じりじりと焼けるように日差しが降り注ぐ。
窓の向こうに蜃気楼が見えるような暑さだ。
季節は夏。人々が浮かれ、騒ぐ季節。
僕は暑いのも苦手なら、騒ぐような人も苦手というか大嫌いだ。
冷房の効いた部屋に、空のコップに残った氷が音を立てる。
綺麗に並んだ本棚を眺め、一人達成感に浸る。
ただ一つを除けば、この部屋に不快なものはなかった。
「ねね、人生ゲームとかないの?」
「ないね、したこともない。」
「それはもう人生の半分は損してるね。」
「……そんなにおもしろいのか。」
真夏の身に応える暑さの中、僕と彼女がこうして
僕の部屋でだらけるのは週に四回ほどのペースになっていた。
何回か山田も遊びに来たが、指で数える程度だった。
一歩外に出れば容赦のない日差しとアスファルトの照り返しで
うなだれるほどの暑さであるにもかかわらず彼女が僕の家に
来るのは、完全に僕の家に涼を求めているのだろう。
近くのショッピングモールの感覚なのだろうか。
「なあ、君はほかの友達と遊ばないのか?」
ベッドの上で寝そべる彼女に問いかけてみた。
仰向けの状態で手だけを天井に向け雑誌を読んでいる
彼女は、顔だけをこちらに向けた。
「何回かは遊んだよ。でも暑いの嫌だし
あんまりでかけたくないんだよね~。」
「まあ、それもそうだな。」
「エアコンの効いてる駆くんの部屋が一番だね。」
「そこでなんだけど、隣町の駅前にできた新しい本屋に
行きたいんだ。付き合ってくれ。」
「私の話ちゃんと聞いてた?」
隣町に向かうため、二人で電車に乗り込んだ。
時間的に通勤客と被ったせいか、そこそこ混んでいた。
電車の中は目を疑うほどの無法地帯だった。
大きな声で話す品のない男女。
電話をしている女性。
優先席に堂々と座る中年男性。
当人たちは何を考えているのだろうか。
学生と『大人』の一番大きな違いは、責任の所在にあると思う。
だが、今この場のどこにその責任はあるのだろう。
『大人』だから、仕事をしているから、と、持っている権利を
振りかざすなら、それは大人でも子供でもなくそれ以下だ。
大人になる過程にある僕らは、その『大人』から
いったい何を学べというのだろうか。
そんな『大人』達が社会を動かすから、この社会の大半はゴミクズだ。
古い風習やマナーに囚われる大人。
物事の側面しか報道しないマスコミ。
そのマスコミに踊らされる善良に見える人々。
嘘と欲が行き交うこんな世の中で、
人々は本当に幸せだと言い切れるのだろうか?
少なくとも僕はそう思わない。きっと彼女もだ。
社会から溢れ出たゴミの弊害を受けた僕たちは、
今までの人生が幸せだったとは言えない。到底思えない。
こんな国に生まれなければ、話は別だったかもしれないが。
「……向こうに行こう。」
気分の悪くなった僕は、彼女の手を引き
遠く離れた車両に逃げるようにしてその場を離れた。
三十分ほど本屋を物色し、少し休憩してから駅に向かった。
休憩していたカフェから出ると外は薄暗くなっていた。
すっかり日は落ちているはずなのに、気分の悪い湿気は健在で
少し動くだけで汗が吹き出しそうだった。
「今日は突然なのにありがとう。」
「いいよ。どうせ暇だったし。
暑いこと以外に文句の全くないし。」
「お返しに今度は君の行きたいところに付いていくよ。」
「本当?じゃあここに行きたいな~。」
そう言って彼女が指差した方向にあったのは、
壁に貼り付けられた一枚のチラシだった。
そこには大きな『花火大会』の四文字があった。
「……は?」
「そういうわけで、私と花火デートしてください。」
当日、柄にもなく少しお洒落をした自分が恥ずかしかった。
待ち合わせをしている最中も、落ち着かなかった。
この町に住んでいるにもかかわらず、海水浴場で催される
この花火大会には行ったことがなかった。
いつもは人気がなく静まり返っている海岸沿いの道も、
今日だけは活気と食欲をそそる匂いに満ち溢れていた。
隣町からもたくさんの人がやってくるようで、
海水浴場の駐車場はもちろん、近くのコインパーキングまで
駐車ができないほどだった。
夏の湿気と人々の熱気で群れた空気は正直気持ちのいいものではなかった。
集合時間は六時。現時刻六時七分。
いつもはやい彼女にしては、というより普通に遅刻だ。
