって決めてたのに。
どうしても昔の僕が邪魔をする。汗が全身から吹き出す。
呼吸も乱れ、意識が朦朧としてきた。
「ちょ、大丈夫?」
彼女が僕の肩に手を乗せようとしてきた。
その時、背にいたはずの彼女が目の前に見えた。
反射的にその手を振り払ってしまったようだ。
部屋にむなしく響く音が、耳に鈍く反響した。
そして耳をつんざくような静寂に包まれた。
いつも目立たず喧嘩もしたことない僕が、こんなにも
速く動けることに驚いた。
そしてしまった、と思った時には遅かった。
心底驚いたような、悲しいような表情の彼女を見て、我に返った。
「僕は、色が分からないんだ。青い海も、チューリップ畑の風車も、
梅の花もたくさん並ぶビルも。君の赤い目だって、僕にはわからない……。
もう何年も住んでるのに、通学路の桜だって僕から見れば紙吹雪みたいなものだ。
僕は色が見たい。美しい景色が見たい。君の赤い目だって見てみたい。」
くさいセリフを吐いてしまった気恥ずかしさに、また我に返った。
しかし後悔はしなかった。なぜなら彼女は生き生きしていたからだ。
彼女の口角が上がって、さっきの表情が嘘のようだ。
いい笑顔で、そして何か思いついたときの顔だった。
「なんだ、私と同じだ。」
彼女の口から出たセリフは意外そのものだった。
僕と彼女が似ているはずはなかった。
「君が美しい景色を見たいなら、見ればいい。
好きなだけ見ようよ。飽きるまで見ようよ。
君は月が綺麗だからって泣いたりしないでしょ?
だったら世界を見に行けばいいよ。」
彼女は立て続けにそう言った。
本当に僕の言ってることはわかってるのか。
「いや、僕色わかんないんだって。」
「関係ないって、大丈夫だよ。
暗くないと分からないこともあるし、
逆もある。道が分からなくなったら、私が導く。
だから一緒に世界を見よう。美しさを探そう。
拒否なんてさせないから。後悔もさせない。」
そう言って彼女はウインクして見せた。
あっけにとられている僕を見て、彼女はひひっと笑った。
「そうと決まったら、ゴールデンウィークに出かけよう!
私、いい場所知ってるんだよ。」
無邪気に笑う彼女を見て、力が抜ける。
僕が長いこと苦しめられているこの病気さえも、小さく思えた。
ただ、彼女に任せてみるのも悪くはないと思わせる、素敵な笑顔だった。
相変わらず彼女の人となりはわからないままだったが、僕の話を聞いた後の
彼女の目は、少し優しさがにじんでいた。
もし僕に色が見えたら、彼女の目ピンク色に見えていたかもしれない。
臆することなく自分の意見を述べられる彼女が、うらやましいと思った。
―すべての人間が彼女のように、裏腹なく心のままに生きていたら。
そう思って久々に描いたスケッチは、海からの日の出だった。
こんな子いたら僕は惚れます。