「ごめんごめん、遅れちゃったよ。」
湿気と喧騒に腹を立てながら待っていると、後ろから声がした。
振り返ると、浴衣に身を包んだ彼女だった。
「いやー、着付けと髪に時間かかっちゃってさ。」
紺色を基調とした生地の中に色とりどりの花が散りばめられ、
落ち着いた印象の中にも華やかさがしっかりと残っている。
(色の話は後日彼女から聞いた)
少しだけ伸びて肩のあたりまでの髪は緩く波打ち、
数本だけ施された三つ編みが頭の後ろで握りこぶし位に
髪を結い上げている。
髪が結い上げられたせいで初めて見える彼女のうなじは、
夏なのに冷たさを感じさせるほどに白く、透き通っていた。
「ちょっと、駆くん。」
数秒間彼女に見惚れていた僕は我に返った。
「なんか印象違うな。でも似合ってる。」
こんなことが言えることに自分でも驚いた。
もっと驚いたのは彼女の方のようで、
少しの間僕の顔を見て、照れたように目線を外し
「それは素直に嬉しいな。」
と、小さい声で呟いていた。
お互いに照れてしまって、少しの間黙りこくってしまっていた。
「お、お腹も空いたし、なんか食べようよ。」
「そ、そうだな。」
僕と彼女の間には、照れのせいで生まれた
ぎこちなくてもどかしい距離感があった。
祭り客でごった返しているこの道とは正反対にも。
故に僕と彼女の肩は、何度もぶつかっては離れ、を繰り返す。
それは近くて遠い、まるで月と地球のようだった。
「あ、金魚すくいだ。」
「ほんとだ、懐かしいな。」
「やりたい!」
そう言って彼女は一人、屋台の方へと駆けていった。
後からついて行った僕は、彼女と横並びで金魚すくいを始める。
目の前を優雅に泳ぐ金魚たちは、これからの運命を
全く知らないように見える。
僕たちはまるで小学生のように童心に帰り、金魚と向き合った。
「あーあ、破れちゃったよー。」
不意に彼女の方を向くと、少し不機嫌そうに頬を膨らませている
彼女が目に映った。
薄暗い夏の夜の始まりに、屋台の提灯に照らされた彼女は
艶めかしい光をほんのりと反射していた。
彼女の頬は夏の暑さのせいなのか、少し赤らんでいた。
彼女が僕の視線に気づき、こちらを向き直る。
目と目、お互いの視線がぶつかった音がした。
その刹那はまるで一時間のようにも感じられるほどだった。
彼女は無邪気にひひっと口元を隠しながら笑った。
その笑顔で、僕の心は鉛のように重くなり
きつく締め付けられる。
電撃のように僕の中を一瞬で駆け抜けるこれは
一体なんなのか、僕にはさっぱりわからなかった。
それから僕たちは祭りを謳歌していた。
なかなか当たらない射的や色とりどりの飲み物、
明かりに照らされ艶やかに輝くリンゴ飴。
赤、緑、青。
橙色の提灯の明かりの中で色めき立つ世界で、
僕らは流れる時間の優雅さを感じていた。
「ねえ、今日の花火、私たちで独り占めしたくない?」
唐突にそう言いだす彼女に、僕は否定的だった。
「そんなことできないだろ。」
「じゃあ、私についてきてね。」
花火まであとわずかしか時間が残っていなかったが、
彼女は海とは逆方向へと向かって歩き出した。
「なあ、海から離れてるぞ。」
「いいの。こっちで間違いないよ。」
少し疑問を抱きながら彼女の後ろをついて行く。
海辺の喧騒から離れ、静まった田舎道を二人で歩いていた。
田んぼの間に挟まれた硬い土の上で
からん、からん、と彼女の下駄は心地よい音を立てる。
用水路脇の草むらからは虫たちが元気にさえずる。
月明かりも頼りない暗がりの中、ただ歩いた。
海から少し、五分ほど歩いたところにある小さな山に着いた。
この山は普通の山でなく、小さな古墳らしく
頂上には小さな社が祀られてある。
彼女は浴衣の裾をたくしあげ、近くの木に登り、
社の上へと飛び移った。
浴衣という優美な召し物が台無しになる所作だった。
僕も続けて社へと飛び移った。
古墳に植え付けられた木々はどれも背丈が低く、
この小さな社からでも海水浴場が見渡せるほどだった。
海沿いの町の明かりに照らされ、徐々に人々が海へと移動するのが見えた。
僕たちを優しく撫でた陸風は、木々を少しだけざわめかせ
海へと流れ込んでいった。
「この町に越してきてからそんなに経ってないのに、
なんでこんなところ知ってるんだ?」
「前もってリサーチしてるに決まってるじゃん。」
「いったいどんな情報網なんだよ。」
ひとしきりいつものような他愛のない会話を交わしたところで
目の前に一輪、花火が轟音を上げて花開いた。
一つ目の花火が爛々と咲き、すっと消えた。
その後を追うように次々と花火が乱れ咲いた。
ドン、ドン。
絢爛たる花火は、音を心臓にまで響かせながら咲き誇る。
僕たちの眼前に広がる、黒く広大な空に開くそれは
季節の移ろいを見せるように咲いては消え、を繰り返す。
何度も繰り返され、儚さを湛えながら花火は闇に呑まれる。
彼女の言うとおり、この空は僕と彼女で独り占めだった。
いや、二人だから二人占めになるのだろう。
いつもは見上げている花火が、僕と彼女と同じ目線に広がっている。
球体である花火はどこから見ても同じはずなのだが、
今僕らが見ているこれはいつもとは一線を画していた。
視点を変えてみて初めて見えるこの景色は、壮観だった。
物事の視点を変えてみることは、
今の腐った人間社会にも同じことが言えるのではないか。
人々は目に見える部分だけを信じ、他の部分からは目を背ける。
または見向きもしない人もいる。
話してみたら面白い人だっていれば、真面目な人もいる。
存外見た目によらない部分が半分以上占めている人もいる。
だからこそ、人は見た目によらないのだと、僕は強く信じている。
少し前に電車で見かけたろくでもない大人たちは、
固定観念の視線を他人に投げかけ、社会に埋没させる。
大人だけに限った話ではなく、僕たち高校生でもある話だ。
表面だけをなでるようにして人間を評価する、
そんな人間はどんなところにでもいるものだ。
彼女の存在が、その証拠とも言えた。
目の前の美しい景色を前に、こんなことを考えてはだめだ。
すべてを忘れて、この瞬間を目に焼き付けることに没頭した。
花火はものの数十分で終わった。
あっけないと言えばそれまでだが、
同じ高さから眺めた花火は初めてで、圧巻だった。
短い時間だからこそかえってよかったのかもしれない。
「……すごかったな。」
「うん、想像した以上だった。」
二人して言葉を失い、凄いと言うのみだった。
それから社から降りるのに少し苦戦した。
彼女も降りることは考えていなかったみたいで、
僕が先に降りて彼女をキャッチする形になった。
二人とも地面に降りたときには十分ほど過ぎていた。
「ふぅ、なんかごめんね、迷惑かけちゃって。」
「想像以上に重かったのは黙っておく。」
「そんなデリカシーないこと言ってると彼女できないよ。」
彼女はバシッと僕の肩を叩いて笑った。
可笑しくて僕も笑った。
夜の小さな山に響くのは僕と彼女の笑い声だけだった。
「さて、遅くなってもあれだし、帰ろっか。」
「そうだな。」
二人で歩を進めた途端、彼女が石に躓いた。
さすがに転倒まではしなかったが、少し肝を冷やした。
「大丈夫か?」
無意識に手を差し伸べている自分がいた。
純粋に怪我をしていないか心配している自分がいた。
「大丈夫だよ、意外と紳士的なところあるじゃん。」
そう言って、彼女は裾を二、三度払った。
その後にいつもの笑顔を僕に向けた。
僕はその『大丈夫』が心配になった。
せめて僕の前だけは、素直になってほしかった。
「また躓いて怪我したら危ないから、手握るぞ。」
「え、あ、えっと、うん……。」
彼女は小さく返事をし、遠慮がちに僕へ手を差し伸べる。
その手は夏なのに少し冷たかった。
また、僕の心はグッと締め付けられた。
僕の心は、すでに僕のものではないことに
この時ようやく気が付いた。
僕の心は今握っている彼女の手の中にあった。
僕は彼女に恋をしていた。
この手を離したくなかった。
この時が永遠に続けばいいと願った。
ずっと、彼女と――
ましろと一緒にいたいと願った。
手を繋ぎ、数えるほどしか通ったことのない
田舎道を、虫たちの音色に彩られながら歩く。
花火のような儚さを感じさせるましろの横顔は
街灯のわずかな光に照らされ、なお一層儚さを増し、
今にも僕から離れてしまいそうだった。
ほんの少しだけ握る手に力を籠め、
僕が彼女の一番近くで愛し、守り、
支え続けたいという願いが生まれた。
そしてその願いをましろも
受け入れてくれたかのように、ましろの家に着くまで
僕の手を離さないでいてくれた。
この時、僕らはまだ十六歳だった。